御旨と世界
(全面表示) 戻る


年頭のみことば(1973年)

1973年1月1日 アメリカ ニューヨーク


 六度目の神の日を迎えて

 本日は、六度目の「神の日」であります。今年で五年間が過ぎたことになります。神の日が決定されたということは、今までの歴史になかったことであり、堕落したこの世界に神の日という一日をもったことは誇れることなのです。今までこの世の人々にとって、自分たちの記念日や自分たちの国の記念日は数多くありましたが、神を中心とした日はありませんでした。 この神の日が地上に現れるまでの歴史を考えるならば、多くの記念日より最高の日として引き上げた、そのような勝利の日を迎えてのみ、神の日を迎えることができるのであります。 この世では、皆さんの誕生日とか父母の日とか、建国の日とか、勝利した日とかを記念していますが、国について一番記念し得る日はいかなる日かといえば、それは国を失って、再び建て直した日なのであります。そして、自分の息子、娘を失って、再びそれを探し出したならば、それが記念日になるのです。その次には、自分が結婚した日が記念日になります。 こうして見る時、神を中心として、そのような日を祝し得る立場は今までなかったのです。アダム、エバが堕落しなかったならば、その完成する日は、神を中心として見る時、子女たちにとって一番うれしい日であります。すなわち、新しく家庭が始まる日だからです。息子、娘にとって最高の日として祝福される日なのです。それは、全天宙を代表した家庭が勝利の日として登場する、万物すべてが願った日となるのであります。そして、神の日となると同時に、天使までも喜び得る日となるのです。 言い換えますと、それは創造主を中心として造られたすべての万物が、その主人と共に最高に喜び得る記念の日となるのであります。すなわちその日が、神として最高に記念し得る神の日となるのであります。それが人類の始祖としての真の父母を立てるその日になるのです。それが息子、娘として最高に誇れる日となるのであります。そして万物が最高の栄光の日として迎えるのです。 私たちは、このような一日が、一度に成就されることが創造の御理想であったことを知っています。堕落によってそれがすべて失われてしまったので、それゆえに、この日を探し求めていくため、万物が動員され、人間が動員され、天が動員されてきたのが復帰の歴史でありました。したがって、神に導びかれてきたというのであります。それが、ヤコブ家庭において、民族圏を拡大し、イスラエル国家圏を広げ、世界的な基盤に拡大させ、勝利の一日を迎えることを天は願ったのであります。このような歴史的因縁を受け継いで、私たちは一九六〇年に初めて父母の日を迎えるようになったのであります。 


 神の日を決定した真の父母

 父母の日は、個人、家庭、氏族、民族、国家基準を中心として、全体から讒訴される内的条件を蕩減復帰した基盤をもたなければ、その日を迎えることができないのであります。そして、その日を起点として、子女の日が決定されるのであります。 今日まで、この地上に多くの父母がいましたが、真なる父母の立場には立つことができなかったのであります。そのために子女も、真なる子女の立場に立てなかったのです。 子女の日というのは、神の前に真の父母を迎え、再び生まれたというそのような日を世界的、天宙的に設定した日なのであります。子女の日が決められたことによって、初めて人間と家庭の基準を探し出し、アダムとその家庭を中心として失った世界、万物を探し得る基準を準備することができたのであります。 そのような父母の日と子女の日を基盤として、万物の日を設定したのであります。その日を中心にして、一国から世界に連結させなければなりません。一九六五年に四十カ国を巡回して、一二〇カ所の聖地を決定したのはそのためでした。真なる家庭――父母と子女を中心にして、世界のすべての万物を連結させたのであります。父母の日、子女の日、万物の日を基盤として、イエス様がこの地上に来られ、祝福基準を中心として、勝利すべき基盤を越える立場に再び立たなければならないのです。民族の峠を越える前に、一つの氏族的勝利基盤があれば、民族基準は越え得たのであります。そうしたならば、神の日はイエス様当時に決められたのです。 このような内的基準を再現して、蕩減復帰すべき責任を我々が負っているために、一九六八年一月一日を期して、初めて、氏族的、民族的基準を中心としてイエス様が追われ殺された立場を越えた基準を立てることにより、神の日を決定することができたのであります。これを中心にして、神の復帰の摂理は本格的段階に入っていくのであります。 それでは、神の日を決定するのは誰でしょうか? それは真の父母がなすのであります。父母の立場に立つべきアダム、エバが堕落することによって神の日、父母の日、子女の日、万物の日のすべてを失ってしまったため、これを蕩減復帰するためには、真の父母の立場で復帰すべきなのであります。真の父母はこのような使命を受けて来られなければなりません。それゆえ、真の父母がこの地上に来られ、初めて基本的要件をすべて蕩減復帰して、最高の日を迎えたのが神の日であります。


 七年路程の勝利基盤

 堕落は長成期完成級でありました。それゆえに長成期完成級から完成期蘇生級を越えるためには、必ず新しい父母が現れなければならないのです。完成級というのは七年間に該当します。そのため蘇生、長成、完成の二十一年を探し立ててくるのです。ですから、満二十一年を越えて完成期を越えることになります。それで、六〇年から六七年までの七年間の完成段階を越えながら、神の日、父母の日、子女の日、万物の日を一致させなければならないのです。そして初めて、この地上に新しい神の願う国家を立てることができるのです。 この七年間は、先生が真の父母の使命を担当し、個人、家庭、民族、国家、世界に対し、すべての復帰の道を開いて、天と向かい得る道をつくることが、神の日を迎えることによって始まるのです。それが第一次七年路程であります。 それから第二次の七年路程が始まります。この第二次七年路程は、本来堕落しなかったならば第一次の七年路程になったのであります。 第一次の七年路程は結局堕落したために必要となったのです。言い換えれば、イエス様が来られる前に、イスラエル国家があり、それとイエス様が一つになるべきでありました。そのイエス様が責任を果たせなかったことによって、父母も子女も責任を果たせなかったのであります。それを蕩減復帰するために、父母の日と子女の日を分けて復帰してきたのです。国を探し立てることができなかったために、私たちはこれを復帰しなければなりません。 第一次七年路程を成就することによって、イエス様が父母の使命を果たし得る基準を成してきました。その真の父母として責任を全うした勝利基盤に、子女たちが国を探し立てなければ、イエス様がこの地に来られてみ旨を成就することができないのであります。 その真の父母が勝利した基盤に第二次七年路程を迎え、子女たちが父母の勝利基盤を、再び国家基準を越えるところまで立ててきたのです。それゆえに、これはイエス様当時、ユダヤ教が反対し、国が反対した立場を越える期間に当たります。


 国家基準を越えていく年

 本来、真の父母の行く道は、個人や家庭として行くのではなく、国家的基準において世界へ行くべきでありました。イエス様は国を基盤として、世界へ発展していくべきでありました。イエス様が死ぬことによって、霊的世界と実体世界が一つになれなかったため、今日、統一教会はこれを霊的に結合させる路程を、今まで歩んできたのであります。 言い換えれば、国家基準を霊的に越え、世界的基準を霊的に勝利することによって、実体国家基準と世界的基準を連結し得る道が開かれるのであります。このように見ると、今は、霊的に国家基準を越えて、世界に連結し得る時に今年から出発するようになるのです。そして霊的な基準において、イエス様を中心として反対になっていた、キリスト教と国を屈服させれば、実体基準でそれが収拾されていくのであります。 今、皆さんが知らなければならないことは、今年七三年が、第二次七年路程の終わる七四年の前年であり、第二次七年路程が終わる前に、霊的な基準において世界的基準を連結させなければならず、また実体的国家基準が連結される日には、一時に世界基準が結ばれてしまうみ旨があるために、私たちは今年を出発しなければならないのです。 イエス様を中心として見る時に、イエス様の思想、生活観、世界観、宇宙観すべてを人々が継承したならば、国家基準は勝利的に収拾され得たのであります。第一次七年路程の勝利基盤を継承する第二次七年路程を歩んでいる食口たちが、この七年路程で、国を動かし得る使命をすべて成せば、そこから世界の運勢は一時に開けていくのであります。先生は、国家基準から世界的基準にまで可能なる道を見いだすため、第一線に立ち、アメリカにやって来たのであります。昨年からのこの三年期間を、世界的代表国であるアメリカを中心に、世界基準をいかに立てるかによって、世界的第三次七年路程が出発し得るのです。


 勝利は父母と一体化して

 霊的においては勝利した国家的基準に立っているために、イエス様とユダヤ民族が一つになれば全うされたと同じく、世界の食口が先生と完全に一つになれば、この道は難なく突破できるのであります。結局、第三次七年路程が終わる日にはこの世界が統一思想を中心として、これが主導的思想として登場しなければならないのです。 第三次七年路程まで、皆さんが世界的基盤のもとで、霊肉を中心として天が登場し得る場を迎えなければ、勝利の一時と勝利の日を迎えることができません。今、皆さんが考えられないことであっても、事実として、原則のまま一体化する日には、必ず天は世界を生かされるのであります。蕩減復帰というのは、全体を代表して条件を立てたならば、そこから回りだすのです。真の父母を中心として、歴史上に現れた数多くの忠臣、義人が再臨復活した実体理想の責任を担当するかしないか、という問題になるのです。 それはすなわち、イエス様が、当時立てるべきであった氏族的基準を越え得る責任を、皆さんが一人残らず全うしなければならないのです。結局、皆さんが問題になるのであります。 それは個人完成、家庭完成、そして氏族基準にまで引き上げることであります。イエス様が十二弟子、七〇人門徒、一二〇人門徒を率いる立場に立たなければならないのです。それで統一教会は、氏族復帰と言うのです。それゆえに、イエス様当時に立てることができなかった立場を再現し、この歴史路程において、数多くの先人たちがキリスト教史を通して真を尽くしてきたそれ以上の基準で、皆さんが真を尽くさねばなりません。そして国家を経て、世界へ前進してこそ、成就されるのであります。


 死を覚悟して行こう

 キリスト教は霊的国家基準を立てるために、今まで数多くの血の代価を払ってきました。私たちは、霊肉を中心として、これを復帰すべき責任があるために死をも感謝する心情で越えていく時が、今であることを皆さんは悟らなければなりません。霊的基準が立てば肉的基準は勝利できるようになっているのです。このために、皆さんが犠牲にならないでも立ち得る立場にあるのです。しかし、自分自身の犠牲を覚悟し、自分以外では不可能なのだという自覚を皆さんがもたなければなりません。こうして、第三次七年路程が終わるまでには、我々が打ちたたかれても決して反対し得ない基盤を、我々はつくっておかなければなりません。それは、イエス様がキリスト教を通して成してきたことを二十年に短縮し、より高い基準にまで勝利圏を広げなければ、イエス様の使命を継承したことにはなりません。皆さんがこれを知れば、先生が今まで摂理を前進させてきた方向が分かるようになります。我々は原理原則の道を進んでいるのであります。 きょう祝っている神の日は、いまだ我が教会の記念日であり、国家の記念日、世界の記念日として記念することができないでいます。それであっては、父母の日も、神の日もそれが本然の基準に立っているとはいえないのであります。そのような観点からいえば、この神の日にわずかな群れしか集い得ないということは、あまりにも恨みであり、嘆きであることを知らなければなりません。 皆さんは今死ねば、天国と楽園のある中間霊界にとどまるのです。それゆえに、先生が地上にいる間、いかにして世界基準を越えるかという問題は、皆さん個人や、先生個人のみの問題ではなく、世界的な問題であり、霊界、地上界すべての問題であることを知らなければなりません。そのような時にきているのです。なぜかといえば、我々統一教会は祝福を受けた家庭をもっています。これを地上において立てることができなければ、その収拾には、昔よりもっと複雑な問題が派生するのです。過去には、一人来て成し得なかったために、一人来て再臨復活できるのですが、今はそうはいきません。家庭を中心にした再臨復活というのはあり得ないのです。このような巨大な問題が加わっているために死を覚悟しても、霊肉を中心として世界基準を越え得たという立場を、いかに条件的にでも残していくかということが、先生の生涯の願いであることを皆さんは知らなければなりません。そのために、今回先生は、世界的舞台に出るようになったのであります。 ある国やある陣営を犠牲にしたとしても、真の父母が世界的基準を中心として条件を立て得るか否かが、より大きな問題であることを知らねばなりません。天はそのような責任を今日、地上において真の父母が負っているのを知っているがゆえに、真の父母の家庭にいかなることがあっても、この道を突破させたいというのが天の願いなのです。このような道を皆さんはついてこなければなりません。そして家庭を中心としてはイエス様と弟子たちが一体化できなかった立場には、立ってはならないのであります。我々は家庭を中心に強力に一体化しなければなりません。批判は許されません。行くことができないと言ってはなりません。この道を出発したならば、帰っていくことは絶対できないのであります。このような深刻な道に立たされているのが世界の統一食口の運命なのです。


 勝利の日まで

 そうであるために、第三次七年路程が終わるまで、我々は完全に中心と一つになって、自分自身を犠牲にしても感謝する心情をもち、世界基準を突破しなければならない、歴史的課題を背負っている立場であります。一九八一年度までにこの基盤をつくり得るか否かは非常に深刻な問題であります。しかし、神がいて、原理がそうなっているならば必ずできることなのです。それは、皆さんと先生が一つになって行くかどうかが決定するのです。皆さんは消えることができても、先生はできないのであります。 本来、イエス様を中心にして、ユダヤ教とイスラエル国家が一つにならなければ、イエス様は世界の道を行けないのです。それゆえに、現在ユダヤ教とイスラエル国家の立場に立つ、キリスト教と民主世界を犠牲にしても復帰を進めなければなりません。このような関係から見る時、皆さんはユダヤ教の最高の祭司長の立場と、王となり得る立場を代表し得る、勝利の決定をなす覚悟がなければなりません。 皆さんが今、先生の言葉を聞いて理解できないのは、夢のような立場にあるためであります。ですから、それを越えた条件を立てるためには、無条件に苦労し、無条件に服従することを、天は我々に願っているのです。「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言うのです。死を覚悟して出発しなければ行くことができない道であることを、皆さんは知らなければなりません。このような歴史的に深刻な時であるにもかかわらず、自分個人の幸福や、自分の国、自分の教団の幸福を考えていてはなりません。 み旨を知らない数多くの人々におきましては、家庭が壊れたり、親友関係が崩れ、国家間においてもすべてが崩れていく、大混乱時代に突入していることを皆さんは知らなければなりません。世界を越えて天に直行する自分にならなければなりません。それは個人だけでなく、氏族まで率いていかねばならないのです。この七年がいつまでもあると思ってはいけません。イエス様が氏族を率いて国を越え得る道を行けなかったために、そのみ旨を受け継いで、我々が再び行かなければならないのです。


 父母の願う道

 皆さんがイエス様を中心にして見る時、イエス様より優れた立場に立たねばならず、皆さんが祝福を受ける問題を中心として見る時、三年路程を行かねばならず、三子女を復帰しなければならないことは基本的な皆さんの使命であります。そして、そのような氏族圏をもっていたとしても、皆さんだけでは国家を越えて世界へ行き得ないのであります。真の父母がこの地上に来られ、国家と世界へ行き得る道を備えておいたため、皆さんはこれが可能なのです。天国では、栄光の価値を中心にして見る時、その九五パーセントを既に備えてあったために、皆さんが五パーセントをなして、一〇〇パーセントの天国生活をすることができるのであります。 皆さんは何も知らないでいるのです。それゆえに子女は父母と一緒に行けばよいのであります。皆さんにここで、天国についてどんな話をしても皆さんには実感がわかないと思います。自分なりに考えることしかできないからです。 我々の願う国は自分が生まれた国よりも慕わしい国であります。真の父母が願う家庭、真の父母が行く国、私が行く家庭が一つになっていけばそれは絶対的基準であり、それが再臨思想なのです。実際はこのようになっているでしょうか? どのくらい統一教会と一つになっていますか? 真の父母に近づかなければみ旨は成し得ないのであります。そのために何か成していても、不足な心情をもたなければなりません。どんな立場に立たされても感謝する心がなければこの道は行くことができません。 世界で恐ろしいのは真の父母であります。神も恐ろしいことであり、サタンにとっても恐ろしいのであります。堕落圏内にあって自覚できない人間が、父母を中心として審判されるから、神も恐ろしいのであります。またサタンにとっては、自己のすべてが破壊されてしまうのであります。


 父母をどれほど信じていくか

 それゆえに、皆さんはこの道に来てどれだけ信じていくかということが問題だということを知らなければなりません。皆さんがそのような先頭に立ったならば、行動の一つ一つを千年以上の真を捧げて行かなければならないのが、今日皆さんの行く道であることを知らなければなりません。このように見る時、皆さんが真の父母の日をいかに真を尽くして迎えたことがあるか、子女の日をいかに喜びの中で迎えたか、また万物の日をいかに迎えたかが問題であります。 こうして、父母の日、子女の日、万物の日、神の日が私の王の日であり、父母の栄光の日であり、私の誇りの日であり、父母の誇りの日として守られたならば、この地上に、初めて天国を完成し得るのであります。その日に、神が動く時は、全宇宙の神の日に通じる日であり、その日に、父母が喜ぶことは、全人類が喜ぶ日となることを皆さんが知らねばなりません。このような使命をもって生涯の道を行かねばなりません。完全にサタンを屈服しなければなりません。世界を屈服させていく信念が先立たなければなりません。勝利の日まで我々は前進するのです。 皆さんの短い生涯の中で、もし、行かないとすれば天の永遠の恨みとなって残るこの道であるから、いかに試練と苦難が増し加わろうと、“それでも行く”という信念に燃えて行かなければなりません。国を救うその一日のために我々は行かなければなりません。一日一日の生活を貴重にしながら、我々は闘って行かなければなりません。私たちは最後までこの道を行くという誓いを、今なさなければなりません。















SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送