御旨と世界
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私自身

1975年7月13日 ニューヨーク ベルベディア


◆歴史の結実体としての「私」

 今の私たち個々人の存在というものは、私たちの二十年、三十年の過去の結果だけというものではありません。人類始祖アダム、エバから、ずーっとつながっているのです。川で例えるならば、急流とか、広々とした川のゆるやかな、とうとうとした流れとか、滝とか、カーブとか様々の状態、様相があります。そのような流れの一場面に当たるのが、今の私たち一人一人の存在であるということができるでしょう。

 君たちの先祖には、いい先祖、あるいは悪い先祖があるでしょう。とんでもない結婚とかいう因縁で、ゆるやかに、一方向に流れていた川の流れが、まあ強い奥さんをもらうことによって、横になってしまうということもある。またある時には、とんでもない因縁で、渦巻いてしまうという現象が起こる時もあるでしょう。そういうふうに考えてみた場合には、君たちは、その流れの一つの場面に現れた、一つの現象として考えることもできるでしょう。

◆個性真理体としての「私」

 そこで、私たちの先祖をずーっと、眺めてみましょう。ここには、今、白色人種、あるいはニグロとか、黄色人種とかみんな集っていますね。今の時点から見た場合、あるいは白色人種であり、ニグロであり、あるいは黄色人種です。三色人種が集っていますが、ずーっとさかのぼってみれば、みんな一つの先祖から生まれているのです。これは、一つの先祖からずーっと分かれてきた、その結果なのです。人類は一つの先祖から歴史を通して分かれに分かれてきましたが、それが続いた場合には、一つになるのはいつなのでしょうか?

 それが問題です。

 分かれに分かれてきたその結果を考えて見る場合、そこには、いろいろな歴史過程があったのです。戦争とか、あるいは文化の交流とか、そういう、いろいろな歴史的な事件があったのです。そのような中で、特に宗教は、分裂したものを一つにするようなことをなしてきたのです。宗教は歴史的に偉大なことをなしてきたと思います。いくら人種が違っても、あるいは環境の、生活の背後関係、あるいは風俗が違っても、宗教的儀式、あるいは目的が一つであるゆえに、それを克服することを、難なくできたということを知っているのです。宗教の中で、特にキリスト教を中心として、各宗派が数百派に分かれに分かれています。その各宗派は、神の国の建設を目的として進んできました。

 ところがその背後関係は、いろいろと複雑な内容を抱いてきたのです。そういう中で、一つの統一という名前でもって、各キリスト教、宗派が一つになりましょう。あるいは人種的、白色人種とか、黄色人種あるいはニグロとか、そういう人種の差別圏を乗り越えて、一つになりましょう、というような運動を打ち立て得るのが統一教会であります。そういう立場から見た場合に、いったい、統一教会は、この世界の入り混った流れの中で、入り混った血統的背後関係、因縁を、ずーっと、総合的に考えて見た場合に、どういうようなことをなして、どういう方向に行ったものが統一教会か、ということ、それが問題なのです。

 川を見てみましょう。川が大きければ、大きいほど、その流れが段々ゆるやかになり、海に入っていくのを、私たちは知っています。結局、大きければ、大きいほど、その流れが急激であったなら、いろいろな副作用が起こりやすいのです。その流れは、下流を通って海の中に入るのです。海を見てみましょう。海自体を見ても、流れているのです。大概の人は、海に入れば水はみんな一つになって、静かに止まってしまうと思っています。しかし川の流れよりもっと急激な流れをなしているのです。そのことを一般の人は、すぐには感じないんですね。

 私たち、地上に住んでいる自分という存在を考えてみた場合、流れが海に入れば、それでおしまいというのが、一般の人間の考えであります。君たちの生涯を考えてみた場合にも、一つの川と例えた場合、川の流れが、ある海に着いた場合、海でストップするのではなく、海からまた新しい方向の流れに従うといように、私たちの肉身生活ばかりでなく、霊界があるということを、私たちは分かりました。

 そういうふうに考えてみた場合、私たち個人というものは、あるいは天から落ちた一粒の水滴であると例えることができます。それが、相合わせて、だんだん大きくなって川になって、あるいは国になって、あるいは世界の流れとなって、大洋に向かっていくのです。このように、人間の一生は航路であると思う時、自分という存在が不思議なものである。川の流れが、どの沃地から流れてきたかということによって、水のいろいろな内的要素が変わってくる。そのいろいろな要素が入り混って、一つの川になって、そういう川が大洋になる。そしてたくさんの川が入り混ってその流れになる。

 そのように考えてみた場合、いったい自分という存在は、大洋とか、大きな川から比べてみた場合、何でもないんだけれども、しかし、その何でもないような自分というものは、大洋を無視しても、その川の流れを無視しても、自分なりの個性をもちたいのが、私たち人間なのです。私たち人間は、自分という存在を正してみた場合、自分があるものに吸収されるよりは、あるものを吸収したい。あるものの比較の中心になりたい、比較されるそういう存在でなくして、比較の中心体となりたいというのが人間の考えであります。

◆純粋な人間とは

 君たちは、ああ、あの人はいい、あの人は悪いという。あるいはこの場所はいいとか、あの場所は悪いとか、あの国がいいとか、あの国が悪いと判断するのは、結局、神を中心として判断するのではないのです。その国だったら、その国を中心として、あるいは友達を判断する時、自分を中心として、大体は判断することが多いというのです。

 私たち個人を見た場合、我に国家があります。国家があり、そして二十四時間活動しておりますが、それは何のために活動しているかというと、自分を守るためです。結局、自分のためにすべてが動いているんですね。考えるのも、自分から考えを始めるんです。自分からね。そうした場合には、自分を主張したい、自分を中心的に立たせたい。その自分たる者は、いったい何者か。どういうものか、私たちははっきり、再びこれを反省し、究明しなければならない。

 水で例えた場合、水は塩からい水が本当の水なの?

 割合から考えたら、海は地球の四分の三になるでしょう。地球上の水の大部分が塩水じゃないの。君たちはどうなの?

 塩からい水なの、純粋な水なの?

 それを考えてみた場合、純粋な水というのが問題である。川が流れている。その川から水をくんできてみた場合、それは純粋な水なの?

 純粋なように見えるけれども、純粋な水ではありません。川からコップ一杯の水をくんできて、分析してみた場合、みんな違う。場所によってみんな違う。例えてみれば、ベリータウンのコップの水と、テリータウンのコップの水は同じではない。素人から見たら、それはベリータウンの水も、テリータウンの水も同じじゃないかと思うでしょう。しかし専門的に分析し、比較してみた場合、これはまるっきり違う。

 そういうふうに考えてみた時に、私たち人間は、川の流れとか、海の流れの現象の一部分、一分子であるといえます。結局、コップにくんできた一杯の水と思った場合、そのコップが数千、数万みんな違うと同じように、私たち人間の個性もみんな違っている。そのように考えたなら、いったい自分というものは、どんなものやというなかなか難かしい問題に返るのであります。

 そうして、あなた方に、自分が純粋な水と同じような人間として、自分は純粋な者だと主張し得る者があるかと聞いてみた場合、まあ今は黙っているであろう。いったい自分は正しい者であるか、純粋な者であるかと自分から考えてみた場合、普通から見ても、何も自分は間違っていない、自分は正しい者だと、このように考える。自分は間違いない、純粋な者だという人を、今から問題にしなければなりません。

 いったい、純粋な者とは何であるか。何を中心としてこれを決めるか。それは、すべてのものは、それ以上変えるということができないという限界をもっているんだね。君たちも知っているように、水も純粋な水はで、それは、いくらやってもそれしかなりません。いくらやってもね。春だからと、夏だからと、秋だからと、冬だからと違うんではありません。だから、それ以上分けることもできなければ、圧力をかけても、どんなにしても変えることができない。そういう基準を中心として、純粋ということを話してみたいと思います。

 真のもの、真理なるものというのは、その基準において、初めて生まれてくるのであります。そうでなければ、それはある基準の比較の中心点になることはできません。君たちはそうした場合、水はだからすぐ分かるが、人間は何で分かるか。いったい何じゃあ。何が純粋なものだー。これが問題だ。純粋な人間を探りだす。その原則は、何を中心として決めていかねばならないか。変わらないものでなければならない、という結論が出るのです。それは、私たち人間の場合はいったい何か。

 例えば、金といえば、大変なものだ。みんな好みます。アメリカの歴史を見た場合、西部に向かって、金の鉱山に向かってみんな大移動をなしたように、金はみんな好みます。君たちも金を好むの?

 みんな好むでしょう。なぜ好むのか考えてみた場合、それには変わらないものがある。固さはもろいんだね。だが色において何千年、何万年たっても変わらない。色において絶対不変である。だから金は、そこにおいて価値がある。金の特性というのは、変わらない色をもっているということです。それで、金は私たちの宝物として扱われるのです。

 それから君たちは、ダイヤモンドを好むね。ダイヤモンドね。特に女性はね。いったいダイヤモンドは、なぜ人間たちのあこがれの対象となっているのか。それは固さにおいて、誰もこれは侵害したり、侵入したりすることができない。侵すことができない。まあ、普通の岩も、鉄とかも風化作用によって変っていくんだけれども、ダイヤモンドは、そういう風化作用を受けない。ダイヤモンドが貴いというのは、宝としてあずかるのは、その固さにおいてである。

 それから君たちは、真珠を好むんだね。真珠ね。その真珠は何で宝として、人間に好まれるのか。それは柔和な、何か、みんなに好かれるような柔和な色をもっている。そのように見た場合、その色は真珠であればこそ、何年たっても変わらない。そういうふうに見た場合、貴いとか、価値あるとか、貴重なものであればあるほど、第一の条件とすべきことは、変わらないということです。それは、誰かが外部から、どんなに力を加えても懐れない。変えることができない。侵害を受けないのです。

 今説明したものは、私たちの生活の外的な環境のものです。また前にも、純粋な水は変わらない基準をもったものであるということを説明しましたが、これらと同じように私たち人間も、価値あるもの、あるいは正しい、あるいは絶対的な人間の基準を、変わらないということの中に満たすことができます。

◆その出発点は神から

 そのように考えてみた場合、君たちはどういう存在であるや。変わるものや、変わらない者や?

 変わる自分であるということが今、分かりました。変わる自分を中心として、変わる自分を主体として考えることが、正しいことか、悪いことか。君たちは変わる者だ。じゃアメリカはどうか。アメリカ自体はどうか。アメリカは変わるものか、否か?

 あるいは人類自体は、あるいは人類の歴史はどうか。世界はどうか。

 理想とか、永遠とかそういう分野は、どこに生まれてくるか。このアメリカの中から生まれてくるの?

 このアメリカの中に希望があるの?

 君たちの中から、この目から、あるいは五官から、そういう国が生まれてくると思うの。君たちの少年時代から、青年時代からそして今のように統一教会の素晴らしいメンバーになった、このような過去、あるいは現在を批判検討し、あるいは未来はどうなるべきかと分析してみたらよい結果が出てくるでしょう。

 では、分析してみて、変わるものはみんな取り除いて、変わらないものを残してみよう。まあ、そういうふうに考えてみた場合、私たち人間は、肉心と良心二つがあるというんだね。その二つの部分を、まず私たちが観察してみた場合、その中でも、変わらないもののほうに属するものは、どちらであるかと考えてみた場合、肉心よりも良心である。より内的問題に関するほうである。変わるものと、変わらないものをそういう内外的立場から見た場合、変わらないものは、より奥底にあるのです。内的な、内面的なということは、みなそういう意味なのです。

 真なる人間の価値、正しい人間の価値、本来の歴史的中心になるべき人間、あるいは宇宙完成の中心的立場に立つべき人間が、どこから始まるのでしょう。外的に表れた、歴史の表面から、それは生まれてくるはずがありません。そうしたら、歴史を戻って、その基準はいったいどこか、探してみましょう。そう考えると、私たち人間の理想的存在圏が、未来に表れてくると考えるのは間違っている。

 だから、本当に純粋な人間の本性、あるいは本来の人間を探していくには、現在の立場から前に進むということではなくて、逆に現在の立場からさかのぼっていくことです。それを認めるの?

 それで、ここで結論的にいうならば、人間が理想的な世界へ立ち帰るには、まずもって本来の基本的立場に帰れということです。本来の純粋な人間の価値なる存在を探してから、未来の世界にいくことを誰でも歓迎します。それを探さないで、未来にいくら大声で叫んだとしても、誰も歓迎しません。それで結論としては、理想的人間に向かって進むよりは、神に帰れという結論がここに下されるのであります。だから神に帰れ!というような、神に帰らなければ、人間は正しいことを生み出すことができない、という結論になるのであります。

 いくら未来に向かって人類が進んでいったって、そこにおいては、純粋なる本来の価値ある人間を生み出すことはできません。だから世の中で、こういう観点から見た場合に、歴史過程において、この世の中において、神に帰れ、現在を否定して、回れ右せいというような信仰を訴え、そういうような内容で主張したのが、いわゆる宗教です。歴史はこの一点を中心として、神に帰る努力をしたのです。

◆蕩減復帰の道を歩む「私」

 そうすると、神に帰るために、どういう段階を通って帰るかということが問題になってきます。(黒板で説明)こういうふうに上ればいいか、こういいふうに行けばいいか。こういうふうに行くのは、これは不可能である。しかしこういうふうに行くのは可能である。だから、この方向が良いと。ある人はこちらからこう行く、こう上ってみた。しかしふさがってしまった。それでこちらから戻ってみて……。こういうことを歴史過程において、人類は数多く繰り返してきた。宗教あるいは宗教の開祖が(テープ接続のため中断)

 みんな利口だから、早く行く道を選ぶだろう。このように、あるいは宗教観から見た場合、あるいは個人的、あるいは氏族的宗教観、あるいは国家的宗教観、あるいは世界的宗教観があるとしても、根本基準から考えてみた場合、この基準を主張して出る宗教でなければ、我々本来行くべき道を探し出すことはできないというのであります。今までの宗教は漠然として、神に帰る、みんな神に帰っていると言っていますが、そうはいきません。だから神に帰るには、一番基準とすべきところはどこかというと、人間は間違っている、純粋な人間になっていないということです。間違っていないその基準は、人間自体が生活する以前に満たす以外にない。ここにおいて数多くある宗教世界において、我々統一教会ばかりが変わっているというその基準は何かというと、本来堕落しなかったアダム、エバの立場に帰れ、とそれを主張しているのであります。純粋な基準はここにありそうです。

 アダム、エバの堕落しない前に帰れという主張は、これは最も歴史的な発見として重要な点を指摘している。アダム、エバは堕落の先祖であった。罪を犯しているから純粋な先祖ではない。だから堕落性を越えていこう。統一教会が、世界中の数多くの宗教界で、初めてこういうことを指摘して勝利したのです。黒板に書いておきますか? (はい) 。

 そもそも、純粋なる人間とはいったいどういう者か。変わらない者であるけれども、自分一人でいるのではなくして、神と共にあって変わらない者である。この基準が変わらない本来の人間である。そこまで帰ってきた。

 さて、君たちは変わる者だ。今まで、もう、始終変わってきた。統一教会を信じて、自分が統一教会の思想に一致して、自分がもうこれ以上の真理がない、自分はもうこの基準において、すべてが変わっても、自分は変わることがないという基準が問題になってきました。どうです?

 変わるの、変わらないの?

 ああ、統一教会よりも共産主義のほうがいいんじゃないの?

 ああ、どこどこの民主主義のほうが、いかなる宗教よりもいいんじゃないの?

 他の宗教ほうが、統一教会よりもいいかもしれない、と行ったり、来たりするような。それ鑑定してみましたか?

 まず、統一教会が世界を救う、あるいは神のもとに帰るような、その基準を満たすには、統一教会の真理が漂う我は、絶対変わりません。それは個人的環境から、生涯的基準において、変わらない決意を完全になせるようになったならば、その中から、その基準から希望、あるいは純粋な人間、純粋なる人生の道を見いだせる可能性があるのであって、それが見いだせない場合は、それは絶対不可能です。

 君たちは、先生は昨年も一生懸命、国のために尽くせと言ったのに、今年はもっと、世界のために尽くせと、もうだんだん大きくなるばかりだ、と思うでしょう。本来の価値ある人間に帰るのに、一昼夜かかって帰ったほうがいいか、それとも三カ月かかって帰ったほうがいいか。速さでいえばどれだけ速いか。考えてみたら、数千年の歴史をかけたものを、一日で通るというとどれだけ速い?

 どちらを選ぶの?

 もっと速いほうを選ぶだろう。それは君たちの願いです。押す力が強くなると、それはもっと速くなるんだね。空気は何もないんだけど、速く行ったら邪魔になります。どうなるの?

 君たち知っている?

 人工衛星なんかは、無重力圏から重力圏に入る場合、摩擦によって光る。だから速く行くには、邪魔が多い。では統一教会は速く行く教会なの、遅く行く教会なの?

 それで速いと、音がないのだね。それから光る。君たちは融けてしまうような思いがするでしょう。こんなこともやれるか。こんなこともあるか。もうおしまいじゃないかと。しかし、くぐり抜けていかなければ、とんでもないことになる。それをまずもって考えねばならない。先生は復帰は速く、復帰は速くと考える。

 だから、こうなぐられた場合、痛いと感じない。なぐれ、一度でおしまいだ。一度なぐられた場合と、三度続けてなぐられた場合、一遍のスピードだよ。それは、最も理想的だよ。そういうことはあるんだよ。どうせ蕩減の道行くのだから、速く行く、速く行くんだよ。それは一番神様も願うことであるし、先生も願うんだよ。君たちも願うだろう。君たちは願わないの。神が願うことは、先生も願うんだ。だから、歴史の中でそういうふうに蕩減していく。これを統一教会では蕩減復帰という。

◆天国建設に責任をもとう

 こういう現象を横的に展開していくと、(黒板で説明)横的に統一教会を……。それで、今までこういう歴史を、ずーっと考えてみると、個人から、家庭、氏族、民族、国家、世界と発展してできてきた我々は、歴史の始めから、逆にこういう現象をつくっていく。逆にする。だから、今の時代が一番うるさい時だ。そういうことを我々は目標として、できれば、この基準をだんだん下げていこう。そうすると、天国が地上に来るんだね。この点が、これが天国だ。天国が地上に来る。完全に地上天国だ。

 そうするにはどうする。一人が世界のすべての罪、多くの世界が犯した罪、あるいは一国が犯した罪、あるいは氏族が犯した罪、全家族が犯した罪、全個人が犯した罪、すべてを自分が責任をもつんだ。こういう人間が必要だ。そういう考え方をする? (はい) 。天国を地上に引き下げてしまう。そうすると、この中の蕩減は、私だけで、みんな一人で、引き受けてしまう。

 そういう自信を君たちもっているの? (はい) 。全員イエス?

 (イエス)。そうだったら、いくら迫害があっても、ドンと行くんだね。どんなふうにくるか。ぶつかってくるか。あるいは飛んでくるか。どんなふうに迫害がきても、私はビクともしない。みんなそうなっているの。

 君たち空手やる?

 空手をやる時には、ブロックなんかをサァーッと割っちゃうでしょう。あれは精神力だ。何かが飛んできても、カァーッと割れてしまうんだ。「ああ、恐ろしい」と敵に後ろを向けて逃げたら駄目だ。先生がアメリカまで来るまでには、戦いだった。個人から反対する者、家庭から反対する者、国も反対した。みんな反対する。ここまでいった。またアメリカが反対しているんだね。アメリカのマスコミが全部総動員して、レバレンド・ムーンを攻撃しても、反対してもビクともしない。もしアメリカの国が反対しても、ビクともしない。いくら牢屋に入っても、ビクともしない。そういう決意をもってやってきた。そういう決意が、アメリカを救う。君たちが、そういう決意をもっていなければ、アメリカは滅びてしまう。君たちそういうふうになっているの? (はい) 。ちょっと不利だったら逃げていくんじゃない? (いいえ) 。

 君たちはアメリカ人である。先生は韓国人である。アメリカ人はアメリカを守れ。先生よりも強くなれ。それは正しい教えである。私より強くなれ!

 先生は強い者をつくるんだ。そうなったら、アメリカは統一教会を中心として、アメリカが優秀な先導国となるのだ。もし日本人がアメリカ人より、もっと強くなったら、日本人に支配されるよ。力の世界の基準がそういうふうになっているよ。

 今、統一教会は、アメリカにおいては、救うには何でもないような、微々たる力です。でもだんだん時がたつに従って、いかなる団体、いかなる多くの人々にも、できないようなことをやるであろう。さあどうだ。君たちそれを信じるの? (はい) 。信じるどころではない。死ななきゃならない。死ななきゃ。これを絵で説明しよう。(黒板で説明)

 神の国よ下がれ、下がれ。アメリカも切ってしまえ。ここにおれない者は逃げてしまえ。共産革命で逃げてしまえ。君たちがそういう決意をもっていたら、共産党とかサタンなんか、みんな逃げてしまうよ。そういう決意を君たちもっているの? (はい) 。そうしたら、この基準を中心として、こちらがなくなってしまう。この基準だね。このようになるんだね。この国がなくなってしまう。この基準を下げて、ここまできた場合、こうなるんだ。永遠に、地上にサタン世界がないんだね。ここは何だ?

 地上天国なんだよ。地上天国は、こうしてできる。誰の力によって?

◆すべての価値決定は神から

 話を元に戻して、私という純粋な者をどこで探るか、という問題を結論づけなければならない。まずもって、この統一教会の真理が、唯一の真理であるというその自信をもたねばならない。それから、変わらない、天然、霊界も、地界も、あるいは歴史を通しても、永遠に変わらない真理である。誰も、国も変えることができなければ、世界も変えることができない。神様も変えることができない。先生自体もね。この真理によって、従っていく道であるというんだね。だから変わらない。過去、現在、未来において変わらないという真理であるとするならば、この真理は、人間本来が願う、理想的な価値をもっているに違いない。

 この真理によって、一つになった人々が、国を越えて、世界を越えて一つになる。ここにおいてはみな一つだ。みな兄弟だ。そこには白人もなければ、ニグロもなく、黄色人もない。考えてみると、ニグロと言ったって、顔だけ違うんであって、みんな同じです。骨も同じだし、肉も同じだし、血も同じだし、心も同じです。顔が少しだけ違うだけなんです。それは気候的に、地域的に変わっているんであって。それは仕方がない。気候とね。環境によって違ってくるだけです。

 例を挙げればね。松の木を見てみよう。極寒地帯から、ずっと温帯圏にいけば、種類がだんだん違ってくる。松の木の生えている地域的変化によって、だんだんと、それが出発した基準と、歴史を通して種類が違ってくる。あるいは熊を見てみよう。北極の熊は白熊だ。白くなければならない。環境からね。保護色なんだから、白人種は何であるかというと、北極の白熊であり、黒人種は暑い所の、温帯地帯の熊である。それだけだ。

 それが、黒熊と白熊がいた場合、ああ、君は白熊だ、ああ、君は黒熊だから、ここで一緒にできないと、そんなこと言えるの。もしも西洋人が、白色人種が、そのような思想をもっていた場合、黄色人種と黒色人種にやられてしまう。数からも。やられてしまう。その白色人種は、三分の一にもならないよ。共産主義なるものが、猛威をふるっているこの時代にあって、そういう考えをもっていると、それはめった打ちにされるよ。だから、そういう考えは、もう過ぎ去った考えである。そういう問題がある。

 だから、こういう基準において一つになる。それで統一教会は、結婚式も国際的にやる。ああ、アメリカ人と東洋人が結婚する。ああレバレンド・ムーンは悪魔であると。それは悪魔じゃないよ。人種を越えて、愛し合う姿、それは歴史にない美しさだよ。それが、そうできないから問題なのであってね。それは最も美しい。

 こういう主張は、先生が死んでも、死んだのち、今から十年、二十年、三十年後には必ず、こういう主張を訴える世界的思想がなければ、人類は滅びてしまう。神においては、神様においては、みんな兄弟である。神様の前には、一つになれないはずがない。アメリカの建国の精神は“One Nation Under God”これは素晴らしい精神だ。まさしく、そのようになってきている。そう考えてみた場合、我々統一面会は変わらない。結局変わらない。我々民族的調和をなしたその基準は、誰でも引き付ける。

 いくら反対したって、ビクともしない。まあ、そういうように、変わらない。絶対変わらない統一教会は、世界復帰のために統一教会文鮮明先生がやってきたと同じように、そのあとを貫いていく者は、みんな同じ形でいく。それは変わらない。君たちそうなの? (はい) 。

 まあ、そうなった場合、ここに集った者は、世界的に違う者だね。君たちの一生涯を考えてみな。いつも変わる。朝に変わり、夜に変わり、若い時に変わり、老人になって変わる。行ったり、来たりするそういう人間であってはいけない。変わらない人間が集って、氏族、民族、国家ができる。

 まさしく、君たちそういう気持ちになっているの? (はい) 。もしも「イエス」となっているなら「ああ、わしを信ぜ」と言える。そして「自分を愛せ」と言える。信じることができる。愛することができる。そして共に生活したい。そういうふうにして、初めて幸福になる。君たちの願いは何か。信じてもらいたい。それから何か。愛してもらいたい。そして、自分と共に生きたい。そうしたら幸福になれる。これに間違いない。このことに間違いない。

 万民と共に、国を越えて、そういうふうになるとともに、神様が自分を信じてくださり、神様が自分を愛し、神様が自分と共にいる、神様と共に生きるから幸福である。それ以外にないんだね。君たちはみんな幸福になりたいでしょう? (はい) 。幸福になるには、まず信じてくれるパートナーが必要です。心情が、朝に変わり、夕に変わり、きのうは信じたが、きょうは変わる。若い時は信じたが、また変わる。永遠に変わらずに信じ合う。そういう信じられる人から、愛される。永遠に愛される。それは愛してから、離れて、逃げていくんじゃなくて、永遠に共に生きるんだね。この三つを備えて、生涯をかけていく者が、幸福な人間である。真の人間である。

 だから女の子に尋ねてみると、どういうような夫が良いか。永遠に変わらず信じてくれる、そういう夫が良い。そうでしょう。それ以外にない。男はどうだ。男もそうです。神もそうである。神も、そういう人を願うから、その神の願う相対者として、信じられ、愛され、生きられるそういう者だったら、それ以上純粋な人間はありません。そういう男、女が共に神様を信じてくれるね。神様を信じてくれた時、神様が、ああ、まさしくありがとうと言うような人。また、人間同士、お互いに信じ合い、愛し合っている姿を見て、神様は、ああ、私の願ったような立場で、愛してくれる者だと見た場合、神様が共に生きたいと思う人。そういう立場に立った者こそ、責任ある人間になることができる。

 幸福な個人は、信じてくれる、愛してくれる、共に生きる人。そして、そのような相対者同士、夫婦が共に信じ合い、愛し合い、共に生きたいと願う状態、神様と共にいる。氏族を中心としてみた場合、氏族が幸福になるには、氏族同士が信じ合い、愛し合い、共に生きたいと願うことです。民族も、国家も、世界も同じことである。

 国の主権者においては、例えばアメリカの大統領であるならば、国家が信じる、国民が愛する、国民が共に生きたい、それが理想なんだね。世界中、神様を中心に考えた場合も同じですね。神様も、結局同じだ。世界中の人々が、神様を信じ、愛し、共に生きる。だから我々は、正しい人、純粋な人は、何によって決定するか。信じる、間違いなく信じる人、愛する人、共に生きたい人、それは何によってなされるか。それは結局、神によってなされる。

◆復帰は信じ愛すること

 神が人間を創造した目的は何か、というと神が信じてやりたい、そういう変わらない人間だと、神が信じてやりたいと、人間がいくら変わっても、歴史を越えて、その基準を維持してこられたのが、神様である。さあ君たちは信じることのできない者でも、信じてやる。騙されても信じてやる。それが神様である。愛してやる、共に住みたがる。お父さんもそうだよ。父母がそうでしょう。信じられない者を信じてやる。その基準において、変わらない純粋な人間、そのような人にならないといけないということを我々は知っております。本当の人、真の人はその基準において、一致したところにおいて、満たすことができるのではないか。そういう人同士、信じ合う、愛し合う、共に生き合う、その世界が地上天国である。天国の世界である。君たちもそうでしょう。神様みたいな人を、旦那さんに、奥さんにと願うでしょう。それは同じである。

 信じられない者を信じてやるし、愛されない者を愛してやるし、それは自分と共に住めないような者であっても、住みたがる。そのような思いが、変わらないでいくならば、必ずその人間は、そういうところを見合った場合は、感動して、再び帰る道があるから、神様は、今まで復帰の道をたどってきているというんです。イエス様が、聖人と言われるようになったのも、怨讐たちまでも祝福していった、愛していったということが、神様と世界中の人々を感動させたからです。共に住みたがる、共に信じたがる、そういう思いでいたのです。だから、イエス様は、歴史を動かしました。

 聖書六十六巻、たくさんのことが書かれていますが、すべて総合すれば、信じることを、愛することを、共に生きなさい、とそれ以外にありません。では我々統一教会において、どちらがもっと純粋で、信ずべき人かと言うと、そうした場合、神様みたいに、それは信じられない立場にあっても、信じてやる、愛されないような立場であっても、愛してやる、共に住むことができないような立場であっても、住んでやるというようなことを、続ける人ならば、必ず、その環境において、その人は勝利する。

◆東洋と西洋を一つに

 私はアメリカにおいて、いろいろと体験したことが多い。アメリカ人は、統一教会を信じていって、それからずーっと一生懸命働いた者たちが、それが去っていく時に挨拶もしないで、すーっと逃げて行く。少し変わっているね。そして東洋人と違うのは、出た者が再び教会に帰ってくるのが少ない。東洋人はそうじゃない。帰ってくる者が多いんだね。それは教育制度が、そうであったからということもあろうけれども、摂理路程が、非常に大きくなればなるほど、もっと厳しい訓練をしなければならないのが、アメリカ人ではないか。

 みんな自分を中心として、自由主義、個人主義を主張している。みんながそれぞれ自分を主張しているから、めちゃめちゃだ。しかし、東洋思想はそうじゃないんだね。みんな中心を重んじるんだね。中心を重んじて、自分は相対的立場に立つんだね。アメリカのような教育の方式は開拓時代にはよいが、統一したら難しいのではないか。開拓した今は。今は世界開拓という時代は、過ぎ去っている。いかに一つになるかという問題、こういう時代に入ってきている。

 まあ、そういう方面から見た場合、我々統一思想が西洋文明圏において、絶対必要なのではないかと思います。こういう組み合わせで、世界に向けて動き出している。あるいは国に向けて動きだしているということは、これは素晴らしいことである。

 それは、神が公平だからだと思う。アメリカは物的、あるいは物質文明の外的基準において、神から祝福された。だからその外的基準から内的基準に急激に変わることは、難しい。東洋は、物質文明基準ではなく、精神的な方面を重んじるんです。統一教会に入るに、スムーズに入る。無理がないんです。西洋は、外的基準を祝福されたから、内的基準において欠けてくる。東洋は、内的に祝福されたから、外的基準において欠けてくる。結局、神は公平だ。公平である。

 これは、三年ないし七年たてば、大概釣り合うんじゃないかと思っています。アメリカの青年も、相当変わりました? (はい) 。座ることを覚えた。イスでなければ座れないのに、こんなこと夢にも思わなかったでしょう。だから、宗教という精神を中心とする時には、物的条件を跳ね返す。東洋は精神文明を中心として、みんな外的基準を跳ね返してしまった。それを西洋人が、かき集めた。アメリカとか西洋が、今のように幸福になったというのは、東洋の物質的条件をみんな援助されて、このように西洋文明を発展したのです。しかし、それは限界に達している。そして東洋の精神文明も限界に達している。だんだん、東洋は西洋文明、物質文明を要求するようになっている。西洋文明は東洋文明、精神文明を要求するようになって、これらが交替するような時点に立っています。授受作用です。

 理想世界になったら、西洋人が東洋に行って住んでも、東洋人が西洋人に行って住んでも、これは無理がないように回らなければならない。そうするには生活基準、思想基準、目的基準が一致しなければならない。東洋の風潮を見れば、今まで、アメリカへ行って研究すればいいと考えていた。しかし今はそうじゃない。西洋へ行って研究すれば、人が悪くなる。何にもならない。頭だけあったって、何にもならない。君たちはみんなヒッピーの部類だ。その反面、アメリカ人は、外的なこと、食うこと、飲むこと、生きること、もうやるべきことを、みんなやってみて、その結果今は、すべての外的基準を捨てて、原始人間に帰ろう。それから何か精神的なものを求めてみようと、東洋に関心をもつようになってきた。

 東洋人は素直なところがあって、純粋であって、変わらないところがあるのです。アメリカ人は、これは変わりっぽい。そういう方面で、東洋をアメリカの青年たちは奪うようになってきた。東洋人は、アメリカ人の女はもう日ごとに変わると、そういうふうに思っているよ。特に女性が、そうなんです。離婚率が高い。男より女がそうだという。男より女が多い。東洋はその反対だ。女より男が多い。だからこれを入れ替えたら理想的になるや。まるで反対だね。

 東洋では、歩く時にこういうふうに歩けと教えるんだね。西洋ではそういうふうに教えないだろう。東洋では、こういうふうに、ずーっと高い所を見て歩けと教えるんだね。西洋は、それ物質的だよ。東洋人は寝るのを見たら、こういうふうに寝るよ。それから東洋は右手を主に使うんだね。左手は使わない。西洋は左手を使うね。はっきりと区別できる。西洋人は食べる時静かに、話をしない。東洋人は、みんなで話をしながら食べる。これは、まるっきり反対だ。そのように見ていけば、東洋と西洋を一つにする動きは、何としても統一教会以外にないんだね。何と考えても。東洋人と西洋人が一つになって、地球を持ち抱えたらどうなると思う。西洋人が物質面でいくらやっても世界を動かすことはできない。東洋人がいくら精神面で動かそうとしてもできない。

 それを考えてみた場合に、東洋と西洋を結束させる。二つを合致させることのできる一つの精神的な宗教が必要である。

◆真なる世界を描く統一思想

 国民を思想において結束しようという考えは、間違いである。なぜかというと、それは変わっていく。しかし変わる世界において、それでも変わらないのが宗教である。キリスト教は、二〇〇〇年の歴史をもっても滅びなかった。今の今までいくら打ったか。数多く人々、数多くの国が、キリスト教を打ったんだけれども滅びなかった。そう見れば回教もそうだね。イスラム教も、インド教もそうだ、儒教もそうだ。だから宗教圏を中心として文化が発展している。しかしこのように今までは、発展してきたが、今までの宗教は、変わりつつあるそれは純粋な宗教でなかったので、歴史をずーと過ぎてみると、風化作用を起こして、荒れかけたり、割れたり、破れたりする。

 それで宗教界において、一大革命時期が到来した。それから東洋文明も西洋文明も、一大革命期に入ってきた。宗教を信じる人と、宗教を信じない人とどちらがいいか、分からなくなってしまった。それは永遠性がない。今のキリスト教、宗教圏の者たちを中心としては、変わらない理想世界をつくることができないということが、証明されてしまった。民主主義世界の末期において、あるいは共産主義自体を見ても、みんな、それも信じられなくなった。民主主義の指導国であるアメリカ自体を信じることができるかというんだね。それは信じられない。共産主義も信じることができない。だから宗教界において、世界の思想界において、一大革命が必要な時になってきた。それは必ずしなければならない。個人から家庭から、氏族から国家から世界へわたってしなければならない。

 そういう革命を果たし得る内容、思想的内容、伝統的な理論体系がない。今、新しい宗教が生まれてきて、新しいアメリカ、民主主義の主体性をもって、指導してきたアメリカ国民を再び教育する、その宗教がない。共産主義の悪らつな、サタンの悪魔的な哲学に対して、ブレーキをかけ、それを克服し、解明した内容を提供した宗教がなかった。現実の宗教界すべてにも、新しい方向に導く内容を提示する何ものも、なかった。こういう世界の交流する、入り乱れたこの時点にあって、我々統一教会以外に、こういう内容を、こういう思想をもって、訴えるところがないと考えた時、我々の今の立場というものが、重大な位置にいるということを忘れてはなりません。

 人間は、より尊いもの、価値あるものに近づきたいと思います。そのように考えてみた場合、神様以上に、より価値あるものはない。だから問題はどこにあるかというと、神様をはっきりと知らないところに、問題が起きてきました。共産主義も、神様がいるということを知らないところに、生まれてきました。民主主義政体も、神様の理想、神の国がどのようにいくべきか、知らないから、このような腐敗圏の末端期にくるようになった。宗教が腐敗しているのも、神様をはっきり知らないことにある。だから神様はいずこに現れるか。堕落しなかったアダム、エバに現れる。そこにおいて神様を発見した。そこで我々は堕落以前のアダム、エバ、罪なきアダム、エバに帰り、その中において、真なる父母を迎え、真なる氏族を迎え、真なる国家を迎え、真なる世界を築こうというのは、統一思想以外にない。

◆神を解放する「私」

 ここまで到達するには、反対する逆の道を、突き抜いていかねばならない。だから蕩減の道は、堕落した者には原則として表れてくる。だから、これを克服しなければ、いかれないという教えなのである。それで自分を清算する。個人的問題から、家庭をいかに復帰するか、氏族、国家をいかにするか、世界をいかにするかという、はっきりした理論体系でもって……。

 そうして我々は、人格的神様を信じるだけでなく、心情的神様を論じていくようになった。それは、今までの宗教には見いだせなかったことである。神様は悲しんでいるということが分かった。神様が、拘束されているということを、今まで知らなかった。個人のため解放されなければ、あるいは家庭のため、解放、氏族、民族のため、国家あるいは世界のために解放され、世界的解放がなされるには、我々はその目的に向かって、進まなければならない。

 新しい宗教を提供した統一教会。その主体は神である。我々は客体である。主体が喜ばない以上、客体が喜んではなりません。だから神を世界的に解放してこそ、幸福の道ができてくるのです。神解放されてこそ、我々の幸福、家庭的幸福、氏族的幸福、国家、世界幸福が生まれてくる、これが統一史観である。だから神を解放しなければなりません。

 それを今までの宗教は、やらなかった。神によって我が解放される、こういう宗教、神によってうちの家庭が解放されると、まるっきり反対だ。国家も、神はどうでもよい。我は国家的宗教を信じるだけだ。このような国が解放された?

 そうじゃないでしょう。間違っている。だから我々は正しいことをしているのだから、世界がいかに反対しても、堂々と主張し、堂々と行進しなければなりません。だから、我々統一教会はこういう信念でもって、我一身を捧げて、世界を救うというのはもちろんだが、神を解放して、世界を救うという信念でもって、四方八方、命を懸けて進むならば、神はいつまでも共にいます。だから、神様は自分の解放のために努力するんだから、我々を援助せざるを得ません。

 では統一教会を信じるのは、何のためか。私が救われるためか。私よりは国、国よりは世界を救ってやる。それを救っておけば、自分の国は自然と救われる。こういう思想をもっていたとしたらキリスト教は、あんなに数百という宗派に分かれることがない。世界が救われていない。神が解放されていないのです。だから我々は分かれることができません。

 だから西洋人と東洋人とニグロが、一つにならなければ神を解放することができない。だから先生は、神の解放という一点に、生涯をかけてきた。神のほうに心を向けて、神の国に帰る。今まで人間は、民主主義を中心として、人間の自由を主張してきた。人間解放を主張した。それと同じように、今は神の自由、神の解放を願って、天宙を主管し得る神につくり変えなければならない。神様は自由になっているの。人間解放、自由を主張する前に、神様の解放、自由を主張しなければならない。その問題を解決することによって、人間解放はもちろん、人間の自由主義は生まれてくるのだ。

 きょうの題である私自身は、この私自身は、神を解放し、世界を解放してやるために、生まれてきたという自覚をもたねばならない。世界を占領、個人的、家庭的、氏族、民族、国家的、いくらでも、つらいつらい戦争を越えても、世界の果てに勝利を旗を見て、神を解放して、神の自由を主張して、神がそうだと返事して喜びながら我を迎えてくれる。そういうところまでいかねばならない。そうして神の解放とともに、神の自由世界の基準に立って、君も解放、君も自由だと、共に神と人間が歩調を合わせて、一つになったところに、世界的な解放と、世界的自由の本源があると主張する時が来なければならない。

◆不屈の精神

 統一教会行くところ、今解放されているの。邪魔が多い。それから後退することができるの。できない。すべてを克服して、前進しなければならないのが統一教会の運命である。アメリカにおいて、解放した場合に、世界が解放される。君たちそう思うの。この国は、力をもっている。金をもっている。あるいは科学をもっている。あらゆる組織的なすべての関係、因縁を世界的基準で、神が祝福して準備した。神様は、この国が汚されて、その基準につながることを願わない。汚されないで、そのままその国に、つながることを願うであろう。

 あなたたちの家庭、あるいは社会構造、共産主義の恐怖、あるいは人種問題、内的に腐敗しているそういう問題を、誰が解決してくれるや。アメリカ人自体においてはできない。自らが、自分の国を眺めて、落胆せざるを得ないような、そういうアメリカ人自体が神を解放することができるか。そういう教会が神を解放することができるか。できない。だから神様はアメリカに出てくることができない。期待することができない。この新しいアメリカの理想、新しいアメリカに、神のために立つ群れを願うに違いない。それがまさしく、我々である。CIAが調査しながら、中傷させているレバレンド・ムーンである。アメリカが無視し、反対しているレバレンド・ムーンである。

 先生は、そういう者ではありません。それを誰が証するか。それは君たちであります。アメリカ人のために、あなた方がしなければなりません。命を懸けて、先生以上に命を懸けて、自分の国のためにやらなければなりません。そうして、神を解放し、神の自由のために立った、これは本来の神を保護し、神を守るべき正しい人間として、アメリカ、世界に旗揚げしている自分であるということを、はっきり知らなければならない。君たちそういう自覚をもっているの?

 戦いの戦場に向かう時、激戦の場に行くか、やすい戦場を選ぶか、どちらを選ぶの。ベトナムから、カンボジアから生きて帰ってくるアメリカ兵士を見て、我々は興奮せざるを得ません。アメリカに神の祝福を残すために、いかなる激戦であっても、我々新しい統一思想は、世界共産主義の悪らつな戦場であっても、堂々と征伐するというそういう自覚をもたねばなりません。

 我々は変わらない、正しい人間としての使命を果たすということは、神を解放して、神を自由なる立場において初めて、そのような資格をもつことができるのです。そういう自信あるの。統一教会に入ったけれども、何でもないことが好き。何でもないと思って入ったかもしれないが、分かってみれば恐ろしい、が素晴らしいところである。サタン世界においては、これは恐ろしい。神の世界においては、これは素晴らしい。

 どんなに反対されても、先生の不屈の精神でもって、それを受け入れ、消化してしまう。アメリカも、君たちが先生と結束して、天にすがって、最後の戦いの戦場に立ったという自覚をもって、我、神の解放、神の自由のためにいかなる苦難の道、いかなる戦いでも、我先頭に立って行くという、この精神一本でいくならば、この巨大なアメリカも、遠くなく神のもとに帰る日が、近いと確信しております。だから、伝道して一人を解放させる一人自由にさせるということは、神を解放させる。神の解放の道を開拓していくという道である。こういう意味である。解放の火をつけるのである。家庭、民族、国家、世界へと。

◆神の子女になろう

 このようにして神を解放しましょう。先生自身は解放されているの? (いいえ) 。そのような解放を誰がするの?
 神様がするの?

 神様はできません。君たちと先生以外にはできません。君たちと先生以外に人がいません。これは、アメリカ自体もできないし、他の数多くの国でもできません。だからすべてが滅んでも、我々は神様を残したい。

 神自体が解放、神自体が自由になる。こういう考えをもった宗教、こういう考えをもった思想、こういう考えをもった人が、今までいなかった。まさしく今私たちは、こういう考えをもっているだけでなく、行動して、世界に向かって号令をかけている。こういう基準を、神様は望まざるを得ないよ。地上において、我々統一教会しかないじゃないの。我々が、アメリカで勝利すれば、その勝利的影響を、世界の各国に与えることができる。しかし、これはやさしいことではない。難しいことである。

 なぜアメリカ人として、統一教会文先生の前に集ってきたのか、と憂うんじゃないよ。神を中心として、神の解放者としての先頭者であると自覚しなければならない。歴史的に悲惨な我々の様子であるが、これは歴史を通過した未来において、いかに幸福なことかと考える場合、感謝しなければならない。それで先生は、太平洋を越えて、アメリカまできた。異国の地に来た。君たちは西から東に、自分の国を飛んでいる。南から北に、自分の国を飛んでいる。それは最もあるべきことである。

 男、女決意を固めて、こういう使命を果たすという自覚して、覚悟して、宣言して、誓って出た者が、いまだに故郷に帰ることができない。先生と共に、勝利の旗を揚げる運命を、天が授けているということを忘れてはならない。それを信じるの? (はい) 。それを知ってるの? (はい) 。君たち、そういう使命を果たせると思うの? (はい) 。そうしたら君たちは間違いなく、正しい人になるでしょう。この地球上において誰よりも正しい、天下すべてのものにもまして、正しいに違いない。そういう立場において、自分自身、間違いなく神に誓って、神に代って戦い抜けるという覚悟を、今もつの? (はい) 。そういう覚悟のある者、手を挙げて。

 きょうは、七月十三日第二回目の聖日である。我々は、この巨大なアメリカに向かって、こういうような世界的な使命を抱いて、今四方八方で急いで活動しなければならない。こういう間際に立っているということを、はっきり分かりました。今、あなたたち自覚したその者には、落胆はあり得ません。躊躇はあり得ません。前進に前進。我々に敗北ということはあり得ません。勝利の結果をもたらし、神に栄光を帰さねばなりません。そういう貴い自分であるに違いないと思いつつ、この多大な目的を達成するために、忍んで、忍んで勝利し、天下自由、解放のために、我々は驀進しなければなりません。そうだったら君たちは、最高の神の勝利者として、神にたたえられるばかりではなく、神の永遠の愛を、全体的に、全部もらうでしょう。それで十分神の子女になり得る、そういう自分である。













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