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人間の生と霊魂の世界
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 三 地上生活の価値

 1.地上は愛の実を収める所

 地上生活が絶対に重要です。地上がどれほど重要かということを知らなければなりません。キリスト教徒たちは「死んで天国に行く」と考えますが、妄想的です。地上で完成しなければならないのです。地上生活の重要さを知らなければなりません。地上生活の重要さに覚醒しようというのです。地上生活の重要さを忘れるなというのです。いつでも、千年万年霊界に行ってその生活に反映されるのです。これはすべて種です、種。ここで種を蒔いたことが天上世界で実を収めるために、完全な種をうまく蒔かなければならないということです。「地上世界の重要さに覚醒しよう!」。もう一度覚醒しなければなりません。
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 地上人は体をもっていますが、すべてのことが限定された生活です。霊人たちには体がありませんが、無限の世界で活動します。また地上人は体をもっていますが、永遠に定まる所をもてません。霊人たちに体はありませんが、永遠な所に落ち着いています。このように地上人と霊人との対比点を羅列すれば、無限に多いのです。
 ここで地上人と霊人との一致点を調べてみましょう。地上生活や霊人たちの生活はみな半分ずつもっているだけなので、半分ずつしか成し遂げることができません。それでは、体と霊人の結実は各々どのようにしたら完全な実を結ぶことができるのでしょうか。地上生活で肉体と霊魂が分離する前に、地上での生をよく締めくくってこそ完全な実を結ぶようになります。ところが、霊魂がよく成熟できずに霊界に来るようになれば、問題が生じるのです。
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 種の結実は、すべての期間、時間圏や時空圏をすべて超越させ、圧縮させなければなりません。そこには種も存在し、根も存在し、枝も存在し、実も存在し、すべて存在するというのです。花もあって実もあるというのです。それで、そのようにして出発できる私たちにならなければならないのです。それでこそ、愛を中心として神様も私のものだということができるのです。そこには異議がないというのです。
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 生涯の目的とは何ですか。愛の実を結ぶことです。その愛の実が天国の倉庫に入っていくとき、神様が「私は嫌だ! ぷうー」としなければならないですか。どこに行っても「ああ、私をこの宇宙のどこに置いても良い!」と言うことができるのが愛の実です。それを天国の秘密の倉庫に置いておいても、自分を中心として、すべての中心として立っていることができる愛の結実だと考える時、どれほど貴いかというのです。愛によって蒔いたので、愛によって刈り入れなければならないでしょう。
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 なぜ私が貴いのでしょうか。愛の伝統を受け継いだからです。この宇宙のすべての理想的力の核の伝統を受け継ぐことができる立場に立ったがゆえに、愛が貴いのであり、私が貴いのです。その愛によって私が生まれ連結されのであり、またそれによって拡大的な愛の実を結ぶことができるために貴いのです。それで、父母をなぜ尊敬しなければならず、父母をなぜあがめなければならないかが分かりますか。根を深くしなければならないのです。分かりますか。
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 神様の愛を中心とした男性、女性の心と体が、垂直線と均衡的九〇度を備えなければなりません。そのような正常な男性、女性が現れて、神様の愛を根っことした一つの生命体として東と西が互いに極となり、一度にぱっと火がついて、宇宙の本性に雷が落ちて稲妻が炸裂すれば、そこには男性、女性、神様を問わず、全体が一緒くたにくっつくようになるというのです。
 それを誰が離すのですか。男性が離すことができますか。女性が離すことができますか。神様もそこから抜け出てくることができないのです。そうしておいて、人類の本性の基準である愛というものを中心として、男性、女性の心の根になって、その愛の花が咲き、実も愛によって結ばれ、循環法度を通した球形理想を通して螺旋形に発展し、世界へ前進するはずでした! アーメン! この話がどういう話か、みな研究してみなさい。
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 皆さん、生命を何によって伝授しますか。生命体ですか、血ですか。血統という言葉はありますが、生命統という言葉はないのです。愛統もありません。血統という言葉だけあるのです。血を合わせることによって生命が出てくるのです。男性、女性の血を一つにすることによって生命が一つになり、それが投入されて愛の実体である実を結ばせるのです。それで、どのようになりますか。母の血と母の生命と、父の血と父の生命がこの愛を通して実を結んだのが「私」です。ここのこの人の中に父母の血が入っていますか、入っていませんか。父母の生命が入っているのです。父と母の愛が入っているのです。それゆえ「私」というものは、父母なしに主張することができないのです。
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 「私」は愛の結実ですが、その結実には千年の歴史を通じた中心の根、幹、枝、花、全体の芽を一つにしたすべてのものが入っています。ですから、その結実をもっていくようになれば歴史を運搬するのと同じです。また、それを植えれば、その歴史がどこでも継承されるのです。何によってそのようになりますか。愛を通してです。男性、女性の愛を通して、主体、対象の愛を通して、これが連結されるのです。それゆえに愛を侵犯する者は、宇宙秩序を破壊する最も放縦な者であるゆえに、地獄へ行くのです。
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 父子関係の愛は、母の中に息子に対する実が熟すようになり、また息子の心に母に対する愛が熟し、熟した二つの愛が現れれば、神様がこれを摘み取りたく思うのです。愛の主人は神様であるので、母の中で子女を愛するその実、子女の中で母を愛する円熟したその実を結ばせるのです。完成した結実を摘み取って神様が食べるでしょうか、愛の完成のためにそれを摘み取ろうとするでしょうか。創造主もアダムとエバを造っておいて、自分の中に父母として子女に対する実を「私」がもつと同時に、子女が父母に対する実をもつことによって、二つとも完成させることができるのです。それゆえに、神様は二つとも摘み取ってもつことができるという言葉が成立します。
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 私たちは、神様の愛によって生まれ、その愛によって生きながら、息子、娘を生んで愛の目的地に到達し、永遠に神様と共に生きるために神様のもとに帰るのです。すなわち私たちの一生というものは、愛によって始まり、愛によって成熟して、愛の実として摘み取られるのです。人が死ぬというのは愛の実を摘み取るということです。私たちが父母の愛を受け、夫婦の愛を分かち合い、子女を愛したがゆえに、神様の愛が内的な愛の世界に蒔かれたすべてのものを、私が一生をかけて実を結び、摘み取ってあの世に行くのです。
 ですから、私たちが完全に愛で一つになれば神様に似るようになります。夫婦が一つになって、このような三段階の愛を完全に成し、霊界に行くようになれば、永遠の主体である神様の前に、永遠に相対的な神様になるのです。真の愛を中心として夫婦が死ねば、そのようになるのです。ですから、神様によって始まり、神様によって締めくくるのです。
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 愛の実を摘み取って倉庫に送っていたならば、天国が成され、天国の家庭と天国の国と天国の民になっていたはずですが、これが中間で腐って落ちて、すべて腐るようになったので、地獄の家庭になり、地獄の民になってしまったのです。そのようになったことを「堕落」と言います。落ちたというのです。私たちが堕落し、地獄に生きているというこの二つのことは、嫌でも認めなければなりません。愛の実を結んで天国の倉庫、天国に行かなければならないのに、堕落したがゆえに地獄の倉庫で腐っているというのです。
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 子女、兄弟、夫婦、父母がすべて一点に行って実が結ばれるのです。真の愛を中心として定着が始まるのです。子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情が真の愛を中心として連結されるのです。それが焦点なのです。神様と愛で一つになることによって霊肉が完成したので、ここで父母が出てきて息子、娘を生むのです。神様が創造当時に感じたことを再び感じるようにするために、私たちに贈り物としてくれたのが息子、娘です。
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 霊界というのは、真の愛の実を保管する倉庫です。今まで、真の愛の実が出てきませんでした。真の愛の言葉とその結実を今初めて話すので、それが霊界にあるはずがないというのです。ですから、「私」という存在はどれほど素晴らしい存在でしょうか。
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 家庭の隅々に手を付けるのは男性ではなく女性です。男性は中心に立っているために何も触りませんが、女性はすべて触るのです。それはどういうことですか。地を愛し、宇宙を愛するということです。ずっと手をかければかけるほど愛がしみ込み、宇宙の津液(注:体内からしみ出る液)、核が集中するというのです。そうして、夫が絶対に愛してあげることで、女性に力を補充してあげるのです。このようになった家庭こそが、神様の天国の倉庫に入っていくことができるのです。天国の倉庫とは何ですか。神様が、よくできた実を入れておく倉庫が正に天国です。
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 愛も同じです。春夏秋冬があってこそ均衡が取れるようになるのです。暑いのが長くなれば寒いのも長くなります。それゆえに愛を中心として夫婦生活をするにおいて、秋もあって、夏もあって、春もあって、それから何ですか。冬もなければならないのです。それをすべて消化できてこそ、天上世界に行って顔を上げることができるのです。
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 お父さんがおじいさんを「お父さん」と呼ぶのは恥ずかしくなく、そのお父さんが息子、娘に「おい、何のなにがしや」と言うときに恥ずかしくなく、その息子がお父さん、おじいさんを呼ぶのは恥ずかしくないというようにならなければなりません。何を中心としてそうならなければなりませんか。お金をもうけることができなくて、おじいさんのお世話になったお父さんだからといって、責任を果たせなかったということではないのです。お金をもうけることができないからといって、知識がないからといって叱責できないのです。
 なぜですか。血族とは、愛とは、生命とは、知識を通して、お金を通して、権力を通して伝授するものではないからです。何を通じてですか。「愛を通して!」。その愛を通して実を結ぶのです。その愛を通して生命の実を結び、その愛を通して血統が連結されるのです。お金ではないのです。
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 神様はなぜ天地創造をしたのでしょうか。神様と人間と被造世界との関係を何を中心として結ぶかという問題を見てみるときに、それは知識でもなく、権力でもなく、お金でもないのです。それは愛の因縁を結ぶためだというのです。それゆえに、皆さんが生まれたのは、愛のために生まれたというのです。愛のために生まれて、愛を中心として暮らして、愛の結実の世界、愛の実の世界へ行くのです。愛の実の世界とは、どのような所ですか。そこが霊界なのです。その行く所が、愛の結実を収穫する所が霊界なのです。霊界は、真実に生きた愛の内容を中心として評価を受ける世界です。それでは、その評価する主人が誰かというと、神様というお方です。
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 愛の種になりなさいというのです。結論がそれです。愛の、真の愛の種になる時は、宗教を通じて歴史時代の統一圏を越えるのです。分かりますか。種には根がありますか、ありませんか。幹がありますか、ありませんか。枝がありますか、ありませんか。花がありますか、ありませんか。香りがありますか、ありませんか。蜜がありますか、ありませんか。実がありますか、ありませんか。生命がありますか、ありませんか。すべてあるのです。
 それで、皆さん、種になりましたか。今見てください。気候学的に見るならば、古代は熱帯地方で、中世は温帯文明圏です。一時はシベリアの北風が……。これが、春夏秋冬を中心として一周回るその期間が六十年ないし七十年です。この期間に世界を飛び回るのです。
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 人間がどれほど素晴らしいかというと、愛のオーケストラを奏でている、愛がすべての脈拍を中心として宇宙をすべて生かしていくことのできる動物世界、植物世界を食べるということは、愛の結実を食べて生きるということです。実を食べて生きるということなのです。食堂で食事をするとき、パンが一つ残っていても「これが、世界的に数多くの手を経てここまで来るために、旅行手段がどれほど多く、どれほど多くの苦痛に勝ってきたのだろうか。すべての人の努力の結実、愛の結実としてつくられたものをもってきて私に進上されたので、愛の主人である私がパートナーのように思いながら食べてあげなければならない」と考えなければならないのです。
 ところが、それを嫌がる人には病気がついてくるようになっています。好む人には病気が退くようになっています。どうですか。「愛に満ちた世界の実を取って食べた神仙が人間たちだった!」。どうですか。愛の実として消化して食べて生きるという概念を中心として愛し、愛する神様の本質的愛の父母の内容と一致した立場で食べて、感謝する人は病気にもならないという、これは理論的な結論です。


 2.地上は天国の民の生産地

 天国の民を生産できる生産工場が地球星です。霊界で人が生まれるのではありません。地球星です。では、神様の人を生産できる工場のように造ったのが私たち人間が暮らす地球星ですが、なぜアダムとエバを分けて置いて堕落するようにして、この姿、この有様になったのかというのです。神様の縦的位置では繁殖の場がありません。
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 神様はなぜ人間を創造したのでしょうか。横的基盤、面積が必要だったからです。面積と球形には無数の細胞が分かれて出てくることができるために、その面積が必要なので、人間世界にアダムとエバの体を通じて天国の民を製造していくのです。その民族製造工場が私たちの夫婦生活です。そのようなことも知らずに大口をたたく、そのようなでたらめな者がどこにいますか。とんでもないあきめくらになり、大口をたたいているのです。霊界に行けばそのような世界がすぐに展開するのです。文総裁が教えてあげた話が、事実として展開するのです。
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 なぜアダムとエバを実体として創造したのでしょうか。霊界というものは垂直の世界です。垂直とは面積がありません。霊界に行ってからは繁殖がありません。天国というものは広大無辺な所です。その天国をつくっておいて天国の民を出産させるための基地がアダムとエバの家庭、後孫の家庭です。なぜ体を着たアダムとエバが必要だったのでしょうか。神様の直系の息子、娘は、垂直には一点しかないために面積はありません。生産できる基地がないのです。しかし、垂直を中心として、東西を中心として、前後を中心として分けて、球形になれば無限の宇宙になるのです。無限のスペースが生まれます。
 アダムとエバは、神様がアダムの後孫の家庭を中心として天国を満たすための民を創造する工場として造ったのです。アダムは本工場で、皆さんの家庭が天国の民族をつくる分工場だというのです。分工場でも本工場でも生産品は同じなのです。価値は同じです。
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 霊界は膨大な天国です。故郷の地であり、本宮です。私たちが生きる本宮です。膨大な世界をつくりましたが、そこは神様の息子、娘を生む所ではないのです。垂直を中心として前後左右となり、球形をつくるようになれば無限な空間が生まれるのです。宇宙のような空間が生じるというのです。この空間が多いために莫大な民を生産し天国に移動していくのですが、この天国の民を生産するその分工場が何かというと、皆さんの家庭だというのです。
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 霊界では生産をしません。地上は天国の民の生産地です。なぜかというと、神様は垂直の位置では繁殖ができません。それゆえに神様は面積が必要なのです。アダムとエバを実体としてつくっておいたのは、神の国の民を繁殖するためなのです。天国の息子、娘でしょう。傍系的な次子圏になる三番目の息子と四番目の息子がすべて従うようになれば、彼らが天国の民になり、直系の主流は地上世界の王権、天上世界の王権を受け継ぐのです。
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 この宇宙は愛の博物館です。その博物館で王にならなければならない存在が人間です。鉱物世界も、植物世界もすべて愛の因縁を中心として繁殖しています。愛がなければ歴史が停止してしまいます。繁殖があるために歴史が続くのです。それゆえに男性、女性が結婚して息子、娘を生まなければ、霊界に行って自分の位置を見いだすことができません。
 赤ん坊が生まれれば、その赤ん坊が神様のもとに行くとき、贈り物になるのです。そのような贈り物がなければ、自らの体面を立てることができないのです。皆さんが故郷に帰るとき、父母の前に行って何を誇るでしょうか。そのときに息子、娘をよく育てて誇るように、霊界に行くときも同じです。神様の前に行くときにも神様の子女、天国の民を地上で育てて連れていく、それ以上の贈り物はありません。お金と権力と知識が重要なのではありません。
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 地上は何かというと天国の王孫を、天国の国民を生産する生産地です。それゆえに天国は無限な世界です。したがって、地上で息子、娘をたくさん生んで愛することができる訓練をし、東西南北、前後左右、上下でもって、ありとあらゆる人を愛によって消化し、一つにすることのできる体験をした人は、あの霊界に行って活動できる範囲が広くなるのです。
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 天国に行くようになれば生産地がありません。神様が人を何のために造ったのですか。垂直には繁殖がありません。垂直の位置には一点しかないのです。神様が一点、垂直の位置で愛を行うから、そこでは繁殖することができません。霊界では繁殖ができません。それゆえに横的な三六〇度が必要です。
 横的世界には東西南北に繁殖できる場がいくらでもあるのです。それゆえに女性と男性が霊界に行くようになれば、一つの体になって神様に似ていくのです。のちには神様化するのです。神様に似なければならないのです。神様は二性性相だといったでしょう。二性性相は何から出発したかといえば、愛から出発しました。愛の結実によって、本然の神様に似て帰ってくるのです。ですから、神様も独りでは孤独なのです。
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 霊界では赤ん坊を生みますか、生みませんか。なぜ生みませんか。霊界は縦的な世界です。神様を中心として円形を成した世界です。それゆえに赤ん坊を生む必要がないのです。横的な基盤が必要なので、人間を、体を造ったのです。ところが、産児制限をなぜするのですか。それは天命によるのです。「悪なる血統をこれ以上繁殖させるな」と言うのです。考えてみてください。このごろは子供が誰の子か分からない人が多いでしょう。毎日、毎週、他の男性たちに会うのです。そんな汚いことを考えると、言葉でみな話すことができないのです。そのような人に息子や娘がいると考えてみてください。それゆえに、みな産児制限をするのです。
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 地上はどのような所ですか。霊界では繁殖がありません。行ってみてください。ないのです。息子、娘をもたずに行くようになれば、あの世に行っても息子、娘がいません。地上でこしらえて霊界に行ってこそ、神様の心情を中心として創造した理想を身代わりした心情圏に同参して、愛の刺激を感じて暮らすことができるのです。ですから、息子、娘をもつことができずに逝っては駄目です。また、相対を愛さずに逝っては駄目です。結婚は絶対的です。息子、娘を絶対的に出産することが原則になっています。
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 霊界という所は、どういう所でしょうか。霊界では出産をすることができません。霊界の国の民を生産する所は、地上です。なぜそうなのでしょうか。神様は縦的にいらっしゃる方です。縦を集めるのは一点しかないのです。面積がありません。この縦の価値が出てこようとするためには横を連結しなければならないのです。縦が必要とするのは横だというのです。横が必要とするのは縦です。これも「ため」にあるのです。縦はなぜありますか。横のためにあるのです。本来、創造理想がそうです。縦が生まれたのは横的相対のためです。このような論理の定着をもたらしてこそ、理論的体制において矛盾が起きないというのです。
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 霊界に行けば出産できません。出産は横的な基盤を中心としてなされるのです。ですから数多くの横的な基盤を拡大させて、数多くの氏族を中心として数多くの民族、数多くの国家を通じて膨大なその世界を満たそうとするのですが、霊界は無限な世界です。一人、二人をもってしては駄目だというのです。ですから、世界的な横的家庭基盤を拡大させて生産したその人々を地上で完成させなければなりません。神様が願われる完成した個人、完成した家庭、完成した氏族、完成した国家、完成した世界編成をなして生きてきた人々が、全世界で神様の血族として生きてきた人々が地上で生涯を終えて還故郷する所が天国です。神様から始まったので、神様の傍らへ帰るのです。そこが霊界です。


 3.あの世の所有権を地上で決定

 神様が創造した目的とは何ですか。地上に生きている神様の息子、娘を残すことが神様の目的です。ですから、「私」が霊界で神様の前に行っても、地上に生きた神様の息子、娘を残す立場になるときは、「私」も神様と同じ立場に立つようになるというのです。それが聖書のみ言にある「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」という意味ではないかというのです。皆さんは何を残そうとしますか。皆さん、妻とおもしろく生きて息子、娘を生むこと以外に残るものがありません。
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 これまで、皆さんは統一教会に入って何をしましたか。それは深刻な問題でしょう。五十を越えるまで何年間統一教会で仕事をしましたか。その時から何人伝道しましたか。一年に何人しましたか。それは深刻な問題です。今後霊界に行って、そこでの個人所有権は何かというと、天国の民をどれほど連れて入っていったかということです。それが自分の財産、永遠な財産です。これからはそれを問いたださなければなりません。そのような時が来ました。今からは一日に何百万と伝道できる時が来るのです。統一教会にそのようなすごい内容があるのです。世の中を見てください。今死ぬとか生きるとか、人生が何だとか、空しく放浪し落ち着く所がなくて、狂ったように歩き回って途中で自殺する人がどれほど多いでしょうか。
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 霊界に行けばそうです。愛の懐が大きければ大きいほど、その懐に入っていこうと列をなしているのです。そういう人は、あの世で尊敬を受ける人だというのです。千人万人に囲まれて「ああ! 私はあの人と一緒に生きたい」という声を聞くようになれば、その人はそれだけ領土が大きい金持ちになるのです。ですから、ある家の門前を過ぎながら立ち寄らないというのはいけないのです。「立ち寄らなければいけない」と、「そのまま過ぎることができない」と言うほど愛の心をたくさん植えつけた人があの世の人格基準となり、愛を中心として関係しているその舞台があの世の所有権になるのです。
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 あの世の金持ちは特別なものではありません。それだけ愛のために投入した人が金持ちです。皆さんが福を与えてあげられる群れが、ソウルだけでも一千二百万も待っているのに、なぜ交流できないのですか。行って、「福を祈ってあげよう」と言って訪ねなければならないのです。犬がほえれば、「お前たちは福を受けることを知らない犬だ。お前たちの家にあるすべての福のふろしき包みは私が抱えて歩き回る。私は磁石だ。福をすべて引っ張ってくっつけることができる完全なプラスだ。マイナス要素はすべて切ってしまって、サタンのプラス要素だけすべて残していくが、そのプラス要素はサタン圏だけなので、地獄しか占有することができない」と、このように見るのです。福を集めに回るのです。
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 霊界に行って十二真珠門を経ていくためには、地上でどれだけ天の民をサタンから再び復帰して帰ってくるかということが問題です。そのためには涙と血と汗を流さなければなりません。再創造の真の愛の心情を中心としてサタンの父母以上、サタンの夫、妻、息子、娘以上の心情を投入して涙とともに、血と汗とともに交差するその過程をたどることなくして、天国の自分の民を所有できません。この数の比例によってあの世の栄光の位置に、神様の前に近づくすべての条件の成立が識別されるということを知らなければなりません。
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 今後、霊界に何をもって行くのかといえば、お金をもって行くのではありません。統一教会の名前をもって行くのでもありません。「地区長をした」と言っても通じないというのです。ですから、今後皆さんがしなければならないことは、神様が愛することができる息子、娘をどれだけたくさんつくって行くかということです。人が赤ん坊を生もうとしても、何人しか生むことができないのです。しかし、それは誰でもすることができるのです。今復帰過程で経ていくべきこととは何かというと、皆さんがサタン世界において神様が愛することのできる多くの息子、娘をつくるようになるとき、その功労は先祖と連結され、また先祖を解放させることのできる道が生まれるのです。これが、復帰路程において自分が受ける最大の贈り物です。何の話か分かりますか。贈り物なのです。
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 御飯を食べて生き、息子、娘に食べさせて育てたことは、あの世に行って大したことにはなりません。それゆえに天国の民を復帰しなければならないのです。それが天国では自分の所有になるのです。ですから、私たちが早く五十億人類を、この世を消化しなければなりません。早く消化すれば、霊界のすべての霊たちも再臨復活していくようになっています。今、長子圏がサタンの基盤になっているのが逆さまになり、アダムが長子圏になれば、天使長はアダムの話を聞いてついてくるようになっているのです。そうではないですか。絶対服従する立場に至れば、神様の愛とともにアダムの愛の圏内にあるために、自然に天国についていくのです。原理がそうなのです。
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 私が教会に入ってから何年になったということを自慢するなというのです。何人を教区長にし、何人を祝福させ、何人を先生の一族と血縁関係を結ぶようにしたかが問題です。これは深刻な問題です。ここに先生の姻戚である朴普煕、郭錠煥、劉正玉がいますが、かといってこの人たちがそれですべて終わるのではありません。その背後に何千倍になり得る氏族メシヤ圏を早く拡張して、今後の歴史時代において恥ずかしくない天国の民を立てなければならないのです。
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 歳月をただ何となく送るなというのです。青春時代に息子、娘を生んで育ててこそ、後代に誇り得る基盤を残せるのと同じです。また、その子女たちが立派な人になってこそ歴史に誇ることができるのです。そのような歴史に対して誇ることができる実績がなければ、自分の一家や町内ではグループに入れますが、国には仲間入りできないのです。
 国に仲間入りするためには歴史の伝統に残り得る実績がなければなりません。それゆえに、どこの誰でもみな国に何かを残すことを願い、世界に何かを残すことを願い、天地に何かを残すことを願うのです。同じ道理です。ですから、自己の所有版図をどのように確定するかという問題が終生の目的だ、という観念をはっきりもたなければなりません。それゆえにみ旨の道で、「自分が嫌ならやめる」という考えはもつことができません。
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 神様がしていることとは何ですか。世の中を救う仕事です。あの世に行ってみれば、霊界に行ったすべての次元の高い人々の仕事は、地上での仕事です。地上とは、どのような所ですか。天国の国民を生産する生産工場です。広大無辺な天国です。無限大です。あまりにも広いのです。人々が数億年の間に来ては逝きましたが、どこにいるか分からないのです。そのように広いのです。
 一家庭で子女を百名ずつ生んでも、天国は広いので過剰生産ということがありません。あの世はいくらでも受け入れることができる世界です。ですから、産児制限をしなければなりませんか、してはなりませんか。あの世に行けば、天国の民をどれだけつくって率いてくるかということが問題になります。真の天国の息子、娘をたくさん率いてくるとき、それが自らの権益になって天上世界で表彰を受けることができる等級の等差を設定できる資料になるということを知らなければなりません。
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 御飯を食べることよりもっと重要なことは、天国の民を刈り入れることです。それが私たちにはうまくできなくなっているのです。考えてみてください。それが本職です。この地上に暮らす私たちの本業なのです。生涯にしなければならないことの中で、それ以上貴いことはないのです。この世で就職し、出世したりお金を集めたものは、すべて流れていくのです。あの世では、お金を集めても何の効果もないのです。あの世では物質が必要ないのです。知識が必要ないのです。学ばなくても心が先に知っているのです。一週間以内に何でも、すべて通じるのです。
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 皆さんが今後あの世に行き、復帰歴史をされる神様の前に、一人のアダムを取り戻すために今まで苦労した神様の前に行って何と言いますか。創世以後、今までアダム完成者を探してきたのではないですか。そして、皆さんは「原理」を知りました。これは数千数万の民族を救うことのできる武器です。今まで神様が人間に教えることができなかったため、分からない中で摂理なさる神様の切なさ、それを身代わりして地上で神様以上のことを私たちがするのです。私たちには「原理」で数百数千のアダムを教化させて連れていくことができる道があるのです。考えてみてください、これ以上にすべきことがどこにありますか。
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 皆さんは天国に連れていくことができる息子、娘を何人つくりましたか。皆さんがしなければならないことは、それしかないのです。いくら億千万金をもって良い生活をしてみても、すべて流れていくのです。そこには自らのすべての物質と知識と自分の生命まで、堕落した私の生命まで投入してもやらなければならないのです。それを別々に投入しなければならないのです。投入する全体が加重するに従って、その価値は比例していくのです。
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 天国は無限な世界ですが、そこでは愛の心情で連結され得る橋がなければならないのです。ですから、自分が伝道した人がこの世にたくさん広がっているならば、霊界に行くと、それだけ広く往来できる道が生じるのです。すべてが自分と関係を結んで因縁を結ぼうとするのです。それは地上において思想を武装し連結させたのと同じような体制が、自分を中心として連結されるというのです。
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 息子、娘をたくさん育てた人は、愛の内的な核が大きいのです。天国に行く時は、これが行くのです。他のものではありません。お金や名誉や良い暮らしをしているという、それが福ではないのです。息子、娘を育てるにおいて、春夏秋冬四方を中心として自分の世界になれば、地がそこに合わせて平面的な地になるのです。東西南北に私が思いのままに与えることができる立場になれば自分が満足するようになりますが、そのようにできない時は、いつでも一方的にしかなりません。
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 この地上が天国の民の無限な生産地であるというのです。これをどこの誰も知りませんでした。本来の夫婦は、息子、娘を天国民族として生み、完成した人間として育てていくことが、この地上で生きていく生涯路程だというのです。
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 多くの息子、娘をもった父母は、多くの愛の相対を迎えたので、天国に行っても四方八方誰でも思いのままに会えます。息子、娘をたくさん生んだ女性の中で、悪い女性はいません。なぜでしょうか。自らの息子、娘をかわいがる母の心をもって、自らの息子、娘と比較していつでも考えるようになるのです。ですから、生活圏内で自動的に愛の境地に高く上がっていくことができる立場に立つのです。ですから多くの息子、娘を育てた人は、霊界の最も高い所にいます。
             *
 皆さんは氏族的メシヤとして、天国の民をたくさん繁殖してから逝かなければならないのです。それが自分の生涯において最も貴重であり、人生の希望です。それが自らの非常に貴重な所有権です。今までそのような人が霊界にいなかったというのです。それゆえに、呼びさえすれば皆さんの周辺に多くの友人たちが現れることができるように、百名以上、千名でも連れてこなければならないのです。
             *
 皆さんは地上で、子女を立派に育てて残していかなければならないのです。将来その子女たちすべてが霊界に行くのです。霊界に行って天国の国民になるのです。自分が何人を天国の国民として捧げたのかというとき、地上では苦しいことでしたが、永遠の世界ではそれが高貴な栄光の道になるのです。


 4.肉身をつけた地上生活が日ごとに記録される

 皆さんは霊人体と肉体が水晶のように清く生きてこそ、のちに霊界に行って問題がないというのです。そこにいかなる汚点があっても天国に入れません。地上での生活がこのように重要だというのです。生きたそのままが霊界に行くのです。ここには誰も例外がありません。自分自身が透明に、すべて表れて見えるのです。分かりましたか。
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 あの世に行けば、金なにがしならば金なにがしだと、ぽん、ぽん、ぽんとボタンを押せば、あっという間に生きてきた歴史が出てくるのです。その世界は時間と空間を超越するために、これを捕らえるのは直感のように速いのです。どうにも避ける道理がないというのです。それゆえに良心とは何かというと、永遠の世界に行くための地上生活の記録帳です。コンピューターと同じように一つ二つ、すべて入力されるというのです。間違いなく入力されるのです。
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 人の行動一つ、表情一つ、すべてのものがビデオ・テープに撮られるように映っているのに、霊界に行って隠すことができますか。自分の心を隠せないのと同じように隠せないのです。心よりも表面的な世界が、表れた世界が霊界です。弁解が必要ありません。弁解をすることができません。口を開けば開くほど宇宙の恥が迫るのです。それゆえにその世界へ前進できません。後退だけがあります。怖い時代が尋ねてくるのです。
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 良心を知っていますか、知りませんか。良心が知っている良心世界の本宮が霊界であるので、霊界のコンピューターに入力されるのです。「なにがし」と言えば、ぱたぱたっとして何代前からずーっと出てくるのです。こいつの父母が何をしたかということ、良いのか悪いのかすべて出てきます。自分が一生の間何をしたかということが、あっという間に出てくるのです。何年もかかるのではありません。瞬時に分かります。それだけ拡大された人間世界に入るのです。
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 霊界に行けば自らの記録が一〇〇パーセント、コンピューターに入っています。すべて現れるのです。良心は永遠の世界に展示するコンピューターのディスクのようなものです。すべて入っているのです。ボタンを押せば、子供が母に抱かれてお乳を飲む時から一生の間ずーっと何をしてきたのか、すべて心の映像によって知ることができるようになっているのです。そのような世界が、皆さんの完全な感情のために日ごとに記録しているのです。その日がいつ来るのかといえば、死ぬ時です。万能になった感情コンピューターの前に立てば、誰もうそをつくことができません。霊界の映像が、影のような世界で現れるのです。すべてが記録されているのです。
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 良心は、一生の間において自分がしたことを知らないことはありません。自己のすべてのことをみな知っています。このことが、そのまま天国のコンピューターに入るのです。間違いなく入るのです。霊界に行ってみてください。
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 優れているという人々は、浮気をし、ありとあらゆるばかげたことをするでしょう。天国に行けないのです。私が霊界に入ってひっくり返してみて、このような事実を知るようになって、「ああ! 知らなければよかったのに」と思う時が、どれほどあると思いますか。行ってみると幾重にも重なった山また山です。サタンによって失ってしまった愛のために、永遠に包囲された監獄生活をしているというのです。
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 皆さんの心、堕落した心もそうでしょう。自分が一生の間どのような者だったか、よく知っていますか、知りませんか。だますことはできません、みな知っているのです。良く振る舞っていても、霊界に行けば一〇〇パーセント表れるのです。悪いのが先に表れます。悪いことを先に清算して霊界に入っていくのです。そうでなくては霊界に入っていくことができません。
 目をつぶっているとしても、悪いのが表れて処断を願うようになるのです。それで、それがなくなる時まで教育を受けなければなりません。修練を受けなければなりません。猛訓練を受けなければなりません。霊界では今そのような教育体制をつくるために、興進君を中心として全体的に修練しているのです。
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 良心は欺くことができません。皆さんは、すべてビデオ・テープと同じように記録されます。一生の間生きて、霊界に行くようになると、そこに自分の番号があります。心霊状態の光を既に知って、「誰それが来た」と言って連れてきます。連れてくれば「どのナンバーか」と言って、十八番ならば十八番をぐっと押せば、あっという間に分かります。生まれてからが、あっという間に分かるのです。やむを得ません。良心が痛哭するのです。その比例によって地獄と天国の境界線を行き来する、このようなことが連結されたということを皆さんは知らないのです。その世界が、そのままむやみに大ざっぱな計算で動いているのではありません。数理的な世界です。理論的に動くのです。科学者の王が神様だというのです。天国は自分勝手にはなっていないのです。
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 習慣性は永遠にそのままです。そのように難しいものなのです。しかし、地上では直すことができます。今まで習慣になったことよりも、もっと新しいことを習慣化させれば地上では清算できます。今しなければなりません。今しなければ霊界に行って問題になります。霊界に行って引っ掛かってしまうのです。
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 殻を脱ごうとするとき、へびも通路にしっぽを入れて逆に死ぬほどの力を尽くして、木を巻いていって血を流して脱皮するのです。逆理的な過程を経なければ順理的な過程を行くことができないという、堕落を認める人間には不回避な非原理的公式的路程となっているというのです。それが順理の立場で私の個人の心と体が一つになり、順理の立場で夫婦になり、順理の立場で父母となって生きた人間は逆理的条件に引っ掛かりません。霊界は堕落した讒訴条件に逆に引っ張られ得る、木が逆に引っ張られるのと同じです。根が引っ張られれば順理になるはずですが、枝を引っ張っていけば逆理になって、すべてのものが行けば行くほど傷を受けるのです。もっと難しい路程が……。ぴったりとそのようになったのです。
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 そこでは許しがありません。偽りが通じません。皆さんはビデオ・テープを見るでしょう。笑えば笑ったとおりに、その実相を見せてくれるのです。ここではビデオの時間的観念圏内を抜け出すことはできませんが、そこは超時間的世界です。カチッといえば、千年の生活がすべて現れるのです。さっとつけて見れば、誰かが「行きなさい」とも言わないのですが、自分たちが霊界でいるべき所を探していくのです。我知らず押されていくのです。押されていけば、もっといい所に行こうと思っても、どんどん押されていくのです。行ってぴたっと三角地帯にとどまるのです。その時、行って嘆息しますか。私は霊界を知っているので、このようなことをするのです。霊界を中心としてこのようになるのです。皆さんは福が多いのです。分かりましたか。
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 見てください。霊界の輪郭がすべて表れるので、死後の世界がどれほど現世と連結されているか、その内容を知れば、むやみに生きられないのです。地上の生活が、どれほど怖いかということを知らなければなりません。地上の生活が永遠の自らの生涯圏を左右するという事実、それを知らないので自分勝手に暮らすのです。
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 地上生活を本当に良くしなければならないのです。精誠を尽くし、一日に何十回も原理基準を中心として反省しながら、このようにして朝、昼、夕、二十四時間、天上の法に引っ掛からないように生きなさいと懇切にお願いするのです。
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 天の前に行くときに、あらゆることを清算して行くときは、良くやったことから報告するのではありません。誤ったことから報告して良くやったことを話さなければなりません。世の中は反対でしょう。「君は何をしたか」と言えば、「私はこのようにしました」と悪いことはすべて隠すのです。しかし、霊界はそうではありません。霊界は悪いことから報告しなければなりません。順序がそうです。何をしたかというとき、さっと現れます、テレビのように。悪いことから報告するのです。なぜですか。カインが先です。悪いことが先に現れて、それから良いことは何か、となります。アベルは二番目に現れて、比較して善なるもの、アベル的基準が多くなる時は再教育し、そこから霊界を教えてあげるのです。


 5.肉身で犯した罪は地上で蕩減しなければならない

 地上で結ばれたことは地上で解かなければなりません。そのまま霊界に行っては大変なことになるのです。自分自身が刺激を通し、そこから抜け出てこなければなりません。そうでなければ、永遠に地獄に落ちるのです。
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 私たちは好むと好まざるとにかかわらず、今から死んでも蕩減の峠を越えていくべき運命的な堕落の後孫だというのです。それを否定できません。この道を越えなければならないのです。それを自分の一生において越えずに霊界に行くならば、何百万年かかるかもしれないのです。あの霊界には蕩減がありません。そこは解放された完成圏なので、愛の波で充満した所です。蕩減や再創造はありません。再生産もありません。そのような刺激がないために、一度固着すればそれで終わりです。大変なことだというのです。それで、神様はそのようなことを知っていらっしゃるので、この地上にメシヤを送られたのです。
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 へびは脱皮すればするほど大きくなりますか、小さくなりますか。一日に十回脱ぐことができれば、十回脱ぎなさいというのです。霊界に行っては、そのような刺激がありません。そのような装置がないのです。再び地上に尋ねてきてそれを解怨成就できるようにといくら願っても、それは不可能です。一度行けば、勝手に来ることができないのです。
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 あの世、霊界には愛の刺激的な要素はありますが、罪悪を取り去ることのできる蕩減的な要素がないために、数多くの歳月がかかるというのです。そのようなことを知ったので、先生は四十年間にすべて築いて片づけたのです。昼夜を忘れて過ごしてきました。一日に夕方一食だけ食べ、あるいは朝一食だけ食べる生活が普通だったのです。そのように生きてきました。
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 地上で肉身があるときは大変ですが、共に抱き合い、痛哭しながら感動させることのできる道がいくらでもあるのです。しかし、霊界で肉身をもった地上の人間を感動させることはとても難しいのです。
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 この地上にいる生活がどれほど重要でしょうか! 一回しかないのです。瞬間ですが一回しかありません。地上生活を永生と比較すれば、これは一点にすぎません。あまりにも短い瞬間です。これは重要ではありません。私の肉身生活を越えて、霊界のために準備をしなければならないのです。常にそのような主流思想をもってセンターに立って、一切をコントロールし、一切を征服することができなければなりません。そうでなければ、皆さんは完成することができないのです。
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 霊界で最も嫌うことは堕落圏を中心とした風習、習慣性です。風習によって習慣性になってしまうのです。日本人は日本で生まれましたが、食べ物は何を最も好みますか。汁と御飯なのです。アメリカ人はハンバーガー、韓国人はコチュジャンとキムチ! しかしこのようにだけ考えて生きれば、その習慣性は永遠になくすことができないのです。
 それならその習慣性をどのようになくせばいいのでしょうか。自らの習慣性をなくすことがこのように難しいのに、固着した堕落性、頑固な習慣性をもって霊界に行くならば、どれほど難しい立場になるでしょうか。それを、この地上で整備しなければならないのです。霊界に行くとき、それがどれほど難しいでしょうか。ですから夫が問題ではありません。息子、娘が問題ではありません。夫と妻、息子、娘は、自らの習慣性をみな解決したのちにもたなければならないのです。
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 地上で結ばれたそれは、地上で解いて逝かなければなりません。霊界に行って解こうとしても、そのような刺激的な環境がないのです。反対する悪役が、善に反対する世界がありません。それが悪かった場合にはそれに反対するのではなく、悪い方向に押しやってしまうのです。それに決別させてしまうのです。
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 皆さんは霊界に行き、保護館での生活をしなければなりません。何千年も待たなければならないのです。祝福を受けた人々も今後……。息子、娘たちがみな「お母さん、私をなぜこのように生んだのか。なぜここに引っ張ってきたのか」と言わないと思いますか。皆さんの息子、娘たちがじっとしていると思いますか。皆さんの家庭のレベルはみな異なっています。ですから、行くにもすべて自分の級に合う所に行って、長い間とどまるのです。
 そうなれば、皆さんの先祖が、息子、娘たちが、「どうしたのか。なぜそのように良くすることができなかったのか。何だそれは」と言いながら讒訴します。そうなれば、皆さんはそれに該当するだけの長い時間、そこにとどまらなければならないのです。そんなに易しくありません。ですから、地上でしなければならないのです。先生が「しなさい」と言うことを、みなしなければなりません。
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 皆さん、まだ真の家庭になっていないでしょう。霊界に行けばすべて別れます。霊界は永遠に堕落せず、天国の家庭を成して生きた人々が入るようになっているのです。いずれ永遠をおいて皆さんは帰らなければなりません。地上においては七、八十年以内に解決できる問題が起こりますが、霊界に行けば永遠をおいて、何千万年かかったとしても、その解決の道は難しいのです。皆さんは地上で清算しなければなりません。地上で解決しなければならないのです。地上で解けば天で解かれ、地上で結ばれれば天で結ばれる、とあります。地上で失ってしまったので、地上で取り戻さなければならないのです。
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 体をたたいて三年間制裁すれば、三年ないし五年制裁するようになれば、その世界に行くものなのです。そうではないですか。肉的なことを大きくすれば、霊的なことは小さくなるのです。肉的なことをなくしてしまえば、これが高まるのです。同じです。ですから、外的なものを無視して縦的なものを重視するようになれば霊界が近づいて、本然的良心的基準に接ぎ木をすれば電気線のプラス・マイナスが、発電所の電気が通じるように爆発するというのです。それゆえに天地の変化の作用が起こるのです。そのような霊的体験がなければならないということを知らなければなりません。
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 聖書の「地で結べば天でも結ばれ、地で解けば天でも解かれる」という論理も、このような二重構造の一体性を知ることによって解明できるという結論が出てくるのです。きょう、私たち人間は肉身をもったこの期間が本当に、どれほど貴重なのかを知らなければなりません。神様も復活させることができ、宇宙も復活させることができ、全天下を統一させることのできる期間は、肉身をもっているこの期間しかないという結論になるのです。神様と万物を合わせても、この肉身世界と取り替えることができないのです。
 なぜそうなのでしょうか。神様とこの宇宙を合わせても、肉身をもった人間がいなければ完成できないためです。それゆえ、今日私たち人間の体がどれほど貴重なのかを知らなければなりません。それは素晴らしいでしょう。
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 天国に行き、地獄へ行く二つの道があるとすれば、天国を訪ねてくる人と地獄へ行く人とでは、どちらがより多いでしょうか。地獄へ行く人々が、より多いことでしょう。それを見つめる神様の心情はどうでしょうか。どれほどあぜんとするでしょうか。地獄とは関係なく天国に来て、膨大なこの国の民になって、愛を中心として神様とともに生きなければならない息子、娘たちが、みな地獄へ行くのを見るとき、どれほどあぜんとするかというのです。皆さんの息子、娘が死の地に行くと考えてみてください。このようなことはいずれ霊界に行けば、皆さんすべてが知ることです。
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 霊界でみんな尋ねるというのです。「先生の教えはこうだったが、この基準に対してあなたは合格者か、不合格者か。霊的五感と肉的五感が一つになり、この基準に合わせようと努力したか」と聞くのです。皆さんはどのように考えますか。「天国はどうあってもいい」と考えて、ただで通過できる所ではありません。祝福を受けても、でたらめに生活した人が集まる所ではありません。深刻な人が集まる所です。皆さんは、先生よりもっと深刻でなければなりません。
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 霊界に行けば、まず誰に一番に会えるかというのです。誰に会ってみたいですか。そのようなことも考えたことがないでしょう。自分の母親に会おうと思っても会えません。真の父母が解放させる前には会えないのです。いくら愛する人だといっても会うことができません。少し離れた場所から見ることはできますが、近くでは会えないのです。
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 人間は霊界に入籍する時、地上生活を証明する証明書をもっていかなければなりません。「私はこのように生きた。このようなことをした」と言うことのできる生涯の証明書のことです。そのような証明書は、自分自身で書くことができないのです。初めはサタンが書きます。先にサタンから証明書をもらってから、イエス様の証明書をもらわなければならないのです。それから神様の証明書をもらわなければなりません。
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 今後、皆さんは自叙伝を書かなければなりません。自叙伝を書きなさい。統一教会に入ってからの生き方を、一つのうそもなく自叙伝を書かなければなりません。そうすれば、霊界に入っていく時、その自叙伝を前において「私がこのような役事をすることができたのか!」と痛哭をすることができなければなりません。これを地上で書き天国に行って、百六十名、二百四十名、三百六十名に該当する霊通人たちが前に立っている列をたどっていく時、うそをつけばそこで雷が起こるのです。欺くことはできないというのです。
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 皆さんが行動したすべてが、あの世に行ってスイッチだけ押せば、あっという間に一生がテープにすべて現れるのです。それは悲惨なことでしょう。ここで先生がすべて許してあげるようになれば、そのテープがすべて消えてしまうのです。そのようなことを知っていますか。


 6.自然の中への順応的生き方が貴い

 自然に向かい合う人は、宗教的な人です。宗教の世界は貸しのない世界です。大地は、自然はうそをつきません。一〇〇パーセント私が努力すれば、そこに対する結果をもたらすのです。そこには投機性がありません。一獲千金がありません。また、そこには賭博性がありません。年齢が五十になれば自然に帰り、自然の土とともに生きながら信仰生活をすれば、霊界に行く準備としてこれ以上良いことはありません。
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 先生は将来ここに農場をつくって、世界の食口たちを連れてこようと思います。皆さんが年を取って六十歳、七十歳になれば、自然の中で万物を育てながら、子供を育てるのと同じような心情を体恤し、神様の創造の心情圏を体恤するのです。そうしてから霊界に行けば、高い霊界に行くことができるのです。ですから統一教会で苦労した人は、晩年に農場に連れていって別荘で自給自足させる計画なのです。それが理想郷です。先生はそのような大きい構想をもっています。
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 六十を越えれば下野し、故郷の農村に帰って土地を耕し、霊界に行く準備しなければなりませんが、その準備が忙しいのです。ですから精誠を尽くして先生のように農村に埋もれながら、農村を指導できる、このような責任を果たさなければなりません。ですから、趣味産業、趣味生活をやり終えて霊界に行ってこそ、高い霊界に行くことができ、情緒的な人になって霊界の舞台を活用できる皆さんとなるのです。どうですか。
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 満六十歳まで仕事をしますが、その後は公的活動時代から解放されます。しかし、三年間は公的に無報酬で仕事をするのです。霊界に行くためには報酬を願ってはならないのです。霊界に行くための訓練をするのです。実績があれば七年まで延長するかもしれません。それでは、何歳まで。六十七歳、六十歳で終わって七年もできるというです。霊界に行くことができる基盤を中心にして……。そのようになれば、どこに行っても誇ることができるのです。統一教会の基盤をもって逝けば「ああ功臣様が来られたのですね」と言って、先生の代わりに接待を受けるかもしれないのです。「ため」に生きるその基盤を通して霊界に行くと考えるとき、そのような年輪が必要だというのです。「アーメン」と言わなければならないでしょう。
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 陸地旅行、水中旅行、宇宙旅行をしながら暮らしてから霊界に行ってこそ良いのです。それで、海にも入って暮らせるようにするのです。五人が入っていって、いくらでも暮らすことのできる潜水艦を研究しているのです。ですから、地上で定着生活をしながら旅行をするというのです。陸地旅行、水中旅行、宇宙旅行をしながら暮らしてから霊界に行かなければならないのです。
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 鹿みたいな獣も育ててあげ、魚も育ててあげ、それから穀物も自然に人工を入れて育て、すべて育てるというのです。それがどれほど素晴らしいでしょうか! 神様が創造したすべてのものは何であっても再生させ、それを願いながら神様を考えて、自然と調和を成し、このすべてのものがお互いに助け合って生き、趣味をもって暮らしてから霊界に行くのです。このようにすることによって、都市集中の世界をすべて分散できるのです。何の話か分かりましたか。
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 神様が願う未来の家庭システムはどのようなものでしょうか。それで、先生は趣味産業、趣味世界を考えたのです。今後各国にどのような組織をつくるべきでしょうか。建築をするのですが、コンドミニアム・システム建築、四つの家庭が一つになって暮らすことのできるそのようなシステムで訓練しなければならないというのです。お金をもうけて、食べるのも一緒に食べて、息子の教育も一緒にさせて、一つの家族のように暮らさなければなりません。一緒に暮らせず、和合することができなければ、霊界に行って制限された環境に押し出されるというのです。一緒に和合できないのです。
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 このおもしろみ、趣味文化というのはどこにもあるのです。創造の時から復帰の時、完成の時、地上生活、天上世界までおもしろくなっているのです。アメリカ人だけ良い生活をしなさいという法はないのです! アフリカも良い生活をすることを願いますか。「アメリカ人の中で最も良い生活をしている人の家で、アフリカで最も良くない暮らしをしている人を一カ月住まわせてあげなさい」と言えば、どうですか。それをすることができなければ、レバレンド・ムーンがします。
             *
 故郷に定着する時はどのようになりますか。天地のすべてのものが故郷になり、天地のすべてのものがそこに連結されているので、何ももって行く必要がなく、置いておかなければならないのです。それを置いておいて霊界に行けば、これを連結させることができるというのです。世界のものをここに移すことができ、また私がそこに行けば自分の家も引っ張ってくることができ、私のものになるというのです。もって行く必要がありますか、ありませんか。
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 ボートさえあれば一人で行って瞑想をすることもでき、小さい天幕だけ張っておけば、そこで寝ることもできるのです。天国のような観光をすることができるのです。人がいない所でです。自然に埋もれてこのような観光をするためには船が必要です。絶対必要だというのです。そのようになると思いますか、思いませんか。駄目ならそのようにさせるのです。
             *
 霊界に行けば、寝ることもなく食べることもせず行動できる世界なのです。考えてみなさい。千里万里をあっという間に行き来するというのです。この宇宙をすべて行動半径圏内に消化させることができるというのです。ここの自然において、南米にどのような木があり、どのような鳥がいてという、関心事がどれほど多いでしょうか。この前、大蛇で八メートル近いその抜け殻があったのです。やー、それを一度捕まえたいです。それ以上の大蛇を捕まえたらいいというのです。
             *
 一生の間の生活の中で、人生の趣味生活が人間の歴史とともに、人間の理想生活とともに和合し、霊界と連結されなければならないのです。自然的幸福の世界と連結することができなければならないというのです。
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 地上世界でいつも晴れたり雲がかかったり、ありとあらゆる気候の変化を見るとき、それが芸術的なのです。その環境で愛することを感じれば、あの霊界の澄んだ世界に行き、自分が雲がかかるようにしてみたければ雲をかけることができ、霧がかかるようにしてみたければ霧をかけることができる、愛によってそのすべての多様な感応圏をつくることができる特性をもった、そのような人間になることができるのです。ですから、すべての霊界が関心をもっているのです。「ああ、その人のところに行けばおもしろい」と言うのです。
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 私は、山に行って草を見れば、どれが食べられるものか、みな分かります。芽が出てくるときは、すべてのものを食べます。子牛たちや子羊たちは、芽をみなかじって食べるのです。毒草を食べても毒がないのです。その時は毒がないのです。そのようなことをみな学んだのです。山に行けば食べるものがどれほど多いでしょうか。また、茂みに入れば昼寝をするのにどれほど良いでしょうか。蒸し暑い夏には腹を出して涼しくごろごろして過ごせれば、どれほど良いでしょうか。雨が降ったとしても、どれほど涼しくていいでしょうか。
 腹を出して藤の下で大の字になって寝て、おならもぶーぶー鳴らしながら、いびきをかいて寝る男の姿を過ぎゆく尼なら尼が見て、南無阿彌陀仏……。それはなぜですか。あまりにも立派なのです。石仏ではありません。何の話か分かりますか。それを知らない女性は木石です。それは息子、娘も生むこともできず嫁ぐこともできません。しかしそれを見つめて南無阿彌陀仏する時、胸がどきどきし、おしりが突き出る時は、僧侶たちも一次元上がっていくのです。本当なのです。霊界に行ってみればそうです。愛を知らない僧侶たちは落第です。キリスト教徒たちがよく信じて天国に行こうといくらしてみても……。私がくまなく、すべてかき回して見ました。金活蘭がどこに行っているか知っていますか。患乱世界に行っています。

















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