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礼節と儀式
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第一章 神様に対して侍る礼法

 一 神様に侍って生きるべし

  1.神様と人間は親子の関係

 因縁の中でも標準となる因縁は、神様と人間の間に結ばれた親子の因縁です。この因縁から始まった心情は、どんな存在の権限にも曲げられない永遠で不変で唯一なものです。また、この心情の権限は絶対的なものです。それゆえこの権限をもって現れる時、すべての存在物はその前に頭を下げざるを得ませんし、この心情の権限をもって動かす時、全天下はついて動かなければなりません。これが宇宙の鉄則です。
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 神様が創造当時、理想として願った真なる愛、偉大な愛を中心として人間との愛の関係を結び、一つになり得る神人愛一体の家庭を成したならば、今日私たちは天国だ地獄だと心配することなく、ただそのまま天国に入るようになるのです。
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 父と息子が出会える最高の場所とはどこでしょうか。愛が交差する中心、生命が交差する中心、理想が交差するその中心で出会うのです。そのように見ると、愛と生命と理想が一つの場にあるというのです。
 その場に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想になるというのです。これを決定づけることのできる最初の因縁と最初の統一の場所が、親子関係が成される場でなければなりません。これは間違いのない事実です。
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 皆さん、父子一身という言葉はいったい何を中心として言う言葉ですか。これは愛を抜いてはいけません。愛と生命と血統が連結されています。この三つの要件が必要です。父子一身だと言う時、そこには必ず愛と生命と血統が連結されなければなりません。
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 言葉で結ばれる親子の関係、予約だけで結ばれる親子関係は必要ありません。心を尽くし、精誠を尽くして父のみ旨のために生き、骨肉が溶けるような苦痛の中でも耐えて勝利する時、私たちは神様と親子の関係を回復できます。
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 神様から愛を受けたがるその最高の立場とはどんな立場でしょうか。その立場はまさしく息子の立場であり、娘の立場です。神様には天情があり、私たち人間には人情があります。この人情と天情が互いに合わさることのできる帰着点は絶対者である神様も願い、人間も願うただ一つの場、すなわち一父母を中心とした息子、娘の立場で互いに愛を与え受けることのできる場です。
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 本来はアダムとエバが互いに最高に喜ぶ中で、最高の生命力が発揮され、最高の力が合わさり、全体の理想の力まで合わさった中で、愛の花が咲かなければなりません。それで花のように咲いて、その香りが全天下を覆っても余りあり、神様がその花を見つめて花の香りを味わいながら、自らそこに酔うことのできるそのような愛を、神様は夢見ていたのです。
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 アダムと神様が一つになって、互いに愛があふれる時、アダムは神様になることができます。アダムが愛によって神様と完全に一つになる時に、神様はアダムに臨まれます。聖書にも「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(コリントT三・一六)とあります。私たちが神様の聖殿です。
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 神様は皆さんの近くにおられ、誰より皆さん一人一人を心配しておられる方だということを知らなければなりません。この世では肉親の愛が一番大きいと思っていますが、神様の愛はそれよりもっと大きく深いのです。この世のどんな人間的な愛よりも深く大きいものであることを知らなければなりません。
 このような神様の愛の懐に抱かれて、お父さんと呼ぶことのできる皆さんにならなければなりません。「お父様の悲しみを私は知っております」と言える立場で、神様の内的な心情を体恤する真の息子、娘にならなければなりません。そのような息子、娘となって、神様に侍る天国を所有するならば、その天国は誰も奪っていくことができません。
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 父子一身という愛の論理圏において、父の所有は息子の所有になるのです。夫の所有は妻の所有になるのです。愛を中心としては相続権が永遠に保障されるのです。真なる神様の愛の対象者として因縁を結んだ息子、娘においては神様の体も私の体であり、愛も私の愛であると同時に、造られたすべてのものも私のものになるのです。
 ですから皆さんの中には、天下を占領しようという本性の欲心が残っているのです。これが神様の人間に共通に分配してくださった、宇宙を所有できる神様の息子、娘の権限を引き継がせるための贈り物だったというのです。


  2.一体となった生活をしなければならない

 すべての宗教では見るものをむやみに見ないで、聞くものをむやみに聞かないで、言うことや対するのをむやみにするなと言います。見るのも、聞くのも、言うのも、感じるのも、愛するのも、すべてが神様を中心としてしなければならないのであって、自分を中心としてしてはいけないということです。
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 皆さんは神様に侍る者として、うれしい時に神様をどれほど喜ばせましたか。皆さんがおなかがすいた時に御飯を食べながら感じる有り難み以上に、神様に侍ってさしあげましたか。皆さんはいいものを食べる時や着る時、そして悲しい時や大変な時にも、いつも神様に侍らなければなりません。そうすることによって、神様の心に覚えられる理由を残さなければなりません。
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 私の意識と直感と感覚器官一切までも父のものであり、私が感じ意識する全体が父のものだという観が決定されなければなりません。そのようにならない限り、心情を通じて動く天を所有することができないということを、はっきり知らなければなりません。
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 人間は誰でも、心情的に神様と一つになるようになっています。お父さんである神様と子供の人間は、正に心情で連結されています。
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 私たちが話をし、見て、感じ、また感情的に体感する一切も、神様を中心として因縁をもったものでなければなりません。
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 私たちは神様に侍り、父母に侍って生きるのです。話をするときも、行動をするときも、寝ても覚めても侍る生活をしなければなりません。このようなコンセプト(概念)さえもてば、二十四時間サタンが侵犯することは全くありません。
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 朝、寝床から起きて初めの言葉を天の前に捧げ、家を出る時も、第一歩を右足から踏み出し、天の前に捧げなければなりません。平素の習慣がこのようになれば、皆さんの生活は侍義生活になり得るのです。このような観点で、皆さんは原則的な基準で生活態度を取っていかなければなりません。
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 私たちが朝起きて感じるすべての感覚、動作が一つの目的を中心として、いつも直線上に帰一できなければなりません。その点を喪失すれば、み旨と私とは関係を結べないということを否定できません。
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 天国は、侍る生活をしたことを誇るところです。それならその天国とは、どのような者が行くところでしょうか。主を信じて福を受けるために、福を先立てていく者が行くところではありません。天国は、侍るために心情的に準備する生活をした者たちが行くところです。準備する期間に死ぬとしても、侍る生活を残して喜んでいくことのできる者が行くところです。そこに復活があるのです。
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 今は三合(神様、真の父母、皆さん)が一致しなければなりません。歩調を合わせなければならないということです。生死の決定的内容がかかっているので、三者が一致する点で一つにならなければなりません。その点に生命の復活圏があります。その点が、真の父母と皆さんが一つになって一致できる連結点です。そこで一心統一が起こるのです。ですから皆さんは、み旨と一致した生活をしなければなりません。
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 一日二十四時間の生活圏内で私が見聞きしたすべてのことは、何のためでしょうか。神様のためです。神様のために見たり聞いたりしなければならないし、感じるのも神様のために感じなければなりません。私たちは地上で生活していますが、天上世界の生活と連結させて生活しなければなりません。
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 毎日のように慕わしく思えない人は、神様に侍ることはできません。皆さんは誰を慕うとしても、いつも慕わしさに浸っていなければなりません。しかし、夜十二時になると「では、寝よう」と言う人は神様を心配させる人です。心情の因縁を抱いて出る時、夜が問題ではないというのです。
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 本来神様と完全に一つになったのちには、私を中心として生き、私を中心として考え、私を中心として愛するのが原則です。その時は自分を中心として考え、自分を中心として愛しても、それは神様を中心とした考えになり、神様を中心として愛することになるのです。それが原則だというのです。
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 お父様である神様に出会うために、神様と因縁を結ぶために、どれほど精誠を尽くしたかということが自分の財産です。
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 皆さんは涙の谷間で父を呼ぶ時、応答を受けることのできる息子、娘にならなければなりません。涙を流す場で「お父様!」と言う時、「おお、私がここにいるから耐えなさい」と、血と汗を流す苦痛が染みる場で「お父様よ」と言う時、「私が忍耐したのだからお前も耐えなさい」と、死が迫りくるその瞬間にも、「私がいるから安心しなさい」という言葉を聞くことのできる皆さんにならなければなりません。そのような場でどれほど父に侍り、どれほど父と共に相談し、どれほど父と共に生きたのかということが問題になるのであって、栄光の場では父をいくら呼んでも問題にならないというのです。なぜならば、まだお父様が栄光の日を迎えておられないからです。
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 「ああ、おなかがすいた。ああ、御飯御飯御飯!」と言いますが、それは誰のために食べるというのですか。神様のために食べると、そうでなければなりません。どのようにすれば神様のために食べることになるのでしょうか。私が神様の完全な聖殿になったならば、「神様の聖殿である私がおなかがすけば、中におられる神様が御飯を食べようと言う」このように考えなさいというのです。分かりましたか。そのように御飯を食べれば、その御飯は聖なる御飯になるのです。御飯が御飯様になるのです。


 二 侍る心構えと態度

  1.侍ることによって生活の天国化を成す

 神様は妄想的で観念的な神様ではありません。抽象的な神様ではありません。生活的な主体性をもって、いつも私たちが生きている生活の主人として共におられるのです。侍られるだけではありません。共同的愛を中心として共同的な生活をしている神様です。夢のような話です。
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 神様を心の中に侍り、私たち人間が体の立場で完全に一つになることのできる起源をつくらずしては、この悪魔の世界を清算する道がありません。このような観点から見る時、侍る時代、侍義の救援時代だと見るのです。侍ることによって救われるのです。神様はあの空中に掛け離れている神様ではありません。私たちの生活圏内の主体者としての神様に侍らなければなりません。
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 皆さんは神様がいらっしゃることを一日に何回自覚しますか。二十四時間の中で何回神様がおられることを感じますか。「侍ることによって救いを受ける」と言う人たちが、二十四時間の中で一、二時間ぐらい侍っていていいでしょうか。空気よりも切迫して必要なのが神様です。水よりも切迫して必要なのが神様です。御飯よりももっと貴いのが神様です。ところで皆さんはそのように感じられますか。
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 これから皆さんが侍る生活をしなければなりません。今までの信仰生活は信仰によって救いを受けましたが、これからは侍ることによって救いを受けます。本来堕落しなかったならば、神様に侍ることによって私たちが行くべき道を歩むことができたのです。侍るには皆さんの生活と心で共に侍らなければなりません。
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 侍る生活をしなければなりません。願いの天国は迎えましたが、侍り実践しながら生活できる天国は迎えられませんでした。すなわち、生活的な主体の神様を知りませんでした。
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 私たちがこのように習い、聞き、侍る生活をするのは何のためですか。六千年間、人類があえいできた目的は何ですか。それは聖書に流れている神様の事情を知り、神様の心情を知るためです。民族や国家は言うまでもなく、個々人をおいても父母の心情をもって対し、傷つき、蹂躙され、排斥され、引き裂かれてこられた神様が私の父だということを知るためです。
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 成約時代は、愛の時代です。ですから結婚できるのです。今まで宗教時代には愛を許さなかったので、高次的な宗教は結婚を許さなかったということを知らなければなりません。
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 神様は宇宙の中心存在なのでその前に近く行けば千年、万年主管されてももっと主管されたいのです。神様を中心とした侍る道理がそのようになっているので、今日私たち人間もそのような立場で主管されればそれ以上の幸福はないという事実を、私たちは考えることすらできませんでした。
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 信仰の義であるとか、行いの義であるとか、侍る義を追求するのはなぜでしょうか。義でなければ善悪を分別できません。悪なる世界と善なる世界が分かれません。その善の中心点とは何でしょうか。神様です。神様が信じるのと同じように、神様が行うのと同じように、神様が侍るのと同じように、いつも神様が中心にならなければなりません。それはなぜそうでなければならないのでしょうか。サタンは神様のように義なる者に対しては、讒訴できないというのです。神様が信じ、神様が行い、神様が生活する、侍る環境に処していればサタンが干渉できません。サタン圏内にいてもその環境に神様のようにできる義なる基準が生じれば、サタンはそこから後退するのです。
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 行いの旧約時代が過ぎ去り、信仰の新約時代が過ぎ去り、侍る成約時代だけがあるのではありません。新約時代にも行いが必要で、成約時代にも信仰が必要で、侍る生活もみな必要だというのです。成約時代にも信仰が必要で、行いが必要で、みな必要です。それは蘇生、長成があって、長成の上に完成があるのと同じだというのです。それは切っても切れません。
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 統一教会では侍ることによって救われると言います。侍義、すなわち侍ることによって救いを受けるというのです。春夏秋冬、洋服を仕立てて着る男がいるならばお父さんにも仕立ててあげなければいけません。その方が体をもった方ではないので、代わりに精誠をためておいて、ある時が来ればその込められた精誠を、誰が見ていても見ていなくても自分一人、教会のために神様に侍る心で涙を流しながら献金箱に捧げれば、その精誠は契約の箱に積まれるのです。これが観念的ではなく、感情的に体化され表現できる生活にならなければなりません。
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 侍る生活は、なぜしなければならないのでしょうか。それは神様の愛を受けるためのものです。
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 今までの信仰生活は信仰によって救いを得ましたが、これからは侍ることによって救いを得ます。本来堕落しなかったならば、神様に侍ることによって、私たちが行く道をみな行くのです。信じるといって、何を信じますか。侍って生活することによって、みんなできるのです。侍るには、皆さんの生活と心で共に侍らなければなりません。
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 今は個人なら個人として神様に侍る生活、家庭なら家庭として神様に侍る生活、教会なら教会として神様に侍る生活、あるいはこの民族を中心として、神様が要求される侍る基準を、どのように新しい伝統として設定するのかが問題になります。
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 統一教会時代は、御父母様の時代です。神様が地に臨むことができ、神様が来られることのできる道を磨くのです。それで、神様が来られることによって、侍ることによって救いを得るという言葉が成立するのです。歴史はそのように発展するのです。
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 侍る場に同参するためには、今まで悲しんでこられた神様を慰労してあげることができ、悲しい精誠の事情に同参することのできる内容を備えなければなりません。これを紹介し、それに伴う蕩減条件を神様の前に立てるために出てきたのが復帰原理です。
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 皆さんは侍る生活をしなければなりません。侍る生活はなぜしなければならないのでしょうか。神様の愛を受けるためだということを知らなければなりません。ですから神様に先に侍らなければなりません。神様に侍らなければならないというのです。


  2.法度に背けば怒られる

 侍義というのは生活化天国時代を言います。それで侍義をもって出てきました。復帰歴史は何かと言えば、神様の創造理想を再現するのです。
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 神様に侍るには法度があります。その法度に背く時には神様は怒られるのです。
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 皆さんは生活の中で法度を守ることができなければなりません。天が要求する天国の法度を守り、また天国の法度を守ることができると同時に、天国生活をすることができなければなりません。そして天国生活をすることができると同時に、天国の愛によって一つにならなければなりません。
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 神様が喜ばれ、悲しまれることをいつも鑑別しながら生きる人は、悪い人になろうとしてもなれないし、天の法度に背こうとしても背くことができません。そのような男は、いくら美人が誘惑しても堕落しません。そこに同化されないというのです。
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 今日、家庭を脱皮する不幸な青年男女が多い原因は、どこにあるでしょうか。天倫の法度に一致した愛が喪失されたからです。それで家庭を中心に、神様にその家庭にお座りになっていただくことのできる天地父母が顕現しなければならないのです。
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 天理は順序を正しく守るところで成立します。ですから主体と対象の関係で天は絶対的な主体の立場に立たなければなりません。その主体を無視する人は対象になれません。絶対的な主体の前に絶対的な対象になろうとするので絶対的に一つです。ですから見て、聞いて、感じるすべてのことは、家庭に入り愛することまでも全部対象と主体の立場に立って、天のためにするのです。一切がそうなのです。そのような家庭は滅びません。
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 最後に残るものとは何でしょうか。神様プラス人間、神人、神人の生の道、神人生活観です。人生観も同じように神人人生観、神人世界観、それが漠然と神様に対し人が知ることのできる程度のところではなく、人が永遠に落ちようにも落ち得ないところです。なぜですか。神様と人は本来落ちることができないところから落ちたので、落ちることができなかったところより以上のところに到達しなければなりません。そのような立場で神人が一つになった生活的な舞台、世界的な舞台を要求して出ていかなければなりません。
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 勝利的な主管権を立てるために、神様と共に生きなければなりません。ですから皆さんは絶対的な信念をもって侍る生活を中心として、立体的な立場で生活していってこそ勝利的基台を成すことができるのです。復帰の道がそのようになっています。
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 主体のための対象の立場には、不平があり得ません。不平は妄動であり、破綻です。ですから信仰の道は不平を許さないのです。感謝のみでなければなりません。皆さんはそれを知らなければなりません。天はいつも主体としておられるので主体と共に相関した運命をもって、それを離脱する生活の法度、生活の形態はあり得ません。


 三 真の御父母様が神様に仕える法

  1.至誠感天

 心を尽くし、思いを尽くし、精誠を尽くせという言葉は何を意味しているのでしょうか。それは生命を捧げなさいということです。それ以上、何がありますか。心を尽くせというのは生命を差し出せという言葉です。思いを尽くせというのも、精誠を尽くせというのも、生命を差し出しなさいという言葉です。至誠なら感天という言葉があるでしょう。至誠の限界点、私の心の果てがどこでしょうか。生命を懸けて精誠を尽くせというのです。首を差し出し、死ぬ覚悟で精誠を尽くす人は、神様が知らないと言えないのです。
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 生命を差し出すにも無理やりするのではなく、狂うように喜んで差し出せというのです。どうせ生命を差し出すのに泣きながら差し出すことを神様が願われるでしょうか。でなければ喜んで狂うほど、死んでもいいと踊りながら差し出すのを好まれるでしょうか。どちらでしょうか。
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 先生が床に伏して祈祷する時は涙が乾きませんでした。ここ(膝)にたこができました。「精誠を尽くした塔は倒れない」という言葉があるではないですか。神様のために精誠を尽くさなければなりません。神様が慕わしくて狂うほど胸が張り裂けそうな境地にまで入らなければなりません。神様がおられるところが地上ならば一日に千回行ったり来たりしたい気持ちがありますが、そのような地上ではないので、仕方なく先生を送ったのです。
 そのような何かがあるので、皆さんが先生を愛さずにはいられないようになっているのです。どうしてわけもなくそんなに情が移りますか。涙を流し祈祷する時、真冬に綿入りのズボンを涙でびしょぬれにしたことがありました。どれほど気が遠くなりそうだったか考えてみてください。ナイフを立てておいて談判祈祷をしたのは、一度や二度ではありませんでした。
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 皆さん、ここにダイヤモンド鉱があるとしましょう。自分だけが知っている、そんなところがあればどうなるでしょうか。それのために自分の家庭も売らなければならない場合が起こるでしょう。妻を売って多くの家庭を救うならば罪ではありません。自分の子供を売って国の多くの息子、娘を救うならば、それも罪ではありません。しかし自分の欲心のために売ってはいけません。
 その鉱山が、国と民族を生かすことのできる道であり、世界万邦の人間たちが生きることのできる道だという時は、自分の妻と子供を売ったとしても歴史の罪になるのではありません。国を生かすために、世界を生かすために、妻や子供を売るのはいけないことのようですが、かえって世界が褒めたたえることのできる宝の根源が宿ることができるのです。
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 御飯を食べても水を飲んでも、座っても立っても、誰に対しても、父母の前に、天の前にすべての心情を見せることができれば満点です。知識や学識があるからできるのではありません。神様の前に「私、誰々博士です」と言って生きますか。それは必要ありません。ですから神様の愛を私がどのように導くことができますか。ただ一つの道は「至誠なら感天」、これ以外にありません。
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 先生の一生のモットーは「神様の代弁人」でした。今日、皆さんは天的な代弁人になってくれることをお願いします。そして神様の代弁者になり、神様の代わりの存在になり、さらには神様の代死者になってくれることを願います。
            *
 とてつもない歴史的終末時代に、誰も信任できない孤独なところにおられる神様の前に私たちが信任の対象になれるならば、それ以上願うことがありますか。死んでもいいというのです。私の肉身が水となって流れていったとしても何の恨があるでしょうか。粉となり飛んでいったとしても何の恨があるかというのです。この世には、豚のように死んでいく無価値な人生がいくらでもあるのです。死んだ者は犬もくわないのです。
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 不平を言ってはいけません。不満を抱いてはいけません。自分を考えてはいけません。神様を思いながら「私が不平を言えば神様がどんなに痛いだろうか。その方の事情を私が知り、その方の伝統を相続することのできる一瞬が私の前に訪れたらそれを引き継いで、その方についていきながらその方を慰労しようという心をもつのです。そうしながら涙を流すその場に天が共におられるのです。間違いありません。神様のために泣き、御父母様のために泣かなければなりません。これが統一教会の祭壇であり、統一教会の侍る生活だということを皆さんは知らなければなりません。
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 神様の愛と共に生きると言いましたが、さて皆さんの生活目標はどうでなければならないでしょうか。愛の心情をもって侍る生活をしなければなりません。そのような心でハンカチに向かって敬礼しても偶像崇拝ではありません。愛の心情をもって頭を下げるのに何がそれを支配できるでしょうか。自分の栄光を超越して心情で敬礼するならば、サタンがこれ以上そうするなと言うのです。天宙の心情を通じていくなら偶像がないのです。


  2.孝子の道

 先生はおなかがすいて疲れて倒れる恨があったとしても、どうすれば神様が心配するその道を私が先立って行くか、背負うことのできる十字架の道があるならばどのようにその道を行くかということを考えました。しかし皆さんは、このような道を行こうと準備してはいません。今日皆さんは、侍ることによって救われるということを知りながらもずうずうしく眺めています。そんな心でとどまってはいけません。
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 先生が何をされるか分からなければ眠れないで、夜中にでも飛んできて尋ねていくことのできる、そんな生活をしなければなりません。それで侍ることによって救われると言いました。先生は神様に対して、いつもそのように生きています。瞬時も気を抜けません。
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 皆さんは侍義時代、すなわち侍る生活において正確な中心をもっていかなければなりません。神様に侍るには法度があります。その法度に背く時には、神様はとても怒られる方です。子供を愛する父母が子供の言葉の一言に胸に釘を打たれたり抜かれたりするのと同じように、神様も人間を愛していらっしゃるがゆえに怒りが多い方です。ややもすると間違えて神様から怒りを買うことになります。ですから先生も、いつも先生なりに神様を喜ばせてあげようとします。服をきれいに着た人を見れば気分がとてもいいです。それで先生もそうしなければと思い、洋服を着て出てきました。そうでなければジャンパーを着て出てきたことでしょう。
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 皆さんも皆さんを思ってくれる人を訪ねていくでしょう。神様も同じです。その神様を占領できる道は誰よりも神様を思い、神様のために奉仕しようとするその人を中心として神様は訪ねてくるのです。
            *
 先生は神様の前に綿入りのズボンがびしょぬれになるほど祈祷したことが何回あったか知れず、ナイフを持ちおなかにあてて誓ったことが何回あったか知れず、死の峠を越えながら心に堅く決意したことが何千万回あったか分かりません。
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 人間において神様を愛するのが第一の戒めですが、愛するのに死ぬほど愛すべきですか、一時的に愛すべきですか。皆さんは神様を死ぬほど愛したいですか、死ぬほど愛したくないですか。雷に打たれて死ぬとしても愛さなければいけません。神様を死ぬほど愛さなければならないというのです。死ぬほど愛さなければならないなら、死ぬ前まではできないことがないというのです。
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 皆さんは目が崩れ鼻がふさがるほど泣きながら慕わなければなりません。人が泣きすぎると胸が痛くなります。それほど激烈に慕わなければなりません。「お父様!」と呼ぶのに死刑場に引かれていく息子の立場で父を呼ぶ人もいるでしょう。遠い他国に旅立つ息子の立場で哀絶に父を呼ぶ人もいるのではないでしょうか。それゆえ神様、お父様を呼ぶ時、そのような基準以上にならなければなりません。
            *
 白頭山の頂上に登ってそこで岩を砕き、畑を耕し、じゃがいもを植え、そのじゃがいもを神様に奉養できますか。それをしなければなりません。その時は牛がいなくて愛する妻を牛の代わりにして畑を耕したなら雷に打たれるでしょうか。打たれないでしょうか。妻を牛の代わりにして畑を耕すという時、神様が「おい、やめなさい」と言えばやりますか。あなたの心を尽くし、思いを尽くし、精誠を尽くしなさいと言いました。やりますか。しなければなりません。
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 皆さんは現在どこにいますか。昼も夜もいつも、どこに行っても先生と共に歩調を合わせて生きていますか。今まで先生はこの頭をもって生きてきたのではありません。神様と共に神様が行く方向に歩調を合わせながらすべて、生命をすべて投入して生きてきたのです。
            *
 先生は一日一日の生活において、重要な問題は必ず神様に祈って解決します。いいかげんにはしないというのです。
            *
 この道を行くためには愚鈍でなければなりません。忠臣たちは、ある意味で間抜けな人たちです。少しは愚鈍に見えます。熊のような性格があるというのです。自分の腕が切られても「ああ、ここがあまり切れていない。もっと切りなさい」という愚鈍な面がなければなりません。熊や猪は、銃に撃たれて足手まといになる部分があれば、その部分をかみ切って逃げます。死はあとで考え、いったん足手まといになるものを切ってしまいます。そのような愚鈍な何かがなければなりません。忠臣烈士は愚鈍でなければなりません。少しは愚かでなければならないというのです。
            *
 神様を解放しようというのです。真なる神様の権威を中心として、理想郷で人類始祖と共に無限の幸福を褒めたたえつつ生きることのできる侍る生活の中で、侍られながら過ごされるべき神様がこのように悲惨になったという事実を知ったので、その神様を私たちの手で解放しようというのです。これは驚くべき提案です。そのような内容が宗教界から出てきたという事実は、神様において極めてうれしい知らせです。福音中の福音です。このように見る時、仏教を立てられた方も神様であり、儒教を立てられた方も神様であり、イスラム教を立てられた方も神様であり、キリスト教を立てられた方も神様なので、すべての宗教が両手を挙げて歓迎しなければなりません。
            *
 先生は今までみ旨のために苦労してきたし、今も寝ても覚めてもその道を歩んでいます。先生の近くで侍ったことのない人は先生のことをよく知りません。先生は寝ていても目が覚めさえすればうつ伏せになって祈祷します。なぜそのような生活をしているのでしょうか。この夜にも世界に散らばっている愛する子女たちが私を頼り、神様のために祈祷しているからです。私が精誠を一緒にできなくてもそれに劣らず拍子を合わせてあげなければならないのではないでしょうか。先生が寝る時は分からないので神様も許してくださるのです。その時間には、子供が疲れて寝たら父が見守るのと同じように神様が代わりに祈祷してくださるのです。
            *
 レバレンド・ムーンはどんな人ですか。一つの才能しかない人です。愚鈍にひたすらまっすぐにのみ行く人だというのです。ああ、口をちょっとつぐんで適当に回っていけばいいのに、どうしてよく悪口を言われるような作用をしたりするのでしょうか。それは多くの人々の反対を受けてこそ一つの峠を越えていくからです。しかし皆さんは帰ることを考えているでしょう。それではなぜこの世のすべてのものを切ってしまって行かなければならないのでしょうか。お母さん、お父さんの愛に引かれればまっすぐに行くことができないからです。神様は今まで正しい道を求めてこられたので、正しくまっすぐに行かなければならないというのです。
            *
 皆さんは、み旨の道を歩んできながらどれほど深刻でしたか。先生は一生の間そのような道を歩んできたのです。妻子も知りません。神のみぞ知るです。孤独単身、寂しい男が行く道を誰も知らない中、神様が協助して驚くべき実績をもって、今日この社会に問題を提示し、また疲弊していくこの民主世界の思想圏内に新しい波及を提示する問題の人物になりました。このようになったのは私が立派だからではなく、神様が共にされたからです。
            *
 神様がそのように寂しい方であり、神様がそのように孤独な方なので、私が死ぬ日までそのみ旨とその願いを一つでも解いてあげ、その分野の一つの土台でも拡大させて神様のために生きられる人を集めるのが使命だと思ってきたのです。悪口を言われても、むち打たれても復讐せず、愛によって耐えてきたのは、神様の子供として生まれたからで、その方のみ旨を立てるべき責任があるからです。ですからこの伝統をどのように立てるかを考えながらよろよろになって、あるいは腰を曲げ腹ばいになりながらこれだけは残さねばならないと言って、闘ってきたのです。
            *
 人間は自分が立ったと自慢してはいけません。自分が立てておいたとしても倒れるというのです。しかし人間が立ててくれなくても天が立ててくれれば必ずできるというのです。
            *
 「真の父母」がしているのは何ですか。すべてのことを勝利して、神様の心の深いところまで訪ね入り、恨を解怨し、その勝利圏を地上に成すことです。そのような「真の父母」が出現したということを皆さんは感謝しなければなりません。























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