神様の摂理から見た
  南北統一

(全面表示) 戻る


六.世界人類の道しるべとなる民族

1 最後の世界人類の道しるべとなることのできる民族というものは

 これから来られるメシヤはどのような人であり、どのような国に来られるのでしょうか。彼はジャンボ・ジェット機を運転する飛行士になるのか、人工衛星に乗って月の国へ行ってきた人になるのでしょうか。そのような人々はそこには行くことができますが、道しるべにはなれません。それでは何かの学問の博士になるのでしょうか。そのような人々も可能性は希薄です。したがって彼は宗教指導者ですが、神様はその宗教指導者を超民族的な観点から探し出すことでしょう。

 大概文明人、よい生活をする人々は苦労を嫌います。苦労を嫌うというのです。私がいまアメリカの青年たちを引き連れて仕事をさせようとしますが、そうなのです。時計が五時きっかりになりさえすれば、帰る時間になれば、「時間が越えた」と言って、他のことを考えるようになるのです。時間のない人は五時になろうが六時になろうが知らず、日が完全に暮れても仕事が終わらなければ仕事をするはずですが、これはどうしたことか、日が暮れればまだ言いもしないのに時計を見て「五時になりましたが……」と言うのです。このようなことを見れば、金持ちの息子たちは楽なことを好むということです。より楽なことを好んで、大変なことを好まないのです。

 開拓精神をもって山道を行き頂上に登ろうと思えば、それが楽にできるでしょうか。このように見ても、山歩きが好きな人々、難しい道を行くのを好む人々は粘り強くかつ非常にがめついのです。(笑い)がめつい民族です。このような話が成立するのです。なぜ笑うのですか。世界で一番を行くがめつい民族です。この「がめつい」という言葉を私が使っても、それが何の話か知りませんが、とてもしつこくて雷のようなやつだということです。がめついということを、このように解釈すれば一番よいでしょう。そのような民族なのです。この人類の中で一番粘り強い民族です、粘り強い民族。我々はこのように推理することができるのです。世界歴史の中で一番粘り強い民族でありながら、雑多な寄せ集めの民族ではなくて単一民族なのです。

 案内者はいつでも……。昨日はこうだったのが、今日はああだというのではだめなのです。夜に行って聞いてみても「はい」、「何々山まで登って行くのですが、あなたが案内することができる?」と言っても「はい」、「そうか、夜でも自信ある?」と言っても「そうです」、昼に聞いてみても「そうです」、寝るときに行って起こして「あなたが案内者ですか。」と言っても「はい、そうです」、何時なのか考えも及ばないときに起こして聞いてみても「そうです」と、こうでなければなりません。そこには異議があってはならないのです。これはどういう話ですか。春夏秋冬、四季を通じて変わらないということです、行く道が。行く道が変わらない、ああだこうだと言わないということです。「そうですねえ」という言葉が必要ないということです。「そうです」と言わなければならず、「それは何々を見てみればできます」このような言葉が必要ないというのです。そのような民族が、最後に世界人類の道しるべとなることのできる見込みのある民族です。(八一―一八五)

2 世界で最も粘り強く、強い民族というものは

 世界で一番粘り強く、一番強い民族はどの民族でしょうか。先生がそのような結論を出そうと探してみるとき、これは西洋ではありません。今まで世界を代表した民族はいかなる民族でしょうか。本来、生まれつき粘り強いとか、そうでなければ粘り強い思想をもった民族です。二つに分かれるのです。結論はそのようになるのです。その粘り強い民族は、徹頭徹尾粘り強い思想をもっているとか、何か奪っていくことのできない思想をもっているとか、そうでなければその民族の粘り強い独特な伝統をもっていなければなりません。このような民族でなければなりません。

 そのような民族はどの民族かというとき、そのような民族にはユダヤ民族が入るのです。その次にはキリスト教民族が入ります。キリスト教民族と言えば、少し言葉がおかしいのですが、キリスト教民族です。キリスト教民族という言葉を初めて聞くでしょう? (はい)。キリスト教を中心として集まった者たちです。その次に宗教を中心として集まった群れたちが粘り強いのです。粘り強いのです。宗教思想を一度しっかりと投げ込めば、「神様が加護してくださるので、我々が行く道は間違いない」と言い、鉄石のように神様のみ旨が成し遂げられるときまで死を覚悟することのできる思想的基盤をもった民族にならなければなりません。そのようにならなければ、人間がどんなに強いといっても、人間には歴史的な変動を越えていくことのできる自主的な力量がないというのです。未来を知らないために、いつも行っては倒れ、いつも行っては失敗するようになっているというのです。

 皆さん、年末が近づいてきました。年の始めに私は一年間このようにしようと計画を立てましたが、ちょうど三百六十日が過ぎて年末になって、「私が今年に計画したことが勝利的に終わった」と、このように自信をもって答えることができますか。曲折が多いです。そのため人間がどんなに強いといっても、人間自体は自主的な決心をもって一生にぶつかってくるすべての事件、さらに国家的な変動、世界的な変動をひらりと越えていくことのできる自主的な力量をもつことはできないのです。これが人生というものです。これを公認しますか。(はい)。

 このような激動を越えて粘り強く残ることのできる道を行く人は、独特な思想をもった人にならなければならないということです。その思想はどのような思想? 哲学思想ではありません。宗教思想です。一番恐ろしいのが宗教思想です。そうなのです。宗教思想をもった民族的な行脚の路程が、歴史過程を通して過去から現時代を経て未来へと行く、粘り強い行列の隊列がこの世の中になければならないのです。そのような流れ、東から西へと向かう群れがなければならないのです。

 そのような中で、ここにキリスト教が現れるようになります。その次には他の宗教が登場するのです。儒教だとか仏教などが現れるのです。数千年の歴史を経てきながら、みんな経験したというのです。ユダヤ民族もそうです。その次には韓国民族です。韓国民族に宗教思想が徹頭徹尾貫かれているか、私は知りません。それでも韓国民族が東洋では魔事(問題)の種になる民族です。

 それでは、そのような道しるべ民族はどのような民族でなければならないのですか。このように徹頭徹尾貫かれた敬天思想を中心とした民族でなければならないでしょう。「我々だけがアジアにおいて天のためになる主導的な何かをもっている」という思想をもった民族でなければなりません。そうでありながら、できることならば総合民族よりは単一民族でなければなりません。なぜそうなのでしょうか。総合民族は純粋ではないからです。

 ご飯の中でビビンバ(混ぜご飯)がおいしいですか、混ぜないご飯がおいしいですか。どのようなものがおいしいですか。私は知りませんが、どのようなものが好きなの? ビビンバ? ビビンバが好きだというのは、混ぜていないご飯の味を知らないのでそのようなことを言うのです。(笑い)ビビンバがよい悪いということを言える人は……。何というか、ビビンバではないご飯は、何ご飯でしょうか。素飯というのか何というのか知りませんが。正常なご飯の味を知っている人でなければ、ビビンバの味も判断できないのではないでしょうか。

 そのビビンバを中心として「ああ、これが本来の味だ」と考えれば、それは何にもなりません。何にもならないというのです。何の話か分かりますか。(はい)。それは基準を立てることができません。科学世界は公式発達の世界ですが、その公式というものは単位を通して形成されるのです。その単位というものは変わるものですか、変わらないものですか。総合的な内容を含んだものですか、単一的な内容を含んだものですか。どのようなものですか。定義という言葉は総合性ですか、単一性ですか。(単一性です)。単一性だというのです。

 そのような意味から見るとき、秤だとか標準というものは、そのような混合体にはあり得ません。そのような混合体全体を代表して、四方を代表することのできる標準的な内容をもたなければならないでしょう。このような結論が出るために、そのような民族というものは、単一民族でなければなりません。(八一―一八八)

3 道しるべ民族として選ばれたユダヤ民族

 世界歴史路程において一番根気よく、長い歴史をもった単一民族として滅びずに持ちこたえてきた国が何カ国ありますか。総合して見るとき、ユダヤの国がそうです。

 二千年の間国がなく、数多くの国の馬のひづめに踏まれて血を流し、虐殺に遭い、ありとあらゆる虐待をうんざりするほど受けましたが、いまだにその伝統と威信と姿勢を喪失せずに堂々と残っている、世界の流浪の孤客となっても自分の主導的な民族性をもったまま残っている民族が、ユダヤ民族です。そのユダヤ民族がそのように苦労して何をしますか。怨恨が多いのです、怨恨が、死んで追われて……。

 「我々は生きなければならないのだ。神様が我々を祝福してくださるから、お前たちは未来に我々からちりを受けなければならない。私はお前たちから追われるが、いずれお前たちは我々の指導を受けなければならないだろう。私はお前たちを指導できる力量をもっている」。これがユダヤ民族が民族的な優秀性をなすことのできる一つの動機となったことを、皆さんは知らなければなりません。迫害が加重されれば加重されるほど、その刺激によって、この世界を支配することのできるお金が必要だということ、内的な知識が必要だということを、いつも考えたのです。

 そのためユダヤ民族は乞食の生活をしながらも、息子を勉強させたのです。そのことをしたのです。お金をもうけなければならなかったのです。徹天之恨を説くための……。「私が頼る力の杖はお金であり知識である」。こうなれば、その民族がそこにすべてのものを集結することのできる立場に、行くまいとしても行かざるを得なかったのです。ですからユダヤ民族は頭がよいのではないというのです。私はそのように見るのです。ニューヨークのような所へ行ってみれば、ユダヤ人が相当多いです。頭のできを見れば、頭がよく生まれたのではないので、今後は下がったり上がったりはできないのです。私がそのように見るのです。

 そのような立場で、神様が罰としてユダヤ民族をそのように苦労させるのか、そうでなければ最後まで耐えて残る民族にするために訓練させたのでしょうか。このような問題を取り上げてみるとき、神様が愛されてそのような訓練をさせたなら、世界を制覇することのできる祝福は、そのようにうんざりするほど苦労した民族が受けるだろうということは、当然の結論です。何の話か分かりますか。(はい)。

 今アメリカを動かしているのはユダヤ人です。アメリカの首脳部はみな……。アメリカにおける経済力の五分の三以上、半分以上動かしているのはユダヤ人です、ユダヤ人。今後三次世界大戦が起こるのか、起こらないのかということも……。ユダヤ人がお金をもうけることのできる穴が大きいのかということに……。大きいときには原子戦争(核戦争?)も起こすことができます。そうすることのできる力の母体をもっているのです。今後、ユダヤ人を誰が主管するのでしょうか。ユダヤ人を主管することのできる主義と思想がなければ、ユダヤ人に主管されざるを得ません。

 それではユダヤ人自体が世界万民を主管することのできる包括的な力量があるのでしょうか。なくなるときには混乱します。そのときはユダヤ人に世紀末的な悲運の時代が来るでしょう。私はこのように見るのです。何の話か分かりますか。(はい)。

 神様のみ旨を見るとき、神様が道しるべを立てるのは、道しるべをして山を占領して、占領した特権的な権威をみなもたせるのであり、道しるべの使命のみ賦与するためではないというのです。道しるべの使命のみをするための特殊民族は、その民族の道しるべ的な立場においてのみ特殊民族です。それをみな済ませた後に、万民を特殊的な価値と栄光の位置に立てるためのものが神様の救援摂理です。これを考えるとき、その特殊的な民族の内容はどのようなものでなければならないのでしょうか。万民を包括することのできる自主的な力量をもたなければなりません。それをもてなければ、この世界を消化することはできないでしょう。(八一―一九〇)

4 単一民族として続いてきた韓国も選ばれた民族

 韓国民族を見てみましょう。この韓国民族は卒本扶餘(注:高句麗の異称)、高句麗時代において大陸の地を基盤としましたが、何かをしようとこの韓半島の南側の位置に来て、このお尻にくっついて「ああ、私を生かしてくれ」と言っているのですか。これは何ですか。なぜ尻を向けて太平洋に漏らそうとするのか分からないでしょう。(笑い)私が見るには、ちょうどそのような格好だというのです。中国が打てば私を生かしてくれと言います。韓国民族は滅びるものなら既に滅びた民族でしょう。ところが五千年の歴史をずるずると引いてきて、この端っこに来て、持ちこたえています。

 皆さん考えてみてください。大洋から訪ねてくる船の錨綱をつなぐためにこうなっていると言うときには気分がよいのです。この韓国の地は何ですか。西洋から大きな船が来るようになれば、錨綱を結ぶことのできる地がなければなりませんが、大陸よりは半島が錨綱を結ぶにはよい、このように考えるのです。

 また、三十八線を中心としてばっさりと分かれために、出っ張りを作れば滑らないだろうと私は考えます。このような考えをするのです。(笑い)仕方なくそのように考えなければならないだろうというのです。台風が吹いたとしてもです。つかんで離すなということです。押し出すなというのです。(八一―一九三)

 韓国の民は五千年の間追われて生きてきながらも、「五千年の歴史をもつ貴い民族だ」と言うのです。ああ、大便のひさごをもって座って貴いのですか。(笑い)歴史を見てください。誇るものが何かありますか。五千年の間、家を洞窟の家に造っておいて、何を誇るのですか。人が人工衛星に乗って飛ぶような時だというのに、何をしましたか。この者の祖先たちを私が立てておいて教育をすることができたなら、棒でぶん殴って頭を打ってあおむけに倒れさせた後に、同情できればするでしょうが、その前に同情すれば何もできないでしょう。五千年間何をしましたか。その洞窟の家で何をしましたか。したことがないというのです。

 そのまま見れば韓国民族は特殊思想があるのです。神様を好んだというのです。神を好んだというのです。そこが違うのです。神を好んだのです。霊的なものを一番好むのです。それで最近でもパクス(男の巫)やムダン(女の巫)たちが幅を利かせているのです。威張りちらして行き来していますが、自信のない生活をしていることを私は知っているのです。自分の将来がどのようになるのかということに関心が最も多いのです。それはすることがないので、自分の身の上を愚痴っぽく嘆くことしかできないでしょう。このように悲惨になったので、そうするしかないでしょう。幸数を願い運数を願ってそうしていますが、四柱の好きな民族です。皆さん方もそうでしょう。(八一―一九八)

 粘り強い連中だというのです。分かりますか。(はい)。粘り強い連中です。歴史時代にユダヤ民族よりもさらに粘り強い連中が韓国民族です。もしも韓民族が共産党に押されて国なく追放され、世界に散らばるようになれば、どうなるでしょうか。

 二十世紀文明末期においての大韓民国は世界に残すことのできる思想はありませんが、散らばった民族の胸に二十五世紀、三十世紀には世界を……。世界人たちが抱く思想、私だけが生きることのできる思想を抱いて追い出されたとしても、その時代に行っては世界人を支配することのできる時が来るだろう、私はこのように考えるというのです。(八一―二〇六)




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送