神様の摂理から見た
  南北統一

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五.真なる愛だけが体と心を一つにする
 
 さて、愛がある所では上がってもよく、下がってもよく、中間にいてもよいという論理が成立されます。愛する夫が自分より高いといって嫌い、愛する妻が自分より低いといってそれを憎みますか。一つです、一つ。一つになれば思いどおりに低い所から高い所に上がることもでき、高い所から低い所に下がることもでき、中間にいることもでき、どこでも行くことができます。ここは制裁がありません。そうですか。(はい)。

 今世の中では「この世界は一つの世界でなければならない。統一の世界でなければならない。平和の世界でなければならない」と、このような話をたくさんします。

 それでは一つになるのに、力を込めながら「やあ」と言えば、「やあ」と、このようにして、力で一つにつくるのでしょうか。でなければ何かの組織力をもって、近ごろは何の組織社会だから、強力な組織力で一つにつくるのでしょうか。または、ある思想を中心として一つにつくるのでしょうか。そのようにできる一面はあるかもしれませんが、それは我々の本性として、体と心がみな歓迎をして、これでなければならないという、そのようなものは絶対できないというのです。体と心が「これがよい。このようなものは私が願うものだ。これは永遠な理想の基準で、私が仕えて生きることができる」と言えるようになっていないというのです。それはお金でもだめで、知識でもだめで、何でもだめだというのです。

 それでは、一つになることができる根本とは何でしょうか。高い人も低い人も、東洋西洋はもちろんで、黄色人種でも白色人種でも黒人種でも、誰でもみな好むことができるものが何でしょうか。それは愛です。真の愛で一つになること以外にはないというのが、最後の結論であることを皆さんは知らなければなりません。私の体と心が親しくなり、一つになって喜ぶことができるものは、そのようですか。(はい)。お金を見て体と心が喜びますか。それは永遠に喜べないのです。

 我々の五官がみな集中して、一つにぴったりと固まって、笑って踊りを踊ることができるものは、真の愛の理想郷以外にはないという結論です。それをその誰が否定しますか。否定すればそれは人ではありません。それゆえ、霊と肉が、我々の心と体がすべて一つになることができ、共に共栄できるのは真の愛の境地以外にはない、という結論を下すことができるというのです。(九一―一四一)
 
 私自体のこの心と体が、いつ一つになることができるのでしょうか。これが問題です。お金をもってしてもだめで、権力をもってしてもだめで、すべての知識をもってしてもだめで、考えでもだめです。絶対だめです。それでは何をもって一つになれるのでしょうか。神様の愛ならば一つになることができるというのです。このような結論が出てきます。全知全能な神様の愛ならばそのようにできる能力がなければなりません。(九四―二六三)
 
 霊と肉は本来真の愛を中心として一つになるようになっているのであって、偽りの愛を中心として一つになるようになっていません。それゆえ、真の愛の起源を探すことなしにはこれが一つにならないというのです。それが最も理論的なのです。その立場を皆さんが越えて、天が祝福してくれる、その祝福を願って行かなければならないというのです。(九一―一八四)
 
 本来は人間の心と体に神様の愛が入り、内外で矛盾や相反、または闘争がない結果をもたらさなければなりませんでした。ところで、人間が神様から離れてサタンを中心として外的な愛をしたことが動機になり、体と心が相反した立場で闘争する結果がもたらされたのです。そうして外的な体を中心とした愛が、内的な心を中心として、理想的な永遠な生命の起源になる神様の愛を裏切って出てくる歴史の結果が、醸し出されたのです。ですから外的な愛、すなわちサタンの愛を除去し、そこに本然の内的な愛、すなわち神様の愛を相続して体と心を糾合しなければなりません。そうしてこそ、ここから統一が起こるのです。(三七―一七九)
 
 皆さんはたぶん体と心が一つにならないので、愛の力が爆発できずにいるということを知っているのです。堕落したためです。人間が故障したというのです。人間が堕落しなかったのに体と心が一つにならないはずはないのです。したがって人間には、この実存する矛盾した極限状況をどのように克服するか、ということが問題にならざるを得ません。これが問題です。それを何で克服するのでしょうか。愛の力で克服しなければなりません。愛の力のみにより克服できます。(一九八一・五・一六)
 
 救援摂理というものは堕落ゆえに生じたのです、本来何を願ったのでしょうか。愛を願いました。愛を願ったというのです。その愛は真の愛です、真の愛。真の愛とは何かというのです。皆さんが真の愛に接するようになるならば、五官、我々の目、耳、鼻、口、皮膚、五官が一時に笑うことができ、一時に全部を感じることができるというのです。

 さて、我々の肉身が笑って五感を感じるならば、心はどうでしょうか。真の愛に接した心はどうでしょうか。心があれば、心はこのようにしてうずくまっており、体だけこうでしょうか。(いいえ)。どうですか。どのようですか。すべてのものがそこで一致するのです。行動の一致がどこから成され始めるかということを理論的に問い詰めてみる時、真の愛から行動の一致が起こるという論理を立てることができます。そうでなくては神様の理想だとか、人間が理想とする統一を探すことができる基点がないというのです。(九一―七五)




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