神様の摂理から見た
  南北統一

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二.唯物論の解説と代案

1 マルクス主義と哲学の限界

 マルクスは、どのような人でしょうか。マルクスのような人が聖人ですか。マルクスは聖人の仲間に入ることはできません。皆さんが知っているように、聖人とは人間を主にして現れた人ではありません。人間を主とした主張をする人は聖人になることはできません。(四一―六九)

 哲学は、それを主張した人がいつも問題になるのです。マルクス主義ならばマルクス主義を主張した人が主導的な役割をするのです。その思想圏内にすべて融合させるために、世界へと発展させてくるのです。その中心が誰かと言えば人間なのです。人間を中心とした環境的な内容を結束させるのにおいて、内在的な作用をするものが今日の哲学思潮であるというのです。

 そうですが、聖人の道理はそうではありません。聖人の道理の中心が何であるかと言えば、人間でなく神様です。これが違うのです。ですから、神様を紹介できない人は聖人の隊列に同参できないのです。(四〇―三三一)

 今日、マルクス主義とか何主義とかいうものは一つの哲学です。哲学はその個人的誰かによって始まるのです。哲学は知識の起源を通して現れるものであり、神様との関係、生命の起源を通して現れたものではありません。哲学は、人間とは何かという問題を探究する場合において人性説を主張したかもしれませんが、生命の起源はどこからかということを追究することはできませんでした。その問題を追究するものは哲学でなく宗教です。(四一―六九)

 哲学は神様を発見しようとしましたが、発見できずに落第しました。神様を見失ってしまい、人間が第一だという人本主義へと流されました。人間を見いだすこともできず、物質が第一だという物本主義、唯物主義へと流れ出ました。(一九八五・一二・一八)

 今日の思潮は何が動かすのでしょうか。哲学が動かします。しかし、哲学は生命と関係があるものではありません。皆さんはそれを知るべきです。哲学は生命を左右することのできる根源的な立場にはなれないのです。生命の対象的な立場に立つ知識の根本になることはできますが、生命の内容を決定できるもの自体にはなれません。ですから、哲学は生命を救うことはできないという結論が出てくるのです。

 聖人たちは哲学者ではありません。聖人たちを分析して見る時、彼らは何をもって生きたのでしょうか。何かの戦法をもって生きたのではありません。もちろん、知識を教えてあげたでしょう。人生の道理の一面を教えてあげることはしましたが、それは何を中心として教えてあげたのでしょうか。世の中を占領するための戦略的なことを教えてあげたのでしょうか。彼らが教えた内容は違います。全部違うのです。

 知識は知れば知るほど占領していくのです。今日の西欧哲学とは占領的な哲学です。知れば知るほど占領していくというのです。たくさん知れば知るほど自己を越えて、その版図を世界化させようとするのです。何を中心にですか。世界を中心にですか。自己を中心にですか。

 世界のための道に従って行くと言いますが、誰を中心にしてかと言えば、どこまでも自己自体を中心にするのです。ですから、その結果は必ず唯物思想に結集されてしまうのです。哲学は人生の生命問題を根本的に解決できないために、対象的な価値には属するかもしれませんが、根本的な決定要因にはなれなかったのです。(四〇―三三〇)

2 思想と哲学の二大思潮

 皆さんの心の世界は、皆さんが誕生する前から始まったのです。また、皆さんの対外的な世界も皆さんが誕生する前から始まったのです。それでは、この宇宙は何の考えもなしに、ただそのように生じたのでしょうか。違います。ここにあるピアノが生じるためにも、ここにはそうできる内容があったために生じたのです。どうやって生じたのか分かりませんが、何かの調和的力が作用したために結果として現れたのです。したがって、物体は原因ではなく結果なのです。

 皆さんが生まれる時、心的起源が先ですか、物質的起源が先ですか。私が生まれてみると、この世の中もあったし、私の心もありました。それではどちらが先ですか。物質が先だということはあり得ないのです。このような問題を中心として思想と哲学の二大思潮をつくって、「精神が先だ」「物質が先だ」と言いながらお互いが正しいと主張しています。

 それでは、皆さんは精神がないのに、「私は行く」と言うことができますか。できません。先に考えて、その次に行動するのです。そのようになっています。そうではないですか。ご飯を食べる時、無意識で「私は食べる」と言うことができますか。食べようと考えた後に食べるのです。これを見る時、どちらが先ですか。内的なもの、すなわち考えることが先なのです。

 それでは、皆さんは体の欲望が大きいですか、心の欲望が大きいですか。体の欲望は、ご飯を一膳多く食べれば満腹になるように限界があります。しかし、心の欲望には限界がありません。それでは、どちらが大きいですか。心の欲望に限界がありますか。物質的欲望、すなわち体の欲望には限界があります。しかし、その限界線を越えて要求するのが心の欲望です。これは皆さんの生活の中から明らかに知ることができるのです。(二七―五五)

 今までの歴史は、このような目的に向かって発展してきたのです。このようにして目的とする世界を成すための一つの手段と方便として立てられたものが主義と思想です。ここで、物質的な面を中心としたものが唯物主義であり、精神的な面を中心としたものが唯心主義です。民主主義は、唯心主義である宗教と文化を中心として発展してきています。人類はこの二つの思想が対立する間にとどまっています。(二〇―三〇二)

 今日、世界思潮を大別して見る時、どのような世界観になっているでしょうか。物質的世界観と精神的世界観になっています。言い換えれば、唯物史観と唯心史観が対立しています。この物質的な面と心的な面が対立する立場で一つの中心へと行くことができるでしょうか。それは不可能なことです。我々人間を見ても、心と体から成っています。心とは、我々が現実的なものをもって分析し、処理することのできないものです。物質的な環境とか内容によって観測しては、一つの結果を下すことができないものが心の世界であることを、我々は知っています。

 この心の世界は具体的な内容をもっていないようですが、それが物質的な世界を管轄しているのです。このようなことを見る時、高次的な内容を整えた内的な原則を通して物質世界を分析することができますが、物質的なものをもってはその次元が及ばないために、心的世界を分析するとか解決することはできないことを、我々は知っています。(二八―一五一)

 今日、世界の思潮は二つに分かれています。右と左、唯心と唯物に分かれていますが、これらは、ある一日互いにぶつかるようになるのです。ぶつかる時、喜びでぶつかるのでしょうか、恐怖でぶつかるのでしょうか。これが問題です。恐怖でぶつかる日には世界はすべて死亡であり、喜びでぶつかる日には世界はすべて幸福です。脅威と恐怖によって一つにしようとすれば終わりがきますが、平和と喜びの内容によって一つにしようとすれば永遠であることができるのです。(九―三一九)

 人間の精神は高い理想を追求します。人間の精神はすぐに神様まで至るようになります。肉身は我々の理想を具現する道具です。しかし、これは努力と鍛錬と自己犠牲を要求します。人間の精神が追求するものと、肉身が追求するものの間には緊張が生じます。精神は信仰の世界を探し、肉身は理性の世界を探します。

 このような理由のゆえに、人間の歴史には二種類の平行する思潮が生じるようになりました。一つは理性的で外面的であり、肉身の優位を強調するものです。言うならば、肉体的な満足、肉体的な美、科学に重きを置くことによって、すべてが身体的感覚にパターンを置く実証を重視します。またもう一つの思潮は、宗教的伝統的なもの、これは人間の肉身を超越する価値を重視します。精神的法則や価値、そして神様の啓示は科学の実証対象になることができません。人間生活で見ることのできるこれら二種類の思潮が、まさに今日の世界に見る二つの対立したイデオロギーの根本なのです。

 民主世界、すなわち自由世界は宗教的伝統から出発して発展しました。民主主義の現代的概念はまさに、「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記一・27)という聖書のみ言に見つけることができます。これはまさに、人間は神の子女であるので民主世界では人間を尊重するという意味になります。ですから、人間に選択の自由を最大限許容すべきです。なぜならば、自由なしには人間の行動が価値をもつことができないからです。

 一方、共産主義は人類歴史においてより外面的であり、世俗的な思潮の結実です。啓蒙思想とフランス革命を経てきた後、マルクスは暴力と社会工学的技法を応用して、神様に対する信仰を追い出し、暴力による社会秩序の構築を主張しました。マルクス主義の社会工学的技法は、神様を否認する人間観に根拠を置いています。

 しかし、その結果は何ですか。マルクスの見解や主張を擁護する人たちがいるにはいますが、マルクス理論を実験し、実践してきた歴史が七十年になるソ連当地での結果は、一言にして悲劇的な失敗というほかありません。共産主義の勢力を強固にするために一億五千万の無辜の人命が犠牲になりましたが、マルクスが約束していた正義と繁栄の世界はそのどこにも実証することができませんでした。今日、これら両大イデオロギーと、これを信奉する諸国は地球星でお互いに正面対決しており、かつて想像さえもできなかった巨大な破壊力をもって世界を威脅しています。(一六六―一三〇)

3 歴史の発展過程と共産主義

 今まで発展してきた歴史のすべての内容を人体に比較して考えてみる時、最近まで世界を動かしてきた人たちは頭のよい人たち、すなわち知性人でした。それで、頭の時代であったと言うことができるのです。そして、第一次、第二次世界大戦を前後しては軍閥、すなわち力ある人たちが世界を動かしました。腕の時代でした。今は労働者や農民を中心とする脚の時代に入ってきました。なぜこのように歴史が発展してこなければならなかったのかと言えば、サタン世界のすべてのものを天が取り返してくるためです。すなわち、人類歴史は神様の復帰摂理歴史です。それで頭のよい人たちは、たくさん天の側になりました。今日、世界を指導する民主世界の知性人たちは大部分、神様を信奉する人たちです。アメリカでもそうです。今、サタンはだんだん頭を取られ、体を取られ、後には脚へ追いやられるのです。

 自己の心のままに蹂躙した人類をみんな奪われて、しまいには神様の前から除去されるほかない運命に立っているために、サタンは、自己も侍られず神様も侍られないようにしようと、「神はいない」という共産主義を生じさせるようにしたのです。皆さんはこれを知らなければなりません。

 それゆえ今、世界的にサタンの「分離現象」が起こります。頭からの分離、手からの分離現象が起こります。そして、頭は神様を象徴しますが、これは人体の情報機関であるということができます。すべての事物を観察する器官が頭にあり、顔には七個の穴(口、鼻二つ、目二つ、耳二つ)があります。ですから、七数を代表できる情報網をもって、サタンと悪なる者たちを断ってしまうのです。

 それで、最後の手段としてサタンが逃避するのです。そのために、神様に敵対していたサタンが今は神様を肯定して自己自体を爆破させなければならない終末時代に来たのです。自己と神様を否定することによって神様も侍られなくなり、自己も侍られなくしようとするのです。このような思想が共産主義です。また共産主義は、人間を神様のもとに帰ることができなくしようとする思想でもあります。
 また、彼らは会議を夜にします。秘密指示とか秘密事項を決議するのもすべて夜にします。反面、民主世界では昼にします。そして、共産主義者たちは地下で謀議をします。ですから、このような運動を世界化させて全世界を魔鬼化しようとする集団が共産党であり、神様が主管なさらなければならない世界を身代わりし、治めてみようとして現れた悪魔の集団が共産党なので、神様の頭痛の種であろうというのです。(一九八一・四・二六)

4 唯物論の正体

 今、神様とサタンが人間を介して戦っています。皆さん、聖書を見ると、サタンは空中の権を手にした者であると言いました。また、この世の君がサタンであると言いました。ですから、神様はサタンが手にした空中の権と地上の権を奪ってこなければならないのです。

 それが第一次世界大戦前まで、すなわち世界的な問題を中心としてサタンが天と戦う世界時代までは、霊的世界を天が占領してきたのです。このように天が霊的世界を占領したので、サタンは地上世界に降りてきたのです。世界的な霊的世界を奪われたサタンは、世界的な地上に向かって降りてきたので、世界を糾合して天の世界に反対するようにするのです。これは何ですか。霊界を代表した世界的なキリスト教文化圏とサタン文化圏の戦いが起こるのです。お互いに戦うようになっているというのです。

 霊的世界でもキリスト教文化圏を中心としてサタンと戦って出てくるのです。それと同様に地上で戦う場合においても、霊的な神様とキリスト教国家が合わさり、サタンとキリスト教に反対する国家が合わさって世界的な戦いが起きたのです。

 そうならば、サタンはこの世界が自己の主管圏内にいるために世界中の人々の中で一番の知識層、一番の上流階級の人たちを糾合して神様に反対するのです。それが第一次世界大戦までの戦いでした。世界を掌握した上流階級層がサタン世界を動員して神側を打つ時なのです。人に例えて言えば、サタンが最高の頭の部分を動員して天に反対した時なのです。それが、第一次世界大戦です。

 その次に、サタンはそれを奪われるので、上流階級から中流階級へ入っていくのです。追われて降りてきたのです。人間で言うならば、首の時代は過ぎていき、腕の時代、すなわち、力の時代に入ってきたのです。力をもって世界を一度掌握し、神様に対抗するぞと言うのです。それが、中流階級に該当する軍閥時代です。力をもって世界を掌握するために、力がなければならないのです。これが第二次世界大戦です。ですから、サタンは中流階級まで追われて降りてきたのです。人間で言えば、腰以上を全部天が奪ったのと同じなのです。

 それで、サタンが追われて下がっていき、今は行くところがないので一番下、足の時代に向かう時が来たのです。これが、サタン世界の最後の足場である労働者、農民の時代だというのです。

 共産主義は労働者と農民を中心にしたものです。足の裏だというのです。下部、下級階級、労働者、農民を中心にして糾合するのです。今、サタンは下部構造にまで下がってきたので、ここから追い出される日には自分が行く所がないのです。自分が行く所がなく、人類に侍られることもなくなるので、神様も侍られなくするために「神様はいない、神はいない」と言うのです。それがサタンの主義なのです。

 それで、地の主義、唯物主義というのです。そして経済主義というのです。経済をもって世界を主管してみようというのです。マルクス主義は何かといえば経済哲学なのです。内的な神様、心の部分は全部除いてしまうのです。私だけが人類を所有するという主義なのです。このようなことを見る時、どれほど悪賢く狡猾なサタンであるかを皆さんは知らなければなりません。ですから、最後に残ったサタンの知恵の学問が共産主義であることを、皆さんが知らなければなりません。

 人間を立てて世界を制覇しようというのではなく、物質をもって世界を制覇しようというのです。人間よりも物質を上にする人々です。物質が祖先だから、物質の世界を認定しますが、人間の価値を認定しないのです。

 人間は神様を中心として成された内容をもってこそ価値があるのですが、それを全部否定するので、この世の中は物質だけが残った世界になりました。ですから、人間一人を消すことを家一件壊すよりも簡単にするのです。家を一件つぶすのか、人間を十人処分してしまうのかといえば、人間十人を処分してしまうのです。人を消すのは問題にもならないのです。この主義が今、世界を激しく揺さぶっているのです。

 上流、すなわち頭と胴体が責任を果たしたならば足は頭の支配を受け、胴体の支配を受けるようになるのですが、それらが全部責任をもつことができないので足だけ行き来して騒がしいのです。この民主世界が責任を果たして、首と胴体のような上流と中流階級が主と合わさったならば、正常的な人間の体をもって世界を一つにできたでしょうが、それができなかったために全部死んでしまったのと同様になっているのです。

 物質は被造物です。被造物である物質を愛する主義が世界を支配するのにそれほど執拗ならば、創造主のためにする民はどれほど執拗でなければならないのかを考えるべきです。被造物のための主義をもつソ連が被造物主義を中心としてその主権を愛することよりも、創造主を中心とする主義が創造主の主権を愛するにおいて何倍以上にもならなければいけないのです。それは、当然の道理です。

 土(物質)が人を造ったというのです。土(物質)が、人を造ったのです。しかし、人のために土ができたのです。これを正さなければ世界はサタン世界になってしまいますから、これを正すのが今日の我々統一教会の使命であることを知らなければなりません。ですから、皆さんがこのサタン世界だけ負かしておくならば、世界は我々の世界になるのです。これが、我々の統一主義です。

 ですから外的にサタンが支配するこの世界(霊肉世界)を天が奪って支配できてこそ、初めて理想世界が出現するということを知らなければなりません。分かりますか。(はい)。初めのサタン主権を抜け出さなくてはならないということを、皆さんは知らなければなりません。(五四―二四四)

 人間は今まで、土地を奪う戦い、人を奪う戦いをしてきました。唯物論は人の体を引いていこうとする理論です。そこには、心と永遠なる理念と天倫の大目的と共に同行できる心的な理念がありません。(一〇―一六二)

 この世界は人間のものです。しかし、唯物史観は経済史観を土台にしており、物質世界を価値視します。しかし、民主主義は人間それ自体を中心にします。共産主義はまず人を探さなければなりません。このような意味から民主主義は共産主義より一段階進んでいます。(一二―五四)

 皆さんも知っているように、共産主義の究極の目標は、無神論的唯物論の旗のもとに全世界を征服して共産党独裁をすることです。実際に、労働価値論、剰余価値論、弁証法的唯物論、歴史的唯物論のようなマルクス理論は真理とは正反対であり、暴力革命を正当化するために主張されたのです。(一九八三・一一・二五)

5 唯物論の代案

 無神論が何かというのです。神様はいないというものです。物質を中心とする唯物論と人本主義はそう言うのですから、それを批判すればいいでしょう。無神論は自己を中心としたことのほかには何もないのです。ローマのような国がなぜ滅びたのかというのです。それは創造原則において、神様の理想の原則、原因と結果の原則に一致しなかったためです。原因は何ですか。自己投入です。自己投入をして神様は何をしようとするのですか。愛を見いだそうとするのです。神様全体を投入しても神様に必要なものは愛なのです。より大きいもののために、自己を投入したのです。これが根本です。ローマのような国は世界を中心として理想的世界を願いながら、ローマを中心にしておいて、自己以上の投入をしなかったのです。対象的な世界に対して、自分を犠牲にして自分の国以上の投入をしなかったのです。ローマが犠牲となり、投入したならばどのようになっていましたか。全部ローマのようになったのです。ローマのようになるのです。

 ですから神観、唯心論とか唯物論の対決に対しては、根本をはっきり植えておいて一致して出ていけば、すべて終わるのです。(一六四―三一八)

 無神論と有神論を中心として、体制が神様はいないと言うようになれば、既にそれ自体が破壊です。それ自体が消耗なのです。愛の原動力の補給を受けられないのです。力が作用すれば作用するほど消耗するのです。共産主義者たちは共同所有を中心としてきましたが、なぜ共有が個人所有よりよくないのか、これが問題です。共有の立場のすべての所有権をもった党員たちが、個人を党の利益よりも重要視しなければならないのです。そうすればいいのです。分かりますか。党自体が願う利益を尊く思い尊重するのと同様に、党自体が個人を党自体よりも尊く考えることができなければなりません。

 それは何かと言えば、党の所有であると同時により高い個人所有なのです。そのような概念が立っていないのです。いつでも、個人は党のためにしなくてはならないというでしょう。党が個人のためにするという概念がないのです。それがサタンです。独裁体制というのです。それが理論的な独裁体制と何が違うのかというのです。何がサタン側ですか。それは、党を中心とした党絶対主義でしょう。党が個人のために家庭のためにという、より小さいもののために何かしてあげるという主義ではないのです。それがサタンです。違うというのです。ですから、個人を地獄に引いていこうとするのでしょう。個人が理想的授受作用の相対基盤をもつことができないので、すべて破壊分子、無価値の存在になるのです。ですから、地獄のほかには行くことができない、このように見るのです。何の話か分かりますか。(一六四―三二七)

 共産党は矛盾です。矛盾だというのです。労働者や農民を中心として独裁政権をつくらなければならないという、それは論理的矛盾です。そのような論理は理想的な論理となることはできないのです。理想は必ず授けて受けなければなりません。一人で理想を実現しますか。

 そうであるならば、神様は最高の理想主体なので、神様自体だけでいらっしゃってもよいだろうに、神様ご自身が被造世界を造ったのは相対理想圏の愛を追求するためだったのです。ですから、我々が愛の論理をこのような創造の起源から立てていかなければならないのです。違いますか。それはいかなる時でも除くことはできないのです。観と言えば、個人的観とか家庭的観とか、その骨と骨が連結しなければならないのです。ですから我々は愛の心情圏を中心としてすべて連結されなくてはなりません。東に住んでも、西で住んでもその方向は間違いないでしょう。

 物質をもってはできないのです。よい物があれば党がもとうとして、個人に与えないようにします。物質をもって、所有欲を中心としてはできません。愛でなければ不可能なのです。父母が主体になっていれば、愛を通してよい物を自分はもたないで子供のために与えようとするでしょう。自己を消耗して与えようとするでしょう。世の中にそのような愛がなくて、所有欲を中心としては、自分のものを第二人者に与えようと考えないというのです。子供を除いて、みんなそうではないですか。個人主義を中心としてサタン側に全部取り入れられるのです。ですから、そのような世界は愛を実現する場が既に全部破壊されているのです。ですから、個人主義とか所有欲はサタンに属するのです。

 愛を中心とした所有欲は物質ではありません。理想です。その理想のためにすべてのものを犠牲にできるのです。我々人間が必要な生活面、すべてのものを犠牲にできるのです。私の生命までも犠牲にできるのです。ですから、その次元が違うのです。次元が違うためにそれ以下の人間生活は問題にならないのです。どんなに犠牲になってもです。しかし、個人を中心とした個人主義の所有観念はそうではないのです。その次元の高い段階に上がることができないのです。(一六四―三二八)

 皆さんも共産主義を知っていますが、共産主義理念とは物質を中心とした思想です。神様を中心とした思想ではないのです。物質を中心とした思想なのです。また民主主義は何かと言えば、人間を中心とした主義です。それでは本来のアダム主義は何ですか。それは真なる愛の道、真の愛だけもつならばすべてのことが全部解決するというのです。では真の愛主義はどこから出発しますか。それは神様からです。では人間が願う理想の境地がどのようなものかと問う時、ご飯を食べて楽に暮らす世界ではありません。真の愛主義の世界であるというのです。(一九七九・三・二八)




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