神様の摂理から見た
  南北統一

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四.正しい価値観の確立
 
1 真の愛は与えても忘れてしまうこと
 
 愛は一人では成されません。愛はどこから出てくるのですか。私から出てくるのではなく対象から来るのです。対象から出てくるために、私が頭を下げて対象のためにしなければならないのです。「ために生きる」という天理がここから生じるのです。極めて高貴なものが私を訪ねてくるのに、それを受けようとすれば、高めて「ため」にしなければならないというのです。「ために生きる哲学」を成してこそ愛を受けるのです。
 今日人間社会は堕落した以後に腐りました。すべての哲学が、それを作った者の私欲を主としてなされています。むしろこれをさっと掃いてしまわなければなりません。武器や経済力、知識などをもって腐ってしまった哲学をなくすことができますか。できません。唯一真の愛だけがそれをすることができます。その愛は神様からの愛です。神様と愛の因縁を結ぶようになれば、必ず主管性と独立権、その次には相続権をもつことができる特権があるというのです。力学の世界では入力より出力が小さいけれど、愛の世界では入力より出力がより大きいのです。すればするほど無限に福となる……。
 真の愛は何でしょうか。「ため」に生きる愛ですが、いくらでも与えてはそのまま忘れてしまうのです。今更のように与えたことを記憶することもしません。またどんなに注いであげても疲れません。九十を越えた父母が七十になった息子を見て「お前! 車に用心しろ」と言ってもぎこちなくなく、数十年間その言葉を数えきれないほど繰り返したとしても、飽きたり疲れたりする法はありません。堕落した世の中の父母もこのようであるのに、まして本質世界で神様の愛を授け受けする時疲れるはずがありますか。
 人生で真なる神様の対象圏を確定づけ、愛の栄光が不変だということを初めて知るようになる時に、我々人間の愛を中心として永生の倫理を妥当化させることができるのです。このような事実を知っている人がどこにいますか。
 以前私がアメリカで監獄に入り、獄中の寝台に一人で横になっていると、神様が訪ねてこられ、信じる者がお前しかいないからニカラグア事態を解決しろと命令なさいました。神様が訪ねられる人間が私しかいないですか。先進国を代表するというアメリカには二億四千万という国民と数えきれないほど多くの教役者たちがいるけれど、彼らを訪ねることができず、私を訪ねてこられた神様がどんなにあわれであるか見当がつくのです。けれども神様は愛を訪ねて行かれることができるために幸いです。ゆえに世界のために私が仕事をしなかったならば南米は既に廃墟になったのです。(一九八六・三・一四)
 
 真の愛は何かというならば、与えて忘れてしまってはまた与えるという愛です。偽りの愛は与えるのに加えて商売する愛であり、与えたからお前はそれ以上返せという愛です。これはサタンの愛です。
 真の愛は与えて忘れてしまい、また与えたいとするものです。偽りの愛は一度与えたならばそこに元金と利子まで合わせて受けるというのです。それゆえ、イエス様のような人は地上に来て「怨讐を愛せ」と言いながら怨讐を忘れてしまうのです。怨讐まで忘れてしまい、愛することだけをしたいというその位置が、この宇宙の全存在が願う理想的人間像だというのです。そうした内容をもって来たがゆえにイエス様は神様の息子です。
 神様はどのような方ですか。息子に似た方でしょう。神様の息子が誰でしょうか。イエス様が神様の息子ならば、神様はイエス様に似た方でしょう。それゆえ、イエス様に似た神様はどうしましたか。イエス様が怨讐を愛したのと同じように、怨讐を忘れてしまって愛して、また愛される方が神様です。ゆえに死ぬ立場に入るようになれば、人々が「神様! 私を助けてください!」と叫ぶようになるというのです。
 人間がいつも「あなたが必要です。主人としてあなたのような主人は宇宙にありません」と言えるそのような主人がいますか。女が幸福な女であるならば、どのようなことが幸福かというならば、愛する夫が自分のためにし、またためにし、またためにして忘れてしまい、またためにしようとする夫をもった時、この世で一番幸福なのであり、男もその妻が夫のためにし、またためにし、またためにして愛して、また愛しても忘れてしまって、また愛そうという姿である時本当に幸福なのです。真の妻と真の夫の道理はこのようなものです。
 統一教会は何をしようというのでしょうか。今日人間の欲望のすべてのものを完全に満たし、万人共有の神様が喜ぶことができる平衡的世界化運動を、神様だけが喜ぶことができる愛を中心として統一化する運動をしようというのが統一教会です。(一九八六・一・二一)
 
2 天国の構造と宗教の教え
 
 皆さんはよく知らないけれど、本人は霊的体験、あるいは霊界に対する内容を体験できる機会が多かったです。
 神様がいらっしゃる本然の世界、今日宗教でいう天国とか極楽とかというそのような所の構造が、何を基準としてなっているかという疑問に対する答えは簡単だというのです。
 神様のために存在する者たちだけが入る所であり、「ため」に生まれ、「ため」に生き、「ため」に死んでいった人々が入る所です。これが我々の本郷の理想的構造であるゆえに、神様はその世界を探してくるようにするために、歴史過程に数多くの宗教を立てて訓練させるのです。
 今までの宗教が温柔謙遜でなければならず、犠牲にならなければならないと教える理由は、霊界に行かなければならない人間たちに、霊界の法度がそうであるゆえに、宗教が地上生活の過程で、その霊界に合うように訓練せざるを得なかったためです。それゆえ、高次的な宗教であるほどより次元の高い犠牲を強調し、奉仕を強調するようになるのは、平素の生活をその世界に一致させようという所にその原因があるのです。
 このような事実から推察して見る時に、このような内容を提示すること自体が、歴史的な観点で、歴史の進行過程で摂理して下りてこられる神様を認めざるを得ないようにするのです。
 聖書がいくら厖大な経典になっているといっても、「ために存在する」というこの原則にみなぴったり合うというのです。イエス様は、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされると言いました。このような逆説的な話をしたのも、結局は、「ため」に存在する本然の世界の原則に一致させるための方法にすぎないということを、我々は知るようになるのです。(七五―三二〇)
 
 家庭の天国がどのようなものかと尋ねるならば、妻が夫のために一〇〇パーセント存在し、夫が妻のために生き、妻のために死ぬという立場に立つようになる時に、その家庭こそ天国でないはずがないのです。
 我々の格言で家和万事成(注:家和して万事なる)と言いました。国が盛んになることも同じです。国を治める主権者は自分の存在の価値が自分の主権行使にあるのではなく、民のためにする所にあり、その民は民自体のためにすることより国のために……。このようになる日にはその国は天国になるのです。
 このような原則を拡大していくことによって、国家、民族を超越し、互いに「ため」に生きる世界を成すならば、その世界がまさに我々人間たちが願うユートピア的愛の世界であり、理想の世界であり、平和の世界であり、幸福の世界であることに間違いありません。「ため」に存在するというこの原則を掲げて出るようになる時は、どこでも通じない所がないのです。(七五―三二五)
 
3 正しい価値観の確立
 俗に世の中で、ああ、人生とは何かと言うけれど、人生観、国家観、世界観の確立、その次には宇宙観に対する確立、さらに進んでは神観の確立が問題になるのです。これをどのように確立するのでしょうか。系統的段階と秩序をどこに置き、その次元的系列をどのように連結させることかという問題は最も深刻なものです。
 しかし、「ため」に存在するというこの原則に立脚して見るようになる時に、最も価値ある人生観は、私が全人類のためにおり、全世界のためにおり、国家のためにおり、社会のためにおり、家庭のためにおり、妻のためにおり、子女のためにいるという位置で幸福な自我を発見できるならば、この以上の人生観はないと見るのです。
 国家自体をおいて見ても同じです。理想的な国家はどのようにならなければならないのでしょうか。自分の国だけのためにしようとする国は、悪い国家として指弾を受けてきたことを我々は歴史を通してよく知ることができます。
 けれども現在の全世界の国家の中で、世界のために政策を広げている国は一つもありません。皆さんがよくご存じのように、今日共産主義も決裂状態に入っているのです。一九五七年を頂点として、共産主義が分かれた原因は、ソ連を主としてスラブ単一民族の世界制覇を夢見たためです。
 自分の民族だけのための共産主義に変わったゆえに決裂が起こることを知っています。今日アメリカも民主主義主導国家から没落する実相を我々は直視しています。なぜ? 世界を指導する民主国家になるべきであるはずにもかかわらず、世界を捨てて自国だけのためにしようとするアメリカになったためです。今、後退の一路に立ったアメリカは、自主的に収拾できる道はないと見るのです。
 このような問題を置いて見る時、今日の韓国でも一つの国家観確立を提唱しているのを見ますが、アジアにおいて韓国だけを主とした国家観確立は、歴史とともに過ぎ去るのです。ソ連共産党がそうであり、アメリカ自体がそのようであることを見る時に、今日大韓民国がこのように国は小さく少数の民族だけれども……。そして、仮に国の形態がなく二十一世紀、あるいは三十世紀へ向かっても、本当に韓国民族が世界のために生きる民族思想を固守していくならば、韓国民族はその時になって、必ず世界を指導するのです。このような公式的帰結により我々は結論づけることができます。
 真の国家は世界のために生きる国家です。また真の世界は世界のためだけに生きるのではありません。その世界自体は結果的位置にあるために、動機の基盤になる絶対的な神の観点と一致できる思想的体系をもたなくてはならないというのです。自分のために生きる内容の思想では世界を指導し、解決していくことができないと見るのです。(七五―三二四)
 
4 地上天国の実現方案
 
 神様は世界万民を子女としているゆえに、神様の救いの目的は世界の人類なのです。さらに進んでは、宇宙の救いなのです。それゆえ、一国家、単一民族圏の仮面を脱ぐことのできないそのような宗教は、神様の全体のみ旨の前に立つことができないのです。
 神様は世界を救うことが主目的であるゆえに、それを救うことができる可能な段階の次元を、どのように発展させるかという問題を考えてみる時、原則は簡単だというのです。家庭は氏族のためにあり、氏族は民族のためにあり、民族は国家のためにあり、国家は世界のためにあり、世界は神様のためにあります。その時の世界は、神様のために存在することのできる人でなくては、全知全能でこの全宇宙を創造された神様の子女になる資格がないのです。
 すべてのものは世界のためにあり、世界は神様のためにあります。この一つの立場に立てば、神様は世界のための立場に立っているのであり、国のための立場に立つのであり、民族のための立場に立つのであり、氏族のための立場に立つのであり、家庭のための立場に立つというのです。他の話に変えて話すならば、私のものは妻のものであり、その夫婦のものは家庭のものであり、家庭のものは氏族のものであり、氏族のものは民族のものであり、民族のものは国家のものであり、国家のものは世界のものだというのです。このような観念をもったその世界は神様のものです。
 それでは今や神様のものは誰のものになるのでしょうか。私のものになるのです。そうした立場に出てこそ皆さんは、栄光なる最高の限度を達成するというのです。皆さんそうでないですか。誰でも世界で一番になりたいという、そうした欲望をもっているのです。
 そうした価値的な存在になることによって、万有の中心的なその神様のものが、初めて私のものになることができる栄光の立場に立つことができるというのです。このように見る時、結論を下すならば、「ため」に生きるところにだけ家庭天国の実現が可能なのであり、国家天国の実現が可能なのであり、世界天国の実現が可能なのです。それだけでなく神様も人類と共に、幸福で理想的な園だといって踊りを踊って歌を歌うことができる世界へ因縁づけられるのです。
 そのようなものが宗教が目的とする天国であり、その天国が地上に成されるものであるゆえに、それがまさに地上天国だという結論が出てくるのです。(七五―三三一)
 
 理想世界である地上天国はどのように実現されるのでしょうか。男は女のために、父母は子のために、家庭は氏族のために、氏族は民族のために、民族は国家のために、国家は世界のために、世界は神様のために生きてこそ実現されるというのです。
 そのようになれば、私のものはお前のものになり、お前ものは家庭のもの、家庭のものは氏族のもの、氏族のものは民族のもの、民族のものは国家のもの、国家のものは世界のもの、世界のものは神様のもの、神様のものは私のものになるのです。このような運動が展開されなければならないのです。この運動を地上世界で誰かが、ある教派なり、ある人なり、志ある誰かが始めなければ、この世界が天に帰っていくことができる道を探すことができないゆえに、必ずしなければならないのです。(七三―三二七)




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