神様の摂理から見た
  南北統一

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六.統一の道は統一された一人の人間から
 
 今日この世界は平和を願っています。万民は一つの統一された理想世界を夢見ています。その理想世界というのは、我々個人個人を通じることなしには成されないのです。我々個人個人がそうした理想の基盤を確保して、その環境を広める過程を経ることなしには、その世界にまで到達できないのです。

 このように考える時、統一のその日が来るのをどこから迎えなければならないか、歴史の終末時代であるこの時において、世界を中心としてその日を迎えることができるかという問題を考えれば、これは不可能だという結論につながるのです。また、国を中心としてそれが可能かという時、これも不可能なのです。我々が一つの社会を置いてみれば、社会でも互いに競争しています。互いに紛争しているのです。家庭を中心として見ても、相反した立場を取る慣例があることを我々は知っています。

 さらに進んで、我々個人においても体と心が闘争しているのを見る時、この平和の道、統一の道というものは、他の所から求めるのでなく、我々個人から模索する道以外にはないのです。ある一人が完全に天を代表し、地を代表し、国家を代表し、あるいは民族を代表し、特定な家庭を代表し、全人類を代表して統一された実体を成し遂げなくては、統一の出発を見ることができないのです。人類がこのような歴史過程を経てきたということを知る我々において、問題は一人なのです。

 その一人は天を代表しており、この地を代表しており、歴史を代表しており、人類を代表している、全体を代表した一人の人間として統一された自我、すなわちそのような人格をもってくる中心存在なのです。そのような存在がなくては、統一とか理想とか平和の世界とかというものを、我々がどんなに待ちこがれたとしてもそれは成されないのです。

 それゆえ、神様は一つの中心を探しているのです。それではその中心をどのように立てなければならないのでしょうか。その中心は世界で立てるというよりも、まず我々個人から立てなければならないというのです。個人を中心とした世界的な代表者一人が現れずには、統一的な出発を見ることができないために、天はこの中心一人を探しているということを我々は知っているのです。

 この一人が立つことができる位置がメシヤが立つことができる位置であり、その一人が現れることが歴史的な願いであり、摂理的な目的になっています。この一人が現れることにより、天に代わることのできる個人的な出発を見ることができ、また統一されない人間を代表して統一された一つの標準になることができるというのです。

 この一人は体と心が一つになることができると同時に、初めて統一的な一つの個人が成立することによって、その個人を通して家庭を形成することができるのです。完全な一つが出てくることにより、その完全な一つを標準として環境を収拾できる相対的立場を取るようになる時、ここで初めて一つの家庭が出発を見ることができるのです。その家庭を中心として見る時、家庭を代表した父母は宇宙を代表して、このようにしなければならないという、一つのモデルが生じることができるのです。

 その父母を中心として生まれた息子、娘は、父母と完全に一つになることができなければなりません。この地上に数多くの子女たちがいますが、その子女たちが標準的な子女と一つになることができる立場に連結されなければなりません。もう一度言えば、父母は父母なりに連結できる代表的な中心が設定されなければならず、子は子なりに中心を代表できるその中心と一つになることができる道を選ばなければなりません。それで父母と子が一つになるそうした立場を、世界の数多くの家庭が標準として一つになる道に従っていくことにより、初めて一つの家庭的な統一運勢が展開されることができるのです。その家庭を通じて氏族、氏族を通じて民族、民族を通じて国家、国家を通じて世界、このような発展的な過程を経ていかなくては、世界まで統一する歴史を成しおくことができないということを我々は知っています。(六一―二四七)
 
 堕落した人間においては、宗教や政治改革以前に、自身の人格革命を先に遂行しなければならないというのです。自分の人格革命を経ない人が世界を一つにまとめたとしても、それは喜ばしいことだと言えません。その人が成就したこと自体が、利己的な自分の欲望を充足させるためのものだとか、名誉を高めるためのものであるからです。

 世界を武力で統一させたとしても、その世界はいくらもたたずに、また別の武力によって崩れるのが歴史的な教訓です。むしろそうした統一作業は、より大きい問題を生じさせるだけです。アメリカは自国を中心として世界の統一を願うでしょうが、それは到底不可能なことです。世界の数多くの民族が、アメリカが支配することを願わないためです。日本が経済力を先に立て世界統一をするといっても同じです。いかなる力でも世界を統一することはできないのであり、世界統一の道があるならば、それはただ人格的な統一だけが可能なのです。

 世界を統一するためには一大革命を断行しなければなりませんが、その革命は人格革命なのです。その人格革命とは知識やお金、権力で成されないのであり、真の愛でしなければなりません。

 真の愛は神様が人間を造られた後、今までずっと探して来られた最も基礎的な本然の愛なのです。真の愛を中心として人格革命をしなければ、世界を収拾する道がないのです。(一九八六・八・二〇)

 大韓民国において南北がすっぱりと分かれていったということは、中心になることができる位置がなくなったということです。それでは中心はどこからつかまなければならないのでしょうか。中心をつかもうとするならば、一番最初に、ある一つの地点に合わせて中心をつかんで出てこなければなりません。そうではありませんか。地に中心をつかまえようとする時、傾斜地ではいっぺんにつかむことができないので、ある所に錨を置いて中心圏を探してこなければならないのです。

 それではそのようにできる焦点はどこでしょうか。これが問題です。韓国が先か、北朝鮮が先でしょうか。大韓民国全体が一度に入っていられる所がどこでしょうか。その所は一点なのです。それが何でしょうか。一個人を通してその中心点をつかんでいくのです。そうした使命をもった個人を発展させて、一つの家庭にしなければならないのです。そうでなければならないのではありませんか。それで三千万の民衆の中のある個人の代表を通して、三千万の民衆の中のある家庭の代表を通して、三千万の民衆の中のある宗族の代表を通して、三千万の民衆全体に連結されるのです。三千万の民衆も一個人から始まるのです。その次には家庭、氏族……。このようにますます、近ければ近いほど、その圏が展開されるのです。そうではありませんか。

 核は一つだけれど、それを中心とした家庭であり、氏族であり、民族であり、国家であり、世界が展開されるのです。一番最初には個人から始まり徐々に大きくなっていくのです。そうではありませんか。個人復帰、家庭復帰、氏族復帰、民族復帰、国家復帰、このようにして結局は個人中心、家庭中心、氏族中心、民族中心、国家中心、世界中心に徐々に入っていくのです。(五一―七五)
 
 近ごろは統一を言うでしょう、統一方法。大韓民国の人々は極めて統一を願う人々なのです。ところで統一方法をどこで求めるのでしょうか。三十八度線で求めるのではありません。まず私の胸の中の三十八度線から統一しなければならないのです。この統一がより急なのです。これを統一する日には、国は自動的に統一されるのです。善意の方向と善の価値観を立てて置くならば、忠清北道の人でも慶尚南道の人でも違うところがないのです。統一をどこからするかというならば、私の心の三十八度線からしなければならないのです。

 そうした人々を植えて置いたゆえに、二つのやからの人を植えて置いたゆえに、一つは有神歴史、宗教が結実されたのであり、他の一つは唯物歴史、体のような唯物歴史の世界観が起こったのです。その実が結ばれたものが、今日の現実的な世界であるということを知らなければなりません。それゆえ、世の中は終末です。

 唯物論と有神論はどこから出てきましたか。私から出てきたのです、私からです。すなわち、人から出てきたのです。そうでしょう? その先祖がどこにいたのでしょうか。私の心にいたのです、私の体にいたものです。体と心が闘う闘争の起源から植えられたそれが個人になったゆえに、個人が闘い、そうした個人が合わさって家庭を成したのでその家庭が闘い、その家庭が合わさって氏族を成したのでその氏族の中でも互いに闘い、その氏族が合わさって民族を成したのでその民族がそうで……。そうした個人が集まるようになって民主世界になり共産世界になったのです。すなわち心的な唯心世界になり、体的な唯物世界になったのです。世界的に系列的に組んでみると……。

 だからこの闘いを防ごうとするならば、どこで解決しなければならないのでしょうか。共産主義と民主主義、その結実自体では解決できません。人間の本性で、個人を中心として横にそれて闘っている体と心の個人の三十八度線、体と心の三十八度線を解決できなければ、家庭の三十八度線を解決させることができないのです。家庭の三十八度線を解決する前に、社会団体間の三十八度線を解決することはできないのです。また、社会団体間の三十八度線を解決する前には民族の三十八度線を解決することはできないのです。(四九―一五〇)




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