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五 信仰生活の注意点

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1 心が沈んでしまうとき

皆さんが信仰の道を行きながらも心が沈むのは、内的な基準が下がるからです。この内的基準が下がった状態では、何をやっても満足な結果をもたらすことはできません。ですから、内的な神様の臨在点に同化する生活、一致する生活にならなければなりません。そのような観念をどのように確保するかということを考えなければなりません。(二二・四八)

皆さんは、自分が祈祷をしたり、誠精を尽くしたら、何ともいえない力がわいてくるのを感じることでしょう。皆さんを超越する力が、皆さんに訪ねてくるのです。放送局から送る電波をアンテナを通して受信するように、それが自分の心に来てつながるのを感じるようになるのです。心が純粋であるほど、心が素直であるほど、それが入って来る角度と同じ角度で反射できるのです。(三七・一二三)

2 困難なとき

イ)困難に対する理解

大きなことをするには、三分の一は反対するのが原則です。その反対がないと、神様の功労がなくなります。すんなりとできたら何の功労になるでしょうか?「さあ、行こう!」と言って皆が「はい」と応じたら、何の功労になるでしょうか?反対され、胸を痛め、涙を流し、そうして峠を越えてこそ「よくやった」と言えるのであって、楽に越えたらよい気持ちがしますか? お腹がいっぱいなところへおいしいものを与えたらどうですか? 「ああ、おいしい」と言うでしょうか?お腹がすいているときなら、ただの麦ご飯でもがつがつ食べながら「ああ、おいしい」と言うでしょう。そういうものなのです。(七〇・二三三)

皆さんの中にも、あるとき自分も知らないうちに悲しみがこみ上げてきて、わけもなく涙が滝のように流れる経験をした人がいるかも知れません。私たちはその悲しみの正体を知らなければなりません。その悲しみは自分の悲しみではありません。それは追求してみると歴史的な悲しみです。その悲しみはだれが持ってきたのかというと、神様が持ってきたものなのです。では、それはだれゆえの悲しみなのかというと、神様ではなく私たちなのです。結局は私たちを救うための悲しみなのです。それは私一人の救いではなく、国と世界の救いのためです。国がなければ私たち自身は救いを受けることができません。皆さんはそれを知らなければなりません。(三二・一〇〇)

ロ)困難を克服する方法

心配事と災難が訪れたからといって、気を落としてはいけません。迫害されたからといって心配してはいけません。その代わりに、自分が定義の位置から未来を受け継げるように、天運の前に世界的な運勢基盤の上で天運を受け継ごうと、自分自身を準備しなければなりません。そのことを自らはっきり知るようになれば、それ以上必要ありません。そのようになれば、首を切ってしまったとしても生きていけるのです。(一四七・一九八)

私たちが「環境に勝ち進もう」というとき、この言葉の中に私たちはいつも危険にさらされているという意味も入っています。いつでも危険が待ちかまえているのです。もし、先生が皆さんに対し、環境変化のリズムを合わせてあげなければ、敗者になってしまうのです。それは当然のことです。歴史的な実証があるからです。これをどのようにして克服するのか、これをどうやって消化するのかという問題に、私たちの生死がかかっているのです。

ですから、すべての問題に対して疑いを持つなというのです。正面から挑戦して行けというのです。高い山があれば、必ず谷があるのと同じく、試練があれば必ずその試練に見合った福が訪ねてくるのです。神様が、善が訪ねてくるのです。冬が過ぎれば、冬の峠を越えれば春はやって来るのです。同じなのです。その次には夏が来ます。谷は夏と同じです。それが発展の現れだということを知らなければなりません。(六七・一〇〇)

困難なことにぶつかるときに皆さんが知らなければならないのは、これから訪ねてくる福を受けることのできる準備、天の福を受けて人類に譲り渡すことのできる自分のすべての準備をしなければならないことです。器を用意しなければならないのです。福を受けとめることのできる器を作らなければなりません。(一三三・三〇二)

ハ)困難に対する先生の姿

先生は北韓共産党の監獄に入って二年八カ月の間重労働をしました。何の労働だったかというと、肥料工場での仕事でした。硫酸アンモニア工場から粉がコンベアーに積まれて工場のある一カ所に落とされるのですが、それをはかりで量ってかますにぎっしり入れて貨車に積み込む仕事です。

熱処理をして作ったものなので、こぼれる硫酸アンモニアは熱いです。それが冷めると固まりになります。それを何年か放っておくと岩のようになってしまいます。本当に大変な重労働でした。一日八時間の労働時間に一人ずつ責任分担がありました。十人が一つの班になって仕事をしました。一班の一日の責任分担は千三百かますで、八時間以内に終えることができなければ食料が半分に減らされてしまいます。一日にもらうご飯の量は、小さな器に一・七杯くらいしかもらえません。おかずは何もなく、汁は味噌汁ではなく塩水です。それを食べて八時間労働をするのです。

重労働をさせて死なせるのが共産党の作戦です。ここに入って三年経ったら、皆死んでいきます。必ず、間違いなくそうなります、三年以内に。食べ物を与えず重労働させるのですから、この工場に入ってきた人は最初から死んだのと同じです。

この世で普通の人の基準では、一日に三食、栄養価のある食事をしても一日に七百かますしかできません。しかし、この工場ではその倍近い量をすることになります。食べる物は少なく、多めに取って三口で終わってしまいます。それで重労働をするのですから、朝ご飯を食べて、工場に向かうその途中からすでに足がふらつくのです。その足を引きずって朝から仕事をします。それはもう悲惨この上ないことです。

先生は、監獄で与えられるご飯の半分だけ食べて生きていく決心をしました。人間はパンによって生きていくのではありません。神様のみ言によって生きていくのです。どうせこのご飯だけでは死んでしまうのです。ですから、このご飯の半分で生きていこうと決心するまでに半月かかりました。自分が半分食べて残る半分は分けてあげました。どれほど精神的に幸福でいられることか。日々、感動の量をいかに増やすかが問題でした。精神的な慰めは実に大きいものでした。

生活は科学的です。労働する場合にも労働しているということを意識しないのです。労働時間は祈祷の時間でした。いつも世界的なことなどいろいろなことを想像するのです。朝八時に監獄を出発し、十時に工場へ着きます。十分間トイレに行く時間が与えられます。早くも死にたくなるほど疲労が出てきます。胃が溶けそうなほどうずくのが感じられます。それでもそのことを全然考えないのです。それを考え始めると、ただ休憩時間だけを頭に浮かべるようになります。

肥料四十キロを入れて、それを担ぎ上げるのがいちばん苦痛でした。皆それを嫌がりました。先生は、皆が嫌がるこの難しく大変な仕事を引き受けました。この大変な仕事を続けたら死んでしまいます。それで、いちばん疲れるこの仕事をやりのけるだけの体力をつくる以外に生き残る道はありません。皆さんも、いちばん難しいことを受け持ちなさい! そのように前進的に考えなければなりません。

一日に三百かます以上入れてから運ぶのですから、もはや休む暇もありません。千三百かますといえば、この講堂(水沢里)よりもっと大きな山になります。考えてごらんなさい。千三百かます。これを八時間の間に終えなければならないのです。肥料をかますに入れて、運ぶまでに五分から十分かかります。先生は平均的に五分でやってのけました。ほかの人は十五分かかります。こんなに時間がかかっては責任分担を果たせません。山を崩しながらの作業なので、はかりを移動させながら行うのですが、四〜五メートル以上動かしていては時間がかかって遅れてしまいます。そこで、あまり動かさずに入れていく方法を研究しました。

皆がこの方法に従わないので、仕方なく一人でしました。そのようにしていると、皆にも良心があり、先生が千三百かますの半分以上を一人でするので従うようになりました。先生は模範労働賞をもらいました。新しく入ってくる人には先生が教育しました。

体は硫酸の害を受けました。髪は抜け落ち、皮膚を押すと水が出てきます。六カ月以上経つと必ず喀血するようになります。たいてい肺病だといって気を落とし、死んでしまいます。精いっぱい頑張ってみても一年か二年しか持ちこたえることができません。

どれほど腹がすき、ご飯が食べたくなるかということは、言葉ではすべて表現できません。

ご飯がどれほど恋しいことか。それは死ぬという極地を越えてしまうほどに恋しくなるのです。工場に出られないときは、必ずご飯が半分に減らされます。働かない者は食べるな、というのが共産党の鉄則なのです。病気になっても、ほかの人たちと同じ一食のご飯が恋しいため、死をも厭わず仕事に出かけます。そして、最後の力を振り絞って仕事を終わらせ、帰ってきて夕食を食べながら死んでいきます。すると、その周辺にいる人たちが死んだ人のものを争って奪い取るのです。

先生はそういう中で人間の深いところまで研究しました。食べ物を慕うほどに、自分が神様を慕っているだろうか? 先生は日々比較し、照らし合わせながら過ごしてきました。「何より神様を愛さなければならない。このご飯一食を食べるためにここへ来たのではない。万人の蕩減の道を開拓するために来たのだ」と考えました。自分の行動に対し、不信するような態度は絶対とりませんでした。それで先生は有名でした。(三五・一八五)

先生はどういう人なのか、皆さん考えてみてください。先生は性格がとても短気です。一言でも悪口を言われれば、我慢できない性格です。だれかに一発殴られたら、我慢できない人なのです。また、だれにも負けたくありません。私は極端な性格をすべて持っています。そういう気質と性格を持っているので、できないことがありません。何か運動をしても、自分が勝ってみせる、という性格を持っています。頭も悪くありません。

そんな私に悲惨な境地、私の性格ではそれ以上耐えられない境地が何十回、何百回、何万回あったか考えてみてください。恥ずかしいといえば、それ以上恥ずかしいことのない境地が一回や二回ではありませんでした。しかし、これをすべて克服できたのは、神様がおられたからです。神様も先生と同様に火のような性格を持っておられるはずですが、その性格のままにやってしまえば、世界を皆掃き捨ててしまえる立場にありながら、神様はそれをじっとこらえておられるので世の中が残っているのではないでしょうか。サタンに対して復讐しようとしても、それ以上に神様が耐えてこられたことを知り、悔い改めてきたために、今日の統一教会があることを皆さんは知らなければなりません。

そのような困難と、悔しく無念な思いをこらえてきた神様のみ旨を、この復帰のみ旨を私がどうして汚すことができようか。どうして傷つけることができようか。そういう思いを持っているので、今日までこの道を歩んでいるのです。そういう立場で耐え忍び、そういう立場で克服し、そういう立場で許し、そういう立場で愛そうとする道を、私たち統一教会が行かなければなりません。(六五・三二八)

皆さんにいくら悔しく無念なことがあっても、先生の悔しく無念な思いには及びません。また、レバレンド・ムーンがいくら悔しく悲痛だとしても、神様の悔しく悲痛な思いには及びません。だから耐えるのです。そこで心情的な絆が結ばれるのです。悲しみの裏側に神様の心情的歴史の道が広がることを知らなければなりません。(一〇六・一一九)

3 信仰の試練

命を懸けて信仰の道を行こうとすれば、三つの試練を通過しなくてはなりませんが、それはサタンの試練、先駆者たちの試練、天使の試練です。しかし、教会の食口たちは、無事通過することができます。(一四・二〇二)

私たちが神様を求め、信仰の道をたどって行くとき、その道を何がさえぎるでしょうか? まず、我知らずのうちにこみ上げてくる不信の思いが行く手をさえぎります。また、罪悪の試練がさえぎり、予期できない死の力が襲ってきます。私たちはこのような不信の峠を越え、罪悪の峠を越え、死の峠を越えなければなりません。(二・一〇)

皆さんは神様に所有されたいですか?(はい)。どうやって?このくらいの穴があって、その穴を通れと言われれば通れなければなりませんか?(はい)。どうやって通りますか?

学生たちに試験を受けさせ、一番になる人を見分けるには、難しい問題を出します。だれもできないように難しくするのです。よい先生であるほど、易しい問題を選ぶのではなく、難しい問題を選ぶのです。試験問題を出すとき、それでいいですか? よい先生は、学生が楽にパスできるように易しい問題を出す?(違います)。(笑い)そうですね。

では、神様はよい先生ですか、普通の先生ですか、悪い先生ですか?(よい先生です)。絶対によい先生です。ですから、本当によい先生はどんな問題を出すかというと、本当に難しい問題を出すのです。

では、サタンと神様が試験問題を前にして「サタンよ、お前はこれが解けるか?」というとき、「それくらい、できないことがありますか?」と言うかもしれませんし、サタンが「それなら神様、あなたはできるのですか?」と言えば、「私はできるとも」と言えなければならないでしょう? 神様はできるけれどもサタンは「私にはできません」と言うようでなければなりません。そしてそこで違いが出るわけです。

神様がサタンを屈伏させるには、どんな方法を考えるでしょうか? サタンがいちばん嫌がり、いちばん悪いというのは何でしょうか? これが問題です。今、ここから神様のなされることを喜ぶ人とサタンのすることを喜ぶ人、そういう分け方が成り立つのです。

人として、あるいは学生として、試験問題が好きな人がいますか? 試験問題が好きな人はいません。しかし、試験はしないわけにはいきません。試験問題は必要なのです。どうですか? 試験問題は嫌いでも、試験を受けることは避けられないのです。それを認めますね?(はい)。同じことです。

それなら、神様が試験と宿題を出すのはどこであり、サタンが試験と宿題を出すのはどこでしょうか? これを知らなければなりません。神様の試験を受ける場所とサタンの試験を受ける場所は同じでしょうか? サタンの試験会場はどこで、神様の試験会場はどこでしょうか? 簡単です。外的世界はサタンの試験を受ける所で、内的世界は神様の試験を受ける所です。では、サタンの試験問題と神様の試験問題はそれぞれどのようなものでしょうか? 正反対です。正反対でないはずがありません。(一二三・二二五)

4 信仰生活の中の注意点

信仰者と信仰を持っていない人の違いは何ですか? 信仰を持っていない人は、家庭を中心として社会生活さえすれば済みますが、信仰者は家庭を中心として社会生活のみならず、教会生活も合わせてしなければならないのです。(二二・三六)

今日の信仰者たちは、ちょっと間違えただけで生死を左右する岐路に立たされています。(一・三九)

信仰生活をしていて、ある人から打撃を受け、またある人のために自分の道を行けなくなる人がいるのを見ることがあります。そんな場合は、自分の心をどのように作用させるかにかかっています。(二四・六五)

信仰の道は、自分なりに判断する道や自分が望む道に行ってはいけません。信仰の道は、霊界に行っている数多くの悟り深い指導者たちと因縁を結びながら、高い段階へと一歩ずつ上がらなければならないものです。ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、この三人の弟子以上の立場に行ってはじめて、イエス様と関係を結ぶことができるのです。(三二・一六四)

信仰の道に入っている人たちは、自分を中心として腹を立てるときがいちばん恐ろしいことになります。ですから、腹を立てないでください。腹を立ててはいけません。神様を信じていく途中で自分の欲望を中心に腹を立てようものなら、根こそぎ引っかかってしまいます。皆さんは、生涯の路程をこのような問題で上がったり下がったりしながら進んでいるのです。自分が停止しているのか、前進しているのか、あるいは後退しているのかをはっきり知らなければなりません。これをはっきり知った上で、もう一度努力していかなければなりません。(三二・三四)

自分は、どのタイプに当てはまるのかを知らなくてはいけません。「私はこのようなタイプなので、この分野に適している。私はこういう一般的な性質を持ち、こういう特性を持っているのでこの道に進まなければならない」ということを知らなければなりません。ある人は奉仕する使命があり、ある人は教育の責任があり、またある人は事業の責任を持つ人もいるのです。これらのことは、自分の本心を中心に心の声、つまり最初に感じるその感覚で知らなければならないのです。

春になれば、その春の日が暑いとか、あるいは寒いとかを感じるものです。また、その日の朝、気分がどうであるという感じがあります。温度の違いによって、皮膚に接する感覚が異なるのです。これと同じように、人に接すればその人の信仰レベルがどのくらい高まっているかがすぐ分かります。ですから、信仰レベルの低い人に何度か会うと気持ちが落ち込んでしまいます。何の話をしても嫌になるのです。その心は私の心ではありません。嫌になるその心を探ってみると、自分の心ではないのです。

皆さんが信仰生活において、自分の心の感情を通し何パーセントの自信を持つかということを感覚を通して検証しなければなりません。そして、その実績基準を立て、生活の基準を決めて調整していかなければなりません。皆さんのところに、先生がいつも一緒にいるわけでもなく、神様もいつも一緒におられるわけではありません。(四〇・九〇)














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