神様の摂理から見た
  南北統一

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二.「ため」に生きる法度を立てた理由
 
 神様はなぜ「ため」に存在しろという原則を立てざるを得なかったのでしょうか。そのいくつかの要件を挙げてみます。まず皆さんに尋ねますが、もし皆さんのために誰かが心から生命を尽くして、犠牲を尽くしながら一〇〇パーセント恩賜を施した人があるならば、皆さんの本心がその恩賜を返すのに、五〇パーセントは袋に入れて置いて五〇パーセントだけ返したいですか、でなければ、あるがままにみな返したいですか。我々の本心がどのように作用しますか。誰でも、より返したいのが本心です。

 ここで通訳しているミスター・朴に対して、私がもし一〇〇パーセントそのようなものをあげたならば、あげるのにも心から愛する中であげたことを知るならば、この人は一〇〇パーセント以上を返してくれるというのです。一〇〇パーセントが一一〇パーセントで返ってきて、その一一〇パーセント返ってきたものは、またそちら側で心からくれたゆえに一二〇パーセントを返すようになって……。このようにすることによって、ここから永遠という概念が設定されるというのです。永遠が始まるのです。それゆえ、このような原則を立てざるを得ないのであり、それだけでなくここから初めて発展と繁栄が起こるのです。

 二番目は何でしょうか。皆さんの家庭において五人家族がいるとして、誰かがその五人の家族のために生きるようになれば、後日にはそのために生きた人がその家庭の中心になるのです。あたかも神様のように……。そうした中心が決定されると同時に、主体と対象、中心と相手関係においての自願的な主管圏が生じるようになるのです。絶対的に自分のために生きるその主体の前に、主管されることがどんなに幸せかということを、今日の人間は知らずに生きているのです。

 霊界に行くようになれば、神様の直接主管を受けることがどんなに大きい栄光なのか分かりません。このように、ここで初めて主従関係が成立されるのです。

 三番目は何でしょうか。理想と愛は人間において生命よりもっと貴いものなのにもかかわらず、今日の人間はこのようなものが自分のものとして自分に現れるだろうと思うこと、これが大きな誤解だというのです。愛と理想はどこから来るのでしょうか。対象から来ます。対象から来るために、ために生きる法度を立てざるを得ません。知恵の王であられる神様は、このようなすべての結果をご存じであるために、そのような法度を立てざるを得なかったということを、今や皆さんが知ったであろうと信じます。(七三―三二六)
 
 永遠という概念、これは自分のために生きるところでは不可能なのです。皆さんが運動するのを見ても、押してくれ、引っ張ってくれる相対的方向が大きければ大きいほど早く回るのです。知恵の王なる神様が、「ため」に存在する法度を立てたのは、永遠であることができるようにするために立てられたということを、我々は考えざるを得ないのです。

 それだけでなく、永遠の概念が成立すると同時に、これは永遠に発展し永遠に繁栄するのです。現在の位置から前進し発展するのです。存在の位置から前進的な刺激を感じることができるところでのみ幸福になるのです。このような要件をもっているゆえに、神様はために存在しろという原則を立てざるを得ませんでした。

 例えて言えば、一つの家庭に十人の家族がいるとしましょう。そこに一番幼い弟妹が、その十人家族の中で誰よりもその家庭全体のために生きるようになるならば、年齢の幼い弟妹であっても、父母も彼を前面に押し出すようになり、兄弟も彼を前面に押し出すようになります。日が過ぎれば過ぎるほど、そのために存在する弟妹は自動的にその家族の中心存在として登場するというのです。

 神様がこの宇宙を創造されて以後、神様自身が「ため」に存在するために、「ため」に存在する神様に似た人はどんなに小さな弟妹であっても、どんなに小さな息子であっても間違いなくその家庭で中心的な存在になるのです。今日我々はこれを全く知りませんでした。

 「ため」に生きるそこから私自らが後退するのでなく、「ため」にすれば、「ため」に生きるほどその人は中心存在として決定されるのです。あたかも神様のように。神様がそうであられるゆえに、そうした立場に立った人は、神様が中心存在として立てざるを得ないのです。それだけでなく、その立場でのみ理想的統一、完全統一を成すことができるというのです。

 今日我々の中で他人に主管されることは死んでも嫌だと考える人々が多いことを知っています。特に知識層にある高名な人々からこのようなことをたくさん見るようになります。しかし一つ知らなければならないことは、今までの人間が、「ため」に存在するその前に主管されて生きることがどんなに幸せかという事実を、夢にも考えることができませんでした。霊界の組織を見れば、天地の大主宰であられる神様、その神様は宇宙万有の存在の中で、「ため」に存在する中心存在であるゆえに、その方に支配されることがどんなに幸福なことなのか……。千年、万年支配されても感謝できる理想的統一圏がここに成立されることを知っているために、神様は「ため」に存在しなさいという原則を立てざるを得ませんでした。

 そして愛は私から始まったものではありません。生命よりも貴い愛と理想を探そうとするならば、対象がなくてはならないのです。今日我々はこれを全く考えることができませんでした。この高貴な愛と理想を受けることができ、それを探すことができる存在が対象です。それゆえ、我々が謙遜にその高貴な愛と理想を受け入れよう思っても、最も「ため」に生きる立場でなくてはならないので、神様は「ため」に存在しろという原則を立てざるを得なかったという、この一つの事実を我々は記憶しなければなりません。(七五―三二二)




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