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四 学校での教育課程

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小学生は小学校の学課(教育課程)に拘束されています。そうですね? 学課は自分を拘束する縄です。大学に行けば大学の学課が自分を拘束しておく手錠と同じなのです。それを解かなければなりません。そうでしょう?(一二六\四二)

何かを一つするには七年以上取り組まなければなりません。このごろは、小学校も六年ですね? 中・高等学校も六年ですね?(はい)。それはだれが六年と決めましたか? 六数を過ぎなければ次の段階に進めないのです。六数は三対象の対象数です。蘇生・長成・完成を分けてあるのです。理想数は七数です。これが連結されるときには七数中心です。七数は完成数なのです。分かりましたか?(一八一\九〇)

どこの小学生であれ、「僕は小学校なんて要らない」と言うことができますか? その小学校が嫌いなら、絶対に中学校に行く道はありません。そうですか?(はい)。中学校を卒業できなくては、絶対に高校へ行くことはできません。どうして行けないのですか? 自分の勝手でしょうに、なぜ行けないのですか? 行く力がないのですか? 美男子ではないですか? お金がないのですか? 貧しくて着るものがありませんか?(いいえ)。嫌でもその課程を経なければならないのです。

学問修得の段階について、私たちが幼稚園で学び、小学校で学び、中学高校で学び、大学に進んでさらに学び、博士の位置まで行くと見るとき、最高の課程に進むにおいて、下のほうの課程は必要ないと言えるかというのです。小学校で学んだものがどうして必要ですか? 小学校では基礎を学ぶのです。それはすべて必要なものです。それを自然に消化できる環境のおかげで習得できた事実を忘れたのなら、そんな言葉も出てくるでしょうけれども、その事実を認めるなら、必要ないとは言えません。

では、幼稚園に行って習うのは何ですか? 小学校に行って便利に、小学校に行って学ぶことを容易にするための準備をしに幼稚園に行くのです。小学校へはなぜ行くのですか? 小学校は中学校に行って勉強するのに支障がないようにするために行くのです。中学校へ行くのはなぜですか? 高校での勉強に支障がないようにするためです。高校へ行くのはなぜですか? 大学へ行くのは? 修士、博士課程に支障がないようにするためです。こういう論理です。正しいですか?(はい)。(一二二\一七六)

見てみなさい。幼稚園より小学校で学ぶのがずっと悲惨で、小学校より中学校がもっと悲惨で難しいのです。また、中学校より高校がさらに悲惨で、高校より大学の修士コースのほうがさらに悲惨です。修士の先の博士コースはもっと悲惨です。博士コースを終えて社会に出てみると、これがもっと悲惨なのです。これが続くのです。だんだん難しくなるのです。だんだん。

皆さん、統一教会のレバレンド・ムーンに今も学んでいますか、いませんか?(笑い)こんな講義は大学でもしません。この講義は、よく聞いてみると根本的な教育なのです。それを感じますか?(はい)。皆さんは言葉で言い尽くせない…。皆さんが社会に出ると、社会が皆自分より下に見え、だれか偉そうな人が話をしても何も感じません。ですから統一教会の食口は賢いのです。それで、(特別な)何かがある、と言われるわけです。これが一般の評価です。

皆さんが幼稚園に通っていたときは、きれいな服を着たものですし、小学校に通うときもきれいな服を着て、中学校に通うときもきれいな服を着ましたが、高校を出て修士課程に進んだら、きれいな服など何になりますか? 散髪する時間がないし、ひげをそる時間がありません。本当に悲惨です。思い返してみると、昔、幼稚園のころが懐かしく、小学生のころが懐かしくなります。かといって、あんなのんびりしたことをやってもいられないのです。(一一七\四〇)














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