御旨と世界
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歴史の転換点

1975年12月1日 ニューヨーク ベルベディア

◆人間の責任

 ある個人、ある国家、そして今の巨大なる世界を見ても、ある時をおいて、転換時期がある。復帰摂理は、宇宙歴史の失敗を再び、三たびと繰り返してきた。本来なら、復帰摂理というのはあってはならないのだけれど、堕落――その一事によって、起源が生じたのである。失った本来の立場をもとがえすにおいて、神様とサタンと人間、この三者が絡み合いながら、転換点をもって歴史をなしてきたということを、我々は復帰摂理を通して学んできた。ここにおいて問題は、この転換点を、神様が起こすか、サタンが起こすか、あるいは人間が起こすかということである。

 今日までの既成宗教、既成信仰者においては、人間が、この悪なる世界を転換させていく中心的責任があることを知らなかったし、考えもしなかった。神様が成したいと思えばすべてが成就する、そのように信じてきた。神様がやりたいと思えばサタンも反対しない、そう思ってきたのである。

 我々統一教会においては、人間こそが、すべての責任をもたなければならないという。サタンを追放せずしては、真の新しい転換期を迎えることはできないというのである。ここにおいて、必ず、人間が主導的立場に立たなければならない。

 結局、神側においては善なる人々を中心として、これをもとがえそうとするし、サタン側においても悪なる人々を中心として、もとがえすことに反対する、こういう反復を繰り返して歴史は発展してきたのである。

◆ヤコブの勝利

 今日、皆さんが知っているように、カインとアベルを中心として見るとき、カインはサタン側であり、アベルは神側であり、ここにおいて、必ず、互いに衝突が始まるようになるのである。神と神の内的な立場に立つ者と、サタン側は反対に外的な立場に立っている。この二つを克服していかなければならない。すなわち、カインとアベルはそのような闘いをしたのである。そしてその闘いは神側において勝利したのではなく、結局、サタン側において勝利したということである。もしこの時に、神側において勝利したなら、歴史は簡単に転換時期を迎えたであろう。

 そのことはノアの時代も同じだったのである。内的な神様と外的なノアと、反対する外的なサタン側の社会と国家とサタンとが、互いに攻防戦を始めたのである。アブラハムの時代においても、結局はサタンが勝利した。歴史的転換においては、必ず、象徴、形象、実体、この三代条件を中心にして闘ってきたのである。我々がこれを歴史的立場において見る時、旧約、新約、成約、あるいは蘇生、長成、完成という、常に三段階をかけた問題を介入して闘いがなされるが、アブラハムの時において、象徴的祭物条件を立てて、一挙に、これらの問題をかけて転換しようとしたけれど、できなかったのである。ゆえに、イサクを通し、ヤコブを通し、このように三段階を経て、象徴、形象、実体の過程を経て、ここにおいて初めて、歴史的転換時点をつくり出すのである。歴史上において、神側の人間とサタン側の人間が闘って、いつ、一つの転換時期をつくったかという問題を見る時、それは実に、ヤコブの時だったのである。

◆勝利的伝統の確立

 ヤコブを中心として、ヤコブが勝利することによって、その家庭が初めて、ヤコブを中心としてついていくことができたのである。では次に問題となるのは何か、新しい一つの伝統が始まって、必ず、いつも問題になることは何かというのである。

 ヤコブが勝利した伝統的思想、伝統的信仰、伝統的その行動――これがヤコブの家庭がいつの時も立ててついていかなければならない、新しい伝統として残されるものである。ここから、新しい伝統は始まるのである。そうするために、ヤコブは、個人ではあるが、この個人というのは、個人としての立場での蕩減条件を立てるよりも、歴史的立場において蕩減条件を立てなければならなかったということを、皆さんは知らなければならない。そのようにしてヤコブが立てた歴史的転換点は、個人から家庭に引き継いで、民族の時代まで、ヤコブが勝利した伝統を引き継いでいかなければならない。これが原理で学んだヤコブ路程である。

 そのヤコブとヤコブの家庭が行く道を、歴史時代を通して、民族的モーセの時代まで、イスラエルの民はその道を合わせて、その道についていかなければ、サタンに勝利したというその歴史的偉業を相続することができない。モーセの時代まで、それがどのように難しい路程であったとしても、この法は、エジプトにおいても他のどのような異邦の国に行ったとしても、守り通さなければならないものである。この法は、自分の国にだけ適用するものでなく、たとえどこに行ったとしても守らなければならないものであり、その上に、モーセ時代に入って民族的転換時代をつくらなければならない。

◆モーセとイスラエル

 サタンはいつも、一段階先に立っている。エジプトという異邦の国において、神と神の民は、サタンとサタンの民とサタンの国に対さなければならなかったのである。神に民族があれば、サタンは先立って既に国をもち、神が国をもてば世界をもつ、いつもこのように闘ってきたのである。

 モーセはパロ宮中において、しかもパロ宮中の代表的な人であった。がしかし、彼はイスラエルの人である。その時にはエジプト人を代表するゆえにサタン側の人であった。それゆえにモーセはこれを飛び出して転換した。転換したその日から、モーセはイスラエルの民となり、神側の人となって、昔宮中にいたモーセ、サタン側にいたモーセではなくなったのである。そしてモーセ自身、神側の立場に立って、ちょうど、かつてヤコブが、神の前に選ばれて恵みを受けてハランに行って闘って、そしてその家庭を導いていける基盤を整えたのと同じように、モーセも、ミデアン荒野四十年の期間を通過して、初めて、自分の民族を導いていける基盤をもつことができたのである。こういうモーセとイスラエルの民が一つになって、パロ宮中と闘って、神側とサタン側と相闘ってこれを征圧し、そして出エジプトさせるのである。この時に、皆さんが原理で学んだように、ヤコブやモーセは転換時期においては、三日という三数をおいて転換の闘いをしたということを知らなければならない。

 このような、様々の闘いを経て、イスラエル民族は出エジプトをして、再び、イスラエルに帰還するまで四十年間を要したのである。延長されて四十年間荒野生活を通過しなければならなかった。イスラエル民族の放浪の起源がそこから始まった。もし、一度にパッと入ったならば、民族的転換が完全になされないのである。これを幾度も繰り返すゲームを荒野においてなした。そのようなゲームを、なぜしなければならなかったのか。それはイスラエルの民族が、命を懸けて目標に向かって指向できなかったからである。すなわち、人間の考え、思い、サタン世界と通じ合うそういう思いをする人々のために、神のみを信じて指向することができなかった。

 そのようにしてモーセを通して、出エジプトして、イスラエル民族がイスラエルに帰還して、次の国家時代のメシヤが来るまで、どの伝統を受け継がなければならないかといえば、エジプトの路程において勝利したモーセの伝統を受け継いで、これを守っていき、これに従っていかなければ、民族的勝利の基盤を受け継ぐことはできなかったのである。結局、モーセ以後のイスラエル民族は、民族的転換点を何でもってもたらすことができるかといえば、モーセが残した伝統を守ることによってもたらすことができる。その上に、メシヤ時代においては、イエス様が来られて国家的基準を中心として、世界に向かおうとされたのである。

◆歴史発展の公式

 国家時代に入っては、国家的段階は民族的段階より一段上っている。国家の中には家庭と民族が含まれるのである。それゆえに国家時代に入っては、民族的時代を繰り返さなくてもいいし、家庭的時代を繰り返さなくていい。であるからイエス様がメシヤとしてこの地上に来て、国家的基準を勝利的に立てたとすれば、それはすなわち、民族的時代も家庭的時代も成し得ることができたのである。

 民族的段階において、モーセならモーセ自身思わなければならないこと、成さなければならないことは何であったか?

 それは伝統的なヤコブの路程を、そのまま引き継がなければならないということである。これを知らなければならない。モーセ、その人はヤコブ以来、この歴史的発展過程の中において、すべてを代表してヤコブ以後に残されたその伝統を受け継いで、その伝統の上にモーセが立つというのである。例えば、発展する過程においては蘇生なくしては長成がないし、長成なくしては完成がない。そのためにヤコブの時代が蘇生だとすれば、その蘇生時代の基盤を土台にして、長成時代のモーセが出てくるようになる。それは何かといえば、縦的歴史的過程から見れば過去を受け継いで現在に立ったということである。そのようにして何をしようというのか、後退しようとするのか、前進しようとするのか?

 前進しよう!

 というのであり、その前進しようというところから、過去、現在、未来という概念が生まれてくるのである。

 イスラエルのヤコブの家庭を見ると、ヤコブ家庭は、ヤコブを中心として蘇生を経て長成してそれから民族に出発するのと同じなのである。そのような公式がある。過去、現在、未来の三段階の外形を整えて越えていくのである。モーセについていえば、モーセが立てられてそのまま条件なくして、「イスラエルに帰ろう」ということはできないのである。蕩減しなければならない。ヤコブ時代から今までの歴史過程において失敗していたすべてを再び、きれいに清算しておいて、サタンを除去する基盤を立てておいてこそ、モーセは初めて国家形成に向かっていくことができる。公式は同じである。

◆国家的転換点

 それで次に、国家時代に入って何をなすべきか?

 勝利したモーセの立場を、イエス様は行かなければならない。イエス様の土台は、民族的基盤が土台であるために、完全に勝利したモーセの立場をつないでおかなければ、イエス様は行くべき道がない。イエス様が立つ、そのイエス様の足台はサタンが侵入した条件のある、そういうような過去であってはならない。勝利した、きれいに漬算された足台であり、過去でなければならない。

 イスラエルの国、モーセが導いたその民族が、そのようなイエス様の足台にならなければならないという話である。そういう結論が出てくる。それが民族まで到達して、結局は一つになって出発しなければならない。そのためにモーセ時代において失敗があったすべてをイエス様の時代において清算し、その漬算したのち、イエス様は民族的基盤を整えた上で国家的基盤にまで結びつけて、初めて世界に行くことができる。一次元高い世界へ行くことができるのである。

 このように歴史的伝統を立てて転換点をつくるということができるという、この発展的な原則に従って見る時、イエス様は国家基盤を形成することができずして、すべてを失ってしまったのである。

 神様を内的にして、外的なイエス様を中心として、外的にすべて成されたのが一つの国家形態をとって、サタン世界のローマと対抗しなければならなかった。その当時、もし、国家的な転換点をつくっておいたとすれば、イスラエルのような国は、この地上に永遠に残すことができたのである。そういう結論が出る。イエス様以後、信ずる人も信じない人もイエス様の本然の伝統をいつでも提示して、団結させて、国家的基盤をつくり上げることができるようになければならない。このように見る時、死んでからみ旨を成就し得る個人がどこにあり、家庭がどこにあり、民族がどこにあり、国家がどこにあるか?

 結局、転換点と勝利の基点となるのは人間――実体としての人間なのである。イエス様が死ぬことによって、これがどのようになったのか、これがなくなったのか、残るようになったのか?

◆転換は地上において

 今日、キリスト教徒たちは、イエス様だけを信ずればすべてが成るという。これはとんでもないことである。イエス様が死したことによって、キリスト教徒たちは地上に、過去、現在、未来の基盤を形成して立つことができる足台がない。個人的にもそうであり、民族的にもそうであり、国家的にもそうである。転換点はどこでなされなければならないかといえば、地上においてこそ、なされなければならない。地上が問題である。肉と霊をもった人間が堕落して落ちてしまったゆえに、肉と霊をもった人間が個人から家庭から、氏族、民族、国家、世界から戻ってこなければならない。イエス様が死ぬことによって、これがすべて、なくなってしまったのである。それでは過去がなく足台がない。したがってイエス様時代においては霊的基盤から、民族的に世界にまで行ける基準まで、再び、これをつくり直さなければならない。つくり直すにおいては、キリスト教が完全に霊肉を中心として実体を受け継いでつくり出す資格があるか。国家的転換点をつくって、世界へと前進しなければならない時が今であるにもかかわらず、イエス様が死ぬことによって、国家的段階から世界へと行く道が生まれなかったばかりか、再び、歴史的過程をつくり出す運動をしなければならない。

◆サタンが打ってきた歴史

 キリスト教とは、イエス様の伝統を立てていくものである。イエス様はどうであったのか、イエス様は死ぬことによって霊的になったということ、これを知らなければならない。霊的というのは何であるか、地上において精神的にだけ侵されない、精神圏とでもいおうか、そういう内容である。ここにおいてキリスト教徒たちが知らなけばならないのは、イエス様の思想である。「我が神、我が神、出来ることならこの苦杯をとり除いてください。しかし私の願いでなく、あなたのみ旨のごとくなさしめてください」ゲッセマネの園で祈ったように、キリスト教徒全体が父にみ旨に帰することができる、そのような団結の運動をせずしては、本来の霊肉を中心とした実体世界へと向かう道を見いだすことができない、そういう結論が出るのである。

 結局は、空中に浮いているのである。イスラエル民族は放浪したのか、それとも定着したのか?

 実にイスラエル民族はモーセが立てておいた伝統的基盤まで打ち壊してしまった。いったい、メシヤは来たほうが良かったのか、来なかったほうが良かったのか。事実は、メシヤが来なかったよりも悪くなった立場になってしまったのである。
 ここにおいてはキリスト教は国のない民であり、土地のない民である。そして家庭にあっては家長のない民である。誰でも来て侵すことができる。いつでも侵犯することができる。そのようにいつ侵犯されるとしても、神が個人的勝利、家庭的勝利、氏族的、民族的勝利の基盤を整えたその民族を保護すべき何の保証もない。いくら全能なる神としても、何の保護し得る土台もないのである。そのために宗教歴史上において、最も悲惨な歴史を残したのは、キリスト教歴史しかないという論理がここに立つのである。

 それゆえにキリスト教は殉教の歴史となった。今日まで神様がいらっしゃるなら、なぜ個人的に民族的にこのように悲惨な道を行くのかは大きななぞであった。それは個人、家庭、氏族、民族、国家の基準がないために、サタンが常に実体を攻撃するのである。

◆再び来られるメシヤ

 さあ、それではイエス様は再び、来られるべきなのか、そうでないのか。絶対に再臨しなければならない。今日、クリスチャンは、「イエス様が来ても来なくてもいい、必要ない」と言う。“再臨の主は雲に乗って来てすべてを焼き滅ぼして、神様の、イエス様の思いどおりになる世界が広がる”と思っている。そういうことが起こり得るか?

 そのようなキリスト教は滅びてしまう。本気ではないのである。それは人類を復帰する摂理歴史とはあまりに離れすぎているため、そういう信仰をもってしては、原理を立て、道理を立てていくそのような再臨の主に、絶対会うことはできない。

 再び来られる再臨の主は栄光の中に来られようか?

 サタン個人を、その家庭を民族を国家を一度に踏みにじることのできる、原理的権限があるかどうか?

 メシヤが国家的基台の上に立とうとすれば、民族的基準を受け継がなければならないし、民族の基準を受け継ぐためには、必ず、完全に清算された家庭的基準を受け継がなければならない。そのようにして初めて、国家基準において確実に向かって立つことができる。そういう基盤なくして、再臨の主が栄光の中に来られることはできない。甚だしい苦痛と悲惨の中に来るという言葉が成就されるのである。

 今日、現時点においてキリスト教を見ると、雲が空を漂っているようである。風の吹くままに飛んでいく。現在、世界にキリスト教を国教としている国が多いが、伝統的な個人勝利、家庭勝利、氏族勝利、このような基盤を整えた上に立っているのではない。言い換えれば選民イスラエル圏になっていない。どこまでも霊的であり、実体はない。それが問題である。それでは再臨主が来て何をすべきか。イスラエルの国で失ってしまった個人、家庭、氏族、民族、国家、世界的基準までいける実体の基盤を整えずしては、世界を救うことができない。そうせずして世界のキリスト教を収拾することができない。

◆神の基点となる国

 ふわふわした霊的なものが、二〇〇〇年の間、どこへ定着しようか。イタリア民族はローマ法王庁に籍を治めるか、アングロサクソンだったら英国に定着しようか、そして今に至って、アメリカに定着することができると思うか。どこにも定着し得なかったものがアメリカにおいて成功すると思うか。

 神様は基地をどこに置いたらいいのか。ローマにおいて失敗したし、英国において失敗し、このキリスト教国家であるアメリカにおいても様子が芳しくないから、神様は東洋においての最も小さい国に基地を置いたのである。神様はできるだけ簡単で容易な国を探すのである。そうでありながら長い歴史をもった国、その中においても単一なる民族の国、それはなぜかといえば、たやすいからである。中国のように七億もの人口があったら、それは難しい。ゆえに神様はやむを得ず、蕩減実体圏を再び形成されるのにおいては、簡単でたやすい民族であり、しかも長い歴史的な距離を中心として、四〇〇〇年以上の歴史をもつ、そういう国でなければならない。そういう国を我々は、世界中で探さなければならない。そういう国を探しているという結論は、私が神様であっても、皆さんが神様であっても同様である。

 そういう意味からして、大国は不合格である。そうしたらアメリカはどうか。合格か不合格か?

◆イスラエルの条件

 イスラエルの国が今は二つに分かれているが、歴史上に単一民族として、最も小さい国としてイスラエル民族は復帰されているゆえに、他の国を侵略することができ得ようか。選民が自分を侵略することができるか。たとえ侵略を受けることはたびたびあっても、自分は侵略することができない。神様が許した戦いにおいて戦うことはできるが、侵略はできないのである。

 メシヤが来るべき国は、第一に小さい国である。第二に四〇〇〇年以上の歴史をもたなければならない。第三に単一民族でなければならない。第四に国家という国自体は不安定な状態だとしても、国の形態をもっていなければならない。たとえ属国だとしても……。第五は侵略をしてはならない。小さければ小さいほどいい。第六番目には問題の国であること。その民は、また多くの問題をもたなければならない。なぜなら、蕩減をしなければならない民だからである。

 歴史的過程において、このような名前をもった国は二つある。その一つはイスラエルとイスラエルの民である。放浪して国がないのである。それでもメシヤを迎えるためにあらゆる冷遇をされながらも、滅ばずして国ない国のままに維持してきたのがイスラエルである。そうでありながら、文化民族でなければならない。土人のように無知ではなく、優れていて世界文化史においても、問題となる民族でなければならない。そのように見る時、それはイスラエルと、東洋においては韓国なのである。

 前に語ったように、文化は蕩減復帰歴史を中心として、西洋の文明はアジアに戻っていく時、韓国が帰着点になる。韓国は、そのような国なのである。西洋文明圏に隷属されてはならない。敵、サタン側の支配を受けてきたのである。なぜなら、イスラエル民族がローマの支配を受けたような、そういう形態をもたなければならない。とすれば、再び来られる主はどちらに来る可能性があるのか。一九四八年、イスラエルの国が独立したのだからそこに来たらいいではないだろうか。

 韓国はいつ、独立したか、同じ一九四八年である。そして同じ時、イスラエルにはなかったけれど、韓国は支配を受け植民地化されていた日本から解放されたのである。それは摂理的に当てはまることである。霊的なイスラエル圏から受けたものを肉的イスラエル圏において、という、同じ基地で同じ年に独立したということは、理論的にも当てはまるのである。

 イスラエル民族が、イエス様を殺害した罪で、二〇〇〇年間、世界の中に放浪していたのに独立できたということは、謝罪することができたということである。謝罪することができたゆえに、再び国を探し求めることができ、そして本然の位置に戻ってくることができたということである。それは、イエス様が再び来る時が来れば、必ず、イスラエルが回復されるという言葉が成就できたのである。逆にいえば、イエス様を殺害した罪を蕩減して、許しを受けることができるようになったために、再臨の主が来られるというのである。韓国は侵略したことのない国である。そのためにアジアのユダヤ人という名をもっているくらいである。

◆再臨主の行かれる道

 再臨の主が韓国に来られれば、何をしようというのか。良い暮らしをするのか。それとも蕩減の道を備えなければならないのか。蕩減の道を行くとすれば、再臨の主はそれを喜んでいるのであろうか?

 韓国に泣きながらカラシを食べる、という言葉があるけれど、そのように仕方なくやるのである。そうしなければ生きる道がないからやる。しなければ、死ぬ道しかないからである。

 韓国に来るとすれば、かつてのユダヤ教と同じような立場に立つ、韓国のキリスト教が問題となる。ふわふわと浮いた霊的キリスト教が問題となるのである。とにかく、無条件に体のいくところに心がついていくだろう。キリスト教が統一教会を気に入らなくても、ついてくればいいのである。これからメシヤを迎える一つの集団があるとすれば、気持ちが悪くてもついていけばいいのである。そういう話が成立する。

 そのような立場から見る時、韓国で新しく、神を中心とした世界史的使命を負う新興宗教が生まれたとしたら、その団体を通して再臨の主は現れるという、この理論は妥当である。このような結論は理論的である。それは何か?

 統一教会である。その意味は一つになるということである。そして神霊が中心であり、世界を、キリスト教を一つにしようとするのである。それは何を意味するか?

 メシヤが来るということである。反対しないで全部受け入れたらどうなるか。七年の間に、この手続きは全部終わる。キリスト教は絶対に服従しなければならない。家庭の蕩減条件をつくり、氏族、民族、国家の蕩減条件をつくって、これを全部、一つにまとめておくのである。それが何年間でできるか。七年かかる。韓国の独立が解放後、三年目である一九四八年である。それから三年間において成されるのである。すなわち解放された一九四五年から七年目である、五二年までに成されるのである。

◆再創造の過程

 一という字には七という字がついて歩く。神様は一週間で創造を成した。七日目は安息日で数には入らない。先生はこの期間何をしたか。監獄に入っていた。一九五一年に解放されるまで、監獄においては何をしたか?

 イエス様の時においては、イエス様が死の道に行く時、みな、逃げてしまったのであるが、先生においては、監獄にあって裏切って逃げるのではなく、監獄で信ずる十二弟子を探し求めなければならなかったのである。このような蕩減復帰路程が始まるのである。

 そこから出発して、世界的カナン圏に向かって歩まなければならない。それが共産圏である。キリスト教は民主圏である。そのキリスト教が反対するということは、民主世界が反対するということである。そうすれば世界、どこへ行っても民主世界があり得ないことになる。すべては敵の国になり、それが共産圏であるから、それで共産圏内へ行ったのである。そしてそこへ行って、奪い返す。そこから再び、再創造が始まるのであり、先生を中心として、個人のヤコブの立場から出発して、家庭形成を目指すのである。

 それが一九六〇年代である。韓国の解放後十四年である。イエス様が失敗したのを復帰しなければならないゆえに、七年を蘇生とすれば、さらに長成と二段階を経なければならなかった。ヤコブも一次、二次において、完全に家庭を探し求めることができ、十四年後に、彼の妻と彼の家族を求めた。そのために一九六〇年代において、神とサタンとの家庭の分立が始まるのである。

 世界史的な使命を中心として、そのような家庭をつくって、先生が新しく祝福として何をつくるかといえば、新しいイスラエル圏の編成である。祝福家庭を中心として、第三イスラエルをつくるのである。一九六〇年から、我々は上っていくのである。そして、歴史過程のすべてを通っていく。家庭時代、氏族時代、民族時代を経て世界時代までゆくのである。家庭、氏族、民族、国家、世界、これに合わせていくのである。

◆祝福家庭の出現

 統一教会は今まで、ヤコブの家庭を中心として、氏族、民族編成をしてきたのである。三十六家庭は三段階の十二双を代表するものである。三十六家庭のカイン、アベル、これを合わせたのが七十二家庭である。一つの復帰過程は三十六家庭の歴史であり、一つの家庭は三十六代が延長されたのであり、そこにおいてカイン、アベルが失敗したのに付け加えたのが、七十二家庭である。このように、元来失った歴史的家庭を探さなければならないし、そしてこれを復帰するのである。イエス様当時においてもイエス様に三弟子がいた、み旨を成したということは、その三弟子を祝福してあげることだったのである。そして十二祝福数を満たさなければならない。さらに、過去、現在、未来この三段階を経て、これを横的に延長させておいたのが三十六家庭である。蘇生、長成、完成を横的に延長させておいたのが、三十六家庭である。

 アダムからノアまで十代、ノアからアブラハムまで十代であるけれど、この十数は十二数を表す。なぜかといえば、カイン、アベルの数、あるいはイサク、ヤコブの数を合わせるからである。十数は十二数に該当する。これがそれぞれ、蘇生、長成、完成を考えると、合わせて三十六。三十六家庭がここに、起因するのである。さらに三十六家庭のアベル、カインの形をとるから、七十二家庭になる。これが一つになるのである。

 その次には、三十六は家庭の中心であり、七十二は氏族の中心であり、さらに一二〇数。これはイエス様が一二〇門徒を中心として世界路程を出発したと同じである。世界国家の代表である。これをイエス様は祝福して、団結して、ここにイスラエルの国を連結させなければならなかったけれど、それは全部、失ってしまった。ゆえに、先生はここを行く。イエス様が成し得なかったことを成すのである。もし、イエス様が、一二〇名門徒まで祝福してイスラエル国から歓迎されたとすれば、イエス様は殺されただろうか。そうではなかった。殺害されて、これをできなかったのだから、蕩減しなければならない。これを三年間で全部、成さなければならない。これはたやすいことか?

 次に、四三〇家庭である。四数と三数は合わせて七数であり、また四数と三数はいつも、解放数に当たる。イスラエル民族は四三〇年ぶりに出エジプトしたのであり、韓国の歴史においても、四三〇〇になる年である。四三〇〇年ぶりに、イスラエルの国を探し求めたのである。だから四三〇年というのは、イスラエルの民族を探し求めた期間であり、四三〇〇年はイスラエルの国を探し求めた期間である。だから韓国に、どのような氏族、民族も全部含まれるのである。韓国内において、全民族が入ってくる道を開いておくためである。国家基準がこのようになって、ここに、西欧世界に四十三双の祝福をした。これは四三〇と相対的に合わせたのである。そして次には七七七双である。このようにして発展してきたのである。そこには十カ国以上が含まれ、そこには世界が入っていくのである。条件としても立てるのである。

 結局、統一教会が新しい民族として、国家を形成していくのである。何の話か分かるの? (はい) 。これが分からなかったら、これからの摂理がどうなっていくのか、分からなくなる。皆さんが伝統を受け継いで、それを守り、維持していかなければならないのに、それができるの?

 知らずしてどうしてそれを守り、維持していくことができるの?

◆一八〇〇双の祝福

 六〇年から今年まで、何をしたか。一八〇〇双の祝福をしたのである。本来は一九七四年にしなければいけなかった。しかし、摂理を一九六〇年四月から出発したゆえに、今年の四月までも十四圏内に数えることができる。十四年において成したのである。統一教会の第二次七年路程の終了路程として一八〇〇双を祝福するのは、全世界の者を中心として、完全に世界に向かう基盤を整えていくのである。 一八〇〇というのは何を意味するのか?

 六数はサタン数であるが、その六数に、六数に、六数をプラスした十八数、これを象徴する。これはサタン世界を制圧するという意味である。完全に制圧する。最初の六はサタン側の蘇生、次の六はサタン側の長成、最後はサタン側の完成を意味する。ここにおいて世界的基盤を我々が整えたことになるので、これから、国家を中心として我々の思うとおりに動かすことができ、世界を思うままに動かせる時代へと入っていくのである。

 まず六月、ヨイドの大会を中心として、韓国においては二月から六カ月間の準備期間で大会をなし、韓国の全運勢を引っ繰り返した。既成教会も引っ繰り返さなければいけないし、韓国に我々全体が現れなければいけない。完全に先生がつかまなければならない。そうなるために、どのような現象が起こるか。

 霊的キリスト教圏が世界分野において残っている。これを個人から家庭、民族、国家、世界基準まで韓国に連結させておいて、今日、世界的キリスト教国、アメリカという国に来た。これを霊的に連結させてこそ、肉的基準を中心として、世界へ行ける道が開かれるのである。ゆえに、七二年から三年路程で蕩減復帰して、アメリカの建設をなすのである。今まで、先生を中心として、霊的において氏族基準、民族基準まで上ってきたが、世界基準は、まず霊的を中心として始めて、国家を超えて外国に活動部隊を送り、七二年から三年路程を経て霊的基準を勝利的基準に結びつけた。この霊的世界基準を韓国に連結させておくことによって、韓国は世界的実体の中心として立ち得るのである。

 国家基準を立てておいて、そして世界的国家基準を拡大するために、韓国においてはもう既になされたのであるから、これをなすための期間が三年路程である。前三年においてはキリスト教世界的基準を探し求めるのであり、霊的キリスト教を引き受けなければならない。そして、のちの三年は、霊的基盤の上に、実体的基盤の上に、国家を中心として動かさなければならないのである。これはイエス様を中心とした、世界的時代における肉的三年期間と同じである。それは何を基盤とするかといえば、ヨイドの大会である。既成教会も押さえてしまったし、国家もそうであり、ここにおいて霊肉を中心とした勝利的基盤を整えた、その基盤の上に、アメリカの世界的摂理三年の路程が始まるのである。

◆最高の転換点

 一九七五年度から、世界史的第三次七年路程がなければならない。分かりますか?

 世界的な、霊肉を中心とした歴史的転換点なのである。これを知らなければならない。一九七五年、七六年、七七年のこの三年間は、アメリカの運命が変わってくる時であり、世界の運命が分立される時である。

 結局、先生は今まで、韓国にあって、イスラエルにおいて失ってしまったすべてを蕩減復帰して、国家基準を整えたものを、世界キリスト教圏内にあるこれを、霊肉を中心として完成させて、国家的形態をもった国家をつくってここに合わせ、世界の蕩減条件を立たせてきた。前三年の霊的基盤の上に、のちの三年は肉的基盤をつくくるのである。だから七七年から八一年までに、世界的問題を完全に蕩減して越えなければならない。七七年度の前三年を勝利して、八一年までにどこに行っても統一教会は反対されない圏をつくらなければならない。共産圏は反対するかもしれないが、自由圏ではどこでも歓迎されなければならない。それはアメリカにかかっているのである。

 さあ、それでは今はどのような時であるか。歴史的転換点から見る時、イエス様時代の国家基盤を受け継いだのである。その土台の上に世界の基盤を受け継ぐ、この時であるということを知らなければならない。霊的だけではない、霊肉を中心としてである。ゆえにこの三年は国家基盤をつくるための闘いであり、先生においては、世界的基盤を整えるための、三年期間の運命が決定される時である。蕩減復帰原則においてである。そのために七五年、七六年、七七年は、それこそ歴史以来、最高なる転換点であることを知らなければならない。そこに今、我々は立っているのである。

 ◆天国実現の時

 それではイエス様当時、イエス様とその弟子たちの行くべき正しい道は何であったか。国と世界のためには、イエス様と生死を共にしなければならないということである。それが結論である。我々三年間において、アメリカに影響を及ぼすことができるか。どうすればいいのか?

 だから神様は既成教会を容赦なくふるいにかけるのであり、そこにおいて統一教会が現れてくる。これを皆様は理論的に整理しなければならない。

 我々は摂理的史観をはっきりともたなければならない。もちろん史観だけではいけない、現実がどうであるかを知らなければいけない。我々が、どこに位置しているか。過去、ヤコブは知らずして摂理してきた。モーセもイエス様も知らずして摂理してきたのである。そのために全部滅びたのである。しかし今の時は違う。すべて知ってなすのである。なぜ知らなければならないのか?

 蘇生時代のアダム、イエス時代は長成時代であり、今は完成時代であるから知らなければならない。そのため、我々は神の事情を知るのである。

 それゆえに私の基盤の上においては、国のために立ったのであり、その国は韓国である。それはアメリカではない。肉的実体を再び、探し求めずしては霊的基盤、キリスト教を吸収する道がないのである。時代をさかのぼってイエス様とその弟子たち、そして君たち、誰が最も歴史的時代に位置しているのか。イエス様当時において、民族、国家的時代であったが、我々は世界的時代に立っている。どれほど、偉大な時であるのか。皆さんはイエス様の弟子より高い位置にいる。理論的には、偉大であらざるを得ない立場にいることを知らなければならない。イエス様の弟子たちはみな、ローマにおいて首を絞められたとしても行くというのに、君たちがモスクワにおいて首を絞められたらどうなるの?

 イエス様の弟子たちよりも優れるか、劣るか?

 民主世界が救われるのに、我々は何年やらなければならないか?

 三年やらなければならないし、共産圏なら、できるだけ七年期間内になさなければならない。そうなれば、民主世界が戦わずしてそのまま越えていくことができる。それをなせず残したならば、戦いがあり、また戦いがあるのである。そうすれば、統一教会の食口として、血を流したとしても、勝利に向かって行かなければならない。そのために、この三次路程において、どうしても世界問題を解決しなければならない。これが眠ても覚めても先生が願うことであり、神が願うことであり、霊界のイエス様の願いであり、数多くの霊人たちも、「今日、ここまできたのだから、どうか、残りの一歩を勝利してほしい」と言うのである。これを我々は霊界に対して祈るのであり、霊界が我々に祈ることである。

 昔、霊界は協助しなかったけれど、今は協助するようになっている。道だけ開けておけばすべてがなされる。そのためにどれほど、天国が近づいてきたことか!

 七年残っている。その事実を知っているの?

◆ヤンキー・スタジアム

 ではこの戦いは、どこから転換させるかというと、マジソン・スクェア・ガーデンにおいては、霊的には事実上、転換したのである。そして今は、外的な国、国民が問題なのである。長成がいつかといえば、ヤンキー・スタジアムである。世界的勝敗はどこにかかっているか、次のヤンキー・スタジアムである。第二の立場がかかっている。過去から見れば現在の立場に当たるのである。神の国を転換させる第二番目の時代である。カイン、アベルの時代に、二番目の息子であるアベルを中心として、神の転換がなされたのである。家庭的に見れば、ノアを中心として、天と地が分かれたのである。二番目が問題である。アブラハム、イサク、ヤコブを見る時、イサク実体をおいて、死ぬか生きるかの闘いがあったのである。全歴史において見る時、二番目のアダムであるイエス様を中心として、世界が回るか否かが問題であった。そのため長成は、縦的に見れば真ん中であり、横的に見てもそうである。そして今日、世界的舞台において転換点の鍵を握るのが、ヤンキー・スタジアムである。事実、世界史的な問題がかかっているのである。

◆すべてをかけて成そう

 数字的に七数で見れば、七数は蘇生、十四数は長成、二十一数は完成になる。ゆえに、二十一万集まることができれば勝利である。そうするとアメリカを持ち上げておくのと、同じことになる。そのため我々は、全体をかけ、命を懸けて、全財産をかけてやらなければならない。ヤンキー・スタジアムに向かわなければならない。神の国を皆さんは思うのではなく、体で感じなさい。もし、ヤンキー・スタジアムに集まったら、神はとても痛快だろう。イエス様もそうであり、先生もそうである。全霊界が感謝するだろう。そして世代が変わってくるだろう。反対する群れは縮まってしまうだろう。夢のような話であり、なぞのような話である。

 先生は、このように深刻な立場に立っていることを、知らなければならない。これまで基盤を積んできて、初めて世界基盤の霊的勝利の上に立って、肉的基盤を見つめているのである。ここで勝利するなら、三年以内に、八〇年までに間違いなく死守するようになるのである。これをいかにして共産圏まで適用させていくか。我々は闘わずして、全世界は解決されたと、堂々と神に向かって証することができるのである。ヤンキー・スタジアム大会を二十万人以上勝利することができれば、ワシントン大会で六十万、七十万以上、勝利することができる。「レバレンド・ムーン支持」と六十万が言えば、新しいイスラエル圏の出発が始まるのである。世界的カナン復帰のため、国家復帰のためイスラエルが出エジプトしたと同じように、全世界に向かって、新しいイスラエル圏の出現の時が始まるのである。

◆霊界を総動員して

 三年間は世界的基盤をつくる時である。蕩減復帰は三年間やるのである。既に韓国においては一二〇万を勝利した。皆さんがイエス様のような心情、先生のような心情と一つになって頑張れば、霊界が全体動員されて勝利できる。何となくヤンキー・スタジアムに行きたくなる。ヤンキー・スタジアムを思うだけでうれしいし、皆さんを見ればついていきたくなる、そのように心に働きかけてくるのである。だから、転換をするには最大にしなければならない。それは前にもあとにもない最後の闘いなのである。神様が深刻であり、イエス様が深刻であり、先生が深刻であり、イエス様の霊界が深刻であり、そして統一教会の皆さんが深刻になっているのである。そうなると霊界がついて歩きながら業をなす。理輸的にそうである。キリスト教を信じて霊界に行った人々が、協助する。これからはキリスト教が反対する時は長く続かない。ヤンキー大会が終わって勝利すれば反対することもなくなり、何となく統一教会に来たくなり、吸収されるのである。

 ヤンキー・スタジアムの勝利は、長成を越えていくため、堕落圏を越えていくことになるのである。それが何かといえば、世界的神の権威が立つようになるので、サタンは行く所がなくなってしまう。そのために反対することができなくなる。ヤンキー・スタジアムにおいて結論が出るのである。皆さんはヤンキー・スタジアムの大会が早くきたらいいと思うか、遅くきたらいいと思うか?

 先生は恐ろしい。もし、失敗する日はどうなるか、その点が一番、深刻なのである。それを知らなければならない。どのようにしても、いかにしても、これをなさなければならない。ヤンキーを勝利すれば、長成期を越えたことになるのである。

 アメリカの歴史は二〇〇年になる。これはユダヤ教で失敗した四〇〇〇年を、ローマ四〇〇年で蕩減復帰したように、キリスト教で失敗した二〇〇〇年を二〇〇年で蕩減して、霊的、実体的に収納しなければならない。これを収拾解決して、天的に収められるかどうかということが、二〇〇年蕩減期間と一致されるのである。イエス様の霊肉を中心とした、このような蕩減期間が二〇〇年であったということ、これは神が数理的摂理をしているのであることを、知るのである。

 これでヤンキースタジアム大会のタイトルは、「アメリカ建国二〇〇年、神よアメリカに祝福あれ」という。天国へと越えていくということである。そのようにして第二番目の峠を越えていくのである。君たち、寝る時、手も足もヤンキー・スタジアムに向けて、押し込む気持ちで寝なさい。そのように思っていればなるものである。

 そのように皆さんが成功を収めていけば、皆さんは上に上がっていくのである。イエス様も頭を下げる。神様もそうであるし霊界もそうである。

◆先生は深刻である

 きょう、十二月一日、先生は非常に深刻な話をした。きょう先生が語ったことを、これからの四十日、ないし三十日で準備していけば成功するだろう。

 先生が思うに、大会の日は五月二十七日がいいと思う。今月十二月から五月まで、六カ月ある。そのうち一カ月が三十一日の月が三回ある(十二月、一月、三月)から、五月二十七日であるからこの三数をプラスして、完全なる六カ月になるのである。五月二十七日は歴史的転換点になるのである。皆さん一人一人が、六〇〇〇年の歴史を集結して、神様の歴史自体において、聖人先人たちが信じていた、あるいはすべての我々の先祖たちが信じていた復活体となって、イエス様以上に精誠を尽くす時なのである。摂理歴史において間違いなく、あとにも先にもない歴史の最頂点に立ってあらゆる力を尽くして、私が神様の前に立って「君はそれ以上できなかったのか」と聞かれた時、「自己のでき得る最大の基準までやりました」と言えるようになれば、皆さんも先生も、責任を免れるのである。これをもし、知って、あらゆる精誠を尽くさないとするなら、億千万代の恨みとなるのである。皆さんと先生が一つになって、二十四時間、サタンも休まないし神様も休まない、我々も休まない。そのような思いをもって、これからの六カ月、最後の地獄のような期間であり、再び、あってはならない期間であり、思うだけでも身震いするような期間を、皆さんは真剣に越えなければならない。

 そういう思いでもって、あらゆる精誠を尽くして神の前に誓い、きょうから六カ月、総動員していこう。














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