御旨と世界
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キリスト教の新しい未来

1974年9月18日 ニューヨーク マディソン・スクェア・ガーデン


  紳士・淑女の皆様、私は今夜この場に立ちました皆様に心から感謝申し上げたいと思います。私達はこうして今夜、このマディソン・スクェア・ガーデンの印象深い情景の中に、神の名の下にひとつに集わしめられたのであります。 今晩、私は「キリスト教の新しい将来」と題して語りたいと思います。しかし、その本論に入る前にひとつの前置きしておきたいと思います。私は皆様がすでに知っておられるようなことをくり返し言うためにこの場にやって来たのではありません。私はある新しいことを明らかに示すためにやって来ました。私は、神からの新しい啓示を皆様に分かちたいのであります。 神は唯一であり、キリストは唯一であり、聖書は唯一であります。しかしながら、今日、キリスト教界ひとつとってみても、そこには、四〇〇種以上の異った宗派があり、それらはすべて同じひとつの聖書を、非常に違った観点から、様々な解釈をもって見ているのであります。そせて、今日の我々の関心事は、もはや、聖書に対する人間の解釈ではなく、神のどのように聖間を説かれ、何が本当の神のみこころであるか、ということになってきています。この問題に対する解答は神から啓示というかたちでもならされなければなりません。その啓示を、私は今夜、皆様に分かちたいのであります。このメッセージは、神から来たものであり、神の観点より示されたものでありますから、その内容は、人間の理解してきたものとは、違ったものであって、当然と言えましょう。故に、それは皆様にとって、きわめて新しいものであると思います。しかし、我々が必要としているのは、新しい思想――神の思想――なのですあります。なぜなら、人間は、すでに、自らが創りあげた思想のすべては、研究し尽してしまったからであります。私が今夜、皆様にお話するために、この場にやって来ました理由は、ここにあるのです。故に、私は、神の霊が直接、皆様に語りかけることが出来ますよう、皆様ひとりひとりが、思いをひらき、心をひらいて下さるようお願いするものであります。  

 神の目的

 歴史を通して、世界のクリスチャン達は、ひとつの重大な絶頂の日、すなわち、聖書に預言されているところの主の再臨の日を待ち望んで来ました。これは、神の約束でありますから、キリストの再臨は、必ず成就されるのであります。 では、何故主は、再び来られるのでしょうか?彼は、神の目的を成就するために来られるのであります。では、神の目的とは何でしょうか?神は、永遠であり、不変であり、唯一であります。そして神は一つの目的を持たれ、その目的も又、永遠、不変、唯一なのです。神ははじめに、すなわち、全天宙を創造される前に、ひとつの明確な目的を持っておられました。そして、その目的が、創造の根拠であったのであります。神は、その目的を成就するために、宇宙と人間の創造を始められたのであります。 聖書によると、はじめの男と女−すなわち、アダムとエバが創造された後、神は、彼らにひとつの戒めを与えられました。その戒めとは、「善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」−創世記二章十七節−というものでありました。神は、彼らに、御自身の与えられた戒めに従うよう求められました。神は、アダムとエバのこの戒めに対する従順が、神御自身のの目的成就につながるということは、暗示としてしか示されなかったのでありますが、戒めに対する不従順の及ぼす結果については、非常に明確に示しておられました。神は、「それを取って食べるときっと死ぬであろう」と言われたのであります。不従順の結果として示されていたものは死でありました。 しかるに、アダムとエバは、神に対すて不従順を犯してしまいました。その結果が、人間の堕落であります。霊的死が人間に訪れ、神の目的は実現されなかったのです。彼等は、誤った選択をなし、その結果として生じたものは、神が、はじめに意図されたものとは、全く逆のものでありました。彼等が不従順を犯した後、神は、この男と女をエデンの園から追放する以外、仕方がなかったのでした。エデンの園は、地上の神の国の象徴的表現であります。アダムとエバは、もはや、神の国の住民としての資格を喪失してしまったために、自ら創り出した邪悪なる王国、すなわち、生き地獄に投げ入れられてしまったのであります。  

 地上天国

 もし、アダムとエバが、神に従順に従ったならば、彼らは、地上に天国をもたらしたでありましょう。その天国とは、どのようなところなのでしょうか。アダムとエバは、完成されるべきものとして創造されました。そして創造されました。そして彼等は神の戒めに従うことにより、成長し、完成するようになっていたのです。彼等が、完成された男性と、完成された女性になるまでの成長期間に於いては、彼等の関係は、兄妹の関係でなければなりませんでした。彼等は、兄弟関係というものの真の伝統を立てるべく期待されていたのです。 神はひとりの男とひとりの女を創造されました。何故でしょうか?神は、彼等が完成の基準に達した時に、天的婚姻という祝福によって、彼等を天的夫婦としてひとつにすることを願っておられたのです。神は、神の国を、このアダムとエバを最初の夫婦として立てて、出発しようと計画しておられたのでした。もし、それが実現されていれば、神の“生めよ、ふえよ”という祝福は、成就されたはずであります。神は、彼らに、神の子を生みふやす力を与えられたはずであります。そしてそれらの子供達は、罪なき完全なものであったはずであり、それ以外の何ものにもなり得なかったはずであります。罪は決して、人類の中に入りこむことはなかったはずなのであります。子供を生むことによって、アダムとエバは、神を中心とした父と母、すなわち、人類の真の父母となったはずであります。 もしアダムとエバが、この最初の、神を中心とした家庭を形成していたならば、、そこから、神を中心とした民族、神を中心とした国家が生れ、さらには、神のみが、支配する神を中心とした世界がいち立てられるはずでありました。そして、はじめから、永遠にわたって、完全なる世界となったはずなのであまます。 もし、このようなことが、そのはじめのときに成就されていたならば、我々は、今日、このような、多くの異った言語をもつことはなかったでありましょう。我々はすべてアダムの立てたひとつの伝統の下に、アダム族というひとつの民族に属していたでありましょう。そして、アダムのひとつの言語が、我々すべての言語となっていたでありましょう。そして、実に、全世界が、神のもとにひとつの国であったはずであります。

 このように、神の御計画に於ては、すべての人々が、地上の神の国に生まれるべく定められていたのです。我々は、地上に於いて、天国生活を楽しむべき存在なのです。そして、地上で肉身の寿命が切れたときに、霊界にある神の国に上り、そこに於て永遠に生きることになっているのです。これが神の、はじめ青写真でありました。その世界には、サタンも悪も、存在し得ないはずなのであります。神は御自身の子供のために、地獄を創造されるようなことは決してなさいませんでした。善良な父親が、自分の子供が、生れるやいなや、その子供の為にろう獄を建てるなどということはあり得ないのです。ましてや、神が、御自身の子供のためにどうして、地獄などを必要とするでありましょうか。天国のみが、神の本然の目的であったのです。しかしながら、罪の故に、人間はその本然の価値を失い、塵のような存在になってしまったのです。地獄は、その塵のような存在を入れておく神の監のようなものです。しかし、それは、人間堕落の後にはじめて必要となったものなのであります。 

  地上地獄−失楽園

 それでは、堕落した人間と、堕落した世界の状態を、さらに調べてみましょう。ヨハネによる福音書八章四四節に於いて、イエスは、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきたものであって、…」と言っています。堕落により、人間は、サタンという偽りの父の下に、ひき連れていかれてしまったのです。人間は、その父親をとりかえてしまったのです。我々は、真の父、偽りの父、すなわちサタンとひとつになってしまったのです。このようにして、はじめの男と女とは、サタンの子となってしまったのでありました。サタンという偽父の下に、アダムとエバは、神の祝福も、ゆるしもなしに、不法にも、夫婦として一体になってしまったのです。そして、彼等が子供をふやしていくときに、その子供達もまたすべて同じ偽父の下に生れることになったわけであります。彼等はすべて、神の子としてではなく、罪の子として生まれてきたのです。このようにして、アダム以後、時代から時代へと、罪の子を生み殖やし続けて、この堕落した罪悪世界が、もたらされて来たのでありました。 我々が、神を中心としないが故に、罪の世界、不信の世界、犯罪の世界、憎しみと争いの世界が生れてきたのです。そして、この世界に住む我々も、我々の国家も社会も互いに、破壊し合いながら、何の苦痛も感ずることがないのであります。これが、まさしく、地上の地獄であります。実にこの世界の主人は、神ではなく、サタンなのであります。ヨハネの福音書十二章三一節に、サタンがこの世の支配者であることが示されているのは、そのためなのです。我々は、この宇宙が神によって創られたということを知っています。我々は、神が人間を創られたということを知っています。しかし、今、神は人間の主人ではないのです。何故なら、人間が、自ら、その主人を替えたからであります。人間は神を裏切り、偽りの主人サタンと結んでしまったのです。そして、このサタンが、ずっと、今に至るまで、人類の父となってきたのであります。  

 救いとは復帰である

 全能なる神は、愛の神であり、あわれみの神であります。神の心は、御自身の子の生きながらの死に、深く病まれ、悲しまれました。神は、いかなる人であっても、自らの力で罪のなわめを断ち切り、罪を取り除くことはできないということを知っておられます。神は、人間を救いに導くことの出来るただひとつの力は、神御自身であることを知っておられるのです。そして神は、あわれみによって、この世界を救う決意をされたのでありました。 救いとは、何でありましょうか?救いとは、すなわち、復帰であります。医者は、患者を救うために何をするでしょうか?彼は、患者を正常な健康状態へと復帰していくのであります。それが、治療であります。あなたは、溺れかかっている人を救うときに、どうしますか?彼を水からひきあげて、乾いた陸地に帰すでしょう。それが救助であります。 これと同様に、神の人間に対する救いとは、人間を異常な逸脱した状態から、本然の善なる状態かへと復帰すること以外の何ものでもありません。故に、救いとは、復帰なのであります。神は、地獄を天国へと復帰しようとされているのです。神は、御自の決意を聖書に於て明確に示されています。「わたしはこの事を語ったぬえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う」(イダヤ書四六章十一節)神は、行うかもしれないと言われたのではなく、必ず行うと言われ、人間とその世界を本然の姿に復帰するという御自身の絶対的決意を示しておられるのです。 では、どのようにして、それをなそうとされているのでしょうか?メシヤによってであります。人類を救うために、神はそのひとり子イエス・キリストを、救い主として、メシヤとして、この地につかわされたのでありました。 二千年前、イエス・キリストは生命の創造主として、この世界に来られました。彼は、すべて罪人達を、キリストの如き人に造り変えるために来られたのであります。彼は、その第一の福音として「悔い改めよ、天国は近づいた」と宣言されたのであります。イエス・キリストの降臨よって、人々は、事実、そのとき、天国の入口まで来ていたのであります。 

  メシヤを迎える準備

 しかしながら、神は、世界を復帰するべく、そのひとり子をつかわす前にそのメシヤをことの出来る信仰の基台を立てるために、個人からはじめて、国家へと拡大して、その道を一歩一歩整えて、準備しなければならなかったのであります。 結局のところこの世界は、今日まで、ずっとサタンの世界でありました。もし、メシヤが、この地上に準備された基台もなく来られるならば、サタンは彼を殺してしまうにちがいないのです。故に神は、ひとつの国家、すなわち、御自身が支配することの出来るひとつの主権をうち立てるために、こつこつと、注意深く働いてこられたのであります。イスラエル選民は、そのメシヤを迎えるための準備の結果として生まれたのでありました。神は、イスラエルの国を、メシヤの“着陸地”として準備されたのです。イスラエルの信仰の基台の上に神の最後の勝利者−メシヤを送ることが出来たのできたのでありました。 

  イエスは死ぬために来られたのではない

 今だかつて解かれたことのない、ひとつの歴史的ななぞがあります。イエス・キリストの降臨の四千年前に、神は、前に述べたように、メシヤのためにイスラエル選民を準備しておられました。預言者を通して、神は選民に対してメシヤのために備えるよう、あらかじめ知らせておかれました。神は人々の間にそういう期待を築き上げるよう働かれ、事実イスラエルには、メシヤを待望する非常な熱意が見られたのであります。そして、その定められた時に、神は御自身の約束を成就されたのでありました。神のひとり子イエス・キリストは時至って、御自身の民の上に降臨されたのであります。 そして、そこで何が起ったでありましょうか。歴史は事実を証すものであります。人々は彼を知りませんでした。彼等は彼を否定し、彼に反対し、最後には彼を十字架に釘づけてしまったのであります。何故なのでしょうか。キリスト教の教会は「その問に対する答は、神がイエス・キリストを十字架上で亡くなるべくつかわされたからと言うことが出来るでしょう。十字架ははじめから予定された神のみ旨だったのです」と言うのです。 では、そう言うクリスチャンに「イエス・キリストが今日、あなたのもとに再び来られたら、あなたはどうしますか」を尋ねてみましょう。すべてのクリスチャンは、間違いたく「私達は彼を受けいれるでしょう。彼を迎え、彼とひとつになり、彼に従って行くでしょう」と答えるにちがいありません。さらに、「キリストら現われたら、あなたは彼を十字架につけますか」を尋ねてみましょう。あなたの答は「ノー」と言うにきまっています。 もしそうであるならば、二千年前のイスラエル選民達はどうだったのでしょうか。もし彼等がイエスを受けいれたならば−あなたが今日受けいれるように−彼等はそれでも、彼を十字架につけなければならなかったのでしょうか。いいえ、それは誤りだったのです。彼等はその無知ゆえにイエス・キリストを殺してしまったのです。 神の選民がメシヤを受けいれることが、神のみこころでありました。しかし、彼等は受けいれるどころか彼を十字架につけてしまったのです。そしてクリスチャン達は、それは神のみこころであったと言って責任逃れをしてきたのでした。何というばかげたことでありましょうか。これは我々の論理に合わないことであります。何かが恐ろしく間違ってきたにちがいありません。それは何だったのでしょうか。

   無知がイエスを殺した

 人々はナザレのイエスがどういう方であるかを知らなかったのであります。彼等は、彼が神のひとり子であることを知らなかったのであります。もし、彼等は、彼等が、イエスが神のひとり子、メシヤであることを明確に知っていたならば、彼等は彼を十字架につけはしなかったでありましょう。「彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受けいれなかった」(ヨハネ 福音書一章十一節) また、聖パウロの証言に傾けて下さい。「この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう」(コリント人への第一の手紙二章八節) もし彼等が、彼が誰であるかを知ってさえいたならば、彼等は栄光の主を十字架につけはしなかったでありましょう。それは誤りだったのであります。イエス・キリストを殺したのは人々の無知と盲目であったのであったのです。 世界のクリスチャンはイエスの時に実際起ったことが何であったかという事の真相に目ざめていないのです。もし、神のひとり子をつかわす唯一の目的が彼の十字架に釘づけにすることであったとするならば、なぜ神は、まずはじめに、イスラエルの選民を備えるために時を費やされたのでしょうか?神にとってはそのひとり子を不信者やあるいは野蛮人達の中に送った方がずっと簡単であったでありましょう。かれらはもっとすみやかに殺し、救いはもっとすみやかにもたらされたでしょう。メシヤを殺すためならば、選民もイスラエルも何も必要ではなかったはずであります。旧約聖書に於て、神はくりかえしイスラエルが神の子の降臨によって栄光を受けるであろうことを約束しています。しかし、メシヤが来られた後、その選民の上に何が起ったのでありましょうか?かれらは罰せられ信じ難いまでの苦しみを受けたのであります。彼らの国は滅ぼされ、その民は世界中に散らされたのです。しかしそれはただ彼らが神のみこころにかなって生きなかったからなのであります。彼らは、メシヤを受け入れることが神のみこころであったときに、彼を拒否してしまったのです。 

  旧約聖書の文字の奴隷

 さて、そこで問題はイスラエル民族がイエスがどういう方であるかということをなぜ知らなかったのか、ということであります。信じていただけないかもしれませんが、神の選民がイエスをメシヤであることを認めなかった第一の理由は旧約聖書の故なのです。こう言えば皆様は驚かれるかも知れません。しかし、イスラエル選民は旧約聖書を文字通りに解釈していました。彼らは聖書がひとつの暗号であることを知らなかったのです。彼らは聖書を文字通り、一言一言、一字一字解釈していました。言葉を換えて言うならば、彼らは旧約聖書の文字の奴隷になっていたのであります。 それに対する証拠をあげてみましょう。旧約聖書のマラキ書は、新約聖書の黙示録と類似した意味をもっています。それは、メシヤがどのようにしていつ来られるかというプログラムと終りの時のようすを明確に示しています。マラキ書四章五節から六節に「見よ、主は大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」という言葉があります。ではエリヤはどういう人だったのでしょうか。彼はイエス・キリストより九百年ほど前に生まれた人であります。そのため人々は、エリヤが旧約聖書の文字通り、青い空から火の戦車に乗って再びやって来て、神の子の到来を告げるであろうと信じていたのであります。このようなことを人々は期待していたのです。 しかし、エリヤは来ましたか。問題は、エリヤが彼らが期待していたような形ではやって来なかったということなのであります。イスラエル選民は、エリヤのその奇跡的な再臨の知らせも何も聞いていませんでした。しかるに、ある日、彼らは、ひとつの並はずれた宣言を耳にしたのです。ナザレから来たイエスという名のひとりの若い青年が、神の子メシヤでするとして、世に向って宣言されていたのです。それは実に信じがたい宣言でありました。 そして、それに対する人々の即座の反応はどうだったでしょうか。“そんなことはありえない!”と彼らは彼らは言ったのです。“どうしてナザレのイエスが神の子であるはずがあろうか。我々はエリヤについて何も聞いていないではないか。“エリヤが来なければメシヤは来ないというのであります。エリヤが再臨するというマラキの預言は、実にイエスの使命遂行の障害になったのであります。イエスの弟子達が、イスラエルの町々で福音を述べ伝え、イエスを神の子として証して行ったときに、人々は「もし、あなたの先生が神の子であるなら、エリヤはどこにいますか。聖書に、エリヤが先ず来なければならないと書いてあります」と言って、彼らの言葉を拒否したのです。 

  バプテスマのヨハネがエリヤ

 イエスの弟子たちは、この質問に答えるだけの十分な備えがありませんでした。事実、彼らは旧約聖書の知識をもっていなかったのです。すなわち、彼らはガリラヤの身分の卑しい漁師であり、取税人であり、売春婦でした。そこで、困った弟子たちはある日、このことについてイエスに教えを乞うために彼のもとに行くことに決めました。マタイによる福音書十七章十節から十二節にはこう書かれています。

 弟子たちはイエスにお尋ねして言った、「いったい律法学者たちはなぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。答えて言われた、「確かに、エリヤがきて、万事と元どうりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでに来たのだ」 

 これは弟子たちにとって本当にショックでした。そしてその時彼らはイエスが、バプテスマのヨハネのことを言われていることを理解しました。弟子たちは、「バプテスマのヨハネがエリヤなのですか」と聞きました。するとイエスは「そうです」と言われました。しかしイスラエル選民は決して納得しませんでした。彼らは「そんなはずがない」と言ったのです。こうした事柄を現代に置きかえて考えてみましょう。二千年前のバプテスマのヨハネは非常に影響力のある人で、偉大な預言者、神の人としてイスラエル全土に大いなる信望をもった人でした。それはちょうど現在の、偉大なキリスト教の指導者であるビリーグラハムのような人です。 ところが、ある名もない青年が突如として現われ、世に対して自分こそ神の子であると宣布しだしたとしましょう。あなたが聖書を学んでいる人であればきっとこう尋ねるでしょう。「もし、あなたが神の子ならば、聖書に、キリストより先に来ると記してあるエリヤはどこにいますか」。もしこの青年が「ビリーグラハムがだということを知らないのですか」と答えたなら、あなたは、どんな反応を示すでしょう。 あなたは、間違いなくこういうでしょう。「そんなことはありえません。どうしてビリーグラハムがエリヤであると言えましょうか。彼は青空から降りて来なかったではないですか。彼はノースカロライナの生まれであることは我々皆が知っています」あなたはこうしたことを認めることはありえないでしょう。 まさに、これと同様の不信仰が我らの主イエス・キリストに対すてなされたのです。人々は、バプテスマのヨハネがただ、天から降ってこなかったという理由だけで、彼が、エリヤであることを認めることができなかったのです。二千年前の選民たちは、エリヤの再臨の預言が、聖書の文字通り実現されなければならず、したがって天より降臨しなければならないという信仰にかたくなに固執しました。彼らは旧約聖書の文字の奴隷だったのです。 

  失敗者、バプテスマのヨハネ

 それでもなお、イエス・キリストは嘲笑する大衆のば声を受けながらも力と権威をもってイスラエル全土で伝道を続けました。人々はそういう人間をそのままにしないわけにもいきませんでした。彼らは、自分が正しいという確信を欲しました。そこで彼らはバプテスマのヨハネのところに行って尋ね、彼らがいろいろな疑問に最終的な決着をつけようと決心しました。そして、ヨハネ福音書の一章十九−二十一節にあるように彼らはそのごとくに行ったのです。彼らはヨハネを尋ねました。「あなたはどなたなのですか」彼は告白して否まず「わたしはキリストではない」と告白した。 そこで彼らはさらに問うた。「それではどなたなのですか。あなたはエリヤですか」。彼は「いやそうではない」と言った。「では預言者ですか」彼は「いいえ」と答えた。このようにバプテスマのヨハネはすべてを否定しました。彼は「私はエリヤではない」と言いました。彼は預言者としての立場さえも否定したのです。誰もが彼は神の預言者であることを知りかつそう認めていました。しかし彼は「私は預言者などではない」と否定しました。何故でしょうか。 彼は当時の状況を判断しイエス・キリストが彼の属する社会からのけ者として扱われているのを知っていました。イエスは負け犬のように見えました。そこでヨハネはイエスの側に立つまいと決心したのです。彼はすべてを否定する立場の方がずっと得策であると考えたのです。そうすることによってバプテスマのヨハネはイエスを隅の方に追いやり、彼を誰からも擁護されない大イカサマ師に仕立ててしまったのです。ヨハネに否定されたイエスは、このことに関してヨハネ以上に頼みとする人はいませんでした。 それでは、何故イエスは十字架につけられたのでしょう。第一には彼は、聖書の文字通りの解釈の犠牲者となったのです。第二にバプテスマのヨハネが使命成就を矢敗することによって捨てられ、ついには十字架につけられたのです。 我々はマタイ十一章一−三節、牢獄で首をはねられるのを待っていたヨハネが彼自身の弟子のなかの二人をイエスのもとに遣わして次のような質問をさせたのを知ることができます。 

「『来たるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきなのでしょうか。」(マタイによる福音書十一章三節)

 これはイエスが神の子であるという信仰をもった人の質問でしょうか。バプテスマのヨハネは以前にヨルダン川でイエスを(神の子としての)証をしたことがあったのです。 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである〉(ヨハネ一章三十四節) ところが、その同じ人間がその同じ口で今度は「あなたは本当にメシヤなのですか、それとも誰か他の人を捜すべきでしょうか」とイエスに迫ったのです。この質問はイエスにとって失望をもたらしたことでしょうヨハネは、何と信仰の薄い人間だったのでしょう。  

 ヨハネの使命成就を願っていたイエス

 バプテスマのヨハネの使命は、メシヤの使命を成就するために非常に重要なものでした。神は「主の道を直くし、備えられた民を整えるため」に特別にマタイを送ったのです。それが、キリストに先立つ者としてのヨハネの使命でした。イエスはバプテスマのヨハネが使命を成就することを心から頼みとしていました。ですからバプテスマのヨハネその人が、イエスのもとに来て「あなたは本当にメシヤなのですか」と言った時、それは、彼がイエスをナイフで刺したより以上の苦痛をイエスに与えたのです。 イエスがどんな心情であったか、あなたは想像できますか。彼の心は打ちのめれたのです。怒りに震えたに違いありません。イエスはこのあまりに心外な質問に対して「イエス」とも「ノー」とも答えられませんでした。そのかわりにこう言ったのです。「私につまづかないものは幸である」マタイ十一章六節) これは、彼の惨めな失敗を知ったイエスのヨハネに対する慰めのことばでした。イエスは本当はこう言いたかったのです。「あわれなヨハネ、失敗した男よ。あなたはもはや私に対する信仰を失ってしまった。あなたは神の子につまづいてしまったのだ。かわいそうなヨハネよ」 したがって、イエスはマタイ十一章十一節でこう言われたのです。「よくよくあなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし天国では最も小さいものも、彼よりは大きい。」 ヨハネは、天国では最も小さいものも彼よりは大きいといわれるところまで落ちてしまったのです。イエスのこのことばの意味は今まで定かではありませんでした。クリスチャンは、バプテスマのヨハネが、その使命を失敗した人間であることに気づかなかったのでこのことばの真意を理解できませんでした。今夜我々はその真意を知ることができるのです。 バプテスマのヨハネは神の子を直接に証しするがゆえに、女の産んだ者の中で最も大きいものでした。それまでのすべての預言者達も同じような使命を与えられてきました。しかし、ヨハネより前に来た預言者は彼らと主の間に時間的隔たりをもってメシヤを証ししてきました。 ヨハネはイエス・キリストと同時代の人として生まれたのです。ゆえに、キリストが姿を現わした時に“生けるキリスト”を証しする特権をもっていました。彼の使命に関する限り、バプテスマのヨハネはすべての人のうち最も偉大な、栄えある人物でした。かくして、イエスは彼を、女の産んだ者の中で最も大きい人物であると言われたのです。 しかし、彼の使命の成就という点では、ヨハネは最も小さい者であり、すべての人のうちで最も惨めな敗北者でした。彼より前に存在したすべての預言者たちは、霊界で天国にいました。彼らはイエス・キリストが誰であるか知っていました。しかし、ヨハネは知りませんでした。彼は疑ったのです。彼は懐疑的になり、とうとうイエスの身分がわからなくなってしまいました。遂には、神の子であると自ら証したことさえ確信できなくなったのです。彼は失敗者となり、従って天国にいるすべての者のうちで最も小さい者となってしまいました。 バプテスマのヨハネは首をはねられるという最期を逐げました。もし、彼が天命を行い、世人に対してイエス・キリストこそ神の子であると証しをし、宣布していたがために首をはねられたとしたなら、彼は栄えある最初の殉教者となりえたでしょう。しかし、ヘロデ王の個人的な愛情問題のスキャンダルに関わったという理由のみで彼は首をはねられたのです。 そういうことはヨハネの為すべきこととは全く関係がなかったのです。神の子に仕えることが、彼の唯一の使命でした。しかし、ヨハネはこの聖なる使命から離れて、無意味な破廉恥とさえいえる死に方をしたのです。この真実は、それがたとえいかに心苦しいことであっても言明されなければならません。 もし、バプテスマのヨハネが偉大な信仰者であったなら、その結果はどうであったでしょうか。彼は実際、神の子イエス・キリストの第一弟子となっていたでしょう。もし、イエスが王であったなら、バプテスマのヨハネは首相になっていたでしょう。それこそ、神がヨハネに予定した地位でした。その場合には、イエスが選んだ十二使徒、七十人門徒、百二十人の弟子達はすべて、ヨハネ自身の弟子の中から選ばれたでしょう。ヨハネはイスラエルの選民と神の子の間に、統一の隔和をもたらす仲立ちとしての役割を果したでしょう。そうなれば、その情況のもとで、誰が敢えてイエスを十字架につけたでしょう。誰もいません。十字架による刑は決して起らなかったでしょう。 あなたはこういうかも知れません。「文先生、あなたは何の権威によって話されているのですか。何故あなたはそんなに確信をもっておられるのですか」と。 私はまさにこれらのことを言う権威をもっています。神が私にこの真理を示されたのです。私はイエスに会いました。イエス自身が私にこの真理を示されました。そして私はバプテスマのヨハネにも霊界で会いました。彼自身、この証しの真実性を証言してくれました。このような特別な霊的体験をした後、私が現実の世界に戻った時には、私はそれまで読んでいた同じその聖書が今度は、全く新しい意味をもつようになりました。たとえ、あなたが今、私が話したこれらのことを真理と認めることができなくても、少なくとも是否の判断を保留すべきだと思います。いつの日か、我々すべてが真理を知るようになるでしょう。最終的には我々は全て死んでゆくのです。誰もが霊界に行きつきた時、そこでは真理が太陽の如く輝いています。そこでは唯一人、真理から免かれることはできません。その日こそ我々は全き真理をまのあたりに知るでしょう。 しかしながら、この地上に生きてうる人間に、真理を受けいれるほど謙虚さを持ちうる人は幸いです。真理と神に対するこの地上の知識があなたの永遠の生命を決定するのです。 

  イエスは天の雲に乗って来ると思われていた

 イエスがメシヤとして受けいれられなかったもう一つの決定的な、三つ目の理由があります。それは、二十年前選民イスラエルはダニエルの預言に従って、神の子が天の雲に乗ってくると思っていたからです。 「わたしはまたしはまた夜の幻のうちに見ていると、人の子のような者が天の雲に乗ってきて…」(ダニエル書七章十三節) しかし、イエス・キリストは天の雲に乗って奇跡的に現われては来ませんでした。彼は、ヨセフの妻であるマリアから生まれました。人々は言いました。「どうしてこのイエスが神の子などといえようか。彼は私とかあなたと全く同じ人間に過ぎないではないか」 これこそ選民がイエスを見捨てたもう一つの動かしがたい理由でした。 ダニエルの預言はイエスの伝道に非常な困難をもたらしました。我々はヨハネの第二の手紙の七節にこのことを見ることができます。そこで使徒ヨハネはこうして驚告しています。 「なぜなら、エバイエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである」 これは、キリストが肉体をとって来られたということだけで彼を見捨てた、イエス・キリストを信じない人々に対して、二千年前にヨハネが述べていることばです。彼らは、誰かこの世のものでない者が天に乗って現われることだけを待っていたのです。ゆえにイエスを受けいれませんでした。ヨハネはこれらの人々のことを「そういう者は反キリストだ」と言って厳しく糾弾したのです。このような歴史的事実がキリスト教の世界から隠されてきました。現在、初めて、このイエスの伝道にまつわる、これらの全ての情況が白日の下に明らかにされたのです。 では何故、この時に、こういう真実があからさまにされたのでしょうか。それはキリストの再臨が近いからです。そして神はイスラエルが犯したのと同じあやまちをクリスチャンにさせたくないからです。天の父からの明々白々なる真理の啓示によってのみ、全てのキリスト教会は一つになることができるのです。そうです。真理が我々を一つにするのです。もし、我々が真理を知るなら、その真理が我々を誤った不一致から自由にするでしょう。そして神の明白なる真理が今、明らかにされているのです。 十字架、それはイエスの二次的使命 十字架の死は全く神の子の本来的使命ではなく、予定された路程の変更されたものでした。それは二次的使命だったのです。それは変貌山上で決定されました。このことに関する記述が、ルカ福音書九章三十、三十一節にみられます。 「すると見よ。ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現われて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。」 イエスの第一弟子のペテロが、イエスから彼がエルサレムで苦しみを受け、十字架につけられるであろうということを知らされた時ペテロは、マタイ十六章二十二節にみられるように、激しく反対しました。 「主よ、とんでもないことです。そんなことはあるはずはございません」 するとイエスは彼に強く迫ってこう言われたのです。 「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」マタイ十六章二十三節) クリスチャンはイエスが十字架上で死ぬために来られた証拠として、この件をよく引用します。多くの人がこう言います。「イエスの言われたことを聞きなさい。彼は死ぬために来られたと言われた。だから、彼はペテロをとがめ、彼をサタンと呼んだのだ。なぜなら、ペテロはイエスが十字架につくのに反対したからです」 しかし、現在その解釈は一つの核心的な点を見落しています。イエスは神がその御計画を変更され、イエスの使命を変えられたことを知った後に、ペテロをとがめたのです。イスラエルがイエスを拒んだので、神は地上天国実現というイエスの本来的使命を成すには、民の協力が必要である以上もはやイエスがそれを続けることができない、ということを知っておられたのです。 それで、イエスの伝道の終りの時点になって、神は彼に霊的救いという限られた目標のみを達成するように願いました。イエスは従ってこの二次的目標達成のための準備をしていました。しかし、あわれなペテロは、イエス・キリストの使命がこのように変更されたことについて何も知らなかったのです。 イエスは、ペテロの慰めときこえる言葉が、その時にはすでに神のみこころと何の関係もなくむしろ妨げとなったので彼を「サタン」と呼んだのです。ペテロは無知蒙味から語ったのです。しかし、イエスは、この二次的使命を失敗することは決してできませんでした。というのは、そうなれば、彼が来たことが全く無に帰してしまうからでした。

  イエスを受け入れれば神の国は実現していた

 もしイエスが、イスラエルの民によって受け入れられていたなら実際には何が起ったか、ということを考えてみましょう。そうなれば、イスラエルの王として、彼は彼の弟子達と、ヤコブの十二の部族と、全てアラブの部族とを含むアブラハムの全ての子孫とを統合したことでしょう。彼らの全ては、神の子を中心とした一家族となったはずであります。 イエス・キリストは、イスラエルの選ばれた民族を中心として神の主権をうちたてたでしょう。神の国の憲法が、イエスの時代に発布されたでしょう。神の主権が現実化された無敵の国家が建てられたことでしょう。神のもとにある一つの国家、それは、人類始祖・アダムがうち建てるべきであったのですが、それは後のアダム、イエス・キリストを王として実現したことでしょう。ローマ帝国でさえ、神の王国の前にはひざまづいたでしょう。これが、イザヤ書九章七節の預言なのです。 「そのまつりごとと平和とは増し加わって限りなくダビデの位に座して、その国を治め今より後とこしえに公平と正義とをもってこれに立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをされるのである」 イエスは死んだ後でさえ、彼の弟子達は、何も持たず苦しみをうけ血を流しつつ、ローマに向って進軍しました。しかし四〇〇年以内に、ローマ帝国はこの何も持たない軍隊の前に崩壊しました。もし、イエス・キリストが十字架につけられず、生きてこの聖なる軍隊の指令官であったなら、その時には全ローマ帝国はイエス自身が生きている間に神の下に入ったことでしょう。 当時、偉大なるローマ帝国は世界の中心でした。神の救いの御計画は全世界を復帰することでした。一旦、神の王国がローマにできたならそれが全世界に容易にもたらされるように神はローマを全ての国々の中心として備えられました。もし、イエスが、ローマ帝国に彼の王国の建設することができたなら、その時、ローマの力の影響によって、イエスが地上に生きている間に、世界の隅々までイエス・キリストの福音が宣べ伝えられたでしょう。イスラエルの国は、神の王国の栄えある中心となったのです。今日、キリスト教は最早存在しなかったでしょう。ローマンカトリックも、長老派教会もメソディスト教会も、キリスト教も存在しないでしょう。これらのうちのどれも必要ではなかったでしょう。あなたが既についていればそのめの車は必要ないからです。 我々は既に、神の王国の市民となっていたでしょう。キリスト教の歴史には流血とか、殉教者はなかったでしょう。そして、教会の尖塔には十字架はなかったはずです。そうなれば、キリストの再臨の理由もなかったのです。なぜならばメシヤの使命は既に完成されているだろうからです。 しかし、悲しいかな、現実はイエス・キリストは反逆に会いました。アダムとアダムの従順なくして神はエデンの園にその御理想を実現することはできませんでした。そして、イエス・キリストも選民の協力なくして、地上天国を建設することはできなかったのです。 

  十字架は霊的救いのみをもたらした

 それでイエスは、彼の第二番目の使命であった霊的救いに移ったのです。選民であるイスラエル民族の無知もうまいのために、イエス様の犠牲が必要になり、仕方なく神はそうされることを許されたのです。そこが十字架の重要なところなのです。神はサタンに払う身代金として、イエスが十字架でなくなられることを許されたのです。それと引き換えに、イエスの復活の時に、神は身体の贖いは出来なくとも、魂は要求することが出来たのです。ですから、神の勝利は十字架にあったのではなく、復活にあったのです。これがキリスト教の救いなのです。 イエスの十字架と共に、キリスト教も十字架にかかりました。主が苦境におられる時誰も彼に信仰をたてなかったのです。誰もがイエス様を裏切ったのです。あのペテロでさえ、イエスを否定したのです。しかし、イエス様の復活と共にキリスト教も息をふき返したのでそれから四十日間というもの、イエスはちりぢりになったキリスト教の残骸を集められ一つにまとめられました。それが今日のキリスト教の始まりであったのです。我々の救いは勝利された復活からきているのです。これは、サタンの力の及ばないキリスト教の勝利なのです。しかしイエス・キリストの身体は牲牲として、またつぐないとして取り去られてしまいました。御自身の肉体をとられた故、人間の身体についても同様にあきらめざるを得なかったのです。ですから我々の救いは魂のあがないのみをもたらし、限界があるのです。この理由は、二千年前に肉身のあがないが成されなかったからであります。この世はいまだにサタンにじゅうりんされています。この世界ではいまだに罪は私達の身体を通して荒れ狂い、私達を支配しているのです。聖パウロは、ローマ人への手紙七章二十四−二十五節で苦悩のうちに次のように叫んでいます。 「私はなんとみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだからわたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして私自身は、心では神の律法を仕えているが、肉では罪の律法につかえているのである」 聖パウロは主の恵みの中に生きた人です。しかし、彼のような人でさえ、心では神につかえることができても、身体は罪の律法につかえていると告白しているのです。彼の肉体は救われていなかったのです。依然として、罪の中で苦悩していたのです。それは私達にとっても同じです。キリストを受け入れることによって我々は霊的救いを受けました。しかし、私達の肉体はキリストが再び来られて、我々を罪の束縛から解放されるまで、サタンの支配する罪の法則につかえているのです。 再臨の主は全き救い、すなわち霊的な救いと肉的救いの、その両方を与えることの出来るたった一人の御方であります。今日のキリスト教は霊的救いを与える力しか持たないのです。その当時のイスラエルと違って、キリスト教は実体的な国の基盤を持っておりません。ですから、キリスト教における神の支配圏は霊的な国のみであります。従って人間のもっとも大きな希望はメシヤの再臨なのです。これはアメリカの希望であり、世界の希望でもあります。アメリカ−このユニークなキリスト教国は今、目覚め、メシヤの到来の日に備えなくてはならないのです。 アメリカのキリスト教国は今日、二千年前のクリスチャンと同じ霊的な立場に立っております。アメリカははメシヤが二十世紀に足をおろす場所に定められているのです。神は世界に救いの手をさしのべたいのです。しかし、そうするためには、神はまずアメリカから着手していかなければならないのです。アメリカの役割は二千年前のローマ帝国のそれと同じです。ローマがその当時の世界の中心であったように、アメリカは現代の世界の中心です。イエス様はローマに目をつけられました。ですから、キリストが来られる時、彼はアメリカに目を注がれるのです。  

 再臨は如何になされるか

 今日、我々は論理なくして何事も信ずることが出来ません。真理は論理的であります。無知には完全というものがあるはずがありません。キリスト教の祈りだけでは、ニール・アームストロングをして月を踏ませることは出来なかったのです。科学的真理が必要だったのです。私自身は、かつて科学部の学生でありましたし、神が科学の神であるということを知っています。このように神の言われることは二十世紀の人間にとって、科学的であり、論理的であり、説得力のあるものでなければなりません。 さて、キリストの再臨がいかになされるかを語ることによって今夜の話の頂点に移りたいと思います。聖書のマタイによる福音書二十四章三十節を読んでみますと、

 「そして力と大いなる栄光をもって、人の子が天の雲に乗ってくるのを、人々は見るであろう」とあります。また、黙示録一章七節には「見よ、彼は、雲に乗って来られる」

とあります。ところが、テサロニケ人への手紙五章二節には 「主の日は盗人が夜くるように来る」 となっています。ある預言書には、主は天の雲とともに来ると言っており、また別の預言は少しく矛盾しています。もし彼が盗人のごとく来るなら、同時に雲の中に現われることなど出来ません。では一つとって別の預言を捨ててしまいましょうか。 二千年のイスラエルの選民は神のお告げが象徴で表わされていることがわかりませんでした。彼等のお告げを文字通り解釈したのです。それは重大な誤りでした。我々、クリスチャンが新約聖書を読む時には、同じあやまちを犯してはなりません。我々は神の側に立って聖書を読むべきであり、比喩や象徴の真なる意味を知るべきであります。二千年前、すべての人々が、エリヤが青空から現われることを期待していました。しかし、彼はそのようには来ませんでした。また、彼等はメシヤが天の雲と共に来ることを期待しましたが、そのようには来られませんでした。今日、クリスチャン達は再臨の主が雲に乗って来ることを期待しています。しかし、あなたにはこの時代にそのような期待が裏切られないという保障がありますか。 

  主はいかに来られるか

 では、天の雲に乗ってくるというのと盗人のごとく夜来るという、二つの可能性を謙遜に、そして心を開いて受けいれてみることにしましょう。もし、あなた方が、主が雲に乗って来られるのみと考えているならば、肉体をもった人の子として到来というのはあなた方の期待にそわないでしょう。あなた方はきっと二千年前ユダヤ教信徒達が犯したのと同じ罪を犯すようになるでしょう。けれども、もしあなたが謙遜であって、肉体を持った人の子としての主を敢えて受けいれるならば−それは主が盗人の如く来ることの出来る唯一の方法なのですが、−あなたは見失うことはありません。どのような方法で来られようとも、主にお会いすることを確信するでしょう。もし、あなたが主を全く見失うということがあるなら、それは彼が盗人のごとく来られた時のみでしょう。もし、彼が雲に乗って来るなら心配するには及びません。誰でもその時、彼を見るからです。テレビ放送がこれを確めてくれるでしょう。 しかし、私は皆さんに、神は彼の息子を文字通り雲と共に送りはしないだろうということを言わなければならないのです。 主の再臨を待ち望んで空を見上げていても失望するばかりです。彼はもう一度、肉身を持った人として来るからです。これは神の啓示であります。聖書の要な預言を読むことによってそれを証明させて下さい。ルカ福音書十七章二十節には、

 「神の国はいつ来るかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、』神の国は、見られるかたちで来るものではない』」 

 とあります。誰もが天の雲を見るでしょう。しかし、イエス様は「我々は御国の到来は見ないだろう」と言われました。ユダヤ教信徒達はメシヤの到来を見たでしょうか。いいえ、見ませんでした。なぜなら、彼は肉体を持った人の子として来るからです。 次にイエス・キリストのもっとも驚くべき発言を見てみましょう。たいていの人は「聖書はそう言っていますか」と聞きます。ルカの十七章二十五節を見ますとイエス様はこう言っておられます。 「しかし、彼(再臨の主)はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」 主がもし、誰が敢えてその方を拒絶したり、苦しませたりするでしょうか。あなたでしたらそうしますか。これはイエス様の語られた言葉です。その方の苦しみ拒絶されるのです。なぜなら、その方は肉体を持った人の子として来られるからです。最初はその人をキリストとして認めることはむずかしいでしょう。全キリスト教会、そして全キリスト教会献身者達は天の雲に乗って主が来られることを待ち望んでいます。彼等は空を見あげ、そのお方の現われるのを待ってするのです。しかしもし、その期待がはずれ、丁度イエス様がこの世に初めて来られた時のように、人の子として突然現われたら、どうでしょうか。 まず初めに、人々は彼を拒絶し苦しみを与えるでしょう。最初はキリストを受けいれはしないでしょう。多くのクリスチャンは石をとって彼にむかって投げるでしょう。また多くのクリスチャンは、その方を不敬な者とか異端者と呼び、また悪魔にとりつかれていると言って非難するでしょう。これらは二千年前、イエス様に対してなしたと同じ罪であります。 しかしながら、イエス様は十字架にかかるために再び来られるのではありません。彼は栄光の主として来られるのです。この世を審判し、善と悪を分け、神の国を創るために来られるのです。神の義が地上に広がるようにされるのです。ルカ福音書十七章二十六節、二十七節を読んでみますと、

 「そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした」

 これが人の子の時のあらましです。そして、これは主が肉身をもって人の子として来られる時おこるのです。 一人の人間として、来臨されるイエス様は天国を唱えるでしょう。しかし、誰も耳を傾けはしないでしょう。きっと彼を笑いあざけり、あらゆる悪いことをやるでしょう。そうして主が審判の座にひきあげられるまで、この世は、その常のごとく肉欲的なもの――食い、飲み、めとりなどを続けるのです。世が彼を審き主としてみとめる時はもう遅すぎるのです。箱舟は閉まり、審きがまさに始まらんとしているでしょう。 さあ、イエス様が言われているこの一節を聞いて下さい。

 「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいて下さるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ十八章八節)

 イエス様は、キリストがもどられた時地上に信仰があるかどうか問われました。何故でしょうか?歴史は繰り返すかも知れません。二千年前、十字架イスラエルには、すさまじい程の信仰がありました。彼らは朝に昼に夜にユダヤ教会で祈りをささげました。彼等は絶えず経典を読み、えりにそれをしるし毎日暗唱していたのです。又、彼等は十戒を守り、あらゆる律法に従いました。農作物の十分の一をささげ、断食に断食を重ねました。それでも、神の子が現われた時彼をみとめることができず、十字架につけてしまったのです。イエス様は信仰を見たでしょうか?イエス・キリストの目には、地上に全く信仰が見られなかったのです。 ですから、彼が再び肉身をもった人の子として現われる時、地上に信仰が見られないかもしれません。何百万ものクリスチャンや何千万もの教会は、人の子の到来を決して見ないかもしれません。なぜなら主が肉身を持ってこられるからです。 では、最後にマタイ七章二十二節、二十三節を読んでみましょう。

 「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い事し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」

 これはどういうことでしょうか。何故これらの主の名を尋ねる献身的なクリスチャンが悪を行なうとして非難されるべきなのでしょうか。どんな悪事を犯したというのでさょうか。歴史を通して、多くの重大な罪が神の名のもとに犯されてきました。それは生命の創造主を殺そうとたくらんだ祭司であり、長老でありました。彼等はそれを神の名においてやったのです。 キリストがもう一度肉身を伴った人の子として来られる時、まず第一に、彼は二千年前来られた時と同じようにあつかわれるでしょう。しかし彼は十字架をくり返すために来られるのではありません。この時は、神の力が明らかに現われるでしょう。再臨の主は本当に審きの場につかれ、審き主として審判されるでしょう。 彼がその座にひきあげられる時誰もが彼を見るでしょう。彼が誰であるか、、誰でも間違いなく、はっきり知るでしょう。そしてすでにそのお方を非難したり、拒絶したりした人達はそのお方になした悪事のために泣き叫び、深く悲しむようになるでしょう。しかし、その時はもう遅いのです。主は彼らにこう言われるでしょう。「あなた方を全く知らない。不法を働く者どもよ行ってしまえ」 主は来られます。そして主は、人として来られるのです。そのうえ神の力と栄光を持って来られるのです。そしてこの世を審判されるのです。柔和な者達だけが祝福されるでしょう。ごう慢な者達は消すことのできない火を見ることでしょう。 

  神の目的は成就される

 第一のアダムとエバ : 御存知のように神は創造の初めから、地上の天国を最初のアダムとアダムと共に造る計画でした。彼等がもし神に対して本当に従順であったなら、彼等は完成し、また神は彼等に天的な結婚をもたらし、神の意志のごとく地上に最初の家庭を造られたでしょう。この家庭は地上天国の基いとなり、アダムとエバは人類の真の父、真の母となられたでしょう。エデンの園というのは、そういう国の象徴的表現であります。そして、この世は神の喜びの世界になったでありましょう。 このとどまりは、子羊の婚宴の話として、黙示録に預言されています。再臨の主はその子羊であり、その完全なるであり、その完全なるアダムであります。主は完全なるアダムとして来られるのです。そして彼は完全なエバを復帰されるのです。それから彼らはひきあげられ、人類の真の父母となられるのです。そしてついに、神の喜びは完壁なるものとなるのです。 
 第二のアダムとエバ : しかし第一のアダムとエバは失敗してしまいました。しかし神の理想は変わりませんでした。神は初めに計画されたように神の国を実現し、喜びの世界を創ろうと決心されました。そして、聖書の歴史で四千年後に、神はもう一人の完全なアダムを通じて地上の神の国を復帰しようと計画されたのです。イエス・キリストがその完全なアダムであります。聖書のコリント人第一の手紙十五章四〇五節には、イエスは「最後のアダム」、すなわち第二のアダムであるとあります。彼は失敗した最後のアダムのかわりに二千年前に、完全なアダムとして来られたのです。 アダムだけの復帰では、神の国は出来ません。花嫁であり、母親である第二のエバがいなくてはなりません。ですから神は、この第二の完全なるアダムであるイエス・キリストに彼の嫁となる人、完全なるエバを復帰する予定でありました。これがエデンの園失われた第一の家庭の復帰でありました。

 第三のアダムとエバ : しかしながらイスラエル選民の反逆のために、これは達成できませんでした。それにもかかわらず神は御自身の意志を成就することを決心されたです。そうしてキリストの再来を約束されたのです。 イエス様がなくなられてから、約二千年が経ちました。そして、今、神はもう一度、第三のアダムの立場で神の息子を送られたのです。歴史を通して、神は常に三度目でその目的を果して来られました。教字の(三)が完成の数であるというのは本当です。この時、神は完全なるアダムとエバに天的な結婚をあげさせて、神の長い間の理想を確実に成就され、地上の天国の基いを敷かれるのです。 十字架にかけられる少し前、イエス様はペテロにこう言われました。 「わたしはあなたに天国の鍵を授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは、天でも解かれるであろう」(マタイ十六章十九節) この地上で失敗したのです。罪はこの地上で犯されたのです。ですからそれは、この地上で償われ根絶やしにされなければならません。イエス様は私達にこう祈るよう言われました。 「み国が来ますように。みこころが天に行われ通り、地にも行われますように」 

  地上に天国実現

 地上が問題なのです。それが何故キリストが地上に帰って来られなければならないかの理由であります。 世の終りが来る時、神はすべてを破壊され、日は暗くなり、星は落ち、わずかひと握りのクリスチャン達が空中に引き上げられ、キリストと共に至福千年を迎えるということを多くのクリスチャンは信じております。 しかし、もし神がそうされるなら神は失敗の神になってしまいます。というのは神の本来のみこころが、この地上において決してなされないからであります。サタンのためにこの地上を見捨てることになるからであります。それではサタンは事実上の勝利者となってしまって神は敗者になってしまうからです。そのようなことは決して起らないでしょう。神の国はそう計られた故、成るのです。このニユーヨークもまた神の国となりましょう。もしあなた方がメシヤのおとずれを見るなら、あなた方は神の国の住民となれるでしょう。彼はあなたの希望であり私の希望であり、アメリカそしてこの世界の唯一の希望なのであります。 しかし、もし私達が彼を見ることが出来なかったら、その時キリスト教にはもはや希望がなくなるでしょう。キリスト教は衰えるでしょう。その神霊の火は消えてしまうでしぺう。教会は古い遺物の墓と化してしまうでしょう。その時には、この世は暗い運命を持つようになるのです。 皆様、今夜私は神の命令によって、ここマディソン・スクェア・ガーデンに来ました。聖書の使徒行伝二章十七節にはこうあります。 「神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたの息子娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」 私達は、新しい時代の誕生というとてつもない時代に今生きているのです。天国は非常に近づいております。そしてもしあなた方が熱心に神に求めるなら神はあなた方に答えてくれるでしょう。ただちに神にたずねなければなりません。「文師が、真実を語っているかどうか、どうしたらわかるでしょうか?」どうか私や誰か他の人にその答を聞かずに、神が直接あなたに答えるようにして下さい。心静かに、そして神に熱心に、心を込めてたずねて下さい。祈りの中で神と対決して下さい。神は答えられるはずです。 人類にとって新しい希望は、メシヤであります。主の大いなる、かつ恐しい日はすぐそこに近づいているのです。その日が素晴らしい日か恐しい日かは、あなた方次第です。もしあなた方が救い主に会うなら、あなた方にとってその日は素晴らしい日となるでしょう。しかしもし、救い主に会うなら、あなた方にとってその日は本当に恐るべき日となりましょう。 神の祝福がありますように。御静聴ありがとうございました。カンサハムニダ!ありがとう。そしてよき晩でありますように。




















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