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人間の生と霊魂の世界
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二 死に対する正しい理解

 1.死は人生必然の道

 人々は七、八十年生きればよい、死んでしまえばそれまでだ、といいながら死ねばおしまいだと思って今まで生きてきた人々が多くいます。しかし歴史路程を通じ考え深い人々は、どのようにすれば人が死なないで永生できるだろうか、もっと生きることのできる道はないかと考えてきました。み旨を抱いた人であればあるほど「人生とは何か。人間はなぜやって来て旅人のように逝くのか」と言い、「人生は苦海」とか「草露の人生」だという話をしてきましたが、永生することさえできるならば、そのように悩む必要がないのです。
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 歩みをとどめて、揺れ動く心と傾く心情を抑え、「お前はどこへ行くのか」と尋ねて、それを解決するために闘ってきた人々が聖賢賢哲であり、あるいは数多くの道主たちだということが分かります。彼らはそれを解決するために出てきましたが、今日まで「私の体はこのような所へ行って私の心と私の心情、私の生命と私の理念はこのような所に向かって走るのである。だから天下のもとにいるすべての万民、あるいは天地に存在するすべての存在物はこちらへ行きなさい」と自信をもって命令した人はいません。
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 皆さん、ここで永遠に生きますか、無形の愛の実体になったところで永遠に生きますか。神様が無限な創造世界を見せたいと思う時、皆さんはこの体で神様についていくことができますか。ですから霊人体が必要なのです。これは妄想ではなく、事実なのです。見えない精神の中心となる神がいるならば、その神が相対的存在を必要とするならば、人間を連れてきて自分が創造した永遠なそのすべての理想圏を見せてあげたいし、与えたいことでしょう。
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 一つしかない服を着たならば、それを誰かがはがそうとすると、死んでも脱がないようにするのです。春夏秋冬の季節の服をきちんとしておいて、今は春なのに冬服を着ていたならば「これは冬服だ、脱ぎなさい」、夏に春の服を着ている人には夏服を持っていってあげて「脱ぎなさい」と言わなければなりません。そのようなことを知らなかったというのです。人間の死の問題も同じだというのです。代替することができる、より価値のあるものが何かを知らなかったというのです。
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 天は人間的な希望を中心として生きている地上の人間をして、新しい希望をもって死の峠も越えることができ、永遠の世界を欽慕しながら暮らせるようにするために無限に心を砕かれたのです。それゆえに信仰生活をする人々は、地上の希望を抱いて生きるのではなく、死までも越えることができる希望を抱いて、永遠なる希望の世界を夢見て生活しなければならないということを教えてきました。
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 皆さんは、すべて霊界に行かなければなりません。それが一つの国ですか、二つの国ですか。一つの世界です。それでは、その世界で生活する内容とは何でしょうか。それを考えてみましたか。水の世界の魚は水の世界を離れては生きられないのです。水が絶対的な生命です。河川水に暮らす魚が河川水にだけにいては駄目です。海水にも行ったり来たりしながら生きなければならないのです。
 なぜそうあるべきですか。淡水の魚は海水と接するその水を味わうことなしに繁殖することができません。それを知らなければなりません。海に暮らすものは必ず淡水に来てその水を味わってこそ繁殖するようになっています。二つの世界に通じなければならないのです。心と体もそのようになるのと同様に通じなければなりません。
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 死の道は、友もいない道です。愛する父母もいない道であり、愛する兄弟もいない道であり、愛する夫婦、愛する子女もいない道です。ただひたすら一人で行かなければならない道です。行ってみることもできず、行けば戻ってくることができない道、一度行けば永遠に帰ってくることのできない道ですが、この道を行くようになる時に、皆さんはどのような心をもって行くのでしょうか。皆さんが死に逢着する瞬間、その死を越えて立つことができる希望がないとするならば、そこでおしまいです。
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 韓国語の中にどういう言葉があるでしょうか。年を取って死ねば、「帰られた」と言います。おじいさん、おばあさんがなぜいらっしゃらないのかと尋ねると、「帰られた」と言うでしょう。どこへ帰ったのでしょうか。霊界へ帰ったのです。
 本来、無形の神様から出発したがゆえに、本然の故郷は無形の世界です。無形の世界から有形の世界を経て地上で繁盛して暮らして、その次には再び無形の世界へ帰っていくのです。そのように帰るのです。無形の父から出発し、有形の父の体を借りて生まれて暮らして、有形世界の体を脱いで本然の形態へ帰ることが、霊界に行くということです。
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 人間の男性、女性は、すべて五官をもっています。その中で頭に四官があります。目、鼻、口、耳、手、これで五官ですね。ここで一番重要なものは頭にあります。この頭にある四官というものは、神様を中心とした霊界を象徴します。肉体とは別個の世界でしょう。その頭は思いのままに回ります。それはなぜ回るのかといえば、四方を見るために、四方を聞くために、四方のにおいをかぐために、四方に向かって話すためにです。それゆえに、もし頭が回らなければどのようになりますか。とんでもなく不便だというのです。
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 この地上に生きている人間は、第三世界である本然の世界に帰らなければならないために、愛の世界に行って暮らすことのできる私になるため、愛の世界において呼吸器官のようなものを準備しなければなりません。この肉身を破裂させて出ていくのです。赤ん坊がみな、赤ん坊の家を破裂させ、破壊しておなかから出てくるのと同じです。それで、産みの苦痛を受けるでしょう。同じように第二の産みの苦痛が死です。
 肉身が生きている間には何を準備しなければならないのでしょうか。水の中で空気とすべてのものに合わせることができる呼吸器官を準備したように、この肉身の世の中で準備することは、霊界に行き愛の器官を中心として呼吸できる準備をしなければならないというのです。そうして、体をすべて破裂させて出ていくようになれば、愛の器官を中心として呼吸し、制限的環境に生きてきたことを越えて、無制限に自由奔放な人間として生きなければならないというのです。
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 私も神様に似てみたいし、神様も私が神様の息子、娘であるならば似るようにしてみたいという観念をもつことは必然的なのです。ですから、私は神様に似てみたいし、神様は私を連れていきたいということを可能にする道を模索するはずです。それで、人は再び神様と似ることができる体をつけて生まれるべきだという結論が出てくるのです。そのように生まれる日を神様も待ち焦がれるはずであり、人間も待ち焦がれるはずです。
 そのような人として生まれる日、そのような体で生まれる日、それは必要ですか、必要ないですか。これが、死だというのです。それでは、人間は死を歓迎しなければならないでしょうか、歓迎してはならないでしょうか。死ぬにおいて何のために死ぬのかというときに「神様の真の愛のために死ぬ」と言うべきです。ですから、肉身を脱ぐことは無限な神様の愛の活動圏に私が同参するためであり、神様の愛の世界のためだというのです。
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 神様の愛の中に生まれることが死ぬことなのですが、人間世界では「ああ、死ぬ」と大騒ぎするのです。それでは、神様はそれを見てゲラゲラ笑いますか、それとも「うー」と言うでしょうか。人間世界では泣いたりわめいたりしているのを神様が見るとき、悲しむでしょうか、喜ぶでしょうか。制限された愛の圏内から無制限の愛の圏内へ突入できる喜びを迎えることができる瞬間が、第二の出生の瞬間、死の道を通過するその瞬間ではないでしょうか。
 それなら神様が皆さんの肉身が死ぬ日を喜ぶでしょうか、第二の無限拡大世界の愛のために活動する息子として生まれるその時間を喜ぶでしょうか。なぜこのような話をするのでしょうか。皆さんが死の恐怖から解脱しなければ神様と関係を結ぶことができないという事実を知らなければならないからです。
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 神様の息子として本当に生まれる日には……。あの無限な星の中で、ダイヤモンドの星の世界があると思いますか、ないと思いますか。それを考えてみてください。ダイヤモンドが欲しいでしょう。「金だけでできている星はない」とは言えないのです。それはあり得ます。
 私たちの父である神様が、どれほどお金持ちでしょうか。考えてみましたか。無限なこの宇宙をあっという間に往来できます。それに関心がありますか。本当に関心がありますか。そうしようとするならば、神様が「やってはいけない、やりなさい」というその法度を守ればよいのです。そうすればそれが可能であって、自分勝手にしては可能ではないということは理論的に正しいのです。皆さん、神様が「やってはいけない、やりなさい」ということを守ることができますか。「人は二重になっていて、心が主体で体は相対なので、心と体が一つになりなさい!」。これは正しいですか、間違いですか。
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 神様の恨とは何ですか。真の息子、娘を心情的完成者として教育できず、兄弟的心情を教育できず、夫婦の心情を教育できなかったことです。この地上において夫婦がこうでなければならないというその心情的基準で教育できず、夫婦になって母となるところにおいてはどのようにしなければならないかという教育をすることができなかったというのです。これが、人生の教本だったのに、その教本をすべて失ってしまい自分勝手に生きる人間像になってしまったので、霊界に行く時は地獄に行くのです。
 地獄に行くにも、一つの所に行けないのです。地獄に行っても放浪するあらゆる群れがいるのです。これを収拾しなければならないのがアダムとエバですが、知らずに堕落したから完成がないのです。それゆえに、すべてのことを知っている神様が責任を負うのです。救援摂理を誰が主導するのかといえば、神様が主導し、復帰摂理も神様が主導しなければならず、再創造摂理も神様が主導しなければならないのです。


 2.死は三世界を連結する過程

 私たち人間の一生は腹中時代十カ月、肉身時代百年、そして霊魂時代の千年万年を永遠に生きていきます。私たちの顔を見れば口、鼻、目、三段階になっていますが、これは人間が生きていく三時代の姿を見せてくれているのです。口は物質の世界である腹中時代を象徴し、鼻は人の世界である地上時代を、目は霊界の天上時代を表しています。
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 皆さん、人は最初生まれる時、最も深い水の中で生まれるのです。腹中時代は水中時代です。赤ん坊が母の胎内にいる時は、水中にふわふわ浮いています。さっと考えれば、母の腹中時代には息が詰まって生きるのが難しいように感じられます。しかし赤ん坊は胎内が宇宙です。そこが水中でも、赤ん坊にはその世界が自由天地なのです。水中に生きているので当然、水を飲んだり出したりすることをしなければならないでしょう。そのために、腹中の子供たちはホースをおなかに連結して暮らすのです。
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 人は三世界、蘇生、長成、完成時代を経るのです。腹中での水世界、それから地上での地球星世界、その次には天上での空中世界で住みます。言い換えれば腹中水時代、地上に生まれて暮らす百年地上時代、それから飛び回る空中時代、このように三時代を経るのです。
 腹中にいる時は外側の世界へ行こうとしますか、ここにくっついていようとするでしょうか。このくらいの穴から私が抜け出さなければならないならば「うー」と言いますか、「ああ、これはいい!」と言いますか。「そうするならば、あなたがいる家がすべて破壊されて、あなたが住んでいた所の栄養価値とすべてのものが壊れてしまい、あなたの頭も長くならなければならないし、体も伸ばさなければならないのに、それでも良いのですか」。そう言えば、その時すべて「ノー」と言いますか、「イエス」と言いますか。生まれる直前まで、母は死にそうになりながら、力を入れて子女が生まれるその時間まで「ノー、ノー、ノー」としつつ、ぐっと……。追い出すので出てくるのです。それで、一つの世界はなくなり、次の世界でまた「ふうふう」息をするのです。
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 この地球星が母親のおなかです。このことをはっきり知ってください。腹中時代には何によって食べて息をしますか。口で息を吸い、鼻で息を吸いますか。どこで息をしますか。食べるのもへそで食べて、息もへそで吸うでしょう。へそですべてするから食べる口も必要ないし、息を吸う鼻も必要ないのです。それでは、見ることができる五官が必要ですか、必要ではないですか。必要ないのになぜぶら下がっていますか。目があり、鼻があり、口がなぜありますか。外に出て使うためにあるのです。
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 腹中時代には五官を使いますか。五官が必要ないでしょう。おしっこもしないし、うんちもしないし、すべて死んだようになっています。十カ月そのようにしているということが不思議ではないですか。おしっこやうんちは真の愛より先んじることができないというのです。おしっこやうんち自体が人より先に出てくることができないのです。アダムが出てきた次にそれが始まるのであって、先になることはないのです。そのようになっているというのです。
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 人間を見ると腹中時代には水を飲まなくてはなりません。人間の四分の三は水です。人間の世界は空気の世界をいいます。それゆえに水中にいる時は目、耳、鼻など五官は必要ないでしょう。水で五官が必要ないから目を閉じて微動だにしないのです。腹中で十カ月育つとき、鼻で息を吸ってみましたか。鼻で息を吸っては死んでしまいます。五官が完全にふさがっているのです。ところが、鼻がなぜ必要ですか。次期の世界を準備するのです。
 これが、順次に呼吸器に入っていくならば、このあらゆることを破壊して出てこなければならないのです。ただこれも切ってしまわなければなりませんし、母の子宮や水の家すべてを破壊して出てこなければなりません。それはどういうことかといえば、子宮と水の袋、その環境がすべて破壊されるのです。死ぬのです。水中世界に破壊と終末を告げて、新しい出発が始まるのと同じです。
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 へそに緒がついているのを再び使わなければなりませんか、切って捨てなければなりませんか。切って捨てなければなりません。「その人の命綱であるのに、人と人との命綱を切ってしまうのですか」と言うかもしれません。それを見る時に赤ん坊は「死ぬ」と「わーわー」泣くけれど、神様が見る時は笑いますか、泣きますか。全く同じです。
 空気の世の中で今まで、霊人体が体にくっついて胎児のように肉身を吸い取っていましたが、肉身がすべて老いてしまったのでけ飛ばして出ていこうとしているのに、肉身が「ああ死にたくない。死にたくない!」と言うとき、神様が見ればほほえみますか、「ああ」と同情しますか、「この娘め、こいつめ」と言うでしょうか。赤ん坊が生まれて父母の前に愛の対象になり、父母と愛の友になることができるのが地上世界です。そして、父母と愛を共にすることができる地上世界に生まれるのと同じように、霊的無限な世界に通じることができる父母であられる永遠な神様と愛を交わすことができる霊界に生まれなければならないのです。
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 地上で愛を呼吸する人は死んでいるのではなく、生きているのです。腹中で呼吸をするときは、未来の空気世界でのパイプを装置して生きています。生きていますが、へその緒に連結された胎を破壊させて死んで出てくるようになる時には、新しい次元、高い次元によってどれほど変化しますか。高い次元で供給を受けるのです。空気の供給を受けて出てくるというのです。ここで出てきてからはまた何によって発展させますか。愛です。愛の要素を受けるのです。御飯だけ食べていてはいけません! 御飯を食べることは、死に向かって進んでいるのです。水を飲んでこのように暮らすことは、すべて死に向かって進んでいるのです。ここで何のために、この期間に何を満たせばよいのですか。この期間には、新しい愛の人格を形成しなくてはなりません! 
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 腹中から空気世界へ連結させて出てくる時は、腹中世界で生きたへその緒と水の袋をすべて破壊させて出てこなければなりません。その器官、腹中のへその緒と胎は破壊されて死ぬのです。死と同時に何が出てきますか。この宇宙、地球星の母のところに現れるのです。このようにして、口によって元素の補給を受けて生きているのです。
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 せみを知っていますね。せみが飛ぶ前の幼虫のとき、「私は幼虫として生きるぞ。ああ殻を脱ぐのは嫌だ!」と言っても、脱いでしまえば、パタパタと飛ぶようになるのです。幼虫からせみになるときに、それを脱ぎたいですか。「ああ、陸地も空気もみな嫌だ」と言うでしょうか、「いい。早く脱ぐようにしてください」と言うでしょうか。飛ぼうとは考えていないのです。とんぼも初めは幼虫になって水中で泳ぎ回っていますが、地上に上がってきて一時ははい回ります。その次には、パタパタと天下を自分の舞台として飛び回るのです。
 昆虫類の中には三段階の世界を経るものが多いのです。昆虫といえば、羽のない昆虫がいないのです。大概羽があるでしょう。昆虫もこのように水で、陸地で、空中で生きるのに、万物の霊長である私たち人間が地上でだけ生きて良いですか。皆さんも「嫌だ」と言うけれど、死んで脱いでみると「ふう」と言うのです。それは嫌ですか。事実がそうなのです。うそではなく事実がそうであることを知らなければなりません。三段階の世界を経ることがそっくり同じだという事実を、皆さんは知らなければなりません。死が私たちにとって、第二の出生で、幸福になる関門だということを皆さんは知らなければなりません。
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 昆虫も飛び、小鳥も飛び回ることができるのに、人が飛び回ることができないのですか。植物の種も、風が吹けば飛び回ることができるのです。皆さん、あのたんぽぽの種は自然に飛ぶようになっています。飛び回るようになっているのです。このように鳥も飛び、昆虫も飛び、植物の種も飛ぶのに、万物の霊長である人が飛べませんか。それなら神様を見てじっとしていられますか。「神様、みんな飛んでいるのに、私はなぜ飛ぶことができないのですか」と抗議したくないですか。神様が「まあまあ! じっとしていなさい。あなた方も何十年か過ぎればそのようになるはずだから、それまで待ちなさい」と言う時、「ああそうですか。それならそうします」と言うのはかまわないのです。
 それではその時まで何をすべきでしょうか。その世界に行って合うように、ここで訓練しなければならないのです。父母を見て愛してこそ、神様を愛せるのであり、新郎を愛してこそ、あの世に行って神様を愛することができるのです。訓練場が地上世界だというのです。それでは、死なないでそれを願うことが可能ですか。この体を脱がずに可能ですか。体を脱がなければなりませんか、脱がなくてもよいですか。
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 人は水の世界で一度生きてみたし、地上の世界で一度生きてみたでしょう。それでは、空中の世界で一度生きてみたいですか、生きてみたくないですか。皆さんが腹中から生まれるとき「私は陸地の世に出て口で蜂蜜も食べ、餅も食べ、御飯も食べ、牛肉も食べ、みんな食べる」と考えてみましたか。そういうことを考えてみたことがありますか。「ああ、ここから出れば死ぬ」と言いつつ、へそで息をしながら生きているのです。
 そう考えると、どれほど苦しいでしょうか。窒息するほどでしょう。それでも腹中から外に出ていくのではないかと思って「ああ、出ていかなければいいのに」と言うのです。しかし「出ていかないほうがいい」と言うかもしれませんが、時になればすべて破裂してしまうのです。羊水がぱっと破裂し出ていくのに伴って外に出れば、安産になるのです。よく生まれたということです。
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 地上時代には、宇宙が母で、万物が母です。これが地上です。地球星が母なのです。元素を皆さんに供給してくれるでしょう。別の段階の元素を供給してくれる母なのです。母の腹中で育っている時には腹中で呼吸をするのですが、何によって呼吸しますか。へその緒で呼吸するでしょう。これが、母の体と連結されたホースなのです。よく知っておかなければなりません。しかし、第二の世界、空気の世界に連結されたことを知っています。腹中で暮らしていたのをけ飛ばして出てくれば破壊です。その時は、涙と同時に何に連結されるかといえば、息をする穴、鼻の穴によって息をするようになっている、空気の世界に連結されるのです。空気の世界に連結されて、鼻の穴が唯一の補給路となります。
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 水は腹中時代を象徴します。その次には上に上がっていくでしょう。鼻は空気の時代です。母の腹中から生まれて空気の時代です。その次には目の時代です。太陽の時代、太陽の光の時代です。「愛は光だ」と言います。明るくなるというでしょう。光の世界です。人生は三時代を経て暮らすというのです。とんぼも水中で暮らし、地上に来て暮らし、殻を脱いで飛び回りながら虫を捕まえて食べます。三時代を経るのです。
 万物の霊長である人間も同じです。腹中時代。母の腹中から出てくる時は、自らの暮らしていた所帯道具を抱き締めて出てきますか、すべて破壊させて切り捨てて出てきますか。一つでもつけたまま出てくれば大変なことになるのです。へその緒で食べたり息を吸ったりしていたのに、それを切って捨てれば死ぬでしょう。しかし、母の腹中から出てくる時はそれを切って捨てなければなりません。無慈悲に切って捨てなければなりません。すべてを破壊させて出てくるのです。
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 死ぬこととは何ですか。地上生活は、空気中で胎内にいた時のように泳ぎ回って暮らすことと同じです。空気のふろしきの中で生きています。そうではないですか。死ぬこととは何ですか。死ぬことは特別なことではなく、第三の人生として出生することです。その瞬間が死ぬ時です。そのように考えると気分が良いでしょう。
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 この体が今何をしなければなりませんか。腹中においてへその緒で息を吸う時と同じように空気のパイプである鼻の穴を準備し、破裂して出てきた時にへその緒に代わって息を吸うのです。それと同じように、生まれてしなければならないことは愛の体恤です。愛という空気を吸わなければなりません。父と母から愛という空気を吸い込まなくてはなりません。愛の空気の供給を受けて、すべて経ていかなくてはなりません。
 一家庭に赤ん坊として生まれ、サインカーブと同じように上がっていってみな死んでいくのであり、赤ん坊として生まれ、大きくなって、その次には分解されていくのです。赤ん坊として生まれ、赤ん坊として帰っていくのです。そのようになる時は第二の腹中世界をけ飛ばして、第三の愛の呼吸器官に連結されなければならないのです。父母の愛、兄弟の愛をけ飛ばして、大宇宙の神様の本体に和する愛の世界へ入っていきます。
 霊界は愛の空気です。愛の空気がぎゅっと詰まっているのです、愛の空気! それゆえに皆さんは、今この地上世界で愛の息をすることができるパイプを装置しなければならないというのです。ですから、霊界の体験が必要で、霊的な愛を感じることができて呼吸できる人になってこそ死なないというのです。
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 私たちは、いつかは肉身を脱いで霊界へ行かなければなりません。ですから、この世に生まれた私たちは、死を覚悟しなければならないのです。また、善の自我を永遠な世界で第二の私として立てるためには苦労をしなければなりません。母の腹中で胎教をよく受けてこそ健康で善なる赤ん坊として生まれることができるように、この地上世界の生活も腹中での生活と同じなのです。ゆえに神様の形状を見習い、神様の心情を見習い、神様の神聖な神性を見習って成長しなければなりません。成長し、また命を懸けて愛でもって越えていかなければならないのです。


 3.死はもっと良い世界へ移ること

 人間は、自分を中心として見る時は希望をもっているようですが、死の峠を越えることができる希望をもつことができずにいます。そのような希望をもてないまま消えています。これを人生のパターンだと思って死んでいくべきか、そうでなければ、死を嘲笑して越えることができる一つの希望を求めて、その希望を楽しみながら逝くのか。これが、今日地上で生きている人間たちが考えなければならない重要な問題だと思います。
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 私たちは、結局どこへ行かなければなりませんか。霊界です。それはどういうことですか。死後の世界だといいますが、死後の世界ではないのです。なぜ死後の世界になり得ないのでしょうか。愛と関係している世界であるために、死後の世界ではないのです。真の愛を中心として出発したために、私が真の愛の位置に立つようになる時は、今ここが霊界です。霊界肉界、二つの世界が一つのものです。それゆえに愛が偉大だというのです。
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 皆さんの第一の父母は皆さんを生んでくれた父母ですが、第二の父母は地球です。皆さんは、体が大きくなるように、地からすべての要素の供給を受けます。地が体の第二の父母です。第二の父母を経て、第三の父母に入っていくことが死ぬことです。第三の父母の所に行く時は、そのまま入っていくのではありません。第三の父母の所に帰ろうと思えば、本来の父母だった神様の姿に似なければならないのです。
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 皆さんが「七十になっても、私はこのように逝く」ということを一度考えてみましたか。「年齢が八十になって死ぬ瞬間でも、私はこのように逝く」ということを考えてみましたか。死ぬ場においても「私はこのように歴史を明らかにして、今までこの世代にこのようなことをして、今後もこのようなことをし得る証拠物を提示する」と言うことができなければなりません。言葉だけでは駄目です。そうしてこそ彼が死んだのちに、人々が彼をつかんで涙を流して「そうだとも、そうだとも」と言うのです。そのようにさせなければなりません。そのようなことができますか、皆さん。
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 人生の行くべき道とは、無限であられる愛の神様を探すことです。十回でも百回でも死の峠を経たとしても、また死んだとしても絶えず探していかなければならない神様の愛、その愛を探すことが人生の最高の行くべき道です。
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 人が生きていくにおいては必ず達成しなければならない目的があります。その目的を中心として十年、二十年、三十年、七十年、一生の間行かなければならないのです。目的が大きければ大きいほど、内的により一層強く決意しなければなりません。そうでなくては、その目的に到達できないのです。時間という過程を通して、その目的を凌駕できる内的な決意を続けない限り、その目的を達成できないというのです。
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 心の終着点、すなわち欲望の終着点とはどこでしょうか。神様の愛を占領する所です。神様を占領したとしても、その中でもっと貴い愛を占領できなければ、神様は自らの神様ではありません。ですから、神様の愛を占領しなければならないのです。その愛だけ占領すれば、神様はいらっしゃらなくてもかまわないというのです。その方のものが私のものであり、私のものがその方のものになるとき、初めて内外が一つになるのです。
 そのような国が上下の等級がない理想の本国となるのです。そのような位置に横たわるようになれば天下にあるすべての存在が良く見え、天下にあるすべての存在は自分自身のためにあると感じられるのです。そのようなものが神様の愛ならば、今日人間の行くべき天上世界、すなわち天国はどのようになっているでしょうか。そこは愛によって充満している所です。
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 統一教会の先生はどのような位置で死ぬのでしょうか。民族と大韓民国まですべて抱いて、世界のために死ぬことでしょう。韓民族が一つになり世界のために死のうとするときは、世界と共に生きることのできる道があるので、その道を探し求めていくのです。
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 おじいさん、おばあさんも、千年万年後代の子孫も、霊界に行っている霊人たちも、永生へ行くその公式的路程は同じなのです。そこには「ため」に生きた人々だけがパスできる正門があり、そこを門番が守っている事実を知らなければなりません。そこにパスできる資格者をつくってあげるために先生がお願いするのだということを、よく理解してください。


 4.死は新しい次元への昇華である

 堕落しなければ、人が死ぬことは幸福です。それで今日、統一教会は、死を悲しみで迎える教会になってはならないと教えるのです。それゆえに、死を「昇華式」と言います。
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 皆さんも肉身を脱いで死ぬことが嫌だというでしょうが、実際死んで肉身を脱いでみると、私たちは、霊人体として第二出生の幸福の関門を通過するために、さっと飛んでいくのです。私たちは、初めに母の胎内にいました。その胎が私たちを育てたふろしきです。そのふろしきの中から出てくる時、すべてけって、切ってしまって生まれるのと同じように、私たちの霊人体に対して肉身はふろしきのようなものであるために、これを切ってしまって飛んでいくのです。ですから、人間は結局、水の世界、陸地の世界、空中の光の世界を経て、永遠なる真の愛の世界で生きるようになるのです。
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 統一教会は、死んだのちの葬儀もそのようにしません。「昇華式なのです!」。どこかに行くと思って生きています。天下において怖いものがどこにありますか。罪悪の世界、混乱した世界において自主的な中心の形態を備えて、天地の度数を合わせて神様の愛の圏内の垂直の位置に入っていくようになります。なぜ垂直の位置に入っていくのでしょうか。その場には影がありません。垂直の位置に影がありますか。すべてのことが完成です。それからこれが回るようになるために、その回る環境全体が垂直化されます。
 自らの死の一日を行くときに、私がどのように九〇度で天上に跳躍して昇華し、上がっていくかということが問題です。四五度で行っていては、そこにたどり着くことができません。ただ九〇度でのみ上がっていってこそ神様の愛の相対になれるのです。神様の愛は直短距離を通じるために、九〇度以外にはありません。垂直しかないのです。
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 統一教会では死んで葬儀をすることを「昇華式」と言います。死んだ人にすがりついて泣くのを見れば、死んだ霊が嘆息するというのです。「こんなに無知だから、私の行く道を綱で引っ張って行くことができないようにしている」と言うのです。そのようなことを知っているために、統一教会では「昇華」と言うのです。高潔に飛翔するというのです。愛の力をもって押してあげなければなりません。引っ張らず、押してあげなければなりません。昇華式とは何ですか。変化して一段階上がっていくということです。
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 今日、人間が死んでいくとはどういうことかを知らなかったのです。それは悲しみではないというのです。それは次元が低い世界から次元の高い世界へ、愛の橋を通じて移動することだと思うのです。ですから統一教会は死を「昇華式」と言います。次元高く昇華するということです。それは愛でのみ可能です、愛でのみ。
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 神様は誰のためにいらっしゃるのでしょうか。愛の主体である神様は愛の相対を探すために、立てるためにいらっしゃるというのです。何を中心として。真の愛を中心として。真の愛は「ため」に生きて投入して忘れてしまうのです。そこに永生があるというのです。世の中万事がそうです。私たちのような人はそうです。永生問題を知っているために、絞首台が問題ではありません。怖いものがありません。
 それゆえに統一教会では死を「昇華」と言って、その式を「昇華式」と言うのです。統一教会員たちは、霊界に行っている妻と話しながら生きているのです。今この世ではそのようなことを理解できずにいるので、あきれかえります。それは、お金を払って買うことができますか。
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 昇華式は、私たちの興進が行った時から生じました。その時、成立したものなのです。病院で酸素マスクをしているのを先生が外さなければならなかったのです。霊界へ行く道をすべて整理しておかなければなりません。そうすれば、堕落圏がありません。それゆえに興進がこの前来て役事しながらも、「お父様に対する負債は返す道がない」という話をしたのです。真の父母の家庭で育った青少年として、霊界に行ったのは初めてです。興進が行くことにより、霊界の再臨主と同じように霊界のメシヤとして行ったのです。それで、彼と一つになることによって高い所に上がっていくのです。
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 霊界に行くことは、悲しいことではありません。解放のラッパの音とともに天国の旗を掲げて、足どりも堂々と百戦百勝し、天下の故郷に錦を飾る旗を掲げて、民族と人類の歓声を受けて堂々と入っていくことができる還故郷の道です。悲しいことではありません。統一教会では泣きません。それを何と言うのですか。「昇華式」と言います。
 ゆえに興進君が行くことによってこの死亡の垣根を、死の垣根を壊してしまうのです。それで、「昇華式」と言うのです。死は落胆や気落ちではありません。落ちるのではなく、跳躍するのです。昇華するのです。統一教会の食口たちは死に対する恐怖をもってはいけないのです。死はこのような自然循環の法度によって来るものです。もっと良い世界に移してもらうための手順なのです。
             *
 愛ですべての死亡圏に勝ったのです。「真の愛は死亡圏に勝つのである!」。これが創造原理です。それで、「愛勝日」を宣布しました。今興進君がそのように霊界に行くことによって、私たち統一家のすべての息子、娘たちが昇華式を行うようになるとき、サタンが讒訴する何らの条件もないというのです。あの世に行く船に乗るようになっても、義人たちがすべて迎えにくるのです。そのような歴史的で大革命的な次元に連結される時間です。
             *
 「愛勝日」という言葉は何ですか。皆さんはそれを知らなければなりません。先生は興進が死んでから送り届けるまで、涙を一滴も流しませんでした。死亡圏に勝たなければならないのです。愛をもって死亡に勝ったという、このような立て札を立てなくては昇華式がなされないのです。「昇華式」という言葉は興進君から出てきたでしょう。そうでしょう。その愛勝日という、その愛勝とは何ですか。死亡に勝つことです。
 他の人々と同じならばお母様も身もだえして痛哭しかねないことですが、お母様が涙を流すといけないのです。三日以内にこの式をしてあげなければならないのです。死亡に勝ったのだと宣布しなければなりません。それゆえに、統一教会では昇華式が生じたのです。死亡を越えて喜びに向かっていくのです。昇華式を経ていく人々は、霊界のすべての谷間をひゅーと越えていくのです。もちろんそうでない者たちは、行って中間にとどまっています。それを知らなければなりません。昇華式というものは、興進君から始まったのです。
             *
 統一教会で人が死ねば、昇華式をするでしょう。それは跳躍して別個の世界へ移動する瞬間です。それゆえに歓声を上げなければならないのです。死んでいく人は、霊界をよく見るのです。泣くような所へ行くのではないのです。楽しい所に移動していくのです。堕落したため、目がすべてめちゃくちゃになって分からなくなったので泣くのです。
             *
 痴呆が起こることもそうなのです。世の中で良心自体が麻痺して肉体に主管されれば、地獄の霊人体と対話しながら痴呆が起こるのです。そのような人は、善の霊人を通し天国の理想を記憶させて、順次浄化して昇華、昇天するようにしてあげなければなりません。
             *
 すべての人々は生まれて、結婚して、死ぬ時に戸籍地に申告をするでしょう。私たちもそのようにしなければならないのに、私たちの国がありません。私たちの国があれば私たちも生まれて、結婚して、昇華する時に登録をしなければなりません。あの世に行けば、皆さんはアメリカ人として入っていくはずです。「どこから来たか」、「アメリカから来た」、「天国に入りたいか」と、そこの門番が尋ねてくるのです。「どこから来たか」、「真の父母に侍っていた地上天国から来た」と言えば、天国に入っていくのに何ら問題がないのです。これは事実です。コンセプトではなく、事実なのです。


 5.死の前での姿勢

 人々が死ぬ時、最初に誰を呼びますか。神様を呼びます。最も難しい立場で神様を求めることは、その個人にあっては最高の真実です。死ぬ時、本当に神様を呼んで死ぬ者には許される道が開きます。それはなぜでしょうか。死の道理がそのようになっているためです。その原則に近い立場で、その原則だけつかんで死ぬようになれば、回生できる道が開かれるのです。
 それゆえに、すべての人々が死ぬ立場に行くと「ああ神様」と神様を求めるというのです。これは教訓中の真実の教訓です。人が死ぬ時は、それでも正しい言葉を残して死ぬのが普通でしょう。そのようなことを見る時、誰が教えたのか分かりませんが、よく教えたものです。それは正しい言葉の中の正しい言葉です。
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 死ぬ時も四位基台を備えなければなりません。四位基台を備えることができずに死ぬ人は、死への道も正しく行くことができません。それゆえに死んだのちも、霊魂が行ったり来たりするのです。それでは、このような原則を知っている皆さんは、死ぬ時には誰をつかんで死にますか。神様、その次には真の父母です。生まれる時もその方を通して生まれて、死ぬ時もその方を通して死んでこそ、霊界でも永遠に共に暮らすのです。その方を通して出て、その方を通して結末をつけるのです。すべてこの原則のもとで生きていくことが孝の道理であり、忠の道理なのです。このような孝と忠の道理を果たした人が、人生行路において果たすべき責任を全うしていく人だという結論が出てくるのです。生き方はこのようにしなければならないのです。
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 皆さんが死ぬ時、何を中心として死にますか。愛をすべて忘れてしまって死にますか、しっかり抱きかかえて死にますか。愛の中でも誰の愛をつかんで死にますか。父母の愛を先につかまなければなりません。それから夫婦の愛と子女の愛をつかまなければならないのです。死ぬことも四位基台の原則に符合しなければならないのです。
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 今後、皆さんの子女にどういう遺言を残すべきかというのです。どういう遺言をするのですか。父母がしていないのに子女に「しなさい」と言えますか。そのような父母は、子女を利用しようと思っている父母です。ですから、皆さんが先に実践してから、死ぬ前に息子、娘に「私はこのように恥ずべきことがないように生きたから、お前たちもこのように生きろ」と遺言をすれば、その遺言は神様が永遠に守ってくれるのです。皆さんは死ぬ時に、後孫にそのように遺言する自信がありますか。これは深刻な問題です。
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 普遍的に人は歴史をおいて、永生を中心として十年、百年だけではなく千年万年、億千万年を考えるようになるのです。人が死ねば動物と同じなのに、それを残してどうするのですか。
 近ごろは宗教を信じず神様を知らない人も「ああ、名誉を残さなければならない」と言っていますが、その名誉を残してどうするのですか。アメリカの愛国者になって記念館に入ったとしても、アメリカが滅びる時は記念館がすべて壊れるのにです。知っているのはアメリカ国民ぐらいです。名前を残してどうするのですか。ですから滅びまた興隆する歴史時代にいくら残したところで、「良い」と言っていたものも悪く取り扱われるのです。
 しかし、すべての主権者は百年も生きることができずにみな死に、国も何百年、何千年も経たないうちに滅びますが、永遠に死にもせず滅びない方がいるならばどうでしょう。そのような方がいるならば、名前、名誉を残したことをその方の前にすべて任せて依託したいものなのです。皆さん、そのように考えてみませんでしたか。
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 天国を中心として死ななければなりません。天国は世界のどの国よりも大きいでしょう。天上天下に一つしかない天国で死ぬのです。それでは、どこで死ぬのでしょうか。死ぬにも場所があるのです。これは、韓国的なつまらないことではいけません。韓国的にいくら死んでも駄目だというのです。最高の位置、天上天下を通過した神様の心情の国を中心とした最高の位置で死ななければなりません。天国の真ん中で死ななければならないのです。その天国が最も良いのです。それでは、世界がすべて反対するとき、どのようにしますか。逃げればいいですか。違います。平然と耐えて、天下がすべて旗を掲げて歓迎する立場で死ななければならないのです。
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 神様のみ旨を信奉して、神様のみ旨を立ててきた数多くの人々はどのような人々だったのかといえば、死の道の前で後退した者たちではなく、死をあざ笑い、死を堂々と越えた人々でした。そのような人々が天の道を立ててきたという事実を、私たちは歴史を通じてよく知っています。
 皆さんは各自が死に逢着したとしても、これを越えることができる希望を抱かなければなりません。そして、この道を越えていけば、私は天の前に堂々と立つようになるはずだという希望と、心で憧憬した世界、その本郷に向けて喜んで走ることができなければなりません。神様の理想世界を願う心が切実であってこそ死に勝つことができる存在になる、ということを皆さんは悟らなければならないのです。
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 天の希望を抱いて暮らす人は、どのような人でしょうか。人間が悲しむ死の峠も、喜びによって越えることができる人です。そのような人が天の希望を抱いて暮らす人だということを知らなければなりません。それゆえに皆さんは、死を前にして世の中万事を恨んで嘆息する人にならず、喜んで天の前に立って自らの死の価値を誇ることができる人にならなければならないのです。
 天はこのような希望の息子、娘を探していらっしゃるという事実を私たちは知らなければなりません。このような立場に立って天の喜びを感じた人がいるとするなら、彼は神様が愛すまいとしても愛さざるを得ないのです。そのような立場で天に対して泣き叫ぶ群れがあるとするなら、天はその泣き叫ぶことにこたえまいとしても、こたえざるを得ないのです。
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 み旨のために死のうとする人は生き、生きようとする人は死ぬというのです。これはどういう話ですか。み旨のために死ぬべき立場では死ななければならないというのです。それでは、死ねばどうなるでしょうか。死ぬ前には私のものですが、死んだのちには神様のものになります。それは、私たちが堕落した血統を受けたからです。ですから、死ぬ前までは、私たちの生命すべてはサタン側の因縁から抜け出すことができないのです。しかし、死んだのちには神様と因縁が結ばれるのです。
 生命と死を見てみるとき、どちらが強いですか。死より生命がもっと強いですか。生命より死がもっと強いですか。サタン世界では、生命より死がもっと強いのです。したがって、み旨を知ったのちには、死ぬべき立場で死ぬことを嫌がれば駄目なのです。
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 劉孝元協会長がこの世を去る時、「先生に会って今までこのようにやってきたが、終わりをどのように結ぶのか」と私が尋ねたところ、劉協会長は「永遠に変わらない」という言葉を残して逝きました。そうでなければならないのです。サタン世界はいずれ死ななければならないのです。死ぬことなしに復活はできないのです。一つの時代を過ごさなければ、他の時代を迎えられないのです。
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 聖書でいう死とはどういうことですか。神様が永遠にもつことができる生命を殺せというのではありません。サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を殺せということです。ですからみ旨のために死のうとする人は生きるというのです。この言葉は逆説のようですが、堕落と復帰の内容を中心として見るとき、そのようにしなければ復帰ができないのです。これは復帰の正常な論法です。それゆえに、生命を差し出すことができるかということが最も大きい問題です。先生がこの道を出発する時は、どうだったでしょうか。私は、生命を差し出す覚悟ができているかを考えました。
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 私の生涯に何をするのでしょうか。愛の墓を残していこうというのです。これが結論なのです。「愛の墓を残していこう!」。愛の墓の中で生きれば恨がないというのです。墓のような、いくらうんざりするような所で生きても、愛の中で生きれば恨がないというのです。「私たちは生きながら愛の墓を残していこう!」。そうすれば、人生は永遠において成功するのです。
 そのように皆さんが生きて死ぬ時は、神様が祝福してくれるでしょうし、霊界では神様が息子、娘を連れて歓迎に出てくることでしょう。その時には、指輪をはめることができなかった手ならば天国のダイヤモンドをはめてくれるでしょうし、服を着られなかったとすれば天国の皇族たちが着る最高の服を着せてくれることでしょう。私の一生は何を残すのですか。愛の墓です。そのように理解して、それを忘れないでください。さあ、一度そのように生きてみるという人は手を挙げてみましょう。みんな挙げましたね。神様の祝福が皆さんと共にあることでしょう。


 6.祝福によって永生の道が開かれる

  @ 最も重要なことは永生問題

 人は誰でも、自分なりの生の道を願って生活をしています。「生活」といえば一日一日暮らすことをいい、「生涯」といえば一生の生、一生を通して暮らすことをいうのです。さらに宗教をもった人々は、「永生」という言葉を使っています。永生とは一生ではないのであり、永遠な生活を送ることです。永生するためには、生涯路程をその永生にどのように連結させるかということが重要であり、それをすることが生涯の責任です。
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 皆さんは、どのくらい生きると思いますか。みんな「七十、八十までは生きる」と考えているでしょう。その前に死ぬとは考えませんか。皆さんは欲張りですね。私が一生を生きていくのに、八十で死ぬとか百歳になって死ぬはずだと絶対的に信じるとしても、あす死ぬかきょう死ぬか分からないのです。御飯を食べている途中で死ぬかもしれません。今夜、帰ってきて履き物を脱いで、眠っている途中で死ぬかもしれません。
 そうです、皆さんの考えでは「ああ、私は若いのでこれから少なくとも四十年、五十年は生きる」と、そのような欲をみんなもっているでしょう。神様に保証を受けていますか。皆さんはできるだけ短く、一年以内に死ぬと思いなさい。この短い期間に準備をすべてしなければなりません。この観念をもって生きなさい。できるだけ短く計画するほど幸せだというのです。短く計画を立てるほど損害を見ないのです。その期間に真実に準備するその内容が、自らの永遠の生命の家を建てるのです。
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 夜に寝床に入る時、脱いでおいた履き物を翌朝再び履く自信があるのですか。いくら忙しいといっても、世の中に永生の問題以上に重要なことはありません。離れていく人々がいることは、この世で永生問題を決定づけるという深刻な感じが彼らにないためです。
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 信仰の道とは今生きている人生、肉身生活の準備ではなく、永遠な世界の生活のための準備であるに違いないという信念だけもつようになるならば、それはほっておいてもかまわないのです。人は時が過ぎていけばいくほど、四十を越え五十を越えるほど、死ぬ日が近づいてくるために永生概念が深刻化するというのです。年を取るほどますます深刻化するというのです。
 愛というのは年を取るほど希薄になりますが、永生概念だけ入れると、年を取るほどますます深刻化するのです。それゆえに宗教理念だけが今後世界を主管できるのです。邪悪な環境、混乱した変化がどれほど頻繁に起こっていますか。頻繁に変わる環境を貫き越えて、いかなるところで悲喜劇がぶつかってきても、永生概念だけ徹底すれば、すべてのことが問題にならないのです。
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 神様は人をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対唯一の価値をもつことができる愛の対象者として造ったというのです。これは驚くべき事実です。このごろ、人間一人の生命の価値がどのくらいになりますか。いくらになりますか。そのような無価値な人間ではないというのです。神様の前では宇宙を与えても取り替えることができない高貴な価値、愛の相対圏を備えて男性を造り女性を造ったという驚くべき事実、それはすてきでしょう。
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 私たち人間は、神様が造られた創造的な傑作品として神様に似て生まれたというのです。神様が永遠であられるので、私たちも永遠な性稟をもたなければならないために、私たちの心は老いないというのです。それゆえに、人は永生しなければならない、永生してこそその傑作品の存在的価値をもつことができるというのです。
             *
 人々は誰彼を問わず最高を願っています。人間が最高の位置に行くようになれば、神様は私のものであり、また私は神様のものなのです。そして、そのようになれば私は神様の息子になって、神様御自身にもなるので、宇宙は誰のものになるのですか。神様が最も愛して、最も貴く思う物があるならば、それを一日、あるいは十年や百年ぐらい共に過ごしたのちにほうり投げるようにつくったでしょうか、永遠に共にいるようにつくったでしょうか。永遠に共にいるようにつくられたのです。人も同じです。人が生まれて死ねば、それまでとなるのがいいですか、永生しなければなりませんか。永生しなければならないのです。なぜでしょうか。絶対者、神様が絶対的な愛を中心として喜ぶことができる対象であるためです。
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 神様が永生なさる絶対者ならば、その方が愛することのできる対象も永生しなければなりません。それで、人々は古くから永生することを願うのです。これをはっきり知らなければなりません。それゆえに、絶対者である神様は永生する価値をもった愛する息子、娘を求めざるを得ないというのです。
             *
 愛すれば愛するほど共にいたいのです。愛する妻が死ねば、その妻のハンカチを持って独りで生きた人もいます。ネルーのような人は、自分の妻が若くて死んだのに、その妻がバラを好んだからといって一生の間バラの花をつけて行き来しながら過ごしたのです。それなら神様が一つしかない限りなく貴い息子、娘たちを造る時、百年くらい生き、その次に滅びるように造られたでしょうか。それゆえに、人は永生することが原則です。
             *
 人は愛で生まれ、愛で大きくなり、愛で生きて、愛で死にます。ところが、そのままなくなるのではないのです。神様、主体であられるその方が永遠、不変、唯一だから、その前に対象的愛の位置に立つようになる時は永生するのです。永生という理論がここから生じるのです。生命から始まるのではないのです。
             *
 愛のゆえに人間を造ったとするならば、永遠であられる神様、絶対的な神様、永生する神様であるために愛に一致した人間自体は永生を備えている、ということは自然的な論理です。それゆえに永生しようとするなら、その真の愛圏内に生きなければなりません。
             *
 「私たちは、永遠であり得る! 永生を願う!」。永生を願う時に変わらないのは何ですか。愛です! このようになるのです。ほかのものはみな変わります。環境的に変わるのです。それでは、愛はなぜ変わらないのでしょうか。愛は、すべての生命力の中心であるがゆえに変わらないのです。愛がなぜ変わらないのでしょうか。愛は理想的な要件の中心の位置を占めるからです。中心は、その周囲がすべてなくなる前にはなくならないというのです。愛は宇宙の中心になっているために愛と一つになることによって、その愛は神様を中心とした愛と一致しているために、神様がいらっしゃる限り残っているというのです。
             *
 永生、私は永生する人です。それから、真の愛を実践する人です。永生と真の愛を私はここで実践する人だというのです。ですから、私がここでしているすべての仕事、工場で仕事をして何かをするということが、永生を延長させることができる材料だというのです。「永生を訓練して永生を育てる、このような訓練材料を生産することが、今私がしている仕事だ」と考えなさいというのです。皆さんに永生と真の愛は、いつも必要なのです。永遠に必要なのです。
             *
 自分の体と心の完成とは、真の愛に属することにより根本的に可能になっています。無限の根本、原因から過程、それから理想の結実を結ぶのは愛しかありません。真の愛しかないのです。真の愛によって、真の愛を中心として神様も永存しています。神様が永存するのは何を中心として永存しますか。永生は愛によって連結されるのです。それで、永生の環境をなすには愛の環境を中心として生活しなければならないのです。愛の実体圏をもつには、愛を中心として実体的な体恤をしなければならないのです。
             *
 「どのように永生するか」と尋ねれば、皆さんはどのように答えますか。イエス様を信じれば永生しますか。信じれば救われますか。とんでもないというのです。愛によってのみ救いを受けるのです。神様の創造原則の本質的原則から見るときに、真の人だけが神様の愛の同伴者であるので、真の愛をもてば永遠に生きるようになっています。その愛の圏内に入っていれば、霊界や地上で生きるときに、自分がどこに行って生きるべきか、すべて見ながら生きるのです。


  A 愛から永生概念が出てくる

 神様の性稟がどういうものか、漠然としているというのです。神様は絶対的です、唯一、永遠、不変なのです。それは否定する道理がないのです。そのような愛をもった人は、絶対的な幸福者であり、唯一的な幸福者であり、永遠的な幸福者であり、不変的な幸福者です。そこに初めて永遠な自由があり、絶対的な自由があり、不変の自由、唯一の自由があるのです。そこで初めて幸福も、絶対、唯一、不変、永遠なものがあるというのです。そこに連結されてこそ、永生は自動的な結論だ、となるのです。
             *
 愛をもてば、食べても食べなくてもかまわないというのです。愛する人同士であれば寝ても疲れないし、食べなくても腹が減らないというのです。愛する人同士は、会って時空を克服するのです。神様もそのような愛する相対が来る時は、夜になれば寝なければならないですか。愛する相対が現れることにより、夜を克服できるというのです。ここから永生概念が出てくるのです。永遠な愛の力が続く限り永生できるのです。すべてのものを克服して愛化できるために、喜びの永生が連結されるのです。
             *
 神様は絶対的な愛であるというとき、その愛の前に絶対的な相対になって一つになるときは、神様が永存する限り人間も永生するという論理が理論的に決定されるのです。それを知らなかったのです。私たち人間が神様の前に絶対的に必要な、対象的な存在になったということを知らなかったのです。そうでなければ、神様は一人で生きなければならないという論理が成立します。それは違うというのです。
             *
 絶対的な価値の基準は神様です。絶対愛を中心として神様と絶対愛を探していく人は、相対主権を絶対否定できません。神様が絶対的な方であることを否定できないので、私が立てられた位置を絶対否定できないというのです。絶対安着が生じるのです。ですから神様の愛は永遠であり、神様は永遠な方なので、そのような愛の関係を結ぶことによって永生が論理的な、理論的な相対圏として着地できるのです。それゆえに、真の愛をもった人は地上世界から天上世界まで永生するというのです。この理論を否定できません。堕落した世界には真の愛の関係がないから、地獄へ行くのです。
             *
 愛は永遠性をもっています。離れることを嫌います。真の愛は永遠な愛であるので、永遠に離れたくないというのです。それゆえに、真の愛に永生があるのです。別に離れるところには永生がないのです。それゆえに愛は偉大だというのです。愛は不変で、永遠なものだというのです。真の愛を中心として血統関係を結ぶとき、人間は永生するようになっています。神様は変わらない愛の主体ですが、その主体と一つになったので、神様が変わらず永遠であるように、その愛と一つになり一体なったその対象も不変で永遠だということは理論的です。
             *
 父母が子女のために無限に投入して犠牲になれば、真の愛が背後にある限り子女はその真の愛に無限に感謝するようになるのであり、父母は大きい喜びによってその犠牲の跡を埋めるのです。このように犠牲的な真の愛の力を授け受けする作用を発展させて、真の家庭で、そして真の世界で永遠な喜びと平和の関係を結ばせます。このようなところに永生の理想世界が顕現するのです。
             *
 この宇宙は、小さなところから大きくなってきました。そして、相対をもらって無限運動をすることで生成されてきたというのです。この空間に存在する慣性により、無限に運動してきたのです。言い換えれば、その相対的基準を中心として、この太陽系であれば太陽系において備えてぴったりと成熟した立場に立ち、無限運動をするというのです。
 これと同じように、アダムとエバも愛を中心として完全に「ため」に生きる愛で一つになれば、無限運動をすることによって永遠、永生が始まるのです。直線には永遠がありません。永生圏がありません。回転するところに永遠が生じます。それゆえに、回転しながらだんだん大きくなっていくのが歴史発展の現象です。その中心は一つです。
             *
 宇宙の大原則の起源と和合できれば、永存できるのであり、そうでないものは永滅するのです。神様が永存するので、その対象、「ため」にあり得る対象は永存するのです。それは理論的であり、永生論理は自動的な結論です。明らかでしょう。
             *
 「私」という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的神様の、主体的神様の対象の位置が正に私だというのです。神様の愛の相対だというのです。神様が自分自身よりもっと貴く思うものが、真の愛の概念です。神様は絶対的で永遠であられる生命の中心であり、その神様の理想はもっと永遠なものであって、その理想の中心が正に真の愛の理想です。その愛の相対が私です。そのような永遠な立場にどのように行きますか。「永遠のパートナーの立場がどれほど貴い立場ですか!」。それは主体と対象が一つになるのです。どの位置にでも同参でき、どこへ行こうがついて行くことができます。全財産をすべて相続することができます。神様の永生の位置、その心情までもすべて相続できるのです。
 神様の愛の心、神様の被造万物と共にあるその心、神様が皆の心にとどまりたいという心まで、すべて相続できるのです。ですからどれほど貴いでしょうか。その高貴な価値を発見したので、どれほどうれしいことでしょう。どんなものとも取り替えることができない崇高で高貴な位置です。驚くべき恩賜なのです。
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 大気が一〇〇パーセント絶対低気圧圏になれば高気圧圏が生じて、自動的に循環運動が起こるのです。神様は真の知恵の王です。なぜ投入して忘れてしまわなければならないのでしょうか。自動的に循環原理を通じて永遠の回転が始まるために、永生論理が論理的に設定されるというのです。投入して投入して、また投入するところで永生の論理が生まれるのです。「ため」に生きるところでは滅びません。小さなものから大きいものに移りながら、その次にはどこへ行くかといえば、中心へ入っていくのです。
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 神様が絶対的な愛のパートナーを求めるとすれば、誰を連れてきて立てるかというと、それは間違いなく人間だと結論づけることができます。それゆえに「万物之衆、唯人最貴(注:あらゆる万物の中で、人間が最も貴いの意)」という言葉が出てきたのです。これは、何ですか。創造主の永遠の愛のパートナー、創造主の愛のパートナーになることができるという論理的結論を出すようになるとき、その愛と一つになった愛のパートナーは永生するという論理が生まれるようになるのです。
 永生というものは自動的な産物です。永遠である永生は、ここから生じるのです。愛の関係を中心として永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教では限りなく貴重な話です。男性に永生があり、女性に永生があるのではないのです。神様に永生があるのではありません。神様の愛に永生があるという結論が出てくるのです。
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 今から神様と同じ位置に立つのです。永遠の真の愛の位置に同参したのです。外の世界のどこへ行っても、この永生概念はないのです。自分が永遠の生命によって生まれたので、死んで霊界に行ってみなさいというのです。一瞬に飛躍するのです。この制限された地球上とは次元が違います。制限された所では自由に動くことはできませんが、あの世は次元が高い世界であるゆえに、何でもすることのできる所です。時間を跳び越えるのです。愛を中心として何でも願いさえすれば、いつ、どこでも、すべて得ることができるのです。無窮無尽なのです。
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 永生、私は永生します。神様を中心とした真の愛が私と連結され、神様を中心とした真の生命が私と連結され、神様を中心とした真の血統が私と連結されるのです。結論がはっきりしています。私は永生する、神様のように真の愛を中心として。神様がこのように創造されたのです。皆さんもその責任分担を果たすようになれば、皆さんは成功したということです。
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 神様も息をするのです。愛の呼吸をしていらっしゃるのです。神様も宇宙の拍子に合わせているために、愛を中心として宇宙が永遠に続くのです。愛に永生があるというのです。ですから、皆さんがそこまで行かなければなりません。それでこそ、神様の呼吸圏内に入っていって、さっと越えていくのです。
             *
 神様の摂理が生きて地上の歴史とともに動くのは、永遠の道を築くためだ、ということがしっかりと入れば、信仰化させやすいというのです。そうでなければ着陸させることができる、地上で信仰化させることができる基盤が、あいまいになるというのです。この時代的限界性をはっきり教えてあげることによって、地上に着陸できる信仰基盤が確定されるというのです。
 神様のこのような仕事を私が地上で協助するので、神様のみ旨がなされたあの霊界が私たちの現在の実生活と関係をもつようになって、神様と共に永生できるという概念をもつことができるのです。それゆえに、この地上生活は永生する準備の生活だというのです。直結するのです。それが連結していないまま信仰生活をすることはできないのです。


  B 祝福と永生

 堕落人間は、血統を転換しなければなりません。これが根本的な問題です。神様と人間の関係は父子の関係ですが、このようなことすべてが未知の事実として残ったので、歴史が解けず、今まで神様の摂理を知らなかったというのです。血統転換も個人圏、家庭圏、民族圏、国家圏、世界圏、すべてしなければなりません。これは、メシヤが来なくてはならないのです。父母が出てこなければ血統が転換されないのです。このようなすべての問題に個人が責任をもたなければなりません。個人がすべて、このようなことをして越えていかなければなりません。これを知らないので、知っているメシヤが来て身代わりしてあげるのです。
             *
 皆さんは、新しい血統を受け継がなければなりません。受け継ぐために、メシヤが父として来てサタン世界に勝ったという、サタンが干渉できない超世界的である基盤で、エバに侍り蕩減復帰しなければなりません。そして、夫婦の因縁を中心とした、家庭を中心とした息子、娘を立てて、横的に接ぎ木をすることが起こらなければなりません。それで、統一教会では祝福をしてあげるのです。統一教会は違います。統一教会は、血統がどこから始まったのでしょうか。神様から始まったというのです。それゆえに、サタン世界においていくら反対してみても、反対したほうが損害賠償を支払うようになるのです。
             *
 私たち人間は血統的にサタンの血統を受けたので、それ自体としては天の前に帰れないのです。ですからメシヤは、絶対に血統復帰をしてサタンが汚した血統を造り変えなければなりません。これを転換させなければなりません。それで、メシヤは必ず来なければならないのです。メシヤが来なければ血統復帰はできないのです。血統を復帰しなければなりません。
             *
 終わりの日には、どのような時代が来るのでしょうか。同族相姦関係が起こるのです。近親相姦関係が起こります。同族も近親も同じです。なぜそのようになるのでしょうか。イエス様の父は誰ですか。ザカリヤです。キリスト教ではみんな「聖霊によって妊娠した」と言いますが、うそなのです。無精卵を知っていますか。無精卵とは何ですか。卵は卵ですが、種が入っていなかったというのです。今日、堕落した人間は無精卵です。神様とは関係がないというのです。ですから永生がありません。
             *
 真の父母は何をしなければなりませんか。サタン世界の根である誤った血統を正さなければなりません。また、誤った生命を元に戻さなければなりませんし、誤った愛の道を正しく開かなければならないのです。聖書に「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」とあるのですが、そのような逆説的な論理がなぜ出てこなければならないのですか。サタン世界は死ななければならないからです。
             *
 血統的転換は誰がするのでしょうか。それは誰もができるのではないのです。先生がこのことをするために、涙ぐましい十字架の道を歩んだということを知らなければなりません。このような基準があるので、皆さんは何の功労もなく、祝福という新しい伝統を継ぐようになりました。転換の勝利圏を立てるために、数千年に及ぶ神様の労苦と、実体を中心とした先生の苦難の生涯がありました。これを基台として立った所が、正に皆さんが立っている位置です。祝福というものは接ぎ木することであり、接ぎ木することによって血統が変わるのです。
             *
 それで、真の愛を中心とした縦的な父母と横的な父母が合徳してこそ、そこに愛の定着地、生命の起源地、血統の因縁地が交錯するのです。そこで生まれたすべての人々は、神様の愛を受けて生まれた息子、娘であり、神様の生命をもって永生できる存在になるのです。ですから、永遠な天国に皇族的継代をつなぐことができる皇族になるのです。
             *
 愛に同居すれば永生が連結されるのです。真の愛が神様が願う愛だとするならば、神様が絶対不変の神様であり、永世の神様であるので、その愛の相対者である人間も永生するという結論が出てくるのです。これは理論的な結論なのです。何も疑問の余地がありません。
             *
 皆さん、祝福される時、血統転換式をしましたね。それを「私」の生命より、もっと信じなければならないのです。統一教会の一つの礼式だとして、ただ一般宗教儀式だと思ってはいけないのです。これは死んだ人に対する、回生という薬の注射と同じです。解毒注射です、解毒注射。
             *
 血統を転換することはメシヤがするかもしれませんが、転換されるように行動することは自分自身でしなければなりません。このような基準を成さない限り、私たちは救いの道に達することはできません。それは決して容易になされるのではなく、生きるか死ぬかの境地を通過しなければならないのです。四十日断食祈祷とか、血を吐く死の境地に至ってこそ血統転換が可能です。
 まずは父母を心から慕わなければなりません。私の生命の動機も父母であり、私の希望の一切も父母であり、私のすべての理想と幸福の根源も父母だという基準をもって父母に侍らなくては、救いを受けることはできないのです。皆さんは、そのように侍ってみましたか。皆さんはこれをはっきり知らなければなりません。それゆえに「私は真の父母と永遠に一つになることのできる息子、娘だ」という信念を、自身の存在意識を超越できるくらい堅くもたなければなりません。そうでなくてはならないのです。
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 エデンの園で結婚を間違ったことが堕落なので、今真の父母が正しく結婚させてあげることによって、再びひっくり返すのです。偽りの父母が犯したことを真の父母が清算することで、地獄を撤廃し、数百、数千億の霊界の先祖まで祝福結婚させてあげることが起きるのです。真の愛を中心とした地上の後孫の家庭基盤を通し、霊界の先祖と地上の子孫が縦的に一つになるだけでなく、このような家庭基盤を起点にして東洋と西洋がお互いに連結されます。
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 皆さんは先生をどれだけ愛さなければならないのでしょうか。根本問題に帰っていくのです。サタン世界の愛の痕跡がある、その愛が染まった立場で愛しては駄目です。それ以上でなければなりません。それは何ですか。皆さんがサタン世界で生まれた父、母、妻子、その誰よりももっと愛さなければなりません。
 それで、聖書では「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)と言ったのです。すべてそのような結論を下したのです。そののちには「自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」(同一〇・三八)と言いました。「十字架を背負わなければならない」と言いました。反対に引っ張っていく力を押さえて越えていこうとするので「十字架だ」と言うのです。ここで悲痛な涙を流さなくてはなりません。
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 霊界に行けばそうです。そこには、影がない、永遠な朝の太陽の光があふれています。白い光があまりにも明るくて、紫色の光に変わるのです。銀の光、金の光に変わるのです。電気の光が何かというと、愛の光です。プラス電気とマイナス電気が一つになって現れるものが、電気の光です。同じように、神様の性相と形状も一つになって稲妻のように現れるのです。永遠なる真の愛の光です。それが永生の本質です。その最後の目的点に到達しなければなりません。

















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