神様の摂理から見た
  南北統一

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二.統一をしようとすれば心情の因縁を共にしなければならない
 
 我々は統一させるための群れなのに、統一できていない人も多いです。皆さん、統一されていますか。まず自分自身が統一されていなければなりません。統一されていない自分自身をもっては何も統一させられないのです。統一しようとするなら、分かれた心情を一つ所に縛りつけなければならないのです。我々は死の道も行けというならば行かなければならないのです。

 この所は統一されるための宇宙史的な所です。ところで人々はこの所に入ってきさえすれば、ここでみな統一されるだろうと思っているのです。統一のためには、統一された心情と理念を立てて、苦難の道を越えることにより、心情の因縁が骨髄からしみ出なければならないのです。

 我々は死んでも統一という思想のもとで死ななければならないのです。統一は先生と共にするのではなく、まず神様と共に統一しなければならないのです。ヤコブは家庭的に、モーセは民族的に、イエス様は世界的に、神様を中心として統一しました。神様と共に統一するには国家的な基準だけではだめです。天と地とともに、心情の因縁を共にしなければならないのです。個人的な困難や家庭的な困難、そのいかなる困難をも押し切り、神様のみ旨のために仕事をして倒れれば、神様は彼を天宙的な位置に立てざるを得ないというのです。

 我々は統一される群れではありません。統一する群れです。我々は小麦粉になってはなりません。麹にならなければなりません。統一は平地でなるのではなく、谷間を経て平地に出てこなければならないのです。イエス様も死の谷間で勝利されたのです。このような勝利で成される統一でなければならないというのです。

 過ぎし日にみ旨のために苦労したことに対し、私がなぜそうであったのかと考えることは、主体性を喪失したためなのです。民族のために苦労したならば、民族が残っている限り、その苦労の基準も生き残ります。

 しかし神様のためでもなく、国家のためでもなく、私一人のための行動である場合には、疲れる時は収拾する道理がないのです。それは四方を見回しても、新しい刺激になるだけのものがないためです。

 いくら死の道だといっても、統一の祭壇は一つ所に束ねられて祭物として捧げられなければならないのです。ある誰かのための統一でなく、神様のための、国家と民族のための統一でなければならないのです。(一六―三四一)




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