神様の摂理から見た
  南北統一

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三.心と体を統一させるための二つの方案
 
 本来人は神様を中心として生まれたのですが、堕落することにより二人の主人をもつようになりました。人が二人の主人をもつようになりましたが、どのようにもつようになったのでしょうか。血統的に変わったというのです。それゆえ、まず宗教がしなければならないことは、心と体を統一させることです。ところで何を中心として統一させるのでしょうか。天意を中心として天情に従い、心が一つになった基盤の上で体を屈服させなければなりません。宗教は体を屈服させる方案を教えてくれるのです。(三八―二六九)
 
1 体を主管できる一番目の方案
 
 それでは心と体を統一させるための一番目の方案は何でしょうか。体を打つのです。体を打てというのです。体がしようということ一切を完全に否定するのです。どの程度否定しなければならないのでしょうか。完全否定しなさい。死んだという立場まで否定しなさいというのです。それでイエス様が「死のうとする者は生き、生きようとする者は死なん」と語られたように、このような逆説的な論理が適用されるのです。

 体が完全に死んで心化され、心が完全に生きている形態の立場に立つことができなければ、一つに完成することができません。もう一度言うと、体を完全に殺そうとする人は心が完全に生きるのであり、心を殺そうとする人は体は生きていても完全に死ぬというのです。それでイエス様が「死のうとする者は生き、生きようとする者は死なん」というみ言を語られたのです。

 またイエス様は「誰よりも私を愛さなければ私の弟子になれない」と語られました。これは誰よりもイエス様をより愛せというみ言なのです。父母よりも、兄弟よりも、妻子よりもよりイエス様を愛せと言われたのです。なぜでしょうか。イエス様は神様の前に天情の代表者として来られたので、天情と遠く離れている人間に天情を連結させるためには、この世的な肉の情を中心としてはならないためです。父母や妻子や兄弟は肉の情を中心とした関係です。この肉の情を切らなければ天情に従って行くことができないために、天情に従って行こうとするならば、この肉の情を否定して行かなければならないというのです。それゆえ、自分の父母よりも、妻子よりも、兄弟よりも神様をもっと愛する人は天国に行くことができるのです。

 天国に行くことができる基準とはどのようなものでしょうか。天国に行くことができる公式的な切符をどこで受け取るのでしょうか。自分のお母さん、お父さんよりも神様をより愛し、自分の息子、娘よりも神様をより愛するところで受けるのです。そうでなくては天国に入ることができないというのです。

 天国に入ろうとするならば肉の情を除去しなければなりません。第一の目的は強制的にでも打って捕まえろというのです。それゆえ、宗教は「温柔謙遜であれ」と教えるのです。それでは体が温柔謙遜するでしょうか。体はしきりに上がろうとし、驕慢であろうとします。食べさせてやればしきりにもっと食べようとし、休ませてやればしきりにもっと休もうとし、「ため」にしてやればしきりにもっと「ため」にしてくれといいます。したがって体は悪の基であり、悪の根だというのです。悪と善の根が変わったというのです。

 それゆえ、この悪の根を抜き取らなければなりません。そうしようとするならば、体がしようというとおりにしては絶対ならず、悪い所へは行ってもならないというのです。そのようにしなくては、天道と天情の道理を越えられないのです。人情と人道はすべてのことでサタンと悪を中心として出発しやすいために、これを否定しなければならないというのです。

 悪を否定できる第一の方案は肉身を拘束することです。それで断食祈祷をしなさいというのです。断食祈祷をしながら精誠を込めれば、体の気運がすーっと抜けて動くこともできなくなります。そのようになれば心が体を支配できるためによいというのです。その次には犠牲奉仕するのです。自分を殺せというのです。これは全部肉身が嫌う行動です。それゆえ、真の宗教は肉身とのすべての関係を否定する所から出発するのです。そのような結論が出てきます。分かりますか。

 皆さん、すべての宗教の経書を見てください。よく食べ、豊かに暮らせという内容がある経書がありますか。そのような経書は一つもありません。宗教は犠牲奉仕、温柔謙遜しろと教えます。それゆえ、死にながらも人のために福を祈ってやることができるのです。これは体ではできません。そのようなものが肉体を打ち捕まえる業だというのです。

 心と体が対等なために闘うのです。ゆえに体を弱くすることにより心が勢力を得て、弱くなった体を数カ月間引っ張って越えていくようになれば、体を再び上げておいても上がってこれないように習慣化され、その次からは心がしようというとおりにせざるを得なくなるのです。このようにつくっておけば、自分が計画するすべてのことが天の助けによって、うまくいくことを体験するようになります。このようになれば、そのままにしておいて、元に戻れと言っても戻ることができないために、良心を主として一つの絶対的な立場で生涯を結んでいくようになるのです。これが宗教生活の目的です。(三八―二七〇)
 
2 体を主管できる二番目の方案
 
 その次に体を主管できる二番目の方案が何でしょうか。心と体が似たり寄ったりだから闘うというのです。レスリングの世界チャンピオンと幼稚園の子供と相手になりますか。それは争いになりません。結局お互いが似たり寄ったりなために問題になるのです。それで二番目の方案は心に力を吹き込むのです。分かりますか。心に力を吹き込まなければならないというのです。この二種類の方案以外にはありません。

 それならばあらゆる精誠を込めなければなりません。精誠を積みあげれば心の門が開きます。その心の門が開きさえすれば、とても強力な力が出てくるために、体のようなものは問題にもならないのです。皆さんはそれを知らないのです。心と体が似たり寄ったりなので、心の力が体の三倍にさえなれば体は問題になりません。体をそのまま置いておいても問題にならないのです。したがって心に力を圧縮させて、体を一時に引っ張っていくことができなければなりません。それゆえ、道の世界では精誠を込めるのです。

 皆さんは道通するという言葉を聞いたのです。道に通じるようになれば心から強力な力が出てきます。それゆえ、体がしようということをすればするほど、むかむかと気分の悪いにおいがするというのです。考えただけでもとても気分が悪いというのです。道に通じた人は、心に強力な力が来ることによって、そのまま置いておいても体は心がしようというとおりにするというのです。このような二つの方案以外には、体を調整する方案がありません。それで神様は、体の支配を完成するために、このような作戦を繰り広げていらっしゃるということを確実に知らなければなりません。

 これが今までの宗教の教えです。したがって統一教会も今そうした公式どおりに出ていくのです。このようにするようになれば、自然に人間として行くべき高次的な立場、神様の愛を中心とした神様の息子であることを自ら自覚する立場に入るようになるのです。そのような立場に入るようになれば、一つしかない神様の愛を受けることができるために、釈迦が「天上天下唯我独尊」と言ったように、自分の権威に及ぶ人がありません。独りで自らの価値を称賛できる栄光の立場に入るようになるのです。もう一度言うならば、神様の愛を独りで受けることができる息子になり、神様が造った被造世界と神様と関係しているすべてのものを自分のものとして相続できるようになったので、独りで高いと自覚する立場に入るのです。このような立場にまで行って神様の愛の圏内で生きるために、探していく道が、人間が行かなければならない道です。(三一―二七二)
 
3 心と体を統一させる方案
 
 人の心と体を統一する方案は二つしかありません。一番目には、この体を粉々にしてしまい占領する方案であり、二番目は体を打たないで統一する方案です。

 それではどのようにしなければならないのでしょうか。今まで心はほら吹きのように、一回も体と対等に闘ってみることもできずにいつも負けてきました。それは心の力が弱いためです。ところで、この心に注射を打って力をおよそ二、三倍くらいに増やすならばどうでしょうか。そうすれば体を引っ張っていくことぐらいは問題にならないのです。熱心につかんで引っ張りながら行くことができるのです。自動車のチューブに空気を強く吹き込めば大きく膨らむように、心にも力を強く投じればどのようになるでしょうか。力が強くなるでしょう? そうした後でこの心と体が闘えば誰が勝ちますか。このように容赦なく体を打って占領する方案と、心に力を加える二つの方案があるのです。(一八―三二八)
 
 体と心をどのようにして一つにしなければならないのでしょうか。統一、どのように一つにするのかというのです。一つにする道は二つの方案しかありません。体を絶対に身動きできないように拘束して引っ張っていくことと、体にいくら力があるといっても、その力よりももっと強い力を心に投じて引っ張っていくのです。この二つの道しかありません。宗教はこの二つの道を追求するために、体を抑制し体を拘束して、その次には祈祷を通して力を受け、その強力な力によって体を引っ張っていこうとするのです。宗教生活をする人はそれを日常生活で体験するのです。どんなに力がなくても神霊な役事さえあれば、天の霊が臨めば力が出てくるのです。(一六一―一五)




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