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五 立派な人物になるには

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1 重要な人物になるには

ここに集まった皆さんは、誰しもが、自分自ら重要な人物になりたいという思いを持っていることでしょう。「重要な人物」といえば、これは普通の水準を越えて全体の前に中心的な位置を占める人でなければいけないという結論が出るのです。そのような人になるためには、あらゆる環境において勝利的基準となって、比較の基準にならなければなりません。そのような比較の基準になろうとすれば、完全なものと、完全でないものとを分別するすべを知らなければなりません。

では、人間において重要な人物になるためには、どんな面で人より抜きんでていなければならないかということを、ここで考えざるをえません。

私たち人間には、五官があります。目で見ることにおいて普通の人より抜きんでていなければなりません。また、聞くことにおいても、やはりそうでなければなりません。話をするにおいても同じことです。触ったり感じたりなどのあらゆる面において、抜きんでていなければなりません。それから心においてもです。心自体もその気くばりにおいて他の人より秀でているべきです。

それは事実として、そうありえるためにはどうしたらいいのかというのが問題です。見て行動する、このすべてのことが人より秀でているためには、ただ行動するだけではいけません。すべての部門において、皆を凌駕しえる内容を備えていなければならないのです。

皆さんは勉強するために本を読むにしても、ただ見るだけではいけません。必ずそこにおいて見る練習をして、訓練する過程を経なければ、そうなることは不可能です。

私たちが聞くことにおいてもそうです。人より優れ、抜きんでるためには、何もせずにそうなるのではなく、必ず訓練過程が必要です。その内容に従って鍛錬し、訓練する過程が絶対的に必要なのです。

気を配ることや考えることも同様です。皆すべて訓練過程を経るべきです。それゆえ、瞑想とか祈りというのも、そのためにする修養方法です。心の修養方法を意味するのです。

そうだとすれば、重要な人となったといえる位置に到達するためには、あらゆる面に熟練するように訓練過程を経て、それが的中した位置に立ったといえる人にならなければなりません。そうでなくては、重要な人になることはできません。それは、普通の人ができることではありません。普通の人ができないことをやり遂げなければならないのです。

そうなるには、ただ何もしないでなれるものではありません。数多くの問題を前にして、訓練と試練の過程を経るのみならず、なすべきことに対するすべての問題に、自信を持って立ち向かっていける人にならなければ重要な人にはなれません。

私たちの日常生活、人が生きる生活においてどのような訓練をしているでしょうか? 一生の間、見る訓練、聞く訓練、話す訓練、行動する訓練をしているのです。結局、私たちの生活とは、ひとつの訓練過程に過ぎないのです。

こうした内容を整えて、ある目的と一致しえる結果にまで到達した生活をしたかしないか、訓練過程において、それを成し遂げたかどうかによって、その人が全体的環境の前に、比較の基準として現れることができるかどうかが、決定されるのです。

こうした内容を整えて、ある目的と一致しえる結果にまで到達した生活をしたかしないか、訓練過程において、それを成し遂げたかどうかによって、その人が全体的環境の前に比較の基準として現れることができるかどうかが決定されるのです。

ですから、結局、私たちは、普通の人が見ることのできないものを見、普通の人が聞くことのできないことを聞き、普通の人ができない話をし、普通の人が考えられないことを考え、普通の人ができない行動をしなければいけません。そのようになれば、その人は間違いなく重要な人物になり、立派な人になるのです。このような人々をどの団体がどれほど多く保有しているかが、その団体が全体の前に中心となることができるかという問題を決定するようになるのです。あるいは一つの国においても、そういう人がどれほど多いかという問題がその国が世界的な中心国家となるかどうかを左右するのです。

では、私たちの団体について見るとき、皆さんについて話すとすれば、皆さんをどんな人に仕立てなければならないでしょうか? 皆さんはどんな人になりたいでしょうか? 皆さんは重要な人になろうとし、教会自体においては、重要な人に作り上げようとするのは、間違いのない事実です。

また、皆さんがいくらよく見て、よく聞き、話を上手にし、よい考えをするとしても、行動において敗者となれば、すべて水の泡になってしまうのです。それゆえ、皆さんはどの分野にぶつかっても後退することなく、どんな分野でも走り抜けていける人とならなければなりません。

後退する日には、いくら訓練をして、あらゆるものを備えたとしても敗者となるのです。どんなに難しい問題でも、克服していかなければなりません。前進して自分の力と能力で、それを消化して越えていける人になってこそ、その問題を中心として責任を持つことができ、その環境において、その問題を凌駕した勝利的基準によって、公認を受ける中心的存在として決定されるのです。

ですから皆さんは今、新しいことを学び、新しいことを聞き、新しい言葉を学び、新しい考えを持つことのできる環境において、訓練を受けているのです。私たちが学ぶ内容も、複雑なのです。私たちが考えることも複雑なのです。それなら複雑なことは悪いことでしょうか? 内容が備わり統一性を持った複雑さは、貴いものとなるのです。

あらゆる万物を見ても、万物の中でも構造上複雑なものであるほど、価値ある存在となるのです。何らかの中心、重要な人物になろうとすれば、その人物が自分の環境において、複雑な機関を連結して動かしえる自制力を持たなくてはなりません。それゆえ、重要な人物になることを願うなら複雑な環境を消化しえる自分自身をどのような発見するかとういことが問題となるのです。ですから、複雑な環境や、さまざまな分野における訓練が必要なのです。

私たち人間も、見てみれば五官で感じるのであり、その次に行動問題を中心として見るとき、その行動がどこに及ぶかということにおいて、その及ぶ範囲が広いか狭いか、あるいは多方面か一方面か、立体的か平面的かという問題に従って重要な人物、重要な責任者が決定されるのです。

先ほど、重要な人となろうとすれば、あらゆる面における訓練を受けなければならないと言いましたが、自分のためになる立場に立つのではなくて、人のためになる立場に立たなければならないということが、もう分かったでしょう。(六七\一七七)

2 全体のためになる思考方式を持とう

皆さんは、どのような思考方式と思想を持つべきでしょうか? 「私は全体のために生きよう。全体より、私はもっとやらなければならない」という、全体のためになる思考方式を持たなければなりません。「十人の人が苦労すれば、私はそれ以上やらなければならない。そこに誰もが耐えられないような困難があるならば、私がそれを成し遂げよう。そこに私の手が必要であり、私の血の汗がつながらなければならない」という思考方式で努力しなければなりません。そうしようとすれば、どれほど大変でしょうか? それゆえ我慢して耐えなければなりません。我慢して耐え抜けば良い因縁を結べるがゆえ、感謝して賛美する心を持てというのです。それはすべて、喜びが与えられるための基盤となります。その喜びは私自身のために与えられたものではありません。神様のみ旨のために与えられたのです。(四四\三八)

3 自責できなければならない

私たちが朝、サタン世界に出て行くときは、目、鼻、耳、すべての細胞、心までも武装して、「きょうも無事故で帰ることができるようにしてください!」と言わなければなりません。どれほど険しい世の中でしょうか? 夕方に帰ってきて顔を洗うときに鏡を見て「この目、鼻、耳、手、足、こいつがいつだって問題だ」と言いつつ「お前、きょうは罪を犯さなかったか?」と尋ねてみるのです。さあ、そのようなことを、目で見て、話をして行動をして、何かの権力でもってそのようなことすべてをさささっとかわして、勧告をして振り返ることのできる能力がなければならない、というわけです。ですから、統一教会で教育するのは、この世界のサタンどもを打ち捕らえる最高の剣を与え、武器を与えるのと同じことなのです。(一二二\二六六)

4 先を行くべきである

統一教会は、すでに思想的な面においては、誰も対抗できない内容を持っています。何であるにしろ、私が手をつける日には一等にならなければなりません。私が手をつける日には一等になるべきなのです。今日までそのようにやってきたのです。

眼鏡をかけるにおいても、ナンバーワンですか?(はい!)。皆さん、眼鏡をかけるのが好きですか?(はい)。(笑い)そのときは、眼鏡をかけることのできる立場にありつつも、眼鏡を投げ捨てて眼鏡なしで歩き回るのがナンバーワンです。(笑い)。皆さん西洋人たち、では三つも眼鏡をかけてごらんなさい。四つかけるならかけてごらんなさい。四つ五つかけても一つもかけていないようにふるまえるなら、眼鏡をかけていないとき以上にもっとできるならかけなさい。それでかけないときより仕事をよくするのならいいです。

それならば、寝るのはどうですか? 「人が八時間寝るなら、私は二十四時間に一時間プラスして二十五時間寝よう」これはどんなに素敵でしょうか? 八時間寝るのが何でしょうか? 二十四時間に一時間プラスして二十五時間寝よう」(違います)。では、どうしましょうか? マイナス二十五時間寝なければなりません。(笑い)それは問題が違ってくるというのです。

サタン世界より、何か一つでも優れていなければなりません。どの町へ行こうが、私はお前たちとは違うということを主張するべきです。何であれ違う、というのです。ここにプラスワンしろということではありません。それは好きなようにしなさいというのです。千を加えてもよいし、…。多ければもっとよいです。多いほどもっとよいです。もっとよい。いくらでも、もっとよいのです。(八一\一三四)

統一教会の群れ、天の食口たちは誰かが命令しなくても自動的に一つにならなければなりません。共産党以上に強力でなければなりません。分かりますか?(はい)。

第一には父母に侍ることにおいて、第二には兄弟を愛することにおいて、第三には行動することにおいて、彼ら(共産党)の先を行かなければなりません。彼らに負けてはいけないというのです。北韓から南韓にスパイを送ってくるように、私たち統一教会員も、今後、北韓に行けというとき、行けない人がいないようにしなければなりません。誰でもそういう所に行っても生き延びれる決意を持たなくては、統一教会の食口にはなれません。行動的な分野において、彼ら(共産党)を凌駕することのできる、天の息子・娘とならなければいけません。(二三\二九五)

5 丈夫で強く変わりなくあるべき

統一教会の皆さんをサタン世界に投入させておいて、木でいうなら何の木になるべきですか?(樺の木です)。樺の木は強くありません。(ナツメの木です)。ナツメの木?(クヌギの木です)。そう、クヌギです、クヌギ。誰もが知っているクヌギの木です。ナツメならば、女の子たちは良く分からないでしょう、何の木なのか? 曲がってはいけません。曲がるとしても折れてはいけません。折れてはいけないのです。どころで統一教会の皆さんは粘り強いですか?(はい)。

ですから、私たちは粘り強くなければなりません。さあ、そうしてみると、文なにがしという人は粘り強い人ですか、くみしやすい人ですか?(粘り強い人です)。そうでなければなりません。

そして、風が吹く冬が来ようと、夏が来ようと、あるいは春が来ようと、雨が降ろうと、どうであろうと変わりなくあるべきです。皆さん、鉄は変化しますか、変化しませんか? ステンレスは変化しますか、しませんか? どうですか? 鉄が好きですか、ステンレスが好きですか?(ステンレスです)。どうしてですか? なぜですか? 変わらないからなのです。(一〇〇\一九四)

大韓民国が、主の来られる国だとすれば、世界のすべての国を全部巻き込むとしてもぐらつかない、そんな国にならなければなりません。そのような埠頭にならなければなりません。そうなろうとすれば、どれほど強くしなければならないでしょうか? そこにはセメントや砂利、砂、そして鉄筋が必要です。埠頭を作るにおいて、コンクリートを強くしようとすれば、何を意味するかというと、人を意味します。

人の中でも強い人です。誰かがへし折ろうとも、へし折れず、突き刺そうとも突き刺せない強い人がいなければなりません。そのような固い志と志操を内包している信仰者たちを中心として線を継がなければなりません。そうしてスイッチさえ押したらいっぺんに救うことのできるように装置しておかなければなりません。そうした歴史的な使命が私たちにあるということです。

統一教会が、こういう途方もない使命の完遂を願うならばコンクリートをするにおいて、皆さんは何になるでしょうか? 鉄筋になるのか、砂になるのか、砂利になるのか? 皆さんはどれになるでしょうか? 考えてごらんなさい。鉄筋になれというのです。では、鉄筋になりましたか? 鉄筋になれなかったならば、砂利にでもなれということです。砂利にもなれなければ、砂粒にでもなれということです。また、砂粒にもなれなければ他のために与える水にでもなれということです。水というものは、どこにでも吸収されるのです。皆さんはそれを知らなければなりません。(三二\一四六)














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