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二 人間の価値決定

P74

1 没落した世俗的価値観とその代案

今日、人間たちの願うものは何でしょうか。最後に願う彼らの目的は何でしょうか。豊かに暮らすことです。だれでもそう思います。では、豊かに暮らすというのはどういうことでしょうか。根もしっかりしていないし、芽の目的もはっきりしていないので、結局は自分を中心とした平和、自分を中心とした幸福、自分を中心とした民族を追い求めるのです。そうして享楽の淵に落ちてしまうわけです。

人間は死んだらそれで終わりだという思いから、彼らが築き上げた理想的な環境で、死ぬ前にだれよりも豊かに生きてみたいのです。だれよりも世界的な環境で行動し、一度関係を結んでみたいのです。そうこうするうちに、享楽のわなにはまってしまうのです。そのため、今日アメリカなどの国では倫理・道徳などすべてが没落してしまいました。

価値観の喪失というのも程があろうに、歴史的伝統までも拒み、家庭の親・兄弟・夫婦といった家庭制度まですべて破綻させてしまいました。皆、個人的享楽のために相対的なものをすべて除去しています。(一七二\一五)

だから今、価値観の没落だの脱イデオロギーだのと言いながら騒ぎ立てているのです。だから今、主体的な思想をもって世界を導くことのできる指導者が求められる時代にきているのです。経済的問題が問題ではなく、科学的問題が問題ではありません。「真の宝のような一人の人間が現れたらどんなにいいだろう。新しい革命を提示して人生の理想郷を描くことのできる主人、そして真の価値を持った個人から価値的家庭を経て価値的世界まで導いてくれる主人がいたならどんなにいいだろう」というのが今日の人々の悩みです。(八五\一〇〇)

したがって、今日この世界においては、はっきりした価値観を持たなければなりません。世界観を越えることのできる価値観を持たなければなりません。統一教会ではその価値観の中心を神様に置いているのです。私たちの主張は「理想世界に帰ろう」ではありません。「神様に帰ろう」です。神様に帰らずしては、理想世界もなく、幸せな世界もなく、永遠な世界もなく、愛の世界もないのです。なぜですか? そのあらゆる幸福の要因、私たちが願うあらゆる与件は、神様によって始まらなければだめだからです。それで神様に帰らなければならないのです。これを慕い、これを探し求めてきたのが人類歴史上に現れた宗教という機関だということを、皆さんは知らなければなりません。

それでは、私たち堕落した人間はどんな考え方を持たなければならないでしょうか。無限の価値観を持たなければなりません。今日、世界は共産世界と民主世界が闘争していますが、最後には皆疲れてしまいます。人間だけではだめだと、疲れる果てる時がだんだん近づいてくるのです。人間だけで世界を料理するようにはなっていないので、疲れるに決まっています。

このような立場から、有り難いことに統一教会では何を提示していますか? 私たちは絶対的な価値観を提示するのと合わせ、真の父母を提示しているのです。私たちが願う絶対的な価値のその基準は何ですか? どこが終着点ですか? 真の父母の子女になることです。永遠の命を持つことができ、永遠の愛を持つことのできる神様の子女になるのです。それ以外には道はありません。違いますか?

アダムとエバが堕落するとき、神様の許しの中で相対理想を結んだわけではありません。自分勝手にしたのです。神様が許して関係を持って出発できるのは、父子の因縁に他なりません。しかし、それが壊れて没落したため、標準の形にもう一度継ぎ合わせなくてはなりません。それは避けようがありません。(六八\一三八)

2 人間の価値決定

心情が通じるようになれば、皆が神様の子女になります。文化の背景や歴史的環境、あるいは時代の位置によって人間の価値が左右されるわけではありません。いかなるものによっても、人間の価値を決めることはできません。人間が天を知り、地を知り、天の目的と地の目的と人間の目的を知ったところにおいてのみ、人間の価値が決定されるのです。(一五\八三)

価値は目的観によって決定されます。私たちは何のために生まれ、何のために生き、また何のために死ぬのでしょうか。それはだれかの妻になるためでもなく、だれかの夫になるためでもありません。私たちは一つの目的のために生まれました。

より価値あるものは何でしょうか。より大きな目的のために、この原則的な神様と神様のみ旨のために、主体的な自我を確立してその道を開拓し、相対的な権限を吸収していくところにおいてのみ、より価値ある道が成立することを皆さんは知らなければなりません。

それを要約して簡単にいうと、神様は第一であり、神様のみ旨は第二であり、第三は自分です。このようにして、第四である相対的圏を求めていかなければなりません。この道においてのみ、より価値のある道が生まれるのだという観念をしっかり整理しなければならないのです。この道を通してのみ可能なのです。そして、それだけで終わるのではありません。それをいつも第二目的、第二出発の動機として反復することによってのみ、その価値は帰結するのです。(六六\二七二)

私たちは新しい価値観を模索し、それを中心にしなければなりません。世界に対する新しい価値、人間に対する新しい価値、理念に対する新しい価値、あるいは愛に対する新しい価値を模索しなければなりません。その価値観が神様のみ旨と一致できる内容をもって出発するとき、その価値観は人間を中心とした価値観とは母体が異なります。人間の理想を中心に立てられている価値観とは違うのです。

そこには天地の差があります。その価値観は分立されたところにあるのではなく、悪の現実圏内で関係を結び、悪の世界のどんな幸福にも勝る幸福をもたらすものでなくてはなりません。そういう理念を見つけなければ、そこから忍耐と克服、つまり耐えて乗り越える基準を立てることはできないのです。従って今世界は、現実を否定し、より次元の高い価値観を見つけられるかどうかの境目で悶えているのです。

実存哲学もそのような観点で生まれたのです。現実を克服するには、現実を克服できる内的な価値観を提示しなければなりません。その内的な価値観をどのように提示するかということが、現代哲学における重要な課題であることを皆さんは知らなければなりません。

その価値観は人間によって形成されるのではありません。人間がいくら努力したところでだめなのです。それが証明されて余りある圏内に入ってきています。ここで重要なことは超越的な価値、より高次元的な価値です。その内容というのは、漠然としていてはだめなのです。「過去にこうになったように、未来もこうなるはずだ」という認識ではだめなのです。現実生活において、私たちの生活感情を中心として環境の与件を克服し、打開できる実質的な内容を備えなければならないのですが、それをいかに体得するかというのが問題なのです。(四四\二二八)

3 人間の価値基準

皆さん、人に対して「この人は良い、あの人は悪い」と批評することがあります。それでは、ここで良いというのは何を根拠にしているのでしょうか。どんな位置とどんな環境の中で言っているのかという問題を中心に見るとき、その基準は漠然としています。今日この地上は、そのような漠然とした基準を持って生きる人々で満ちています。ある人が朝もワッハッハ、夜もワッハッハといくら喜んだところで、その喜びも一貫した目的と関係を結ぶのでなければ、咲いてはすぐ散ってしまう花のようになるのです。このような立場で喜びを描いていったところで、その人生の終わりに何が残るでしょうか。むなしく寂しい人生しかもたらさないのです。(四一\一三七)

私たちが人の価値を論ずるときに、その外的な姿がよいからといって、その人を立派な人だと評することはできません。人の価値を評するときには何を中心として評しますか? その人の持つ思想と良心基準です。そして、その思想と良心基準に心情問題がどの程度まで介在しているかによって、その人の人格を論ずるのです。(六\三〇六)

人間の価値基準は何でしょうか。愛を通さずには価値基準が設定できません。愛という言葉は相対的観念圏内で成立するものなので、互いの価値基準も相対的観念圏内で成されるのです。(五一\一六六)

4 価値の形成

人は自分一人優れているからといって、すべてがうまくいくわけではありません。必ず相対的世界と関係を結び、相対的関係を備えてはじめて、そこで自分の人格的価値が現れるのです。人のできないことをすれば、それだけの価値が現れるということです。(二七\一二九)

神様がいくら素晴らしいかただとしても、愛は一人で築くことはできません。レバレンド・ムーンがここに立っていますが、レバレンド・ムーンにも愛があります。愛をたくさん持っています。愛するにおいては、一人でいくら「わが愛よ!」と叫んでもどうでしょうか。「頭がおかしい」と言われるでしょう。しかし、小さな何か、一円玉に口づけする人がいたとしても、それはおかしなことではありません。ですから、相対価値の無限性を知らなければなりません。(一三六\一一一)

神様は絶対的な創造観を所有する絶対者なので、絶対的な対象価値の存在を追求するのです。これは、この地上の被造万物の何ものにも換えられません。価値で見るなら、相対的存在とは神様を与えても換えることのできない存在です。「相対的価値」という言葉はちょっと難しい言葉ですが、相対という言葉を中心として、その対象の価値というものは神様を与えても換えられないのです。神様を与えたところで、神様一人になります。ハナニム(一人のかた:神様)として残るのです。

ですから、神様自身を投入し、神様自身の力、エネルギーを消耗するのです。消耗戦をするのです。それで、神様にも換えられない対象の価値的存在としてつくったのが人間です。このように、絶対的な価値の存在が人間であることを皆さんは知らなければなりません。神様はそのような思想でもって、価値的存在として人間をおつくりになったのです。

ところで、人間をつくる際には漠然とつくったのではありません。漠然とではありません。そこには、「必ずこのようになる」という神様ご自身の信念があったのです。(六八\一三四)

5 人間の価値は偉大だ

人間の価値はどれほど大きいでしょうか。神様が杖をついて、先年万年懐かしむことのできる存在が人間です。統一教会の文先生がよく考えてみたところ、これが宇宙の根本だったのです。これが内と外の関係になっているので、縦横の愛の世界観が成立するのです。そうではないですか? 上下の関係と左右の関係になるので、縦横の愛の世界観が展開するのです。その中心には神様が臨在されます。違いますか? 心の深い谷間に、一つにしっかり縛りつけておけるのはどこかというと、縦横の中心です。そうですね? これを縛っておかなければ、縦横の基準が愛の理想形として現れません。縦的なものがいくらあっても、横的なものは出てこないのです。それで人間をこのようにつくったのだということを知らなければなりません。

このような観点から見て、神様を私たちの心の中に入れようとするのは不敬罪ですか、正当な行為ですか?(正当です)。神様を心に入れるとしたら、どのような入れ方をしますか? 大切にお迎えするというより、近ごろの争い合う世の中に突っ込むわけで、お迎えするようにはなっていないでしょう? 違いますか? そうなのです。(四八\二二四)

人間の価値はどれほど大きなものでしょうか。神様がぐうの音も出なくなるような偉大な武器を私たちは持っているのです。世の中に人間を保存しておく博物館があったとしたら、その博物館の標本は美人が多くて美人でない人は少ないということがあるでしょうか? 考えてみてください。どちらか一方が多くなるのでしょうか? 美しい女性がいれば、それに相対する美しくない男性がいなくてはならないのです。それで釣り合いが取れるのです。神様が見るとき、そうなのです。(一六一\一三九)













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