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四 信仰姿勢

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1 信仰と中心問題

人間の望みとは何でしょうか? この地上を見てみると中心がありません。神様の望みとは何でしょう? 中心を立てることです。では私たちの望みとは何でしょうか? 中心を探すこと、それが重要です。そのために人類の望み花にかというと、神様が立てようとされる中心に合わせることです。

その中心を立てようとする思想は何でしょうか? メシヤ思想です。だから人間の望みは何かというと、その中心となられるかたに侍り、中心を立てることなのです。僕の時代から、養子の時代、息子の時代、父母の時代まで次元の異なる反対を繰り返していくので、そのため悲惨な道を歩まざるをえなくなって、また戻って来てしまう、そういう道でしたが、結局、より高い中心として送られたかたがメシヤです。

そのメシヤが中心に定められなければならないのですが、立てるのは皆さんではなく神様が立てるのです。ですから、立てられた中心を皆さんが迎え、そのかたと一致さえするのであったら…。

皆さんの範囲が大きければ大きいほど、その中心と一致すれば、その中心とともに大きな舞台の前に立てるようになるのです。私たちは中心を探して侍ることが願いであり、天は中心を立てることが一つの願いなのです。

では念願成就、人間の念願成就が成され、天の念願成就が成されるようになるというのは、どういうことでしょうか? 中心を探して侍ることによって人間の念願成就が成されるのと同時に、天の復帰摂理の念願成就も成されるという結論に達するというわけです。(六四・一八九)

皆さんが信仰者として、統一教会の信者としての新しい姿勢を持たなければなりません。ここでいちばん重要な問題は、中心に対する確固たる信頼を持つことです。そのような信念を持つまでは、いくら覚悟を決めても何の意味もありません。この前方を行くにあたって、どんなことにぶつかれば自分はどうするのだろうかと自問自答してみなさい。この道を歩んでいると、だれよりも近い人が皆さんの前に来ては、皆さんを誘うことでしょう。甘く、その気にさせる言葉をかけてくることでしょう。皆さんの行くべき道を塞ぎ、皆さんをその位置から引き下ろすためにできる限りのことをしてくるでしょう。そういうとき、皆さんはどうするのか、自分の顔を見て自問してみてください。そのとき、皆さんは「退け、この化け物め! 私は昼も夜もこの道を行くのだ!」と言わなければなりません。それはどんなに素晴らしい姿でしょうか。(一一八・二八五)

皆さんは信仰の中心に対して、そして目標に対してはっきりと知っておかなければなりません。それは、超越的な存在でなければなりません。信仰生活をするということは、自分の現在の立場よりもっとよくなることを望むためにするのです。その絶対的な要求される基準に達するために、絶対的な内容を備えた最初の信仰基準が不変でなければならないのです。春夏秋冬、四季が変わるのも一年圏内で変わっています。それと同じく、いくら環境が変化したとしても、自分の目標下において行わなければなりません。自分の信念の下で行わなければならないとういわけです。信念がふらつくようでは、どんなことも成せません。信念が確かでなければ、何ごともできないということです。(二七・一一二)

2 絶対信仰

イ)信仰は自己否定と悔い改め

終わりの日には、理想世界が来る前に審判が来なくてはなりません。この審判を避けられる人は、歴史的事情と因縁をありのままに抱いている人ではありません。それを打ち切っている人です。世の中の流れに従っていくのではなく、そういうものを跳ね返し、顔を背けて避けて行く人が審判を避けられるのです。そうでなければ新しい理想的な出発に迎えられないため、宗教は今までこのような内容を中心として「この世を捨てろ。世の中とのすべての因縁を切れ。俗世間を近づけるな。俗世間と断絶しろ。否定的な立場で新しい悟りを得よ」と教えを説いてきたのです。現在を押し進めることができ、未来を打開し、過去を収拾できるこのような悟りが必要なので、宗教は世の中と妥協することを求めたりはしません。(二一・一三六)

宗教では「温柔謙遜、犠牲と奉仕、教えることはそれしかない!」とそのように追い立てるのです。それは正しい教育ですか、偽りの教育ですか? それしかないのです。そのため信仰の道は従順であり、自主ではありません。これを知らなければなりません。信仰は何ですか? 従順です。自主と対案と弁論ではありません。

自分を否定しなければならないので、歴史をも否定しなければなりません。それはなぜですか? ここに検定物があるとします。それを是正したからといって悪い点がそのまま勝手に悪くなるのでしょうか? それと同じです。否定しなければなりません。完全否定しなければなりません。最後まで否定しなければならないのです。最後まで否定しなければならないのです。では、皆さんの指はどれだけ善でしょうか? 皆さんの目はどれくらい善ですか? 皆さんの耳は? この腹の虫、心の底はどれほど善なのでしょうか? 根本問題はここから解決されていかなければならないのです。(六八・三一六)

ここで、天国に入るためにいちばん問題になるのは何でしょうか? 「私」という怨讐があるのです。自分が怨讐なのです。今まで皆さんが信仰生活をする中において、祈祷して一生懸命努力してきたすべては「私」を勝利させるためのものです。「私」がいる限り、これは完全に…。

その次には、「私」を否定する者、神様の名でもって「私」を否定する者とならなければなりません。完全に否定しなければなりません、完全否定。サタンがくっついているひもがあれば、そのすべてを完全に切り放してしまうのです。皆さん、絹糸のようなものがずっと世界にめぐらされているのです。それをかみそりのようなものでばっさり切ってしまわなければなりません。(一二二・一三)

信仰を何を要求しているのでしょうか? 悔い改めを要求しています、悔い改め。それはどんな悔い改めでしょうか? 歴史手な悔い改めと時代的な悔い改めです。そして天は、歴史的な悔い改めと時代的な悔い改めを願っています。そういうことを知った上で、「過去のすべての罪も私の罪であり、この時代にとどまっているすべての罪も私の罪ですから、お父様、どうかお許しください」とこのような祈りをする者でなければならないのです。(八・三二二)

イエス様もこの地上に来られて宣布されたことは何かというと、「悔い改めよ。御国は近づいた」です。これは矛盾した…。天国が近づいたというなら、悔い改めずに行けたらどんなにいいでしょうか。どうですか? 矛盾した、逆説的な内容を示して、人間がただでさえ苦労しながら生きているのに、さらに悔い改めとは? 一体、悔い改めとは何でしょうか? 悔い改めとは、完全に振り返ることです。罪を犯してもそれが罪だと悟れない人が罪を犯していると分かるとき、完全に否定し、完全に反対方向に振り返るのです。どういうことかというと、百八十度転換する一つのテーマなのです。

では、悔い改めたらどうなるのでしょうか? 決心がつくのです。そうではないですか? 悲壮なまでの決心をするのです。死ぬ覚悟をして涙を流しながら痛哭するようになるのです。これは何かというと、二度とこの道は行かないと完全に決別するのです。悔い改める前と悔い改めた後とでは、世界が違うのです。四十五度程度ではありません。百八十度違うのです。悔い改める前と後では天地の差です。昔はサタン世界にいたのに、きょうは天の世界にいるのです。そういう事柄を宗教では必ず示さなければなりません。(一〇一・九二)

天国を探し求める人の前には、自分というものはありえません。そこには真心と克服することだけがありえるのです。天国を探しだした後には自分がありえますが、天国を探し求める位置では自分というものはありえません。民主主義方式でいくことができません。自分を主張する与件はありえないのです。そういう与件が残る限り、その世界はサタン圏です。

私たちの信仰の道には自己主張、自我観念は存在しえません。絶対的な信仰というのは、自我の観念が一つも残っていない状態の信仰をいうのです。違いますか?絶対的に信じるというときに、自分自身に絶対的に反対の要因が一つでもあってはなりません。神様を中心に一つになるというところには、自己主張するものがありません。主体が要求するままに完全に一致しなければなりません。完全に一致するということは、自分自身を主張できる一片の心もないことをいうのです。

信仰生活をしながら自分勝手に主張できる立場があるとすれば、その立場は天国ではありません。

へびは脱皮しなければ大きくなれません。脱皮するためには、石やかごの隙間に入り込んで出なければなりません。反対の力が体に加えられることによって、脱皮をすることが可能になります。それと同じく、暗黒の勢力が私たちの体の血と肉に一つとなって覆いかぶさっているのですが、これをどうやって抜け出しますか? そのまま放っておくわけにもいきません。ですから、知恵が必要になります。反対に、全部反対の道を行かなければなりません。完全に脱げるまで、完璧に反対の道を行かなければなりません。(四六・八二)

ロ)一つの心を持て

絶対的に一つの心を持たなければなりません。一つの心ですが、熱い一つの心ですか、冷めた一つの心ですか?(熱い一つの心です)。口で言うのはたやすいのです。それを聞いた耳が貴重であり、その考えが貴重なのです! 一つの心とはどんな一つの心ですか? どんな心?(熱い一つの心です)。熱い一つの心。では、皆さん、熱い一つの心を持っていますか?(一〇一・一〇七)

ハ)不変でなければならない

私たちが大切に思っている宝物や貴重品を考えるとき、その宝物が、ダイヤであれ金であれ、なぜ必要かというのです。それはよく見ると、すべての物質の中心となる物質の代表的な位置に立っているということを、私は知ることができます。皆さんは宝石といえばだれでも金やダイヤを思い浮かべます。昔の人も貴重に扱ってきましたし、今の人もやはり同じく貴重に思っていますし、また未来の人もそうだと思います。

このように考えると、貴重なものというのは変わりません。ずっと変わらないのです。それをなぜ必要とするのでしょうか? すべてのものを代理した立場で中心に立ち、そのすべてのものをいつどの時代で比較したとしても、その比較した基準が狂うことがない位置に立っているため、それが貴重となるのです。また、環境にいくら変化が起きても、そこにかたよらない特権を持ち続けます。その物質が、貴重な宝石がそういう立場にいるので、結局すべての人がその立場に一緒にいようとし、それを所有しようとしたがるのは当然のことです。理にかなっています。

それでは、そういう観念からみて、私たち人間はどのような存在にならなければならないでしょうか? 私たち自身もやはり同じだといえるのです。変わってはいけません。変わらないだけでなく、その固さはダイヤモンド以上に固く、その色の美しさは金よりももっと美しくなければなりません。このような観点ですべてを見るとき、歴史的義人、聖賢たちはどんな人物たちでしたか? 不変の理想と不変の思想を持っていた人たちです。また、不変の生活を、行動をした人たちでした。

彼らに目的があれば、その目的は不変のものです。全体が変わることのない目的を持った人たちです。(七四・一〇)

原理を探し求めるとき、いちばんの秘訣は何かというと、始めと終わりが同じでなければならないことです。善は始めと終わりが同じなのです。始めと終わりが同じであり、そして終わりに一を加えたものが善です。一をプラスしていくことが、神様の歴史が成されていくことなのです。ですから変わってしまう人は、悪い人になるとういことです。変わる人は皆悪の祭物になるのです。それが鉄則です。いくらよいといっても、そのよいものが変化し始めたら悪の祭物になるのです。サタンのえじきです。サタンはそういう作戦を立てるのです。

そのために聖書においてもそういった境地に入り…。神様のみ言であれば、始めと終わりが全く同じでなければなりません。痛快なのは「私はアルファでありオメガである」と言われたことです。これで終わりということになります。この一言が巡り会いたかった言葉です。それ以上神様は必要としません。それ以上の神様は、堕落した人間を救うためのそのみ言に記録されているアルファとオメガであられる、その神様ではありません。(一五〇・九六)

信仰の道は心を中心として行く道なので、どの宗教であれ、信仰者に対して心を変えろと教えることはありません。変わらない心を持たねばならないと教えるのです。十年前に抱いた心が十年後に変わってはならず、歳月が流れてたとえ生涯を終えたとしてもその心だけは変わらずに残らなければならない、と教える宗教があるなら、その宗教は真の宗教なのです。(三二・一三二)

皆さん、信仰生活は突然にできるものではありません。それは一生の間ずっと…。信仰生活の中で、死んでも永遠に信仰を持ち続けていくということにおいて、自分がその切り開くのを見守ることが問題になるのです。皆さんはこれを確実に知らなければなりません。一つの中心になる要点がなければなりません。信仰生活において不変の軸がなければなりません。核心がなければなりません。それは何かというと、「どんなに困難な壁があったとしても、私自身の悲しみが永遠であっても、私自身の苦痛が永遠であったとしても、それを神様の苦痛だと示すことはできない。しかし、私が志願して天の父母に侍ったことだけは否定できない。天に対して否定の道理を立てることはできない」という鉄則を持たなければなりません。それがいちばん大切なのです。(五九・二三四)

動物世界にも、不変の動物がいます。それは何ですか? 羊です、羊。分かりますか?(はい)。羊は主人に刃物で首を切られても「メー」と鳴いて死にます。蹴ったりかみついたりしません。主人が毛を刈るときも、おとなしくしています。それで、供え物としてはそういう動物が選ばれるのです。分かりましたか? その次は牛です、牛。牛はどうしてかというと、生まれながらに苦労し、犠牲になるのです。肉も人間に捧げ、骨までも人間に捧げるのです。すべて捧げてしまうのです。そして、その次は鴨です。鴨はというと、失った愛を歌うからです。失った愛をほかのどんな動物よりもいちばん恋しがるのです。初恋を懐かしがります。そういう面でいちばん早いのは鴨です。ですから、絶対従順、絶対犠牲、絶対愛の象徴的な供え物が羊、牛、鴨だというわけです。そう思いますか?(はい)。(九七・二八八)

ニ)絶対服従

終わりの日には、一体どのようになるでしょうか? 六千年の終末史全体の悲しみと苦痛と悲惨の立場で、全世界にあふれているクリスチャンたちが勝利すれば、来る再臨主は苦しみや苦痛とは関係がなくなるのです。しかし、全世界にあふれているクリスチャンたちが、そういう基盤を築いておけなかった場合、来る再臨主自ら聖徒たちを代表し、悲しみと苦痛と悲惨とを経ることを避けるに避けられなくなってしまいます。

それはあたかも神様から選ばれ立てられたユダヤの国が責任を果たせず、イエス様が悲しみと苦痛と悲惨を味わうしかなかったのと同じです。皆さんはこれを知らなければなりません。

もし、皆さんがこのような蕩減復帰の条件を立てた立場で呼ばれることがあったら、皆さんは絶対服従しなければなりません。いつまでかというと、一つの王権を立てて一つの国、一つの民族を動員して堕落した生活を取り除くまで絶対服従しなければなりません。イスラエル民族はモーセの命令にいつまで絶対服従しなければならなかったかというと、カナンの七族を滅ぼす時まででした。ノアの家庭もノアに絶対服従しなければなりませんでした。いつまで? 三代以上、すなわち孫の代まで絶対服従しなければなりませんでした。(一三・一五二)

皆さん、信仰するにあたってどのようにして天を中心に絶対服従という言葉が出てきたのか知っていますか? これはとてつもない言葉です。堕落した私たち人間から見たら、これは息が詰まるほど嫌な言葉ですが、神側から見れば息が詰まるほどほ喜ばしいプレゼントなのです。これを知らなければなりません。

そのため、「人間は決心しなさい。その決心を中心に直行しなさい。直行するときは、決心したその目標の前に絶対服従しなさい」というのです。服従しない人は、成功することはできません。服従すれば成功します。違いますか? そのようになっているのです。(六一・二六〇)

絶対に信じなければなりません。絶対服従しなければなりません。絶対的に愛さなければなりません。これが三大条件です。絶対何ですって? 絶対に何?(服従)。絶対的信仰というべきです。服従は二番目ではないですか? 最初は何ですか? 絶対?(信仰)。絶対?(服従)。絶対?(愛)。愛。そうです。それはどういうことかというと、「絶対」という言葉には唯一信仰、唯一服従、唯一愛が含まれています。(一六九・五八)

ホ)神様に向かって直進せよ

人はまっすぐ行かなければなりません。人の左右と背後をだれが支配しているかというと、サタンが支配しています。それで、横道のほうへ行ったり、右に行ってみては左に行ったり、後ろにも行ったりするのです。ですからまっすぐに行かなければなりません。どこへまっすぐ行くのでしょうか? その目的が分かりません。漠然としていますね。まっすぐに行けというのはどこですか? それは神様のおられる所です。これが原理観です。

アダムがまっすぐに行けずどこに行ってしまったでしょうか? エバは左側へ、アダムは右側へ行ったのです。サタンを中心にです。サタンが操りました。こっちに行こうと言われ、ついて行ったりしたので二人は壊れてしまったのです。「エバさんこちらに来なさい。アダム君こちらに来なさい」と別れさせておいて滅ぼしてしまったのです。サタンがそうしてしまったので、蕩減復帰原則により、天使が何をしなければならないのかというと「そっちに行ってはだめです。この道をまっすぐに、神様のもとへ行こう」と言いながらアダム・エバを後ろから押して行かなければなりません。左右後ろから、まるで岩を転がすように押すのです。(七六・一〇六)

チ)絶対信仰

堕落とは何ですか? すべてを壊してしまうことです。壊してしまうのが敵なのです。神様とアダム・エバを突き放し、エバとアダムの関係を壊してしまったのです。堕落のゆえに互いが敵になってしまいました。通じ合うことができなくなってしまいました。天情を中心として通じられなくなったのです。天情の前に互いが情を交わさなければならないのに、敵となってしまったのです。その父母と子女の間に、兄弟の間に怨讐の種が蒔かれたのです。これを蒔いて植え付けてきたのが歴史でした。

そうしてきたために、歴史が神様の本然の愛を中心としてぶつかるわけです。いくらぶつかっても、本然の愛は歴史をたどりながら志操のある人を一人ずつたてては引き継がれてきたのです。リレーというのがあるでしょう? バトンを渡しながら連結するのです。そうして、向こう側の終着点までこれを伝達しなければなりません。そのような闘いをしているのです。

それは何を中心として連結されていますか? 何を中心にバトンが渡されますか? 神様のための真の愛です。絶対信仰です。真なる愛を探し求めていくにおいて、絶対信仰が介在しなければなりません。絶対信じることができなければ、絶対愛が現れません。絶対信じることができなければ絶対愛が出てこないのです、蕩減復帰原則において。ですから絶対信仰を持たなくてはなりません。「神様は私の父だ」と絶対的に信じろというのです。(一二五・二六一)

信仰でいう生命というものは、二人が妥協して生まれたり、環境と因縁を結んで生まれるものではなく、絶対的な立場で生まれるものです。それは避けられないことです。この絶対的な立場は、すべての人が見上げて踊り喜ぶような立場ではありません。絶対的な立場は、それは何ともいえない孤独な立場です。それは二人でいられるような所ではありません。一人しかいられない所です。絶対というものは相対要件を超越しているものだからです。その立場は非常に困難で、もどかしく、孤独で、危険といえばこの上なく危険な立場です。

その絶対的なものが進むことのできる方向はどんな方向ですか? 二つの方向はありえません。一つしかないのです。(三七・九)

皆さんは信仰生活をしながら、「ほかの人たちが行くから自分も行く」とか、「聖書を信じなければならないと言われたから信じる」という考え方をしていませんか? そのように信じていたら、だれかが来て少し揺すっただけで心が変わってしまうのです。ですから、信仰は絶対的でなければなりません。「神様が絶対的だから自分も絶対的だ」といえなければなりません。そう考える人、手を挙げてみなさい。(二一・二五四)















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