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礼節と儀式
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 第二章 真の御父母様に対して侍る礼法

 一 真の御父母様は祝福家庭の中心

  1.真の御父母様の息子、娘になるには

 皆さんはこれから「真の父母」と共に生きなければなりません。ですから「真の父母」はおじいさんの立場で、自分のお母さん、お父さんの立場で、自分たちは長子の立場だというのです。これが違うのです。三代にわたって共に生きるという結論です。神様が私と共にあり、「真の父母」が私と共にあり、自分の父母が共にあるのを感じて生きなければなりません。神様がいないとか死んだとか考えられない時代に入りました。
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 一切を父母と共に相関して、父母と共に決定し、父母と共に相談し、父母と共に解決しなければなりません。
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 いい食べ物を食べたり、いい服を着る時は、ただ食べたり着たりしてはいけません。一番いいものは神様に先に捧げなければなりません。道を歩くときも右側には父を、左側には母を、と侍って行かなければなりません。
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 父母の愛を受けるには何をしなければならないのでしょうか。父母様が愛するすべてのことを愛さなければなりません。そうしてこそ愛を受けるのです。家庭で言えば、自分の父母に愛されることを願うならば、その息子は、父母がもっているすべてのものを愛したのちに、愛されなければならないということを知るべきです。これをしないで愛されようとする人は泥棒です。父母が貴く思うものを全部自分がいいかげんに、勝手に引き継いでは愛されません。
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 皆さんが思いのままにするのではなく、先生がするとおりに従ってやりなさい。先生が行くとおりについていくのです。統一教会の伝統を引き継ぎなさい。統一教会の文先生がするとおりに、皆さんがすればよいのです。先生も家庭を捨てて、父母を捨てて、この道を歩んできました。皆さんもそのようにしなければなりません。皆さんは従順に従っていかなければなりません。
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 「真の父母」と皆さんはすべての関係を結ばなければならないし、永遠にその関係が変わってはいけません。
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 皆さんは先生の血と汗の代価で買ってきた人たちです。先生の体を与えて買ってきた人たちです。ですから皆さんは先生と同じ仕事をしなければなりません。先生は食口たちを誇りたいのです。このような立場で公約しましょう。
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 サタンが天に反逆し、天地の法度を狂わせたので、皆さんが天を支持する天使の立場に立って、天の前に忠臣の道理を立てなければなりません。そうするとそこから初めて新しい復帰の道が開かれるでしょう。それで皆さんを先頭に立てるのです。
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 神様の心情を感じることができず、涙で別れたアダムなので、涙で会わなければならず、涙で別れたカインとアベルの怨恨を涙で解かなければなりません。その道でなければ合わさる道がありません。世界的に男性たちの中には先生に会いたくて泣く人もいます。さて、ここにそのような人がいますか。このでたらめな人たち。昔はみんなそのようにしてきました。草創期にもみなそうでした。
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 統一教会に通う婦人たちが先生に従うので、夫たちは妻が自分のそばに来ないと言ってひどくしかりました。これと反対に女性たちも、夫たちが先生に従うので、自分のそばに来ないと言ってかんかんになるのです。そのようになっているのです。また男性たちも先生に会いたければ涙を流さなければなりません。そのようにできない人は統一教会天国時代に天国に入れません。
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 皆さんは実体の神様の立場に立っている「真の父母」が慕わしくて泣かなければなりません。いつも会いたい気持ちがなければなりません。御飯でも一杯炊いて、水でも一杯ついで侍りたがらなければなりません。そのような切実な心をもたなければなりません。涙が先立つ心情をもっていればいいのです。そのようにすれば、先生を中心として心情一致し、先生と共に呼吸することによって先生の人格基準とそれを裏づける先生の過去、そして、そこに絡んだ事情がどうなっているかを知り、さらにそれを相続することができるのです。


  2.真の御父母様にどれほど侍ってみましたか

 堕落した人間が神様の前に出ていくための方法は時代によって違いました。すなわち、旧約時代には祭物を捧げることによって、新約時代には神様の息子であるイエス様を信じることによって、成約時代には「真の父母」に侍ることによって神様の前に出ていくことができるのです。
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 エデンの園でアダムとエバは堕落し、その堕落圏内で生きたので直接的な侍る生活をしたことがありません。侍る内容をもったことがない人たちは、天国に入る資格がないというのです。しかし皆さんは、堕落の血統を受けて生活したとしても、蕩減復帰するために、地上で実体をもって、アダムとエバが侍ることのできなかった神様に侍り、真の父母に侍って生きていくのです。そういう条件が天国に入ることのできる資格になるというのです。それで天国の市民権を得るようになるのです。
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 私は愛すべき万物の父母の前に孝子になれず、私を生んでくれた父母の前に孝子になれず、霊界と神様の前に孝子になれませんでしたが、先生を中心として「真の父母」に侍ることによって、孝子の資格を代わりに受けることができます。ですから皆さんは執念をもってついていかなければなりません。
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 「真の父母」に遠く接する時は国の王であり、近く接する時は父母です。そのようになっているのです。
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 皆さんは先生のためにどれほど祈祷し、どれほど会いたいと思いましたか。本当に会いたく、本当に祈祷し、本当に思慕したならば、この体を見ることだけが問題ではありません。

 御飯を食べる時も「お父様、お先にお召し上がりください」と言わなければなりません。
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 皆さんがお父様に侍ることができるその時、その時間が来ればどうしますか。どのように孝行するか、そしてどんな姿で父母様に侍るかを考えなければなりません。
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 祈祷室を設けて、先生の写真を掛け、千回、万回敬拝しなさいというのです。昔再臨主に侍るために準備した許浩彬氏の団体では毎日三千回敬拝をしました。皆さんも一度やってみてください。縫い物も布目一つずつ一つずつ手で縫いました。ミシンでやれば不敬だというのです。そのように精誠を尽くしても不足なのです。
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 皆さんが鏡を見ながらこの目がどれほど父母様に会いたくて涙を流し、この口が父母様の解怨成就をどれほど叫び、この手がどれほど父母様の地で血を流して仕事をし、自分の体が砕けるほど父母様が願う土台の上で働いてきたでしょうか。「それができなかったのが恨です」と言える心を感じながらその道を求めていくのが幸福な道であり、その道で天と共に因縁を結ぶのが幸福な人です。そのような人は誰も支配することができません。その人を動かすことができるのは父母だけであり、その人を感動させられる人も父母だけであり、その人を幸福にできる人も父母だけです。そしてその父母を幸福にできる人はその息子以外にいません。父母の希望は父母にあるのではなく、息子にあるのです。
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 皆さんが考える、神様に対する侍る生活とはどのようなものですか。神様を一体と考え、父母様を一体と考え、生活すべてのものが一体となって私が生きるならば、「このすべてのものは神様のものであると同時に『真の父母』のものであり、『真の父母』のものは『真の父母』の国のものであり、『真の父母』の国のものになれば私のものだ」。このような観念をもたなければなりません。この宇宙も「真の父母」のものであり、この家も「真の父母」のものであり、国も「真の父母」のものなので、私は「真の父母」の息子だからすべてのものは私のものだという結論が出るのです。
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 先生に差し上げようと家でよもぎもちを作り、そのもちが汚れないようにと密封したまま本部まで来て、御覧くださいと言わんばかりに開けてみると、もちが腐って青かびが生えていたこともありました。もちに青かびが生えてうじがわいてもいいというのです。そのもちは食べられなくても億千万金に該当するのです。そうであるほど情が移るのです。
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 愛は愚鈍で間抜けなものです。そうではありませんか。本当に愛するなら横で誰が見ていても関係ないというのです。誰かが見ていることを意識する愛は、限界圏内の愛です。誰が見ていようが見ていまいが意識しない、そのような境地の愛がどれほど愚直で愚鈍なのかというのです。ある時は、山奥で掘って採ったききょうを先生の前に持ってきて涙を流すのです。そのようなことが霊界に行けば、彼を解放させることのできるいい材料になるのです。
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 皆さんは先生が苦労した話をすれば、それが自分に遭ったことのように感じられ、胸が痛く、悲しく、涙が出るし、悔しく、憤慨する、このように同感できなければなりません。皆さんを同感させるための材料が先生の苦労です。
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 先生を知ったと言ってはいけません。先生は原理しか知りません。原理原則に立脚した人だけを知っています。
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 先生が約三カ月間だけ毎日のように皆さんの家に行けばどうしますか。「ああ、うんざりだ」と言いながら嫌がるでしょう。そうではないと言う人、手を挙げてください。先生はあれこれと話すことが本当に多いのです。そのようなことをみんな知っている先生はあきれてものが言えないではないでしょうか。ですから「あきれてものが言えない」という言葉が出てくるのです。このように皆さんは自分の威信も知らず、身の振り方も知らずにいるのです。ですからこのようなことを教育しなければならないのです。
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 先生が生きている時は先生の歴史を書きませんが、先生が死んだのちには先生の歴史を書くことでしょう。ですから原理に公認されないことをしたならば大変なことになるのです。なぜこのように生きたのかということを裏づける原理的内容があるかどうかが問題です。もしもこれができていなければ今まで成されたことをすべて失うことになるでしょう。ですから責任者は大変だというのです。


 二 真の御父母様を愛し誇ろう


  1.真の御父母様は人類全体の希望

 統一教会で言う「真の父母」とはどのような方ですか。堕落しなかったならば、神様が縦的な愛になり、アダムとエバは神様の体になるのです。神様の体と同じです。神様は骨のようで、アダムとエバは体のようなものだというのです。神様も心があり、体があります。神様は内的な立場で内的な父母になり、アダムとエバは外的な立場で外的な父母になるのです。内的、外的父母が一つになったその場で愛によって結ばれ、内的父母に侍るようになり、外的父母をもつようになります。神様と人間との愛の結合によって「真の父母」、すなわち、完成した人間ができるはずだったのです。愛で一体となれなければ完成人間になれないのです。
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 「真の父母」は何をしなければならないのでしょうか。サタン世界の根である間違った血統を正さなければならないし、間違った生命をもとがえさなければならないし、間違った愛の道を正しく開かなければなりません。聖書では「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言いましたが、そのような逆説的な論理がなぜ出てこなければならないのですか。サタン世界は死ななければならないからです。
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 皆さんは、「真の父母」の本当の息子、娘ですか。真の子女とは何を中心として言うのですか。真の血統です。もちろん真の愛を通じて因縁が結ばれますが、成されるのは真の血統を通じて連結されるのです。ですから真の血統を通じて連結されればお母さん、お父さんに似るのです。そう、皆さんは先生に似ましたか。皆さんの目は青く、私は黒く、髪の毛も違うでしょう? 髪の毛がみんな白いではないですか。私は東洋人だし、顔が平たいです。では、何が似るのかと言えば、骨子だけ似るのです。骨子だけ似るとは、サタンに勝つことと神様を絶対に愛するところだけ似るのです。それだけ似るのです。そうしてサタンを主管しコントロールするのです。
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 皆さんが先生をどれほど愛さなければならないのでしょうか。根本問題に帰るのです。サタン世界の愛の痕跡がある、その愛が染みついた立場で愛してはいけません。それ以上でなければなりません。皆さんがサタン世界で生まれたお母さん、お父さん、妻子、その誰よりももっと愛さなければなりません。それで聖書に「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者はわたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)とあるのです。そのような結論を下したのです。
 そう言いながらあとでは「自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(同一六・二四)と言いました。十字架を背負わなければならないと言いました。反対に引いていく力を押さえて越えようとすると、十字架です。ここで悲痛な涙を流さなければなりません。
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 「真の父母」とはどんな存在ですか。「真の父母」はすべての希望の象徴です。堕落した人類の前に絶対的な希望の象徴なのです。彼は歴史的結実体であり、時代的中心であり、五十億の人類が生きている今日、この世界国家圏の中心です。真の父母は将来の理想世界に連結できる未来の線上においての出発点です。
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 万民が願うことは何でしょうか。世界国家を迎える前に、「真の父母」を迎えようとすることです。誰から出発したいのでしょうか。皆さんの新しい息子、娘は皆さんの血筋を通じて生まれたいのではありません。「真の父母」の血筋を通じて生まれたいというのです。ですから「真の父母」は新しい未来の出発点になるのです。
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 今日、神様は何を願っておられるのかと言えば、この終末時代に御自身の姿を現すことを願っておられます。それで完全に心情的で縦的に復帰され完成した男、言い換えればメシヤとして再び現れようとされるのです。完成したアダムを身代わりし、完成したエバを身代わりする中心人物が出てこなければなりません。
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 成約時代は神様自体が真の父母の姿をして、万民の前に現れるようになります。統一教会が、政治によるどんな力を投入しても、主管されない偉大な力をもっているのは正にこのためです。生きている神様を私たちが直接目で見て、感覚をもって体恤できる圏内で、体験を積みながら出ていくのが私たち統一教会の道なのです。
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 人間の願いは「真の父母」に出会うことです。死の道を行くとしても出会わなければならない人が「真の父母」だというのです。歴史をみな失い、時代をみな失い、自分の後孫をみな失う恨があったとしても、「真の父母」に出会うならば歴史を取り戻すのであり、時代を取り戻すのであり、未来を取り戻すのです。このような方が正に真の父母だということを皆さんは知らなければなりません。
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 「真の父母」というその名前の文字を考える時、「真の父母」によって歴史が治められ、「真の父母」によって新しい世界に帰ることのできる起源ができ、「真の父母」によってサタンを屈服させることのできる内的な因縁が決定し、「真の父母」によって外的な世界を占領しているサタンを征服して初めて、神様を解怨成事してあげることのできる中心が決定するのです。ですから「真の父母」と共に生き、「真の父母」の命令を奉じて行動できる、この驚くべき恩賜に皆さんがまず感謝しなければなりません。
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 皆さんが「真の父母」と完全に一つになる時、国家があるのであり、氏族もあるのであり、民族もあるのであり、家庭もあるのです。天地のすべての栄光の価値を総合した実体基準が「真の父母」です。「真の父母」をこの世のお金と換えますか。自分の生命を与えて換えられますか。ですから昔と違うというのです。皆さんがどこに行っても、「真の父母」に侍るために大韓民国を訪ねてこなければなりません。皆さんの息子、娘も千世万世の後孫たちもそうしなければなりません。ですから統一教会は違うというのです。
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 すべてのものはどこに帰結するのでしょうか。「真の父母」に出会うことに帰結するのです。人類の「真の父母」が現れるのが歴史の願いであり、国家の願いであり、摂理の願いです。それでそのような「真の父母」が現れる時は、歴史上に一度しかない頂点を成す時であり、空前絶後(前無後無)の時なのです。永遠な世界を通して見ると、人間の一生というものは一度息をする期間と同じです。


  2.家庭ごとに真の御父母様のお写真に侍る

 今日以後、皆さんは先生の写真を持ち歩くのがいいでしょう。そうすればどんな苦難に遭うとしても無事に耐えられるように保護してもらえるでしょう。モーセがイスラエル民族をエジプトのパロのもとから脱出させ、カナンへ導くために奇跡を行う時、長子が艱難に遭い病気になって死にましたが、羊の血を門に塗った家は、その艱難がみな避けて行ったのです。霊界は私たち人間のすべての行動を見ることができるだけでなく、保護してくれたりもするのです。
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 文総裁が有名です。国のための愛国者という言葉はみな認めています。また私が立てた功績には天下がみな頭を下げます。そして「あの写真を掛けた以上、あの方の前においては夫婦げんかもむやみにできない」と言い、息子、娘の前にも「こら、あの文先生の前ではいけません」と言うようになれば、何が悪いことがあるでしょうか。自分の親の写真以上に侍ることによって先祖たちが来て、先祖として侍るのです。また先祖たちが来て、その家に侍ることのできる祭壇になるのです。それゆえ天上世界で福を受けることのできる道があるので、夜中の三時になれば、皆さんは寝ますが、(先祖たちが)一家の周辺の邪なる悪魔たちをみな追い出すのです。
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 イスラエル民族がエジプトから出てくる時、門に血を塗って禍を免れたのと同じように、お写真を持っていればそのようなことができるかもしれません。霊界は先生の写真をポケットに入れておくだけでも分かるのです。このように小さな条件が門に血を塗ったのと同じになるのです。
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 先生のほほえみは、モナリザのほほえみほどにも神秘なところがあるという経験をしたことでしょう。ある時はこうで、またある時はこうで、数十万種の姿に見えるこの神秘的な姿が、霊界が皆さんを協助できるようにしてくれるという経験を大部分がしているだろうと思います。霊界の霊人たちはみな先生をよく知っていますが、この写真を見れば霊界が喜ぶでしょうか、悪く思うでしょうか。皆さんの先祖たちがこれを媒介体にして連結できるのです。このようないい材料だということを知っていてください。
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 今、レバレンド・ムーンの名声は国境を越えました。至る所にいる為政者たちの中には書斎にレバレンド・ムーンの写真を掛けておいて慕い仰ぐ人が多いということを私がよく知っています。尹博士も私の写真を掛けましたか。毎日あいさつしますか。毎日キスしますか。熱情的でなければなりません。キスしなければなりません。だからと言って失礼ではありません。神様の愛を代表してキスすることによって、霊界に行った人たちが私がキスすることで同参権、同位権をもつようにするためにこうすると言う時、神様が「ノー」とは言われません。「そうだ。お前の言葉が正しい」と言われるのです。どうですか、尹世元博士? そのようにされたら。
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 父母様の写真を貼って統一教会の旗さえ揚げれば、それは天の国の眷属(一族)になるのです。天の国の眷属にしてあげるというのです。ですから今回、旗を揚げることを呪って罰にあたった人が多いではありませんか。本当に不思議です。先生に後ろ指をさして病気になり、何日も夜祈祷して悔い改めたら治った、そのようなことが起こっているではありませんか。なぜですか。天運が訪ねてくるので個人の運勢では止められません。宿命的な道です。モーセがさおにかけた青銅のへびを上げている時、それを見上げた人はみな生き残りました。統一教会の旗を見つめて行くたびに敬拝し、来るたびに敬拝して、写真を見て行くたびに敬拝し、来るたびに敬拝すれば生きるというのです。
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 統一の旗を揚げるのは、通り過ぎる食口たちがおなかがすいたらここに来て休みなさいという表示であり、お昼時なら昼食でも食べていきなさいという表示です。ですからいつもお客さんをもてなすことのできる準備をしなければなりません。父母様を身代わりしてそのような準備をしなければなりません。ですから部屋もなければならないでしょう。しかし父母様が来られないので、父母様の代わりにお客さんに侍るというのです。この思想は天の最高の基準の前に平準化思想を連結させるためのものです。そのような意味で、お客さんを神様のように、父母様のように侍りなさい。そのような人は福を受けます。


 三 真の御父母様に侍るにも法度がある


  1.侍義時代の法は最高の法

 皆さんが挙動すること、座ること、すべてのことが条文化されなければなりません。先生に対する時のあいさつ法のようなものも条文化されなければなりません。先生に対する時のあいさつ法、それはみなあるのではないですか。そうではないでしょうか。社会にもそのような法があるのですから、そうなるべきではないですか。
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 今日までの人倫道徳は父母が子供を愛し、子供は父母に孝行し、夫婦には区別がなければならないというものでした。これは三綱五倫の礎石として今まで伝わってきましたが、これがやはり変わりつつあります。このように既存の慣習や規範などが自然に変わる気勢が社会環境に、生活環境に浸透して入ってくる日が終わりの日だというのです。メシヤがこの地上に現れるとするならその方がこの問題を収拾しなければなりません。
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 堕落した習慣に対するすべてのことを正すための新しい法があるのではありませんか。私たちの前には数多くの法的過程が待っていることを皆さんは知らなければなりません。それを越えていかなければなりません。
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 韓国の法(風習、しきたり)では目上の方から何かをもらう時、両手でもらうようになっています。それは水平になってこそ愛を受けることができるというのです。受けるのは垂直を通じて九〇度で受けなければなりません。人心は天心だと言うでしょう。私たちのすべての規範は良心の道理に従って相対的につくられて出てきたものなので、水平にならなければなりません。また、道を歩くときも東洋思想は目上の人が先に立たなければなりません。なぜですか。先に出てきたからです。そのように、環境を合わせようとしてそうするのです。あとの者は後ろに立ち、高いものは高いものに、低いなら低いところに、前のものは前のものに、後ろのものは後ろのものに、上のものは上のものとして、前後を整えなければなりません。そのような観は変わるものではありません。それは永遠不変のものです。
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 一国の王様と臣下の間にも毎朝、調和があるのです。韓国の家庭を見れば、朝父母が起きれば父母に先にあいさつをします。このようなものが韓国の法度ではありませんか。皆さんは歴史時代を蕩減するためには法の中の法、孝行する法なら孝行する法の中でも最高の法度を立てなければならず、国家においても最高の基準を越えることのできる法を立てなければならないというのです。
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 この世には父母が死んで、三年の喪に服す時には毎日朝夕に上食(注:喪家で朝夕霊前に供える食事)を供え、出ていく時や入ってくる時、霊座(注:位牌の奉安所)に告げてあいさつする法度があるではないかというのです。皆さんはそれ以上にしなければなりません。皆さんが今していることが、み旨から見る時、天の格式にぴったり合わせた生活ですか。とんでもないというのです。
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 家庭の伝統を立てる最も早い道は先生が生きている時にすることです。元来は毎朝、沐浴斎戒し、一里の外から歩いてきて先生に敬拝を捧げなければなりません。このような伝統を立てられなければ、自分の後孫たちの道がふさがるのです。
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 統一教会の中に、先生がたまに映画を見に行くと「私たちも映画を見に行かないと……」と言います。とんでもありません。昔は先生は劇場の前に行ってみたこともありませんでした。そのような訓練を経て、そのような所へ行っても自分が汚されず、支配されない自主的な人間になったので問題にならないのです。しかし先生がするとおりにみなすると……。私が地方へ行ったときある者が、私が良くない言葉を使うと言うのです。このような輩たちがいます。
 私がぞんざいな言葉を使う時までは、幼子にまでも仕えて敬拝し、神様の前に侍る生活をしてきました。み旨を知ってみると、先生が皆さんに敬語を使えば(皆さんは)決まりが悪くて顔を上げて話ができないのです。礼儀正しく対してみましょうか。どれほどばつが悪いでしょうか。


  2.人間が貴いのは人倫道徳のため

 ローマ法が現在、世界法の基礎になっていますが、人倫道徳はどこまでも良心を根拠にします。法よりは良心だというのです。良心の基礎は善です。善を標準とするのです。善を外れて間違う時は、良心がその間違ったことを正していきます。そして良心に一致できる普遍的な社会体制を形成しようとすると、法令も必要なのです。ですから結局、人倫はどこに根拠を置くのですか。天倫に根拠を置くのです。
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 人倫は何を通じて形成されるのかと言えば、情を通じて形成されます。家族関係や道徳観念、社会制度、秩序というのは、全部情緒的な面です。情を先に感じたそれが長くなったとか次元が高いということになれば、そこに頭を下げるようになります。皆さんはそれを知らなければなりません。人倫形成の動機は情からです。父母が子女を愛するところから人倫が始まります。子供が父母を愛するところから真の人間関係は成立するのです。
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 皆さんは父母を愛し、必要とします。いつも父母に会いたがり、一緒にいたがります。それはなぜでしょうか。年齢で見ても差があり、秩序的関係を見ても上下の関係があるからです。ですからそこには礼を備え、尊敬し、孝行しなければなりません。このようなすべての社会生活の人倫道徳的な内容を備え、上下関係において、一つは主体であり、一つは対象の立場に立たなければなりません。ここで孝子になるには、従順や服従という内容を介在させて、自分が会いたいと思わなければならないというのです。これが親子関係です。
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 人間が貴いのは人倫道徳があるからです。人倫は人と人の関係を言います。一人の人のみでは人倫という言葉は使いません。人倫という言葉は二人以上になってこそ成立します。男性と女性が結婚した家庭から社会の倫理という言葉が成立するのです。倫理は人間関係の道理であり、法則です。
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 宇宙の日月星辰の創造の法則、すなわち、天道によって縦的秩序の体系を成しているのと同じように、家庭においても祖父母、父母、子女に成される縦的秩序と兄弟姉妹に成される横的秩序の体系が立てられると同時に、相応する価値観、すなわち、規範が成立されたことを明らかにしなければならないでしょう。
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 私たちは超民族的、超国家的な新しい伝統を立てていかなければなりません。その伝統を私たちの思いのままにするのではなく、神様が願うとおりに伝統の相対的基盤を磨いていかなければなりません。皆さんの習慣性や過去の風習、現在の流行というものに歩調を合わせるのではありません。完全に違うということを皆さんが知らなければなりません。
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 世界を見れば全体が調和するようになっているのです。ぎこちないところがないように、自然ながらも全部和合するための一つの刺激的な動機になれるようになっているのです。そのように、見た目に良くないところを注目するようにはなっていないのです。



















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