御旨と世界
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摂理と昔今の私

1981年2月22日 ニューヨーク ベルベディア


 あなた方には、英語の題目のほうが分かりやすいでしょう。言葉というのは本当に不思議なものです。一つの良い言葉によって死んでいた人も生き、言葉を間違えれば生きていた人も死んでしまいます。言葉一つによって、すべての世上がつづられていくのです。

 私たちが霊界に行ったとしたならば、どのように話すと思いますか。何か霊界で中心になる言葉があるに違いありません。この世では聞き終えてから初めて相手の考えが分かります。神はどうされるのでしょうか。神は考えると同時に話される、言い換えれば、考えるや否や話されるのです。つまり、言葉を使わなくても、考えがそのまま通じてしまうのです。ですから、霊界において神は、考えていることを見ることができ、知ることができ、聞くことができる、このように言うことができるのです。また、その考えの中には、過去、現在、未来が含まれます。ですから、神は過去と、現在と、未来を見ることができる、このように考えられるのです。そして、その考えを言葉で表現することができるのです。

 アメリカの歴史について話しましょう。アメリカがどのような国かは、アメリカの国民を見れば分かります。なぜなら国民が国家を構成しているからです。それでは、その国民は、どこから来たのでしょうか。アメリカ人のほとんどはみな、ヨーロッパから来ました。そして、今では五色人種が集まってきています。そしてこの人たちが共通の言葉を通して、一つの文化を創造してきました。アメリカは、こういう歴史をもっているのです。このように見るとき、アメリカにおいてつづられた歴史は、アメリカ人の生活そのものであり、その生活の背後には考える生活――思想があるのです。その考え――思想は、何を中心としたものかというと、キリスト教思想です。このキリスト教思想を中心にして、アメリカという国家が形成されてきたのです。そして、アメリカは、世界的なキリスト教文化世界の中心地となりました。

 そして建国以来二〇五年目を迎えました。このようなアメリカの歴史について神は、過去、現在、未来までをも見つめておられる。こう考えてごらんなさい。それでは、神が見るとき、アメリカは成長し続けているのでしょうか、あるいは、もう成長を終えてしまったのでしょうか。若い時代から年老いた時代へと向かっていますか。病気になっているでしょうか。それとも健康で元気はつらつとしていますか? (病気です)。病気だとしたら、何の病気ですか。風邪ですか。目の病気ですか、鼻の病気ですか、それとも耳の病気ですか。体の病気もありますが、精神はどうですか。健全ですか、それとも病気ですか? (病気です)。最も重要なのは精神です。精神の在り方がそのまま結果として、その人の体に表れます。ですから人が、間違った考えをもてば、その体が病気になったり死ぬようにさえなるのです。

 きょうの題目は、「摂理と昔今の私」です。この「摂理」とは、何でしょうか。神を中心としてつづられるすべての出来事をいうのです。あなた方は、「自分の摂理はうまく進んでいる」という言葉を使いますか。果たして私たち人間が、そのように言うことができるでしょうか。「神の摂理はうまく進んでいる」という言葉ならば、納得がいきます。摂理とは常に神を中心にしてつづられる歴史です。歴史や文化も神の摂理によるものであり、神の摂理による文化、神の摂理による歴史なのです。そのような観点から見れば、人間にも、神の摂理によって立てられた人間、つまり摂理上の人間がいる、ということができます。この摂理上の人間とは、国家、世界、人類を代表する人間のことです。神の摂理による歴史、神の摂理による文化、そのような過去と現在の(世界の)所産として、私が存在しているのです。

 アメリカ式の朝食には、ソーセージ、サラダ、パン、チーズなどがいろいろの並べられています。それでは、アメリカ式の朝食の歴史的な由来は、どのようなものでしょうか? (笑い)

 皆さんは笑っています。こっけいに聞こえるでしょう。しかし、神の目から見ると、現在の現実、出来事は、起源をもたなければなりません。(黒板に書きながら)皆さんが使うフォークは、一番最初は木で作られました。木では使いにくいので鉄で作られるようになったに違いありません。元来フォークは、手から生まれました。自然のフォークは五本指です。しかし、仕事をすると、手が汚くなるので、手を使って食物を口に入れるのはあまり良くありません。そこで人々は“手の延長を作ったらどうか”と考えました。そして木を削って、自分の手に似たものを作ったのです。初めそのフォークは五本指だったでしょう。ところが口に入れるとき、やたらと唇に引っかかるのです。ですから、この一本を取って四本にしたのです。フォー、フック。これがフォークの由来です。(笑い)

 フォークの握りの部分が、ちょうど腕に当たるのです。

 そういうことを考えると、あるおじいさんのころには、一本指のフォークもあったでしょう。このほうが作りやすかったからです。さあその次には、もう一本必要になってきました。二本指です。すると一本のものと二本のものとでは、どちらのほうがいいですか。二本のほうです。なぜかというと、一本はお父さんの象徴であり、もう一本はお母さんの象徴だからです。(笑い)
 三本がもっと良いのです。そして息子、娘が入って四本になるのが、もっと良いのです。そのように、フォーク一本をとっても、お父さん、お母さん、息子、娘と説明することができるのです。

 フォークがどこから生まれたかというと、きっと腕からに違いありません。フォークでさえ、歴史をそのように掘り下げていくことができるのです。それは、どれほど複雑なことでしょう。いろいろな話があるとすれば、誰の話が道理にかなっているでしょうか。それには過去、現在、未来についての説明が、みな、納得のいくものでなくてはなりません。

 このように見ると、フォーク一本は簡単なものですが、そのフォークの歴史は、世界史的な内容をもっているということになるのです。フォークが、「すべての人々、特に西洋世界の人々は、私のおかげで命をつないできました。どれほど素晴らしい食べ物であっても、私を経てこそ食べることができるのです。これは、どれほど素晴らしいことでしょう」。このように見ると、神よりももっと大切なものがフォークなのですね。(笑い)

 このフォークは、西欧社会の文化を創造するために、どれほど多くの貢献をしたことでしょうか。「ああ、私が一番多く貢献した」とフォークは言うでしょう。

 すると横にいたスプーンがすかさずに一言、「君がどんなにそう自慢したところで、君は一滴の水もすくい上げることはできないじゃないか」と言います。スプーンは、「君は人体の四分の三が水で出来ていることを知らないのかい。それを私が供給することによって、すべての人間世界の生命を維持してきたのだよ。人が生まれるためにも水が必要であり、すべての細胞も水がほとんどでしょう」そう演説します。それぞれに言い分があるのです。この髪の毛も、「君、すべての人間は私の世話になっている」と言います。全部がそうです。人体のあらゆる部分、五つの感覚、手、目、耳、それぞれがみな自分の主張をもっています。自分自身の役割が世の中で一番重要なものだというのです。人体だけでなく、服も、靴もそうです。

 そのように見ていくと、今まで述べたような関係、歴史の背後をどれだけ知って、過去と現在全体を見つめながら、それらの事物を歓迎しつつ、私たちはここに存在しているのでしょうか。あなた方が存在するにも、そのような背景があるのです。あなた方の前には、お母さんとお父さんがいます。そのお母さんの前には、おばあさんがいました。おばあさんの前には、ひいおばあさんがいます。さらに……。そして一番最後にはエバがいます。男性はどうですか。今の私自身には、お父さん、おじいさん、ひいおじいさん……。

 女性の歴史は、どうでしょうか。あなた方は自分一人で歩んでいると思っているかもしれません。しかし、そうではありません。あなたの背後に女性の歴史がついて回っているのです。そのように考えたことがありませんか。女性の歴史博物館に行って見物している立場で考えてみましょう。そこには白人女性も、黒人女性も、黄色人種の女性も、みないるのです。では自分は、どのような歴史をつづってきたアメリカに生まれた女性なのでしょうか。または、どのような歴史を引き継いで生まれた男性なのでしょうか。

 また、その女性と男性は、互いに多くの話も交わしたでしょう。人間が話す言葉は、一生の間にどれくらいになると思いますか。私たちが一〇〇年生きるとしても、一〇〇年を日数にすると三万六〇〇〇日にしかなりません。たったそれだけです。十年生きるとすれば三六〇〇日です。あなた方は、一日に何語ぐらい話すでしょうか。一〇〇〇語話すとすれば、人生全体で三六〇〇万語になります。

 言葉は考えの表示ですから、考えることは話すことでもあるのです。しかし、話は一人だけでできるものではありません。相手がいてこそできるのです。そうだとしたら、あなた方は言葉を話すとき、どのように考えたのですか。自己中心の思いで考えましたか。相手を中心にして考えましたか。それが大きな問題です。一度、それを考えてごらんなさい。この言葉は、自分を守るために言ったのですか、それとも他人のために言ったのですか。大部分の言葉が、自分を中心にして語られています。言葉は機関銃よりも、もっと恐ろしいものです。女性たちは、ちょっと気分を害すると、夫に対して言葉をもって攻撃します。言葉がそのように恐ろしいものだということを、考えたことがありますか。もし、言葉を一日に一〇〇〇語話したとして、一言でも、国のために神のために全体のために話したでしょうか。多くの言葉の中の万分の一でも、一〇〇〇語の中の十ぐらいでも、そのような言葉はあったでしょうか。さあ皆さん、考えてごらんなさい。きょうは、あなた方自身について考えるための題目、「摂理と昔今の私」です。

 この口が、機関銃の穴です。あなたが大砲を何百、何千回撃ったとしても、あなたのお父さん、お母さんは、びくともしないでしょう。何だ、大砲を撃っているのか、としか考えません。しかしながら、父母の前で自分の愛する子供が、一言、鋭い言葉を撃ち込むならば、お父さん、お母さんは完全にノック・アウトされてしまうでしょう。夫が愛する妻から一言言われることで、精神が正されることもあるのです。

 統一教会の原理から見た場合、公的ということはどのようなことか、一度考えてみましょう。一般の人々の語る言葉と行動には、公的なものが多いでしょうか、それとも私的なものがもっと多いでしょうか。では、あなた方の過去と現在について考えてみましょう。過去のことは、もう考えたくないかもしれませんね。国のことにも世界のことにも無関心でした。それが今、統一教会のレバレンド・ムーンに会い、統一教会に入って変わったのです。霊的に洗い清められたのです。それはムーン・ウォッシュと言えるかもしれません。それによって私たちの関心の向く方向が変わってしまったのです。統一教会の精神に触れて霊的に洗われた人は、神様のことを考えるようになるのです。そして私たちは真の父母について、ホーム・チャーチについて、その他いろいろなことを考えるようになるのです。普通の人々には思い浮かばないことさえあります。毎日、朝から晩まで、そのことを考えるているのです。そう考えてみると、過去のままの私が話し、考えているのではありません。今は、自分の考えの一〇〇〇の中の一〇〇〇、つまり百パーセントを集中して、他人のために考え、話しています。

 あなた方は、ナンバー・ワンが好きですか。はい) 。ナンバー・ワンとは何でしょう。これが本当のナンバー・ワンです。(黒板を使いながら)ナンバー・ワンがどこから出てきたのかというと、数学からいえば、分子と分母が同じ分数から出てきたのです。一は分子と分母が等しくなったときに生まれるのです。ですから、上下が同じであり、左右が同じであり、前後が同じである。これがナンバー・ワンということです。

 それではナンバー・ワンの人とは、どういう人でしょうか。考えと行動とが全部一致した人のことです。考えと行動が違えば、ナンバー・ワンではないのです。

 いろいろ述べてきましたが、公的な言葉を多く語る人は善人であり、私的な言葉を多く語る人は良くない人だと結論できるでしょう。そのような原則があるのです。私たちの過去の言葉やすべての行動、言い換えれば教会に来る以前の私たちの生き方というのは、本当に地獄のようなものでした。そのとおりだと思いませんか? (思います)。

 善悪には、どこかに境界線があってしかるべきです。アメリカでは、アメリカ憲法を中心にして善悪の基準を立てています。それなのに、公のために働くということを制裁する、裁くという法はありません。どんなに善を行っても、法律には、それを規制する何の規定もありません。しかしながら、自己を中心とした生き方には、「するな、するな」と言います。法には、自己中心になったときの問題が多く規定されているのです。第二に、法律は、自分の欲心を中心とする人々を監視しています。それらの人々は利己的な利益のためには、共同物を破壊するという方法をもいとわないからです。このように見ると、私たちが痛言を吐いて他人を傷つけることも、法に引っかかります。

 それでは、民主主義には、そのような基準――法がないのでしょうか。民主主義においては、常に数によって善悪を判定します。過半数になればいいのです。ですから、この民主主義は、行ったり来たりする、流動的なものです。悪い人がたくさん組んで参席すれば、悪いところに引っ張っていくことができるものなのです。このように見ると、民主主義とは、何なのでしょう。共産党員が多く参席すれば、共産党が力を行使できるような制度なのです。

 こういう観点から、「より公的なものは何か」という問題が生じてくるのです。絶対に変わらない永遠、不変性をもつものでなくてはなりません。そのような公的なものが必要です。公的であればあるほど、そこには個人も入っていくことができ、家庭も入っていくとことができ、国も入っていくことができ、世界も入っていくことができます。なぜなら、絶対的に公的なものは、無限に大きいからです。アメリカは大きい国ですか、小さい国ですか。あなた方は、アメリカは大きい国だと言いたいのでしょう。では地球はどれぐらいの大きさですか。地球は太陽に比べると、一三〇万分の一です。地球と太陽を比べれば、地球は豆粒ぐらいなのです。この地球は、それほど小さいのです。あなた方が、いくら大きいと言ってみたところで、それほどのものでしかないのです。

 あなた方が少年時代のころを振り返ってごらんなさい。外で遊んでいた時、蟻の世界を見たことがあるでしょう。小さな黒い§蟻あり§は、行きつ戻りつ、大変多くの仕事をしています。あなたは巨人のように、蟻の世界を見下ろしたことでしょう。そんなに小さな蟻でも目をもっているし、足やひげやしっぽなど、あらゆるものをもっています。小さな生物もすべてのものをもっているのです。さらに、それらの蟻はアンテナやコンピューターのようなものをもっています。それがあまりにも神秘的なので、私たちもまだ発見していないのです。しかし蟻は、そのアンテナを使って、自分をある方向に導く能力をもっているのです。

 ロンドン博物館は、世界的に有名な博物館です。しかし、その博物館がどれほど大きいといっても、また、その博物館何百をもってしても、一匹の小さな蟻の様相、秘密を説明することができないでしょう。考えてみてください。小さな昆虫、取るに足りない、一見重要とは思えない小さな蟻が、ロンドン博物館何千個分の膨大な知識を背負って歩いているのです。

 法というものは何やかやと、うるさく規定したもののように感じられるかもしれません。しかし、法律とは、社会や人間を貧欲や自己中心性から守るために、最小限のことを規定したものなのです。

 私がアメリカに来て、おかしいと思ったことがあります。アメリカの人たちはコメディが好きですね。テレビやラジオでもこっけいなことを話し、誰もがただもう、「アッハハハ」と笑いころげます。いったいどうなっているのでしょう。そのようなおかしな言葉を好むことによって、おかしな国民になってしまいました。それが良いと言っているならば、そういう行動をするようになってしまいますよ。このままでいけば、アメリカ人は内容のない国民になってしまうでしょう。アメリカ人は、哲学とか詩とかを考えもしません。精神世界のより深い所を探求しようともしません。すべての存在の起源というような問題が、ユーモアによって解けると思いますか。

 冗談ばかり言う人は、いつも負けるのです。話をしない人が勝つのです。言葉の多い人は負け、言葉の少ない人が勝つのです。過去、現在、未来の真実の思想家は言葉数の少ない人々でした。彼らはむしろ座し、§瞑めい想そう§し、考えた人々です。常に語り、楽しみ、笑う人々は表面的な人々です。

 最近のアメリカの若い人々の傾向は、楽しみを求めようとすることです。法則から外れ、閉じ込められることを好まず、何に対しても従うことがありません。ただ跳び回り、したい放題です。どんな音もたてたい放題です。叫びたい放題です。それが音楽になり、ダンスになっています。例えばディスコがあります。お父さん、お母さんと踊ることができ、両親をけとばすこともできます。「お母さん、私はあなたをけとばしました。でも、それは冗談だからね」。すべてが冗談なのです。「真に受けないでね」。息子はけとばすのが常識になってしまったのです。これらは深刻な問題です。

 このような問題を解決するには、何が必要でしょうか。それには、まず公的なことと私的なことを、より分けなればなりません。そのためにはこの宇宙には、絶対的であり永遠、かつ不変なる大公的な主体がなければなりません。もしなかったとしたら、仮想的にでもつくっておかなければなりません。

 また、中国とアメリカが外交問題で交渉するとき、アメリカはいつも言葉数が多くて敗北しています。共産主義国との交渉においてもそうです。何でも冗談にしてしまうので、彼らにやられてしまうのです。「私は冗談のつもりで言ったんです。本気ではなかったんですよ」と言っても、それはもう後の祭りです。彼らは相手の弱点を探しながら攻撃をする準備をしているのです。

 そのようなことを防ぐには、公的なお方を、仮想的にでもつくらなければならないという話です。しかし、神は仮想的な神としてではなく、真の神としておられるのです。それは、どれほど驚くべきことでしょうか。神は、過去も、現在も、未来も変わることのない方です。蜂蜜の味は、過去、現在、未来、変わりますか? (いいえ) 。金は変わりますか? (いいえ) 。ダイヤモンドは変わりますか? 同じですね。そういう不変のものが宝物となるのです。

 神は本当に公的な方です。神はどのように考えられるのでしょうか。神は、私的なことも考え得るでしょう。しかしながら神は、公的なことを考えたその基盤内で、私的なことを考えられるのです。公的な考えの圏内で、自分をも考えるのが、神です。そこで、神のすべての§性せい禀ひん§が空気のようなものだと考えてみてください。宇宙全体は、この公的な空気でいっぱいに満たされています。その宇宙空間の中で、神は中心に位置づけられます。言い換えれば、人は常に、このような公的生活の中心に自分をおきたいのです。人は、そのような公的な中心の位置に行かなくてはならないのです。自分をその中心におくと、どんなことをしたとしても受け入れられ認められるのです。中心から発するどんなものも善であると認められるのです。なぜかというと、公に益を与える、他人のためにしていることだからです。

 自動車の車輪を考えてごらんなさい。心棒は小さいのですが、大きな車輪をいくらでも回すことができます。この心棒の回転はわずかなものです。でもこの心棒の回転によって、何千何万キロの距離を行くのです。

 神は、そのように見ておられるのです。神は、自分は公という概念の中の最も中心に位置している、という思想をもったお方です。ですから、神は私が存在するのは宇宙のためであり、宇宙が存在するのは私のためであると見るのです。神は、過去、現在、未来のあらゆる人間の中で、その真ん中に立っておられる方なのです。(黒板を使いながら)それでは、人はどのように存在しているのでしょう。ある人はこちら側に、別な人はあちら側に、頭をこう向けたり、バラバラになって存在しているように見えます。しかし、みな中心からの力を受けているために、全部がみな中心に向かっているのです。

 さて、世界の情勢が変われば、アメリカの情勢も変わるでしょう。アメリカも回っているものの一つだからです。環境が変われば、あなた方の生活も変わり、あなた方自身も影響されざるを得ないのです。レーガン大統領が就任して、国民に対して、アメリカ経済のために腰のベルトを引き締めるように協力を求めています。男性だけにではなく、女性にも求めています。結婚式までも豪華にせずに、質素にしなさい、と言っているのです。何の話かというと、アメリカの一人の中心人物がこの国をある方向に向けようとすると、人々はみな、何らかのかたちでその影響を受けるというのです。

 神は、どういうお方でしょうか。神は、公という概念の最も中心の位置に立つという観をもっておられるお方です。神は巨大な歯車を回転させる中心軸の位置におられます。巨大な歯車が回るには、その中心軸が強くなくてはなりません。全知全能というのは、絶対的な能力をもった、という意味です。その全能の神だけが、いつも中心軸となることができるです。どんな位置にあっても全能だというのではありません。中心においてのみ全能となるのです。何の話か、分かりますか? (はい) 。

 人間は神に似せて造られたために、私たちは公的な概念を中心として、そういう位置に立とうと考えるのです。ですから善なる公的な概念が絶対に必要であるというのです。分かりますか。それには全体のための中心、全体を代表した中心というものが必要です。(黒板をたたきながら)ですから、全体が(その中心として)神を必要とするのです。そこにおいて神は、永遠の勝利の座におられるのです。神のおられるこの位置は、幸福の中心であり、すべての祝福の栄光の中心なのです。神がまず全体のために考えてから、次に自分のことを考える方であるとしたならば、すべての栄光を占有したとしても、誰も不平を言う者はありません。

 あなた方男性も女性も、神に似た存在なのです。ですから神のような考えをもって生活しなければなりません。それが宇宙の公法です。ですから人は、今までの歴史を通して、公的なものを保護しよう、残そうとしてきたのです。分かりますか。

 たとえば孝行息子とは、家庭の中でのノーブルマン(気高い人、高尚な人)です。ノーブルマンとは、常に公の利益を守ろうとする人のことです。愛国者は国のノーブルマンであり、聖人は世界のノーブルマンです。宇宙全体を代表したノーブルマンが神様です。それでは、聖人が霊界に行ったとしましょう。(黒板を使いながら)聖人という範囲の中には、愛国者も親孝行者もみな入ってしまいます。神はすべての人たちに、愛国者になるよりも聖人になることを望むでしょう。ですから家庭の孝行息子になるのは愛国者になるための訓練であり、愛国者になるのは聖人になるための訓練である、という論理が成立するのです。

 年輩の、いわゆる指導層の人々は、今、一二〇日間の修練会を受けています。そして時々、心の中で“私は十分な教育を受けてきたのに、さらに修練を受ける必要があるのだろうか”と考えるかもしれません。なるほど、あなたは分かっているし、働いてきました。そして今、あなたは孝行息子、愛国者の基準にいるでしょう。しかし、私はあなた方に“聖人の基準まで成長してほしい”と願っているのです。それにはあなた方全員を訓練し、世界に送り出さなければならないという、こういう結論になるのです? (拍手)

 公的な人は、話も公的な立場からするし、見ること、聞くこと、考えること、それから衣食住すべての生活を公的な精神でするのです。公的な心というのは、すべてのものを愛する心のことです。例えば耳の形がみっともなくても、その耳を愛するのであり、鼻がおかしくても、その鼻を愛するのであり、口の形が良くなくても、それを愛するのです。なぜかというと、神が愛されるからです。

 先生も同じように考え、生活します。先生も全体のための中心の位置にいるのです。その中心に立つ私一人が滅びれば宇宙が滅びてしまうし、中心に立っている私が狂ったことをすれば、宇宙全体が狂ってしまうでしょう。ですから私は、宇宙の秩序を保ち宇宙を保護するために、中心の位置を守らなくてはならないのです。それが統一教会の生き方です。なぜ統一教会のいう原理を守らなければならないのでしょうか。教会の原理――法を守らなければならないということは、宇宙の中心の立場に立ちなさいということなのです。そう考えてみると、それは一番偉大な言葉だということになります。

 (黒板を使いながら)あなたは、この位置から統一教会に入ったかもしれません。ずっと外側です。しかし、より多くの責任をもつようになると、あなたは中心に近づいていきます。あるいはもっと原理を実践し、教会の伝統を引き継ぐようになると、もっと中心に近づいてきます。それでは中心に近づいてくればくるほど、重荷は軽くなるでしょうか、重くなるでしょうか。(より重くなります)。(先生の笑い)

 重荷は嫌だけれど、中心は好きだという話がありますか。そういう考えをもった人は地獄へ行くしかありません。

 先生の考えていることはこうです。神の胸の奥に愛があるでしょう。その愛と一つになってぐるぐる回りながら、より神様と固く一つになつていきたい。その心情も重荷も、すべて引き受ける者になりたいということです。

 あなた方は有名になりたいでしょう。それには何が必要かというと、内と外が同じにならなくてはなりません。そうして全体の中心に立っている自分を発見するとき、初めてナンバー・ワンになるのです。ところが、全体を捨ててしまって、自分だけを中心にしてナンバー・ワンになろうとする人がいます。何の話か、分かりますか。一日の生活で一〇〇〇語話すとすれば、その一〇〇〇語を公的立場で話したとすれば、それは地でも天でも、どこへ行ったとしても、必ず(黒板をたたきながら)この中心を通ることができるのです。分かりますか。

 さあそれでは、摂理とは何でしょうか。摂理とは全体の目的を実現するために現れたものであり、その全体目的の中に現れたものが自分なのです。ですから、自分という存在は、摂理の所産として生まれた公的存在なのです。あなたが地上に生まれ成長するためには、お父さん、お母さんの世話になりました。そのことを有り難く思わないですか。自分の子供を生むということは、世界のために宇宙のために後孫を生み出す、ということを意味するのです。大抵の両親は知らないのですが、宇宙を代表した息子を育てる、という観念をもって子供に対さなくてはならないのです。ですから父母は、真心を込めて子供を愛さなくてはなりません。父母の立場は、そのように真心を込めて愛するという公的な立場であるということは知られておりません。しかし、本当はそうなっているのです。そして子供は、父母の真実の愛を受けて、家庭を中心となるように育てられるのです。そして孝行息子、娘となれば、父母は「愛国者になれ、愛国者になれ」と言うのです。アメリカでは、こういう話を聞いたことはないでしょう。

 両親は子供に対して、「勉強しなさい。熱心に勉強しなさい。寝るのも食べるのもやめて勉強しなさい」と追い立てます。天の摂理よりも厳しいかもしれません。そして時々、子供を殴ることもあります。子供は殴られることによって、後退するのかというとそうではなく、前進していくのです。では、両親はなぜそのようにするのでしょうか。(黒板を使いながら)それは、より一層この中心に近づかせるためです。あなた方も、アメリカの愛国者になりなさい。孔子や釈尊やイエス様のような聖人になりなさい。

 アメリカは先生に反対していますが、(黒板を使いながら)この圏内にアメリカがあるのです。なぜ反対するかというと夜だからです。昼になれば太陽を歓迎するように、迎えられる時が来るのです。夜には月しかありません。月光は薄暗い光です。ではナンバー・ワンとは何でしょうか。ナンバー・ワンになるには、昼も好きだし、夜も好きだというようにならなくてはなりません。夜は嫌いだ、と言ってはいけないのです。それは何の話かというと、ナンバー・ワンは、迫害されるのも好きであり、指弾されるのも好きだということです。若い時に苦労すれば、年を取ってから楽なのです。そのようになっているのです。このような思想がどれほど偉大なものであるかを知らなくてはなりません。それをしっかり捕まえるのです。

 敵を打ち砕かなければならないのです。そのためには、自分は何百回、何千回倒れてもいいのです。鼻血が出て、目はつぶれ、歯が欠けてしまってもかまいません。訓練しながら、最後に相手をノック・ダウンしてこそ、チャンピオンになるのです。最後の勝利を得るためには、苦労と苦難に直面しなければなりません。それは正しい話ですか。はい) 。もし誰かが、「私は世界チャンピオンになりたい。私は誰からも打たれたくない。私の近くに誰も来させないでください」と言って一度も打たれることなく、倒れることもなかった人が、「私は世界チャンピオン」と言ったとしたら、そういう人は泥棒です。

 統一教会の人々の中には、「楽をしながらみ旨の道を行こう」と思っている古い人々がいるかもしれません。「私はドイツのタイトルを取りました」、「私は英国のタイトルを取りました。でも、世界のチャンピオンにはなりたくありません」と言う人がいるかもしれません。そういう人を連れてきて、「あなたはここまで来たのだから、どうしても世界チャンピオンになるのです。殴られても、ひたすら死に物狂いで進みなさい。たとえ休みながらでもやり遂げなさい」と言うのです。するとその人は、「はい、分かりました」と言って行くでしょう。そうすることは悪いことですか、それと良いことですか? (良いことです)。

 統一教会は、世界の外にありますか、世界の中の統一教会ですか? (中です)。ということは、世界に何が起ころうとも、統一教会の人は中心を保持し、そこから絶対に飛ばされない、と決意するということです。たとえ誰かがあなたを引っ張ったとしても、常に中心と一つになって回っていくのです。それが何の話か、分かりますか? これは絶対に必要なことです。

 統一教会は、世界に対して影響を与え、世界を動かす力をもっていますか? (はい) 。統一教会は、(黒板を使いながら)この歯車の中心軸に例えられます。そしてここに鉛の重りがついていて、片ちんばになっているとします。回るときに何度もぶつかるのです。中心軸――これはあなたですが――に重みがかかるでしょう。そうしたら軸が壊れるべきでしょうか。壊れるべきではないでしょうか。チャンピオンが不具になるべきか、不具になるべきではないかという話です。いくら回っても、軸がしっかりしていて何の影響も受けず、かえってどんどん早く回っていくとしたら、かえって鉛自体が回るのが大変になるでしょう。そして最後には鉛のほうがこの円から飛び出していってしまうでしょう。その鉛とは、今日の共産主義のことです。統一教会の運動によって、共産主義が逃げていくようにしなくてはならないのです。そのように見るのが神の摂理観です。

 きょうの題目は、「摂理と昔今の私」ですが、昔のあなた方は、どのような生き方をしていたでしょう? 自分の気ままに、世界も人類も中心に何もない生き方をしてきました。それは気違い、精神病者と同じようなものです。過去はそうだったのです。女性たちは、「男性と一緒に住むのに、何をああだこうだと言うのですか。思うようにやってもいいでしょう」と言ったかもしれません。それが自由でしょうか? (いいえ) 。自由とは、中心と一つになって回っていくことです。それが自由です。真の自由とは、どういうものでしょうか。あなた方が自分勝手にすることが自由だと考えていたとしたら、それは愚かなことです。原理原則を離れた、方向性を離れた、目的観念を失った自由はありません。自由は、原理を離れることができないし、方向性と目的性を離れることができない、という事実を知らなくてはなりません。そこにおいて、あなたは自由を楽しむのです。

 それなら以前のあなた方は、どうであったでしょうか。話す言葉はすべてサタン的な言葉でした。サタン的な言葉を話す人は地獄に行くのです。なぜなら悪い話をしたのですから。それでは、今のあなた方はどうでしょうか。

 あなた方は、「どうして一二〇日修練会をするのだろうか。自分は責任者だけれど、なぜ妻たちまで連れてきて教育するのだろうか」と思っているのではありませんか。なぜかというと、それは、あなた方の家庭内で完全な調和、完全な協力が必要だからです。夫が仕事に夢中になると、女性は「どうしてあなたはいつもそうなのですか。少しはあなたの子供や妻に関心を払ったらどうなのですか。私を嫌いになったのでしょう」と愚痴をこぼします。(黒板を使いながら)男性は円の半分であり、女性も円の半分なのです。あなたは自分をどこに位置づけますか。中心を通る線が分割線です。この中心線はでたらめの位置ではないのです。ある男性たちは、女性のためにみ旨を変えてしまいます。み旨とは何でしょうか。あなた方は、自分自身のことや自分の家庭のことを先に心配して、それから神について心配します。統一教会は、全体のために生きる結婚をするのです。それなのにあなた方は、仕事をして家に帰ってくる途端に、全体のみ旨はさておいて、家庭を主としたみ旨にしてしまっています。そうであってはいけません。家庭も、全体のための家庭であることを知らなくてはなりません。これを正しておかないと大変なことになります。

 結婚だけすれば、それでいいのですか。「天宙的使命をそっちのけにして、家庭的使命が第一だ」と。そうではなく、夫婦は一つになって、宇宙を支えていく責任をもって生まれてきたのです。完全な円をつくることによって、あなたは本当に自分を中心におく用意ができるのです。それが統一教会における結婚の意味です。ですから、あなた方は、そして息子、娘も全員が軸を中心にして一つになり、その軸を中心にして回ってこそ、父母、息子、娘、つまり家庭がしっかりと一つに固まるのです。中心から外れた家庭ではなく、この中心軸と共にある家庭をつくらなくてはならないのです。「結婚するのにもお金がかかったのに、今度は子供が生まれてくる。昔の自分一人の時のほうが、ずっと公的な歩むことができた。子供が多くなれば、重荷になるだろう」と、あなた方は言うかもしれません。確かに子供が多ければ、重荷にはなるでしょう。しかし、子供を多くもてばもつほど、あなたの円は、中心においてより大きくなるのです。

 (黒板を使いながら)ここに春夏秋冬があります。十二人の子供が生まれたとしたならば、それは春夏秋冬がすべてそろったということを意味します。お母さんは、このように生まなければならないでしょうね。こうすることによって、十二方向を連結させることができるからです。これは、どれほど素晴らしいことでしょうか。§紐ひも§を全部に通すのです。このように考えてごらんなさい。ですから、息子、娘が多ければ多いほど、十二方向を連結しやすいので幸福だというのです。確かにこれは苦労ではありますが。だから伝道しに行くときには、五色人種を伝道して、全部を連結させるのです。離れているものを連結させる、これは容易ではありません。困難であるのが原則です。

 さあ、モスクワ大会に行く準備をしなければなりません。共産主義者はレバレンド・ムーンを憎んでいるのですから、モスクワに行くということは難しいことです。アメリカの国務長官さえも、共産主義の拡張をどうしてよいか分からないのに、何も持っていないレバレンド・ムーンが、国境線の防衛ではなく、モスクワという中央地に行って共産主義からの防衛をしようというのです。ですから、莫大な犠牲を払ってでも、それを成し遂げる覚悟をしなければなりません。(拍手)

 そういう仕事をするために、先生は人を必要とします。誰かを行かせなくてはなりません。そのために誰かが死ぬということもあり得るのです。私も、そのような道に行こうとしています。そうするよりほか、道はないのです。

 そのような時、「先生、私の夫をその場に送らないでください。誰か他の人をお願いします」と言うならば、その妻は落第です。誰一人死ぬ覚悟もしないでモスクワ大会ができるなどとは、私は考えてもいません。ここにいる女性たちは、ソ連のすべての女性を消化し、言葉やすべての面において屈服させて余りある実力をもたなければなりません。そして男性は、共産主義世界全体に対して、闘う決意をもたなければなりません。「先生、私を最前線に立たせてください。私は一インチでも、ほんのわずかでも譲ることはしません。必ず勝利します」。あなた方がそのような男になってほしいと願っています。

 私はアメリカに来て仕事をしながら、アメリカの監獄のことも考えたし、ソ連の監獄のことも考えました。何も予期されなかったものはありませんでした。私がある映画で、ある使命が失敗し、発見され、射撃隊によって処刑される場面を見るとしましょう。私は、ただその場面を無感動に見るのでありません。私はその立場に自分をおきます。私もその立場におかれることがあるかもしれない。それがもし神のみ意ならば、自分もそれを喜んで受けよう、と。

 国が滅びるのを救うためには、国民が先に犠牲にならなくてはなりません。そうしなければ国を生かすことができないのです。世界が死んでいくのを救うためには、聖人が先に死ななくてはなりません。聖人たちは、そういう意味で世界のために犠牲になったのです。イエス様は世界を救うために亡くなられました。神と世界のために、この世界の中心において亡くなられたのです。“私はここで(黒板の図と思われる)この思想をもって倒れ、すべてを捨てて死ぬことができる。私はこの思想の中に子女として生まれたのであり、この思想の中に暮らしたのである。たとえ死ぬとしてもこの思想の中に死ぬのだ。それが男だ。そして、死ぬことによってなくなるように思ったけれど、怨讐に対して許すことができるとすれば、(未来に対して)もっと大きな期待をもつことができる。そうするならば、どれほど素晴らしいことか”。このような立場で、イエス様が十字架において亡くなられたのです。この宇宙の中心においてです。それでこういう意味をもった十字架という言葉が現れたと考えるのです。何の話か、分かりますか。神は摂理をこのように見られるのです。

 公的思想をもつという神の考えは、今まで変わることがありませんでした。数千年の間、人間が変わり、歴史が変わり、人々が天に背いても、神の考えは変わりませんでした。神は決して変わらないお方なのです。(黒板を使いながら)神(GOD)の「G」は、円を完成させてしかるべきでした。しかしそれでは、誰もが入ってくるドアがありません。ですからここに神は、小さなドアを開けたのです。(笑い)

 そしてそこにみ座を設けられました。それが神です。だから誰もが入ってこられるのです。その次には「D」です。時が来ると、ドアを閉鎖します。裁きの日が来ると、これが伸びていってふさいでしまうのです。神は、常に公的思想をもって生活をしておられるでしょう。考えてごらんなさい。神は、過去もそのような生活をしてこられたのであり、今もそのような生活をしておられるし、未来もそういう生活をされるに違いありません。「私」にも、小さい時がありました。神と同じように、過去があり、現在があり、未来があるのです。「私」の過去は神と同じように生きてきたし、きょうも、神と同じように生きているし、未来も神と同じように生きていくとしたら、その人は善なる人なのです。それがナンバー・ワンです。分かりますか。

 自分の過去について考えてごらんなさい。あなた方は統一教会に来て今になって、初めてみ旨を知ったのです。先生の話を今聞いて知ったのであって、それまでは知りませんでした。あなた方の過去の生活は、勝手気ままでいいかげんでした。何の中心も方向もない放浪者だったのです。そして、「こうして生きていてはいけない。真なる道はないだろうか」と探していると、統一教会というものがあったので入ってみることになったのです。そこに入ってみると、全く新しい世界を発見したのです。

 しかし、いいことはいいのですが、昔のように気ままに踊りを踊ったりできません。昔のように遊べればどれほどいいか、それは私にも分かりますよ。その上、大変な仕事もしなくてはなりません。伝道に出かけると、人から「君はムーニーだな」と悪口を言われます。攻撃があらゆる方向からやってきます。前から後ろからあなたを打ちます。それであなたは完全に中心を失い、自分を失ってしまって、「ああ、私はどうもとんだ所に来たらしい。先生すみません。私は出て行かなければなりません」と風呂敷を包もうとします。(笑い)

 笑いごとではありませんよ。統一教会であなた方に、豪華な食事と良い服と、たっぷりの睡眠時間を与えてあげるならば、誰が出て行くでしょうか。出ては行きません。先生もよく知っています。
 しかしながら、このような生活を継続し、アメリカに反対されることによって、最後には、アメリカが私たちを追い出すのではなく、かえってアメリカの国がわき上がってくるのです。本当に純真な人々、この国を心配し、世界の運命を心配している愛国者たちがやって来て、「どうぞ出て行かないでください」と言って、しがみついてくるでしょう。言い換えれば、私たちには、真に純真な人々を結集する力があるのです。そのように私は考えています。この話は間違っていると思いますか? (正しいです)。十年かかろうと二十年、三十年、四十年かかろうと、かまいません。復帰摂理から見れば、四十年など何でもありません。先生が使命を始めた十六歳(数え年)から数えると、四十六年たちます。四〇〇〇年の歴史をほどくには、少なくとも四十年はかかるのですね。

 もし、レバレンド・ムーンが、自分の将来における困難な使命を避けたいと考えていたならば、とっくにこの仕事から離れていたことでしょう。行けば行くほど、もっと難しくなるこの道を「嫌だ」と言っていたならば、風呂敷を包んでいるというのです。しかし私は常に、“これは出発だ。私はまだ戦い始めてもいない。これから始めなくてはならないのだ”と考えたのです。それが私の姿勢でした。何の話か、分かりますか。そのような見解から、あなた方を鍛え、訓練して、世界に出て生き残る人間をつくりたいのです。それを考えたら、今のことは何でもありません。それがあなた方に満たしてほしいと願う基準です。しかし、あなた方が実際していることは、あまりにも先生の願う基準以下です。もし、今がローマの迫害時代だとしたら、あなた方のうち何人がカタコンベに入れますか。あなた方のうち何人が、それらの環境から生き残るでしょうか。一世紀のクリスチャンでさえ、それらの試練を耐え忍びました。そのようなことを私たちも越えなくてはならないのです。

 あなた方は神様がいることを知っていますね。神様がレバレンド・ムーンを好きだということを知っていますか? (はい) 。それはなぜだと思いますか。それは、レバレンド・ムーンの哲学、生き方、信念が正しいというだけでなく、世界の五色人種を一つにして、彼らを同じ信念、同じ方向、同じ目標に導く能力をもっていると神が見ておられるからです。神は、レバレンド・ムーンは自分自身を繁殖させる能力をもっていると見ているのです。

 レバレンド・ムーンは六十歳を越してしまいました。これから先、どれくらい生きられると思いますか。多くのクリスチャンたちは、“一度キリストを受け入れたならば、決して死ぬことはない”と考えています。それはおかしい考えです。何千代も前の人々が生きているとしたら、地球上は、人々が立つ§隙すき間ま§さえなくなるでしょう。そうしたらどこに住むのですか。だから死ぬということがあってしかるべきです。そうでないとしたら、新しく生まれた人々はどこに住むのでしょうか。ですから、死ぬということがあって、うまくいくようになっているのです。神がどれほど数理的、科学的な方だと思いますか。霊人体になれば、何億、何十億でも大丈夫です。なぜなら霊界は時間と空間に制限されないからです。ですから、人間の肉体は必ず死ぬようになっているのです。

 では、レバレンド・ムーンはどうするのでしょうか。レバレンド・ムーンが死んだのちにも、その息子、娘たち、あなた方は世界に広がっていくのです。最初に生まれたレバレンド・ムーンのような父母を代身することのできるようなあなた方につくり上げること、それが神様の喜び楽しまれることなのです。(歓声、拍手)

 そのようになれば、あなた方は、真の父母と真の子女という真の伝統を全部相続するようになるのです。伝統を立てなさい。教育をしなさい。行動しなさい。それによって結局、福を受けることになるのです。第一に伝統、そして教育、行動です。

 レバレンド・ムーンの目標は、あなた方一人一人を、私よりももっと立派なことを成し遂げるように、レバレンド・ムーンの先を行くような人にすることです。ただ先生を複写するだけではなく、内容においてより優れた人にすることです。あなた方は、“先生だからこそ、それをすることができるのであって、自分たちにはできない”と思っているようですが、そうではありません。あなた方もみな、それをすることができるのです。なぜならあなた方は、大変多くの支援を得ているからです。レバレンド・ムーンを支えている神は、あなた方をも同じく支えています。さらにあなた方をレバレンド・ムーンも支えています。そして統一教会も支えているのです。

 それなのに風呂敷を包んで出て行きたいというのなら、出て行ってもかまいません。出て行く人を必要とはしないのです。私たちは、宇宙のために、国のために、教会の伝統を立てるために、清く保たなければなりません。ですから出て行こうとする人を育てようとして苦労するのではなく、そのような人は好きにさせておくのです。そのような人を育てる力で、三人の人を伝道することができます。なぜかというと、どれほど多くのエネルギーを注いでその人を指導したとしても、その人は、み言を聞いてすべてのものを捨てて出発した入教時の基準を、なかなか越えることができないからです。

 さあ、古い葉は落ちました。そのあとに強い緑の葉が出てきます。分かりますか。外から多くの人を伝道してこなくてはなりません。統一教会は滅びません。レバレンド・ムーンは決して後退しません。滅びるどころか、かえって発展するでしょう。(拍手)

 一二〇日修練会の話に戻ります。先生は、修練会に参加している人が、「先生が私たちを呼ばれたのに、どうして一度も来られないのだろう。二週間、三週間もたったのに」と言っているのを知っています。でも実際は、あなた方が先生の所に会いに来るべるきではないでしょうか。そうでしょう? (はい) 。それがきょう、あなた方がここにいる理由です。日曜日の朝のこの時間が、あなた方の修練会における最良の時間です。そうですか? (そうです) 。

 昔のあなた方はひどい人間でした。それなのに天国に行くつもりでいたのでしょう。どうして天国に行くことができるでしょうか。昔のあなた方は天国ではなく、地獄に行ってしまう基準だったのです。なぜならあなた方はみな、公的なことをすることもなく、あちこちをただ歩き回っていただけだからです。そして今でも、統一教会で約十年ぐらいたって古くなると、昔のことを意識してしまいます。そうなりやすいのです。「昔住んでいた家が懐かしい。昔の生活のほうが楽だった。あのころが良かった」と。教会に入った最初のころは熱心に仕事をするけれども、約十年ぐらいたつと、そのように過ごしやすいのです。それでいて、「私は正常です。私こそが統一教会の模範的ムーニーです」と言うのです。そんなに自分勝手に、自分の思いどおりにしたければ、しても結構です。でも、それは絶対に間違っています。

 真の模範的ムーニーは、個人の段階よりも家庭的段階、家庭的段階よりも国家的段階、国家的段階よりも世界的段階、世界的段階よりも天宙的段階と、それぞれの段階でより一層働く人です。大きな活力、それが、あなたが究極的に成功する唯一の方法であり、先生の見る模範的ムーニーです。比較的新しいムーニーたちは、誰が模範的ムーニーであるかを見極めなくてはなりません。間違った先輩を絶対に見習ってはいけません。国のために働き、国のためよりは世界のために、世界のためよりは全天宙のために忙しく走り回って、一つの国よりも十の国のために責任をもたなければなりません。それが模範的ムーニーです。「先生、この国にはあまりにも宣教師が多過ぎます。私一人でこの国のために全責任を負って働きます」と言える心をもった人が立派な人です。(拍手)

 このような公的考えからいくと、本当は言葉が行動の一〇〇〇分の一でなければならないのに、自分を中心にすると、それが反対になってしまいます。(黒板を使いながら)一〇〇〇分の一よりも一万分の一、十万分の一、一〇〇万分の一。このようにあなたの言っている言葉が、あなたの行動と業績よりも小さければ良いのです。そうすればそうするほど神様の前に近くなっていくのです。このことを確実に知らなくてはなりません。

 食事をするときにも、私は公的に食事をしているのか、それとも私的に食事をしているのかを考えなければなりません。私的な食事とはこうです。何かおいしい物があったとすると、他の人に食べさせたくないので、自分が先に食べるのです。「この肉に誰も触ってはいけない。これは私の肉です」。これが私的な食事です。公的な食事とはこうです。手は何かおいしい物を求めますが、「手よ、やめなさい。おいしい物は他の人に食べさせなさい。人にそれを楽しませてあげなさい。それで私にも余分があったら取りましょう」。
 テーブルを囲みながら、もし誰かが常に人のことを思いやるならば、彼はすべての人に尊敬されるでしょう。自分だけを満たそうとする人は誰であっても、「貪欲な人だ」と言われるでしょう。たとえ口に出して言われなくても、心の中では“ああ、彼を追い出してしまいたい”という感情が積もっているに違いありません。人間の本性からして、そうではないでしょうか。どうですか? (そうです) 。公的生活は、食事においてだけでなく、一日のあらゆる生活を通してなされなければならず、そうしてこそ尊敬と愛を集めることができる、という話です。私たちは共同生活をしているわけですが、ある式典で「いい席には私が行く。すてきな場所を私は取りたい」と言ったとしたら、それも私的な生活です。分かりますね。それについては、もう話す必要はないでしょう。

 国の尊敬を受けるためには、国のために犠牲になって仕事をするのです。国の最もひどい場所に行って犠牲になるのです。そういう仕事をすると、国の人々が自動的にあなたを中心に立てます。

 あなた方は、統一教会の看板があろうとなかろうと、たとえ統一教会の看板を外してしまったとしても、先生の行く所ならどこへでも一緒に行きたいでしょう。このニューヨーカー・ホテルが、巨大なビルであろうと、あなたには何の意味もありません。私がアフリカに行ったとしたら、あなた方も一緒に行きたくないですか? (行きたいです)。私はニューヨーカー・ホテルを生かすためにアメリカに来たのではありません。ですからこれを手放すことによってアメリカを早く救うことができるならば、もちろんそうするし、また、アメリカを犠牲にして世界を生かすことができるのならば、そうしなくてはなりません。そうすることによって世界を救うことができれば、それは結局、アメリカをも救ったことになるのです。なぜならば、アメリカも世界の一部だからです。これが公的なものの考え方です。分かりますか。例えば家庭を犠牲にしてアメリカを救ったならば、アメリカ全体の家庭が、自分の家庭のために犠牲になってくれます。家庭を犠牲にするという代価を支払うことによって、その家庭は尊敬を受けることができるのです。何の話か、分かりますね。こういう観念を、はっきりと知らなければなりません。

 先生がじっとしていると思うべきではありません。先生はなおも前進しています。昔から先生は、常に公的に物事をなし、生活することを考えています。私は公的な話をし、公的な目をもち、公的な鼻、公的な口、公的な腕、公的な思想をもって生きてきました。それが私の生活信条です。私はそういう生き方をしてきたので、たとえ私が死んだとしても、私の生き方は生き続けるでしょう。人々は写真を見て、先生の生涯を思い出すでしょう。歴史も先生を追慕しながらついていくでしょう。公的に生きるなら、その人の肉体は死んだとしても、永遠に生き続けるという話です。この原則は、過去にも通じるのであり、現在にも未来にも、そして天宙にも通じるものなのです。

 皆さん、自分自身を見てごらんなさい。そして自分が正確にどこに立っているかが分からない人は手を挙げてください。では、知っている人は手を挙げてください。どちらでもないのですか。(笑い)

 誰でもみな、分かっているのです。どういうのが公的であり、どういうのが私的であるか、分かるようになっているのです。

 例えば、「お金を大切にしなさい」というのは、公的なことです。何のためにお金を大切にするのでしょうか。それは、自分が金持ちになるためではなく、国を生かすためにです。ですから国を生かすために自分が金持ちになるのです。それが善、公的なことなのです。それと同様に、世界を救うために、まずアメリカが節約をしなければなりません。それが善です。アメリカは税金の高い国ですが、その税金が世界のために使われるならば、世界はアメリカに頭を下げるでしょう。しかしアメリカは、国民のために使うためにのみ税金を集めるので、アメリカ国民もかえって政府に反対し、世界もアメリカ政府に反対するのです。ですから、世界を滅ぼすそういう風潮を変えるために、私が働いているのです。

 あなた方の過去の生活は間違っていました。ですから新しい生活に変えなくてはなりません。それでは、これからあなた方は、何を自分の息子、娘に語るべきでしょうか。あなた方は自分の子女に対して、また夫になる人は妻に対して、妻になる人は夫に対して、自分が今まで築いてきた公的な伝統を、彼らが受け継ぐことができるように教えてあげ、示してあげるべきなのです。そして子女たちは、家庭において、お父さん、お母さんから伝統を受け継いだという合格の認定を受けるのです。その伝統を受け継いでから学校に行って教育を受けることによって知識を獲得し、帰って来て、「お父さん、お母さん、私はこれだけのことをしました。どうぞ見てください」と両親に報告して捧げるのです。何の話か、分かりますか? サタンがはびこる家庭になってはいけません。あなた方は、サタンを中心とするのではなく、公的な父母にならなくてはなりません。サタンを中心とした愛の、私的な父母になってはいけないのです。もしアメリカのすべての家庭が、息子、娘、夫に対する公的な愛をもたないで私的な愛をもったとしたならば、アメリカという国は崩壊するのです。アメリカの家庭の父母たちが自己を中心とした愛をもてばもつほど、それは社会を滅ぼし、世界を滅すのです。何の話か、分かりますか。一番身近な人との関係の中に、この偽りの愛があるのです。そしてこの偽りの愛が世界を包囲しているのです。ですからサタンは、「統一教会が本当に公的愛に立っているか、自己中心の愛か、見てみよう」と言うのです。そしてサタンとの闘いに勝ったのちに、神は私たちをより中心に近づけ、愛するのです。そのようになっているのです。分かりますか? そういう教えから、「摂理と昔今の私」を結論づけましょう。(黒板を使いながら)あなたは自分一人で出発しました。そして次に家庭をもって二人で出発したのです。そして息子、娘をもつことによって、より大きいものになっていくのです。そして次には氏族を中心にして、もっと大きいものを率いていかなくてはならないのです。そしてそれが社会、国家、世界、天宙と広げられていくのです。

 さて、ここでモーセの出エジプトを思い出してください。私たちは出エジプトをしているジプシーと同じです。ですから私たちは、同じ所にとどまることができません。まだカナンに到着していないからです。息子を連れて、氏族を連れて、民族を連れて進み続けなければなりません。カナンへの道すがら、常に、紅海、越えるべき山、渡るべき水のない砂漠があります。ですから私たちは目的を達成するために、訓練されなければなりません。夜も寝ないで、二十四時間活動を続けるのです。非難されながらも活動するのです。それらは精神的な鍛錬となるのです。もしあなたが一番最後の門の敷居の所まで来たとしても、万が一そこで倒れたとしたならば、それは滅びた者、失敗した者となってしまうのです。成し得ずして死んだ者となってしまうのです。

 さあ、先生も走っています。まだ走っているのです。あなた方はどこにいますか。あなた方は後ろで私の足を引っ張っているのですか。それとも、「先生、早く行ってください。後ろから押してあげます」と後押ししているのですか? (後押ししています)。ありがとうございます。(笑い)

 もう、分かりましたね。休んではいけません。先日、お母様は十二番目の子女を出産されました。それなのに私はけさ、「お母様、あなたは立ち上がることができますか。ベルベディアへ行きましょうか」と言いました。医師の話によれば、あと二、三日は休養が必要だということでしたが、私はお母様をどうしても連れてきたかったのです。体の大変なお母様に対してさえ、そのように考える先生だとしたら、今のあなた方に対してはどう願うでしょうか。あなた方が部屋でのんびりと寝ることを願うと思いますか? (いいえ) 。あなた方が先生の仕事を相続するにふさわしい立派な人になれるよう、将来の大いなる日のために、これからもあなた方を訓練するのです。あなた方は新しい人となるのです。

 たとえカナン七族が来て、あなた方を遮ろうとしても、問題ありません。闘います。私たちがカナン復帰、天国をつくる路程において、前進をはばむ共産主義があれば、共産主義と闘うし、他のものがあれば、それと闘うのです。弾丸は強くて固いほうが良いのです。例えば共産主義の弾丸と私たちの弾丸があるとしましょう。この二つの弾丸が真正面でぶつかると、どうなるでしょうか。統一教会の弾丸が共産主義の弾丸を真っ二つに裂き、それを貫通していってしまいます。私たちはそういう人間をつくろうというのです。(拍手)

 ところで私たちは、ただ闘いだけをするのでしょうか。私たちは闘って勝利した天国の兵士、神の兵士となって天国をつくるのです。ですから、サタンに讒訴されるようであってはいけないのです。もしあなたが自分の弱点をそのままにしておくと、サタンがそのあなたの弱点を握ってしまいます。だからサタンが讒訴することのないように、あなた方は自分の弱点と闘い、それを克服しなければなりません。あなた方は今、そのような人になっていますか、なっていませんか? (なっています) 。あなた方は今、「なっています」と言いました。それでは、あなた方は今、サタンが讒訴することのできる立場に立っているか、サタンの讒訴を受けない安心し得る立場に立っていますか。

 神は、過去においてもサタンの讒訴を受けたことはないし、現在においても、未来においても讒訴を受ける方ではありません。ですから私たちも、きょうのこの時において、サタンが讒訴することができないように、神のもっておられるのと同じ公的な考え――公的思想をもたなければならない、という結論になるのです。これを知らなくてはなりません。そういう自分を決定したと言うことのできるのはいつか、というのです。(今です)。ここにいる責任者たちは、みな、それを決定していますか? (はい) 。昔決定したのですか、それともきょう決定したのですか。それが問題です。

 公的思想をもつということは絶対に必要だ、ということを知らなくてはなりません。もし、あなたがそれを失ったとすれば、あなたの後孫とあなたの国、あなたのあとに来るすべてのものが失われてしまうでしょう。その決意に基づいて歩くことによって、あなたは完成されるのです。それは先生が保証します。もし、あなたがそのようにしたにもかかわらず滅びるとしたならば、先生は霊界に行って、あなた方に殴り殺されてもかまいません。もしそうだとしたら私は霊界に行って、どこにもいる所がありません。私が霊界の高い場所であなた方を待つためには、あなた方よりもより公的な基準をもたなければならないのです。そうでしょう。霊界に行って公的な座に住むためには、サタンが讒訴することのできない、そういう人でなくてはならないのです。

 ここには約二三〇名います。ということは、二三〇の基準の霊界があるということになります。分かりますか。あなた方はどの位置にとどまるのですか。それは、自分自身が決定するのです。私は可能な限り、あなた方をより高い位置に行かせたいと思って訓練しているのです。訓練を通して世の中のあらゆる苦労を体験させ、どんな仕事でもできるような人間にするのです。何の話か分かりますか。私があなた方にしてあげられることは、そのほかに何があるでしょう。

 先生が生きている時に先生の言うことを聞かなかったとしたら、あなた方はいったい誰の話を聞くのですか。今するしかありません。今しなくてはならないのです。やるのだったら、先生のいる今が最良の機会です。先生のようにあなた方を訓練する人は、統一教会にはほかにいません。そうでしょう。先生はあなた方が疲れているのを知り、あなた方が哀れに思えたとしても、それでも命令します。あなた方は、たとえ疲れていても先生の言葉を実行しようとするでしょう。それと同じことを誰ができるでしょう。一国の責任者だからといって、先生と同じようにあなた方を導くことはできないでしょう。例えば、私が一人の人の頭を、思う存分たたいたとしても、彼は怒らないでしょう。でも、あなた方がたたいたとしたら、たとえ一度であったとしても、喧嘩になるでしょう。(笑い)

 だから私が生きている間に、あなた方を指導して伝統を打ち立て、その伝統をつくり上げておかなかったとすれば、大変なことになるのです。それはあなた方のためです。あなた方がこの美しい天地に住むことができるように、百パーセント、伝統を相続させるのです。そうすることによって、将来、あなた方のすべての後孫も、自然に天国に行くことができるのです。理解できますか? (はい) 。

 しかし、あなた方が統一教会で今までやってきた仕事は、点数でいうならば、まだ五十点にしかなりません。あなた方は五十点のものがいいのですか。それとも一〇〇点のものになりたいですか? (一〇〇点です)。あなた方は一〇〇パーセントを願っているのに、実際は五〇パーセントにしかなっていないのです。だからもっと頑張らなくてはならないのです。ですから私はいつでも、「よくやった」という話はしないのです。何の話か、分かりますか? 完全な者を育てなくてはならないからです。ある人が完全なものを受け継ぎ、より一層完全なものになろうとするならば、その人は美しい花や飾りをもってたたえられるでしょう。歴史がそのように望み、摂理がそのように望み、人類と天地すべてがそのように望んでいるからです。私たちは自分を、歴史の方向に、摂理の方向に、天地の方向に向けなくてはなりません。そういう宿命に従っていくことが、公的な生涯を行く道理ではないでしょうか。

 さあ、あなた方に、この時間に教えたことについて質問します。あなた方は本当に天の基準にかなった生き方をするよう努力していますか? (はい) 。イエス様以上に、神様、先生以上に、もっと苦労しなくてはなりません? (はい) 。さあ、今からでも遅くはありません。先生がいるのですから。先生のいる間ならば、故障しても直すことができるのです。はっきりと分かりましたね。このように進むべきです。はい) 。

 きょう二月二十二日は、先生が北鮮の共産主義者たちによって監獄に捕らわれた日です。それでけさ、こういう話をしているのです。そこにおいては公的な苦しみがありました。それは悲しいことではありましたけれど、栄光の資格を与えるための場であったということは、今日、証明されているのです。

 あなた方が先生がしたのと同じ決心を、きょうこの時間にしたということを、私は死ぬまで忘れることができないでしょう。あなた方が決意をしたという事実は、歴史の中に記憶されるのです。そしてあなた方と統一教会は、天の祝福を受けるでしょう。あなた方は希望の太陽(サン)としてこの瞬間から、人類と世界のために昇ります。私たちは今まではムーニーと呼ばれていましたが、この瞬間からサニーに格上げされました。(拍手)

 あなた方はすべてを知ったのですから、たとえ先生がいなくても、死を覚悟しても己の責任を全うして余りあるでしょう。先生がいなくても、です。イエス様もおっしゃっていますね。死なんとする者は生き、己を低くしようとする者は高くされるのです。















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