神様の摂理から見た
  南北統一

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三.新しい春を迎えるための新しい文明の種

1 現代文明圏が荒らされていった後に残ることができるもの

 古代文明圏は春の喜びに始まりましたが、人間たちは場所を定めることができずに移動しました。その次に位置を定めたところが熱帯文明圏でした。これらが農耕時代を迎えて、エジプト文明圏を成しました。ユーフラテス川のほとりにおいて古代文明は発源しました。

 そのような熱帯文明圏が滅びると涼帯文明圏へと再び移動しました。今日の英国やドイツ、米国はこの涼帯文明圏に該当します。すべて赤道を中心として二三度圏外に連結されています。これは秋節気文明圏にさしかかったことを意味します。そのためにこの時にすべてのものを結実させなければなりません。芸術、文化、文学など、すべての面が結実を見せなければなりません。哲学も結実しなければならない時です。民主世界はもちろんすべてのものが終末を迎えるようになりました。

 今、涼帯文明圏時代が過ぎて寒帯文明圏が世界を動かす一時が来るであろうと見るのです。ソ連を中心とする世界共産主義が民主世界を脅かす時代となって、すべてのものが落ちて捨てられるようになるでしょう。また、生命力を失った枯れ木はみな折れ、生きている木だけが自分をもちこたえるでしょう。

 そのためこの堕落した人類世界において、寒帯文明圏が荒らしていった後、二種類だけが残るようになるでしょう。一つは生命をもっているものが残るでしょうし、もう一つは生命の種をもったものだけが残るでしょう。

 それでは人間の生命力とは何でしょうか。人間の生命の根は神様です。その次に幹を成し、枝を成します。このように根をもった木のように、神様に属する生命をもった人だけが残ることでしょう。そのような人はどんなに風が吹いても倒れることなく、結局は冬に勝ち抜くことができます。冬に勝つことのできる生命力をもったもののみが残るということは間違いありません。地に落ちた種が固い種ならば、むしろ冬になれば凍って裂けるようになり、そうなることによって春に新芽がその裂け目から出てくることができるのです。そのような生命力をもった種は再び春を迎えることのできる資格があります。結局、生きている木の枝になるか、生きている木から落ちた生きている種になれば、新しい春を迎えることができます。種は根をもち、幹と枝と葉ももっています。種は全体を縮小させて、全体の生命を集約させたものと見ることができます。

 今までの人類文明の歴史を見るとき、間違いなく寒帯文明が涼帯圏を荒らす時が来たというのです。ヨーロッパはもちろんアフリカにまで共産圏が拡大しています。アメリカも脅威を受けています。このまま全部が脅威を受けることによって終わるようになれば大変ですが、しかし必ず新しい春は訪ねてくるでしょう。そして神様はこのようなことを知っているので、新しい春を迎えるために主を送るのです。神様は理想的時代が来ることを知っているために、その時代を迎えるための準備をすることのできる中心存在を送るであろうということは、当然の結論です。(八六―三一八)

2 キリスト教が新しい春を迎えられるのか

 皆さんが生きている木の枝になるか種になるかということは、現実的な当面の問題です。そのような使命をユダヤ教が果たしてきましたが、二千年前にイエス様を十字架にかけることによってその使命を果たすことができず、再びキリスト教を通してこの使命を果たすことを願いましたが、今日のキリスト教がどのような立場に立っているかというのです。これが問題です。痩せさらばえた枝があったなら、その枝が生きているか、さもなくばまた死んでいるのか、それが問題です。キリスト教が生きていると思いますか。数多くの宗教が生きているのかということなのです。

 木はその根元がどんなに大きいといっても、根が死んでいればその木は生命力がありません。一つの木に根元は二つあることはできません。本当に生きている根元にならなければなりません。どんなに冬の脅威が来たとしても、それをすべて退けて堂々と生きていなければなりません。そのようなキリスト教があるかというのです。根元が死んでいるとき、その木は切られてしまうように、キリスト教が使命を果たせないときには問題になるというのです。

 キリスト教は民主世界の精神的な根でした。ソ連はギリシャ正教圏内にあります。カトリックを中心とするヨーロッパが今常緑樹のようになっていますか。アメリカが今日常緑樹のようになっていますか。風を受けて枝が折れるだけでなく、木全体が死に倒れています。ですから根に栄養素を与えてやって、根が死なずに芽が出るようにしなければなりません。

 共産圏の脅威にもかかわらず、一つの根に連結された新しい芽一つが出なければ希望がありません。絶望ということです。その芽が絶対に成長しなければ、根まで死んでしまいます。

 それではこの寒帯文明圏が襲う絶望の時期に新しい春を迎えることのできる内容とは何なのでしょうか。新しい春を吹き出すことができなければなりません。冬にも育ち、新しい春を迎えることができなければなりません。常緑樹にならなければなりません。共産主義の脅威にも勝ち抜くことのできるその何かが必要なのです。(八六―三二〇)

3 人類文明の循環と新しい文明の種

 人類の文化は回転しています。古代文化は熱帯文化です。インド文明もエジプト文明もギリシャ文明もみな、熱帯または亜熱帯地域に属しているのです。現代文明は涼帯文明圏にあります。例を挙げればアメリカ、西ドイツ、日本、英国などの国はみな涼帯地域の中にあり、世界的に大きな勢力となっているのです。そして歴史は必然的に寒帯地域に向かうようになるのです。それが共産主義のソ連です。そのため今日この寒帯文明は全世界に吹きまくり、暴風雪をもたらしているのです。

 しかし、聖書に出てくる歴史を見れば、元来人類の文明は春節気のようなエデンの温帯文明から始まり、夏節気のような熱帯文明へと続きました。根源のエデンの園は熱帯地域にありました。これが秋の季節に該当する涼帯文明へと移行し、さらに現存の共産帝国が存在する冬節気の文明である寒帯文明へと移っていったのです。我々が生きているところは、涼しい秋の季節です。共産主義がこの秋の文明圏へと吹き寄せてきて、冬の訪れを知らせています。

 すべての葉が色づいて落ちていきます。それと同時に、秋は収穫の季節です。収穫というのは新しい世代を約束する種があるということを意味します。葉が落ち実が落ちて木は痩せさらばえますが、その実の中に種が生命をもって存在します。冬が過ぎれば、間もなく春に該当する新しい文明がこの種として蒔かれ、誕生するのです。それでは誰がこの新しい人類の種になるのでしょうか。

 私は皆さんに、人類文明の流れが正確に復帰の路程にぴったりと当てはまっていることを知らせてあげようと思います。復帰にはある基本的な骨格、筋道があるのです。中心点があるのです。それがすなわち種なのです。種は外皮の中に隠された要素ですが、いかなる気候にも腐らない、いかなる物よりももっと堅いものなのです。新しい日が来るまで黙って耐えて、自分を守っているのです。種はいかなる意味においても小さくてつまらない存在ですが、内部には強力な生命力をもっています。どんなに寒い冬が襲ってきたとしても、種だけは春を迎えるのです。そしてその厳しい冬が種を鍛錬する唯一の助けとなるのです。

 これは歴史的な原則であり、私が作り出した特別な理論ではありません。それではどこでこの真実を発見することができるのでしょうか。この新しい生命の道、信仰の道は共産主義によって侵犯されるほど弱いものではありません。共産主義も西洋文化も、その他のいかなる思想、宗教、イデオロギーも、この生の方法に対して何の力ももてなくなることでしょう。種は四季のいかなる温度によっても影響を受けず、何十年、何百年も生命を継続し保存するのです。その種がまさに統一教会なのです。

 皆さんは自分たちがいかなる極寒の中でも生き残り、春を迎えることのできる種になっていると実感していますか。このような概念をいま初めて悟って意識するようになったことでしょう。そして皆さんが知恵のある者であれば、生命の偉大さと摂理を悟って、自身のものにするであろうと信じます。ここで皆さんが間違いなく種になることができるという絶対的な確信をもったとすれば、これは歴史的な事件です。よい意味で重大な問題であり、皆さんにとっては巨大な力の源泉となるのです。(九五―三三)

4 冬節気を誰が溶かすのか

 神様が春をつくられました。しかし春を迎えて愛をしてみられるのかと聞いてみると、神様はそれは私は知らないと言われることでしょう。春をつくられましたが、愛を中心とする春は知ることができないのです。そのような面で、神様は不幸な方です。それを実現する道を知っている人がいたならば、一緒に働くことを望まれるでしょう。

 誰かが神様に「一緒に春の遊びに行きましょう」と言うとき、神様は行くことができないと言われることでしょう。行くことができない神様なのです。行くことのできない内容があるのです。この内容を解決してしまうまでは、行くことができないのです。

 もし人間が堕落しなければ、神様は春の日を迎えられたことでしょう。人間が堕落することにより、神様は冬の日を迎えられました。凍ってしまった神様の心を何をもって溶かしてさしあげるのか、またその冬を何をもって溶かすのかが問題です。

 凍ったものを溶かすためには、熱い何かがなければなりません。凍りつく前よりももっと熱いものがなければなりません。神様の中に凍りついているその冬を誰が溶かしてさしあげるのでしょうか。

 人類はもちろん、神様から因縁をもって生まれたすべての被造物は、神様の冬節気が終わって、神様の春節気が始まるのを望んでいます。ところがその冬節気を誰が溶かすのかということが問題です。神様も望み、人類もそれを望むのですが、何をもってその冬節気を溶かすのかというのです。科学と知恵、そして知識、力、能力、権力をもって溶かすことができるでしょうか。何をもって溶かしましょうか。絶対的愛、変わらない愛だけが可能なのです。唯一なる愛だけが可能なのです。

 その次には誰が溶かしてさしあげるかが問題です。神様ご自身が溶かすことができるでしょうか。自動的に神様がそのようになられるのではありません。人類が堕落したために受動的にそのようになられました。ですから人類の中からそのような神様を動かして、神様に影響を及ぼすことのできる運動を起こす人が現れなければならないというのです。

 そのような運動を提示することは変わらない、直行的な愛の道理を探し求めていこうとすることです。宗教がそのような分野の一端を担って出てきています。愛を中心としては闘ってはならないということなので、宗教間、教派間で争うのはみな間違っているのです。そのようにしては、神様の中で凍りついたその冬節気の心を溶かしてさしあげる道理がありません。

 それでは神様の胸の中に凍りついたそのすべての氷塊を溶かそうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。東西南北だけでなく三六〇度全体から一斉に溶かそうとしなければなりません。アメリカ人たちだけが神様を愛すると言っても溶かすことはできません。五色人種がみな来なければなりません。過去、現在を超越して霊界に行った人まで神様の心情を歌わなければならず、これから来る人まで神様の愛を歌って、すべての焦点が神様の胸の中に結ばれなければなりません。

 そのような運動をなすことのできる宗教でなければ、神様がその凍りついた胸を溶かすことは可能ではありません。すべての宗教団体が一つとなって、神様を愛するようになれば、凍った神様の胸が溶けることでしょう。そうすることさえできれば、言葉だけを聞いてもご飯を食べなくてもよいというのです。悪口を言われてもよく、苦労をしてもよいというのです。どんなに愛する者同士が生死を共にすると言った間柄であっても、神様の愛を探しに行けというときには、すべてのものをそのまま置いて神様の前に行くのです。神様の愛のために、この世的な愛の関係をすべて清算していくのです。皆さんはこのように生きています。(一九七八・四・一六)




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