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文鮮明師 講演文

"In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the word was God." John1:1


「人間の行くべき生涯路程」

99.01.17 真の家庭世界化前進大会)



 高名なる紳士淑女の皆様、きょう「人間の行くべき生涯路程」という主題で進められるこの大会に、ご来場くださり、心より感謝申し上げます。

 今、全世界は大混乱の中で呻吟しています。個人においては心身の紛争、家庭では青少年の淪落と家庭破綻、国家と世界においては不信と戦争が絶え間なく続いています。これらの諸般の問題は、神人愛一体理想を知ることによって克服することができるのです。

 神様が人間を創造された目的

 人間はなぜ生まれたのかという問題は、人類が歴史的に追究してきた根本的な問題です。ある人は自分の国のために生まれたと考え、ある人は自分の父母のために生まれたと考えます。あるいは、自分自身のために生まれたと考える人や、神様のために生まれたと考える信仰者もいます。

 しかし、神様が宇宙を創造された目的が人間だけのためであるとか、神様ご自身だけのためであるという論理は成立し難いのです。人間が造られる過程に連結されたさまざまな目的、すなわち神様が人間を創造された目的や、天使が人間創造に協助した目的、万物が人間に投入された目的、人間が生まれたこと自体の目的などが、互いに異なってはならないのです。全体がみな喜ばなければなりません。人間創造に関連した神様も喜ばれ、天使も喜び、万物も喜び、人間自体も喜ぶことのできる、そのような共通の内容でなければなりません。

 それは持てば持つほどうれしく、一度持てば永遠に手放したくない、そのような何かです。それは外的な内容ではなく極めて内的なものであり、目に見えないものなのです。知識やお金や権力のようなものは、人間が生きていくのに必要な付帯条件にすぎません。そのようなものはすべて人間のためにあるものなので、人間に所有する権限があるのは当然のことです。ですから、そのようなものを所有するために生まれたとは考えることができません。すべて流れていくものです。そのようなものは自分と一時的な相対関係を結ぶことはできるかもしれませんが、永遠の相対関係を結ぶことはできないのです。

 さらには、神様はお金が必要ではありません。全能なおかたなので、お金はいくらでも作ることができます。神様は万物を造られるとき、原理原則を通して創造されたがゆえに知識の根本でもあられます。そして神様ご自身は、創造主として権力の主体であられるがゆえに、権力も必要ありません。

 それは、人間の努力だけで追究できるものではありません。人間の努力では生命の根源を支配することはできません。自分の生命の動機や過程、そしてその生命の終末まで動かし得る、そのような何かでなければならないのです。

 このように見るとき、真の愛しかありません。人間は愛で生まれ、愛の道を行かなければならないのです。そして死ぬときも愛のために死ななければなりません。ですから、私たちの人生を見るとき、生命よりも愛がさらに貴く、愛が生命よりも先なのです。したがって愛のためには生命まで喜んでささげるのです。

 愛は永遠です。小説や詩のような文学作品を見ても、「不変の愛」「永遠なる私のあなた」という表現が多く見られます。これは、私たちが瞬間的な愛、限られた時間内の愛を願うのではなく、永遠な愛を願っているということなのです。

 愛は神様も微動だにできなくさせる権威を持っています。神様も愛には弱いのです。全能なる神様も人間の愛の香りをかがれれば、満面に笑みを浮かべられるのです。神様も愛の話が好きです。話だけでも喜ばれるのに、実際に愛し合えばどれほど喜ばれることでしょうか。

 私たちの体のさまざまな器官も、愛という一つの目的を中心に生まれました。目は見るために生まれました。どのようなものを見るためかというと、共同のテーマである愛を探すために生まれたのです。においをかぐために生まれた鼻も、においの中でも愛の香りをかぐために生まれたのです。耳も愛の声を聞くために生まれました。私たちが聞く言葉の中で、いくら聞いても嫌気がせず、うれしいのは「愛している」という言葉です。これは若者も老人も同じなのです。

 真の愛は宇宙創造の起源

 したがって、あらゆる存在が共に皆、喜ぶことのできるテーマは、愛以外にはないのです。その愛とは、大宇宙が歓迎することのできる真の愛です。神様も、天使世界も、万物も、そしてすべての人が公認できる、そのような愛なのです。愛というふろしきを持ってきてかぶせておけば、皆その中から抜け出そうとはしません。このような点から見るとき、宇宙創造の起源や生命の発源地とは、正に真の愛なのです。

 人間が宇宙を愛する境地に入れば、宇宙のすべての門が開くのを経験することができます。また、自分が今この空間で極めて小さな存在であるとしても、愛を中心としては極めて大きな存在と共同的で共通的な、そして同等かつ対等な相対的権限を持つようになります。その極めて大きな存在が絶対的な神様であられるならば、私は愛の権威によってその絶対的な神様の相対的な立場にまで上がることができるのです。神様の属性が愛であるからです。したがって神様の愛の公約を立てておいて、その公約の中に存在するようになれば、宇宙のどこに行っても自由です。

 神様の愛に酔えば、一粒の砂を千年間、見つめていても飽きないのです。自分の手を見詰めれば、自分の手から光が出ることが分かります。夜、一人で横たわっていると、暗い夜であっても、自分が黄金の板に横たわって黄金の光を発して寝ていると感じるようになります。夢のような話です。そのようになれば丘に上がっても万物が喊声をもって歓迎するのを感じることができます。皆さんもこのような経験をしたことがありますか?

 私たちが、自分が愛の宇宙の中に生まれたと考えれば、無限に幸福に感じられるだけでなく、世の中に「我を見よ」と自慢することができるのです。神様が実験室で研究しているとき、最も理想的で、爆発的な発見があったとすれば、それは正に「私」だったというのです。このような観点から、神様の愛の相対的立場として造られた自分自身を破綻させることは、罪の中の罪であり、これを愛して保護することは善の中の善であるという結論が出てきます。それゆえに自殺することは最も大きな罪になります。宇宙を破綻させる行動です。

 監獄に入って、拷問で血を吐く立場に立ったとしても、神様が抱いてくださる愛のみ手を感じれば、それがかえって骨髄にまでしみる愛で神様が抱かれることのできる一つの条件になるのです。このように考えるとき、死の環境も幸福な立場であると考えて行くことができるのです。

 このようなことを考えるとき、男性でも女性でも、愛の力の中にいる人は強いのです。国や世界を与えても変化させることができません。そのような人の前にはサタンも屈伏せざるを得ないという驚くべき結果が現れます。

 したがって、この宇宙愛を中心として神様が人間を代表して呼ばれるとするなら、そのかたが正にメシヤです。イエス様がその代表者なのです。メシヤを通さなくては宇宙愛を見いだすことができません。ですから、万民はその後について行かなければならないという論理が成立するのです。イエス様が「私は道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・6)と言われましたが、ここに愛という言葉を一つ加えなければなりません。「わたしは道であり、真理であり、命であり、愛である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と言えば、論理がもっとはっきりとするのです。

 私たち人間は父母の愛の中で生まれました。その父母の愛のいちばん中心の主人として生まれたのです。したがって両親は、「私」一人をつくり出すために愛し合ったという結論が出てきます。

 ですから、両親に対して同等な立場で権利を主張することができるのです。「お父さん、お母さんは私がいなければ不幸です。私がいてこそ幸福でしょう」と言うとき、お父さん、お母さんは「そのとおりだ」と言います。また「私」も両親がいなければ不幸なのです。なぜなら、父母が原因で「私」は結果であるからです。父母と自分は愛を中心として一つです。原因と結果が一つになって一つの愛の実体圏を成すのです。これが宇宙の道理です。

 統一教会の原理では、主体と対象が一つになるところから力が出てくるといいます。したがって原因である両親と自分が一つになれば、主体と対象が一つになって一体となるがゆえに、新しい対象となり、より大きな主体と一つになることができます。神様がその主体であられるならば、その神様と一つになります。すなわち神様の理想的な愛を中心として神様と完全な主体対象関係を成すならば、神様と人間は完全に一つになります。神様と人間の愛の圏が成されれば、宇宙にはいつも明るい太陽のような愛の光が発せられるのです。

 自分はお父さんとお母さんの二つの生命が一つに結合した生命の連結体であるだけでなく、父母の愛の同参者として父母の愛と一体です。さらには自分は父母の理想とも一体です。理想には幸福や平和などのすべてが入ります。父母にとって、自分が世の中で成功したときの喜びがいくら大きかったとしても、失った子供に出会ったときの喜びとは比較になりません。ですから子供は父母の最高の理想と一体なのです。

 自分にはお父さん、お母さんの生命の綱、愛の綱、理想の綱が連結されていますが、この綱はだれも切ることができません。神様も切ることができず、宇宙も切ることはできません。むしろ宇宙のすべての力がそれを擁護しようとするのです。

 したがって私がどこに行っても、お父さん、お母さんがついてくるようになります。霊界でまでも、お父さん、お母さんはいつも共にいようとするのです。ですからお父さん、お母さんが同行することを嫌うのは最も大きな罪です。この宇宙を破綻させる破壊行為なのです。父母を連れて行くことを嫌うのは、すでにその人が原則から離れて堕落していくということを意味します。

 したがって父母を自分の体のように考え、愛し、父母に孝行することが人間にとって最高に価値あることです。「円満な家庭に福が来る」という言葉も、みなそこから来るのです。反面、父母が離婚することは、刀で子供を半分に切ることと同じです。それは宇宙の公法が許しません。これに逆らう父母は、どこに行っても禍を受け、不幸がついて回ります。幸福になることはできないのです。

 物質世界・父母・神様は三大父母

 「私」は三大父母を通じて生まれました。最初の父母は物質世界です。物質の世界からすべての要素を受け継いで、物質の中心として、物質の複合的な存在として「私」は造られました。このような観点から、その物質元素自体が「私」を生んでくれた先祖であり、また自分の延長が物質世界でもあります。この物質は、愛の理想の位置においてのみ安着するように宇宙はできています。愛の理想の位置ですべての細胞が安らかに生きられるようになっています。もし腹を立てれば、すべてこじれてしまいます。

 次に、自分の体を生んでくれた父母が二番目の父母です。生んでくれた父母が、「私」が一つの形態を備えて生まれてくることができるようにしました。しかしこの父母は、どれほど頑張っても愛の主人になることはできません。「私」の生命の主人にはなれますが、愛の主人にはなれないのです。

 愛の主人は神様です。愛を宇宙化させて、愛を永遠化させるために神様がいらっしゃるのです。神様は愛の主体であられるので、愛を中心として父母になっています。ですから、神様が私たちの第三の父母です。このように私たちは三大父母を持っているのです。

 私たち人間の一生を見てみると、腹中時代十か月、肉身時代百年、そして霊魂時代千年万年を永遠に生きていきます。

 私たちの顔を見れば目、鼻、口の三段階になっていますが、これは人間が生きてゆく三時代の姿を見せているのです。口は物質世界である腹中時代を象徴し、鼻は人の世界である地上時代を、目は霊界である天上時代を表します。

 赤ん坊が育つ、お母さんのおなかの羊水の中は、赤ん坊には正に自由天地です。お母さんのおなかの中ではいつも背中を曲げていなければならず、勝手に足を伸ばすこともできず、鼻も口もふさがっているのですが、ここが赤ん坊には自由天地なのです。赤ん坊に必要なすべてのものを供給するパイプがへそについていて、へそでだけ息をしなければなりませんが、そのような世界が赤ん坊には自由天地です。

 赤ん坊がおなかの中から生まれるとき、「私は世の中に出て、蜂蜜も、餅も、ご飯も口で食べる」と考えるでしょうか。むしろ、そのおなかの中から外に出てしまうと思って「ああ、出てしまわなければいい」と言うのです。しかし、「出ない」と言っても、時が来れば皆、道が開かれて出るようになるのです。水(羊水)が流れ出れば、それに従って外に出るようになりますが、そのようにして生まれるのを安産といいます。

 「私」は父母の愛の結実

 赤ん坊は生まれた瞬間、泣くのと同時に鼻の穴を通して息をするようになり、第二の世界、すなわち空気世界に連結されます。

 おなかの中から空気世界に連結されて出てくるときには、腹中世界で暮らしたへその緒と羊水の膜を破壊して出てこなければなりません。それらの死(破壊)と同時に地球星のお母さんから生まれるのです。生まれてからは、口で食べて鼻で息をするのです。

 しかし、地上で食べる食べ物は肉身が生きるのに必要な栄養分であり、本質的な生命要素ではありません。生命要素は、正に愛です。したがってこの世の中で、さらに愛という空気も吸わなければなりません。お父さん、お母さんから、愛の空気を吸わなければならないのです。

 赤ん坊が生まれると、お母さんの愛の電波を追って自動的に乳首を探しにいきます。醜女である、美女であるということに関係なく、お母さんであればいいのです。これこそ創造の妙味であり、神聖な姿なのです。人は愛で生まれ、愛を受けながら成長します。このような立場で見るとき「私」というものは、父母の愛の実です。お父さん、お母さんの愛のかたちが実際の実として現れたのが「私」なのです。愛の実であるがゆえに、父母は「私」を愛さなければなりません。この実を通して無限な愛が再び実を結びます。個人的な愛、家庭的な愛、氏族的な愛、民族的な愛、世界的な愛、宇宙的な愛、そして本質的な神様の愛まで連結することのできる道がここにあるのです。

 出生後、肉身時代には、生んでくれた父母が「私」を正しい人に育てるのです。世界と国と家庭を代表し、父母がすべてを教えて供給してくれます。私たちが父母から物質を供給され、教育を受けて、個体として完成すれば、愛を中心とした横的な基盤に連結させなければなりません。それが結婚です。父母は結婚するまで責任を持つのです。結婚して、お父さん、お母さんが愛してきたものを引き継ぎます。父母が「私」を生んでどれほど愛したかを、自分が結婚して子供を生んで育ててみることによって知るようになり、その愛を引き継ぐのです。そうすることによって自分は愛を完全に受けることができ、与えることができる人になります。そして、完全な一人の男性、女性として成熟するのです。

 父母の縦的な愛で生まれて、成熟し、横的に愛するようになってはじめて、総合的な愛の圏を見いだすことができます。天地は球形世界であるがゆえに、縦横と上下、左右、前後の愛が連結されてこそ、それが授受しながら回り、すべてが総合されて一つの調和のセンターとして現れます。したがって、天地の縦的愛が内外に軸としてしっかりと定まれば、その次には横的な愛が必要なので、思春期というものがあるのです。

 思春期には、秋風に吹き飛ばされる落ち葉を見るだけでも、「美しい」と言うのです。思春期には、乞食が訪ねてきて物乞いの歌を歌っても、「あ7 また来た。またやってる」と言って喜びます。そのように四方に拡大されるのです。

 ですから、おとなしくしていた娘たちも髪の手入れや化粧をし、しきりに体に何かを塗るようになります。欲も深くなってくるのです。それが愛の横的な現象です。

 したがって、人生行路は旅路ですが、ここで備えるべきことは縦横の愛を体恤していくことです。真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の兄弟の愛、真の息子・娘の愛を中心とした家庭を築いた後、これを横的に拡大し、東西南北に多くの家庭を広げておかなければなりません。そして、彼らが縦横を連結させることのできる真の家庭の形態を成し、氏族圏、民族圏、国家圏、世界圏で神様と連結されるようになるとき、真の愛で連結されたその世界を天国というのです。

 夫婦が愛し合うということは、神様を植えることです。本来、父母は本然の神様の立場を代表し、ここで夫と妻は互いに他の一方の神様になります。そして息子・娘はまた一つの小さな神様です。神様は真の愛の本体であられるので、真の愛と連結されれば皆、同じ体になります。父母は神様を代身する生きている神様であり、夫婦も神様を代身し、子女も神様を代身します。このように、三代が真の愛を中心として神様の立場を代身するのです。

 それゆえに、父母も、夫婦も、子女も真の愛を必要とします。このように真の愛を中心に成された家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を成さずには、天国が実現しません。これが公式です。家庭とは、すべての宇宙、現実世界の中心です。今日、人々は自分の家庭が国と世界と宇宙を代表した家庭であることを知らずにいます。中心としての家庭であるということを知らずにいるのです。ですから家庭を破綻させることは、国と、世界と、宇宙に対する反抗になります。

 家庭完成は宇宙完成の基礎になるので、家庭で愛するように宇宙を愛せば、どこでも通過することができます。この場合、神様は宇宙全体の父母として愛の複合的な中心の位置にいらっしゃいます。

 真の愛を中心とした家庭が行くべき道

 真の愛を中心として男性と女性が一つになって理想的な夫婦となり家庭を築けば、彼らは神様を代身する立場に立つようになり、宇宙のすべてのものに連結されます。そのようになるとき、神様のすべてのものが自分のものになるのです。どれほど幸福な立場でしょうか。ですから私たちには、万物を征服したいという心があるのです。

 男性と女性が一つになって、家庭、社会、国家、世界を形成しています。ですから男女が中心になって築いた家庭は氏族のモデルにならなければならず、氏族は国家のモデルにならなければなりません。私たちの家庭が行くべき道とは、理想的な家庭と氏族と国を復帰していくことです。したがって理想的な国が出てくるためには、理想的な家庭がなくてはなりません。

 真の愛が偉大な理由は、真の愛で神様の対象になることができ、神様が「私」自身になることができるからです。聖書にも「神様が自分の中にあり、イエスが自分の中にある」という内容があります。父が息子の中に、孫がおじいさんの中に、おじいさんが孫の中にあるという言葉はここから生じた言葉だと思います。

 おじいさん、おばあさんは孫を中心として情を結ばなければなりません。そのようになってこそ、愛の垂直線が始まります。また孫は、おじいさん、おばあさんと一つにならなければならないのです。おじいさん、おばあさんは神様と同じ立場であるので、神様のように侍らなければなりません。そうしなければ縦的な愛の軸を探すことができません。それを立てた後に、横が生じるのです。横的なものは四方に連結されますが、縦的なものはただ一つの方向です。横的なものは東西南北、三六〇度に動くことができますが、縦的なものは一点で動くことはできますが、分離することはできないのです。

 ですから愛を中心として、まず体と心を一つにしなければなりません。次に、神様を中心とした縦的な世界である霊界を愛することができなければなりません。そして未来に中心国家が現れれば、その国を中心として全世界の人類を愛さなければならないのです。したがって真の愛を中心として、犠牲、奉仕、献身の道を通じ、霊界と全世界の人類を愛する生活をすれば、人間は自動的に中心的存在になって二つの世界を主管し、一つの世界をつくることができます。そうすれば、神様もそこに臨在なさるようになるのです。

 全霊界と全宇宙が一つになっているものを天宙と言いますが、すべての霊界と宇宙は真の愛を中心として、この天宙が一つに統一されることを願います。天宙を統一することができるのも、全体の家庭を理想化させて一つにすることができるのも真の愛です。それで今日、人間が地上に暮らすときにも、永遠の生活をする霊界に入っても、絶対に必要なものは真の愛しかないという結論が出てきます。

 真の愛は、人間や霊界だけでなく、すべてが好むものです。ですから、動物も植物も真の愛を持った人を好んで、彼を主人として迎えようとします。いかなる存在でも真の愛を中心とした人と一つになろうとします。被造世界のあらゆる存在は、真の愛を持って生きる男性・女性の前に近づこうとして、彼とともに生き、彼により主管されることを理想とするのです。したがって、この世の中でいちばん貴いものとは、真の愛を持った男性と女性、すなわち真の人という結論が出てきます。

 人間には翼がないので、どのような昆虫や鳥よりも遠くに飛び、どのような飛行機よりも速く地球を回るということは、実体である肉身ではできません。どれほど跳ねても、ほとんど飛べないのです。人は、万物の霊長として神様と対等な相対的立場にあります。ですから、一秒間に三〇万キロメートルを進む電気や光よりも速い作用ができなければなりません。それを可能にするのが霊人体です。今、私はソウルにいますが、霊人体はさっとニューヨークに行ってこれます。稲妻よりも速いのです。そのように、思いに歩調を合わせて作用することができるのが霊人体です。

 しかし、世の中でいちばん速いのは愛の作用です。世の中でいちばん速度が速いのは電波ではありません。世の中でいちばん速く、高く飛ぶことができる力を持ったものは愛です。こちら地の果てとあちら地の果てにいる人間同士が愛し合うようになれば、その地の果てを越えて引っ張り合うのです。愛はそのような力を持っています。

 真の愛を体験した人は、神様の本来の理想的な世界では神様が願うことすべてのことを即座に所有できる能力と権限を持ちます。

 そのような資格は地上で成し遂げなければなりません。霊人体を中心として肉身が一つになる過程で、神様の愛の接続点が真の家庭で成されてこそ、そのような立場に進むことができるからです。神様の真の愛は、同胞を愛し、世界の人を愛し、万物を愛することによって感じることができます。どの国の人でも五色人種を愛する心を持たなければなりません。人だけでなくて、虫けらのような微々たるものまでも愛することができる、そのような心を持たなければなりません。自動的にそれがわき上がってこなければならないのです。花が咲けば、その美しい色や香りは自然に出てきます。それと同様に、愛の花が咲かなければならず、愛の香りが自動的に宿らなければならないのです。

 そのようにするためには、その愛の花を咲かせることのできる栄養素を受けなければなりません。植物が地と太陽から栄養素を受けるのと同様に、私たちも肉身と霊人体を通じて栄養素を受けます。肉身を通じて生力要素を受け、その次には霊人体を通じて生霊要素を受けるのです。 そのようになることによって、自分が愛の完備体になって、どこにでも飛んで行くことができます。そのようになれば、太陽系などすべての大宇宙世界は、全部自分の活動舞台になるのです。

 霊界は愛を中心とした世界

 人間が肉身生活を終えた後には、第二の出生をします。これが死です。第二の出生をする所、死んで行く世界が正に霊界です。その世界に入って、第三の父母である神様から宇宙全体を代表した真の愛が供給されます。理想的な真の愛が供給されるのです。ですから霊界では、統一が成されざるを得ません。

 死ぬ瞬間から第二の空気世界を蹴飛ばして、新しい第三の愛の呼吸器官に連結されなければなりません。父母の愛、兄弟の愛を蹴飛ばして霊界に入って、結局は大宇宙の神様の本体に化す真の愛の世界に入ります。種が本体から出てきたので、結果を結んで、また本体に戻らなければならないのです。

 霊界は愛の空気でできている世界です。愛の空気で満たされています。ですから私たちは、この地上世界にいるときから愛の息をすることのできる、もう一つのパイプ装置を準備しなければなりません。そして霊界を体験し、霊的な愛を感じて呼吸できる人になってこそ、霊界で死なないのです。

 霊界は愛を呼吸し、愛を中心として暮らす世界です。したがって完全な真の愛の人格を成し遂げることができなければ、往来する道が制限され、四方に通じません。門を通過するとき、一つの門だけを通らなければならないのと同じことです。春夏秋冬のいつでも、どこにでも合わせて暮らすことのできる資格を備えようとするなら、完全な真の愛の人格を具備しなければなりません。ですから三時代を経るように人間を造られたのです。

 トンボも、幼虫は水の中で泳ぎ回り、地上に上がってきてしばらくはい回ります。その後、軽やかに飛び回り、陸地では食べるとは思いもしなかった虫を捕まえて食べます。天下を自分の舞台として飛び回るのです。このように、昆虫類の中には翼を持って三段階世界を経るものが多いのです。昆虫もこのように水と陸地での生を経て空中で暮らしますが、万物の霊長である私たち人間は、もっと次元の高い翼を持っているのです。

 私たちは神様の代わりに愛で生まれ、愛で生きながら息子・娘を生んで、愛の目的地に到達して、永遠に神様とともに生きるために神様の所に帰るのです。すなわち私たちの一生とは、愛で始まり、愛で成熟して、愛の実として収められるのです。人が死ぬということは、愛の実を収めることです。

 私たちが父母の愛を受け、夫婦の愛を交わし、子女を愛することによって、内的な愛の世界にまかれた神様の愛のすべてを、私が一生をかけて実を結んで収め、あの世に行くのです。したがって、私たちが完全に愛で一つになれば、神様に似るようになります。夫婦が一つになってこのような三段階の愛を完全に成して霊界に行くようになれば、永遠の主体であられる神様の前に、永遠に相対的な神様になるのです。真の愛を中心とした夫婦が死ねば、そのようになります。ですから、神様で始まって神様で締めくくるのです。

 人間が死ななければならない理由は、体を持っていては制限された愛でしか愛することができないからです。無限大の神様の真の愛の対象的実権を持って現れようとするなら、制限された肉身だけではできないのです。ですから無形の霊にならざるを得ません。

 さらに、真の愛の理想を全天地とともに同一化するためです。ですから、死は苦痛の道ではなく、宇宙的な真の愛を所有することのできる幸福の門を開ける時間なのです。

 死ぬということは、はって、歩き回る陸地の世界から、軽やかに飛び回って暮らすことのできる世界に移ることです。全宇宙を自分の舞台にして、真の愛で楽しむことのできる旅行の資格者になり、そのような世界に入門するために死の道を行くのです。ですから、死ぬことは正に新しく生まれることなのです。

 私たちははじめ、お母さんの胎内にいました。その胎が私たちを育てたふろしきです。そのふろしきの中から出てくるとき、蹴飛ばして破ってしまって生まれるのと同様に、私たちの霊人体に対して肉身はふろしきのようなものなので、これを切ってしまって飛んで行くのです。したがって人間は、結局、水の世界、陸地の世界、空中の光の世界を経て、永遠なる真の愛の世界で暮らすようになります。

 霊界では生命の要素が愛であるので、愛を通じた命令にはすべて不可能がなく、即刻、成就します。そこでは億万人が一度に夕食を食べるとしても、それだけの食べ物を準備して、一瞬のうちに宴会をすることができます。そのとき参列する貴賓たちが皆、王子、王女になりたいと思えば、本物の王子、王女になるのです。それが可能なのです。

 皆さん、そのようなことを理解するなら、この地上で暮らしたいでしょうか、あの世に行きたいでしょうか? 腹中にいるときは、「腹中がいちばんいい」と言い、腹中でただ足でおなかを蹴りながら暮らします。途中で引き出せば嫌だと言うでしょう。そしてお母さんのおなかの中から外に出るときは、死んでから目覚めるのです。地上での死というものも、死んでから目覚めるのと同じ作用です。したがって死とは、まさに第二のお産なのです。

 ご来場の皆様!

 今日のひとときを生きていく私たちの人生は平坦な道ではありません。それは人間が堕落したからです。

 私たち人間は堕落の因縁を持って生まれたがゆえに、その堕落によって生じた怨恨の過程を必ずいつかは乗り越えなければならない運命を持って生まれました。数千、数万年の歴史過程を経てでもそれを越えなければ、その恨の道は私たちの前に永遠に残るようになるのです。

 エデンの園でアダムとエバが堕落したその瞬間から、私たち人間は不幸の要件を持って出発しました。ですから、人類が幸福の世界に戻るためには、必ず不幸の世界を退けて進まなければなりません。そうしなければだれも幸福な世界に戻ることができません。

 人類始祖が堕落したことによって人間だけが不幸になったのではなく、神様までも共に不幸になりました。私たち人間が生涯をささげて生きていく一つの目的は、理想世界の実現だけではありません。それよりまず、生命の根源であられる神様に積もっている悲しみと悲痛さをどのように打開するかということが、私たちの生涯の目的です。したがって、人類が幸福な所を訪ねるとき、神様も幸福になられるのです。このように神様と人間は同じ立場に立って一つの目的を指向して、歴史過程を経ながら今まで歩んで来ました。

 神様はアダムとエバを失うことによって、険しい道のうちで最も険しく、世の中のだれも願わない、行きたがらない道を歩んでこられたのです。人間もまた、堕落で残された、この避けることのできない運命の道を、救いの一日を願ってやってきたのです。

 神様に対して人間は、「そのかたの息子・娘になりたい」ということが最高の願いです。なぜなら、父母と最も近い立場は父子関係であるからです。
「私」という人は父母の愛と生命が集中した、父母の理想を代身した立場に生まれました。ところが愛とか理想とかいう言葉は、一人について言う言葉ではありません。生命も一人で独断的に出てくるのではなく、連結された立場で出てくるのです。したがって神様が人をお造りになるとき、神様の真の愛と生命と理想の対象として造られたのです。これは驚くべき、偉大なことです。

 「私」がいなければ、父母の愛は現れることができません。父母の愛と生命と理想は「私」と関係しているのです。「私」は父母の愛と生命と理想の結実体です。ですから、息子の立場は最高に価値のある立場です。神様と人類は父子の関係であるからです。

 救援摂理の完成

 父母と「私」が一つの位置から共に出発したという事実は驚くべきことです。父母の愛は「私」の愛であり、父母の生命は「私」の生命であり、父母の理想は「私」の理想として決定づけることができるのです。ですから父母は子女を見つめるとき、この子は自分の愛する息子・娘であると言います。この子は自分の愛と、自分の生命と、自分の理想の実体だということを、父母は感じて悟り知っています。愛する息子・娘は一日会わないだけでも、会いたく、今見てもまたすぐ見たいというようなものなのです。それはいくら離そうとしても離すことができない、骨の中の骨であり、肉の中の肉です。いなければ死んでしまうくらい、そこにはすべての理想がつながっているのです。

 今日、堕落によって、真なる愛と、真なる生命と、真なる理想を持てない人間世界に生まれた父母でも、そのように子供を愛するのです。ましてや、そのような父母の主体であられる神様は、それ以上なのです。

 本来、堕落前のアダムとエバは、神様の直系の息子・娘として神様の血筋を引く者です。アダムとエバは天上天国と地上天国を受け継ぐことのできる王子・王女だったのです。王子・王女であると同時に、無形の神様であられ、主体であられる神様の前に対象として造られた存在であるがゆえに、神様の前に愛を受けることのできる実体であり、無形の神様が実体として顕現したものです。

 神様の息子の特権は、そのかたは自分のものであり、そのかたが持っているすべても自分のものであるというものです。神様の愛、生命、理想までも自分のものです。このように驚くべき偉大な本然の価値を、人間は再び回復しなければなりません。

 したがって神様が真の愛の主体であられ永生されるなら、その真の愛の相対も永生しなければなりません。神様の愛と一つになれば、神様が自分になるのです。

 堕落していないアダムとエバの体は、神様が住まわれることのできる家です。アダムとエバが神様を心の中心として、真の愛で永遠に統一された愛の体、生命体、血統体になっていたならば、今日私たちの心と体は闘わなかったはずです。

 堕落とは悪魔の愛を中心とし、悪魔の生命体と血筋を受け継いだことです。偽りの父母から生まれたのです。ですから、この血筋を改造しなければなりません。野生のオリーブの木を真のオリーブの木に改造しなければならないのです。そうするためには接ぎ木をして三代以上を経て、そこで結ばれる実が真のオリーブの木になって、本然の基準の代わりとなります。そのとき、初めて堕落した人間が本然の人間に復帰され、救いの摂理の完成がなされるのです。

 このように神様と一致した愛を中心として、善なる父母の息子・娘になるようにするために、神様がこの地上に救世主を真の父母として送られるのです。救世主は人類の血統を清め、本然の創造理想を実現するために来られるおかたです。

 私たち人間はだれでも最高になりたいし、神様の息子・娘になって、神様の王子・王女として王圏を受け継ぐことのできる相続者になりたいという本然の欲望があります。しかし、異なった血筋を受け継いだがゆえに、生まれながらも嘆き、生きながらも嘆き、死にながらも嘆くのです。「人生は苦海である」という言葉がここから出てきたのです。

 ですから、自分の心と体の闘いをどのように中止させ一つに統一するか、という問題が重要です。自分の心と体を一つにできなければ、南北統一も、世界統一も、霊界統一も自分とは何ら関係がなくなります。

 主体と対象は対応的な関係を結んだ後には、より大きいものを中心として一つにならなければなりません。男性と女性が対応して一つになった後、より大きいプラスやマイナスになって、国の前に忠臣にならなければなりません。そして、これが再びプラスやマイナスとして世界的次元で聖人の道理に接ぎ木されなければならず、聖人の道理が再びプラスやマイナスになって、天宙的次元で聖子の道理に接ぎ木されなければなりません。そのように聖子の道理を備えてこそ、神様に接ぎ木することができるのです。

 ところが、私たちは発展を願い、大きいものを願い、高いものを願うというこのような原則において、自分が行くべき道が運命的に横たわっているにもかかわらず、その道を知らずにいます。本然的な天道の動きに対する対応的な反射として自分の心の欲望は作用していますが、その成就の道を知らずにいるために、人生は塗炭の苦しみの中で呻吟しているのです。その道を捜すために多くの努力をしても捜すことができないので、世の終わりの日になれば、自殺がだんだん増えていくのです。私たちは何としてもこれを克服する道を求めなければなりません。

 人類は世界の舞台で一番となることを願う前に、まず本然的アダムとエバの家庭で一番になるべきです。アダムとエバが神様の前に直系の王子と王女の立場を備えるようになれば、彼らは男性として最高であり、女性として最高になります。しかし彼らが堕落したことによって、彼らが占めるべき長子権の王子、長子権の王女の立場を失ったのです。これが人類歴史に恨として残りました。それで、人類は神様の真の愛を再び捜そうと、最初の息子と最初の娘の立場を捜していく人生の道を歩んできたのです。

 そのような世界の愛を受けるためには自己中心に生きるのではなく、神様を第一にして、兄弟である人類を主にして生きなければなりません。お父さん、お母さんに代わって兄弟のために最も多く血と汗を流して長く耐えて克服した真の人であればあるほど、深く、広く、高い愛を受けるのです。そのような息子になり、娘になってこそ、お父さん、お母さんの全体を相続することができます。この道は男性も女性も皆行かなければなりません。したがって十回でも百回でも死の峠を経て、死んでも、絶えず神様の真の愛を求めていくことが、人生において行くべき最高の道なのです。

 統一教会の原理は、人間が神様の真の愛の圏内からはずれたことが堕落であり、神様の愛の圏内に再び入ることが復帰だと教えています。そのような真の愛の圏内に入れば、自分の体一つを見るだけでも千回、万回、激賛するようになります。その世界では自分の体も神様の真の愛を受ける体になるので、その喜びは言葉で表現できないのです。そのように素晴らしい世界が天国です。

 私たち人間の心が神様の真の愛を占領する日には、千年万年、歌を歌って踊りを踊ることができるのです。神様の真の愛に酔うようになれば、酒や阿片のようなものに酔うこととは比較にもなりません。天下に存在するすべてのものを呼べば、それに応えないものがありません。流れる水だけ見ても、千年間、歌を歌うことができます。そこにおける、ささやきの甘味は無尽なのです。そのときは世の中ですべてを成し遂げているので、金銀財宝も他の何も、みな必要ありません。世の中でそれより貴いものがないのです。このように見るとき、人間の価値は愛を通じ、真の愛の感覚を通じて宇宙と和することができる主人格なのです。これを成し遂げることが人生の行くべき道です。

 霊界は今まで未知の世界でした。その世界は神様の存在原則である、為に生きた人間だけが行く所です。そういう内容で形成された世界が理想天国です。

 宗教の使命

 そこが私たち人間が尋ね求めていくべき本郷です。今日、私たちは堕落した人生によって本郷から追放された人間となったがゆえに、本郷の地に向かって帰らなければならない運命にあります。しかし、そこは人間自体だけでは帰ることができません。それで神様は、人間が帰ることのできる道として、その民族の文化背景、風習あるいは伝統に従って数多くの宗教を立て、歴史的に収拾してこられたのです。宗教は、本郷の地へ帰ることのできる資格者を鍛える訓練の場です。神様は東西南北の四方の文化背景によって、高い所に前進できる一つの統一された宗教世界に導いてこられたのです。

 そのような本郷の地に導くべき宗教であるがゆえに、宗教は「為に生きなさい」ということを教えてあげざるを得ません。それで、高等な宗教であればあるほど、為に生きなければならないという原則を強調し、温柔謙遜であれと教えるのです。無数の人々を高め、彼らのためになる立場に立って、犠牲になり奉仕しなさいと教えるのです。

 これから、私たちの前に到来する二千年代は、世界の全人類が神様を中心とした真の本然の人間の価値を取り戻し、天地父母と一体となり祝福を受けた真の家庭を成し遂げ、神様と真のご父母様を中心として、永遠に為に生きる真の愛の道理を実践する、真の平和と真の理想の天国時代を迎えなければならないのです。

 皆様の家庭と国家が神様の愛と祝福にいっそう満たされますようお祈りいたします。ありがとうございました。

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