神様の摂理から見た
  南北統一

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三.唯物弁証法の解説と代案

1 ヘーゲルの根本的な過ち

 ヘーゲルの弁証法は間違っています。ヘーゲルの弁証法に出てくる「闘争」という概念をどこから引用したのか分かりますか。人間の心の奥に深く入ってみれば、良心と肉心が戦っています。それでヘーゲルは闘争が元来からあるように考えたのです。神様が創造した世界それ自体に闘争があると曲解しました。これは、人間が堕落したという根本的な事実を知らなかったためです。人間の本心を深く調べてみれば、相反する二つの心が対立していることを知ることができますが、そのような二つの心、すなわち良心と肉心が互いに対応しながら歴史が発展してきたと見たのです。ヘーゲルが「堕落」を考えられなかったことが根本的な過ちです。

 堕落した結果として現れた人間自体を分析してみれば、人間は相反する二種類の性質によって結合しています。そのために、神様が人間をこのように相反する二種類の性質をもった存在として創造したことが原則であると考え、宇宙もそのようにでき上がったという理論を立てるようになりました。共産主義思想はすべての事物を弁証法的理論によって分析して、歴史の発展も弁証法によって理解するのです。現実世界の一切を上部構造と下部構造に分けて、これらが互いに闘争しながら歴史が発展するという戦闘的な理論を展開しています。ですから、発展するためには以前のことを破壊しなければならないという理論が出てくるようになったのです。

 元来ヘーゲルの弁証法は現在の人間を堕落していない立場で考えました。しかし事実は正反対です。人間が堕落したことによって良心と肉心の対立と闘争が始まったのです。元来創造本然の人間の内部には矛盾性はなかったのです。そのような面から見る時、我々には本然の基準に一致する現実的な運動が絶対必要なのです。ヘーゲルは「生活の場」が矛盾を懐胎していると見ました。それが日常のことにすべて適応して、宗教は異常なものであると考えたのです。しかし、ヘーゲルの考えと彼が立てた理論は根本的に間違っています。堕落した結果の人間を中心として、それが創造本然の人間であるとして考えた点が間違いであったのです。ですから我々がここにおいて強調しなくてはならないことは、人間は堕落したという観念を早く宣布することです。

 我々人間は自体の内で良心と肉心が互いに争っています。その二個の力の拡大が民主主義世界と共産主義世界、唯心と唯物の二つの世界に分立して現れています。今その結実の収穫期に向かって前進することが末世の時代思潮の現象です。

 このような観点から、我々の統一思想はどのようにしなければならないのでしょうか。本来から出発点が間違っていたので、我々は一次元高い根源へと帰っていかなければなりません。一次元高い根源的な立場での人間はどのような姿ですか。これは良心と肉心が戦っている人間の姿ではなく、良心と肉心が一致している人間なのです。絶対的な一致、永遠なる一致という基準から見る時、霊界と地上と一体とならなければならないのです。(一九八三・五・一三)

 まだ我々はみんな偽者です。見てみなさい。なぜ偽者かというのです。心と体が一つになれずにあえいでいるではないですか。それが何の本物ですか。二つが戦っているのに本物ですか。本物と言うことができますか。(できません)。このような人間自体を見て弁証法という矛盾した論理が見いだされたのです。人間自体の闘争からすべて見つけ出したのです。ヘーゲルのような人たちのことを言っているのです。(八五―一〇三)

 今日一般の哲学者たちが堕落という観念を知らずに人間の心を開いてみたので、「そのようなものである」として、弁証法とか何だとか全部このように出てくるのです。闘争が起源であるということもすべて一理あることのようですが……。堕落したその立場から見る時のことですが、人の心をじっと探して入っていくとまさに闘争しているのです。堕落した結果から見ればまさにそのように見えるのです。(一九七八・三・二六)

2 作用の原則から見た弁証法の誤謬

 共産主義者が言うのですが、大宇宙には力があってすべてのものが発展するというのです。環境世界を認定してから論理の出発をしているのです。一つの存在が存在するためには、存在するための環境をもたなければなりません。水、土、空気がなければならないのです。これは環境の絶対要件です。

 彼らの論法によれば、進化させる環境はどこからでしょうか。そのようなものがある道理がないのです。それは矛盾です。「進化できる環境の基準はどこからか」。「自然に」。「自然にと言うならばどのような方法で?」。「力によって」。「力はどこから生じるのか」。力は一人では生じないのです。力が存在する前に相対基準があるのです。科学的現象においても、目的に連結する相対基準がなければ作用できないのです。運動が生じません。

 それならば力が存在する前に何が必要ですか。力が存在するためには相対基準がなくてはなりません。相対基準を認定するためには主体と客体の観念がなくてはなりません。主体と客体、プラスとマイナスが授受するためには共同目的の基準がなくてはなりません。ですから作用とか力の現象は、力の共通目的において生じるほかないのです。そうであるならば、共産党がいう弁証法は崩れてしまうのです。

 正というものと反対になるものがあり、それらが闘争して合体していくというのです。正というものと反対になるもの、それらは二個の違う観念として全く違うものです。違う目的圏です。互いに違う目的圏が一致することができるのでしょうか。正というものと反対になるものがあるということではなく、反対のものがあり、そこに正が生じるための闘争過程があるというのです。相対作用は共同目的圏内に限って作用するのです。絶対に、マイナスとなり損害となるところには作用しないのです。共同目的を完遂する圏内において互いに引っ張り合いながら作用するのであり、これを見てみるならば、共産主義の弁証法は根本的に間違いであることが分かります。(一五―一五六)

 すべてのものは相対的に存在しています。相対が定められれば目的観は自動的に出てきます。その目的は、二つを合わせたものよりももっと大きい価値をもつのです。ですから二つが合わさることは互いに矛盾対立して合わさるのではなく、共同の目的達成のために互いに合わさるのです。

 これが統一教会の理念の根本を成しています。ですからこのような根拠をもって弁証法さえ覆しておけば、共産主義の唯物史観とか経済理論などマルクスのすべての理論はみんな覆されるようになっています。(一九―二九九)

 共産主義とは何ですか。これがないというのです。主体も認定しないし、対象も認定しないのです。方向性もありません。目的性もないというのです。この中のどれか一つを認定すれば全部壊れていってしまうのです。ここでは主体と対象の関係を闘争として見ています。

戦って一つになると言うのです。世の中にそのような法がどこにありますか。そのようなことがあり得ますか。女性と男性と戦って一つになる、心と体が戦って一つになると言うのです。彼らはまた主体と対象においても、「物質が先であり心が先ではない。心は物質による派生物である」と言います。何ですか! 全く逆さまです。逆さまにひっくり返してしまいました。このサタン! 「方向は闘争である」と言いながら、闘争の方向を取っています。平和の方向ではありません。「統一は血を見なければならない。血を見て統一だ」と言うのです。これは歴史発展の原則にも、宇宙存在原則にも違反しているのです。(一九八〇・六・二二)

 力は必ず主体と対象が互いに授け受けするところから出てくるのです。しかし、主体と対象がいるとしても互いに損害となる時には授け受けしません。首を切るとしても授け受けしません。例を挙げて言えば、思春期になった処女と青年が恋愛する時は、男性も女性を対象にしたく、女性も男性を対象にしたがらなくてはなりません。すなわち、互いが出会って私もよく、あなたもよくなければならないのです。自己にプラスとなるものを発見しないでは、絶対に自己のものを与えません。与えるのが嫌なのです。あの人と暮らせば私が利益になる、すなわち損害とならずにプラスとなるという与件を発見すれば、授け受けしようとするのです。

 そうですが、当初それに対してみて、初めの日からマイナスだという時は対そうとしますか。絶対に対そうとしません。主体と対象はお互いの目的を中心として見てみても、自己一人で願う目的よりもプラスとなることのできる内容を相対から見つけられなければ授け受けしようとしません。言い換えれば、好ましい結果が現れなければ授け受けしないのです。

 好ましいとはどういうことですか。プラスとなるということです。悪いとはどういうことですか。ひっきりなしに取っていって、全部なくなってマイナスになるのです。良いとはプラスとなり盛んになるものであり、悪いとはマイナスとなり滅びるものです。ですからマイナスとなるところにはどんなに主体と対象の因縁があるとしても、どんなに強力な力を加えてみても授け受ける力が出てこないのです。力が生じることができないのです。そうでしょう? そうですか、違いますか。

 このような点から見る時、共産主義の弁証法はこれが分からない論理なのです。力の対決を認定するためには主体と対象の関係を結ばなくてはなりません。これが先決要件です。皆さんが化学実験をする時、元素のイオン化傾向を見ても元素が無条件に作用しないことが分かります。しかし元素が目的とする結果により好ましく、もっとプラスになることのできる要素が少しでも備わればいっぺんに作用するのです。もしマイナスとなる要素が少しでも入っていって、自己自体に侵害を受けるようになる時には絶対に作用しません。この宇宙は自己自ら保護作用をするのです。これが原則です。科学的な原則であるというのです。分かりますか。(四一―一八三)

 今日世界的に問題になっている、共産主義者たちが重要視する哲学、弁証法はとても大きな問題になるのです。ですから目的観念をもたない存在はないのであり、より素晴らしい目的を追求しないところには発展がないのです。人間を見てみれば、我々人間は結果的な存在です。何かの原因があって存在しています。(五三―一〇五)

3 共産主義の闘争観念

 共産主義思想の内容である弁証法を見るならば、それは矛盾と闘争の原理を提供するのです。必ず存在するものは矛盾過程を中心として上下、上部構造、下部構造に分別されるのです。上部構造と下部構造は一体化することができず、上部構造は下部構造を搾取するというのです。そこには愛の概念がありません。闘争の概念だけです。

 彼らが追求するものは何ですか。ユートピア、理想とは何ですか。闘争の過程によってもたらされる平和の世界です。その平和の世界は今日民主世界でいう平和とは違います。平和に違背するすべての者を粛清します。反動分子であるというのです。ですから反動分子の首を全部切ってしまい、反動分子がいないようにしたその世界を(彼らは)平和と言うのです。違うのです。

 今日ソ連が平和を主張しますが、その平和はマルクス・レーニン主義を中心としてそこに違背するすべての反動分子たちを粛清してしまい、そこに支持しない分子がいる立場で一つになった平和の境地を言うのではありません。全部首を切って粛清してしまって、反動分子のいない立場でマルクス主義一辺倒の立場に立った、そのような反対する群れがいない境地を言うのです。そのような平和のことを言うのです。違うのです。

 民主世界の平和は、左右が共に一つになることのできる概念を言います。根本的に違うのです。左右が一つになり、和合して理想的な動きを備えるその境地を民主世界では平和であると言うのです。そこには粛清の概念がありません。包括的概念があり観念的概念はありますが、粛清の概念や破壊的概念がないというのです。ですからこの共産主義は人類が受け入れることができない主義なので、我々のような人は世界的にその先端の旗手となって戦っているのです。そこでは愛、家庭までも、父母までも搾取の元凶であると言うのです。子供は父母の立場を自己の利益のために活用する存在として、搾取的な母体と見るのです。そこには愛を話すことができません。そこに真が存在できるのかと言うのです。(一六八―一六四)

 今日共産世界について言えば、「世界を全部制覇しなければならない」、このように言ってそこに反対するものは全部首を切り、粛清をしたでしょう。自己の同僚もお構いなく、父母もお構いなくみんな粛清したのです。しかし、そこに行ってみると、これでもなかったというのです。また、出掛けなければならないというのです。人を虐殺して成したものを見れば、そうできるでしょうか。親友も見忘れ、父母も見忘れ、みんな見忘れるのです。「ただ党だけがある!」。やせっぽちの党だけです。見れば見るほど恐ろしく、見れば見るほど冷徹であり、見れば見るほど情が離れていく党だけが「第一である!」と、こう言っているのです。

 皆さんの心と体が溶けて入っていって「ああーいい」と、こう言える所になることはできないのです。そのようですか。間違いなく行っては、走って出てくるのです。みんな走って出てきます。弁証法を中心とした変わる論理体裁をもったために、そこには永遠に住むことができません。その理論は永遠なる、高次的な何かを見つけることはできないことを知らなければなりません。そこには理想がありません。(九一―一四五)

4 闘争理論の矛盾

 今、世界は民主世界と共産世界の二つになっていますね。どちらが本物ですか。お互いに本物であると言うでしょう。では誰が、本物であると公認しなければなりませんか。歴史が公認をしなければならないのです。

 共産主義理論で言えば、歴史が公認しなければならないという言葉は成立しません。弁証法的論理によれば、歴史は闘争によって発展すると言うので伝統がありません。ですから、伝統破壊の魁首がサタンです。サタンが破壊の先導者です。千年万年の歴史を立てることができないのです。理論体裁が間違ったために、歴史的弁護を受けられません。それは何かと言えば、変わらない原理、原則の真理による伝統的歴史背景がないということです。それならばいつ、彼らが語るユートピア世界、真理に立脚した変わらない歴史的伝統基盤を共産世界が築くのでしょうか。彼らは、社会主義社会を経て共産主義社会になっていくと言います。共産主義社会、それが終わりとなるのでしょうか。矛盾した論理をもって世界をどのようにするというのですか。(一六八―九六)

 唯物論の弁証法には闘争概念が入っています。矛盾を中心として、それを克服するところから闘争概念が出てくるのです。しかし、理想的な世界を成すところにおいて、結論は、闘争概念ではない投入概念にあります。すなわち、主体となるものが投入しなくてはならないのです。投入すればどのようになりますか。十くらい高かったものが自己を投入すれば、自己は下がってきますが相対は上がっていくのです。(一六四―三二一)

 ここの大学生は、「ああ、意識革命がなされなくてはならない。悪なるものは滅ぼし、善なるものは残らなければならない」と言いますが、それは正しいのです。では、共産党が善ですか。弁証法的唯物論の核心は闘争なのです。闘争して栄えることがありますか。そのような論理が正しいですか。男性と女性が愛することが闘争ですか。男性と女性は愛によって一つになるのであって、闘争によって一つになりますか。二大矛盾的存在が男性と女性であると言うのですが、これらが和合によって一つになることは何と言うのですか。このようなでたらめな人々がいるので、世の中がだめになっていくのです。(一六四―八一)

 弁証法、それはこっけいなものです。二つが対立して、戦って一つになると言うのです。それは、女性と男性が毎日のようにけんかして、あさっての朝にはもっと発展するという論法です。(笑い)そのようなことがあり得ますか。とんでもないことです。戦えば互いに損害を受け、後退するようになるのです。世の中に、歴史的に戦いをして富強となった国を見ましたか。皆さんはそれを知らなくてはなりません。(五五―二五七)

 弁証法論理は闘争概念です。不平から始まるのです。サタンが神様のみ旨を破綻させながら理論的な拠り所をもって現れて世界舞台を混乱させるこの時に、その裂け目に挟まれて染まってはいけないのです。(一六一―二〇三)

 共産主義の闘争概念は何ですか。上部構造と下部構造、上下、前後の二組に分けて戦うようにして、お互いを弱体化させてのみ下そうとする主義です。しかし愛によって絡み合えば、誰がのみ下しますか。歴史時代で第一イスラエルが滅び、第二イスラエルが滅んだ事実を我々が直視している以上、第三イスラエル圏を中心として我々が行かなければならない道は万教の統一であり、万国統一の思想をもって行く道です。こぶしと力でするのではありません。愛をもって、十年、二十年、千年、万年、溶かし切るのです。(一六八―三二九)

 このめちゃくちゃな結果をもってどんなにしたとしても、問題は既に解決できない段階に越えてしまっているのです。ですから世界の人々は、今人間がなぜこのようになったのかという問題を知らなければなりません。今日、宗教では漠然と堕落してこのようになったと言いますが、具体的な内容を提示できないために、歴史は混乱の渦中で没落しているのです。

 そのような観点から、我々統一教会はこの歴史を見る時どのように見るのでしょうか。

 闘争歴史は闘争歴史ですが、善悪が交替する闘争歴史である、このように見ているのです。それが違います。これがだんだん世界的な戦争になっていけばいくほど、そこに対して悪なるものと善なるものが互いに戦って、悪なるものは除去され善なる世界へと移っていくというのが我々統一教会の歴史観です。(八六―二九二)

 父母の心に発展と革命が必要ですか。どうですか。動物も子供を愛するすべを知っているでしょう。(はい)。マルクス、レーニン、あるいはヘーゲルの弁証法論理を適用して、「変遷するだろう」と言う時、そこに適用できますか。適用できません。復帰は弁証法に適用できません。発展をしないのです。発展しません。発展する世界、共産主義世界へと戻っていくという言葉は全く間違った言葉です。それはみんな荒唐無稽な論理です。発展しないで、出発から変わらない過程を経て変わらない終着点まで連結し一つに統一できるその何か、そのような愛の世界でなければ、一つの世界を成すことはできないのです。理論をもってしてはできないのです。理論をもってできるのでしたら、私は既に共産党たちをみんな打ち負かしてしまったでしょう。十代の少年時代から共産党と闘争した経歴をもっているので、今日、世界的な反共の宗主となったのです。(八三―一九〇)

 宗教がいつまで必要なのでしょうか。この矛盾したものを清算し、神様と人が一つになって理想郷に到達する時まで必要なのです。ですから完全な、完成した神様の人が顕現するようになる時は、宗教は必要ないのです。さあ、我々自体が矛盾したこの環境から希望の理想郷を憧憬していますが、宗教という枠を通してこそそこへ行くことのできる道がある、理想に到達する可能性があるというのです。これは理論的に合っているのです。

 けれども、矛盾した人間が飛躍とか闘争とか言って理想世界を実現するという、このような論理は不可能なものであるとの結論が下されるのです。今日、弁証法という論理だとか共産主義理論をもっては不可能なのです。そうできるパターンの基準がないのです。これは基準を無視するものです。基準がないのです。彼らは、物質が精神より先にあると言うのですが、それは、肉の固まりである体が完全であるということです。我々自体を見る時、体が心よりも完全ですか。(いいえ)。体は限定圏内にあり、心は無限定圏内にあるのです。ですから、どちらが大きいかと言えば心が大きいでしょう。体が大きいのではないのです。

 このように分析して、今日、共産主義と民主世界の両体制を見る時、それでも、唯心体制を中心として宗教形態を経ていく道を通して理想の実現が可能であるということに、理論的妥当性がよりあるというのです。レバレンド・ムーンという人はどのような人ですか。このような問題の渦中で誰よりも苦心した人なのです。(九四―二八一)

 千年、万年過ぎても変わらないその基準をどのように立てておくのでしょうか。

 億万年後の人たちが過去の一つの絶対的な基準を中心としてすべての精誠を尽くし、死力を尽くしてもそこに届くのには不足であると言うことができ、そうでありながら、絶対的にもたなくてはならないという信念に徹することのできるよりどころの上に立った主義ならば、その主義を中心として世界は自動的に統一されるのです。

 このような点から見れば、共産主義の唯物弁証法を中心とした現象世界では絶対に統一はあり得ません。闘争を通して統一をするということ自体が論理的な矛盾なのです。彼らは未来に望みをもって統一を追求していますが、そのような方法によっては統一した世界を成すことはできません。(二五―一四六)

5 弁証法によって説明できないもの

 真の愛とは何ですか。変わるものでしょうか、変わらないものでしょうか。(変わらないものです)。では、この愛を中心として、何とかこの世の中で変わらない愛の種類を一度探してみましょう。何ですか。夫婦だけで愛することですか。(違います)。では、父母が子供を愛することですか。どちらが変わりませんか。(父母の愛です)。

 さあ、父母の愛ですが、子供が父母を愛する愛と、父母が子供を愛する愛とどちらがより変わらないものですか。(父母の子供への愛です)。父母が子供に対する愛はこの世の中の愛がみんな変わっても変わらないでいるという事実を、我々は歴史を通して知ることができます。

 では、ここで問題となるものは何ですか。今日、共産主義が弁証法によって、父母が子供を愛するそのような考え、あるいはそのような愛の力を説明することができるのかというのです。それが問題です。できますか、できませんか。(できません)。絶対にできないのです。絶対にできません。

 例を挙げれば、共産党の最高幹部の息子が共産党法に引っ掛かって死刑場に出て、死んでいく時、そのお母さん、お父さんの心はどうでしょうか。「えい、この野郎、死ね。さっさと死ね」と、こうでしょうか。「ああ、共産党だろうと何だろうと全部ほうり出しても、この父母の愛を中心とした子供を助けたい」という心があるでしょうか、ないでしょうか。どちらの心が先立つでしょうか。死ねという心が先立ちますか、許してあげて同情する心が先立ちますか。どちらの心が先立ちますか。共産主義理論、弁証法論理を教えているその教授たちはどうでしょうか。同じですか、同じでないでしょうか。同じなのです。

 では、労働者や農民の息子、娘が死のうと刑場に出ていく時はどうでしょうか。それは違うのでしょうか。それは違いますか。

 それは自然の現象です。犬も自分の子供たちのためには死ぬ場に行くのです。動物もそうなのです。それを革命できますか。共産主義理論がそれを変更させることができますか。それが通じますか。(いいえ)。このような真の愛、本然の愛は、共産主義とか民主主義とか、その他の何かをもってしても革命できないのです。革命できないのです。変更できないというのが結論です。分かりますか。間違いなく認定しますか。理論的に認定しますか。

 では、その父母の愛はなぜそうなのでしょうか。なぜ、そのような愛が人間の世の中に残っているのかというのです。その愛がどこから出てきたのですか。その父母の愛を、生まれる時からもって来たのでしょうか。どのような動機の結果でしょうか。原因がどこにあるのかというのです。その愛を私がもたなければならないと考えてそのようになるのでしょうか、自分も知らない動機の結果でしょうか。動機的な立場でしょうか、結果的な立場でしょうか。それはどのようなものが起源ですか。(神様です)。結局は皆さんの先祖に上っていって始めの根源に何かがあった、その名前が神様としても、そのような本体があったという事実がここで分かるようになります。それを知らなければなりません。

 人間は結果的存在であり、原因的存在ではありません。結果がそうであるということは、原因と結果は同じでなければならないために、原因と一つにならなければならないのです。同じ模様として似ているために、結果がそうであるならば原因がそうなのです。それは理論的なのです。原因がないのに結果がそうであるならば、それは妄想的です。この言葉は至極科学的です。(九一―二二〇)

 父子関係の愛、それは善いですか、悪いですか。(善いです)。世の中にどんなに革命と変遷があるとしても、今まで弁証法的変化によって発展するという論理がいくら膨張していたとしても、父母が子供を愛する心を革命する力はありません。ありますか、ありませんか。(ありません)。鳥たちが自分の雛を愛することを革命できますか。(できません)。それは変わることができるでしょうか。(できません)。絶対的です。千年前でも万年前でも同じなのです。(八五―三三二)

 共産主義はすべてのものが闘争の概念を中心として発展すると主張します。それならば、鮭が出会う場合も、そのように生きてもっと発展しなければならないはずですが、その場所を探していくのがどのくらい大変でしょうか。探してきて、さらに子を産んで死にます。それはなぜ死ぬのかというのです。(一九八七・一〇・三一)

 永遠に変わらず絶対的なもの、良いもの、すべてのものが吸収され、すべてのものが和することのできる良いもの、それが何ですか。(神様)。そうですが、神様がいらっしゃるならばその変わらない中心体、その変わらない中心体の心をもってもだめなのです。そこには愛がなくてはなりません。愛を探さなくてはなりません。

 共産党にも尋ねてみると、愛は永遠であることを願い、愛は全体的であることを願っているのです。そのようなことも言っているのです。同じなのです。

 ですから、弁証法的哲学理想が人間に幸福をもたらすことはできず、変わらない愛の哲学理想が人間に幸福をもたらすことができるという結論は、理論的結論です。何の話か分かりますか。それは誰も不平を言う人がいません。王も好み、労働者も好みます。階級を超越するのです。階級が存在できません。階級が存在することができないということを知らなければなりません。(九一―一四六)




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