御旨と世界
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アメリカに対する神の希望

1973年10月21日 ワシントン リスナー講堂にて


 紳士、淑女の皆様、私の講演に参席くださいましたことを今夜再び感謝いたしたいと思います。今夜は「アメリカに対する神の希望」と題して話したいと思います。

 私は皆様方すべてを非常に愛しております。というのは、私は神を愛するからであり、そして神はアメリカと、アメリカの国民を愛しておられるからです。神の祝福を受けるためにその祝福に自分が値することを実際に証明しなければならないのは、神の摂理の基本的な原則でありました。歴史を通じて、犠牲の生活を送ることによって、神の祝福に値した多くの義人がおりました。にもかかわらず、私たちは、私たちが今日生きている世界が神の国からは全く程遠いということを知っております。私たちは人類の歴史が誤った所、すなわち悪なる所から出発したことを知っています。これが、聖書がこの世の神はサタンであるといっているゆえんであります。

 世界を復帰し、神の国をつくるためにこの悪なる世界から闘志を呼び出すことは神の戦法でありました。神のやり方を理解するために、神が摂理された歴史を調べてみましょう。アダムの家庭は、神が創造された最初の家庭でありました。この家庭にはアベルという一人の男がいて、神は彼を最初の闘士として選んだのであります。アベルは神に心から仕えました。そして彼は神の目的のために自分の命を投げ出した最初の人となったのであります。

 その後神は、神の闘士としてノアを呼ばれました。そしてノアは全く考えられないような使命を成し遂げたのです。神はノアに、舟を造るよう命令されました。そして、彼はそれを山の頂上で造るということになったのです。さて、舟を造るにあたっては、水のある造船所を必要とするというのが常識です。しかし、ノアに与えられた指示は海岸や、川辺ではなく、山の頂上に箱舟を造ることでありました。ここにいる我々のうちで、何人がそのような使命を受けることができるでしょうか?

 何人がそのような命令に従い、みじんも疑いもせず仕事に取りかかることができましょうか?

 ノアの時代には、ノアが神から命令を受けたことを誰も信ずることができませんでした。ましてや誰も来たるべき洪水審判を知らせる彼の使命を理解することはできなかったのです。ノアがその時代の人々にどのように思われたか想像できますか?

 この講堂におられる御婦人方のうちで、どなたか自分がノアの妻の立場であったらということをお考えになりませんか?

 私は、あなたがとても幸福な奥さんであったろうとは考えません。

 ノアの妻は毎日、ノアの弁当箱には少しの食物しか入れなかったに違いありません。ノアは箱舟を造るのに忙しく、家族の面倒をみる時間がなかったのです。数カ月間のうちに、家族のうちで口論が始まったに違いありません。しかし、ノアの妻がそうした状態を続けざるを得なかったのは、十二カ月間でなく、十二年間でもなく、一二〇年間だったのです。それではなぜ神はノアに、そんなにも理解し難い使命を与えたのでしょうか?

 なぜ神はそのようにせざるを得なかったのでしょうか?

 それには理由があります。それは悪なるがゆえにです。神は悪と共におられることはできません。神の方向は悪のそれと一八〇度違っています。神は悪なる世界を受け入れることはできないのです。だから、神は罪悪世界すなわち、悪に染まったあらゆるものと関係をもつことを望まれないのです。

 我々はすべて神の構想によって造られ、従って我々人間の性質には神に似た特徴が見られます。まずあなたがたに強烈なある感情をもっている一人の敵があると考えてみてください。あなたは、その人に似たいなどとは思わないのです。そのように神も悪、サタン世界とは何も関係がないのです。ですから、神がサタンに対処するには人間が理解し難い方法がよくとられるのです。

 神はまた人間の信仰を試されます。神は単に人間の常の事を望むことによって人間の信仰を試すことはできません。私たちは神の途方もない命令に喜んで従わなければならないのです。これは簡単なことではありません。人々はノアが箱舟を造っているのを見て、ノアは気違いだと考えたのです。誰も彼が神の構想の中心的な立場にいるなどとは考えませんでした。ノアばかりでなく神が選んだ他の男たちも、彼らを世界的な視点から見た場合には特殊な行動をとっているように見えるのです。アブラハムの場合を見てみましょう。

 神はアブラハムを、神を信ずる人の家庭からではなく、偶像商人の家から呼び出されました。そして、彼の悪なる環境を分別し故郷を離れるよう命令しました。神はアブラハムが神の闘士となることを望んだのであります。これは神の個人的な命令でありました。もし、アブラハムがこのことを父親に相談したら、その偶像商人は疑いなく彼にこう言ったでしょう。「お前は気でも違ったのではないか……」と。アブラハムはそう言われることをよく知っていたので、神からの命令を父親には告げなかったのです。誰が彼を信じたでしょうか?

 彼の命令は隣の人に挨拶するようなそんな簡単なものではありませんでした。神は見知らぬ土地、はるかエジプトに向かって旅立つよう指示したのです。その時のアブラハムの決意は、彼の信仰と神への信頼に基づく孤独なものでした。信仰のみによって、神の命令に従う以外の何物も心にもたず彼は決意し、故郷をあとにしたのです。私は彼が真夜中に、そっと出て行ったことを知っています。ある日突然、彼は自分がジプシーのようにさまよっているのを見つけるのでした。彼は自己否定をして生きたのです。すなわち、すべてをあきらめたのでした。

 神の闘士は共通のある性質をもっています。彼らは一様に、自己と環境を否定することから使命を出発しているのです。イサクの息子ヤコブも例外ではありません。ヤコブは神に仕えることにおいては強烈な意志力をもった人でした。彼は、神にいまだかつて見たこともないような情熱をもって仕えようと願っていました。彼は誰もまねのできないような何かを成し遂げることによって、模範的な道を開こうと願っていたのです。

 聖書にはヤコブの話がたくさん載っています。その一つに、彼があつものと引き替えに長子権を買った非常にずるがしこい話があります。そしてその後、彼は兄エサウに与えられるはずの父親の祝福を奪ったのです。この事件からヤコブは、彼が兄の敵になるだろうということをいち早く知ったのです。彼はそれでも敢えてしたのでした。ヤコブの願望、すなわち神の祝福に対するあくなき欲望は彼の心の中でそれほど強烈だったのです。神は本当に慰められたのです。イサクの祝福を受けてのち、ヤコブはふるさとを離れ、見知らぬ地ハランに行くことによって兄から殺される危険を免れたのです。

 二十一年間ヤコブはハランでの艱難の生活に耐えたのでした。その間ヤコブは彼の伯父のラバンに何度もだまされました。ラバンはヤコブを十回だましたのです。しかし、ヤコブは一度も文句を言わなかったのです。彼は、自分の祝福された、故郷に帰る日まで忍耐し、待ち続けたのでした。ついにその日が来、帰る道すがらヤボクの川辺で、神は天使をヤコブと闘わせるために送られました。さて、このことを考えてみてください。神から来た天使が突然ヤコブの前に現れ、恐ろしい敵となったのです。神は本当にヤコブを追い詰め、彼の信仰を試したのです。ヤコブは天使と相撲を取らねばならず、そしてそうしたのであります。

 ヤコブは一晩中闘いをやめませんでした。彼は決してあきらめませんでした。その時、神はヤコブが最後まで、死ぬまで闘う気であることを知ったのです。天使が彼のもものつがいを外した時でさえ、ヤコブは激痛にもかかわらずあきらめようとしませんでした。ヤコブはついに試練に勝ち、神側の天使は降参したのです。それで神は、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」(創世記三二・二八)と言われたのです。

 次に、神はモーセを神側の闘士として選ばれました。モーセがぜいたくな生活をほしいままにできるようなパロの宮中で育ったことがどれほど幸運なことであるか考えてみてください。しかし、ある日彼は、彼の同胞の闘士として突然立ち上がったのです。彼はもはやエジプト人の同胞に対する抑圧に我慢がならなかったのでした。その時彼は、神が彼と共におられることを知っていました。彼は、彼を取り巻く環境を拒否し、自己を否定することによってミデアンの荒野に向かって出発したのです。彼は四十年間神の祝福の価値を忍耐して増し加えながら最終的な使命をもったのです。モーセの生活は極めて質素であり忍耐強いものでありました。毎日、彼は神の目的に新しくなり、来たるべき使命を心待ちにしつつ、彼の同胞をエジプトから連れ出すため神の導きを待っていたのでした。

 アベル、ノア、アブラハム、ヤコブ、モーセ等これらの人々はみな神の闘士でありました。さて、それでは洗礼ヨハネを見てみましょう。聖書には偉大な聖人、預言者として書かれていますが、洗礼ヨハネは乞食のように国中を巡ったのです。らくだの毛皮に皮の腰ひもをまといながら……。そして、いなごと野蜜で食を保ちながら、彼は靴も履かず歩き回ったのでした。これはヨハネの時でさえ尋常な生活ではありませんでした。私は洗礼ヨハネの両親が息子を誇りに思っていたとは考えません。彼らは息子を恥ずかしく思っていたのに違いないのです。

 何年も何年も荒野に居て、乞食のような生活をしている息子、洗礼ヨハネの両親の立場に自分をおいて考えてみますと、どうでしょうか?

 私はイスラエルを旅行してみましたが、砂漠には、いなごも野蜜も多く見つけられるとは思いませんでした。洗礼ヨハネは何度も食物を乞い求めなければならなかったのです。もし、私が今夜あごひげをはやし、動物の毛皮を身にまとい、この演台に上がり、そして神の言葉を述べているとしたなら、あなた方は、きっと私が気が違っていると考えるだろうと思います。

 それでは、このようにしてイエス・キリスト御自身の立場を考えてみましょう。この中にはきっとイエス様の生涯について、種々の意見をもつ敬虔なクリスチャンの方々が多くおられることと思います。あなた方はイエスの出現をどのように眼前に思い浮かべますか?

 イエスの公生涯以前の三十年間を、イエスは何をやっていたのでしょうか?

 彼は大学のようなところで勉強していたのでしょうか?

 聖書には彼が小学校へ行ったということさえも記されていません。彼は労働者であり大工の見習いでした。聖書の中には知るべき多くの、またはっきりと書かれていない隠された真理があります。もし、私がそれらの秘密をいくつかをここで説明するなら、私はきっと皆さんが驚かれると確信しています。たとえもし、私がこれらのことを知っているとしても、私はこれらの話を軽々しく皆様に語ることはできません。なぜなら、皆さんはその時きっとこう言うであろうからです。「どうしてそんなことがあなたに分かるのですか」……と。

 私はそれをイエス様から知らされました。そうです。私は神から学んだのです。思い出してください。アブラハムの時代は誰もアブラハムを信ずることができませんでした。同じように、たとえ私が正直にイエスの時代に実際に起こったことを皆さんに言ったとしても、誰も簡単に私を信じはしないでしょう。このような時代の社会的見地からイエスは父なし子、私生児でした。神の側から見れば彼は聖霊によって生まれたのでした。しかし、どうやってそれを人々に納得させることができるでしょうか。それでは現実の問題として考え、私が言おうとしていることの価値を考えてみていただきたいと思います。

 マリヤは結婚する前にイエスをはらみました。ユダヤの法律では、そのような女は石打ちの刑によって死ぬ運命にありました。ヨセフはマリヤのことで憤りを感じ、彼女と離婚する適当な時をひそかに待っていたのでした。その時天使がヨセフに現れ、彼にこう言ったのです。「マリヤを妻としてめとりなさい。彼女を責めてはいけません。彼女は神の特別な使命をもっているからです」。もし、ヨセフが全き人でなかったらマリヤは必然的に石打ちによって死に追いやられたでしょう。

 さて、皆さんはヨセフがこのことを両親に向かって、「お父さん、お母さん、私の妻となる人、私の婚約者は妊娠しました。しかし、天使がこれは神の意志によるものであると言いましたから、私は彼女を妻とし、彼女のめんどうを見なければなりません」などと相談できたと考えますか?

 ヨセフの両親は何と言ったでしょう?

 この中には年配の御夫婦がおられます。ヨセフの両親の立場になって考えて見てください。ヨセフがそのようなことを言っても信じようとはしないでしょう。ここでヨセフは孤独な決定をしなければならなかったのです。誰にも相談することなく、彼は婚約者をある秘密の場所に連れていったのです。

 私はヨセフがマリヤに対して大きな疑いをもつような極めて苦しい時を通過したということを確信しています。ヨセフは妻となるべき人にこう聞いたに違いありません。「マリヤ、私たちは心が通じ合っているのだからお互いに秘密はもっていないはずだ。何が本当にあったか私に話してくれるね。お前のおなかの子の本当の父親は誰なのか?」どんな夫もこのことに関してはとても知りたがるものなのです。しかしマリヤが夫に対して、「この子供の父親が誰であるかは私は本当に知らないのです。私は神によって妊娠したからです」と彼女は真実を言ったのです。何人の人が彼女の言葉を信ずることができるでしょう。

 今、信ずることはより簡単です。私たちはイエスが誰であるか知っているからです。しかし、これはイエスが生まれてからの問題ではありませんでした。それ以前の問題なのです。

 ですから、ヨセフは確実に疑いをもち心に傷ついた心情をもっていたのです。彼は“私の妻は真実を言っていない”と考えました。このような状態から、彼が生まれる以前からイエスの家庭には感情的な食い違いや動揺があったのです。

 こうした事実に良い証の場面があります。ある日、イエスがカナで結婚の祝いがあった時、そこで母親に会いました。マリヤはイエスに、「ブドウ酒がなくなった」と言いました。彼は母親に向かってこう言ったのです。「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」(ヨハネ二・四)重要なことは、彼がお母さんと言わずに「婦人よ」と言ったことです。のちにイエスの弟子の一人が彼の所にやって来て、「あなたのお母さんと兄弟たちがあなたに会いに来ておられます」と言うのを聞いて「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(マルコ三・三三〜三五)と言っています。これは、イエスの目からは、彼の家族が神のみ旨を行っていないということを示しているのです。

 イエスは彼の家庭に対して非常に大きな憤りを感じていたのでした。まだ明かされない多くの隠された話があります。彼の怒りの事実の多くがまだ知られていません。聖書はイエスの公生涯前の三十年はほとんど記録されていないのです。もしこれが栄光ある記録でしたら、神やイエスの弟子たちがそれを表したことでしょう。しかし、イエスは嘆きと悲しみのうちに生きたのです。すなわち彼は三十年の目立たない存在であったのです。だから人々は彼が、「私は律法を成就するためにやって来た。モーセは私について書いているのである」と言うのを聞いて、ある日突然、ショックを受けたのです。彼はこう言いました。「私は神の息子であり、天の父が私を送られたのである」「私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」。その時代に私たちが生きていたとして、ここにいる何人がそのような途方もない言葉を信じることができたでしょう。イエスは人々を困惑させました。彼はそんなにもけたはずれであったのです。洗礼ヨハネでさえ、イエスを神の息子として見ることは難しかったのです。そしてヨハネは人々の心を準備させ、主の道をまっすぐにするため来るはずでした。

 今日、イエス・キリストを神の息子として受け入れることは非常に簡単なことです。なぜなら二〇〇〇年の間、キリスト教は彼を神としてたたえてきたからです。しかしその当時は年上の者たちは彼を受け入れず、また祭司たちも彼を受け入れなかったのです。彼らは、今日の我々に勝るとも劣らないほどインテリでありました。事実、我々がもしナザレのイエスの時代に生きていたら、多分彼ら以上の過ちを犯したかもしれません。彼らは単に、見捨てられた、不敬な、無法な異端者を見たにすぎないのです。彼らは率直に神の息子を見ることができなかったのです。

 イエスは長い間待ち望まれてきました。メシヤは二〇〇〇年の間、その到来を待たれてきたのであります。しかし彼がついに現れた時、彼を受け入れることができなかったのです。ユダヤ人のその当時の信仰が力なかったのではありません。今日のクリスチャンの信仰に劣らず献身的でありました。しかし、我々はイエスが関係をもった人たちはことのほか売春婦、取税人そして漁夫たちであったということを知っています。

 我々は、ある日若い女が高価な香油をイエスの体に注ぎ、彼女の髪の毛で足を洗った話を知っています。もし、私たちがこれらのことを見たとしたら、皆さんのうちの何人が敬虔にイエスを神の息子として受け入れると言うでしょうか?

 イエスの三年の公生涯は待ち望まれたメシヤの立場からは程遠い叫びでした。誰一人としてキリストの真の使命を理解することができなかったのであります。人々は彼らの地上の基準で、神の息子を罪深い目でもって裁いたのであります。彼らはイエスを自分たちの思うままに取り扱いました。この罪の世界はキリストの清さには決して相いれられません。彼は人々に近づきました。しかし、人々は彼を受け入れなかったのです。

 既に申し上げましたように歴史上のすべての聖人、預言者、義人はまず第一に完全なる自己否定をし、神に自分を捧げました。神が彼らを呼び集められた時、彼らは自分の家や財産、家族、また国までも捨てました。神は神の闘士を個人的な立場において、また家庭的、民族的、国家的、世界的な立場において必要としました。神は各々の立場において神の闘士を必要としました。そしてどの立場においても、神の闘士の資格は常に同じでありました。神はどのような使命が下されてもついていくことのできる、完全なる疲れを知らない信仰者を要求しているのです。神は神のみ旨に完全に服従することを要求しています。

 それでは、我々は神のみ旨とは何であるか調べてみなくてはなりません。なぜ神は人間にそのような困難な時を与えるのでしょう。個人的な救いは確かに、神の側においては重要なことです。神はそれをないがしろにはされません。しかしながらそれが神のなされる仕事の最終的な目的ではないのです。神は世界の救いのために、一つの家庭をその手段として呼ばれました。神は世界の救いを完成するため、人々を呼び集められるのです。神は世界救済の最終的な成就のために、神の闘士として一つの国を必要としています。

 イエスの時代の人々はメシヤの到来を切望していました。しかし彼らはイスラエルとして、神の選民として、彼らの国家的栄光のみを考えていました。彼らはイエス・キリストの世界的な使命を理解しませんでした。メシヤを選民に送るのは神の目的でありました。そしてメシヤは選民と一つになるのでした。そして彼らは信仰をもつ戦士となり、世界の救いのため戦い、成就するのです。

 メシヤのための基台は家庭的闘士であるヤコブ、そして民族的な闘士であるモーセを通して築かれました。最後にメシヤはイスラエルという国家に来ました。彼はその国の闘士であり、世界全体の闘士となるべきでした。神の目的は一つの教会や、一つの国家の救いではないのです。より多くのためにより少なきを犠牲にするのが神のやり方であります。もし、今日のクリスチャンが自分たちのみの救い、自分だけの天国そして自分たちだけの安寧を考えていたら、彼らは神の目的に沿って生きていないのです。もし私たちが自分だけの家族の救いのみに関心を寄せるなら、私たちは神の祝福を受ける価値はありません。もし人々が自分の同胞、すなわち自分の国の利益だけに焦点を合わせるなら、彼らは完全に神の意志に反して進んでいるのであります。

 神はそれぞれに救いを与えるでしょう。もしあなたが世界の救済のため神の闘士となるなら、あなたの救いは保証されるのです。今、クリスチャンの人口は世界の人口の多分七分の一くらいだと思います。しかしこの中でも献身的なクリスチャンは非常にわずかです。その献身的なクリスチャンの中で、いったい何人が人間の救済のために本当に励むでしょうか?

 私たちはすべて世界救済のため我々自身を捧げなくてはならないのです。

 神は、私たちが自己中心的に生きるのを喜ばれないのです。私は個人的にイエスと会いました。そして、神の嘆きが非常に大きいという啓示を受けました。今日も神はすべての人類の最終的な救済のために休みなく働いておられます。神はこの仕事を相続する神の闘士を必要としておられます。神の教会の目的は全世界を救うことであります。教会は神の手段です。イスラエル選民がイエス時代に忘れたのは正にこの事実でした。

 この知識をはじめとして、さらに我々の歴史的展望を続け、いかにアメリカが祝福されてきたか調べてみましょう。イエスの十字架と復活ののち、キリスト教は小アジア中に広がりました。主要な進出はローマでした。ローマはその中心ともいうべき所でした。というのは、その当時ローマが“世界”を意味していたからです。救われなければならない世界にとって、ローマはイエス・キリストの軍隊によって征服されなければならない所でした。しかしこれは、不可能な戦い、想像も及ばない目標でした。ローマ帝国は征服できない難攻不落の要塞のようでした。イエスの軍隊は手に何も持たなかったのです。彼らは武器を使わなかったのでした。剣もやりさえも。彼らはただ神とイエス・キリストの愛で武装したにすぎません。彼らはただ、確信と力をもって恐れずに前進したのでありました。彼らは血と犠牲の代価を払ったのです。

 さて、軍隊といっても死を恐れない軍隊ほど強いものはありません。信仰をもった軍隊に打ち勝つ敵はないのです。歴史はイエスの軍隊の証をしています。ローマ帝国はついに亡びましたが、イエスはローマを征服したではありませんか。世界救済の神の摂理の中心にローマ・カトリックはなったではありませんか。パウロというのは神の闘士になる立場におかれました。

 しかし、中世になって教会は大きく破滅の道をたどっていったのです。キリスト教はその精神において分裂してきたのです。中世教会の教会制度はその力、権力、その繁栄のみに携わり、教会は政治的に経済的に莫大な力をほしいままにしました。教会制度はこの力を保ち、乱用し、神の目的を忘れてしまったのです。彼らは自分の地位に執拗にぶらさがり、いかなる反対者も容赦なく迫害したのです。教会の指導者たちはイエスの弟子の直系でありました。なのに、自分の罪から立ち上がることができないのでした。これらの人々のキリスト教精神は完全に死んだものとなってしまったのです。

 しかし、神は前に進まなければならなかったのです。神は完全な答え以外には満足されないのです。教会は改革される必要があり、したがって宗教改革がこれに続いたのです。マルチン・ルターは新しいプロテスタント改革を始めました。この不満の花火は直ちにヨーロッパ中に広がり、教会の権力に対して反乱の嵐が巻き起こったのです。これらの反対者たちは、彼らの先祖の代からの古い教会を放棄したのです。全地域の義なる人々は、古い教義や習慣から解放されようと意を決しました。彼らは明らかに、教会ではなく神に礼拝したかったのです。彼らが望んでいるのは神のもとでの平等でした。最終的なる目標に世界を近づけるよう、彼らは神に加担したのでした。

 あとになって再びイギリスでは、貴族教会の耐え難い腐敗に対する反乱がありました。それはイギリス教会を浄化するための叫びでした。清教徒運動も始まりました。それはまたたく間に、迫害にまで広がっていったのです。これらの新しい求道者は、そうした新しい運動に、あらゆる手段をもって抑圧してきた既成教会の教会指導者たちを、恐れさせました。真実に礼拝の自由を求める者は、逃げ出してしまうか投獄されるかのいずれかでありました。彼らの精神は確固たるものであっても反抗する力に欠けていました。しかし彼らは屈することを知らなかったのです。ある者はオランダに逃げ、彼らが自由に礼拝することのできる新世界、新天地、新しい土地を求めたのです。

 新しい世界を夢見る者にとって、アメリカは魅力的なものであったに違いありません。アメリカが未踏の地だとしても、自分たちの切望する自由な礼拝を約束していました。清教徒も彼ら自身の社会共同体をつくるという強い願いを感じていたのです。アメリカはそれには理想の土地であったのです。彼らは勇気をもってそこに出かける決意をしたのです。彼らは大西洋に出て、おぼつかない旅に出たのであります。自分の命よりも強い信仰に力を得ながら彼らは命懸けの旅に出たのです。

 考えてみましょう。彼らは家族も、親戚も、環境も国も捨て見知らぬ土地に向かったのです。彼らのたった一つの望みは神でした。彼らが取るどの手段も神によっていました。旅は長く、嵐にもたくさん出会いました。彼らは絶え間なく神に祈ったのです。彼らは何にも屈せず、ただ神に屈服したのです。船で病気になり死にそうになったからといって、彼らには飲む薬もなければ、診てもらう医者もいないのです。神に屈服する以外なかったのであります。これらの清教徒団の男も女も神と一つでありました。それは生きる手だてだったのです。

 神に全面的に頼るという立場に自分を置いてみましょう。何と素晴らしい信仰ではありませんか。この英国清教徒団の信仰は、神の心情に触れたのだろうと私は確信します。神はその心情が動かされた時、約束事をされるのであります。そしてその約束がなされると神はそれを成就されるのです。神は彼らの願っていた最終的なもの――礼拝の自由――をこれらの信仰篤い者たちに授けようと決意されました。そしてそれ以上に恵みを与えようとされました。

 皆さんも御存じのことと思いますが、メイフラワー号はニューイングランドにあるプリマスロックという所に冬のさなかに到着したのです。ニューイングランドの十一月はかなり寒いものでした。新しく到着した者は飢えに瀕したのです。彼らが死ぬほどおなかがすいても、メイフラワー号に積んである穀物の蔵に手をつけなかったという事実は、本当に私を感動させました。彼らは春の穀物の植え付けのためにとっておいたのです。これは実に犠牲の崇高なる例であります。数日の生命のために自暴自棄になるより、あすに希望をもちながら死のうと思ったのです。

 清教徒団は目的と希望とにあふれてこの地にやって来ました。彼らは自分たちの命を全うするより、彼らの目的のほうが重要であることを知っておりました。神への信仰を除いて何が彼らにこの勇気、献身、犠牲の精神を与えたでしょう。彼らがプリマスに着いた時、航海に耐えた四十一人の男は一緒になって政府に対する彼らの考えをまとめました。「メイフラワー盟約」は神のみ名によってアーメンと結ばれ署名されました。これは本当に素晴らしい話です。この小さなグループは神に希望をおいてヨーロッパをあとにしたのです。彼らは神のもとにあって病にかかり死んでいきました。そして神のもとで生きのびたのです。彼らは最初の政府をつくりその公式文書に“神のみ名によって”と署名しました。

 アメリカの清教徒の話は神の歴史の一つです。それは歴史上の義人アブラハム、イサク、モーセ等のパターンのうち、これらの清教徒たちは現代歴史のアブラハムの家庭に当たります。ですから「メイフラワー盟約」がサインされたのちも多くの苦労に立ち向かっていかなければならなかったのです。

 アメリカでの最初の冬、大胆なメイフラワーの生存者は最初の人数の半分になっていました。来る日も来る日も、その冬は愛する者との心を引き裂くような別れの日々でした。これらの勇敢な開拓者が次々に死んでいきました。しかし、朝から晩まで、晩から夜明けまで彼らの生活は神のみ意を中心としていました。神が彼らの唯一の慰めであり、彼らの唯一の希望であり、彼らの唯一の安全でありました。神が彼らにとって第一の仲間であったのです。ここにまれなる純粋なる神の人の一団の例があったのです。彼らはあくなき信仰を証明し、神は代わりに力と勇気を与えられました。彼らは決して神への信頼を失わず未来の展望を失わなかったのです。アメリカに来ることの目的は神を中心とした国をつくり、神が住むことのできる、そして本当に親交を分かち合い神と共に親交を喜ぶことのできる天地をつくり上げることにあったのでした。これはすべて神の摂理の中にあることでした。なぜなら神は最終的な永遠の世界救済のため、神の闘士として仕える一国を必要とされているからです。

 それから、もう一つの奇跡が清教徒たちにもたらされたのです。辛うじて彼らが生き残り彼らの人口が半分になった時、インデアンの一撃は簡単に彼らを全滅させてしまうことができたのでした。しかし、ここでも神は彼らの盾となりました。メイフラワー号の生き残りの人々が出会った最初のインデアンは敵ではありませんでした。インデアンは、移住者を歓迎しました。もしその時清教徒たちが殺されたとしたら神のためのアメリカは多分存在しなかったでしょう。神はここアメリカでも神の人々を救うため介在されたのです。これは私の信念です。神は、彼らが定住することを望まれたのです。そして清教徒にその機会を与えられたのです。

 人口が増すにつれて、彼らは自分たちの植民地を拡大するためにインデアンを追いやらなければならなくなりました。もちろん、この地はもともとは新しいアメリカ人のものではありません。インデアンはこの地の住民であって清教徒たちはインデアンの目から見れば侵略者であったに違いありません。それでは、なぜ神はこれらの新しい移住者に大きなチャンスを与えたのでしょう。私の説明はこうです。神はアメリカの移住者に味方されました。それが、神の御計画の中にあったからです。さらに、これらのアメリカの移住者たちは神の要求に見合い、真に神への揺がない信仰を証明したからです。神は彼らに約束事を与え、その約束事を成就せずにはいられませんでした。

 アメリカの存在は神の摂理と一致しています。神は将来の仕事として地上に一つの強力なキリスト教徒の国をつくらなくてはならないのです。結局アメリカは、まず神のものになり、それからインデアンのものになるのです。これが、清教徒の立場を正当化することのできる唯一の解釈なのです。

 アメリカ大陸はそれまで特別な目的で隠されていました。そして適当な時まで発見されなかったのです。神の選んだ人々は決められた時にやって来ました。彼らは新しい生活方式を形造るためにやって来たのです。彼らの第一の相談相手は神でした。家では、子供の面倒をみながら農作業をしながら、あるいは、料理や建築作業をしながら彼らは神と仕事を分かち合っていました。神は彼らの唯一の安全でした。農夫は子供と畑仕事をする時、“神の名において耕そう”と言ったのです。彼らの毎日の生活は神のみ名においてなされたのでした。

 最初の春が過ぎて、彼らは整地し種を蒔き耕し、実りを刈り入れました。そしてすべての収穫を神の前に捧げました。感謝祭という美しい伝統はこうして始まったのです。次の厳しい冬に引き続いて彼らが最初に建てたのは教会でした。彼らが最初につくった道は教会への道でした。夜に、明け方に、朝に、昼に、彼らは神に祈ったのです。彼らはこう祈ったに違いありません。「神よ昔いた土地よりもっとあなたの住み良い教会をつくりたいと思います。私たちはあなたが住まわれ、主人となる場所をつくりたいのです」。

 そして彼らは、このキリスト教国家が地球上のどの国より世界のために良いことをなすだろうという未来の展望をもっていたのです。私は教会の次に学校を建てただろうということを確信しています。彼らは子供たちにかつての世界にあったどの学校より良い学校を望んでいました。彼らの住む家は最後に彼らの家を建ててからそれを神に捧げたのです。これが、私の知るアメリカにやって来た清教徒団の歴史です。初期のアメリカが美しいアメリカとして私の目に浮かびます。というのは神はあらゆる所におられたからです。学校に教会に、台所に、通りに、どんな集会場にも、マーケットにも神はおられたのです。

 アメリカでは、今建国二〇〇年を迎えようとしていることを知っています。それでは、一七七六年に独立運動を指導した人々を見てみましょう。これらの自由の闘士は英国本国の目から見たなら裏切り者でした。しかし神は、神の手段として神の遣わす人としてこれらの裏切り者を使われました。そして、彼らを通して地上に最高の国をつくろうとされたのです。

 大陸軍の総司令官、ジョージ・ワシントンは引き続く争いに、敗戦のつらさを味わっていました。彼がついにバレーホードで最後の心が張り裂けるような寒い冬を迎えた時は深刻でした。ジョージ・ワシントンはこのように祈ったに違いありません。「神よ、ヨーロッパから導き出し、新しい世界に連れてきたのはあなたでした。あなたは、重い灰色のヨーロッパの歴史を繰り返したいとは望んでおられません。あなたは私たちを解放し自由を与えました。あなたはヨーロッパでの誤りをこの地で繰り返されるのを望まれないはずです。私に誓わせてください。私は神のもとに一つの国をつくります」。そうして、ジョージ・ワシントンは彼の戦いを神の戦いにしたのです。そして得た勝利を神の勝利にしたのでした。

 この勝利とアメリカの独立は、神が多くのアメリカ人の祈りとともにジョージ・ワシントンの祈りを受け入れたからだということを知っています。神は、彼の選んだ闘士が新しい国のために働くだろうということを御存じでした。

 しかし、ジョージ・ワシントンは戦う何ものももたなかったのです。一方、イギリス軍はすべてをもっていました。力、権力、伝統、そして装備、彼らは軍の力を誇っておりました。アメリカの大陸軍は弾薬をもたず、わずかの兵隊しかおりませんでした。ジョージ・ワシントンはたった一つの武器しか持っていなかったのです。それは神への信仰でした。私はジョージ・ワシントンの立場がちょうどダビデが巨人ゴリアテと戦う立場と同じだと思っています。ダビデは主の名によって勝ちました。ジョージ・ワシントンも主の名によって戦いに勝ったのです。彼らは両方とも彼らの敵を神をして退散させたのです。そして、その二人とも全身全霊をもって、全存在と犠牲的精神を投入して戦いに勝ったのでした。

 さて、歴史を通して神の選ぶ人々は彼らの故郷では決して祝福を受けないという重要な事実があります。神はふるさとから導き出し、異国の地に移住させ、そこで神の人、神の国になることができるのです。その方式によれば、アメリカの人々は彼らのふるさとから信仰の旅に出て、大洋を越え新しい世界にやって来ました。そして、ここで彼らは神の祝福を受けたのです。神はアメリカに対してはっきりとした計画をおもちです。神は神を中心とした一つの国家としてこの国を繁栄させることを必要としておられました。神をもってしたなら何事も不可能なことはありません。不可能なるところからアメリカの独立は現実となり、その基台の上で大きな繁栄がやってきたのです。イギリス軍は国王のために戦ったのです。彼らにとってイギリス君主は絶対でした。アメリカ軍も彼らの王のために戦ったのです。神は彼らの唯一の王でした。そして神のみが絶対なのでした。新世界は神の名のもとに開拓されたのです。アメリカは絶好の地と思われました。ここは人々にとって最良の土地でした。

 アメリカのキリスト教の伝統は、外国人がこの地に来た時に目にし得る最も美しいものでした。私は毎日議会が祈りで始まることを知りました。あなた方の大統領は聖書に手を載せて誓います。ある日私は議事堂の小さな祈祷室を訪ねてみました。あなた方の指導者が何か重大な決定をする時、そこに来て、謙虚に神の前にひざまずき、神の助けを願うのです。そこにはジョージ・ワシントンが祈りのためひざまずくのを描いたステンドグラスがありました。ここに私はアメリカの本当の偉大さを見たのです。議会の最も高い立場から田舎の素朴な習慣まで神に頼る証はアメリカのどこでも見られます。

 この点でアメリカは、特殊な存在です。あなた方のお金、紙幣やコインにさえ、美しい字で「我神を信ず」と書かれ刻まれています。他のどこの国もそのような習慣はありません。それでは誰のお金でしょうか。あなたのでしょうか、アメリカのお金でしょうか、いいえ、それは神のお金なのです。どの紙幣も硬貨もそう言っています。あなたは管理する人です。神があなたの手に神の富を積まれるのです。そうです、この国はアメリカの国ではありません。神の国なのです。そして、そのような国はアメリカだけのために存在するのではありません。世界全体のために存在するのです。そうです、アメリカは新しい国として造られました。新しい伝統をもつ新しいキリスト教国家なのです。古い伝統の足かせはアメリカにはなくなったのです。あなた方は神のもとでの新しい国をつくることを望まなくてはならないのです。

 神の目的は世界のそして人類の救いであります。ですから、今日アメリカにおいて、皆さんはあなた方自身が偉大であるからそのような富を得た、と考えてはいけないのです。私たちは神の祝福が、神が世界を救うため、この国を手段として使うのが目的で、アメリカにもたらされたのだということを謙虚に悟らなければならないのです。もし、アメリカが神を裏切るなら、神はどこへ行くのでしょう。もし、アメリカが神を拒絶するなら、神はその目的を成就するのにどこに行くことができましょうか?

 共産主義世界に行かせてみようと望んでいますか?

 未開発国へでしょうか?

 神はアメリカを神の基台、アメリカを神の闘士として望んだのです。そしてアメリカは、神の目的を追い求めながら、犠牲の精神をもち出発させられたのです。アメリカは神の目的のために同じ犠牲の精神で歴史を完成しなければならないのであります。

 二つのはっきりとした例えを挙げてみましょう。アメリカ――北アメリカに来た人々は神と礼拝の自由を求めてやって来たのです。最初の移住者の唯一の動機は神でした。神のためにやって来た時、彼らは神ばかりでなく自由も富も得たのです。同時に多くの人々が南アメリカに行きました。彼らの唯一の動機は金でした。南アメリカは北アメリカ大陸に劣らず肥沃な土地でした。しかし、植民者の動機が金であった時は、金はおろか神も自由も見いださなかったのです。そして、南アメリカは低開発国のままで残ったのです。

 アメリカの近代歴史の奇跡です。あなた方は短い期間に歴史における最も強力な国家をつくり上げました。この奇跡はあなた方が、苦労して働いたから可能であったのですか?

 確かに皆さんは苦労しました。しかしながら、一生懸命やっただけでは十分な説明になりません。もし神が第一の仲間でなかったら、今日のアメリカをつくり上げることは不可能だったのでしょう。神は、アメリカの歴史において、一番大きな役割を果たしたのです。そしてこのことを神はアメリカに知ってほしいと願っておられるのです。

 アメリカの国民が目覚める時がきました。この国の高貴な出発があって神は祝福と約束を贈られたのです。皆さんの祖先の犠牲的献身は神の祝福の基でした。もし、皆さんが祖先を裏切ることがあるなら、もし、あなた方が神を裏切ることがあるなら、アメリカの行くべき道は一つしかありません。減びしかないのです。アメリカが神への信仰の柱の上に建ったのなら、もし神がアメリカの生活の中から出てしまわれるということがあるなら、あなた方の国は支えのない国となってしまうでしょう。あなた方の国の衰退は著しいものとなるでしょう。

 我々は種を蒔き、刈り入れます。今日、世界は二つの大きな陣営に分かれ、地球全体の争いが迫っています。なぜこのような現象が起こったのでしょう。歴史はイエスの時代に種を蒔かれました。イエスは歴史の種だったのです。彼の十字架は種蒔きなのでした。イエスと共に、右と左に十字架にかかった二人の泥棒がいました。

 十字架によって天国に行かれてから、刈り入れの時彼は十字架を通して戻ってくるでしょう。イエスの十字架の時の状態は彼が帰ってくる時、世界的な規模で繰り返されるのです。そして、今がその時なのです。
 今、我々は世界中で共産主義が強い勢力となっているのを知っています。民主主義世界あるいは自由主義世界は、神は存在すると言います。なぜ私たちは政治で民主主義の方を右、共産主義の方を左と呼ぶのでしょう。このような言葉はどこから来たのでしょう。今、私たちが追ってきた歴史の展望の中に最終的な理由があるのです。これは既にイエスの十字架の時代に決定されたことです。イエスの右側で十字架につけられた泥棒は民主主義世界を表し、イエスの左側に十字架につけられた泥棒は共産主義世界を意味するのです。

 左側の泥棒はイエスが十字架につけられてからも「おまえはキリストではなかったか、自分を救ってみよ」と言ったのです。彼はこうも言ったのです。「もし、おまえが本当に神の子であるなら降りてきて自分自身とこの私を救ってみよ」。イエスは黙っておりました。その男の言うことに答えませんでした。右側にいる泥棒はイエスを弁護したのです。その男は左にいる泥棒に言いました。「同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか、お互いは自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」(ルカ二三・四〇〜四一)。

 十字架の右側の男は何という信仰を表したのでしょう。自分が死ぬということを忘れ、イエスを弁護したのです。何と気高い行いでありましょうか。イエスは答えました。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ・二三・四三)。

 この瞬間、神を否定する世界が出現することを――すなわち今日の共産主義世界が出現するということが左側にいた泥棒によって暗示され、そして、神を恐れる世界の出現が右側にいる泥棒によって暗示されたのです。自由世界は右側にいた泥棒の立場に当たります。そしてアメリカは、これらの神を恐れる自由諸国の中心であるのです。アメリカは神の擁護者として選ばれました。ですから共産主義は“神はいない”と言うのです。

 共産主義者に向かってアメリカはこう言わなければなりません。「神はおられるのにあなた方は何を言っているのか、神は私たちと共にここに住んでおられます」。アメリカはこう言っているでしょうか?

 いいえ、今日のアメリカは急速に自己中心的になっていき、神から離れていっています。アメリカは他の国々のことをあまり気にかけなくなってきているように見えます。しかし皆さん方はアメリカを神の闘士として他の国々に捧げなくてはならないのです。アメリカが他の国々を援助する時、宣教師を送ったり飢えている人々を助けたりする時、黄金時代を迎えるのです。共産主義との対立はその時代の力の状態から起こりました。

 しかし今、アメリカは後退しています。大きな悲劇が同時代に絶え間なく起こっています。例えば、ケネディ大統領の暗殺や、国連事務総長であったハマーショルドの突然の死とかがアメリカや世界を揺り動かしているというのは、単なる偶然の事件ではありません。アメリカの精神はその時以来、下降線をたどっているのです。この国がなくなったら、この国の指導者に神から与えられた使命の生命がなくなったら、多くの問題がみんなを悩ますでしょう。神はアメリカを離れつつあります。これは神の警告なのであります。

 この時代においてはすべてのクリスチャンは神のために、右側の泥棒の役割をなすように定められた、世界の闘士となるべきです。クリスチャンは立ち上がり、世界の救いのために喜んで闘わなければなりません。しかし、今日のクリスチャンは、彼らの分裂した宗派を完璧なものにするため、そして教会の利益のため、それどころではないのです。私たちは主の来臨と一つにならなければなりません。世の終わりは再臨の時期が近いということを意味しています。神はどこかにその足場をもっておられるのに違いありません。神が成就できる基台があるに違いありません。アメリカはその基台であります。なのにアメリカは深刻に悩まされているのであります。

 アメリカに最初に来た時、私はニューヨークに来て、ラッシュアワー時の五番街に立ってみました。そうしましたら突然涙があふれ出て仕方がありませんでした。私はエンパイア・ステート・ビルや世界で一番高い新しい貿易センタービルを見上げてみました。私はこれらのビルの中に神がおわし給うか自問してみたのです。

 ニューヨークはますます神のいない街となっていきます。犯罪の街です。美しい街は今やずたずたになっています。その街にはもはや不道徳や、神不在のしるしを認めるばかりです。ラッシュアワー時に私の目にしたものは本当に私にショックを与えました。私は神の目からは全く耐えられない多くのことを目にしたのです。

 私は神に聞いてみました。「あなたがアメリカを祝福されたのはこの目的のためでしょうか」。私は神がこれらの巨大な建物の中に神の霊を宿らせたいと望んでおられるのを知っております。美しい車の中で若者たちが神への情熱と他人への愛情で意気立っているのを見たいのです。神を讃美するのにエンパイア・ステート・ビルはいりません。神を讃美するのに一九七三年型の自動車も必要としません。もしあなたが祭壇としてたった一つの岩を持っていて神に仕え、そこに希望と涙を注ぐなら神はあなたと共におられるのです。私は神が大きなニューヨークの街を離れつつあるのが本当に分かるのです。ニューヨークは、かえって悪の街になりつつあります。

 アメリカはいろいろな人種、いろいろな信念、国籍をもった人が一つの新しい血統となった、るつぼとして知られてきました。何かを溶かすためには熱が必要です。皆さんは、アメリカに熱を与えたのが誰だと思いますか?

 神がその熱だったのです。神なくしてはあなたがたを溶かして一つにすることは決してできなかったでしょう。

 アメリカはキリスト教精神を通して本当の兄弟の関係を達成することができました。しかし、この基盤なしにはアメリカの道徳はより低下するでしょう。今日、アメリカの衰退の多くの徴候が見られます。アメリカの若者はどうでしょうか。覚せい剤や青少年の犯罪はどうでしょうか。あなた方の家族の崩壊は?

 私はアメリカでは四組のうち三組が離婚すると聞いています。カリフォルニア州連邦政府は、結婚証明書より離婚証明書のほうを多く発行しています。

 人種問題や、共産主義の威嚇はどうでしょうか?

 経済危機はどうでしょうか、どうしてこういう問題が起こるのでしょうか。これらは神がアメリカを離れているしるしなのです。私は神が今アメリカを離れつつあるのが分かります。この調子が続けば、本当に短い間に神はもはやアメリカと共におられなくなるでしょう。神は、アメリカの家庭を離れつつあるのです。かつて、神中心であったこの国には多くの無神論の徴候が見られます。神不在の社会だけが受け入れるような多くの法律が出てきました。アメリカ人の食卓にはいつも祈りが聞かれました。今日、アメリカの学校ではお祈りもしません。

 皆さんはこう質問するかもしれません。「アメリカ人に向かってこんなことを言うあなたはいったい何者ですか」と。どうかあなた方の中でこの国のために責任を取ろうという人がいたら手を挙げてください。過去十年間、アメリカの教会はその精神において堕落してきました。アメリカの教会は中流家庭のようになってしまいました。アメリカの将来は若者にかかっていますが、若者たちの心に躍動を与えることができないのです。アメリカには精神的革命が必要なのです。心の革命がアメリカにもたらされなければならないのです。個人主義は神中心のイデオロギーにつながらなくてはなりません。誰がこのことをやるのでしょう。誰がアメリカの若者の心を燃やすのでしょう。大統領がするのでしょうか?

 金持ちのアメリカの事業家がするのでしょうか?

 アメリカの教会がやるのでしょうか?

 私は神が私をアメリカに送られたということを知っています。アメリカでぜいたくな生活をしに来たのではありません。全く逆です。私自身の目的できたのではありません。神が送られたのです。六〇〇〇年の間、神はこの国をつくるため働いてこられました。全世界の未来はアメリカにかかっているのです。神はアメリカに非常に大きな賭けをしておられます。誰かがアメリカに来て神が離れるのを止めなければなりません。

 韓国の私の信者たちは涙で私に別れの挨拶をしました。私は韓国でもやらなければならないことがたくさんあることを知っています。しかし、韓国のみに携わっていたら、世界の救いは遅れるのです。アメリカは神の闘士でなくてはなりません。私は、神のみ旨がアメリカに中心点をおいているのをはっきり知っています。ちょうど、神の摂理歴史において多くの人々がそうであったように、私は韓国を去り、韓国での環境を捨ててきました。この国でお金をもうけるために来たのではないのです。私はアメリカに来た時、財産、家族、アメリカでの私の全生活をゆだねました。私は神のみ旨に奉仕することのできる新しい国にやって来たのです。

 私たちは質素でなければなりません。我々はこの瞬間から地上に最も大きな運動、神を取り戻す運動を率先してやっていかなければならないのです。あなたの誇りも、富も、車も、大きな街もすべて神がおられなかったら、ちりのようなものです。神を取り戻さなくてはなりません。あなたの家に、教会に、学校に、国家的な生活に神の目的のための仕事を始めなければなりません。神を取り戻しましょう。神のアメリカでの存在を生きた現実としましょう。

 私は、アメリカの歴史上で多分いまだかつてない若者の運動を始めました。これは新しい清教徒団の運動です。韓国から来た男が神のためにアメリカの若者の運動を始めるというのは奇妙なことには思われませんか?
 あなたの家族が病気になったら医者が来るでしょう。家が火事になったら消防士が来ます。神は目的を成就するため、それに合う方法を取られるのです。もし、アメリカにあなた方の必要とするものがないなら、外部の人がその役割を成就してはならないという理由はありません。アメリカは、アメリカを最も愛する者のものです。

 アメリカのクリスチャン人口の数は何らの印象にも値しません。皆さんは数では神を感動させません。燃えるような信仰によってです。その基準はアブラハムの信仰です。アメリカのクリスチャンの何人が神に対する情熱で本当に泣いていることでしょうか。何人のアメリカのクリスチャンが神の仕事が己の仕事になっているでしょうか。幾人の人が神を第一と考え、神のために死ぬ用意があるでしょうか?

 誰かが始めなければなりません。今始めなければならないのです。迫害のもとにあっても誰かが始めなければなりません。誰かが神の目的のために自分を捨て、神を取り戻さなくてはならないのです。我々は、燃えるような信仰で教会を満たさなくてはなりません。私たちの家族が本当に幸福になれる新しい家庭をつくらなくてはなりません。神がいまし給う新しい社会、新しい国を最終的にはつくらなくてはなりません。アメリカは、アメリカを越えていかなければならないのです。それがこの国が生き残るたった一つの道です。私は次のことがはっきり分かります。すなわち、これが神のみ旨であり、それゆえ私がアメリカに来、そしてここで私は二十世紀に叫ぶ一つの声となっているということを。

 過去数週間、特にこの二、三日統一教会の者たちがあなた方一人一人に一度ならず二度も三度も出会ったと思います。私はきっとあなた方はそれにうんざりされたと思います。しかし、御自分をこの若い者たちの立場においてみてください。なぜこんなことをしているのでしょうか?

 彼らにとって物質的利益になるのだろうか?

 この運動をしている若者は八五パーセントまでが大学卒業生です。彼らは年間、数万ドルを稼ぐ能力があります。しかし、そうしないで彼らはこの講演に来るように街頭で皆さんに呼びかけているのです。彼らは非常に情深いのです。彼らには一つの目的があります。アメリカを救いたいのです。彼らはアメリカに神を取り戻し、世界に尽くすことによってアメリカが救われることを知っているのです。

 これらの若者は、アメリカの精神を再び意気揚がらせるためここにいます。アメリカは偉大な伝統をもっております。すべきことは再び生き返らせることです。新しい考えをもった清教徒の新しい運動を必要としているのです。これは必ずなされなければならないのです。アメリカにはもう他に行く道がありません。皆さんにはもう曲がる他の方向がないのです。新しい清教徒の運動がやって来ました。アメリカのためにではなく、世界のためにです。言い換えれば世界救済の運動はこの国において始まらなければならないのです。アメリカはその基台であります。アメリカがその使命を成就する時、永遠の祝福が約束されるのです。

 これはアメリカに対する神の希望です。これは神の皆さんに対する切々たる希望です。私自身は、我々がこの大きな十字軍のため、神と一緒になって励むということをアメリカの若者と共に誓いました。私は皆さんにこの若者たちに加わって応援してほしいと思っております。どこへも曲る道はないのです。もし、神をあなた方の家に連れ戻すならあなたの家庭は安全です。青少年の犯罪も解決されるでしょう。神を除いて人種問題のよい解答はないのです。共産主義の問題も、神の存在が実際となったら恐れることはなくなるでしょう。神はあなた方の健康も増すことでしょう。これがアメリカが自らを救う、たった一つの方法です。

 アメリが新しい輝かしい日を迎えるというのが私の心からの強い願いなのです。そして、こうした理由から私は「アメリカに対する神の希望」という題をもって講演しに来たのです。

 私は特に、今夜講演会に来てくださった一人一人の非常に思慮深い皆様方に心から感謝いたします。御家庭とお仕事に神の祝福がありますように。ありがとうございました。
















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