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第五章 信仰と責任分担

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第一節 信仰生活

一 信仰とは何か

1 信仰の意味

皆さんは愛の根を探さなければなりません。すなわち、神様の愛を探さなければならないのです。パウロは「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である(コリント・ 一三・一三)」と言いました。皆さん、信仰とは何ですか? 「信じる」とうい漢字から人偏を取ると「言」が残ります。信仰とは、結局人の言葉を意味します。このとき、言葉とは人と人の関係を結んでくれるものを意味します。関係がなければ言葉が出てこないので、言葉を言うときにはすでに相対基準ができているのです。また、関係が結ばれるには信仰がなければなりません。

このような根本はどこから来たのでしょうか? 愛による因縁から出てきたのです。でも、その因縁は自分勝手に結べるわけではありません。その因縁を結べる力というものがあり、目的とする基準がお互いに一致できたので結べたということです。(二〇・二五)

私たちのいう信仰とは何かというと、真なる人の人格を中心として、その人格を追求していくことです。また、そのような人格を追求しながら生きていくのが信仰生活です。

「信」という字を見ると、人に言葉の言、そして「仰」も人偏があります。これも人を抜きにしていません。人を中心とするのではなく、尊敬する対象を中心とすることです。そういう位置から私たちが真のみ言を追求していき、そのみ言を通して一つの方向を成立させるためのものが信仰生活なのです。(六〇・二六三)

信仰生活について考えるとき、その対象はすでに自分ではなく神様なのです。あくまでも神様に対して行く道です。すなわち、主体と対象の関係が神様と自分の間に結ばれ、主体から生じる事実が対象に至るようになり、対象によって起こることが主体にも関係されなければならないということです。こういう関係が結ばれなければ、み言とともに成される自分自身になることはできません。(四〇・二七六)

2 信仰が必要なわけ

もし、アダムとエバが堕落しなかったらどうなっていたでしょうか? 神様の基準が上になって、神様を中心に三位一体となっていたことでしょう。そうして、そこで生まれた子女たちは全員天国に行ける息子・娘なのです。それなら祈祷がどうして必要で、宗教が何のために必要でしょうか? つまり、信仰という言葉は人間に必要なかったはずです。お父さんを信じますか? お父さんに向かって救世主と言ったり、救ってほしいと頼むなどということがありますか? 自由にお父さんの懐に飛び込み、膝の上に座ってひげを抜いてもかまわないものを、信じるとは何を信じるのですか?(二二・二八三)

天の誇れる個人となった後に、天が自慢できる夫婦になり、父母になり、孝子になり、国・世界を成すときに、そのときは宗教が必要なくなります。信仰という言葉が必要なく、救世とうい言葉も必要なくなります。二つではない一つの一体的な因縁圏内で、神様はようやく人間に対しご自分の栄光を現す新しい出発をするようになるのです。(三・六二)

現時点を中心に見るとき、人間でも神様でも願い待ちこがれるそのものは、追求するものは何かというと、現実よりももっと勝ることを望んでいることです。今の時間よりもこれから来るその時間がもっとよいことであることを願い、今の立場より後の立場がよくなることを願っているというのです。ここで信仰という問題が起こるのです。

私たちが信じ願っていることは現実的なことではありません。今後の問題です。願いごと自体は現実的ではないのです。必ず、時間という過程を通じた後で自分と直面する問題です。ですから、私たちがの望み信じ願うすべての心は、現実の自分の立場より優れていて現在の位置に何かしらプラスさせることのできるものを追求していくのです。(二七・九四)













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