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四 勉強をよくする法

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1 勉強する心の姿勢

一般的な人たちの場合も「志」と言えば、いろいろな志があるのです。事業する人は事業の志、ある勉強をする人は学問の志など、すべての人たちが自ら定めたところの志を持って生きています。私たちがいう志というもの、これは人間関係の志を言うのでなく、神様のみ旨をいうのです。(一八六\五三)

私たちは、何を勉強するにおいても、精誠を尽くすのであり、本を一ページ読むときにも、神様のために読むという心で精誠を尽くし読むのです。それも決して易しいことではありません。(二六\一四五)

先生は勉強するのもそのような心でします。勉強するときになぜ疲労を感じますか? 自分のために勉強するから疲労を感じるのです。しかし、全人類が死ぬか生きるかという問題がここの一ページに懸かっていると、一文句に懸かっていると考えてご覧なさい。一単語を加えることで三千万が生き、一単語を減らすことで三千万が滅びるという心で、もっと精誠を尽くし、その一単語を増やそうという深刻な心で勉強してみろというのです。頭が悪いのはなぜ悪いのですか? 皆さん、深刻な場で、あったことを忘れられますか? 生命を懸けてしろというのです。皆さんがドキンドキンという心臓の鼓動する音を感じるときがあるでしょう。深刻ならばそうです。そんな深刻な場で皆さんが決心したことが忘れられますか? 頭が悪いということも皆程度の問題だというのです。

心が散漫だから覚えられないのであり、死地で自分が死ぬようになる瞬間が近づくのに、生きられる妙案が浮かんだとするとき、その妙案を記憶できますか、できませんか? 皆さんが勉強をするときに、本一ページなら一ページをつかんで生命を懸けてそこに投入しろというのです。私は聖書を見るとき「これが何なのか」と深刻に考えれば、その問題を解決するために一年、二年、三年でも精誠を尽くしました。「ああ、それはこのようになったのだな」となるときまで根を引っ張るというのです。

自分のための道を行くときは、いつも失望のみが残ります。民族のため、世界のため行く道には、いつも望みがあります。なぜですか? 民族と世界が復活していくためです。皆さんがこのような思想をもって生活し、生涯を生きていけば、現在自分に残るものはないとしても、その人は歴史的な人物として残るようになるのです。(三五\三八)

2 目的に対するたゆみない刺激があってこそ

私たち人間たちは、日常生活で喜びを感じながら生きたいのです。喜ぶのを願うのに独りでは喜べないのです。人を通して喜ぶとか、次には物質を通して喜ぶとか、他の何か学問とか、このようなことを通して喜ぶようになっています。そのような生活の中で喜びを感じようとすれば、対象的な問題が時間が経つのにつれて、だんだんよい面に展開されなければなりません。そうでなくしては嬉しいことは続けられないのです。言い換えれば、喜びを感じるためには、相対的な刺激が絶対必要なものです。

皆さんがある非常に大きな目的を定め、その目的を果たすためには、必ず時間と過程が必要なのですが、その過程をどのように克服していくのか、ということが問題になるのです。そうしようとすれば、その目的を中心として毎日のように生活環境で目的に対し対象的な刺激をどのように続けて受けていけるか、ということが重要な問題になるのです。

それをある程度の期間までは、自分が決心して続けて維持していくかもしれませんが、その刺激が目的を果たすのに相対的要件として続けて残せなくなるときは、そこから脱落が起こり、失望が生まれ、失敗の要因が組成されることを私たちはよく知っています。それゆえ、私たち日常生活においてや、実在生活において、この刺激というものが、即、喜ばしい刺激であるとか、理想的な刺激がなくてはならないのです。いくつもの面でぶつかる環境にあっては、よい面の刺激は絶対に必要なものです。

皆さんも世の中で勉強をして何になるというこんな考えをすれば、そこに対する意欲を中心として、刺激をどうやって感じるかということが成敗の決定要因になるという事実を知っていることでしょう。いくらどんな目的を成就すると決心した人がいたとしても、その意欲からこのような刺激的な要因を取ってしまえば、その人はその目的を途中で放棄するとか、未完成なまま終わってしまうことでしょう。(六六\三七)

3 だれよりも努力しなければ

成功するという人は現実を重要視しなければなりません。皆さんが勉強するにおいても、現実を中心に熱心に勉強しなければなりません。熱心に勉強するというのは、現実の与件を歓迎する立場ではありません。そうではありませんか? 現実の予件を否定する立場を探して入らなければ成功できる道も、幸福になれる道も行くことができません。簡単なことです。

勉強するときも全部一等ですか? とんでもありません。落第する人もいるのです。学校に入って落第したら、彼は学校に入れなくて落第を知らない人より、事実は劣るのです。否定的な与件がふさいでいれば、それを越えていかなければなりません。そうしようとすれば何倍、何十倍の努力をしなければなりません。現実で公認を受け、未来の自分の位置を決定しようとすれば、何倍の受難の道を行かなければなりません。現実でそのような結果を持ってこられなかったら、現実を納得させる過程が必要です。

このように考えるとき、問題はどこにありますか? 学校に行ったら、その学校を代表できる一等にならなければなりません。一等になることが易しいことではありません。いくら頭がよくても「私の頭はよいから…」このように自信を持つ人は、どうにか一度は一等になるかもしれませんが、努力する人には負けるのです。

それでは努力とは何ですか? 自分がその道を開拓するために、だれよりも多くの苦労をするのです。だれよりも我慢して耐えるのです。そこから成功の要因が決定されるのです。そのような生活過程では、敗者の悲しみが宿るのでなく、勝者の栄光の基盤が備えられていくのです。これは私たちの現実からよく分かる事実です。

それゆえ、未来を継承することのできる人はどんな人ですか? 現在の行楽に歩調を合わせる人ではなく、現在の歓喜の環境に調子を合わせ、踊りを踊る人ではありません。未来の価値を現実圏内に立てるために、現在の環境を克服し、耐え忍んで、無限に犠牲になり、無限に代価を支払う人でなければ未来の相続者になれないのです。(四五\三一)

今日、たくさんの人たちは学ぼうと思っています。それで勉強をします。ある分野に全心全力を尽くして学究的な面で世界的な学者になるために勉強をして、努力をしています。ここで、その努力というのは何ですか? 自分の専攻分野において、今まで歴史上の多くの人たちが残しておいた観念とその内容を、どのようにしてでも短い時間内に自分のものとして消化し、自分が利用できるものとして置き換えられる人が勉強をよくする人です。(二八\二六一)

皆さんは必ず勝利しなければなりません。そうするためには、どのようにしなければなりませんか? 人が一回勝てば私は二回勝ち、人が一時間眠れば私は半時間眠り、人が一食食べれば私は半食食べるという信念を持って闘わなければなりません。勝利の秘訣は他のところにあるのではありません。どのくらい時間を多く割いて、努力を多くして、資本をたくさん入れるかに懸かっています。

まるで入学試験を前にした受験生のように、時間の闘い、精神の闘い、努力の闘いが重要なのです。落第した人たちは、人より多く眠ったとか、多く食べたとか、いずれにしろ人より一つでもより楽に過ごした人たちです。(一九\一四三)

皆さんが夜を明かしながらも努力し勉強するのを趣味だと思わなければなりません。(六七\二二五)

4 全力投入しなさい

死のうとするものは生き、生きようとするものは死ぬ、聖書のみ言は実によく教えてくれました。宇宙の原則を中心として、よく教えてくれました。これこれの問題を考えてみるとき、否定できない事実ではないですか。成功を願う人がいるならば、その目的のために犠牲になる生活をしなくてはなりません。そのような人は早く出世するのです。そうでしょう? そうですか、違いますか?

勉強する人、高等考試なら高等考試を中心として、その目的を果たすことを願うとき、夜でも昼でも犠牲になって、そこに絶対服従して時間を投入し、全生命を投入すれば、その試験にパスする成功の時間に遠くなりますか、近づきますか? 遠のけと祭事をささげても遠のかず、むしろ近づくのです。それは道理です。(六一\二六九)

ひとつのページをめくりながら、眠たいなら涙を流しながら「この時間、天が私を待っているのに、この手がどこに行くのか? この目がどこに行くのか?」そうでなければなりません。眠気が来れば自分の肉をつねって夜を明かしながら、涙を流して祈りながら勉強すればこそ、天の福が連結されるのです。はしごが置かれるのです。(一三〇\三一二)

ですから今、勉強も骨が解けて肉のようになるくらい勉強させます。腰がまっすぐな人が足萎えの人のようになるのです。(一八四\三一五)

勉強することを考えてみるとき、頭に鉢巻きをしてしますか、ただぼんやりと座ってしますか? 眠らないで優等生になりますか、眠って落第生になりますか?(眠らないで優等生です)。そのようにすれば幸いですが、そのようにできない人は皆…。(九七\七一)

皆さんが教育上よく知っているように、小学校に入れば小学校課程を中心として卒業するのが目的だとするときは、その小学校を卒業するためには、先生と自分の努力が合わさらなくてはならないのです。中学校も高等学校も同じく、大学も同じです。そこで自分が望むところを 一〇〇パーセント完成させるということはとても難しいことです。

ですから、一〇〇パーセント完成できる人の姿勢はどうであるべきですか? どんな姿勢を持つべきですか? そうしようとすれば、いつもそこに対して考えなければならず、他の考えをしてはだめです。勉強なら勉強に対して全力を尽くさねばなりません。全力を集中して、そこにすべてのことを投入しなければなりません。「私があるときは遊び回り、あるときは何かして、あるときには友達に会わなければならない」そのような考えは第二次的だというのです、二次的。(一〇四\九五)

皆さんは、学校に通う学生に勉強がよくできると言いますが、勉強がよくできる人はどんな人ですか? もちろん頭がよく努力する人もそうですが、いつも勉強を考える人、いつも勉強することを主体に考える人です。そのような人が勉強がよくできるようになっています。

頭に他のことがないのです。他のこと、俗っぽいいろいろな考えがなく、光でいえば白色しかないというのです。それゆえ、その人の頭にはすべての記録が 一〇〇パーセント明確に記録されるのです。外国語を学ぶにおいても、自分がどういう国の言葉を勉強していると考えて、その生活圏内に入り、見て、聞いて、感じ、すべての環境の事実を勉強するその言葉と一緒に連想し解決していく人が勉強のできる人です。(一六一\一三〇)

学校に行き、本のページをめくるのにも骨が溶け出るように体と心を尽くして、悲しい神様を慰めるという心情でしなければなりません。(二二\一四五)













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