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人間の生と霊魂の世界
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第一章 人生の行くべき道

 一 私たちの人生の道

 1.一寸先も見通すことのできない人生

 人々はしばしば、「人間は来ては逝くものだ」と言います。古来より、いくら立派な聖賢君子も来ては逝きました。このような歴史の動き、このような天倫の動きは、この瞬間、私にも続いているということを考えなければなりません。来ては逝くべき私たち自身です。何の因縁と関係しているのかは分かりませんが、この地に来て、この万象と、あるいはある理念的な形態の中で身もだえして逝くことをよく知っています。では、私たち人間は何のために来て、何の目的のために逝くのでしょうか。これを数多くの哲人たち、数多くの宗教人たちが心血を傾けて解決しようとしました。しかし、解決できないままに、人類歴史はそれによる寂しさとともに今まで動いてきました。また今も、ずっと動いていっています。
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 私がなぜ来て、なぜ生きなければならず、どこに行かなければならないのでしょうか。生まれたことを、皆さん自ら生まれたものと考えてはなりません。生まれはしましたが、何の動機で生まれ、何のために生まれたのか、私を生むようにした動機と目的が分からない私たちです。生まれることは生まれましたが、私が生まれようとして生まれたのではなく、生きるには生きますが、私が生きようとして生きるのではなく、死ぬには死にますが、私が死のうとして死ぬのではないというのです。
 それなのに、自分をもち上げて何を誇るのでしょうか。自分自身が生まれたくて生まれることもできず、自分自身のその何かをもって生きることもできず、死の道を避けることもできない自らをもって何かを誇ってみても、哀れで物悲しいだけです。生まれたから生きなければならない運命であり、またそのように生き、逝かなければならない運命です。
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 今私たちは、知っていようがいまいが、ある所に向かって進んでいます。私が動く時間にも進んでいるのであり、休んでいる時間にも進んでいるのです。単に私だけではなく、この民族、あるいはこの世界、さらには天と地までもある所に向かって今、進んでいるのです。これは否定できない事実です。この一生をたどったのちに、私はどのような所に行くのでしょうか。これが、人間が解決すべき重要な問題です。宗教もこの問題を解決するために、哲学も歴史もこの問題を解決するために動員されています。ですから、皆さん自身もこのような運勢に捕らわれ、引っ張られているということを否定できないのです。
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 行く歩みを捕まえておいて、動く心と傾く心情を阻んでおいて「お前はどこに行くか」と尋ね、これを解決するために闘ってきた人々が聖賢賢哲であり、あるいは数多くの道主たちだということを私たちは知ることができます。彼らはそれを解決するために現れましたが、この日まで「私の体と私の心、私の心情、私の生命と私の理念はこのような所に向かって走るものなり。ゆえに全天下にあるすべての万民、あるいは天地に存在するすべての存在物はこちらへ行け」と、自信をもって命令した人はいないのです。
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 今日、人間の生活というものは七十年、八十年しかありません。七、八十年しかないこの短い生涯路程において、歴史的にこんがらかった善の圏をすべて収拾しようとするなら、億千万年かかってもできないということを、心は知っているというのです。ですから、この短い七、八十年のこの期間において、善なる圏を因縁づけるべきことが、そのように膨大にあるということを知っているこの心、良心はどれほど催促するかというのです。
 死んでは駄目だというのです。死ねばできないのです。生きている間、因縁を結んで地上で祖国光復をし、本郷の地を求めて天の主権者に侍り、その民とその国で生きて逝ってこそ、天上天国に行けるはずですが、その世界に行くことができず、その世界を見つめることができないこの心が、どれほどせわしいかというのです。
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 どうせ逝くべき私自身だとするなら、この体はどこに行こうとするのでしょうか。この心はどこに行こうとするのでしょうか。またこの生命はどこに向かって傾いていて、私の心情はどこに行こうとするのでしょうか、また私の願い、あるいは希望と理念はどこに行こうとするのでしょうか。
 この問題を解決できないとしても、私たちはいずれ逝くべき運命に置かれているのです。私たちが生きたのちに死ぬ日、この体は土に埋められることによって終わるはずです。では、体が埋められるその日は、心も、この生命も、この心情も、この理念も、あるいは願いまでも共に埋められてしまうのでしょうか。消えてしまうのでしょうか。ここにはっきりとした内容と、はっきりとした解決点と、はっきりとした目的観を立てておかない限り、人は不幸な人であらざるを得ないのです。
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 私たちは何を中心として生まれ、何を中心として行くべきであり、何を目的として行くべきでしょうか。これは神様を抜きにしては絶対に駄目なのです。神様を抜きにしては動機のない因縁になるのです。動機をもつことのできない人は、あることを成就しようとしても、その結果を収めることができないし、価値を認めてもらえないというのです。ある建物を建てるときは、設計者が設計した設計図によって建築をします。設計の原本もなく造られた建築物は、設計者が目的とした建物になり得ないのです。
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 出発を誤れば、とんでもない所へ行くのです。それゆえに船が大海を航海しても、出発した港から羅針盤を中心として、行くべき目的地に向かって方向性を描いておいてこそ行くのです。それでは、人間が出発した港はどこでしょうか。分からずにいます。羅針盤をもって彼岸の世界に到達できる、目的地を描いて行くことのできる方向性はどこにあるでしょうか。ないのです。これがくねくねと、自分勝手に行ったり来たりしました。このように考えると、人間はいくらやってみたとしても、人間として終わるのです。


 2.私たちはどこに進んでいるのか

 人生をこのように生きていく目的は何でしょうか。この問題を再び考えてみなければならないのです。動機が自分によるものではなかったので、目的も私だけのものではないに相違ないのです。暮らすことにおいて幸福な立場を嫌う者はいないし、豪華絢爛な立場で生きたくない者はいないと思いますが、思いのままにできないのが私です。しかし、また自分自身を誇ってみたいし、思いのままに生きたいし、思いのままに残りたい私です。このような心情の交差点をもった私だというのです。
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 秋の季節が来たという事実は、冬が迫っているということをいうのです。冬は、生命があるもののみが通過できる過程です。生命をもっていないものはすべて、ここで後退せざるを得ないのです。それで、冬が来る前に新しい生命を注入しろというのです。新しい生命は新しい愛を中心とした新しい主義と思想、そして、新しい人生観、新しい世界観、新しい宇宙観をもたなければならないのです。そうでなくては冬の季節を通過できません。冬の季節を通過できる生命力をもつようになれば、それを通過する過程は難しいけれど、行けば行くほど春が近づくのです。春が訪ねてくるというのです。統一教会はその道を行くのです。
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 私たちはこの世に生きていますが、この世だけではなくて霊界があることを知っています。この世と霊界は二つの世界ではなく、一つの世界として連結しています。私たちが行くべき所、私たちが行って住まなければならないその場所とはどこでしょうか。私たちは肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かって行っているのです。一般の人々はこの世に生まれ、十代、二十代、三十代を過ぎて青春時代を過ぎて壮年時代に入っていくようになれば、どんどんと一つの峠を越えて、その次には老年時代に入っていくようになるのです。このように、沈む太陽のように一生を終えます。
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 霊界があるという事実を知っている人たちは、人生というものがわずかの間で、死んだのちに私たちが迎えなければならない世界が永遠だということを知っています。ゆえに一生の期間とは、永遠の世界を準備するための期間だというのです。世の中とはそのようなものではないですか。
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 人はどこへ行くのでしょうか。霊界に向かっていくのです。霊界は海と同じです。どうせ行かなければならないのです。海にも流れがあるのと同様に、そこには調和無双な変化があります。海には主流の流れを中心として、淡水にはない調和の存在があります。海に数多くの魚族がいるように、そこには数多くの新しい天地の家庭がいます。あの世に行くようになっても同じです。
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 人はどこへ行くのでしょうか。天国へ。このようになるのです。天使はどこへ行くのでしょうか。天国へ。父母はどこへ行くのでしょうか。天国へ。それだけでなく、育てた子犬はどこへ。地獄ではありません。昔避難する時、北韓でとても良い生活をする金持ちの家に、とても高い犬だと自慢していた人がいました。その人が避難するとき、犬をしっかり門に結んでおいて、「おい! 元気でな。私だけ行ってくるから」と言うのです。私たち統一教会の食口たちは、それではいけないのです。今からは犬も天国へ。すべての万物も天国へ。主人が行く所には、どこでもついて行くことができるというのです。
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 霊界と肉界、人間の混乱した思想界の複雑なことをすべて打開して、このように単調で簡単な一つの方向が設定されて、明確な一つの価値観を私が見つめていくようになったという驚くべき事実を知らなければなりません。その段階ごとで力が分散されるのではありません。段階が発展すれば発展しただけ、力が共にあるのです。愛の原動力が私の生活圏に反応するのです。ですから、愛から生じ、愛を受けて愛したのち、愛の世界へ行くのです。神様に帰っていくのです。結果は原因へ帰らなくてはならないでしょう。ですから、神様のような考え方をもたなければならないというのです。
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 私たちはどこへ行くべきでしょうか。死線を越えてでも行くべき所とはどこでしょうか。神様を求めて、その神様に仕え心から喜んで楽しむことのできる日、私の心の世界で「これ以上の願いはありません」と言うことのできる一時を迎えなければなりません。そのために、私たちは困難に耐えて、無念さに耐えて、悔しさに耐えながら、この世界を越えていかなければならないのです。このような世界を越えていく自分自身になっていない限り、世界と共に消えるのです。
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 人間は何も考えずに流れに任せて生きながらも、死ぬことを嫌い、「なぜ生きなければならないのか。根源がどのようになっていて」と、皆さん、疑問が多いでしょう。そのすべての疑問は、人間の哲学書だけでは解決できないのです。哲学というのは、今まで神様を求めて行く道を開発したのです。宗教は何ですか。神様を知って、共に生きる生活から始めることが宗教生活です。
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 霊界を無視しては駄目です。これが行く原則であるゆえに、いくら優秀な人もその原則に合うようにこの地上に生きて一体理想、均衡的な平準化を成し遂げなければならないのです。相対的平面です。均衡を取って、九〇度を中心として引っ掛からないで水平に回らなければならないのです。それで、三六〇度を回りながらも、ここで引っ掛かってはなりません。サタンが少しだけ口出ししても引っ掛かるのです。ですから、回っても、回っていないように見えるこのような歴史をもつ人が入っていかなければならないのです。家庭の本格的な再検討時代が来るのです。統一教会検討時代です。これからは教会がなくなるのです。神様に侍って暮らすことのできる本然の時代です。
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 生命圏、愛圏、血統圏の堕落、全世界が引っ掛かっているこのことが、同じ条件と同じ公式なのです。同じ公式の条件に引っ掛かっているのです。それゆえに、どんなことがあってもサタン圏の、自分の肉体が要求するすべてを放棄し、良心圏が願う所に一〇〇パーセント移動すれば地上天国圏に立つので、神の国、地上天国世界と天上天国世界を境界なしに無限に通じることができる自由圏を得ることができるのです。そちらへ越えていかなければならないという自覚をもたなければなりません。このような難しい問題があるということを、人間は知らずに生きているのです。人間は、このようにもつれた背後の内容があるということをみな知らずに生きて霊界に行くので、地獄に行くのです。
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 私たち人間は、生まれると一度は死ぬようになっています。ところで、死ねばどこへ行くのでしょうか。煙が消えてしまうように消えてしまうのではありません。必ず霊界に行くようになっています。霊界に行くようになれば霊界の国があります。では、その霊界の主人は誰ですか。神様です。それゆえにその神様の息子、娘にならなければなりません。神様の息子、娘になることができなければ天国に入れないのです。
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 霊界があるならば、霊界はああしたりこうしたりと変わると思いますか。「人の心は朝夕に変わり、山の色は古今同じである」という言葉もありますが、霊界は変わりません。神様がいるならば、その神様は変わりますか。神様は変わりません。神様が統治する霊界の国があるならば、その国は変わりません。億千万世に定めた法に従って生きながらも、不平不満を感じないで順応と柔和の道理に従って、厳然と存続し生存するのです。そこには革命家は必要ないのです。革命をすれば、すべて滅びるのです。
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 皆さんはカナン福地に入らなければなりません。この地球星がカナン福地になっているために、天国の外的世界が近づいてきたがゆえに、地球村時代が来ます。人工衛星というものがあって、座っていても天上世界を旅行できる時代が来ました。相対圏の人工衛星時代が来るのです。その次にはコンピューター時代が来るのです。霊界にコンピューターがあって、一生のすべての記録が現れるのです。人生の歴史やすべてのものをあっという間に知ることができる時代になったのと同じように、統一教会を中心として地上地獄膨脹主義時代から地上天国出発時代へと交代するのです。
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 アダムとエバがエデンの園で、食べ物のお金を払って食べたのでしょうか。すべてただです。このように見るとき、霊界に行って住むときも、すべての環境的条件をつくられた神様が、人間に無限な価値をただでくれたがゆえに、霊界に行っても無限な価値の存在がすべて自然に供給されるのです。その霊界は、神様が住まわれる本郷の地です。ここでは、お金を出して買って食べないのです。私たち人間の想像が及ばないほど、すべてのことが可能な補給地です。皆さんはその霊界を知らないから、分からないのです。本来の堕落しない後孫ならば霊界を知っているのです。
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 なぜ本郷を恋しがるのですか。父母に対する愛、兄弟に対する愛、夫婦に対する愛、その地に対する愛、故郷山河に対する愛と同じです。あの世でも真の愛という全く同じ公式になっています。本郷には父母がいて、夫婦がいて、兄弟がいます。すべてのものがそこにあります。立派な食べ物もあるのです。食べ物も、見える食べ物と見えない食べ物を合わせてこそ本当の食べ物になるのです。なぜ私たちがこのように苦労をするのですか。故郷に行くためです。そのような希望に満ちた霊界の相続を受けようとしてそうなのです。
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 故郷というのは、制限されたここだけのことをいうのではありません。どこに行っても、故郷で暮らすように生きなければならないのです。どこに行っても、一生を恋しい故郷で暮らすのと同じ心をもって生きなさいというのです。大韓民国の四千万を中心として和合し、そのように暮らすことのできる人は、あの世に行けば霊的な人格の価値が大きくなります。このようなことを知って、故郷を考える時は必ず霊界を思いながら愛の人格を備えて、父母のように、お兄さんのように、お姉さんのように「ため」に生きなさいというのです。それとともに、自らの愛と生命を投入し息子、娘を育てて、もっと立派な子孫を故郷の地に残すという心をもたなければなりません。そのような思想をもって暮らしてあの霊界に行くようになれば、すべてが私の故郷の地になるのです。
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 私たち統一教会の食口たちは、どのような道を行かなければならないのでしょうか。神様が願う道に従って行かなければならないのです。天意の道に従って行こうというのです。天意とは何ですか。天意には個人が行くべき天意の道があり、家庭が行くべき天意の道があります。そして、社会が、国家が、世界が、霊界まで……。皆さんは霊界を知らないでしょう。その分野の専門家が文先生です。霊界は間違いなくあるのです。


 3.一生は霊界へ行く準備期間

 いくら考えても自然世界の摂理はやむを得ないのです。皆さんも死なないことを願うでしょう。死なない自信がありますか。自然が調節するのです。霊界の法に従っていかなければならないのです。それと同じ道理です。
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 霊界が私たちの故郷の地です。本然の故郷の地です。この地は本然の体の故郷の地であり、霊界は本然の心の故郷の地なのです。この次に行く所が心の世界、霊界です。それゆえに、ここであらかじめそこに合わせて訓練をしてこそ、そこに行っても支障がありません。アメリカの人々は、ハンバーガーを食べなければなりませんし、チーズを食べなければならないでしょう。韓国の人々は、キムチを食べ、唐辛子みそを食べなければなりません。霊界にもハンバーガーがあるのか、キムチがあるのか知りませんが……。ですからここで、そこに拍子を合わせるようにすることによって、あの世に行って苦痛がないのです。
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 今まで一般の人々は死ねばすべてなくなると考えたのですが、そうではありません。霊界があるので、そのままつながるのです。その霊界に行くためには地上で準備をしなければなりません。霊界に行けば愛によって呼吸するために、地上で愛を中心として生活してこそ、そこでも自由に呼吸できるのです。地上で愛を中心として生活しなければ、そこで自由に呼吸できないのです。霊界は、愛を呼吸する世界です。愛が空気のような世界だと自由に考えればいいのです。第二の新しい出発を「死」というのです。それゆえに、そのように怖がる必要はありません。死は新しい出発の門を開くのです。
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 霊界が故郷です。故郷に帰って永遠に暮らすことのできるその基準を、地上で合わせて逝かなければなりません。地上生活で自分の思いのままに、今までの世の中の何も知らない人々のようには生活できないのです。霊界を知って、そこに合わせて生きることによって、この世を離れるようになる時、神様の前に行って天国と関係を結ぶことができるのです。そうでなければ、不可能だというのです。それゆえに皆さんは、霊界に対する事実をはっきり知らなければなりません。
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 霊界は愛の空気でできていますが、皆さんの霊人体が準備をせずに天国に入っていけば、息ができないのです。ここは空気で成っていますが、あの世界は愛の霊界です。皆さんの霊人体が愛を感じることができるように準備をしなければなりません。そのようにできなくて霊界に行けば、関係を結ぶことができないのです。これが問題です。問題が大きくなります。何千万年はかかるのです。
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 皆さんは、本然の愛で愛さなければならないのです。それゆえに霊界に行くようになれば、霊界は愛が空気になっています。細胞が愛化することを体験してこそ、すべてのものが自然らしくなるのです。細胞はすべて呼吸するでしょう。愛の細胞をすべてどこで育てていくかといえば、真の夫婦になって神様の愛を中心として育て、神様の世界に行き愛の空気を永遠に吸いながら暮らすのです。それでこそ死にません。愛が根本であるがゆえに、愛をもてば何でも自由に実践躬行できる世界だというのです。愛する人のために何でもつくり、何でも創造できるのです。そのような霊界があるのです。私たちの本郷があります。
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 塩水と淡水は何が違いますか。味が違うのです。塩水は塩辛く、淡水は何の味もありません。同じです。この地上では味がありません。しかし、霊界に行けば味があるのです。水は生命を伴うことができる力をもっていますが、塩は生命を生産するために必要なものです。
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 水は、海深くまで行かなければならないのです。いくら大きい川を流れる淡水であっても、海に入っていけば塩水になります。いくらきれいだといわれる有名な河川水でも、海に入っていけば間髪を入れず、さっと変わるというのです。全く異なる色合いと味とに変わるというのです。これと同じように人間たちは、すべて霊界へ行くのです。淡水で生きたそれが、そのまま通じないのです。海水になるのです。
 ですから、宗教人たちは、生きていきながら塩水を加えることができる資格をつくらなければならないというのです。そうすれば、霊界に行って相反しないのです。万一、淡水がそのまま入っていってしまえば問題が起こります。人間もそのまま霊界に入っていくようになれば、大変なことになるのです。
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 河川水はどこへ行きますか。海へ行くのです。海水と河川水は違うのです。地上は河川水と同じであり、霊界は海水と同じです。それゆえに人間はどのような者も、地上で生きた者は霊界にすべて入っていきます。淡水と塩水と混ざった場合には、淡水魚は塩水ではどのようになりますか。淡水魚は塩水では死んでしまいます。突然に入っていけば窒息します。それゆえに、慣れなければならないのです。
 水の色合いも同じで温度も同じだった場合には、どこにある水を飲んでも何でもないのと同じです。地上世界と霊界の世界が突然に連結した場合には、淡水魚が塩水と出合って死ぬのと同じになるのです。どのように呼吸しますか。大変なのです。鮭が塩水から淡水へ上っていくのには二週間の期間を費やして、少しずつ慣らしながら上っていくというのです。呼吸が苦痛でないようにしながら、歩調を合わせて移動していきます。
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 海へ入っていく時の気分はどうでしょうか。「ああ、入っていきたくない!」と言うでしょうか。皆さん、そう思いますか。皆さんに、死んでしまってどこへ行くのかと尋ねると、みな「霊界へ行く」と、そのように言うでしょう。それでは、その霊界へはどうやって行くのですか。死んで行くのです。かといって、誰でも死んでみたくはないものなのです。
 それでは、河川水が流れてついに海に入っていくようになれば、どのようになりますか。河川水が海水をかぶると、どのようになりますか。「ああ、気分いい!」そのように言うのですか。すべてのものが小さくなってしまったような衝撃を受けるのです。縮小されたとでもいいましょうか……。最も大きいものから最も小さなものになってしまったような、大きい衝撃を受けるというのです。
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 霊界に行きたくないとしても、誰でも行かなければならないでしょう。ここで自分は絶対に死なないという人、手を挙げてみてください。いくら刀をテーブルの上に刺して誓っても、人間は死なざるを得ないのです。死ねばどこへ行きますか。霊界に行きます。そこは大きい川と同じです。いくら大きい川といっても、流れていってすべて海に行くのです。「海に行くことができない。海に行きたくない」と言うのは、生きているけれど死んでいるというのです。それは存在の価値をもっていないことと同じです。
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 私たちが霊界に行く前に、私が何をして暮らしたのかと、私たちの生活を一度ずっと反省してみる時、それは深刻な問題です。皆さん、霊界は未知の世界です。霊界はどうせ行かなければならない世界ですが、未知の世界だというのです。無限拡大の世界です。そこに行くようになれば、皆さんの先祖にすべて会えるのです。数千、数万の先祖と一遍に会える所です。彼らが皆さんを迎えるようになる時、評価するのです。
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 準備といっても、易しい準備はありません。それゆえに一生を見る時に、少年時代は青年時代のための準備時代であることを知っている人は将来性があるのです。壮年時代は老年時代のために準備しているのであり、老年時代は霊界に行く準備をするのです。一生自体は大宇宙の人格を備えるために一つの訓練過程をたどっている修練期間であり、準備期間だということを私はよく知っています。
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 今はビザとか国境が問題になるためにできませんが、言語だけでも統一されれば、どこでも私の故郷のように、私の国のように暮らすことのできる時代になるというのです。どうせ、そのように行かなければならないのです。ですから、ソ連でもアメリカでも、みな一つの家族のように生活しなければなりません。今後はテレビのようなものも、財布のように小さいものを作るのです。今でもそうではないですか。ポケットに入る小さいテレビも出ているでしょう。ですから人工衛星を中心として、すべて見ることができる時代に入ったというのです。どこに行ってもです。そのように集約された小さな世界が、すべて入ってくるというのです。
 人間生活が便利に、どこでも移動できるようになるのです。そのような小さなものを車一つにすべて積んで、行き来しながら暮らすことのできる時代にならなければなりません。そうなれば、いいでしょう。韓国を離れて七十、八十歳まで世界一周をしながらですね。そのような時代が間違いなく来るのです。先生は、そこに対する準備をしているのです。


 4.生涯はあまりにも短い

 人間の一生は短いのです。生涯において十年がいつ過ぎたのか知らないのです。結婚して三十年以内に、すべてのものが決定されるのです。それゆえに、人生の道はいつも待っていません。忙しいのです。そして、一回ずつみな死ななくてはなりません。死なないですか。死なない自信がありますか。死ななくてはなりませんね。死ねばどこへ行きますか。霊界があることを知っていますか。先生は霊界を知っているがゆえに一生をかけてこの仕事をしています。世界をすべて料理しながらです。この世はつかの間です。十カ月の腹中生活と同じです。
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 統一教会は、その霊界へ行くことができる準備をするのです。ですから統一教会は、霊界で合格するための準備をする所です。では、そこで完全に合格するか、不完全に合格するかというのです。また、落第生になって不合格になることもあるというのです。このように見る時、皆さんは霊界に行く準備を地上でしなければなりません。地上という所は、旅人の旅路のようなものです。いろいろな過程を通過します。女性としてある父母から生まれて育ち、今は年も取るだけ取ってどこで生まれたのかも分かりませんが、そのように育ち男性に出会い、共に道を歩んできながら愛を通して子供も生むようになります。そのようなことをしていきながら苦労するのです。ちょうど苦労して馬車を引っ張っていくように……。
 ところが、その車がいつ故障するか分かりません。険しい岩の道を通ることもあるでしょう。そこで誤ってしまうと故障するのです。故障すればどのようになりますか。これ以上行くことができません。それを修理しなければなりません。修理する能力がないと大変です。それで、力や能力がない場合には一年もかかり、二年もかかり、十年もかかるのです。そこを抜け出てくることができなければ死ぬのです。そのような旅路を行くのです。時には旅館に入っていっていろいろな人に出会ったり、時には立ち寄る所もいろいろあるでしょう。人生は、一つの旅行の道のようなものです。そうして行く所が結局は霊界なのです。
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 一生というものは早いのです。一生は本当に早いのです。物事の分別がつき事情を知って、ああだこうだしているうちに四十を越えればすぐ五十であり、十年はつかの間です。五十ならば六十はつかの間で、六十になれば七十がつかの間で、私も静かに考えてみると「一場春夢」という言葉を実感するのです。
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 私たちの人生の一代というのはつかの間です。この一代が永遠の尺度を上げたり下げたりするというのです。秤と同じように上がったり下がったりするのです。そのようになっているというのです。
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 皆さん、見てください。皆さんが八十年生きたとしましょう。その中で夜に寝る時間を除くと四十年に減ります。半分に減るのです。寝ることも生きていることですか。寝ることは死んだことと同じです。寝ることは死んだ命なのです。それゆえに、二十四時間の中で生きようとあくせくする時間は半分にしかなりません。
 またここで御飯を食べる時間を一時間ずつ抜いてしまうとどうですか。御飯を食べる時間を一時間と考えなければなりません。またその中で友人の祝宴の日、町内の人の還暦日、誰かが死んだ日、葬式を執り行う日、病んで横になっている日、あらゆる日を除くと、生涯において生きている日が半分にもなりますか。この前計算してみると、生きているということが七年と出てきます。その七年の中で「本当に生きた」と言うことのできる日が何日出てくるかです。何日にもなりません。
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 この肉身世界は短い期間なのです。長くないというのです。それを知れば眠る時間が惜しいのであり、御飯を食べる時間が惜しいのです。御飯を食べることも行きながら食べます。寝るのも行きながら寝て、遊ぶのも行きながら遊んで……。それはどれほど悲惨ですか。そうであればあるほど、世界の誰も受けられない福を受けるのです。これは歴史的な内容だということを、皆さんが知らなければなりません。
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 自分が運を百ぐらいもって生まれたのに、百二十ぐらい生きて逝く人は、子孫が滅ぶのです。人の運はゴムひもと同じで、縮められるのです。しかし、八十ぐらい生きて死ねば二十ぐらいの福を残し、その運勢を子孫の前に相続してあげて逝くことができるというのです。そうでなければなりません。
















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