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第二節 学生の本分

P172

一 学生の位置と責任

学校に行けば学校には校長先生がいて、先生がいて、生徒がいて、主体と対象の環境になっているので、そこでは学生が先生の言うことに反対したら追放されるのです。学校に行く学生が、勉強よりもほかの考えを持って行くとすれば、その人は追放されるのです。(一一八\一九)

人はだれでも自分の所属が無ければなりません。家庭に入れば父母に侍る息子なら息子、娘なら娘、あるいは母親なら母親、父親なら父親の位置を持っていなければならないのです。人それぞれにその位置があり、その位置で関係を結んでいるので、その位置で任されたところの責任を私たちは果たそうとしているのです。例えば、ある父母の息子として将来を望みながら学校に通っている学生がいれば、彼には学生としての位置と責任があるのです。もしもその位置がなければかわいそうな人なのです。そのような位置がなく、そのような関係と因縁の中で、何かの責任を持つことのできない人は寂しい人です。

そのすべての位置が明らかで、その位置を中心として、前後、左右、上下関係においてその人が要求するままに秩序正しく協助できる環境を持つようになるとき、この人はこれから無限に発展できるのです。しかし、いくら位置が決定されていて、その環境が具備されていたとしても、関係され因縁づけられるすべての周囲の環境が、その人が行く道の前に同行できない、反対になりうる、互い違いの環境になるときには、その人が行く道の前に困難が伴うのです。

私たちの人生行路においてもこれは同じです。一つの家庭においてもそうであり、一つの社会においてもそうです。(四一\一三〇)

今日、若い学生たちは、かばんを持って学校に行きます。ところで、かばんを持ってどんな目的で行くのかということを考えられない学生たちがいます。

自分は社会に出る。出てどこに行くのでしょうか。自分は国の重大な責任を持って出ていく、世界があるので世界を指導するために行くといって出て行きますが、そこからさらに進めばどこに行くのでしょうか? 天があるならエックス(X)が横たわります。世の中の万事がこのような曲折の場におかれていることを私たちは否定できません。(五\一七八)

ある人が成功するためには、目的観がはっきりしていなければなりません。目的観がはっきりしていなければなりません。行く途中で、ジグザグに上がったり下がったりすれば時間的消耗が生じます。時に対する消耗をもたらすようになるのです。皆さんが勉強するとき、小学校から中学校、高等学校、大学を経て修士、博士コースを経ていくのに、自分が何を専攻するのかということは、とても重要な問題です。

このような観点から見るとき、もし小学校なら小学校時代により努力すれば、中学時代を迎えられる位置にも進めます。私たちが修士コースまで行くためには、約一八年ないし一九年、博士コースまでは二十年ないし二十一年を勉強していかなくてはならないのですが、その勉強する年限は定められていますが、時間的な面でこれをどのように圧縮するか、という問題については、ここに倍の努力を投入することが必要なのです。

その期間を一八年に縮めるか、十年に縮めるかということは、だれによって決まるのですか? 時に対する限界がそれを左右するのではなく、自分にかかっているのです。時が自分を支配するのではなく、自分が時に関するものを支配できる能力者にならなければなりません。そうですね?

ある一定の目的を中心にするためには、必ず一定の時間が必要です。また一定の時間があるのですが、その一定の時に自分の一定の努力の量を投入しなければなりません。また一定の時間に自分の一定の努力の量を投入するとしても、そこにどのくらい精誠を尽くしますか? どれだけ体と心が一つになり、投入されるかというところに差が出るのです。

それでは精誠を尽くし、すべての精誠を尽くすことのできる力を、原動力をどこからもってきますか? それが問題です。それを他者の力により補助を受けるか、自力で自分が主体性を発揮するか、という二つの立場に立ちます。この二つの道において、どの道が効果的かというのです。それは自体的なこのような原動力を持つことができてはじめて、相対的に外的に、だれか協助してくれる人がいなくても正しく行けるのです。

それでは自体的な原動力を備えるにおいて、その自体的な人間としていちばん必要なものは何ですか? その動機の核心となれるものは、何でなければならないかというのです。そこには心情的問題に悩まされても自分が主体性を持てる道、永遠なる精神を捧げられる基盤がなくてはならない、ということを推測できます。このような高次的な愛の心情が、どこでそのような爆発的な原動力を私たちに提示するのでしょうか? それは必ず相対的関係、父母と子どもの間とか、愛する人と自分との関係とか、このような相対的関係を中心として生じるのです。そういう爆発的な刺激をどこで受けるのですか? 愛で受けます。愛ですが、愛もその処する位置によって違うのです。互いによい環境か、悪い環境かという。皆さんはどうですか?(九八\九)

皆さんが幼稚園に行き、小学校に行き、中・高等学校に行き、大学に行くのは何のためですか? なぜ行きますか?(責任だからです)。どうせその責任を負うべき運命にあるので、責任を果たすか、果たせないかによって…。果たすための解決方法、より価値があり、より大きな責任を果たせるために行くのです。そうですか?(はい)。(九八\二三四)
















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