御旨と世界
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私たち自身を知ろう

1979年9月30日 ニューヨーク ベルベディア


◆自分自身の価値を問う

 自分自身を知るということは、たぶん私たちの人生において最も重要なことの一つでしょう。あなた方は、「私たち」あるいは「私」と言う時、心に、ある同一性をもちます。例えば、アメリカでは「私はアメリカ人だ」という二億四〇〇〇万の人々がいます。しかしそれらの人々は、最下層のアメリカ人であったり、非常に高貴なアメリカ人であったり、その中間であったりします。あなた方は自分をどう思いますか。アメリカ国民であることはさておくとして、あなた方は何者ですか? あなた方は親から見れば、その子供です。この国では、あなた方の親は多くの国籍の混血から生まれた子孫ではないでしょうか。ですからあなた方の家系を調べると、多くの種類の国籍が見られることでしょう。あなた方の血統は誇らしかったり卑しかったり、また、あなた方の先祖は誉れ高いか不名誉であるかの、いずれかです。親の血統は、互いに争い合っていたことがあるかもしれません。

 統一教会のメンバーとして、「自分は何者か」と自問してみてはどうでしょうか。ここに基本的には二つのタイプがあります。ある人は教会の支柱の一つになっているでしょうし、またある人はここにいてもいなくても大した違いがないかもしれません。あなた方は自分がここで重要人物であるかどうか、ある程度認識しているのではないでしょうか。

 人は誰でも、何らかの状況で自分が中心に立つことができるという見方で、物事を考えがちです。なぜかというと、人はそれぞれ、自分は何らかの価値とか重要性をもっていると思っているからです。また誰でも、何らかの野心とか熱望をもっており、人間が欲することには際限がありません。あなた方は、自分が重要人物だと感じますか。また人生において、何らかの熱望をもっているでしょうか。この点に関して、民族間、あるいは過去、現在、未来の人々の間で相違点があるでしょうか。ありません。あらゆる人はこの点で同じです。人は自分が重要であり、認められたいと思っており、また毎日、自分自身を向上させたいと思っていると結論づけることができます。これは人間共通の熱望です。

 私たちが善人であるか、悪人であるかを判定してみましょう。善人という概念にも、様々な種類や基準があります。善人か悪人であるかを決定するのが誰であるか、それを知ることは重要なことです。それは、あなた方がするのでしょうか。それともほかの誰かがするのでしょうか。それは、ある人の個人的な権利でしょうか。それとも多くの人々の意見で、善か悪かを決定するのでしょうか。善は、公的な観点から判断されなければなりません。そして一人の人が善かどうかは、彼が全体の幸福と利益にどれだけ貢献したかによって決定されることになるわけです。ある人は、自分が美男子だとか美人だとか誇るかもしれません。しかしもし、その人の指の一本が欠けていたとしたら、その人の容貌は完全と言えるでしょうか。その人は全体的な観点から見て、ある部分が欠けています。価値は、全体的な観点、すなわち全体あるいは完全という観点から判断されます。善人とは、全体が善だと認めることができる人のことです。

 ある人が、自分は家族の中で一番善人だ、と考えたとしましょう。すると、私の両親だけは私を良い子だと思うかもしれませんが、もし妹が私をひどい兄だと思っているならば、自分には何かが欠けていると思わなければなりません。それでは、家族の中で一番の善人かどうかを決定するのは誰でしょうか。それを決定するのは、家族全員の一致した見方によります。では、どうしたら家族全員から賞賛されるようになれるでしょうか。それは、私利私欲を捨てて彼らに仕えることです。そのように自分にとって重要な人として彼らに対してあげるならば、彼らはあなたを尊敬するでしょう。
 

◆宇宙の根本的法則は犠牲と奉仕

 世論に認められるための基本的な公式は何でしょうか。そこには二つの鍵となる要素がなければなりません。それは犠牲と奉仕です。もしあなた方が、他人から仕えられることを願い、他人を犠牲にしようと思っているとすれば、あなた方は善人だと言えるでしょうか。あなた方自身が犠牲と奉仕の中心にならなければなりません。

 私たちのこの群れは重要な群れです。なぜならば、この群れは世界の縮図であり、ここには、あらゆる国籍や人種の代表者が来ているからです。もし、この代表者の群れの間で「これが、善なる男、女が誰であるかを決定する原則だ」と意見が一致したならば、それは全世界に通用する原則であるに違いないでしょう。ある人々は、奉仕と犠牲は良いことだ、と賛同して努力するでしょう。またある人は、この問題についてくよくよ考えるだけで、何もしないかもしれません。あなた方はどちらのグループに入るでしょうか。

 もし、このような生き方を自ら実践してきたと感ずる人がいたとしても、あなたは全世界から善人だと認められるような基準に立っているでしょうか。あなた方は二億四〇〇〇万人のアメリカ国民から仕えることを当てにして、奉仕と犠牲を実践するのでしょうか。それとも、自分で二億四〇〇〇万のアメリカ国民に仕えなくてはいけないと思って、そうするのでしょうか。明らかに、そうしなくてはならないからするわけです。

 さあ、私たちは、善人の定義について意見が一致しました。では、あなた方はアメリカという限られた範囲で最高の善人になりたいですか、それとも世界的な基準でそうなりたいと思いますか。アメリカは世界の縮図です。あなた方は、アメリカにいるあらゆる人種や国籍の人々を愛しますか。もし、人種に対する偏見をもっている人がいるとしたなら、その人は善人と言えるでしょうか。その人が黒人を嫌った場合、黒人だけが“彼は偏見をもっている”と思うでしょうか。それとも彼の態度は、彼自身の人種の人々からも非難されるでしょうか。こうしたことは一人種だけが下せる判断でしょうか。それとも、もっと普遍的な判断があるのでしょうか。

 私たちは、どんな人種であろうとも、それにかかわらず、そこにはある普遍的な原理が関係しているということを認めなくてはなりません。宇宙にはある根本的な法則があり、それを犯す人は、その人の人種や才能がどうであれ、それなりに審判されるでしょう。そのような宇宙の構造の根本精神は何でしょうか。それは、他人のために生きようとする男性や女性を、守り支えようとするものです。それはまた、他人を利用し、自分の利益だけを得ようとする人々を排除しようとします。こういうわけで善人とは、他人のために存在する人間のことであり、善行とは、他人の利益になるような行為だと言うことができます。
 

◆罪とは宇宙的法に違反すること

 もし、ある人が裁判にかけられて、憲法を犯したとして有罪宣告を受けたとするならば、彼は良い気持ちがするでしょうか。有罪とされた被告は、よく裁判所の判定に強く抗議して、「社会にはこんなに間違ったことがたくさんあるのに、どうして自分だけが悪いのか。それを教えてくれ」と申し立てます。通常、裁判所は、被告が抗議したという理由だけで、その判断を覆すようなことはしません。人間の裁判所でもそのようなことはしないのに、「宇宙的な裁判所」が判決を覆すようなことをするでしょうか。

 正義の司法制度には、常に情状酌量の余地を残していますが、それを受けるためには、心からの悔悛の情を示さなければなりません。「悔い改め」ということが重要な言葉です。ですからイエス様は、「悔い改めよ、天国は近づいた」と宣言したわけです。では私たちは、何を悔い改めたら良いのでしょうか。それは非常に単純です。私たちは、他人のための犠牲と奉仕に生きるという規則に違反したすべての行為を、悔い改めなければなりません。これが第一のイエス様の教えであったわけです。キリスト教の本質は、貪欲と利己心の罪を悔い改めるように求めるところにあります。罪とは、他人に対する奉仕という宇宙的な法に違反することである、と定義できるでしょう。

 大きなデパートからドレスを盗むということは悪いことです。そのドレスには、それを調整した人から生まれた価値があり、それを盗む人は、その公的な価値を無にすることになるわけです。それは明らかに罪です。また、ある人はいつもうそをついて、それでいて自分の良心が痛まないかもしれません。うそをつくという動機には、いつも他人を利用するために何かを隠すということが含まれています。そうでなければうそをつくはずがありません。あらゆることがこの宇宙的な原理に包括されており、それに従って、あらゆる行為を判断することができるのです。

 ある人が道端で醜い女性を見て、彼女を殴り倒したとします。その理由として、自分はその女性を見ることに耐えられないし、また同じようにその女性を見たくないと思っている他のアメリカ人のためになることをしたのだ、と思ったとしましょう。もし、それが彼の動機であったとした場合、彼の行為は罪でしょうか。そのようにその人は自分の行いを正当化しようとするかもしれませんが、しかし、宇宙的な法はそれを認めないでしょう。宇宙的な法は、彼女がどんなに醜くても、他の誰とも何ら変わらない価値があると宣言するでしょう。なぜならば、彼女も創造主によって造られているからです。ですから、誰であっても彼女を殴り倒す権利はありません。

 この原理に関するあらゆる事柄は、二つのキーワードに集約されます。つまり犠牲と奉仕です。他人に対する犠牲と奉仕の生活をしなかったからといって、ある人を有罪とする判決を支持する判事が、今日の人間の裁判所にいるでしょうか。どんな法律によって、犠牲と奉仕の行為に対する判定を下すのでしょうか。確かにそのような行為は国家の法律には扱われていませんが、それは公的な承認によって支持されるものです。もし、ある人が自分の国家に対して犠牲的な奉仕を行ったとすれば、その国は彼にメダルを授与し、国家的な拍手喝采浴びせて褒めたたえます。

 これに対して、「奉仕に関する宇宙的な法は自分には似つかわしくない」と不平を言い、「どうして自分には表彰状がもらえず、また自分の生活を楽しむことができないのか教えてくれ」と言う人がいるかもしれません。そのような利己的な貪欲な人々をたたえる社会は長続きするでしょうか。もし、そのような生き方が繁栄するとすれば、どのような統一も調和もあり得ないでしょう。もし創造主が利己心を宇宙的な法として施行したとすれば、その法はあらゆる人間のみならず、全物質世界にも適用されることになります。すると、小さな細胞の一つ一つが、宇宙のすべては自分だけのために存在し、他の細胞にはどんな権利もないと主張するかもしれません。そのような態度は、分裂と破壊以外の何ものも生み出しはしないでしょう。

 しかし、実際は、宇宙的な法はそのようには働きません。誰も、目の細胞が重要であることを否定しません。それらの細胞は、体全体の利益のために存在しています。全体目的は目の存在に優先しますから、目は、体全体に共通する普遍的な法に従わなくてはなりません。なぜならば、宇宙がその見方を支持し、そのような生き方は繁栄につながる生き方であるからです。
 

◆宇宙的法のもとの公的目的

 あなた方は毎朝、朝食を食べるでしょう。あなた方の食事を構成する動物や植物は、どこから生まれるのでしょうか。食物を食べるために、あなた方はいろいろな植物を無慈悲に切り倒し、それからそれを歯でかみ砕き、それらを飲み込まなくてはなりません。そうしてもサラダの中にある野菜は、あなた方に反抗しません。なぜならば、それらは宇宙的な法を知っており、自分たちはより大きな目的のために存在している、と思っているからです。それらの食物がそういう姿勢をもっているので、人間が公的な目的に向かって奉仕するために、それらの食物を食べたとしても、彼らは感謝するわけです。ここでは目的が調和しています。

 皿の上の食物は、人間の生きている目的に対して、ある感謝をもっています。そこにのみ、人間と食物との調和が成り立つことができるわけです。もしそうでなければ、食物は食べられるたびに人間を嫌い、人間の笑い声を聞いても憤りを示すでしょう。重要なことは、食物は人間が公的な目的のために生きていることを知った時に、初めてあなた方を受け入れるのだということです。食物は、自分を食べたいと思っている貪欲な人間の笑いに対しては、憤りを示します。

 もし、人が公的な目的のために生きていないならば、食物は時々、それを食べた人のおなかの中で人間に対してデモを行います。すると、その人は病気になったり、場合によっては死ぬこともあります。宇宙的な法のもとでは、善は栄光、悪は滅びることになっています。今、あなた方は明確に、善の方向が奉仕と犠牲を伴っていることが分かりましたが、今までの歴史においては、その定義はあいまいで焦点がぼけていました。

 この定義が正しいか間違っているかを調べてみましょう。この世界のあらゆるものは、善悪二種類のうちの一つに属しており、あなた方の目から流れ落ちる涙一つでさえも、善か悪のいずれかに分けられます。耳や目も、二つの働き方があるのです。もし、目が世界を見渡し、困っている人がいれば行って助けてやりたいと思っているのであれば、その目は善の働きをしています。もし目が、その人を利用するために、人の弱点を見つけようとしているのであれば、それは悪の働きをしているわけです。

 アメリカにはあらゆる種類の音楽がありますが、それは誰のために演奏されていますか。ディスコやロック・ミュージックは善であるとか悪であるとかは言えません。それらがどんな目的のために役立っているかが、考慮すべき核心部分でなければなりません。もし、それらが公的な目的のために役立っているならば善です。もし、そうした音楽やダンスが、個人の肉体的な喜びや、人からお金を得ることだけのために用いられているならば、それらは悪の目的のために役立っていることになります。ところで、ディスコ・ミュージックが今日、私利私欲を忘れて、公的な目的のために演奏されているという気配が見られますか。そういうわけで私は、ディスコに行くことには賛成しないのです。もし、ダンスをしたり、そうした音楽を聞くことが、人々を暗闇から光に引き上げるのに役立つならば、一年間の三六五日、行き続けなさい。それだけの確信があなた方にありますか。これは私の考えにすぎず普遍的でないから、私がいなくなれば、それはもう適用されなくなる、とあなた方が思うのは正しいでしょうか。

 この宇宙的な法が、いかに過去、現在、未来を通じて不変のものであるかを示す、二つの素晴らしい実例があります。イエス・キリストは地上で最も惨めな生活を送りましたが、彼は十字架上で自分の敵を許すことができました。彼が死ぬ時、彼はこの世的な意味では敗北者のように見えました。しかし、彼の思想は過去二〇〇〇年の間に、ほぼ世界を征服し、歴史は彼の誕生の年から数えられています。一方、これに対して、武力で世界を征服したと思ったヒットラーやナポレオンは、一時的には成功者のように見えたかもしれませんが、彼らの業績は今も残っているでしょうか。残っていません。それは、彼らも宇宙的な憲法の主管のもとにおかれており、彼らの活動は受け入れられないものだからです。

 歴史上の聖人たちはこの原理を生き、善なる生き方を実践した人々です。聖人とは、神と同時に人類に仕えて生きた人々であり、宇宙的な基準で生きた人々なのです。人々は、聖人と親戚であるとか、同じ国の出身者であるとか言って、聖人と何らかの因縁をもっていることを誇りとします。どうしてそのように誇りとしたいのでしょうか。なぜならば、それは、聖人が宇宙の最も根本的な原理を生きた模範であるからです。
 

◆押し出すのは公的目的のため

 きょうの説教の題目は、「私たち自身を知ろう」です。あなた方は、どのような種類の人なのでしょうか。あなた方は今、自分自身の行動を評価する何らかのガイドライン(指針)を得ています。たぶん、あなた方の体は、ちっとも人のために働きたいとは思わず、他の世界が自分のために働いてほしいと願っているでしょう。普通あなた方は人に命令されるとき、反逆的な姿勢をもっていますが、天国ではそうではなく、あなた方はその人を通して宇宙につなげられていると思えるのです。

 そういう意味で、あなた方は私が好きなのですか。それは、あなた方は私が仲保者であり、私を通してより素晴らしい幸福に前進跳躍できることを知っているからです。私は、どのような種類の人間なのでしょうか。ある人々は最もひどい言葉で私を表現し、「ヒットラーやスターリンのような悪人でも、自分の国民に賃金を払って働かせたのに、レバレンド・ムーンは誰にも賃金を支払わずに、彼らをこき使っているから極悪人だ」と言っています。私があなた方にお金を与えずに、あなた方を働かせているから極悪人だ、と彼らは言っているわけです。もし私が、彼らが言うように悪人だとしたら、あなた方はどうして出て行かないのですか。私は悪人ですか、それともそうではないですか。

 私は、歴史上どんな独裁者よりも強くあなた方を押し出そうとしている、という非難を受け入れることはできます。しかし、問題の中心は、私の目的が何であるかです。私の目的は、あなた方を今のあなた方よりも国家よりも偉大なるもののために働かせることです。それは世界のため、神のためということです。したがって私の目的は、完全に私利私欲から離れた動機から出発しています。あなた方が一生懸命に働いている時、私はあなた方以上に懸命に働いています。私の行動の一つ一つは、他人のための犠牲と奉仕の生活をするという、この原則圏内にあります。私はこれを自らが行っているだけでなく、他の人々をも公的な目的のために生きるように押し出しているわけです。すると私は悪人なのでしようか。それとも善人なのでしょうか。

 親は時々、子供を勉強させようとプッシュします。そういう時は非常に残酷に見えますが、その動機は自分の利益のためではなく、子供を強くしょうとすることです。これらの両親は、子供が未来の指導者になってくれるよう願っています。そうした親は善人でしょうか。悪人でしょうか。また別の親は、子供にしたい放題のことをさせるでしょう。それは子供には素晴らしいように聞こえるでしょう。しかし親というものは、しっかりとしていて、子供をプッシュして、その人格を神中心に形づくるほうが素晴らしいのです。表面的に素晴らしく見える優しさは、実は、親が公的な目的を気に留めないという事実を反映していることがあるわけです。

 教師もまた二通りに分類することができます。学生は決まって勉強することを嫌がり、先生には放っておいてもらいたいと思うものです。また妻にも二通りあります。一方の妻は、自分の夫が今までどこにいたか、彼がどれだけお金を使うか、どうして彼はもっと多くの時間を子供と一緒に過ごさないか、といったことについてがみがみ言います。もう一方の妻は、夫がいない間に自分の楽しみをもとうと決めています。この場合、がみがみ言う妻のほうが、公的な目的のために働いていると言えます。ある夫は、妻に、「許可を得ないで外出してはいけない」とか、子供や家の面倒を見ることについて厳格です。また別な夫は、優しく、“お互いが好きなようにやれば良い”と感じています。この場合、最初の夫のほうが非難されるべきでしょうか。

 監督者を十人もつ人と誰一人もたない人とでは、いずれの人が善の側に立ちやすいですか。監督は重荷のように見えるかもしれません。しかし監督の規律と要求は、あなた方により多くのことを成し遂げさせようとプッシュすることができるのです。

 統一教会のメンバーは一時に一つのことしかできません。それでは普通の人々と同じです。私の方針は、あなた方に、一時に百ものことに取り組んでほしいということです。時々私が一時にあまりにも多くの指示を出すので、アメリカのメンバーたちは動けなくなって、どちらに動いたらよいか分からなくなることがあります。しかし、ごく小さい東洋のメンバーは、一つの使命から別の使命へと飛び回りながら、蟻のように走り回り、どうにかこうにかして結果をもってくるのです。
 

◆神と一つになる

 さあ、あなた方はもう善と悪を判断する方法が分かりましたね。神はいかなるお方でしょうか。神は宇宙の公法の主人であり、中心です。ですから次の一つのことだけは言うことができます。つまり、神は宇宙で最高に公的なお方です。神は、奉仕と犠牲という二つの基本的な原則の創造主であり、創始者です。これらの際立った特徴をAタイプの血統と呼んでみましょう。もし、あなた方の親が両方ともAタイプの血統であったとすれば、あなた方もまたそのようになることは、ほぼ確実です。同様に、もし私たちが神によって造られているとすれば、神の原則は、また私たちのものになっているはずです。

 神はそのような生き方を宣布しておられるのですから、すべてのものも、またそのような生き方に従うはずです。そのようにして神が宇宙を思い描いたので、その原則に違反するものは何であれ、苦痛を受けます。私たちがそのように生きて神との授受の関係を造成すると、そこから、生活に調和と活力がもたらされます。誰でもそのような授受の関係につながれるものは、永遠の生命を満喫するでしょう。なぜならば、そこには終わりがないからです。なぜ、私たちは犠牲と奉仕の生活をしなければならないのでしょうか。究極的には、神と授受関係を結び、神のエネルギーに連結されるためです。

 なぜ私たちは、神と一つにならなければならないのでしょうか。それは、そうすることによって永遠の生命を満喫するためです。神は力の根源です。神は最高の方ですから、神と一つになることによって、あなた方も同じく最高になるのです。神は絶対です。神と一つとなることによって、あなた方もまた絶対的な存在となり、そうした一体化の中であなた方は守られるでしょう。なぜならあなた方を傷つける力をもつ者は、他には誰もいないからです。神と一つになることによって、神の力とエネルギーはあなた方の力とエネルギーになり、あなた方は神の似姿に似た子女となります。ありとあらゆる種類の愛がありますが、太陽のように輝く神の愛に勝るものはありません。そうしてあなた方は、その愛を受ける者になるのです。

 太陽は暖かさと光を発しますが、あなた方が神の愛という太陽の一部になる時、あなた方もまた、生命を与える存在となり、どこへ行っても、調和と生命をもたらすことができるでしょう。そのような人はいつも生命とエネルギーをもたらし、天的でないものを溶かしてしまいます。あなた方の多くは、最初統一教会に来た時、その教義を不信していました。あなた方は一塊の氷のようでしたが、原理を聞くと、あなた方は溶けて水になり始めました。そのとおりですか、違いますか。もし、このことが本当だったら、これは歴史的な事件です。

 あなた方をこのように鼓舞するために、私はどのようなテクニックを使うというのでしょうか。私は催眠術師や魔術師なのでしょうか。ここには何の魔術もなく、ただ宇宙的な法が働いているだけです。私がしなくてはいけないことは、この法則を教えることです。私が時々、あなた方に「出て行って宇宙的な目的のために働きなさい」とお願いするとき、非常に残酷なように見えることがあります。しかし、それは善のためでしょうか。悪のためでしょうか。それは善のためであり、その善も、非常に大きくて、神の大きさくらいのものです。
 

◆すべての歩みは人類と神の解放のため

 私は、この宇宙的な法以外に、私自身の所有物をもっていません。さらに私は、この運動のために誰よりも一生懸命に働き、より多く苦しもうと熱望しています。神は、私がどんな原則のもとに生活しているかを、よく知っておられます。もし、サタンが神に対して、私があまりにも多くの成功と繁栄を得ることを許されてきたことに不満をもらし、私がそれにふさわしいどんなことをしてきたかを示してほしいと願うならば、神は私をサタンにテストさせることを躊躇されるでしょうか。私がこれまで共産政権下の収容所で信じられないほどの迫害や拷問を受けたのは、サタンが私をやめさせようとしているからです。しかし、そのすべてを通過しなければならなかった時でさえ、私は心変わりをしたでしょうか。

 全世界が私を迫害してきたというのは、真実でしょうか。アメリカは盛大な待遇をして、私を歓迎しなかったではないですか。多くの国家元首は、私が彼らの国に来るのを歓迎しないではありませんか。キリスト教徒やユダヤ教徒は私たちの友人であるはずですが、実際にそうですか。共産主義者たちは、私を友人と呼んでいますか。歴史を通じて、私ほど全世界から迫害され、多くの反対を受けてきた個人はいなかったと思います。しかし、この反対のために私は粉々になったでしょうか、それとも私は、以前よりも強くなりつつあるでしょうか。

 私はなまぬるくもなく平凡でもありません。つまり、私は本当に悪か、本当に善であるかのいずれかなのです。私は東洋人ですが、白人の人々でさえ、あなたは善だ、と私に語っています。それは世界にとってなぞであり、彼らはそれを解明することができません。あなた方は本当に、私が善であると信じますか。だから人々は、私があなた方を洗脳したと思うのです。それはあまりにも驚くべきことなので、彼らには信じられないわけです。実際、私は洗脳したでしょうか。あなた方がしたことは、宇宙の原理に自らを連結させたにすぎません。しかしあなた方自身でさえ、いつ自分が変わったかを悟っていません。あなた方は、以前はこの世の人々と何ら変わりませんでしたが、この生き方に従うにつれ、膨大な距離を踏み越えて、非常に変わりました。

 最近では各々の宗教が、それぞれ誇りをもっています。現在、ローマ法王が多くの国々を訪問しており、何百万という人々が彼を見に詰めかけます。しかし彼らの歓声は、カトリック教会のためのものでしょうか、それとも世界の救いのためのものでしょうか。もしその声が、カトリック教会のためだとしたら、それは十分だとは言えません。しかしもし、その集まりが神と人とが一緒になって人類を救済する手助けをしようとするものであるならば、それは善です。もし彼らが、公的善のために、より多く自分を犠牲にしようとする決意を強化するために集まっているのだとすれば、そのような集合は良いものです。

 統一教会員は、良いグループ(団体)の人々ですか。では、私たちのどこが良いのですか。私たちは統一教会のために集まっているのではなく、神と人類の解放のために集っています。私たちが行うことは、最高の神のためです。もし私たちが、神の祝福と特権を受けるためだけに集まっているのだとすれば、私たちは善なる人々ではありません。私たちは、人類と神の解放のために、私自身を捧げるために集まっています。だから私たちは、神を中心とした教会であるわけです。その場合、それを創設した指導者も、同様に善であるに違いありません。私たちがより熱心にゴールを追求すればするほど、それだけの成功と繁栄がやってきます。私の哲学と理想は、神の解放のために生きることであり、ただ単に人類とか霊界のためだけではありません。誰も、これまでにそのようなゴールについて語った人はいませんでした。
 

◆ゴールを目指して犠牲を捧げよ

 これはむなしい言葉でしょうか。それとも、私は本当にそれを行っているのでしょうか。私にとっては、夜も昼もありません。なぜなら、私はいつも、そのゴールのために働いているからです。あなた方は私に会えて幸運でしたか、それとも不幸でしたか。実際、私は野心家であり、貪欲で無慈悲です。しかし、私はこれらの特質のすべてを、あなた方一人一人を神を中心とした指導者としてつくり上げるために使っているのです。それは、私があなた方を敗北者ではなく、勝利者にするために、あなた方を鉄の意志で言い知れない苦難と困難に追いやるということを意味しています。たとえ誰かが、「お前がこの教会を捨てないなら、お前の目をえぐり出してやる」と脅しても、あなた方は、「あなたが私の目をつぶしてしまっても、私は変わりありません。私の目は善のために犠牲になります」と答えることができます。あなた方は、このように感じたそのあとには、たとえ「痛い」と言ってもかまいません。すると、神もまた、その痛みを受けられるでしょう。

 あなた方がからかわれ虐待される時、あなた方は当然、苦痛を感じます。しかしもし、神の解放という絶対的なゴールのために仕えているならば、あなた方が背負うあらゆるものを、神もまた背負ってくださいます。神は、あなた方が神のために、また人類のために死んだと宣言されるでしょう。すると、神と人類はあなた方の前に敬礼をするでしょう。なぜならば、あなた方は、最も聖なる祭壇の上で犠牲を捧げたからです。

 ここに初めて来た人は、手を挙げてください。あなた方は、私が真実を語っていると思いますか。それとも思いませんか。あなた方は、まだ、見るだけのために来たのですか。それとも、自分も共に参加したいと思っているのですか。この宇宙的な原理を、暗闇と混乱の中にいるアメリカの青年に教えなければなりません。私たちがもたらす光は、アメリカに必要なものだと、あなた方は思いますか。夜であろうと昼であろうと、答えは、なお「イエス」です。もし私がこの任務を全うしなければ、神は、それをする別の人を探し出すでしょう。これはアメリカに残された唯一の道であり、誰かがそれをしなくてはいけないのです。さもなければ、希望はありません。

 毎日神のみ旨を達成しようとする人は、議会などから褒めたたえられるのではなく、逆に人々から迫害され嘲笑されるでしょう。彼の任務は、そうした立場にあっても、達成されなければなりません。犠牲と奉仕は、私たちの生活の信条でなくてはなりません。美しい女性は、神の法のために、その魅力を喜んで捧げようとするでしょうか。最もハンサムな白人の男性と、最も醜い黒人の女性とが一緒に祝福されて結婚し、祭壇において神に献身することを想像してみてください。それは想像できる、最も劇的なことです。彼らはたぶん、この世で最も幸福で最も魅力的な夫婦になるでしょう。彼らは歴史的な天国への扉を開くことにより、神は彼らの結婚によって解放されるでしょう。神は真に命であり愛であり、このような劇的な結婚を探し求めています。

 あなた方の目を見ると、ある波動を感じますが、それはまだ百パーセント清いものではありません。もし、美しい男性が、女性の中から可能な限り、最悪の女性でも受け入れることができると確信をもつならば、このギャップは埋められるでしょう。二人の極と極とが一つになり、幸福になることができた時、それらの極と極とによって包含されるすべての人々は、幸せなカップルになることができます。両極端を代表するカップルが天国に到達すると、彼らはどこへ行っても完全な自由を満喫し、会いたと思う人には誰にでも会えるでしょう。それが統一教会の精神であり、地上の神の国の建国精神です。
 

◆自然は私たちの第一の親

 全世界があなた方に敵対する前に、私がサタンの役を務めて、残酷で無慈悲でいようと思います。あなた方は、それを受け入れますか。それだけでなく、神もまた私以上に、あなた方に対してつらく当たることでしょう。あなた方はそれを、なぜ受け入れることができるのでしょうか。それは、あなた方が最もやっかいなテストを通過することによって、神の最も深い愛を相続することができるということを知っているからです。その唯一無二の愛を受けるために、あなた方は、どんな重荷をも背負うことができると感じているのです。このような信念をもった人々は、陰気で不幸せそうな顔つきをしているでしょうか。それとも彼らは、雨が降っても晴れていても、とっても元気にあふれているでしょうか。なぜ私たちはこの任務を担い、私が言うように、この生命の狭い門を通っていかなければならないのでしょうか。

 神は、御自分の二性性相をもって、すべてのものを造られました。それらのものは神と縦的につながれているだけでなく、互いに横的にもつながれています。神は霊であり、被造世界は物質です。また、物質世界が横的であるのに対して、神と霊界は縦的です。神の見えない二性性相は見える形に現されました。したがって、あらゆるものは神のかたちに従って造られているわけです。ここにおいてあなた方は、どこに属していますか。一人一人は宇宙の縮小体です。あなた方の体は、世界のすべての要素で造られています。自然は、あなた方の体を造るすべての成分を、供給したわけです。ということは、つまり宇宙は自らを捧げることによって、あなた方を造ったということになります。もし自然が、あなた方に貸し付けたものをすべて返してくれと要求したとすれば、あなた方には何か残るものがありますか。あなた方は、宇宙があなた方を生み、あなた方を造ったと感じることができます。

 だから、自然があなた方の第一の親であるわけです。あなた方は、自分が宇宙の縮小体であるということを気持ちよく感じますか。あなた方のうちには、すべての宇宙の型とか公式とかいったものが見いだされます。厳密にいうと、あなた方は動くことのできる小さな歩く宇宙であるのに対して、宇宙は静的です。あなた方は動き行動できるので、宇宙を治めることができるのです。宇宙はあなた方に主管されたいと望んでいますから、あなた方の第一の義務は、自然を愛するということです。そこで、あなた方はどこにいようと被造物を愛し、それを鑑賞することができるのです。

 あなた方は草木や花、鳥や流れる水を愛したいという衝動を感じるのですから、どうしてあなた方の同胞たる人間を愛せないことがあるでしょうか。浜辺に横たわる時、あなた方は親の懐の中に横たわっているように感じたり、木にもたれかかっている時、兄弟にもたれかかっているように感じることができます。自然はそれに対して、抗議したりするでしょうか。それとも、あなた方がそれを真に愛し、知ってくれていると感じるでしょうか。すべてのものは、あなた方のために存在しています。だからその理由のために、あなた方はそれらを鑑賞することができるわけです。男性は宇宙の一人の息子であり、女性は宇宙の一人娘です。それならば、両者間にどれだけ深い愛が可能となるでしょうか。

 あなた方はかつて、太陽と会話し、自分はそれを愛すると言ったり、それに対する愛の歌を歌ったりしたことがありますか。自らを詩人と考えている多くの人々は、この真理の深さを理解していないので、彼らの詩は表面的で浅はかです。私は真実を言っているでしょうか、それとも、そう装っているだけでしょうか。
 

◆すべてを親として愛しなさい

 あなた方の第二の両親は、あなた方自身のお父さんとお母さんです。彼らは宇宙を代表しており、あなた方の命を生むために働かれました。男性と女性たちは、自分は宇宙の中心だと感じてもよいでしょう。なぜなら、宇宙の代表者である両親が、肉体の生命をこの地上に生み出してくれたからです。あなた方の両親は、父親と母親だけではなく、全人類――つまり教師や近所の人たち、親戚をも表しています。ですから親に仕える時、実にあなた方は、ただ単に二人の個々の人々に仕えているだけではなく、全人類に仕えているわけです。そうすることによって、全人類に愛されるのです。このような歴史的な背景から、息子、娘である私たちの徳は、親に孝行心をもって仕えることだといえます。あなた方の目の前の家族や近所の人々は、人類の縮小体を表しているわけです。あなた方の姉妹は全女性を表し、あなた方の兄弟は全男性を表しています。したがって、あなた方の家族は人類の縮小体です。

 真実の人間は、すべての人々を、「一つの人間の家族」とみなす人です。真なる男性、あるいは女性であれば、年上の人を見ると、その人を自分自身の親、あるいは祖父母とみなします。また、別の若い男性や女性は兄弟姉妹であるわけです。もし真なる人間であるならば、自分の家族だけでなく、全人類を愛します。自分の家族だけを愛して他の世界を愛さないということは、原理に反しています。もし、たまたま白人である人が黒人の家族の一員となったり、年上の人や若い男女を自分の祖父母や兄弟姉妹のように愛するのを見るのは、最も刺激的な冒険です。

 もし誰かが大変な困窮状態にあるのを見たならば、あなた方は彼らの必要を満たしてあげたいと思うでしょう。なぜなら、彼らは単なるあなた方の同胞であるのみならず、あなた方の兄弟姉妹であるからです。ここアメリカでは、親が年を取って自分自身の世話もできなくなったとき、彼らは子供の家に行くでしょうか。それとも老人ホームに行くのでしょうか。どちらが理想的ですか。あなた方は、他のすべてのアメリカ人と全く同じように、老人は老人ホームへ行くべきであると思いますか。おばあさんは、自分の孫を訪ねるのと、老人ホームを訪ねるのとでは、どちらがうれしいと思いますか。

 あなた方は自分のおばあさんを、自分の家に受け入れたいと思いますか。あなた方は現実的にそれをしようと思っていますか、それともここにいるから、「はい」と言っているだけですか。あなた方は自分が新婚の妻だとしたら、大勢親戚のいる夫の家族と一緒に住みたいと思いますか。それとも、彼と二人きりで生活したいと思いますか。もし、宇宙の公法に従って生きたいと思うならば、彼の家族と一緒に住みたいと思うでしょう。

 あなた方は自分を生んでくれた親をもっていますが、究極的には、あなた方はあなた方を創造した非常に重要な親をもっています。……それは神です。あなた方の両親は、神があなた方を創造するために用いた道具であったわけです。真の父母を求める旅は、第一の親である自然を愛することから始まり、その次は自分を生んでくれた親を愛し、それから究極的な親、つまり私たちの創造主である神のもとに行きます。神は究極的な目的であり、私たちの永遠の父母です。現在誰もが恐れている死の瞬間は、実は成就の時間です。もしあなた方が、この地上で正しく生活を送っていれば、あなた方の生活は、究極的には一人の共通な親のもとに導かれます。すると死の瞬間は、あなた方を、その親と永遠に生きるために解放する時なのです。神は私たちすべてにとって真の親であり、終わりのない真の愛をもっています。神と共に生きる生活こそ、私たちが天上天国と呼んでいるものです。

 その世界の主たる雰囲気は最高の愛です。その愛は利己的なものではなく、犠牲と奉仕に基づいています。それがそのような宇宙的な法を基盤としているので、その最高の愛は繁栄するのです。
 

◆統一教会の存在理由

 霊界における天国は、私たちの究極的な目的地であり、この地上における私たちの肉体をもった生活は訓練にすぎません。私は、宇宙の中核となる真理を発見したとき、このことを見つけました。地上生活は永遠の生活のための準備にすぎず、私たちがそれに合格するか失格するかは、この地上で決まるのです。そうした認識を得て、私は、さらに宇宙の根本原理を取りたいと祈りました。すると解答が与えられました。……父子の関係が宇宙の根本なのです。それは被造物(自然)とあなた方との関係であり、両親とあなた方との関係であり、そして神とあなた方(人間)がもつ関係です。

 私たちは地上にいる間、あらゆるものの内で最も大切な訓練に参加しているのであり、究極的に天にある私たちの目的地に到達し、永遠に神と父子の関係を満喫できるように、この原則を学んでいるのです。これが統一教会の存在する理由であり、私があなた方を指導している理由です。すべての生活は、神との永遠の関係を築くための訓練です。

 例えば、物質――お金を扱う場合を考えてみましょう。それは自然から生まれたものであり、それゆえに私たちはそれを大切にします。あなた方はお金に、「君は今まで、神の目的のために使われることを待ってきたのでしょう。今ようやく、本来の位置についたんだよ。私が君を真の父母と神につなげてあげよう」と言うことができます。

 あなた方は世界のどこへ行っても、ある困難や迫害に遭いますが、そこからあなた方は、自分の仕事にふさわしい、より大きな価値を獲得するのです。もし、容易にできるとするならば、それにはあまり価値がないでしょう。あなた方は持っているお金や物が大きかろうと小さかろうと、それを真の父母に連結させたいと願っています。そうすることによって、それが真の価値をもつためです。万物は熱心にこの関係を待ち望んでおり、あなた方はその仲保者なのです。たとえあなた方が、年を取った著名で社会的に熟達した人であったとしても、あなた方は自然とこのような連結をつける、そういう役割を果たす必要があるのです。

 私たちの使命のもう一つの重要な部分は、人間の復帰です。人々を見るとき、彼らは長い間、神のもとに復帰されることを待ち望んできたと考えることができます。あなた方は人生の道と目的を知っているのですから、今、彼らの所へ行くことができます。あなた方は、彼らを神のもとに連れてくる仲保者となることができます。あなた方は人々に手を差し伸べることによって、実は自分の両親にも仕えていることになるのです。あなた方を子供としてもっているおかげで、あなた方の両親は栄光を受け、救われるのです。あなた方がアメリカの迷える息子、娘たちを見いだすことによって、実はあなた方は自分自身の両親を愛し、さらに彼らに仕えていることになり、彼らと一緒に、あなた方は真の父母のもとに来ることができるのです。

 あなた方が真にこの気高い生活を送るとき、あなた方を歓迎しない親はいないでしょう。あなた方が世界の人々を愛することを実践する分だけ、あなた方は確実に、あなた方自身の親、兄弟、姉妹を愛することができるようになるのです。あなた方は彼らを、真の父母に対するのと同じように、また神から付託を受けた人に対するのと同じように、彼らを愛するのです。彼らは、それだけの価値をもっています。どのような家庭も、そのような子供を拒みはしません。むしろ、その子に頭を下げるでしょう。
 

◆真の父母の必要性

 もう一つのトレーニング・コースが残っています。霊界の訓練です。あなた方は、霊界をいかに取り扱い、そのために働き、それを解放するか、その方法を知らなくてはなりません。あなた方は霊界を愛する立場にいるべきである。メシヤ以外にこのことをあなた方に教えられる人はいません。これは、あなた方が神を愛することができる前に残された、最も重要な訓練です。

 メシヤは訓練の責任者として来られ、どのように人々や世界や霊界を愛するか、その模範を示します。そこであなた方は、究極的なテストを通過することができます。メシヤが来られるまで、霊界は分裂しており、そのあらゆる複雑さのただ中で調和や協力はどこにもありません。しかし、メシヤが来られると、彼は統一をつくりだし、障壁は取り除かれるでしょう。彼が地上にいる間に、これを成し遂げるということが、彼の資格の一つででもあるのです。彼は霊界を主管する力をもった、地上でただ一人の人間なのです。

 真の父母は物質世界だけでなく、霊界と神をも代表する方であり、あなた方はその方のもとで愛を実践するのです。もしあなた方がメシヤを知らないで霊界に行ったならば、そこで人々を愛することを学ぶには、数百万年もかかるかもしれません。しかし、あなたが地上にある間にメシヤを受け入れるならば、あなた方は、何百万年もかかる仕事を、短い時間で成し遂げることができます。この地上で真の父母に従うことによって、全霊界を愛し、そのすべての規則に従ったという承認を受ける資格をもつのです。真の父母はこの物質世界だけでなく、霊界と神をも代表し、あなた方は神の代表者である真の父母に従うことによって、神に対する従順を示すのです。真の父母を愛することによって、あなた方はあらゆる基準を通過することができるわけです。なぜ真の父母と一体となることが必要なのか、今、あなた方は分かったことでしょう。真の父母は神の心情を代表しているので、あなた方が真の父母を愛することは、神と霊界を愛したことになるのです。それはすべての父母――つまり、自然とあなた方の両親と神を愛することの頂点なのです。

 真の父母が立てられるまでは、すべての愛は分裂し、何の調和もありませんでした。今、真の父母を愛することによって、あなた方はすべてのものを愛することができる立場にいます。もしあなた方が他の基準で失敗したとしても、最後に真の父母を受け入れるならば、あなた方はすべての過去を蕩減するだけの忠誠と愛を示したことになるのです。もしあなた方に米国大統領がサインした証書を与えられていたとしたならば、その証書は、この国のどこにおいても効力をもっています。それと同じように、もしあなた方が真の父母を愛するというこの最後の基準を通過するならば、他のあらゆる基準をも通過することになるのです。それが、真の父母をもつことが絶対必要であるという理由です。

 万物を復帰することによって、あなた方は宇宙の物質的な資産を相続します。世界の人々を伝道することによって、あなた方は自分の両親を愛したという条件を受け継ぎます。そして、あなた方が真の父母を愛する時、あなた方は神の世界と神の愛を相続しているのです。そのように、地上における神の代身者である真の父母を愛することによって、あなた方は地上で愛すべきすべてのものを愛することができるのです。ここにおいて、あなた方は、天上天国に入る特権をもつために必要な一切の資格を全うすることができるわけです。あなた方は、この統一教会でその中心を得ているのです。

 世界の人々はあなた方を軽蔑したり嘲笑したりするだけです。しかし私たちは、彼らの前でムーニーであることを誇りとしています。あなた方の誇りの声は、ここでも、また世界中でも、否定的な声よりも強くなることでしょう。もし誰かが、ムーニーとして大声で話すのを嫌がるならば、私もまた天の前で、彼のために大声で話すことはしないでしょう。あすは十月一日です。一九七九年のこれまでの十カ月間は、これまでの一切のことに対する蕩減の日々でありました。それは新しく生まれた享進様の誕生で頂点に達しました。

 私たちは自分自身を知っています。私たちはムーニーであり、そのことを誇りにしています。私たちは現在の自分について喜んでいます。ですから私たちが世界とかかわる時、私たちは大胆です。世界におびえてはいけません。誇らしくして静かに「ただ待って見ていてください。二、三年したら真実が分かるでしょう。あなた方が分かる時がやって来ます。その間、私たちは誇らしくしています」と言いなさない。人々が私たちを誤解している間、私たちはベルトを固く締め、勝利をもたらすためにもっと働くのです。あなた方が前進し、そして私があなた方を後押ししているならば、あなた方は決して失敗する場がありません。

 霊界は私たちを後押ししています。あなた方も、霊界の介入がより強くなってきていることを知っています。私たちにとって恐ろしいものが何かあるでしようか。私たちは真理を見いだし、真の父母の子女であることをどんなに誇りとしていることでしょう。朝、あなた方は鏡の前に立つ時、自分に挨拶して、「あなたは今まであまり自分を誇りに思っていませんでした。でも今、あなたはムーニーであることを誇りにしています」と言いなさない。きょうを出発として、ニューヨークの街を誇りをもって歩き、この町を神のもとに返す中心的な人物になろうと誓う人は、手を挙げてください。どうもありがとう。お祈りしましょう。














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