神様の摂理から見た
  南北統一

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二.人類が行くべき道

1 メシヤ思想はすなわち世界のための思想

 人間が堕落することによって神様は彼らを分散させ、特別な摂理のみ旨を広めて、精誠を込めて神様の前に忠誠を尽くす群れを集められたのです。そうして、新しい家庭、氏族、民族を編成なさったのですが、この数多くの民族の中で代表的な責任を担って立った民族がイスラエル民族でした。それでイスラエル民族が世界的な主流民族になったのです。

 それでは、その主流の歴史の骨髄を探していったならば、何がなければならないでしょうか。歴史は、人類の始祖であるアダムとエバの基準を中心として発展してこなければならなかったのですが、そのようにできなかったので、これが再現され得る基準、理念を中心としたある基準が立てられなければなりません。その基準は、キリスト教に願われる基準にならなければならないというのです。すなわち、それはメシヤの思想であり、信者たちの立場で見れば、新婦の思想だというのです。

 では、キリスト教の総結実は何でしょうか。キリスト教国家でもなく、キリスト教世界でもない、最高の信仰世界です。木は必ず幹がなければなりません。茎から広がっていきます。どんなに四方に広がった枝葉がたくさんあったとしても、どんなに枝葉が長かったとしても、茎の前に立つことはできないのです。これと同様に、人類全体を一つの木に比喩したならば、個々の民族は葉っぱであり、イスラエル民族は幹だと見ることができ、幹が完成すれば正常な木となることができるのです。それゆえ、神様はイスラエルを立てて民族を形成し、世界を形成させようとなさいました。すなわち、完全な茎の資格を備えて、悪なる世界を神様の愛に接ぎ木しようとなさったのです。

 一つの目的を中心として、神様は六千年間摂理してこられたのですが、その摂理の終盤が、今この時代です。真の父母の日がまさに六千年前に始まって、正常に民族を形成し、国家を形成し、世界を形成したなら、今日この地球星は神様の主管圏内に入っていたのです。ところが、そのようになれなかったことが問題です。多くの民族の中で、中心となる一つの民族が現れるには、その民族は他の数多くの民族とぶつかったとしても、そのような立場でも、神様の前に忠誠を尽くさなければならないのです。

 イスラエルの国のための思想も徹底しなければならないと同時に、世界のための思想も徹底しなければなりません。その思想を基盤として、どんなに難しい環境にぶつかったとしても、歴史的な怨讐の陣営の中に入っていったとしても、新しいイスラエルを慕う心は変わらずに残らなければなりません。このような極めて重い使命をもったにもかかわらず、イスラエル民族がそのような伝統を引き継いでくることができなかったので、イスラエルは流れていってしまい、第二イスラエルであるキリスト教がその使命を継承してきたのです。

 それでは、メシヤ思想とはどのような思想でしょうか。世界のための思想です。そして、世界を統一することができ、家庭を統一することのできる中心は真の父母です。

 では、キリスト教の実は何に現れるでしょうか。キリスト教は数多くの逆境の路程を経ながら、新郎新婦の基準に向かってきています。

 この世界は、燦然とした文化を築くことのできなかった暗黒の世界であり、混沌の世界であり、荒廃した世界だとしても、真の父母との因縁さえあったならば、この世界は平和の王国なのです。ですから有史以来、今まで数多くの民族はそのお方を標準にして思想的に、精神的に、生活的に集中してきました。神様は、外的には一つの世界に向かう立場で導いてこられ、内的には宗教を中心として一人の主人に連結する歴史を導いてこられました。

 それでは、その父母が来るときまでは、どのような逆境を経なければならないのでしょうか。そのお方が栄光の中で雲に乗ってこられて、号令し、天地を自分の思いどおりにすると考えたなら、それは誤った考えです。天地の原則を置いて見るとき、負った傷があるならば、それを癒さなければなりません。

 では、その傷を誰が癒してあげるのでしょうか。それは、人間を代表して真の父母として来られるお方が、癒してあげなければなりません。子女たちがふろしきをかぶった立場に立っているので、それを脱がし、癒せなくては、解放という名詞はあり得ないのです。(一七―七六)

 イエス様はイスラエル民族を失ってしまいましたが、神様が願う世界と神様が願う天国のために生きました。自分の命が尽きるときまで、そのように生きました。それゆえ、イスラエルは滅びましたが、孝の世界がそのお方を迎え、忠の世界がそのお方を迎えるので、終末にはそのお方の名によって世界が動いていくのです。皆さんは、心情をもって兄弟を愛し、万物を愛して、真の父母が願うみ意のとおりに動くことのできる自分とならなければなりません。では、その父母のみ意とは何でしょうか。韓国だけのために生きようというのではなく、世界だけのために生きようというのでもなく、天宙まで、「ため」に生きようというものです。すなわち、真の父母の因縁によって、男性、女性を代身し、高さ、低さを代身しなければなりません。そうして、それが個人、家庭、社会、国家、世界へと拡大していき、全体の前に共同の価値として現れる時に、初めて神様の息子、娘だということができるということを皆さんは知らなければなりません。(一七―八五)

2 イエス様の生涯と人類が行くべき道

 一つの目的を置いて、生命を捧げていく時であればあるほど、希望を抱いていかなければなりません。そして、必勝の信念をもって自分のすべての精誠を投入しなければならず、死ぬときは怨讐と共に死ぬのではなく、天と共に死ぬ人が知恵深い人です。

 イエス様はそのような生涯を生きました。自分のもてるすべての力を尽くして、イスラエルの将来に責任をもって駆り立てていくべく、行くまいとしても行かざるを得ない運命の道を行きました。弟子たちがイエス様を捨てて、自分自身の命をもちこたえるために散り散りになる時に、イエス様は一身のためにではなく、その時まで神様のために忠誠を尽くしてきたどのような人よりも、さらに限りない精誠と強い責任感と、はっきりとした目的観をもって、神様のみ旨のために十字架の道を行ったのです。神様と共にその道を行ったのです。

 このようなイエス様の最後の運命を通して、歴史を受け継いでいき得る新しい伝統が、死亡の世界、怨讐の世界に根を下ろせるようになったという事実を感じるようになります。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・39)という祈祷の中には、すべての内容が含まれています。イエス様は神様の前に行く際においても、卑屈になって行かれたのではなく、神様のみ旨とともに、神様が望み、神様が願った息子として行くという、その基準を残して逝かれました。今まで数多くの人類が現れて、そのような道を行くといいましたが、実際的に神様と共にそのような道を行った人はいませんでした。

 イエス様は荊棘の立場でも、堂々と、「彼らの罪を許し給え」と懇切に求められたのです。またイエス様は、「私は神様のところに帰るが、我々の時は必ず来るだろう。我々の勝利の時は、我々が世界を制覇する時である。その時には、怨讐を許すことができる世界を見るだろう」と、自分が死んでいく場でも、未来の勝利圏に自信をもちながら、未来に敗者の悲しみを受けるローマと、イエス様に反対する群れに祝福をしたのです。

 このような事実を振り返ってみるとき、イエス様は内外にすべてのものを占領できるお方だということを知ることができます。神様の前に立てた忠孝の基準を見ても、そのことによって樹立した歴史的な伝統を見ても、あるいは、怨讐を許してくださった事実を見ても、すべてが尊敬されて当然だというのです。イエス様は内外両面で見ても、引っ掛かるもののない生涯を生きて逝かれたお方です。

 イエス様の生涯は、彼が生きてきた一代の三十三年で終わったのではなく、歴史と共に連綿と残り、果たせなかった目的を歴史的に進行させてきました。歴史が進行した方向と目的は、イエス様が成就しようとした方向と目的に一致せざるを得なかったのです。ですからキリスト教は、世界的な宗教にならざるを得ませんでした。どんなに迫害の歴史を経たとしても滅びる運命に置かれたのではなく、栄える運命に置かれたのです。迫害と困難が近づけば近づくほど、それがむしろ大きな勝利の土台となり、伝統の内容となって、新しい土台を築いて、世界化させることができたのです。

 今日、統一教会が行く道も同じです。皆さんも、神様のために生き、世界を救うために生まれた、という心をもたなければなりません。世界の生死圏を解決するために生まれたという覚悟をもたなければなりません。(三五―二三)

 皆さんははっきりと知らなければなりません。今日の統一教会員の中で、自分を中心とした群れがいたならば、み旨の前に大きな怨讐です。個人を中心として集まって何かの祈祷をし、寄り集まって回り、不当な夢を見る人たちがいるのですが、どのようになるか見ていなさいというのです。それは時代的な運勢がすべて……。はっきりと知らなければなりません、はっきりと。信仰の本質が間違っているのです。自分を高めておいて、他人に対するのは天倫の法度ではありません。統一教会は命を懸けてこのようなものを排撃しなければなりません。そのような群れは、我々が闘って行くべき舞台で、勝敗を決定するのに至大な内面的な怨讐の手先なのです。

 彼らは、神様が願われるその国の前に、自分一人を主張してきています。本然の国の前に、自分一人を立てるために本然の国に向かっていく人たちを怨讐と感じる者がサタンです。皆さんはこのような問題を知らなければなりません。怨讐に報復しなさいというのではなく、そのような人には初めから接触するなというのです。皆さん各自の行くべき道がもっと忙しいのです。

 朝教会を出るとき、民族を眺めて心配し、民族の問題を越えて世界の問題を眺めて心配し、神様のみ旨を心配しながら行かなければならないのが、復帰の道です。我々がどのようにすれば、早く最後の一日を迎えられるかを心配しながら行かなければなりません。そうして初めて、統一の世界となるのです。(一七―一〇一)

3 今後宗教人の時代が来る

 今日の先進国家であるアメリカが、今後世界を支配できなくなるということを知らなければなりません。時が変われば、高かった人たちが低くなります。共産党の理論を見れば、労働者、農民が出世する時が来るといいます。昔は知識層の人たち、すなわち、頭のよい人たちが権勢を握り、出世しました。それから肩が大きく、力の強い人たちが出世する時が来ました。そうですね? 軍閥時代です。力がなければなりません。その時は力の前には誰でも屈服するのです。しかし、力で屈服させれば、それで終わると思っていますが、そうではありません。

 それから何かと言えば、手と足です。まさに労働者、農民が支配する時代が来るのです。世の中がそのようになるのです。初めは頭がよい人たちが支配しました。その次には力、すなわち、こぶしを使う人たちが支配しました。その次には、手足が支配する時が来るというのです。今は労働者、農民たちが出世しようと大騒ぎです。

 頭のよい人たちが世界を一度支配し、次には力のある人たちが世界を支配しており、今は労働者、農民たちが世界を支配しようとしていますが、何も主張するもののない、はなはだ劣った人たちがまさに宗教人たちです。

 宗教を信じる人たちは、出世して世界を支配した時がありませんでした。けれども、無視してはならないというのです。人間世界の落伍者として廃物のように冷遇されましたが、彼らは誰の道具になりやすいでしょうか。神様です。神様がブレーキを掛けることができ、希望をかけることができる人たちなのです。今から彼らが場所を取り、肩を広げて息を大きくしながら世界に向かって号令しようものなら、頭のよい人たちも、力の強い人たちも、労働者、農民も動員して、世界を支配しようとした共産主義もすべて滅びるのです。

 それでは、誰が出世するでしょうか。神様が出世します。誰と共にですか。人間の中で最も落伍者のような立場にいる宗教人たちと共にです。分かりましたか。やがて世の中がそのようになるのです。では、最後の出世圏は誰のところに残るでしょうか。労働者、農民の時代も過ぎました。今はソ連と中共がお互いに闘うようになっています。宗教もお互いに闘うようになっています。このような時が来るので、統一教会は、「世界のすべての宗教は一つになるであろう」という旗を掲げてきたのです。

 それはよくやったのです。統一教会がすぐには宗教を統一できないかもしれませんが、宗教を統一しようという主張をして旗を差し出したということだけでも、韓国が誇ることのできることです。韓国が誇れることはこれしかありません。この旗を統一教会の文先生が掲げたので、仕方なく統一教会の文先生をたたえなければならないのです。(四二―二五)

4 すべての人類は父母の門を通らなければならない

 過去には、韓国で成されたことが世界に知られるのに数年がかかりました。しかし今は、韓国で成されたことを世界的なこととし、世界で成されることを我々のこととして感じています。広いこの世界が、我々の生活感情と事情を通して連結されていくのです。ある事情が世界性を帯びて、一つの理念的な心情と通じることのできる世界へと動いていくのは、全世界人類が同じ事情で生きなければならないからです。

 そのようにして、最後には何と一致点をもたなければならないのでしょうか。神様の心情との一致点をもたなければなりません。そうするためには必ず真の父母の因縁を経験しなければならないのです。

 この世界は、希望の時を迎え得る道に通じており、事情に通じ得る時に通じていても、それを終結させるのは心情です。この心情と結びつけるためには、どのような道を経ていかなければならないのでしょうか。何かの事情だけでも通じません。何かの信念や希望だけでも通じません。これに通じるためには、必ず父母という門を通さなければなりません。父母というこの基準を通さなければならないのです。

 神様が終末に約束された一日は父母の日です。真の父母をお迎えできる日です。いわば、堕落によって父母を失ってしまったこの地上の数多くの人類が、神様の祝福を成し遂げることのできる本然の父母を再び迎えられる日です。

 人類が、ある復帰の一つの目標を定めて神様に向かって進む際に、必然的な条件は何かといえば、父母の門を通ることです。父母の門を通らなければ心情を連結することはできません。

 一つになる際には、必ず意志が同じでなければならず、事情が同じでなければならず、心情が同じでなければなりません。神様が今日、全世界人類を一つにするために役事してこられたのならば、この人類を一つに一致する世界へと率いていかなければなりません。(一一―五九)

 世界を一つにしようとすれば、人類の真の父母を迎えなければなりません。一つの世界をつくる仕事はただ真の父母だけがおできになることです。それゆえ、真の父母は人類歴史の希望の結実体であり、すべてのものを蕩減した勝利の結実体です。それゆえ、真の父母の価値は世界の何ものとも換えられない至高至大なものだといえます。(五五―一五五)




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