神様の摂理から見た
  南北統一

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第三節 故郷復帰と聖殿復古運動

一.本郷はどのような所か

1 必ず行かなければならない所

 我々には行かなければならない所があります。そこは故郷です。故郷に行って父母に会わなければなりません。そして、父母の法度に従わなければなりません。父母がなすべき責任を私が代身し、その心情の因縁を連結させて、死亡圏の中にいる万民を生命の道に導いて、一つの氏族、民族、国家を形成して、太平天国をつくらなければなりません。

 この国が太平天国になりましたか。韓国を中心として万民と万国を、万世に幸福にしたのでしょうか。そうできなかったのです。これから、韓国がそのような道を開拓しなければなりません。

 このように、神様が行かれる道は、救援摂理の道として我々が必ず行かなければならない道です。我々は父母を探して、その国を成して、再び世界を探さなければなりません。これが天地において必ず行かなければならない所です。

 故郷の地に行って何をするのでしょうか。父母に会わなければなりません。いくら故郷だといっても、父母と関係を結ばなければだめだというのです。たとえ父母が死んだとしても、故郷と関係を結ばなければなりません。そうならなければ、氏族が現れません。新しい父母、新しい息子、娘が新しい法度を立てた家庭を中心として一体化し、氏族を成して国家を成さなければなりません。

 しかし、その国家は自分の国家だけのためにしてはいけません。父を代身として、どぶの底のような所でもためらいなく行くことができる、父母の心情をもって忠孝の道理を尽くすことができる人でなければなりません。そうしてこそ、サタンがそこから手を引いて逃げていくのです。

 天地が必ず行かなければならない所である故郷の地を探しに行くのであり、故郷の地を探して一つにならなければなりません。(一五―二二四)

 我々は、本郷の国に行かなければなりません。おばあさんでも、青年でも、老若男女を問わず、天下万民が願う希望の国に行かなければなりません。自由の天国に行かなければなりません。私自体に属するものが貴いと思うかもしれませんが、そうではないのです。(一九―三〇八)

 人生でまず初めにすべきことは何ですか。愛の本郷を探すことです。このような目的のために宗教が地上に現れたのです。仏教の「慈悲」、あるいは儒教の「仁」とは何のことですか。これはこの愛の本郷の基台を再び探しにいくための方便として教えたにすぎない、ということを確実に知らなければなりません。(一九―二九二)

 心が恋しく思うと同時に体も恋しく思うし、永遠に安息できる幸福の基台だと誇ることができる本郷を我々は探さなければなりなりません。ですから今までの歴史過程において、数多くの人たちがこのような本郷を恋しく思い、追い求め、慕いながら死んでいきました。また、数多くの宗教人たちや哲人たちもこの本郷の地を探すために、今まで苦労していることを我々は知らなければなりません。ですから、本郷に近い氏族や民族、国家があれば全世界の人が恋しがるでしょう。その本郷の地に近い国があれば全世界の人が恋しがるでしょう。それは、大韓民国の国民なら大韓民国の国民として、国があり、また、自分の故郷もあるのと同様に、世界の人が恋い慕うことができる本郷の地が現れれば、世界の人は自分の国、自分の故郷を恋い慕いながら、そこも恋い慕うのです。韓国やアメリカがそのような本郷の地なら世界の人が、その国を自分の国よりももっと考えるようになるのは当然です。ですから必ず本郷の地は現れなければなりません。(二三―七五)

 本郷の国を成さなければなりません。皆さんも本郷の国を願うことでしょう。人類が願う本郷の国を成すためには本郷の個人が必要です。そのような個人と共に家庭が一致して氏族はそうでなければならず、国家はこうでなければならず、世界はこうでなければならず、天と地はこうであるべきだというのです。天の愛の法度はこうあるべきだという論理が成り立つのです。

 その論理の上では、いくら常識のない人たちでも、そうなれる公式的な方法をもって、今日の世界各国に実を結ぶ問題が起こります。革命が起こるというのです。結局、この地球を治める信念をもって、民族を収拾できる人にならなければなりません。このような人たちが集まった個人、家庭、氏族、民族、国家が多くなる時、本郷の世界が創建されるというのは間違いない事実です。(一九―三〇八)

2 本郷とはどのような所か

 天国は神様の愛を中心として、完全に一体となった夫婦が入るところであり、その一体となった夫婦から生まれた子女たち、すなわち、神様を中心として一体となった家庭、氏族、民族を全部治めて入っていくところです。ですから、地上で家庭をもてなかったイエス様は、今まで天国に入ることができず、楽園にとどまっていたのです。神様の愛を中心として結ばれた夫婦でなくては、天国に入ることができません。天国は相対的理念の世界です。それで、家庭がすべて入らなければならないし、自分の氏族と国が全部入らなければならないのです。そうしてこそ、天国が建設されるのです。

 今まで、誰も天国に入ることができませんでした。すべて天国に行く待合室で待っています。神様の愛の門がまだ開いていないので、天国の門を開くことができないのです。それで、この天国の門を開くためにイエス様は来られましたが、地上でその相対的な実体に会うことができませんでした。すなわち、イエス様の愛にプラス(+)できる相対的な主体が現れていないのです。ですから、イエス様は今日まで二千年間、苦労の路程を歩まれながら天国の門が開くその日を待ちこがれているのです。再臨する日に万民の中から一人の新婦を選んで、神様の愛の門を開いて入ろうとしていらっしゃるのです。これを知らないキリスト教徒たちは本当の異端です。いつの日か、引っ掛かってくる時がくるのです。(一八―三三一)

 本然の地とはどのような所ですか。悪が宿る所ではなく、悪との因縁を切り、あふれる本然の愛を中心として永遠無窮に幸福を歌いながら暮らす、永遠なる統一世界です。しかし、そのような所で生活した人がいましたか。一人もいませんでした。歴史上で数多くの人々がそのような世界を追求しましたが、そのような世界はこの地上に立てられませんでした。その世界がどのような世界だと言った人はたくさんいましたが、自らが実践して、そのような世界を成した人はいなかったのです。

 孔子も同様であり、イエス様も同様です。イエス様も本郷を創建するために来られましたが、その本郷を創建できずに亡くなられたのです。「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(ルカ一七・21)と言われましたが、イエス様も天国を直接見ることができなかったのです。今までの歴史過程で生き、死んでいった、どのような立派な先知先烈、聖賢君子だとしても、その一つの場所を見ることができなかったのです。そして、堕落した先祖から悪の血統を受け継いだすべての人々も、本郷とはいまだ因縁がもてないのです、ですから、すべての人は理想を探し求めるのです。本郷を探すために行くのです。

 それでは、その世界とはどのような世界ですか。お互いに反目嫉視しながら、人がうまくいくとおなかが痛くなり、人が好きだ、とっても嫌で死にそうだと言うような、そのような世界ではありません。一人に何か良いことがあれば全体を代表して良いことであり、一人が好きなことは全体を代身して好きなことなのであり、一人がうれしければ、全体が一緒に喜ぶところが本郷なのです。(一八―一〇二)




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