神様の摂理から見た
  南北統一

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第六節 統一理念としての頭翼思想

一.神の実存

1 序言

 神様がいるのかいないのかという問題は、二十世紀後半の世界すべての人々の悩みです。大多数の人々は神様がいないと主張します。そのために、人本主義を主とした黄金万能を叫び、物本主義を叫ぶ共産主義体制の下に世界の半分が落ちてしまいました。

 神様を確実に分からなければなりません。この時間、私が話した言葉を忘れないでください。間違いなく、神様は生きていらっしゃいます。(一九八一・四・二六)

 人類が堕落しなかったならば、神様がいるのかいないのかということを問う必要もありません。それは本心によって分かるのです。言い換えれば、人類始祖が堕落しないで善の父母としてこの宇宙に登場して家庭を成し、その家庭が繁殖してこの世界人類になったならば、今日、人類が神様がいるとかいないとか言って口論する必要がないのです。血筋が連結しているために、いっぺんに体でも分かるのです。一つの木と同様に、そこには説明が必要ありません。説明を通して神様が分かるように造ったのであるならば、神様は創造を間違ったのです。

 本来、人間には説明が必要ないのです。説明の過程を越えて自然に過ぎていくことのできる位置で出発しなければならない人間が堕落することによって、神様と隔離した位置で出発し、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界的に広がってきたために、神様がいるのかいないのかということを論議する、このような世界になったのです。

 人類が堕落しないで本性の善なる父母を通して生まれたとしたなら、神様がいるのかいないのかという弁論を必要としないのです。生まれれば自然に分かるのです。赤ちゃんがおなかの中で、おっぱいを飲む方法を習ってから生まれますか。

 生まれるや否や、目の前にお乳があればしゃぶるようになっているのです。自動的に分かるようになっているのです。人類が堕落しなかったならば、神様と人間との関係を自動的に分かり、自動的に解決して、自動的に行かなければならない立場であることが分かったのです。しかし堕落することによって、みんな忘却してしまいました。それで、神様がいるのかいないのかを論じて疑うという結果の世界になったのです。これは悲惨なことです。(二〇―三〇六)

 地球上において一番大きな事件が起きたのですが、その事件がまさに共産主義の出現です。これがなぜ大きな事件なのでしょうか。厳然と生きている神様を「死んだ」と言うからです。言い換えれば、共産主義は神様が厳然と生きていらっしゃるにもかかわらず「いない」と言うのです。罪の中で一番大きな罪が何かと言えば、明らかに存在するにもかかわらず存在しないと言うことです。目が黒々として生きているのに、その人が死んだと言えば、怨讐の中の怨讐になるのです。自己の父母が生きているのに、父母が死んだと言えば、それ以上の親不孝はないのです。(二二―一七六)

 私は早くから、すべての宗教の骨髄まで深く体験した人です。すべての宗教が第一番に掲げている絶対者である神の実在の可否、これは我々人間にとって最も重要な問題です。

 神様がいますか。絶対的価値として存在する神様の実在の可否は、有限であり相対的存在である人間において、人間の存在価値を端的に決定してくれます。ですから、我々はこの問題を確実に解決しなければなりません。歴史上に来ては逝った数多くの聖賢や哲学者、宗教家たちの中の誰も、この問題を人類の前に説明してあげることができませんでした。今日、人類は神様がいないと主張する共産主義の挑戦の前にお手上げですが、問い詰めてみればそれに対する原因も、神様の問題を民主世界が解決していないためです。のみならず、今世紀の世紀末的な諸般の現象も、今日の宗教が神様の問題を解決できないために起こるのです。(一九八一・四・二五)

 この世界には多くの人間が住んでいます。今日において、この世界問題は他人の問題ではなく、我々の直接的な問題の時代へと入ってきたことが分かります。今、民主世界とか共産世界とかどの世界に限らず、一つの世界を願い、平和の世界を願うことは同様ですが、その一つの平和の世界を成すためには、人間だけでは不可能な時代に来たことを、我々は感じるようになるのです。人間の力、人間の知恵、人間の文化、そのどれをもっても真正な意味の平和の世界や一つの統一された世界を願うことができない時点に置かれていることを、我々は分かるようになります。

 このような立場から見る時、世界問題を解決することにおいて一番中心の問題が何ですか。神様がいるのかいないのかという問題を確実に解明することが、何よりも重要な問題であると見るのです。もし、神様がいるということを全人類が分かる日には、神様のみ旨がどのようなところを指向するのかということを確実に分かるようになるのであり、その指向するみ旨を分かるようになる時には、その世界はそれこそ一つの世界であり、平和の世界であり、理想の世界にならざるを得ないのです。

 神様がいるということだけが分かる日には、共産世界においても民主世界においても、すべての問題は解決するのです。神様がいらっしゃることが分かって、その神様のみ旨が分かる日には、人類が神様と共にそのみ旨に従っていくまいとしてもいかざるを得ないのです。それは当然のことです。

 今までこの地上に数多くの宗教がありましたが、果然、神様が確実にいるのかいないのかという問題の解答を提示できなかったのです。そのような問題を中心として、我々がこの根本問題を解明して解決できる鍵が神様です。神様がいるのかという問題は、今まで人間が究明してきた哲学的な問題であり、宗教が今まで追求してきた問題でした。ですから、我々は漠然とした位置で神様を追求することよりも、実質的な問題を取り扱う位置で神様を取り扱わなければならないと見るのです。(五六―一三一)

 統一教会はこの絶望の限界点であえいでいる世界の群像を前にして、何をするのでしょうか。統一教会が世界人類の前に提示しなければならないことは、神様がいるのかという問題です。(三三―二二六)

2 神様の実存証明

 我々が勝共活動をするにおいて、一番重要なことは神様の実存を証明して見せることです。勝共活動をしなければならないという確固とした決心も必要ですが、何よりも神様を否定する共産主義者たちに、神様の実存を証明してあげなければなりません。また、我々自身も神様がいらっしゃるということを確実に感じなければ、共産主義に勝つことができるという信念が生じないのです。
 神様がいらっしゃるということを話すために、私がおもしろい例を一つ挙げてみます。まず、皆さんに一つ質問しますが、皆さんは皆さんの体の中で何を一番愛していますか。心は見えないのでさておいて、見える体の中で何を一番愛していますか。これはおもしろい質問でしょう。

 ある人は自分の耳を「福耳」だと言って愛するかと思えば、ある人は自己の鼻を「福鼻」だと言って愛したりもします。また、自分の目は「鳳凰目」なのでこうだああだと言いながら喜ぶ人もいるなど、ありとあらゆる人がいるのです。

 やはり、我々の体の中で一番重要なものは顔です。それで人々は普通、体を見て「整っている」とか「不細工だ」と言わないで、顔を見て「整っている」あるいは「不細工だ」と言いませんか。それは、顔が一番重要であるためです。顔の中でも目が一番貴いのです。なぜそうかと言えば、ほかのものはみんな顔にくっついてしか動きませんが、この目は自ら回るのです。すなわち、目は四方性を備えて活動するのです。そして、すべての動物が生じてくるときにも目から生じます。おたまじゃくしができる時にもよく調べてみれば、一番最初に目が生じます。これは何を象徴するかと言えば、宇宙にはこの目のような中心存在が先在しているということなのです。ですから、我々の顔にある目は、神様を象徴するのです。

 鼻は人を象徴します。そして、鼻は人間のすべての器官の中で一番遅く発達します。赤ちゃんの時にはぺちゃんこでも、大きくなれば高くなります。十代を過ぎて高くなるのです。なぜそうかと言えば、神様が万物を創造される時に人間を一番後に造られ、人間が一番後に完成するように造られましたが、鼻がこのような人間を象徴するのです。ですから、鼻が一番後に完成するのです。人が息を吸い込む時に、初めは空気が二つの穴を通して入っていって、後で出会って一つの穴へと入っていきます。ここで二個の鼻の穴はおのおの男性と女性を象徴しますが、この鼻のように結局、男性と女性は一つにならなければならないということなのです。
 口はまた何を象徴するかと言えば、万物を象徴します。それで、人間の歯が三十二本ですが、これは四方八方(四×八=三十二)になっている全体の世界、すなわち宇宙万物を象徴するのです。

 では、耳はどうなっているのでしょうか。耳は東西南北の四方に通じるようになっています。このように見る時、身体のすべての器官の中で一番近く親しいものが顔であることが分かりました。それで毎朝、洗面をして鏡を見ますが、大部分の人たちは鏡を見る時、目がどうなっていて、鼻がどうなっているというふうに外観的な考えをします。しかし少しの間、そのような外観的な考えはしまっておいて、根本的な考え、特に目の根本について考えてみましょう。

 目は初めにできる時、太陽があることを知りませんでした。目をもった昆虫とか何かの動物の目の先祖に、「お前が初めに生まれてくる時、太陽があることを知って生まれてきたのか」と尋ねてみても、目は答えられないのです。このように目自体は、この地球上に太陽があることを知らずに生じてきたのです。

 また、まゆ毛を見る時、まゆ毛はなぜ生じましたか。私はこの世の中に空気がありちりがあるので、そのちりが目に入っていくのを防止するために、まゆ毛が生じたと見るのです。では、そのまゆ毛自体が始めに生じる時、空気の中にちりがあることを知っていたでしょうか。知っていたとは言えないのです。では、知らないで、どうしてまゆ毛が生じたのでしょうか。

 また、我々の眼には涙が出てくる涙腺がありますが、この涙腺が、太陽の輻射熱によって水分が蒸発するということを知っていましたか、知りませんでしたか。知らなかったのです。知らないのに、水道パイプが備えられているのと同じように、涙腺が生じたのです。もしこの涙腺がなければ、三十分以内に目全体が真っ赤になるのです。

 このように皆さんが毎日見る顔の中で、目一つだけ見ても神秘の王宮になっているのです。ところで、太陽があることを知らずに、目がその太陽に備えて生じたという事実は、偶然になったことではありません。また、空気の中にちりがあることを知らずに、そのちりを防ぐことができるまゆ毛が生じたということは、本当に驚くべき事実です。また、目がパチパチしても、目の乾燥を防ぐためのホース(涙腺)が付いているということは全く驚くべき事実です。

 今日、共産主義の科学者たちは、宇宙が自然に存在するものであると言っています。しかし、宇宙の至極小さい一部分もこのように科学的になっていることを見る時、自然にそのようになったと見ることはできません。百歩譲って、自然にそのようになったとしても、その「自然」は盲目的な「自然」ではありません。その自然は、方向性をもった、すなわち目的性をもった内容の結果なのです。このような結論を下すほかないのです。

 このように見る時、目が生じる前に太陽があるということを、誰かが知っていたことは間違いない事実です。また、まゆ毛が生じる前に、空気中にちりがあるということを誰かが知っていたに違いありません。誰も知らないのに、ひとりでにそのようになったと言うことはできないのです。

 そうであるならば、誰が分かっていましたか。人間の万能を叫ぶ皆さん、この目自体が知っていましたか。我々の耳とか鼻とか目が神秘の王宮となっていますが、進化論者たちの言うように、無秩序な理論である進化論によってこのようになったのですか。彼らは突然変異によって生物体が進化したと言いますが、それは彼らの進化論を主張するための方便的な論理にすぎないのです。このように進化論には矛盾が多いのです。

 これを知ることは深刻な問題です。私と私の目が知る前に、誰かがこの地上に太陽とちりがあるということを知っていたのです。言い換えれば、博物学的な知識をもって、それらに備えることができるように、私の目とまゆ毛を生じるようにしたということは否定できない事実なのです。では、その存在が誰でしょうか。

 このように見る時、神秘的な構造になっている人間をコントロールできる一つの主体がいるということは、至極当然な結論です。その存在を概念であると言ってもよく、思考であると言ってもよく、最近の哲学的な述語である思惟であると言ってもよいのです。そのような主体が、物質より高い次元の博物学的知識をもって人間を創造したために、人間が体系的な形態と構造的な連関性をもつようになったという事実を、否定することはできないのです。(一九八一・四・二六)

 存在するために生じるところには、目的なしに生じるということはないのです。目的がなくて生じることはあり得ないのです。方向はなぜあるのかと言えば、目的があるところに方向性があるのであり、目的のないところには方向性がないという結論が出るのです。皆さんはけさ、明け方にベルベディアに向かって来たのですが、なぜベルベディアに来たのでしょうか。「自然にその方向に行くのだ、行くのだ」、そうですか。先生のみ言を聞くという目的があったために、ベルベディアに訪ねて来ました。方向があるということは、目的があるためであるという、そのような結論を知らなければなりません。

 さあそれでは、アメーバに自己以上の力を投入させることのできる能力と、方向をもつことのできる能力、そして目的を提示する能力があったか、なかったかというのです。どうですか。(ないです)。それは不可能です。論理に合わないそのような考え方はやめなさいと言うのです。そうして、共産党が言うには、弁証法的発展とか何とか……。いい加減にしなさいと言うのです! 目的のないそのような方向性を提示する弁証法的論理は、真理であり得ないのです。目的感がなければ、これは完全になくなるのです。それを問うてみれば、みんな全く知らないのです。それで、それはそれ自体としてはできないために、これは何かが加入された存在であり、投入された存在なのです。このような問題が起きるのです。

 このような観点から見る時、このような動機的存在がいるという理論は妥当な理論であり、そのような理論を立てることは科学的であると言うことができるのです。では、科学的であるとはどういうことですか。仮設的なことが、現実的事実に合うようになる時、科学的であると言うのです。ところで、力がひとりでに現れると言うのはだめなのです。それは科学的ではありません。力が出ようとすれば、火をたくか、注射を打つかしてこそ出るのです。そうすればよいのです。私がこのようにしたところ、これはこのように行くというのです。磁石を南に回せば北に向かうのです。その方向性を誰がもっているのでしょうか。なぜそうなのですか。目的をもつ対象がそこにあるためにそうなるのです。それ自体がそうすることができますか。物質自体が、自然自体がそのような能動的な主体性をもつことができるのでしょうか。そうできないというのです。できません。科学的であるということは、理論に合わなければなりません。理論は仮説と証明と現実が一致しなければならないのです。同様の道理であるというのです。

 そのように見る時、神様はこの宇宙の原因的な存在であると言うことができるのです。このようなすべての作用の原因的な存在であり、このような力を加入する原因的な存在であり、方向を提示する原因的な存在であり、目的を提示する原因的な存在がいるということは、不可避の結論なのです。我々はその方を人格的な神様であると言うのです。人格的な神様です。それはなぜかと言えば、必ず動機を中心として方向をもって目的を提示するために、それが一つの確実な立場であるので、人格的な神様であると言うのです。ですから原因を通して方向を経て、目的の世界に出て行くのです。ですからそのような観点から見る時、このような全体の原因的な存在が神様であるというのです。

 宗教生活をなぜするのでしょうか。私より次元の高い力の投入があるためです。では、その方向はどこへ向かうのでしょうか。今日の堕落した世界ではなく、次元の高い理想的目的に向かうのです。そうではないですか。ですから、神様がいないというのは理論的根拠が成り立たないのです。原因と結果はいつでも一致するのです。そうでしょう。(はい)。過程が複雑であれば複雑であるほど、その原因と目的も複雑なものなので、より価値があるのです。幅が広くなるほど、その価値があるのです。(八九―七四)

 良心作用を見ても、神様がいないということはできないのです。神様はいるのです。神様が絶対的にいないという人は、絶対的に良心作用を否定しなければならないのです。それを絶対的に是認する限り、神様は絶対的にいます。ですから、神様がいることを我々は否定できないのです。(五六―一六六)

 「神様がいる、神様がいる」と言うのは、言葉だけではありません。原理を通して主体と対象の関係を中心として見る時に、神様は不可避的にいなくてはならないという立場ではありません。神様は私がいる前にいたのではないか、私が考える前にいたのではないか、私のすべての感覚、私の一切を主管する天ではないのかという立場です。それを認識することが何よりも重要な問題です。

 認識して知ることが原則ではないですか。知って認識することが原則ではなく、認識して知るようになっているのです。我々が寒ければ、寒いということを知って感じるのではなく、寒ければ寒いことを感じて知るのではありませんか。これと同様に神様がいらっしゃるならば、神様がいらっしゃることを皆さんが感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。言い換えれば、体恤的立場をどうやって我々が確定するかということ、これが問題であるというのです。(五八―二九一)

3 神様は見えてはいけない

 神様がいるのかいないのかという問題は複雑なのです。もし神様がいるとする時、すなわち神様が皆さんの目に見えて、誰でも見ることができ、誰でも会うことができるならば、気分がよいですか、悪いですか。(悪いです)。なぜ悪いのですか。神様は絶対者であり、唯一無二の存在者として一番てっぺんにいらっしゃいます。このような神様を人間は自分だけが一人占めしようとするので、もし、誰でも見ることができるようになればどうなりますか。

 このように見る時、万民の神様が今我々の中にいるならば、神様を好まない人がいると思いますか、いないと思いますか。(いません)。みんな好むのです。それでは、一人きりでいらっしゃる神様をみんなが好めば競争が起こりますか、起こりませんか。(起こります)。競争が起これば、こぶしの強い人が神様を一人占めしてしまうのです。(笑い)そのようになれば、やくざの頭目かレスリングのチャンピオンが、彼らだけの神様にしてしまうのです。それを考えてみたことがありますか。

 そして世界を見ても、アメリカは神様を好みますか、好みませんか。(好みます)。また、共産党国であるソ連も神様を好みますか、好みませんか。(好みます)。ですから、各国も神様取りの争奪戦を起こしますか、起こしませんか。(起こします)。原子爆弾をもって戦うのです。では、このような戦いを誰が防ぎますか。誰がこの戦いを防ぐのかというのです。

 見た目も麗しい神様が我々の目の前にいらっしゃるとするならば、その方を互いに手に入れるために戦うのです。この戦いは、今日のような戦争など問題にならないほどです。あまりにも熾烈な戦いが起こるのです。そのようなことを考えてみたのかと言うのです。継続して、神様を手に入れるための熾烈な戦争が起こるのです。

 神様も、そのようなことを考えられたでしょうか、考えられなかったでしょうか。(三九―一五四)

 神様が見えるのがうまくしたことですか、見えないのがうまくしたことですか。見えないのがうまくしたことです。もし神様が見えたならば、神様の本分を果たすことができるでしょうか。そのことを考えてみたことがありますか。何千年の間、人類はこの小さい地球をもって、互いにより多く手に入れようと国同士で打って奪う戦いをしたでしょう? さらに最近では、人まで奪おうとする戦いをしています。共和党とか何かの党であっても、互いに使いものになる人がいるならば、奪おうと戦いをするでしょう? そうでしょう? 

 天宙の大主宰であられる神様が人間の目に見えるようになるならば、その神様を互いに奪い取ろうとする戦いをしますか、しませんか。この戦いを防ぐ道理がないのです。神様が見えないのはうまくしたものです。もし神様が見えたならば、アメリカとソ連が互いに自分の神様であると言って戦うでしょうか、戦わないでしょうか。戦うのです。その戦いを誰が止めることができますか。神様は全知でいらっしゃるので、このような戦いがあるかもしれないと考えて、無形にしていらっしゃるのです。うまくなっていますか、なっていませんか。(うまくなっています)。神様が見えることを願うのは、ばかげた行為なのです。見えないのがうまくしたことなのです。

 心の中に神様が入ってきてくれれば、それを心が分かりますか、分かりませんか。間違いなく分かるのです。神様が心の中に入ってくるようになれば、壁も突き抜けて見ることができるのです。太平洋の海の中も突き抜けて見ることができるのです。そのような能力が人間自身にあるのです。(四一―二八七)

 ある人たちは神様がいないと否定するのですか。それは罰当たりの者たちです。そのような者がいてはだめなのです。それは共産党なのです。(七一―七七)

 将来は神様に対して疑心をもとうとしても疑心をもつことができません。全部分かるのです。どのようなことが起こるのでしょうか。神様がいないと言えば真空状態と同じなので、神様がいるという観念がさっと入ってきて、すぐに頭が痛く体が重くなるのです。(九〇―三二二)




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