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第二章 人間の価値と人体の神秘

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第一節 人間の位置と特性

一 人間の位置

1 神様の形状を持った分性的実体

統一教会の原理では、神様は無形の絶対的主体であり、二性性相の中和的主体として存在されるかただといいます。二性性相として存在される神様の分性的実体としてアダムとエバを創造されたというのです。そしてアダム・エバが成長すれば、愛を中心として横的に結ばれ、縦的に神様と関係が結ばれるということです。つまり、アダムとエバが成熟したら、神様の男性性稟はアダムの心の中に入り、神様の女性性稟はエバの心の中に入るのです。しかし、神様が分かれるわけではありません。そのような二性性相の主体であられる神様なので、アダム・エバの心の中に臨在することができるのです。

神様はどんなかたでしょうか。神様は目に見えない内的アダムの位置におられ、そして目に見えない内的な位置におられながら、内と外が一つになって…。アダムは人類にとって何かというと、目に見えない内的な父に侍る実体的父の立場に立つのであり、またエバは内的な母である神様に侍る人類世界の実体の母として立つのです。こうして縦的基盤から横的基盤に拡大させるのです。(一三八\二四七)

神様はなぜアダム・エバを必要としますか? 二つの目的があります。一つは、愛の理想を成就することです。二つ目は何ですか? 無形の神様が形状を持って現れるためです。そのため、無形の神様が有形の形状を持って有形世界と関係を結ぶことのできるその基礎、その核心がアダム・エバなのです。

ですから、もしアダム・エバが完成して霊界に行っていたなら、アダム・エバは神様の体と同じであり、神様はアダム・エバの心のような立場で補佐するのです。一人の霊的世界の完成した人(神様)を実体世界の体と心のような一つの結果としてをなそうというのが、神様がアダム・エバを創造された目的です。(九二\一四七)

2 神様の愛の対象

人間は宇宙の被造物の中の傑作です。どれくらいの傑作かというと、皆さんが考えも及ばないほど大きく素晴らしい作品なのです。それならその主体者、つまり絶対的な神様がおられて人をつくったのなら、神様ご自身の話すこと、見ること、感じることを人が感じられないようにつくるでしょうか?(五三\五一)

神様は被造万物の中に神様の愛の対象となるものをつくったのですが、その存在が私たち人間です。神様の愛の対象、神様の愛の対象をつくるために全身全霊を込めて、ご自身のすべてを投入しきったのです。今日のクリスチャンたちが信じているように、み言で魔法の杖のように、最近のアメリカの子供が見る童話や映画でやるように、呪文を唱えて「出ろ」と言えばパッと出るようなそんな愛の対象を神様は願いません。愛の対象を立てるため、神様はご自身のすべてを投入したのです。そうして何をしようとされたのでしょうか? 宇宙に愛の核を定めようとされたのです。それが創造理想だったのです。(一六六\一四七)

3 神様の息子・娘

今日、多くのクリスチャンたちは、神様は唯一無二のかたであり、絶対的なかたであり、創造主であり、神聖な存在として最高の位置におられるため、被造物である人間と創造主とは関係を持つことができないと考えています。被造物は卑しいもので、創造主は絶対的で神聖なかただと考えています。しかし、愛の概念を中心として見るとき、いくら至高至善の神様で、たとえ卑しい被造物だとしても、愛の関係を結ぶためには人格的な内容が似ていなければなりません。心情的内容が同じでなければなりません。つまり、人格を持った人間と性稟が同じでなければならないのです

従って人間はだれに似て生まれたのでしょうか。神様に似て生まれたのです。それで統一教会の食口は「神様は私たちの父だ。私たちは神様の子女だ」と言うのです。これは何を意味していますか? 私たち人間は神様に似て生まれたということです。何を通して似たのでしょうか。血筋を通して、血統を通して神様に似たのです。血統を通して因縁を持ったということは、愛で因縁を持ったことを意味します。(一三八\二四六)

本来人間の特権は何かというと、どんな人であれ天の王国世界において王子として生まれることのできる権威を持っているのです。王女として生まれることのできる権威を持っているのです。それが人間の価値です。それが本来の人間の権威でした。(六八\三二六)

では、人間の願いは何でしょうか? 人間の理想や願いといったものは何でしょうか? どこに帰結するのでしょうか? 何だと思いますか? その一つ目は何ですか? 神様の息子や娘になるのが人間の最大の希望に違いないという結論になります。次は何ですか? 神様に愛される息子や娘になることです。次は何ですか? 神様のすべての存在を相続すること、それ以上はありません。分かりますか? 人間の願いは何ですか? 神様の子女になること、神様に愛される子女になること、神様のすべての存在を相続できる子女になること、これがすべてなのです。

ここで問題になるのは、神様の息子になるにはどうならなければいけないか、ということです。神様と生命が連結されなければなりません。血統的連結がなくてはいけないという問題になるのです。もし、人類始祖が堕落しなかったなら、皆さんはだれの息子や娘として生まれたでしょうか? 自然と神様の息子や娘として生まれたのです。(九一\二四二)

4 万物の霊長

イ)万物の霊長

人間は万物の霊長だといいます。霊長という言葉は、必ず中心に立ち、全体の価値を代身できてはじめて使えることを私たちは知っています。

出来の良い人であれ悪い人であれ、人には世界的な中心になろうとする欲望があります。無限の価値を持った中心になりたいと願うのです。何かの存在であれば、その存在の中で最高の存在になりたいと思い、また絶対的な中心があれば、その中心と一つになりたいと思うのです。このようにより価値あるものと関係を結びたがるのが人間の心です。

では、人間の心はなぜそうなっているのでしょうか。それは本来人間が歴史の全体価値を代表する中心的な価値を持っているからです。(三二\二一二)

神様が人間を万物の霊長として立てるときに、天地のあらゆる環境を代表した中に、センターとして立てたでしょうか、それとも一部分として立てたでしょうか?(センターです)。それは事実です。そのため、すべての人は宇宙の中心になると主張できる自主権を持っているのです。それを知らなければなりません。それは猿の世界やライオンの世界、虎の世界にはありません。人間世界にだけあるのです。(一一七\三五)

万物の霊長という言葉はどういう意味でしょうか。万物の霊長とはだれですか? 今日、人間だといっていますが、万物の根本の霊長は神様です。違いますか? 皆さん、霊があることを知っていますね。人間にはその霊があります。人間は霊の長なので、結局神様と直結して霊長というのです。

万物の霊長というのは、人間自体ではなることができません。人間も被造物なのにどうして万物の霊長になるかというのです。被造物というのは相対的結果体です。被造物ということだけでは原因に通じることができず、原因を占領できないのです。被造物は原因によって占領されるようになっているのです。皆さんが結果的存在であることは間違いありません。霊長というときの長は、霊の中心という意味です。これは、本来語らずとも神様と人間が一つになった関係においていう言葉なのです。(三二\一三七)

ロ)動物と人間の異なる点

動物と人間の違うところは何ですか? 食べるのも同じです。寝るのも同じです。服を着たりするところは違いますが、あとは同じです。目や鼻の形・構造から見ても、さして違いはありません。

では、人間の中で貴い人とはどんな人でしょうか。体や目鼻、生活することを中心として貴いと見るのですか? 何をもって貴いと見るのですか? 人間を見ると、人間は霊的な人間と肉的な人間からなっています。霊肉が合わさって一人の人間になっている、こう見るわけです。この二つが一つになるのです。ここで、霊的な生活、肉をもって生きる生活は動物と何ら変わりありません。食べて寝て、また食べるための活動をして、全く同じです。動物とどこが違うのでしょうか。動物と何が違うでしょうか。

人間は動物と何が違いますか? それがこの宇宙で動物と違った価値を持たしめ、貴い価値を持たしめるものになるはずだ、という推理ができます。「人間は貴い」というとき、その人間は肉的な人間ではなく霊的な人間です。霊的なものが貴いというのは、肉的なものとは違うということです。違わなければならないのです。霊的なものが高ければ、肉的なものは低いのです。また、霊的なものが低ければ、肉的なものは高いのです。この二つは違うものなのです。(一二九\三〇七)

それでは、人間と猿を比較してみましょう。猿と人間は根本が異なります。猿はただキャッキャッと騒いで、食べて寝て子供を産むのが第一です。猿が古里のおとうさん・おかあさんに会いたくて泣きますか? 猿がお兄さんを気遣ったり、あるいは親のために死のうとしますか? では、人間はどうですか? そういったことをしますか、しませんか?(します)。種が違うのです。それに猿たちが集まって、先祖が何をどうしたとか、神様はいるとかいないとか話し合うことができますか?(できません)。霊界があることを考えたりしますか? この宇宙が平和の世界になって、一つの世界になって、愛の花園になるということなど考えるでしょうか? その猿が進化して人間になったと言う人たちは、犬や豚のような人間です。人間と動物は種が違うのです。

人間は自分を中心とするのではなく、他を中心として、より大きなものを中心として願いながら生きるものであって、自分より低いものを願いながら生きるようにはなっていません。次元が違うのです。

人間は古代から、つまり人間が生まれるときから神様をあがめてきました。神様をあがめない種族はありません。神様について考え、人間がより高度な存在として生きる宇宙について考えてきたのです。猿の頭でそんなことが考えられますか? 何千何万の段階を経たところで、できないなのです。猿にそんな能力がどうして備わるでしょうか。話にもならないのです。(三九\三三三)

ハ)神様の絶対的な相対は人間のみ

天地の万物の中で、絶対者である神様の前に絶対的な相対の価値を持って現れることのできる存在物はどのようなものでしょうか。考えてみてください。昆虫だろうか。あるいはうちの裏庭でグーグーいびきをかいて寝ている子犬だろうか。これらが絶対的な相対の存在になりえますか? もしなれるとしたら、子犬よりもずっと賢い猿が文句を言うことでしょう。

では猿は相対になれるのでしょうか。今日では猿が進化して人間になったと言うでしょう? これから私が大学生たちに言って、教授たちに「猿先生おはようございます」とあいさつさせたらどうでしょうか? 「教授は猿の頭と猿の体を持っておられるでしょう?」と言ったら、「こいつ!」と怒るはずです。

人が猿のような体を持っているのは事実ですが、次元が違います。霊的な存在である人間は、霊的存在でない猿とは次元が違います。根本が違うのです。猿の手と足の形は人の手足に似ています。このように多くの点で人間と似ているため、猿が進化して人間になったと言うのです。

私は、猿のことを考えただけで気分が悪くなります。ところが皮肉なことに私はさる年なのです。これはもう間違ってさる年に生まれたのだと思います。それほど猿が嫌いなのです。

人間と猿を解剖学的にみると、数十項目の違いがあります。ところが進化論では、この猿が飛躍的な発展、すなわち突然変異によって人間になったと言います。それらしい論法ですが、ここには無神論者たちの魔術的な要素が隠されているのです。そこで、共産党の間違いを正すために、統一教会が勝共理念をもって猛攻を加えているのです。猿が進化して人間になったというようなでたらめを信じないでください。

もし猿を絶対的な創造主の前に絶対的な相対として立てたとしたら、人間たちがどれほど批判することでしょうか。「あれが神様の相対だって? トイレを使うことも知らない。あの歩き方は何だ。四つ足で歩いてるじゃないか」と陰口を言うはずです。四つ足で歩き回るのは未完成なのです。

人間も赤ん坊のときは四つ足で歩きます。ですから猿は外形からしても未完成圏内にいるのです。人間は四つ足で歩きはしません。人間は二本の足で歩きます。それはすでに猿より立体的な安定性を持っているということです。また、人間は天と地の連絡機関です。曲線ではなく直線で行き来できます。だから神様と通じる内容があるのです。(三八\一五九)

ニ)人間が二本足で歩くわけ

あらゆる万物の中で動物は皆四つ足で歩きますが、人間はなぜ二本足で歩くのでしょうか。なぜですか? 縦的な代表者だからです。このあらゆる被造万物の中で人間だけが立って歩ける動物なので、神様が分かるようになっているし、無形世界や何かといった無限に高い垂直世界と無限に低い垂直以下の世界を考えるようになっています。

ですから二本足で歩く動物の権威を失わないようにしなければなりません。これを知らなければなりません。木は立っていてこそ芽が太陽の光りに向かうわけですから、立っていてはじめて価値が出てくるのです。人間が立って歩くのも、神様の愛の光を慕い価値ある存在になるためです。これを知らなければなりません。では、皆さんは低い人になりたいですか高い人になりたいですか? 高い人になりたいはずです。皆さん、そんな欲望があるでしょう?(はい)。ありますか、ありませんか?(あります)。(九六\二一七)

全被造世界の動くものの中で、立って歩くのは人間しかいません。なぜ人間は立って歩くのですか? それはすでにすべての標準が縦的なものからなっていることを意味します。次に被造世界のすべては、横的九〇度を中心としてどのくらいの角度かによって、その価値の基準が変わるのです。(三六\二〇四)













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