南北統一と世界平和
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 世界平和と統一に関する文鮮明先生のビジョンと実践 2

第三章 民主主義と共産主義

一 民主・共産主義は何か違うのか

 民主世界と共産世界は反対になっています。民主世界は天を求め、共産世界はこのように反対に行っています。共産世界は物質世界を訪ねていきますが、民主世界はその反対の道を行っています。民主世界は個人を中心にしていますが、共産世界は党が主管しています。民主世界は自由と愛と平和を中心としていますが、共産世界は脅しと銃剣を中心として強制的に主管しています。二つの世界が今、全く反対に広がっています。(一〇七−二一〇、一九八〇・五・一)

 民主世界は、心主義です。そこにはまだ同情があり、未来があります。また、ここでは平和を論じます。しかし、共産主義の理念は、弁証法による闘争を主張します。彼らは、闘争過程が発展の要因だといっています。ここには平和はあり得ません。理念が違うのです。(四七−一三、一九七一・八・二二)

 共産党、この悪党の群れを民主世界が兄弟の因縁で結んできましたが、その機構が国連機構です。国連憲章の第一条とは何かというと平和です。平和を標準として定めたのです。(五〇−五六、一九七一・一一・六)

 歴史始まって以来、人間として一つの世界と平和の世界を望まない人はいなかったと思います。そのように望んできた歴史的過程を経て、今においては、世界が二つに分かれていることを私たちは知っています。このように分かれた民主と共産、この二つを見つめながら、民主世界を通して果たして一つの理想世界が来るのだろうか、また共産世界を通して理想世界が来るのだろうかという問題をおいて見るときに、この世界に生きる人類は、希望をもつよりも絶望の段階に入っていることを私たちは直視しているのです。(五四−一一〇、一九七二・二・二一)

 今日の世界は、体と物質のために闘う世界です。どんなに経済学、科学、思想が発達したとしても、これらが私たち人類に平和をもたらしてはくれません。それではできません。心の世界に入って、この肉体と物質を再鑑別することができる、ある主義や天的な動きが歴史的な終末時代に現れない限り、この世界は滅びるでしょう。今や、天がはっきりと一つの中心を決定しなければならない最後の時代に直面しました。このような時代に暮らしている私たちは、この多くの問題をどのような立場で解決し、清算するのでしょうか。この問題が世界的に起きて二つの思潮として現れたのですが、その一つは唯物史観であり、もう一つは唯心史観です。ぱっと分かれたのです。土地と共に、体と共に行けば滅びます。ですから、神様と共に清算しなければなりません。

 今日、世界はどのようになっていますか。世界は、共産圏と民主世界、カイン、アベルに分かれています。世界的に分かれています。カインとアベルが、最初に堕落した直後から争うことによって不幸を招くようになったのですが、その歴史的な恨の血統を清算するためには、カインとアベル、共産世界と民主世界が分かれて闘う立場に立ったままではいけません。そのままでは、この地上に世界平和の王国が臨むことはできず、平和の父母がこの地に臨むことはできないのです。ですから、カインとアベルと同じ共産世界と民主世界が一つになることによってのみ、この地上に父母の世界統一主権が訪れるのです。ですから、今の時は世界的な終末です。(五六−三五三、一九七二・五・一八)

 今までの共存は、相手をお互いに否定しようとする闘争が継続する状態での共存でした。闘争と離れた状態での共存はあり得ませんでした。互いが平和を維持し、良い状態での共存はあり得ないというのです。このような観点から、唯心史観と唯物史観の闘争は根本から解決しなくてはなりません。これを解決しようとするならば、善をどの位置に立てるのでしょうか。まず原則的な基準をしっかりと立てたのちに、その基準を中心としてあとのものを処理しなくてはいけません。(三七−一二〇、一九七〇・一二・二三)

 今日、世界史的に唯心が主体なのか、物質(体)が主体なのかが問題です。これが今日、終末時代の思想界を混乱させているという事実を知らなければなりません。精神は心の側であり、物質は体の側です。二つがいつも闘っているのです。このような人間が平和でしょうか。この渦の中で、世界は混乱状態にあるということを知らなくてはいけません。(一一九−一〇四、一九八二・七・四)

 原理原則により、先生は、カイン・アベル圏である民主世界と共産世界を統合する基盤の上に立たなければなりません。ですから、これらが一つになることができなければならないのです。心と体、これが拡大された世界が民主世界と共産世界です。一つは心主義的世界であり、一つは体主義的世界です。これを合わせた基盤の上に立たなければ、世界平和の門を開くことはできません。これが原則です。これが個人の体から家庭、社会、国家、世界にまで、すべて連結されるのです。(一二〇−二〇二、一九八二・一〇・一六)

 宇宙の根本を考えてみるとき、まず初めに二つだったのか、一つだったのか、これが問題だというのです。一つからすべてが始まったのではなく、二つから始まり、対立する二つの路線によって人類がそのはざまにはまっていくというのであれば、人間世界に平和や幸福、自由などというものは存在し得ないのです。

 自由というものは、完全に一人の主人を中心とする環境から広がっていくものです。幸福や平和というものも、一人の主人を中心とする環境から広がっていくものであって、二人の主人が闘う場所では幸福や平和が存在できないというのです。皆さんが御存じのように、家庭を中心として見るとき、父.母がけんかする家庭が幸福になれますか。そこに属す家庭が幸福になれますか。そこに属す子女たち、そこに属す家族は幸福にはなれないのです。

 共産主義の論理を通して見ると、「世界は闘争過程を経て私たちが指向する一つのユートピアの世界に挑戦するのだ。それは絶対的だ。だから党の命令はどのような命令よりも絶対視しなければならない」と言うのです。それが善なる側に立ち、自由と幸福と平和をもたらすことができる側に立ってそのように言うのであれば分かりませんが、共産主義の本質的内容を調べてみると、これは、かなり想像できない内容をもっているのです。自分たちの目的を達成するためには、手段方法を選ばないというのです。自分の父母も、自分の国も、自分の同志も、その行く道に障害になるならば切るのです。そうして七十年歴史の共産主義は、世界の問題として登場しているのです。(一三五−二六九、一九八五・一二・一五)

 共産世界が追求するものは何でしょうか。闘争の結果によってもたらされる平和の世界です。その平和の世界は、今日、民主世界で言う平和とは違います。平和に背くすべてのものは粛清するのです。共産主義思想に背くすべてのものは粛清します。反動分子だというのです。それゆえに、反動分子をすべて切り捨てて、反動分子がいなくなったその世界の平和を言っているのです。それは平和ではありません。

 今日、ソ連が平和を主張しますが、その平和は、マルクス・レーニン主義を中心とし、それに背くすべての反動分子を粛清してしまい、マルクス主義一辺倒の立場に立ち、その反対の群れがいない境地をいうのです。

 民主世界の平和は、左右が共に一つとなることができる概念をいうのです。根本的に違うのです。左右が一つとなって和合し、理想的な動向を備えるその境地を民主世界では平和というのです。そこには粛清概念がありません。包括的概念があり、観念的概念はありますが、粛清概念、破壊的概念がないのです。それで、この共産主義は、人類には受け入れ難い主義なので、私たちのような人がその先端の旗手になって世界的に闘っているのです。そこでは愛、家庭までも、父母までも搾取の元凶であるというのです。子供は、父母の立場を自己の利益のために活用する存在として、搾取的な母体と見るのです。そこでは愛を語ることができません。そこには真が存在し得ません。(一六八−一六四、一九八七・九・二〇)

 今日、民主主義で考える平和は、高低を問わず、東西、前後、左右の関係なしに一つに和することです。高い人は、低くなって低い人を協助して持ち上げてあげることができ、左側の人は右側の人、右側の人は左側の人と互いに協助して一つなることができることをいいます。大きければ小さいものに分配して一つになることができることをいっているのですが、共産主義の平和戦術というものはそうではないというのです。それは、反動分子を除去して、絶対労働者、農民のための独裁政権、彼らがいうプロレタリア独裁政権を中心として、そこに反対する一切の要員たちが消え去った基磐のもとで、単一的主張で一元化し得る基準の上で言う平和です。皆さんは、そのことを知らなければなりません。概念が違います。このように見るときに、今、ゴルバチョフが平和攻勢をしていますが、それは、世界が共産主義体制内に既に建てられたという立場から主張するものです。ここで配置されるすべてのものは、手段方法を選ばず除去してしまいます。

 今後の世界は、戦争では収拾することができません。平和的和合と交流が問題です。お金ではできません。スポーツしかありません。その次には文化活動です。教育、学術問題とスポーツです。中国もピンポンを前に立てて入っていったではないですか。(一七五−三三六、一九八八・五・一)


二 共産主義は何か問題なのか

 共産主義とは何でしょうか。主体も認めない、対象も認めない、方向性もない、目的性もないというのです。この中でどれか一つでも認定すると、すべて崩れ去ってしまうのです。ここでは、主体と対象関係を闘争として見ています。闘うことで一つになるというのです。全くそのような道理がどこにありますか。女性と男性と闘って一つになる、心と体が闘って一つになるというのです。また彼らは、主体と対象においても、「物質が先であって心が先ではない。心は物質による派生物だ」と言います。逆さまにひっくり返してしまいました。「方向は闘争だ」と言いながら闘争の方向を取っています。平和の方向ではありません。「統一は血を見なくてはならない、血を見て統一だ」と言うのです。これは、歴史発展の原則にも、宇宙の存在原則にも違反するものです。(一〇八−六八、一九八〇・六・二二)

 弁証法は、すべてのものは闘争しながら一つになるといいます。もし資本主義世界がなくなり、資本主義体制が共産主義体制に化すときには、闘争目標をどこにおくのでしょうか。その時に平和の世界がただそのまま来るのかというのです。その時、ただじっとしていて理想的な共産世界が来るのでしょうか。そのような世界が来るとは絶対に考えられないのです。もし、これ自体が飽和状態に入り理想実現が不可能になるときは、必ず自体分裂が激しくなります。もしそのような世界になるとすれば、反対に霊界があるなら、霊界がその世界を黙ってほっておくのかというのです。神様がいらっしゃるならどのようにされるでしょうか。その世界になったなら、宗教というものがなくなるのです。宗教がない世界になるのです。そのようになった時、神様がいらっしゃるなら、今まで宗教に接したその神様が何もせずにじっとしているだろうかというのです。共産主義というものは、資本主義に対して闘争目標を立てるのと同時に、神様に対して闘争目標を立てるのです。宗教を闘争の目標に立てます。資本主義は滅びても、神様との闘争を停止しないというのです。(九七−二四〇、一九七八・三・二九)

 共産党の戦術戦略とは何でしょうか。奇襲作戦を通してプロレタリア独裁政権を確立するというのです。それが定義です。奇襲作戦→その方便は何でしょうか。・平和攻勢をするのです。それでブルジョア階級の人たちがすべてそこに陶酔し、その相対となり、それらの行楽によく応じて喜んで踊るその時に、最後の鉄槌を打ち加えて倒し、その政権を剥奪、奪還しようとするのが共産主義の骨髄思想です。(七八−二一五、一九七五・五・二五)

 共産主義は、独裁体制になっているので、命令一つでどのような行動でもすることができます。しかし、民主世界はそうではありません。アメリカならアメリカでは、平和や親和などこのような政策をして突然それに背くようになれば、必ず副作用が起こるというのです。今後、このニューヨーク市の四十三番街の統一教会ニューヨーク本部、ここが共産党の攻撃ターゲットになるのです。(八六−一四四、一九七六・三・二一)

 アメリカの青年たちは、共産主義に対して知りません。共産主義がどのようなものであるか知らずにいるというのです。ホワイトハウスにいる人や国会議員たちも共産主義をよく知りません。アメリカの外交政策において、「共産主義との和平だ、交渉だ」などと言いますが、彼らの手法にすべて巻き込まれ、自分たちのほうがすべて譲歩するしかないというのです。彼らは、民主世界をどのように利用してでも侵食し転覆させようとするのです。その目的のために何々協定などといいますが、それらはすべて一時的な言葉です。(八六−一四三、一九七六・三・二一)

 一つのアベル圏である民主世界を代表して共産圏と対決し、彼らを吸収して一つとならなけれぱなりません。闘って一つになるのではありません。共産主義の間違ったところを教えてあげて一つになってこそ、この世界に平和の起源が成されると思うのです。(八六‐二二九、一九七六・三・三一)

 ソ連、中国、北朝鮮、ルーマニア、ユーゴのような共産国家が宣伝する内容は、「アメリカ帝国主義者だ」と言います。同じ内容で攻撃するということを知らなければなりません。共産主義者たちは、平和外交政策を通して、あるいは平和攻勢を通して民主世界を吸収すると自信をもっているというのです。

 平和を嫌う人はいません。すべての人が良いと考えます。みなその色目に引っ掛かってしまうのです。ですから、今まで軍事禁止協定であるとか、核禁止協定とかいうものをつくっては、「これはチャンスだ」と言いながら、自分たちは大々的な軍事拡張をしてきたのが事実ではないかというのです。

 皆さんが知っているように、今、現在、ソ連の軍事力は、アメリカを凌駕しているというのです。今までアメリカは、平和政策や「核禁止だ」と言ってきましたが、彼らは反対に発展させてきました。そのようにしながら、ヨーロッパに対する基地を強固にし、インド、アジア太平洋沿岸までも軍事力を強化するのです。ウラジオストックを見てみると、膨大な艦隊を投入して、膨大な兵士を投入しているということは周知の事実です。(八六−一四五、一九七六・三・二一)

 サタンと神様の間に、平和は存在することができないというのです。サタン側の世界である共産圏は、神様が主張しなければならない平和の世界を偽物に、またうそを言って平和という名前で闘争の準備をしているなど、反対の現象を見せています。悪なるサタン側の平和は、自分たちのために人を殺し、すべて搾取して略奪を楽しむことですが、神様の平和は、自分を犠牲にしてすべてのものを与えようとするものです。その方法が違います。真なる平和が訪れるために偽りの平和の攻撃を受けるのであり、彼らがそれに嫌気がさす時まで継続するのです。今が正にそのような時です。(八八−一二〇、一九七六・八・八)

 共産主義者たちは、愛を知っているでしょうか、知らないでしょうか。物質より愛をより貴く思うでしょうか。共産主義も、理想的な世界、私たちの心に平和をもたらすためには、物質よりも愛が必要だという論理を立てなくてはならないというのです。より価値があり、より大きなものが、より小さく普通の価値の中に入ってそこに属することができるのかというのです。前後関係を見るとき、どうして小さなものが大きいものより先になることができるでしょうか。ですから、そのような思考方式をもっては平和の世界は不可能なのです。(九三−一四四、一九七七・五・二二)

 共産主義がいう平和は、私たちと概念が違います。語彙的戦術を活用しているのです。「平和」といえば、私たち自由世界、民主世界の人々は、互いに意見が異なり、主張が異なり、目的方向が異なる立場にあっても、互いに和合して一つになることができる基準を探していくのです。それが平和というものです。一つとなったものが平和であるとみなすのですが、共産世界は違います。プロレタリア独裁政権の前に反対するすべての反動分子は完全に除去してしまい、そこに相対的なものが現れない基準に立った平和なのです。

 最近ソ連が取ってきている平和攻勢に、レーガン行政府がぱたっと倒れるのです。彼らの論法は、アメリカを撲滅するための平和というものです。撲滅して除去してしまい、ソ連で共産主義体制を全面的に支援した、一方通行がなされて反対のない平和の世界をいうのです。語彙が違います。

 そして、民主主義も違います。彼らの民主主義は、労働者と農民、独裁政権のための平和と幸福を保障する民主主義なのです。自由世界の民主主義は、すべて国民が一つとなった立場でいう、協力したその基盤の上でいう民主主義なのです。このように見るときに、共産主義者たちの戦略戦術は、すべて欺瞞です。どのようにだますのかというのです。それが真ですか。これが問題になるのです。(一七〇−五一、一九八七・一一・一五)

 自由世界で言う平和は、共産主義や民主主義、誰彼を問わず東西南北にいるすべての人を和合させて一つにしようとすることです。ところが、共産主義で言う平和とは、そうではありません。反動分子を除去したのちの平和です。ですから、労働者と農民のためという独裁政権を中心とした平和です。そこでは、上部構造に対処することができる基盤に立つブルジョアは許容しません。ブルジョアを完全に除去した立場からの平和を言っている、ということを私たちはよく知らなくてはいけません。

 彼らは平和を通して何をしようとするのですか。彼らがユートピア的世界を展望しているなら、その世界はどのような世界でしょうか。自分たちを中心として、労働者第一主義を主とした平和世界、ユートピア世界を夢見ているのです。ここには、ブルジョア、資本主義国家の様相は存在することができません。それを完全に拒絶した立場から平和を言っているのです。(一七二−四、一九八八・一・三)


三 共産主義克服の道

 皆さん、ここに立っている人は、反共産主義者ではありません。反共ではなく勝共を叫ぶ人です。言い換えれば、世界思想において、キリスト教文化圏に立ったこの民主世界が共産世界を凌駕し得る権威をもってこそ、神様がこの世界にみ手を差し伸べて平和の世界に導き得る道ができると思っているのです。(五三-−一八六、一九七二・二・二〇)

 共産党、悪というものは、力が強いときはいつでも攻撃してくるのです。平和というものがありません。そのような意味から、力は力で制圧することができる基準になっていなくてはならないのです。だからといって、攻撃するということではありません。弱くなるときは、いつも侵攻するのがサタンの本質です。平和だ何だと言うのは、彼らの戦略戦術です。急変する情勢が押し寄せてくるこの時において、韓国の国民たちがしなくてはならないこととは何でしょうか。生死の決断を下し得る思想的な武装をしなくてはならない時が来たというのです。(五〇−二二六、一九七一・一一・七)

 共産世界や民主世界、すべて平和的な立場でなければ、一つとなる道はありません。それなのに、内的には崩壊し始めています。民主世界も崩壊し、共産世界も崩壊し始めています。世界的な共産主義が民族主義に落ち、世界的に民主世界をリードしたアメリカも国家主義に縮小し始めているのです。(七〇−二八三、一九七四・二・一四)

 悪は、先に打つようになっています。力の勢力基準が崩れるとき、善は耐えますが、悪は攻撃するようになっています。アメリカは、ソ連よりも強いですが、打たないので、ソ連よりはより善なのです。北朝鮮の全日成が武力を強化させ、南侵しようとしたでしょう? 悪は、自分の力が優位に立つときは攻勢をとるようになっているので、民主世界は、力の基準で負けないよう準備しなくてはならないのです。共産党が平和攻勢を敷きながら武力を増加させるなら、民主世界もそのようにしなくてはなりません。(六四−一六〇、一九七二・一一・一二)

 今、霊界も肉界も、方向を提示し得る時になったので、これを消化し、これを料理し得るためには、国際的な機構をつくらなければならないのです。それで今、「平和救国連合」という名前を宣布しました。今、国連総会が問題ではありません。サタンを寄せて倒し、投げて倒し、同じように今、共産党を捕まえて片づけてしまわなくてはなりません。そうしたらよいでしょう?私も相撲をしましたが、腰投げをしようとした人に力がなければ、持ち上げたその重さに負けてべたっと座り込むというのです。ですから、鋼鉄のように強くなければなりません。それでひっくり返してしまわなければなりません。(七八−三二九、一九七五・六・一〇)

 蕩減法を知れば、世界の問題はすべて解くことができるのです。それでは、共産党は滅びるでしょうか、滅びないでしょうか。共産党は滅びます。彼らは、自分の政敵がいると、すべて粛清してしまいますが、その人が千年、万年生きるのではありません。その息子、娘が残っていれば、その死んだ人の息子、娘が復讐するのです。それで平和の世界が訪れるでしょうか。不安と恐怖の雰囲気の中で平和が訪れることができるでしょうか。死にながらも「ありがとうございます」と言うことができるその道から平和が訪れるのであって、「お前は私を利用したな。私をこのように犠牲にさせるのだな」と言えば、平和が訪れることはできません。(八〇−二三八、一九七五・一〇・二四)

 韓国のように悲惨な運命に立っている弱小国家が生き得る唯一の道は何でしょうか。民主世界を消化させ共産世界を消化させ得る、それ以上の主体的な力をもつことです。そうして、その国の首相であろうと長官であろうと関係なく頭を下げさせ得る力をもち、そのような一人がいて、そのような同僚が十人いれば、十人が百人になり、百人が千人になり、千人が万人に……。万人は、とてつもなく多いのです。十人だけでも、その力の基盤から消化の基盤が広がり、アジアに一つの平和の基地を設定し得るようになるのです。これは、短いのか長いのかという時間の問題なのです。(八二−二八、一九七五・一二・三〇)

 皆さん、この世界を眺めてみるとき、東西南北、すべて自分たちの道を行っています。韓国を見てみるとき、西側には中国があり、北側にはソ連があり、東側には日本があびます。しかし、一つは東側に行き、一つは西側に行き、一つは上がり、一つは下がり、自分の国を中心として見れば、すべて違うというのです。言葉も違い、生活も違うというのです。政策も違うというのです。国の主権者もすべて違うというのです。このような世界、とのような環境で、果たして平和の世界、幸福の世界、理想の世界を実現することができるのでしょうか。できないというのです。

 世界情勢を見るとき、民主と共産が対決して闘っています。いったいどのようにしてこのようになったのでしょうか。個人個人を見てみると、平和を望まない人はいません。すべて平和愛好主義者たちです。心はそのように思っているのに、なぜ闘わなければいけないのかというのです。

 このような問題を考えてみるとき、その根本をどこで見いださなくてはいけないでしょうか。どこからこの平和を見いだすのでしょうか。一般の人々は、アメリカとソ連と一つになれば平和の世界が訪れるだろうと考えますが、とんでもない話です。人の欲心は、すべて異なる方向に向かっています。共産主義の方向と民主主義の方向が違うのに、それらが一つになるはずはないのです。二つの体制が一つになっても、誰かが利用して、一つのところに自分のふろしきを包んでおこうという、そのような結果に至るならば、再び分裂するしかないというのが、歴史的実情だということを皆さんは知らなければなりません。それゆえに、平和でも何でも、すべて夢だというのです。

 それでは、平和の基点、平和のその出発点がどこになるのかという問題を考えてみるとき、今日、アメリカが平和の出発点になり得るでしょうか、ソ連が平和の出発点になり得るのでしょうか。なり得ないというのです。その次には、今日、宗教集団が平和の出発点になり得るでしょうか。宗教集団も互いに争います。長老派が争い、メソジスト派が争っています。またプロテスタントが統一教会を打っています。私たちは、キャッチャーはしますが、ピッチャーにはなりません。私たちは、防御はしても攻撃はしてみたことかありません。

 このような観点から見るとき、宗教が一つになり得るでしょうか。宗教統一が簡単なことでしょうか。一般の人たちは、法を立てて、民主主義の原則で決定を下すようになれば、大多数はその決議に従うようになっていますが、宗教はそうではありません。違います。そのような問題を考えるとき、どのようにすれば宗教を中心として平和の基準を、平和の基点をつくることができるでしょうか。今日、現在の宗教をもってしてはできません! では、現時代の政治体制をもってすればよいのでしょうか。できないというのです。すべて判決が出たのです。ここに異議はないでしょう? できないようになっています。(八六−二八、一九七六・三・四)

 自由世界を代表したアメリカは、「戦争をするのはやめよう。戦争は嫌いだ」と言います。例を挙げれば、レスリングのチャンピオンがリングの上で「誰でも出てこい」と言うときには出ていくことができずに、「お前は私に負ける」犬とどんなに自信ありげに言ったところで、`それは通らないのです。リングに出てこないで、「おい、そんなことを言っていないで下りてこい」と言っては通りません。そのようになれば、チャンピオンが何を言っても、その相手は黙って聞かなくてはならないというのです。共産主義者たちは、幼い時から今まで、「民主主義打倒!資本主義の元凶であるヤンキー打倒」という一貫した教育を受けてきました。彼らは、毎日のようにアメリカ人のかかしを作り、ひたすら剌すのです。アメリカ人といえば、「最も大事な目から引き抜け。一番大事なところから切れ。鼻を切れ。耳を切れ。手を切れ」というやり方です。女性でいうと、「胸を切ってしまえ、鼻を切ってしまえ」と言っているのです。それなのに、「お前たち、そう言わずに平和はどうだ、平和?」と言うのは狂った言動です。今回起きた韓国のKAL機墜落事件を見てください。それは、韓国の飛行士だけでなくアメリカに対する挑戦です。レスリングのチャンピオンがリングの上でそのようにするのと同じです。

 今からレーガンは、どのようにするでしょうか。これが問題です。どのようにするのでしょうか。皆さんは、先生がどのようにするのか、ということも尋ねてみたいと思っているでしょう。また、神様はどのようにされるのでしょうか。神様は見ていらっしゃるのです。神様は、「レーガン、心にかなうようにすればアメリカ国民が生きることができるように保護するが、心にかなわないようにすれば滅びる」と言われるというのです。病菌、病魔、怨讐が捕まえるというのです。そのままほっておけば、首をつかむのです。それでもじっとしていれば、その次には目を引き抜くのです。目を引き抜いた次には、心臓に短刀が突き剌さっていくということを知らなければならないというのです。「ああ、これを見ろ。私を殺すのか」と、そのように言って死ねば終わりです。サタンに平和が通じますか。このようなときに、自由世界が滅びたら……。メシヤとしてイエス様を送り、数多くの聖人を送り、歴史時代に大声で救援を叫びましたが、最後には狭い門から入らなければならず、鉄窓の中に入って死ぬようになるのです。(一二八−二六六、一九八三・九・四)

 今日、世界の情勢と状況を調べてみるとき、共産主義者たちは、三つの形態の戦争を始めています。それは、思想戦、情報戦、宣伝戦です。アメリカは、大きく強大な国家ですが、共産主義者たちと闘って勝つことができる確実な政策的方法をもっていません。アメリカの為政者たちは、共産主義者たちと対立して闘うことを嫌うあまり、後退と譲歩を繰り返してきました。それゆえに、アメリカと隣接した中南米の国家が共産主義者に操られて、アメリカの自由と平和を脅かす段階にまで至ってしまいました。

 万一、共産主義者たちが、アメリカの統治権をつかむならば、皆さんはどうしますか。彼らが今のように、皆さんに自由と平和を保障してくれると思いますか。先生は、そのような不幸な事態がアメリカでも発生する可能性があることを一〇〇パーセント排除せずにおり、そのような兆候は、既に世界各地で現れていることを確信します。中南米のいくつかの国々は、レバレンド・ムーンとその思想だけが未来の希望だと認識し始めました。今、ムーニーは、アメリカを説得し理解させなければなりません。(一三〇−二八五、一九八四・二・七)

 韓国の国民が北朝鮮を救うのに、こぶしをもってしてはいけません。統一法案はたくさんありました。李承晩政権時代には、力で、軍事力で襲い、張勉政権時代には、平和主張を中心とする統一理念をもっていましたが、産業基盤が崩れ去り、それを形成しなければならないと争い始め、朴正煕政権の時には南北が同等な位置からしてみようといいました。最近は南北調整委員会をつくって交流してはいますが、それは体制が違います。思想的概念が違います。統一的な概念が違うというのです。その体制はどのようにしますか。大韓民国が共産主義の個人的体制、共産主義の理想的体制の中に立っている彼らを消化することができるでしょうか。できません。闘争概念を中心として生活舞台を拡張することが彼らの発展的な論理ですが、そのような思想的背景をそのままにしておいてはとんでもないというのです。(一六八−二三〇、一九八七・九・二〇)

 弁証法による闘争論理の共産主義は、平和、調和の原理を適用させれば収拾することができるのです。今の自由世界を滅ぼすものが個人主義です。この個人主義の自由世界がどのように生き残るのかということが問題ですが、これは簡単です。「ため」に生きよということです。「ため」に生きよと、この一つですべて救われるのです。(一八九−一〇七、一九八九・三・一九)

 右側の目は左側の目のためにあり、この右側の目と左側の目は、人間全体のために存在します。四肢もすべてそうです。自身のためにあるものはありません。それゆえに、このような思想だけが理想世界を創造することができるのであって、共産主義的な打倒の思想をもってしては、闘争の概念をもってしては平和の世界は永遠に訪れることはできません。理論的に永遠に訪れることはできません。(一八二−一三六、一九八八・一〇・一六)

 今、ソ連で共産党の天才的な若者たちが、三泊四日の原理研修教育で完全に回れ右してしまいました。無神論者が有神論者になってしまったというのです。アメリカのアイビーリーグ(注‥米国東部の名門大学を一括した総称)の有名な大学から天才的な男子生徒たちを引き抜いてモスクワに連れていき、有神論に対して講義を聞くようにしたのです。一年前までは無神論を主張していた共産主義の名門の家出身の息子、娘たちが、逆に歴史性をもったアメリカの有神論圏の名門出身の息子、娘たちを教育して感動させたという歴史的なことが起こっています。(二二八−一七三、一九九二・三・二七)


四 「統一思想」と「頭翼思想」、そして和合の時代

 私たちの「統一思想」、「神主義」は、さらにまた「頭翼思想」であることを闡明にするところです。右翼でもなく、左翼でもない、頭翼です。人類の真の平和は、右翼でもなく左翼でもありません。その理由は、右翼も左翼も、その根本的動機が利己主義を解脱できないからです。自分を中心とし、自国の利益を中心とするとき、そこには永遠になくならない利害の衝突があり、統一はあり得ず、平和もありません。(一六四−一九四、一九八七・五・一五)

 今まで民主世界と共産世界は闘争してきています。それで共産世界の怨讐は民主世界であり、民主世界の怨讐は共産党だといいながら、お互いにたたきつぶそうとしているのです。このような世界では、私たちが願う平和は現れることはできません。ですから、ここで必然的に要求されることとは何かというと、心と体を中心とした新しい運動です。心が絶対的に、完全に体を管理できる一つの勝利的基盤を築くための新しい運動が、この地上に展開しなければならないのです。そうしてそれが民主世界を抱き込んで、さらに共産世界まで抱き込むことができなければなりません。(二〇−一六九、一九六八・六・九)

 植えたとおりに刈り取るというのです。なぜ左翼が出てきて、なぜ右翼が出てきたのでしょうか。右翼と左翼が出てくるようになった起源は、どこにあるのでしょうか。それは、政治家たちが言いたくてそのようにつけたのではありません。歴史的蕩減路程を再現させてこれを抜け出せなくては、イエス様の解放が起きないので、そのような環境を通して右翼も左翼も、バラバも一度にイエス様の前にひざまずき、あなただけが栄光の勝利者であり、最後の勝利者だと賛美できるそのような世界になって初めて平和の天国が開門されるのです。これが統一史観から見る世界終末観です。(五〇−二二四、一九七一・一一・七)

 これからは、共産世界でもなく民主世界でもない、どのような世界が来なければならないのでしょうか。私たちの心を中心として、神様を尊重する世界がこの地に現れなければなりません。死亡の体を越えて、私たちの心が渇望する希望の世界がこの地に現れなければならないというのです。その時が正に私たちが渇望する平和の王国時代であり、私たち統一教会員が主張する地上天国時代です。その世界に向かって私たちは、死亡の洞穴を埋めて越えていかなければなりません。(二〇−一八一、一九六八・六・九)

 絶対的愛を中心とする心情、統一教会で言う固有名詞の「心情」を中心とする思想統一だけが、平和の天国と平和の王国を建設できるのです。人間が願うユートピア的地上天国を完成させることができるのです。(一〇九−一三三、一九八〇・一一・一)

 右足には原理を中心として、左足には勝共理論を中心として、「統一思想」の人としてすくっと立ち、「ああ、私がここにいる!」と言う時は、神様の息子になるのです。最後の運命としてそこで終わるのではなく、新しい理想が始まるのです。そこから地上天国の組織が形成されるのです。その時になると、レバレンド・ムーンは、地上天国を行進していくのです。神様が「どうなったのか」と尋ねられると、レバレンド・ムーンは「すべて終えました」と答えるのです。「私たちも、やはり平和の世界を願いました」と答えるのです。(一二三−三〇四、一九八三・一・六)

 私たち統一教会にも、いずれにせよ世界の頂上時代を迎える日が間違いなく来るというのです。統一教会は、民主主義だけを中心としたところではなく、共産思想だけを中心とするそのようなところではありません。ですから、これから問題になることとは何でしょうか。現在、世界の頂上の環境から見る時、二大陣営は、平和の世界を前にして、一つの世界を前にして、ここから分かれて後退すべき運命にあります。これを見つめる時、私たちは、ここに対処せざるを得ないのです。それがこの統一教会を指導する指導者として、責任をもった指導者として重要だと考えざるを得ない問題です。

 統一教会は。アメリカや共産主義と何が違うのでしょうか。アメリカは、民主主義として、人間中心の平面的な基準の国々を中心とする主義を主張してきており、共産主義も、やはり平面的な世界平和を中心としてそれを主張してきました。もちろん、アメリカはキリスト教文化圏だと言いますが、神様を絶対主体として立てるのではなく、最近では、神様をなおざりにして「神は死んだ」と言い、人間が先頭に立ってきたというのです。このすべての動向の全体内容を分析してみるとき、共産主義や民主主義は、平面的基準に帰着しています。しかし、統一教会が一つ異なるのが、立体性をもっているということです。

 世界を一つの平和世界にしても、それが終わりではありません。それを一つの新しい宇宙平和の理念のための出発起点にするのです。これが恐ろしいのです。そうです、誰がビギニング(begining:始め)するのでしょうか。人間たちがビギニングするのではありません。そこで神様の出動が可能だというのです。

 統一教会は、世界平和の基準というものを出発点と見ていますが、今日、平面理念を主張する民主主義や共産主義は、世界の平和基準を自分たちの目的にしています。それが違うというのです。

 それでは、民主世界が平和の波から分かれて、共産世界が世界の平和の波から分かれたのはなぜでしょうか。民族主義、国家主義というものを超越できなかったからです。文化背景が違うというのです。人種はもちろん、宗教まで……。そのような立場で、アメリカを中心として見るとき、「アメリカは、アングロサクソン族が支配する」、このようになっています。「私たちが主体にならなければならない」と言いますが、これをどうやって克服するのかというのです。(一二九−二三二、一九八三・一一・六)

 民主世界は、自由を中心とする知識体制を追求しています。自由の理想を中心として一つになった体制を志向します。共産主義は、平和という基準を中心としていますが、その平和は、労働者や農民の一番下の大衆を基盤とした平和を主張しています。

 ところが、民主世界が主張する自由のモットーとなるものは、いつでも変わらないのでしょうか。大衆を中心とする平和の基準が変わらないのでしょうか。固定されたものなのか、移動的なのかというのです。過去には、民主世界が法を中心として、原則と伝統を重要視する自由を主張してきましたが、最近は、法を無視し、伝統を無視した自由を主張しているのです。

 共産主義も同じです。大衆を中心どする共産主義だとすると、例えば北朝鮮も、大衆のための主権だと言うなら、より大衆のために生きる群れを通して主権を相続させなければならないはずなのに、王が嫡子にするのと同じように、自分の直系の後継者に主権を引き継がせるというのです。それは、共産主義思想にもあり得ないのです。このような観点で見るとき、その平和の基準も行ったり来たりしているというのです。

 共産主義や民主主義は、形状世界の平和や形状世界の自由というものを求めてきましたが、性相世界の平和と自由は知らないでいます。形状は変わっても性相は変わってはいけないのです。形状的にいつでも変化があり得るのですが、変質する道はないのです。形状的な変化形態をとると発展するのです。しかし、本質的な変化はあり得ません。なぜですか。性相は変わらないからです。

 性相と形状が一つになる基準から見るとき、統一教会は、地上の平和や地上統一という概念を性相世界に向かって出発する起点として見るのです。今日、この世界は、形状世界の平和と自由を論じていますが、私たちは、それを中心として性相世界を願うので、自由世界の終着点が性相世界に向かった出発点になると見るのです。(一二九−二三六、一九八三・一一・六)

 我が祖国、韓国の地から世界的な指導者を排出して、統一の世界、平和の世界である地上楽園を成就しなければならないのです。我が祖国の統一はもちろん、東西の文化的差異と南北の貧富の格差を「神主義」と「頭翼思想」で解消して、愛を中心とする人類大家族社会である平和の世界を建設していかなければならないのです。(一九五−五一一、一九八五・一一・三)

「レバレンドー・ムーンは、絶対に一方的な面で共産主義を憎まないのだな。人道主義の面から、大きな意味で見ると平和主義者だ」ということをソ連も知っています。平和を成すにおいてソ連が反対なので、それを防御するための立場だということを知っています。私たちが主張することを、文書を見て知っています。(一八六−二二〇、一九八九・二・五)

 私は、自分が宣布した「神主義」、真の父母の思想が二十一世紀を領導する真の平和の真理だと言います。この「神主義」、「頭翼思想」で二十一世紀の平和世界を建設できます。その核心は、父母の心情であり、真の愛なのです。二十一世紀は真の父母の時代であり、すべてが霊的に、心情的に成熟して真の父母になる時代です。(一八六−二三四、一九八九・八・二二)

 現在、共産世界や民主世界を見るとき、二大対決時代は過ぎて、今は融合時代が来ました。しかし、平和を主張できる時代が来ましたが、その平和を成すことができる内容が明らかではないのです。との世界は、混乱の渦中にありますが、これを克服する未来像がないのです。共産主義は、ユートピア的世界を制覇しようとしましたが、その夢がすべて崩れました。民主世界もそうです。現在、民主世界をアメリカが主導していますが、世界の平和的終着点に到達するにはあまりにも遠い立場です。かえってその希望の基準が、坂道で滑り落ちていくありさまです。さらに青少年たちが腐敗して人種の末の段階に入ったので、未来像はあり得ないのです。このように見るときに、思想的対峙を合む、すべての世界的ブロックを中心とするこの時代が、混乱の渦中でどこに行くのかということが問題です。(一二九−二六一、一九九一・四・一三)

 なぜ私たちが「頭翼思想」を主張するのでしょうか。争う版図で、本然的に連合して、アダムとエバの衝突の要因をすべて消化させ、それを統一的基盤の上に、アダム家庭の平和の頂上に立てて、本然の家庭の基礎を用意することができるからです。それが「頭翼思想」の基盤になるのです。(二二六−一三三、一九九二・二・二)

 東洋と西洋を誰が一つにするのでしょうか。レバレンド・ムーンしかいないというのです。キリスト教文明圏と東洋思想文明圏を中心として、仏教、儒教、イスラム教を連合させた背景、大きな背景を消化できる「世界平和宗教連合」をつくっておきました。その次に、政治風土では「世界平和連合」をつくり、「これがどこに来るだろう」ということを中心として、西欧社会とキリスト教社会が東洋で合わさる準備をして待っているというのです。政治的には「頭翼思想」と「ゴッディズム」を中心として、超国家的理念で世界の政治風土を一つにして平和世界に行くのです。二つの方向ではありません。一つの平和世界に行くのです。平和世界の方向は一つであって、二つではありません。

 ですから、私たち統一教会自体は、個人が一つになって、家庭が一つになって、氏族、民族、国家が一つになり得るようになっているのです。国家的なすべてのものを超越して超民族的に家庭を編成しているのです。すべて連結されているのです。このように見る時、神様がキリスト教思想を中心として、再臨時代を中心として、すべての宗教と政治を一つにしようとされるのです。平和の世界は一つの方向であって、二つの方向ではありません。今、政治、経済、あるいは宗教が合わさって一つの終着点に向かって越えていく時代です。

 今まで政治が宗教を激しくたたいてきたので、宗教と政治が怨讐になりました。宗教指導者であるレバレンド・ムーンは、統一教会の教主であるにもかかわらず、宗教はもちろん政治をする人々までも従ってきているのです。こうして、「『頭翼思想』と『神主義』をもって一つの世界、平和の世界に行こう」と言うことができる環境的与件をすべて成し終えたというのです。これまで、政治がどれほど宗教人たちを犠牲にしてきたでしょうか! この体がどれほどこの心を打ったでしょうか! 全く同じだというのです。今は、先生を通して政治と宗教が一つになって世界平和に向かっていくのです。今から誰もリードすることができません。レバレンド・ムーンしかいないのです。平和の世界を成そうとすると、神様のみ旨、神様が願われる理想郷が現れなければなりません。それで一つにしなければならないのです。平和の世界に行ってみるとき、すべて一つです。白人、黒人、すべてありません。すべて一つです。(二二四−二九二、一九九一・一二・二五)

 文総裁が左翼と右翼だけではなく、前翼と後翼まですべて合わせて統一の世界、平和の世界を再建しようとするのです。(二二二−四〇、一九九一・一〇・二八)

 なぜ結婚をするのでしょうか。神様の愛を中心として神様を占領し、愛を中心として男性と女性を統一するためです。天下統一の起源、平和の起源がここから始まるのです。真の愛の本質は、父が母のために、母が父のために、兄が弟のために、弟が兄のために、このように「ため」に生きるのです。「ため」に生きる愛で連結されたところに永遠の神様の愛が臨在することによって、その家庭は、永遠無窮、永生的な家庭になるのです。これを「頭翼思想」というのです。(二二一−二一二、一九九一・一〇・二四)

 全知全能であられる神様は、愛の神様であられ、平和の神様であられます。その神様が、互いに争い合って殺し合う世界をつくられたわけは絶対にないのです。

 そこには葛藤があり得ず、誤解もあり得ず、美しい協助と相互扶助で和睦、団結し、真、善、美を追求する平和の世界だけが永続されるのみです。この世界は、神様に似た世界であり、神様の理想と本質のために生きる世界です。

 私たちは、このような世界の基本理念を「神主義」、または「頭翼思想」と称するのです。「ため」に生きる愛、互いに「ため」に生きるところに平和があるのは当然なことなので、この世界を宗数的に表現すると地上天国というのです。少なくとも、全知全能であられる神様の作品ならば、このような平和と幸福の世界をつくられたであろうし、そうでなければその神様はいらっしゃらないのです。これが創造本然の真の平和の理想でした。(二一九−一一六、一九九一・八・二八)

 今からは神様を中心とする考えと観念で始まるのであって、人間を中心とする考えと観念で始まるのではありません。そこには道がありません。唯一希望的な道は、神様がいらっしゃるなら、その神様が理想実現のために終着駅に向かって出発できることを考えたということです。私は、そのような概念を宣言しているのです。頭翼(headwing)を中心として、左翼と右翼がT八〇度転換して一つになり、神様の世界に返らなければならないのです。神様の愛、そこから一つの世界をつくることができ、世界平和を成すことができるのです。(二一五−二〇五、一九九一・二・一七)

 アメリカは、ソ連共産党に勝てる思想がありません。文総裁の「頭翼思想」を中心として「神主義」で武装すると、黄金万能の足場とともに内外が一つになり、文総裁の指導を受けて神様の垂直方向、直線方向に行くのです。垂直は直線と通じます。直線方向に従って本然の創造理想の基準に行き、世界が一つの家庭を連結させた兄弟の版図を成就することによって、世界平和圏になるのです。ですから、政治と宗教を結合させるために、心的世界を代表する宗教圏には「世界平和宗教連合」をつくり、世界政治圏を中心として「世界平和連合」をつくってこれを一つにするのです。(二一四−二〇五、一九九一・二・二)

 「頭翼思想」とは何でしょうか。「神主義」を訪ねていくものです。「神主義」を訪ねて何をするのでしょうか。平和主義として再度出発するのです。「神主義」は、神様と出会って愛を中心として一つになり、平和主義として再度出発するのです。その世界で本然の地上天国の出発基地が生じるのです。そこで一生の間生きた人は、間違いなく永遠の世界にそのまま入っていきます。手続きも踏まずにそのまま入っていきます。(二○六−一三一、一九九〇・一〇・三)

 本当の霊界と肉界のセンターになるのは真の父母主義です。それが「頭翼思想」です。「頭翼思想」は「神主義」です。真の愛を中心として見るとき、すべて同じ概念です。(二〇五−一六一、一九九〇・九・九)














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