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礼節と儀式
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 第三章 礼拝と教会生活礼節

 一 教会に対する正しい認識

  1.教会はみ言と人格を総合するところ

 教会が目指すべき目的は、神様の国を求めて建てることです。神様の本来の創造理想は、国を中心として一つの世界をつくることです。そういう創造理想であるがゆえに、教会が目指すべき目的地は、教会を建てることではなく、国を建てることなのです。
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 今後、教会時代は過ぎ去っていきます。人類が願うのは、教会ではありません。教会は堕落圏内で、復帰の運命の道を行く際に必要なのであって、新たな時を迎えれば、教会時代は終わるのです。それゆえ統一教会は、教会活動をするのではありません。教会の名で社会に適応し、社会を改革し、社会の廓清(浄化)運動をするのです。そうすることが、その国と民族、そして世界に住む人類には果たすことのできない、開拓者の使命を成し遂げることになるのです。今こそ皆さんは、この道を行かなければなりません。
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 教会は、過去、現在、未来の因縁の本拠地です。それゆえ、蕩減条件を立てるための媒介体であり、み言と人格と心情を総合する所だと言うことができます。
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 教会は、天地をつなぐ至聖所です。教会は、世界への門戸であり、すべての人に相互扶助の因縁をもたせ、国家存亡の霊的支柱となるのです。教会は、霊的生活の源泉であり、日々の生活に力を補給してくれます。
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 家庭に忠誠を尽くす前に教会に忠誠を尽くし、社会に忠誠を尽くす前に教会に忠誠を尽くすのが原則です。教会が主体であり、家庭と社会は対象だからです。賢い人はどこに立つでしょうか。主体の立場に立ちます。主体の立場は、一つしかありません。対象は東西南北四方にあり、三六〇度回転しなければなりませんが、主体は中心のたった一カ所にあるだけです。そこは絶対的な圏内です。二つではありません。中心が二つになることがあるでしょうか。中心が行ったり来たりすると、滅びる可能性が増すのです。
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 「全知全能で慈悲と愛に満ちた神様であるゆえ、千回、万回罪を犯しても許してくださる」と、クリスチャンは言っています。そう言って教会で祈祷して出てくるや否や、けんかをするのです。教会は、罪を犯してから悔い改める懺悔堂ではありません。それほど多くの罪を許せる神様であるとするならば、エデンの園で一度犯した罪を、どうして許すことができないのでしょうか。 そうではないですか。また、サタンが許される道があったとするならば、サタンは悔い改めたことでしょう。千回、万回涙を流して悔い改めたことでしょう。
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 教会が一つから二つに分かれ、そのようにして三回分かれると、神様は去っていきます。天理の原則はそうなっています。そうして家庭的に集まります。恵みのある人は家庭的に集まるのです。教会に行きません。家庭でひれ伏して祈祷します。そのようになるかならないか、見ていてください。
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 統一教会の目的とは何ですか。人類に対して、神様とメシヤとで地球星で踊りを踊り、サタンまでもみんな福を受けるようにしようということです。これが統一教会の道です。どれほど偉大でしょうか。そこまで行こうというのが統一教会です。さあ、話を聞いてみると、統一教会は素晴らしい所でしょう。この世の人々は統一教会がどうで、異端で、何かの邪教だと言いますが、私たちは「フンッ!」とも言いません。聖なる人たちが道を行くのに町内の犬がほえている、このように考えるのです。
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 終わりの日、この時代の統一教会の使命は「神様の願いとは何か。人類の願いとは何か。神様の愛とは何か。人類の事情とは何か。神様の心情とは何か。人間たちの心情とは何か」ということを教えてあげることです。そのために出てきた教会です。そのような世界を教えてあげることができ、千人、万人をみな教育するとすれば、この理念圏内の世界は、統一されまいとしても統一されざるを得ません。


  2.教会は家庭の延長である

 「私は誰々のために教会へ行く。私は愛する息子、娘のために教会へ行く。愛する夫のために、妻のために教会に行く」と言う人は、みな乗り越えていくことはできません。誰のために教会へ行くのかというと、神様のために行くのです。神様を私の神様として侍るために、神様の愛を私の愛として得るために教会に行くのです。
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 公的な教会は、自分の家よりも貴いものです。
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 天国は教会を通して連結されます。すなわち、家庭は教会を通さなければなりません。それゆえ、教会は家庭が勝利するための基盤であり、家法を結実させる所であり、人格の認定を受ける所であり、天国生活の訓練場です。
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 顔が良くて若くなければ伝道ができないというのですか。とんでもありません。教会は家庭の延長です。家庭の延長であることを知らなければなりません。おばあさん、おじいさんがいなければならないし、おばさんがいなければならないし、おじさんがいなければならないし、若い人もいなければならないのです。教会に若い人しかいなければ荒廃します。これを早く是正しなければならない、というのが先生の考えです。
 年上の人に侍ることができなければなりません。おばあさん、おじいさんは神様の代わりであり、お母さん、お父さんは父母であり、自分と息子、娘まで四段階なのです。おばあさん、おじいさん、父母、私、こういう段階で見ると三段階です。この運命圏を外れることができないのが人生だというのです。おばあさん、おじいさん、お父さん、自分たち夫婦、息子、娘、三段階は線を四本引いて初めて三つの段階ができるでしょう。 七数の基準なので、これを結び合わせなければ三段階はできないのです。これを結ばなければ、すべてが勝手にばらばらになります。三段階ができるにはこれを結ばなければならないのです。
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 教会生活で神様から公認を受け得る立場に立っていない人は、社会生活において神様に代わる生活をすることはできません。内的な教会生活で、神様の公認を受けるかどうかが問題です。ところが今、皆さんの教会に対する観念について考えてみると、教会で集会するその時間がどれほど貴いかを忘れています。教会の公的集会に対する観念が希薄なので、み旨の進んでいる方向に対しても希薄になるのです。内的に自分がどういう立場に立ち得るかを確実に知らないがゆえに、外的基準も確実ではないのです。
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 教会生活は良くできても社会生活は良くできないという人もいれば、社会生活は良くできても教会生活は良くできないという人もいます。このような点から見ると、社会生活は良くできても教会生活が良くできない人は、実を結ぶための要因とその内容がありません。教会生活は良くできても社会生活が良くできない人と、社会生活は良くできても教会生活が良くできない人とでは、どちらのほうが良いかというと、教会生活が良くできる人のほうがいいのです。結実の要因をもった人は、あすの希望をもって動いていくことができますが、結実の要因をもっていない人は、結実と関係を結ぶことができないのです。
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 皆さんは血統を通して神様の息子、娘であることを証し、真理を通して神様の息子、娘であることを証し、生活を通して神様の息子、娘であることを証し、仕事を通して神様の息子、娘であることを証し得る基準を求めて立つことができなければなりません。この基準を求めることができないならば、教会に来て信仰生活をしていても、それは小間使いのすることにすぎないのです。
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 家庭と教会と社会の三角圏を中心として考えると、皆さんは家庭を中心とした思いが強いですか、教会を中心とした思いが強いですか。 それとも社会を中心として自分が出世しようという思いが強いですか。 皆さんはどの思いが強いかを考えてみてください。神様は、どのような人に協助し同情するでしょうか。教会を考えるというのは、神様に代わって人を愛することなのです。そして人を救うことなのです。
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 人格者となるためには、組織的な訓練が必要です。集団的な教会生活を通過しなければなりません。すなわち、全体的な理念や制度に通じることができるかが問題です。そのような関門が、教会になるのです。
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 皆さんが 今まで習慣的に生きてきた社会生活全体と、教会を中心とした生活全体を考えて、どちらが内的であるかというと、教会生活が内的です。それでは皆さんは、どれほど内的生活の価値の基準を立ててきたでしょうか。ある人は、み旨を中心として行くと言いながらも、「私がこうすることがみ旨になるだろう」と勝手に考えます。そのようなところに神様は、いることができるでしょうか。
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 統一教会に反対する人が教会で御飯を食べていったとしても、笑いながら送りなさい。食べ物をけちってはいけません。 統一教会員ではない人が来て御飯を食べたからといって、「なぜ食べるのか」と言ってはならないのです。先生がこのようなことを言うのは、今まで八道江山(国中)の誰もが、統一教会員はもちろんのこと、統一教会員ではない人も、ここに来て御飯を食べたことのない人はいないと思うからです。
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 人が最も好むのは赤ん坊であり、最も嫌がるのは先の短いおじいさん、おばあさんです。極と極です。天の運動とはどのようなものかというと、極と極を包括するための運動ではないかということです。子供と一つになろうとして、おばあさん、おじいさんが杖をついて来ては、遊んで御飯を食べていったり、そうなればそこは栄えるのです。皆さんがおじいさん、おばあさんの友達になり、おじいさん、おばあさんは皆さんに夢中になって夜も眠らず、自分の家の良い庭や、床の間、鯨の背中のような(とても大きくて立派な)家をさておいて、教会の板の間で寝るというようになれば、そこ、その団体、その人がいる所はどんどん栄えるというのが原則なのです。
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 おばあさんが「ここに教会長はいるか」と訪ねてきた時に、遠くから見て「いないよ、いない」と言えば罰を受けます。「教会長は出掛けたけど、おばあさん何の用。 年寄りのおばあさんは要らないよ」と言ってごらんなさい。神様が御覧になって「こいつ、お前はどこから来たのか」と引っ掛かるのです。年を取ったおばあさん、おじいさんを否定するということは、お母さん、お父さんを否定することです。ですから年を取ったお母さん、お父さん、おばあさん、おじいさんを良く奉養してこそ、孝行者なのです。
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 ある男性が、気の合わない女性と結婚しておもしろくない生活をしていて、楽しく暮らしている家に行くと、その家の人が本当に幸福に思われるのです。だからといって二度結婚しろというのではありません。幸福になるためには教会が必要なのです。人は刺激を受けなければなりません。刺激というのは、いつもいるところに来るのではありません。対比されるところから刺激は来るのです。天だけでは天になることはできません。地があってこそ天となるのです。それゆえ、すべてのものはみな相対性をもっているのです。


 二 礼拝は神様に最高の敬意を表す儀式

  1.礼拝時間は神様に出会う時

 安息日を聖なるものとして守る目的は、神様が願う国を建て、人類を救うことでなければなりません。キリスト教が安息日を守ってきたのは、この日を聖なるものとして守ることにより自分自身が昇華され、自分自身を思う、すなわち救いという目的に重点を置いたためです。私たちが安息日を守る目的は、自分の救いの道を促進することでもありますが、さらに進んで全体を救い、今後神様の摂理である国と世界を救うという目的に、より重点を置いているのです。これが、より高い責任をもつ神様の願いであることを知らなければなりません。
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 礼拝を捧げる時間は、祭祀を捧げる時間です。自分の過去を神様に贖罪しなければなりません。ゆえに礼拝の時間は、自由のない時間です。
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 礼拝時間は、押し寄せるいかなるサタンの権限も防ぎ止め、父の前に勝利の栄光をお返しすることを約束する時間です。
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 礼拝を捧げる時間は、怨讐と一騎打ちをするよりも深刻な時です。
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 礼拝の時間に早く来た分は、神様のために捧げた時間となりますから、千金、万金を出しても買うことのできない価値があります。礼拝の時間は神様に捧げる時間であるために、その時間に遅れることは神様から盗みをすることと同じです。礼拝には決められた時間に来なければなりません。そうすることによって、それだけ神様の前に面目を立てることができます。そうなれば、きのうよりも良い心をもって天の前に近づくことができますが、遅れて来て、祈祷するときも目をパチクリさせながら、「先生はきょうどんなみ言を語られるか」と座っている姿を見ると、惨めで仕方がありません。
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 神様の前に出て侍る場に、礼服を着ないで参席できるでしょうか。目に見える礼服ではありません。心情の礼服です。このように集まった皆さんのその心から、み言とともに賛美とともに感激した心情が流れ出てきたならば、天は皆さんを通して役事されます。堕落した人間がエデンの園から追放されたとき、涙を流しながら追われましたが、皆さんは涙を流すとしても、喜びの涙を流しながら、笑い顔で神様に会わなければなりません。悲しみの涙も流したことのない者が、喜びの涙を先に流してはなりません。
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 礼拝時間のために、三日前から心を焦がして準備しなければなりません。万民の幸福を祈り、万民を蘇生させるための復活の権限と生命の因縁を結ぼうと苦悶しながら教会に入らなければならず、神様の前にのどの詰まるような心で礼拝に参席しなければなりません。それでも足りないのに、皆さんは行商人よりもずうずうしいのです。
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 主日(聖日)礼拝の時は沐浴斎戒して神様の前に敬拝をして、聖地へ行って祈祷しなければなりません。たとえ訪ねてくる人がいなくても、神様がその部落を照覧されて役事することのできる心情的な基盤をつくっておかなければなりません。神様の前に一人祈祷し涙するという立場は、絶対に孤独ではありません。神様が共にあられるので、絶対に寂しくはないのです。皆さんが三年以上精誠を尽くしたにもかかわらず、その町で訪ねてくる人がいなければ、その町は滅びるのです。
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 礼拝に来るにしても、ただ何も考えずに来るよりも、見えない心を尽くして一日、二日と、精誠を尽くした時間が長ければ長いほど光るのです。ですから見えないものが多いほどに、天が自分を保護し守ってくれるのです。妻が、目には見えない心で一日中夫のことを思った上で、目に見える顔で、口でほほえむと、光るというのです。栄光の光がです。その笑顔には、夫を引きつける魅惑的な力があるのです。同じような道理です。
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 今後は礼拝をするにも説教形式ではなく、報告形式でしなければなりません。報告の内容は、その家庭が誇ることのできるものでなければなりません。ですから家庭全体が来て、礼拝を捧げなければならないのです。そうして良い家庭があれば、見習い、あまり良くない家庭があれば、うまくいくように導いてあげなければなりません。そのようにして、家庭天国を建設するのです。先に家庭天国をつくることができなければ、地上天国はつくられないということを確実に知らなければなりません。
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 まず、教会生活を徹底しなければなりません。そのためには、公式的な礼拝時間を厳守しなければなりません。公式的に参席すべき時間を守る模範とならなければなりません。
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 天の前に出るときに、約束は絶対的に厳守しなければなりません。約束を守らない人が、どうして恵みを受けることができるでしょうか。そのような人は、途中でやめてしまいます。途中でやめてしまうというのです。今後、先生は皆さんが動くとおりに指導します。嫌だったらおやめなさい。誰が滅びるか見てみようというのです。
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 聖日の公的な集会に出席する模範とならなければなりません。礼拝に来るとき、子女たちがうらやましがってついてきたがるように、夫婦が一緒に仲良く来なければなりません。十時前に教会に来て、聖日の準備をしなければならないのです。
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 礼拝時間はサタンと闘う時です。一騎打ちする時なのです。それなのに眠っていていいでしょうか。そういう人がいれば、揺すって起こしてあげなさい。「サタンよ退け」とイエス様がぺテロに言ったように、横腹を一発たたきなさい。それは愛なのです。先生は礼拝の時に居眠りをする者がいれば、そのままほってはおきません。
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 精誠を尽くすべき人が、礼拝時間に遅れてもいいでしょうか。そのような人は、恥ずかしくて顔も上げられない、罪人中の罪人だという思いをもたなければなりません。そして、今後は時間をきちんと守ることを誓って、人よりも多くの精誠を尽くさなければなりません。時間も守らずに「ああ、天よ」と言うことができるでしょうか。精誠は、人に知られるように尽くすのではありません。教会に来て精誠を尽くそうとするならば、車に乗ってくるのではなく、歩いてこなければなりません。ここに来て祈祷するのではなく、祈祷して来て、もっと懇切な祈祷をしなければなりません。精誠というのは、このようにして尽くすものなのです。
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 天は、懇切に慕い苦労する人に対されます。誰でも訪ねていったからといって対してくださる天ではありません。ですから時間だけは絶対に厳守しなければなりません。今後、時間を守らなければ前に立たせて恥をかかせます。
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 本来は礼拝時間が過ぎれば戸を閉めてしまわなければなりません。遅れてきた人を集めて話したくありません。このような皆さんを集めて、ある基準まで引き上げようとして二時間、三時間話をするのです。そうして初めて、私が天の前に祈祷し、覚悟した心情的な基準と、つながれるのです。
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 神様の前に出ていく上で、時間というのは何よりも重要なものです。時を知らなければ滅びるのです。時を逃せば滅びるのです。神様は極めて聖別された環境を要求し、聖別された心を要求するのに、時間も守れずに後ろの方で賛美歌を歌っているのです。天はそのような賛美を願われません。
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 公式的な礼拝の時間を守らなければなりません。分かりましたか。そうすれば間違いなく発展します。


  2.夜の礼拝(夕拝)、早朝集会、徹夜精誠

 夕拝に力を注ぎなさい。
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 土曜日の夜は、教会で徹夜をしなければなりません。
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 今後、集会は夜に多くしようと思います。闇の世界を切り開いていかなければならないからです。そのためには、懇切な心情をもたなければなりません。
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 夕拝には、伝道をして来なければなりません。そうしなければ、教会の威信が立ちません。礼拝時間には、引導者(司会者)よりも先に来ていなければなりません。
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 人が眠る時間にぐっすり寝て、食べるだけ食べて、楽に来て座って礼拝を受けたらいいのに、どうして早朝から礼拝を受けるのでしょうか。どうして早朝から礼拝をするのでしょうか。 人とは違わなければならないというのです。他の宗教集団や信仰者と同じではいけないのです。違わなければなりません。
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 私が早朝三時に集めて一年なり何年なり伝統を立てて眠らせないようにすることでしょう。人は怠惰になってはなりません。楽にしてはならないのです。楽な世界では発展がないのです。それゆえ、どの国家でも新たに復興したからといって、それに満足し陶酔していれば滅びるのです。
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 昼間は働かなければなりませんが、宗教的なことは夜にしなければなりません。夜が効果的なのです。また早朝に教えても効果的です。そして、一度来た人が、来ないではいられずに家から逃げてくるほどにしなければならないのです。皆さん自身が、そうならなければなりません。動機がないのに結果があるでしょうか。今までできなかったのであれば、もっと一生懸命に、もっと上手にやりなさい。他の方法を研究してでもやりなさいというのです。
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 十二時が過ぎて、鶏の鳴く声が聞こえるまでみ言を伝えてみなさいというのです。どれほど神秘的なことでしょうか。しんと静まり返った夜に、近所の犬がほえるのを聞きながらみ言を伝えてみなさいというのです。あたかも明るい陽光を求めて新たな人生の道を打開していくようでもあり、灯台の光を求めて新たな航海に出る船長のような気分を感じるのです。周囲が神秘でいっぱいの世界を一人で行くような勇敢な姿、たくましい姿、荘厳な姿を感じることでしょう。このような心情的な絆をもつためには、夜の時間を中心として指導しなさいというのです。夜や早朝に、このような活動を展開する必要があります。
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 夜、深夜は神秘性があります。それゆえ復興会をするなら、昼間するよりも夜するほうが恵みが多いのです。なぜかというと、昼間は私たちの感情がみな分散しているからです。視聴覚、五感で感じるすべての感覚が、昼間は分散しやすいのです。しかし、夜はむしろ集中します。すべてが私を包囲し、私というものをはっきりとさせます。そのような圏内に私が自動的に立つために、夜は神様と共に恵みの役事をしやすいのです。神様も良く役事をしてくださることができるのです。
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 早朝に起きて、自分の一日の生活が父の前に感謝の実体となることができるよう祈りながら、花の咲く春の園のごとき自由の園で、神様が私を立てて摂理することのできる希望の結実体になろうとしなければなりません。昼になって仕事場に行けば、希望の結実体が育つ夏のようにもう一歩発展し、神様が共におられる価値を現すことのできる存在になろうとしなければなりません。
 また夕方は、全体をみな集約して一つの決心を父の前に捧げることのできる秋のごとき時なので、祭物になれる立場に立とうとし、冬に当たる夜は、生命力を携えて神様と内在的な父子の起源を結び、すべての価値を受け止め得る自身となろうとしなければなりません。このように一年三百六十五日を勝利の日としながら感謝する生活をする人であれば、その人は父と関係を結んで生き、生きがいのある生活をしていると感じることができるでしょう。
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 皆さんが時間の過ぎるのも忘れているのは、神様の愛に酔っているからです。ですから草創期には、夜を明かしてみ言を聞き、み言を語るのが常でした。
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 眠る時間を計算して「きょうは眠れなかったから、あすはもっと寝なければならない」と言ってはなりません。皆さんはそうでしょう。「聖日の朝は断食だから土曜日の晩に御飯をもっと食べよう」、このような断食は、してもしなくても同じです。むしろ断食をしないほうがいいくらいです。断食をするからといって前の日にたくさん食べると、かえっておなかがすくのです。そのように食べてみなさい。胃を広げておいて突然空にするのですから、おなかがすいて当たり前でしょう。


 三 教役者(牧会者)がもつべき姿勢


  1.教役者(牧会者)は公的でなければならない

 千人以上を率いる人は、霊界の鑑定を受けて立てられた人です。
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 自信があって責任者になるのではありません。先生も「自分に自信がある」と考えたことはありません。自信よりも、神様が慕い、神様が訪ねるその人を慕うべきだということを知っていたがゆえに、いかにしてその心情をもって立ち上がるかということが問題でした。その心情さえ通じれば、できないことがありません。慕うその人をより高め、悲しむ人を慰労できる心をもつべきだということを知らなければなりません。
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 真の牧者(牧会者)は、自分が真の牧者だとは言いません。いつも黙々と神様のみ旨とすべての万象を自分の心に抱いて進むのみであり、自分の立場を弁明しないのです。
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 公的なことのために疲れも忘れて走り、いつ寝たのかも知らずにぐっすりと寝て朝起きると、体がどれほど軽いか知れません。そのようなことを思うと、「ああ、天に行く道はこうして行くのが原則なのだ」と思われます。ところが「ああ、きのうは三時間しか眠れなかったからきょうは五、六時間寝なければならないのだが」と思いながら寝て起きると、腰が痛く、体中がとても重いのです。ですからそのように思ってはならないということです。
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 責任者は、いくら疲れても先に横になるのではありません。みんなを寝かしてから横にならなければなりません。祈祷をする時も一番最後までしなければならないし、信仰生活をするにおいても食べられず、いいものを着ることもできず、貧しいながらも精誠を尽くさなければならないのが責任者の立場です。そのようにすれば、「滅びよ」と言っても滅ぶことができないのです。
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 先生は、精誠を尽くす人の前ではどうすることもできません。今まで教会を指導してきながら、二人の人がいて、その二人のうちのどちらが優秀かという問題を解決すべき時は、顔の良し悪しを見るのではなく、心がどこに向いているかを見ました。すなわち、私的であるか、より公的であるかを見たのです。
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 朝第一歩を踏み出す時も、公的な一歩であるか、私的な一歩であるかを反省しなければなりません。そして一日の仕事を終えて床に就いた時も、公的な一日を送ったのか、私的な一日を送ったのか反省しなければなりません。また、一年を中心として公的な生活をしたか、私的な生活をしたか、一生を中心として公的であったか、私的であったかを反省しなければなりません。
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 公職に就いている人はかわいそうです。もてる精誠を尽くしたのに、仮にみ旨の前に誤って、自分のせいで千年の功績が駄目になってしまったらどうなるでしょうか。そんな心情で生活しているのです。
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 過ぎゆく歳月とともに流れていってはいけません。新たな日に備えて前進する群れとならなければ、荒野ではげたかの餌食となります。私たちは歴史的開拓者だという事実を知らなければなりません。開拓者は困難な環境を突破して、あすへと向かう希望の前に準備態勢を整えて進むべきです。
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 いったん責任を負ったならば、次は戦闘です。闘争です。お前が負けるか、私が負けるかという戦いをしなければなりません。皆さんはその戦いで、皆さんの一代で少なくとも三人以上、反対する立場にいる人を自然屈服させ得る基盤をつくらなければなりません。
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 皆さんはまず理論に対する知識をもち、次に、できるという信念をもつべきです。自分の考えが及ばず、自分の信念が及ばなければ、自分のものにならずに人に奪われやすいのです。しかし、自分が実践してつくった基盤、根をしっかりと張ってできた基盤は、それ以上の力を加え、それ以上の信念を加えない限りは、絶対に奪われることはありません。
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 責任をもつ前に、どのような心をもたなければならないでしょうか。責任を負えなければ命に替える、という信念をもたなければなりません。そのようになれば、問題の核心を解決する解決点が生じるのです。
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 「人間としてできる限りの最大の努力をしました。夜も昼も心のすべて、精誠の限りを捧げました」と言うことのできる立場、天が見てもそれ以上できないという立場でそこを去る時、たとえその人がすべてを成し得なかったとしても、天は成した価値以上に報いてくださるのです。皆さんはそれを知らなければなりません。
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 教会長はその地方の祭司長です。寝られなくても、恵みを祈ってあげなければなりません。多くの人を救うために祭物を扱うのですから、精誠を尽くす苦労をしなければなりません。祭祀には実体(教会長)と主人(神様)が一つとなって初めて、返ってくるものがあるのです。
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 祭祀は、誰が管理するのでしょうか。祭司長が管理します。客が管理してはいけません。それゆえ公的な和合の場を重要視しなければ発展することができません。
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 祭物の前に立った人たちは頭を下げなければならない、というのが天法です。その祭壇には神様が臨在して干渉されるのです。心情的に私は、きょうこの祭壇の前に情熱とすべての力と努力を捧げきり、自分の生涯で最高の誠心誠意を尽くして口を開くとき、神様が協助されるのです。祭物は深刻な立場で捧げられるものなのです。
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 一生の間、嫌になるほど食べて、笑って、踊って生きたのちにお墓に行けば、福となることが何かあるでしょうか。そのような人のお墓には草が生えるだけですが、国のために血を流して死んだ人のお墓には、その国が生きている限り花が咲くことでしょう。
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 統一教会の先生になるのは易しくありません。それは罪人のように、囚人服を着て死刑場への道を歩いていく、そんな気分で歩んでいる人だというのです。皆さんは刑務所生活をしたことがないので分からないでしょう。豪華な家に住んでいますが、私はその家を必要とする人ではありません。私は草屋にも住める人です。草屋にも住めるように訓練されています。服を脱いで、それを持って労働の場に行けば一等労働者になれる、そのような訓練をした人です。そこに神様が愛する人がいれば、私が行って抱き締め、環境をすべて収拾してそこで涙を流し、友達になれる、このような心情的な訓練をした人なのです。


  2.食口の指導は精誠によって

 教会員(食口)を慕うのも、初恋をするような心で慕わなければなりません。
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 核心要員は、夜を徹してでも精誠を尽くして育てなければなりません。そのように三日間精誠を尽くせば、その人は一生忘れることのできない恵みの因縁を結ぶのです。伝道対象者が夜遅くまでいて帰る時にも、帰らずにもっといてほしいと思うようであれば霊界が協助してくれます。
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 まず自分自身がみ旨に酔ってこそ相手にも伝わるものです。
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 先生が食口を育てるために千辛万苦したように、皆さんもそうしなさいというのです。夜に客が来たならば、ひざまずいて天の恵みを祈ってあげ、昼間に来た客には奥の間に通して自分の親戚よりもうれしい客としてもてなし、「私の家はこういう家です」という家風を立てなければなりません。そのような家風を立てるならば、その人は誰のために生きるでしょうか。他人をもてなす伝統をもった人たちが教役者(牧会者)を飢えさせるでしょうか。教役者を飢えさせておきながら恵みを受けようという人たちには、口に砂を入れてやらなければなりません。
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 夜を徹して話をする時も、楽しくすべきです。夜の十二時が過ぎて、夜中の二時、三時になり、「帰ったらいいのに。寝なければならないのに……」という思いがあると、みな逃げていってしまいます。明け方の三時、四時になっても「帰ってほしくない。時計が止まればいい」という思いがなければなりません。そのような場に因縁を結んでいけば、その人の霊は分かるのです。霊は申し訳なくて食事をするや否や、お尻は後ろを向こうとするのです。先生はそのようにしたのです。
            *
 誰に会うにしても、会っただけで終わってはいけません。天を中心として会った人ならばなおのこと、絶対にその因縁を忘れてはいけません。教会に来ていたのに来なくなったからといって切ってしまったり、呪ってはいけないということです。その人が離れて出ていったとしても、その人と結んだ因縁だけは捨ててはいけません。
            *
 もし悪いことがあれば、悪いことをすぐに処理するなというのです。悪いことがあっても、その悪いことが良くなり得る条件を探し求めつつ、それを保留にして処理し得る余裕をもたなければなりません。もし一年前に間違ったことを見て切ってしまったなら、その人は完全に死んだでしょうが、一年、二年、三年と切らずに保留にして、それを番外のことと考えながら処理するならば、一年、二年、三年以後にはその人が生き得る道もあるのです。
            *
 新しく入った食口を愛すれば、蕩減条件を早く立てることができます。教会が発展できない原因は、食口たちがそのようにできないところにあります。ですから神様は、互いに愛し合い、和睦しなさいと言われました。
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 食口が離れて出ていったとしても、落胆してはいけません。不思議なことに、食口が一人出ていけば、その人と性格や話し方、歩き方まで似た人が来るのです。どの面から見ても不思議なほどに出ていった人にそっくりでありながらも、すべての面でずっと良い人が来るのです。そのようなことを考えると、精誠を尽くしたことは失われることがないということが分かります。これは間違いのない事実です。
            *
 教会の草創期に、韓国で食口を育てるときには眠りませんでした。一対一の作戦をしたのです。一人の人の前で講義をするにしても、千人の前で講義をするような思いでしました。その一人の人に数千、数万人がかかっていると考えたのです。どんな命令でも聞くことのできる、そのような人にするためには、それだけの精誠を尽くして、そうなるための動機をつくってあげなければなりません。
            *
 皆さんは、欽慕の心情をもった食口にどれほど会いましたか。先生は、そのような人にたくさん出会いました。地の果てからやってきて先生に敬拝するではありませんか。それはなぜでしょう。先生が地の果てまで愛の心情的な綱を投げたがゆえに、既に電気を通したので、方向が分かるからです。そうでなければなりません。
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 指導者になるためには、心から病人を治療する医師の立場に立たなければなりません。病んでいる人の心霊状態が下がれば、夜でも昼でも時間を問わず、共に涙しながら心霊を治療するために努力しなければなりません。それが霊的指導者なのです。皆さんは生命を救うために幾晩も夜を徹したことがありますか。 生命を救うためにどれほど忙しく歩き回りましたか。そのようなことが今後霊界に行けば、表彰の対象になるのであり、人格的な基準になるでしょう。


  3.男女問題、公金に厳格でなければならない

 今後、男女問題に許しはありません。許しよりも天が願われません。堕落というのは何ですか。 性の問題を自己主管できなかったために堕落したのではありませんか。男性にとって最も問題となるのが衣食住の問題、性欲、次に物質に対する欲望、欲心、これらが罪悪の根です。これを主管できない人は責任者にはなれません。
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 男女問題が大きな怨讐です。これが天地の法度に背き、世の中を滅ぼしたからです。これに自信のない人は祝福の場に出てはならないということをはっきりさせるために、話しているのです。万が一、皆さんがこれを破り、あの世へ行って引っ掛かっても私は知りません。私の責任ではありません。引っ掛かった場合には逃れる道がないのです。歯を食いしばってでも脱線してはいけません。
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 今後、男女問題には特に注意しなければなりません。男性でも女性でも、愛し合っているといううわさがある人は、今後絶対に責任者になれません。それは、そうしてはいけないようになっています。
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 男女問題に関してはっきりさせなければなりません。責任者はこの原則に厳格でなければなりません。そうでなければ誤解を受けるのです。弁明する道理がありません。ここで一度この問題に引っ掛かると、それこそ永遠に道がないのです。
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 宗教の背後には、いつも男女問題がつながっています。霊的な集団は、必ず男女問題にぶつかりました。それはどうしてなのでしょうか。 エバが堕落する時、自分の夫アダムと天使長を相手にしたからです。ですから終わりの日になって、女性は二人の男に対して善悪を判断すべき運命に置かれるのです。そういうわけで、男性が宗教に入門して修道すると、最後の峠で美人が現れて誘惑するのです。もしその誘惑に乗せられるようなことがあれば、千里、万里の崖から落ちるのです。
            *
 教役者(牧会者)たちが息子、娘を育てていますが、非良心的な、良心の呵責を受けるようなことをしたり、あるいは公金をむやみに使ったりするよりも、いっそのこと食べないほうがましだというのです。食べなければ天と地が同情します。食べない人に同情しない人はいません。子供も飢えている時、食べさせてやらなければなりません。もうすぐ死ぬ人には同情するのが人情の原則なのです。それゆえ殺人犯が死刑場で死刑になる時、彼に「最後の願いは何か」と尋ねて、その時だけは願いを聞いてやるではないですか。そのように、悲しみ、困難に陥った人に同情すべきだと見るのです。
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 統一教会の幹部の中に、公金や物質の扱いを誤って、人情で自分の家庭を中心として公金を使い、心情的に蹂躙する人がいます。それは自分の息子、娘の前に毒薬を配給するのと同じです。間違いありません。サタン世界ではこれが引っ掛かるのです。公金に対してはどうすべきか、 公的な人にどうやって対すべきか、公的なことをどう決定し処理すべきか、統一教会の牧会者は今後一大革新をしなければなりません。
            *
 霊界の法の中で最も恐ろしいのが、公金横領と公的な人を冷遇することです。最も恐ろしいのがこれです。責任者や神様が送った人をないがしろにすれば国が引っ掛かり、世界が引っ掛かるのです。
            *
 人間の生活において物質をないがしろにしてはならず、公金をきちんと扱わなければなりません。公金をきちんと扱わなければ天国の憲法に引っ掛かるのです。また、自分が出世したからといって勝手に人を人事措置することはできません。自分が出世して入った所に自分の怨讐の息子、娘がいたからといって、引き抜いて他の所に回して死ぬような立場に送ると問題が起こります。
            *
 先生が公金を使うときは、全体のことを案じる気持ちで使います。
            *
 これからは公私の問題を徹底的にしなければなりません。公金はサタンが配置した毒薬です。そのような公金を誤って使おうものなら滅びるのです。その公金から事が起こるのです。奸臣もそこから出てくるのです。そのために国が滅びることもあり、国を売り渡すこともあるのです。
            *
 私が血と汗を流して稼いだこのお金を、むやみに使うことはできません。むやみに使うことがあろうものなら、手足どころか自分の先祖まで引っ掛かるのです。公務員が国の国庫金を横領すると罰を受けますが、神様の公認を受けた天の公金を横領すれば天罰を受けるのです。


 四 説教は恵みと感動がなければならない

  1.説教の実際

 説教する時は女性がお産の時に苦痛を感じるような立場で説教しなければなりません。すべての精神をそこに集中させなければなりません。説教の壇上に立つときには、産婦が産室に入るような感覚がなければならないのです。その境地に達すれば準備が必要ありません。説教の内容が問題なのではなく、そのような心情になっているかどうかが問題なのです。
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 説教の時間はある人を天国へ行かせるか、地獄へ行かせるかという境界線になります。「今まで統一教会のことが気がかりだったけれど、一度行ってみよう」と教会に来たのに、「この説教は何だ」ということになれば、その人の首を完全に切ることになるのです。公廷で判事が宣告をする場よりも深刻な場が、説教の場なのです。
            *
 人にとって最も大変なのが、前に出てみ言を語ることです。人前で話をすると、みんなが注目します。甲は甲なりに、乙は乙なりに、丙は丙なりに、また金氏ならば金氏、朴氏ならば朴氏と、みなそれぞれに聞いて批判なり判断をするのです。ですから人前で話をする人は、とても大変なのです。
            *
 牧会者は説教についてのことを常に補充し、特に教会員に必要で、ためになることをいつでも供給してあげなければなりません。
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 霊的指導者には体恤的な信仰なしにはなれません。本を見て説教の準備をし、本を見て説教しても、その本の中に神様がいますか。いません。神様は霊的な中におられるので、神霊を通さなければならないということを皆さんは知らなければなりません。
            *
 皆さんが説教する時、昔その題目で説教したことがあるということを食口が知れば、気を悪くします。それは、人が春夏秋冬の四季によって変化を感じるのと同じだからです。朝だからといって、いつも気分がいいとは限りません。何も心配なことはないのに、とりわけ憂うつな日もあります。朝の日差しも明るく、そうかいな天気でも自分では憂うつな日があるのです。
 そのような時、どうすれば解決できるでしょうか。これを急に変動させる刺激的なものがなければ、もっと憂うつなところを求めて入りなさいというのです。このように正反対の新たな刺激を与えるなり、それを克服し得る新たな刺激を起こして補充していかなければなりません。皆さんが解決方案を立てて一日一日の生活を調節していくことができなければ、今後多くの人の心霊を指導することはできないのです。
            *
 新たなものを提示しなければなりません。どのようにしてでも刺激を与えなければなりません。祈祷してでも補充すべきです。それでも駄目ならば、命を懸けてでも談判しなければならないのです。
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 準備のできていない説教をして恵みを与えられなかった時、ありったけの力を尽くしても駄目だった時は、振り返り、帰ってきて、ただただ大声で痛哭する時間がなければなりません。恥ずかしいのです。自分の恥ずかしさを知るべきです。そうしてこそ発展するのです。
            *
 朝御飯を食べる時、新しく炊いた御飯を食べるでしょう。新しい味がしなければならないのです。説教するにも新しい説教をすべきです。霊的な面で新しい何か、保養剤とでもいうか、そのようなものを供給して、そこにつけ加えて説教しなければなりません。そうでなければ調味料を入れて酸味をきかせ、塩味をきかせ、さもなければ苦みでもきかせて新しい味を出さなければならないのです。
            *
 恵みを与えられずに説教を一時間してきたならば、三時間悔い改めなければなりません。皆さん、それを知らなければなりません。説教がうまくできずに恵みを与えられなかった時には、三倍以上悔い改めなければならないのです。一つの生命のために命の水を与え、育てるべきなのに、水をやるどころか水を奪い、土を掘り起こしてきたとすれば、その責任を取らなければなりません。その人たちが帰ったあとでも、きょうのみ言を中心として恵みを施さなければならないのです。
            *
 聖日ごとに「聖書はどこを読もうか、賛美歌、出てこい、聖歌、出てこい」と言うのではありません。それではいけないのです。人にとっての生きた材料を中心として、聖書からそのような歴史を取り上げて、その人のことと聖書の内容を対照しながら興味深く説教するのです。そうすると聞く人は、自分の話なのですっかり引き込まれるのです。喜ぶのです。本を見てしようとしてはいけません。本も人から出てくるのです。人自体が本の原本だということを知るべきです。
            *
 牧会者は苦労をたくさんしなければなりません。人生の修練をたくさんしなければなりません。かわいそうな労働者から乞食、あるいは高級官吏、あるいは権勢圏にある立場まで一度は経験することも必要です。そしてそのような状況を中心として、その時に公的立場で経験した事実などを取り入れた体験談には実感がわくのです。


  2.真のお父様の説教

 先生は、説教のために祈祷する時間よりも食口のために祈祷する時間を多くもちます。「父よ! この者たちを引き上げなければならないのですが、どうすればよいのですか。これですか、あれですか」と、精誠を尽くしてから心の命ずるままに説教します。
            *
 先生は、説教のために準備をしたことがありません。生きた体験で事実を語る時は、みな感動せずにはいられないのです。
            *
 一時先生は(北韓にある)咸興でトンネルを貫通する仕事をしました。おなかをとてもすかせて仕事をすると、つるはしを強く握りしめた手が上がらず、精根尽きていました。「昼飯だ!」という声を聞いた時、その声がどれほどうれしかったか分かりません。その時の御飯! その御飯を食べるためにつるはしを地面に突き立てて振り向くその瞬間の気分、先生にはそのような生きた歴史の材料が数えられないほど多いのです。
            *
 悲惨だった復帰歴史の事情は、私を滅ぼすのではなく、青史に永く光り輝く資料であることを知らなければなりません。それで、神様が秘めた宝物をかき集め得るその日まで行かなければなりません。その受難の事実を世界万民の前に打ち明け、話せば、他の内容で一時間説教するよりも、この内容で十分だけ話せば痛哭するというのです。そのようにいい説教の内容がどこにあるかというのです。
            *
 神様と密接な関係にあれば、説教の準備をしなかったと心配するなというのです。そのような訓練が必要です。私は、有名な人に会って一日に十回話をしたことがあります。その時は、場所によってみな内容が違う話をしなければなりません。ところで、それをみな準備してするでしょうか。そういう時の心は、完全に祭物としての自覚をもつのです。祭物の自覚。「私」というものはありません。存在意識がないのです。所有観念もないのです。完全に捧げられる立場に立てば、天が共になされるのです。
            *
 皆さんがいつも注意すべきことは、先生が今どの方向に向かっていくのかということです。そこに歩調を合わせていくのが、皆さんが説教する上で一番効果のある方法です。恩賜を施すことのできる動機になるのです。先生がこの時間に、何のために、どんなことをするのかを知ろうとするならば、相対的に心情的基準を先生と一致させるために自分の心を引き上げて、先生の心をどのように身代わりできるかが問題なのです。皆さんが先生の前に相対的立場で動くようになれば、天運はそこに訪れることでしょう。
            *
 聖日の説教をする時は深刻でしょう。私が皆さんだったら、夜寝ることができません。どうして寝ることができますか。人の生命を生かすために注射するのです。強壮剤注射をするのと同じです。食口たちに一週間分の薬をあげ、強壮剤注射をしなければならないのです。生命を扱う医者が、生死の岐路に立たされた人に注射する時、深刻なのと同じように、そのような立場で指導しなければなりません。ですから壇上に立つ時は、死刑場に出ていくのと同じなのです。
            *
 説教する時は汗を流さなければなりません。後頭部に汗が流れなければなりません。涙と汗がなければなりません。それが鉄則です。説教は心配する必要がありません。先生が一生の間に説教した二百巻を超える説教集があります。皆さんが霊界に行って問答する時、「私は見ることも読むこともできませんでした」と言いますか。英語には翻訳させないでしょう。これを読まないで逝けば大変なことになります。指導者たちがこれを読まなければ大変なことになります。


 五 献金は法度に合うように捧げるべし

  1.十分の一献金を捧げる法

 公金に対して厳しくなければなりません。十分の一献金は徹底しなければなりません。自分の総収入から十分の一の献金を必ず神様の前に捧げなければなりません。
            *
 十分の一献金は、所有している物質中の十分の一を神様に捧げることにより全体を捧げるという意味をもっています。父に全体を捧げるのではありませんが、その中の十分の一を精誠を込めて捧げることにより、残りの十分の九も聖なる物として取り扱い得るようになります。このように十分の一献金を捧げて生活する人は、絶対滅ぶことがありません。日がたてばたつほど、倉庫がいっぱいになっていくのです。
            *
 精誠を込めて十分の一献金をしてみなさい。絶対に飢え死にしません。その子孫は物質に対して窮乏しないのが原則です。十分の一献金を捧げるために精誠を込めなさい。それが信仰の本質です。適当にすればいいだろうと、それは通じません。祭物は、自分の生命の代わりに捧げるのです。それで、一番貴重な物を捧げるのです。
            *
 蕩減するために物を条件にします。私たちが十分の一献金を天の前に捧げる理由もここにあります。九数は堕落世界の数です。十数はこれを超える数です。天の世界の数です。
            *
 レビ族が治める教会の祭壇の前に、十一支派は全部十分の一献金を捧げなければなりません。これからは十分の一献金を捧げなければ教会員ではありません。もともとは十分の三献金を捧げなければなりません。一つは自分の国のために、一つは世界のために、一つは教会のためにです。十分の三献金を捧げなければなりません。
            *
 私たちが生きていく上で生活の十分の一献金を出すのは絶対的です。それを自分の物だと侵犯してはいけないのです。なぜそうなのかといえば、九「三三が九(3×3=9)」は、サタンが今まで支配したのです。サタンが支配するこの地上を、九数を天の前に返し連結させれば、神様が主管できるようになるのです。そうすることにより十数を探し出すことができるので、私が神様を信じて九数を引っ張っていけば、この九数圏内のすべての所有権をサタン世界から分離できるのです。それで十分の一献金という言葉が出てきたのです。
            *
 復帰途上を越えていく過程にあって、私たちは十分の一献金ではなく十分の三献金をする覚悟をしなければなりません。一つは国へ捧げ、一つはこの世の中の人たちに施さなければなりません。復帰過程ではしなければならないのです。また一つは天の国へ捧げなければなりません。十分の一献金というのは天の責任を担う人として、絶対に侵犯してはならないのです。そのようにして誠心誠意を尽くさなければならないのです。
            *
 皆さんが献金する時、何かを買って食べて、残ったお金で献金してはいけません。そのようなお金は汚れた物です。また市場に行って何かを買って、残ったお金で献金をしても、神様はそこに共にいらっしゃることはできません。
            *
 祭物は、他人が残した物でしてはいけません。それは汚れた物です。恵みを受けた者ならば一遍に分かるのです。それで不浄な所には行けないようにするのです。
            *
 これからのすべての物は、最後に世界の物にならなければなりません。そうしながら同時に世界的な神様の物になり、世界的な「真の父母」の物になり、世界的な真の子女の物にならなければなりません。すべての物はそのような物質として復帰しなければならない責任が、私たちにはあります。これを徹底的に感じなければなりません。
            *
 自分が使うところからいくらか献金して、それで教会を支えるというのは極めて良いことのようですが、それは悪いことだと思うのです。神様の前に捧げることは自分の生活より、自分全体よりも先にしなければなりませんが、それの何パーセント捧げるという観念によって自分の生活が主で、神様が次の段階に立つのが習慣化されやすいのです。神様が二番目になり一番最後になってしまうのです。そうだと思いますか。そうではありませんか。
            *
 皆さんが献金をする時はどうでしょう。子供たちが聖日の朝教会に行く時に、「お父さん、お母さん、献金! 献金!」と言えば、いくらかを渡しながら「さあ、献金だ、聖日礼拝で献金しろ」ですか。神様が乞食ですか。教会の牧師が乞食ですか。そのような牧師、教会は駄目です。献金は自分の財産の金額を捧げなければなりません。自分の金庫の一番奥に入れておいて精誠を込めて準備しなければなりません。収穫の秋になりすべての蔵に穀物を刈り入れる時も、十分の一献金を別に取っておかなければなりません。そのようにして一年の間、息子、娘、一家が共に精誠を込め、愛の心を重ねて祭物として捧げなければなりません。
            *
 祭物を捧げておいて祭物を取り戻す法はないのです。取り戻す道理がありません。それはより高いところで、その責任者がより高いことのために使えばそれでいいのです。低いところのために使いません。皆さんのために使わなくてもよいというのです。
            *
 宇宙を創造された絶対全能であられる神様が、乞食に投げ与えるようなそんなお金でもって喜びながら、「ああ、福を受ける者たちよ! お前たちは愛らしい宗教人だ」と言うことができますか。サタンの前に威信が立つのかというのです。献金箱を回しながらお金を出しなさいというでしょう。それは、看板を付けた乞食です。それは、何ですか。それは、神様は喜ばれないのです。
            *
 皆さんが先生に献金をしますが、先生はそんなお金は受け取りません。先生は受け取らない主義です。皆さんがそれを集めるためにどんなことをしたのか、それを私が知って、それに対して恥ずかしくない主体的な立場に立てるようでなければ受け取れないのです。心の姿勢がそうなので、与えてもまた与えたい心が神様に宿るのです。
            *
 精誠を込めた献金や礼物に対する時、その価値を知らないで対すれば、精誠を込めた礼物に審判されるという事実をはっきりと知らなければなりません。王様も自分の身の振り方を間違えば、すなわち精誠を尽くした人には、むやみに接したなら滅んでしまいます。精誠を尽くす人を間違って接すれば、天の逆賊として追われるようになります。ですから先生は、精誠を尽くす人にはむやみに接しないのです。
            *
 私的な物を公的な物より重要視する人は、天道に反する人です。私的な自分の人格を公的な人格より重要視する立場は、み旨に反する立場です。
            *
 既成教会で、献金することを何と言いますか。それは何かの袋を持って回すでしょう。私たちの教会も、献金をそのように受け取りますか。何の献金箱を持って受け取るのですか。出ていく時、みんなあの門前の献金箱に集めておくのです。精誠を尽くし恵みを受けていく代価として感謝献金をするのです。出さない人たちは帰っていって……。そのようなお金をもらっても、それは天が願わないのです。
 精誠のこもったお金でなければいけません。お父さん、お母さんのポケットにあったお金では駄目です。全部自分の体に三日以上持って聖別して、献金しなければなりません。昼食一回分にも満たないものをどこに献金するのですか。自分の生命、財産を全部はたいてでもしなければならないのに……。
            *
 一番最初の物は、神様の前に捧げなければならないのです。聖なる物は、神様の前に捧げなければならないのです。聖なる物がないところには、神様が共にされないのです。皆さんの生活習慣は、このようにしていかなければならないのです。
            *
 十分の一献金は、一番精誠を尽くした聖なる物でなければなりません。それが祭物です。祭物を捧げるには、聖なる物を捧げなければなりません。息子を祭物として捧げなければならないとするなら、どんな息子を祭物に捧げなければなりませんか。憎い息子ですか。望みのない息子ですか。そんな息子は祭物にはならないのです。一番良い息子でなければならないのです。なぜですか。祭物は「私」の身代わりだからです。
            *
 今自分が持っている物、または自分所有の財産は、自分が少しの間管理する過程にあるというのです。皆さんは管理人です。それで、各自がよく管理して奉献しなければならないこの万物は、真の父母の懐を通し、神様の懐へ帰っていかなければなりません。もう一度言えば、神様の物であると同時に「真の父母」の物という過程を通さなければ、私の物にならないという事実を知らなければなりません。
            *
 復帰路程の原則的基準で見る時、万物はまず人類始祖の物とならなければなりません。もちろん神様の物ですが、神様が人間の前に下さった祝福の基準を中心として見る時、人間始祖の物とならなければなりません。堕落しない善の父母の物にならないといけないのです。
            *
 堕落は、自分のものをつくろうとし、自分が所有しようとすることから始まります。神様とメシヤが来られるのに、このようにすれば必ずサタン側になるのです。それで従順の道理を通らなければならないというのに、いつも堕落した世界に執着する事情が残るようになるのです。皆さんは皆さんの所有を神様のために使おうとする時、どのようにしますか。私は自分が稼いだ物でも、夢にも私の物にはしません。
            *
 私のものはあなたのものであり、あなたのものは国のものであり、国のものは世界のものであり、世界のものは神様のものであり、神様のものは私のものだというのが、私たちの主流思想です。
            *
 まず物質祝福時代を通して人間祝福時代が来て、その次に神様を主とした心情祝福時代が来るようになっています。
            *
 今まで人間が復帰されるのに、万物がどれだけ多くの貢献をしたか分かりません。また万物と人間が一つになれなければ、父の前に行くことができません。


  2.生活にも十分の一献金がある
 
 教会の十分の一献金生活も、食口の家庭が十あれば引導者一人を食べさせなければなりません。そのようにできなければ天民権をもつことができません。
            *
 十人が住めば、天の人一人を扶養しなければなりません。
            *
 十分の一献金は、すべてに該当します。学校も、十教室中の一教室は、かわいそうな子供たちのための無料奉仕の教室として使わなければならないのです。
            *
 これからは皆さんが持っているすべてのもの、時間までも十分の一を捧げなければなりません。過去と同じように物質だけではありません。仮に家族が十人いたら、一人を差し出さなければなりません。そのような基準で出なければなりません。これからは、私たちの教会食口は十分の一献金ができなければなりません。十分の一献金ができない人は食口ではありません。これは義務です。天的な義務だというのです。
            *
 聖日は十分の一献金の日であり、自分の日ではありません。ですから天の命令どおりに服従する日なのです。天の物を私の物として使おうとするのが罪です。私の子供の中の一人を天の前に捧げなければならず、そのようにできなければ他人の子供でも勉強をさせ天の前に捧げなければなりません。
            *
 そうめん一杯を食べるにしても一人で食べてはいけません。天の父に仕えている者として一人で食べて申し訳なければ、「共におられる父の前に私一人で食べるしかないので心苦しいです」と言い、父が参与できる条件を立てて、必ず父母をまずもてなす立場に立てておいて生活しなければならないのです。服を買って着ても、一人では着れません。そんな生活をしなければならないのです。


  3.蕩減基金

 堕落人間が父母を殺した罪、子女を殺した罪、万物を失ってしまった罪をどのようにして蕩減しますか。ユダがイエス様を売って旅人の墓地を買いました。ゆえに蕩減基金で聖徒たちがとどまることができる家を準備しなければなりません。元来は本部を買わなければなりません。十二弟子が売ったために、四年間に一万二千ウォンを献金しなければなりません。蕩減基金は、お金の中でも一番貴いお金を捧げなければなりません。この基金献納は、父と兄(アベル)を殺した罪の血の代わりに蕩減として基本的なお金を納めるのであり、子女たちにおいては父と兄の血の代価となるのです。これからこの基金に加えて、聖殿を建てなければなりません。
            *
 蕩減基金を精誠を尽くして返さなければなりません。蕩減基金は、食べる物を食べなくても、着る物を着なくても精誠を尽くし、他人の手を通さないで自分自身が直接出さなければなりません。蕩減基金を伝統にし、私たちの子孫たちも全部この峠を越えなければなりません。これをすべてがするようになれば、国家の運勢を越えていきます。表面には見えませんが、千の道、万の道の中に泉がわいており、穴を掘れば爆発する力があります。私たちは他人が知らない中で、このような神聖な祭事を行う祭事長、祭官としての責任をもって祭物を捧げることができなければなりません。
            *
 一人の誤った行動によって、真の父として来られたイエス様をこの地上から追い出した立場になり、神様の摂理は、四方八方が完全にふさがれてしまいました。これを蕩減する条件として四年間に三数に該当する金額を、イエス様を売ってしまったその実体の額を神様にお返しするのです。四年間というのは東西南北に該当し、韓国では一年に三千ウォンずつ四年間にわたって納めるという条件で、一万二千ウォンを献金しなければなりません。
            *
 私たちは天と地の恨みを解き、この地にふさがれている城を壊さなければなりません。そうして、今まで道を磨いてきながら犠牲になった道人たちを中心とした本部をつくっておかなければなりません。この蕩減基金は、世界的な蕩減をするものです。蕩減基金は、血と汗を流し精誠を尽くしたものを出さなければなりません。銀行に貯金しておいたものを引き出してはなりません。
            *
 主は、歴史の蕩減条件を立て血を流すような道を歩かれました。そうして天地の恨みを解きました。しかし、子女たちが恨みを解けなかったので、これを解くようにするための条件が蕩減基金です。父母は勝利しましたが、子女たちが侵犯を受けたので、勝利した父母の基盤の上に父母を売った恨みを解怨成事しなければなりません。蕩減基金を納入すれば飛躍的に発展するようになります。子女がどんなに父母を迎えても、天地をもったとしても、「真の父母」が流した血の恨を解かなければならないのです。
            *
 食口たちは蕩減基金を率先して納入しなければなりません。涙と汗と血の恨を蕩減する条件を立て勝利してこそ、また新しい摂理が出てきます。民族的な基盤の上に、国家的な逆境をかき分けて行かなければなりません。先生は、韓国民族が一番かわいそうな民族になることを願います。それは、私たち民族が一番悲惨な位置にいてこそ蕩減をすることができるからです。それで私たちは今、民族的な蕩減条件を立てて進んでいるのです。
            *
 蕩減基金は、お金の中で一番貴いお金です。この基金に逸話が多くなければなりません。悲惨なことが多くなければならないのです。


 六 神様は公的な祈祷を受けられる

  1.あいさつをするにも方法があるのではないか

 信仰者はより大きなことのために公的な祈祷をしなければなりません。
            *
 先生は興南の監獄で三年近い歳月を過ごしましたが、その中で何人かの食口たちのための祈祷を、御飯を食べる時から寝る時までしなかったことはありません。たとえ離れていった人であっても、彼のためにずっと祈ってあげました。それで、霊的に先生を探して物悲しく涙を流しながら報告をするのです。肉身(体)が弱くて仕方なく先生から離れるようになったとあいさつをしましたが、去るようになった悲惨な情景には同情せざるを得ません。そのようにして離れていっても、その人のために祈祷してあげないといけないのです。なぜでしょうか。その人が責任を全うできないで行ったために、継承者が出てくるまで祈祷してあげないといけないのです。そのような精誠の土台さえ残っていれば、どんなに食口が落ちていったとしても、神様が必ずみ意にかなう人を送ってくださいます。
            *
 私が拷問を受け血を吐いて倒れたとしても、「天よ、この血を見て私のために涙を流さないでください。これは恥ずかしい血となるのであり、嘆きにぬれた怨恨の涙になるので、ここに天が同情することを願いはいたしません」と言うのです。ですから、監獄に入るようになっても祈祷はしないのです。心情世界にあっては、そのようにしなければならないのです。
            *
 この世でもあいさつをするのに、その方法があるではないか。祈りにおいても研究してやりなさい。
            *
 神霊な世界に入って祈祷するようになれば、まず神様のために祈ります。そしてイエス様のために祈ることができれば、歴史的な心情を知ります。その次に、天地創造以後今までキリスト教系の素晴らしいみ旨に代わって闘ってきた数多くの人たちに代わって祈ってあげなければなりません。堕落以後アダム・エバから今まで数多くの預言者たちが歩んできましたが、「彼らにつのった恨を解怨する祭物になるようしてください」と祈りました。これがすべて終わったのちに、愛する息子、娘のために祈り、その次に、自分のために祈るのです。天法がそのようになっているのです。
            *
 涙を流し、骨髄が溶けてしまうような深刻な境地に入り、一対一で勝敗を決めようというのです。私が涙を浮かべる時神様も涙を浮かべ、神様が涙を浮かべる時私が涙を浮かべるそのような立場で、従順に従う心で神様とやりとりできる境地に入らなければなりません。どんなことでも、そのようにしなければなりません。そうするために祈らなければなりません。根がないといけません。その根が祈祷です。
            *
 精誠を尽くすにおいて、「絶対信じます」という位置へ入らなければなりません。「神様を絶対信じます」。み旨ならばみ旨に対して「絶対信じます」という位置に入らなければなりません。そのような位置にのみ、神様が協助されるのです。祈祷していても、祈りが成されるか成されないかと疑ってはいけません。「父よ! 私だけ残りました。私でなければこの国がなくなり、この世界がなくなるでしょうが、父よ、あなたが六千年間苦労してこられたこの一つの境地に、この境界線に一人残りました。あなたが成就させるみ旨の近くにいる者が、私しかいないではありませんか。国にはこのような存在が重要ですが、私はまだ準備が十分ではありません。しかし、そのような者に命令され私がそのようにできる条件、そのようにできる基盤を備えて、全体のこの民族に代わってやります。これが復帰摂理ではありませんか」と言えなければなりません。祈祷は、目的の完成のためにも必要なのです。
            *
 祈る時、一番最初に国のために祈らなければなりません。その次は世界のために祈り、次には神様の解放のために祈らなければなりません。神様が平安な位置にいらっしゃると思いますか。自分がしなければならないことが何であるかも知らずに、世の中の運勢がどのように動いているかも知らないで「おお、主よ。私を天国に送ってくださいませ」と言っています。
            *
 責任者として、本質的な原理的軌道をどのように行かなければならないかということを知らなければなりません。それで祈祷をしなければならないのです。祈祷です。神様と私の関係、神様が私をどれだけ愛しておられるか……。また、食口のために精誠を尽くさなければなりません。私が食口と共にどれだけの関係を結んだか、これが丸くなるように……。そのために祈祷しなければなりません。
            *
 自分の利益のために宗教を信じる人たちは、福を受ければ神様を捨てます。福を受けるのが目的だからです。少し豊かに生活するようになると落ちていくのです。皆さんは、神様が願われることが何なのかを探してさしあげるという観点で祈祷しなければなりません。そして世界に福を賜るようにと祈祷しなければなりません。
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 師匠を師匠としてつくるためには、皆さんが責任を全うしなければなりません。父の前に祈祷をするにも、「父よ、あなたの息子、娘が来ました。あなたが会いたがっていた息子、娘が来ました」と堂々と言うことができる環境をつくっておいて祈祷しなければならないのです。
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 誰が見ていようが見ていまいが、私がすべきことは私がしなければなりません。私たちが神様と約束を守らなければならないのです。夜でも昼でも全体のために祈らなければ、それは生きた祈祷とならないのです。それで自分の願う祈りが変わり、題目が変わりながら発展するのです。今、時がどのような時なのか知らなければなりません。そのような裏面の生活を、祈祷を通して身につけなければならないことを知らなければなりません。
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 先生も自然を愛し、一人でいる時間を趣味としています。物静かな夜がとても好きです。しかしそんな話はしません。先生にそのようなものがないでしょうか。皆さんに見えないだけです。そんな生活の豊富な底辺基盤を磨くことができるのも、祈祷以外にはないということを知らなければなりません。
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 福は他のところにあるのではありません。自分の心情的姿勢によって福が来るのです。皆さん、祈って精誠を尽くすのはなぜですか。精誠を尽くして「アーメン」と言って出てきて、泣いている赤ん坊がいればお尻を足でけって突く、このようならばその家はどうやっても駄目なのです。美しい祈り、懇切に願う祈りをしたならば、懇切な心と美しい心で環境を処理して、祈祷する基準の相対的な立場で、その結実を結ぶことができる姿勢を備えなければなりません。今日、既成教会の人たちは、賛美歌を歌い、礼拝に行けば天国に行くと言います。とんでもありません! 教会に行ってきて、けんかをし拳をふるい、ありとあらゆることをして天の国に行けるというのですか。


  2.真の父母様のみ名を通し祈祷する

 祈祷する時、「真の父母」のみ名で祈祷しますが、「真の父母」とは何ですか。その言葉は先生とお母様だけだと考えないでください。より高い次元で世界を抱き、民族感情や国家感情を超えて万民を真実に、一筋に愛することができるお母さん、お父さんという境地の基準を考えなさいというのです。それで先生も「真の父母」のみ名を通して祈祷するのです。
            *
 今は、「イエス様のみ名で祈祷」する時ではありません。今はみ名の救援時代ではありません。実体救援時代です。キリスト教徒たちはイエス様の名前で祈ります。しかし先生はそのように祈りません。イエス様が必要であって、イエス様の名前は必要ないのです。お父さんという言葉は千個、万個あります。しかし実体は一つだけです。そうでしょう。ですから天の国には、イエス様の実体に乗って行かなければならないのであって、名前に乗って行くのですか。
            *
 統一教会ではイエス様のみ名で祈りません。統一教会に初めて入ってきた人たちは「えー、なにー、『真の父母』が何だ。なぜ『真の父母』のみ名で祈祷するのか」と思うのです。皆さん、「真の父母」とは何か知っていますか。「真の父母」というのは、エデンの園で堕落せず神様の栄光の中で千世、万世に誇ることができる先祖を言うのです。ところが立てられた人類の先祖が堕落したために、新しい先祖がいなければ、神様または新しい先祖の名前で祈祷するのです。道理にかなっているのです。イエス様お一人では通じないので、イエス様と聖霊を通さなければなりません。イエス様は父の神で聖霊は母の神なので、堕落した人間たちは誰でも、父母の因縁を通さずしては天国に行くことができません。
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 統一教会は、イエス様のみ名で祈りません。父母を求めていくのです。父母の中でも「真の父母」だというのです。すべて改め直さなければならないのです。改め直さなければならないものを知らないから、礎石を正さなければならないのです。そうしなければ、台風が吹いたら完全に駄目になってしまうのです。


 七 伝道は愛を探す運動である

  1.伝道は第二の私をつくること
 
 伝道とは何ですか。道を教えてあげることです。神様に戻っていく道を教えてあげるので、それはどれだけ偉大なことでしょうか。本性の人間を見て「お前はどこに行くのか」と問えば、「いやー! 世界を通し天の国に帰っていかなければ」と言うのです。その道を開拓してあげるのでどれだけ素晴らしいかというのです。迫害を受け、ひたすらに何かを受け、何を受けても、いつも世界を通して天に帰っていくのです。
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 私が生命を捧げ悪を屈服させれば、神様の愛が私に来ます。これは公式的です。秤の分銅と同じです。片方が下がればもう一方は上がるようになっているのです。悪を多く取り除けば善が上がり、悪が多くなれば善が下がるのです。悪を取り除いただけ愛を受けるのです。ですから、誰よりも私を愛しなさいというのです。神様をもっと愛しなさいと言うのは、神様を愛するほど神様の愛をたくさん受けるというのです。すなわち、神様を愛したので神様の愛を受けるということなのです。
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 皆さんが、春を迎えるために伝道するのはなぜですか。伝道して何をしようとするのですか。夏の日を迎えようというのです。もっと良い日があり、枝を伸ばし葉を出して花が咲き実を結ぼうというのです。それでは統一教会はどうですか。「ああ、私は三年の間伝道したのでもう家に帰ってじっとしていてもいいでしょう」。そうすればどうなりますか。それは実を結んだとしても、その実を証することができる生命の余力をもっていなければ、冬季の北風寒雪が押し寄せる時には干上がり、縮んでしまうのです。
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 伝道は第二の自分をつくるためのものです。
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 どんなに時代的な一日の生活であっても、伝道するその一日は永遠と関係を結ぶのです。そんな秩序の基礎の上に、私たちの一片一片の行動が全体、または永遠と関係を結び、それがなくならずに残るようになるというのです。
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 伝道すればうれしい。反面、伝道しなければうれしさがこみ上げてきません。先生もこれをしなければ苦しいので、するのです。伝道をすれば罵倒されてもうれしいのです。
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 神様が生きておられることを体験すれば、「伝道するな」と言っても伝道したくなります。伝道すると、新しいことをつくってくれるからです。十人がいるとして、彼らと真摯に対話すれば十人が新しい人になります。そうしてから教会に来て祈ってみなさいというのです。そのようになれば彼らが発展する時、必ず自分自身も発展するようになっているのです。私自身が高まるのです。
            *
 霊界に行けば誇れるのは伝道しかありません。霊界はお金を多く持っていたとしても何の誇りにもなりません。また世の中で権力をもっていたと誇ることもできません。生命をどれだけ生かすことができたか、これが誇りです。甲ならば甲、乙ならば乙、または氏族を超越し数多くの民族を新しい生命と関連させ、どれだけ生かしてあげたのか、それが財産です。財産はそれしかありません。
            *
 霊界にないものはなく恋しいものはありませんが、一番恋しいものがあるとすれば、それは真なる人です。ですから真なる人を育てるため骨を折ったその功臣は、天上世界で当然、栄光の息子、娘になることができます。ですから誇れるのは伝道しかないのです。
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 皆さんは伝道対象者を前にして、夜を明かし痛哭して祈祷したことがありますか。自分のお母さん、お父さんが死んだ以上に悲しんで、または愛する恋人が死んだ以上に悲しんで痛哭してみたのかというのです。していないのならば、してみなければなりません。夜を明かしながら痛哭しなければなりません。一つの生命を生かすことさえできたならば、何も惜しいことはないのです。お金や服や家が問題ではないのです。人を愛するのに狂わなければなりません。
            *
 皆さんが教会に来る時は自分の父母、妻子をみんな連れて来なさいというのです。兄、姉みんな連れてこなければなりません。皆さんがお母さん、お父さん、親類や遠い親戚まで伝道するために、どれだけ血の涙を流しましたか。一人の生命を引っ張ってくるために夜を明かし、精誠を込め、祈祷しながらどれだけ身もだえしたのか、これが問題となるのです。皆さんは逆境の環境にあっても中心にならなければなりません。皆さんが中心になっていかなければならないということを知らなければなりません。
            *
 伝道をするには人々の心理を研究しなければなりません。表情や歩き方だけ見ても、その人が喜んでいるのか嫌がっているのかが分からなければなりません。その人の感情を公式的に鑑定できなければならないのです。
            *
 伝道に出掛ける時、「お金がなくて出掛けられない」と言わないでください。イエス様がお金を持って出ていきましたか。神様が復帰摂理をお金でもってしましたか。生命でもってしたのです。血でもってしたのです。それでキリスト教の歴史は、血で蕩減する歴史なのです。血でもって、生命でもってしたのです。お金でしたのではありません。皆さんがそういう心でもって出掛ければ、天が役事をされると私は信じます。
            *
 伝道に出掛ける時は、お金を持って出掛けてはなりません。心情をもって行かなければなりません。
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 皆さんが伝道をしようと出掛ける時、ただそのまま出ていってはいけません。どのくらい精誠を尽くして出掛けるのかということが問題です。ある人を伝道するのに一週間や一カ月、または一年、二年、三年はかかるだろうと思えば、その期間精誠を尽くさなければなりません。雨が降っても雪が降っても、御飯を食べ、寝て起きて、行ったり来たり、または休んだり、ある行動をしたり、一切の心でもって人の前に完全にすべてを与えなさいというのです。完全に与えれば完全に返ってくるのです。これが原理です。
            *
 神様を愛するのにどれだけの精誠を通して愛し、人間を愛することにおいてどれだけ精誠を通し愛したのかが問題なのです。これが霊界に行ってからの人格になるのです。栄光の基盤になるのです。
            *
 伝道するために夜を明かしましたか。先生は、夜を何度も明かしました。あの世で尋ねられることでしょう。伝道するために幾度夜を明かしたのかを。皆さんは、すべての力を尽くし伝道しなければなりません。
            *
 投網で魚を捕る時、錘が少しでも前に出れば一匹でも多く捕まえることができます。私たちはこのような錘のような立場で、サタン圏にいる人たちを少しでも天の側に引っ張ってきたい心で動かなければなりません。
            *
 他の人を伝道できるくらいまで育てないといけません。このようになれば、皆さんは伝道した人を一人も失うことはないのです。
            *
 精誠を尽くして、どれだけ天が協助するのかを見てみなさい。地で自分の親戚と知り合いを伝道しなければ、あの世へ行って彼らの讒訴を免れることができないのです。
            *
 伝道をするのも、商売をするのと同じようにしなさい。効果的にしろというのです。昔は伝道に行くとか、どこに行くにも何の準備もなく行きましたが、今は準備して行きなさい。精誠を尽くして行きなさい。昔と変わらなければなりません。
            *
 皆さんは「生きた人間」の哲学を探究しなければなりません。いつも私がどのようにすればあの人を先生に、または皆さんに導いて来ることができるのかを考えなさい。その人たちが、皆さんに引かれてくることができるようにしなさい。このようにするためのただ一つの方法があるのですが、先生はその方法を知っています。それは他の人に仕える精神です。人間には自分自身に利益になるものがあるときは、いつでもそちら側に行こうとする本性があります。
            *
 人を探すためには、春の季節のような、夏の季節のような、秋の季節のような、冬の季節のような地方に行って、涙と血と汗を流そうと考えなければなりません。「私が春の季節の人、夏の季節の人、秋の季節の人、冬の季節の人、春夏秋冬の人を愛していく。冬の季節の人、あのソ連の人までも愛していこう」と言わなければなりません。そうしてこそ自分の相対を愛することができるのです。それが復帰の過程なのです。
            *
 精誠を込めて与えたのに「彼が言うことを聞かない」と、寂しく思ったり、悲しく思ったりしてはいけません。「天理の原則がそうなのだ」と考える人は福を受けることでしょう。そのような人は、絶対に寂しくなったり、悲しくなったりはしません。時が近づいているので春風が吹くのです。しかし、精誠を込めて与えたのに、それを受けない人には秋風が吹くことでしょう。それは、自分の時が近づいていることを知らせているのです。


  2.修練過程と七日断食

 統一教会では、二日修練と七日修練、二十一日修練、四十日修練を合わせて、原則は六カ月以内に七十日修練を受けなければなりません。これはみ言であり、法条項です。そうしてこそ、統一教会がどのようなものかが分かります。
            *
 百二十日修練を受ければ、統一教会の威信と体面を立てることのできる正会員になります。
            *
 二日から百二十日修練までを制度化しておいたので、世界のどこへ行っても共通です。
            *
 終わりの日には三大審判を経なければなりません。三大審判は、真理の審判と、人格の審判と、心情の審判です。ここでの教理は真理です。この三大審判を通過してこそ、「真の父母」と因縁を結ぶ場に参席できる権限をもつようになるのです。
            *
 皆さんが霊界に行く時、一週間以上天のために断食ができなかった時には、あの世に行って入籍ができなくなります。なぜですか。神様は六千年復帰歴史路程で苦労されたので、それを思いながら断食をしなければならないというのです。それで統一教会では七日断食期間があります。それは皆さんを苦労させるものではなく、天の前に肉身を打ったという条件を立てさせるためのものです。
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 肉身を打たなければなりません。私たち人間が「この怨讐の体、肉の塊よ! その中に血がうごめいているのだな」と言いながらナイフで刺さなければならないのを、有り難いことにイエス様が代わりに刺されたのです。それではイエス様が私たちに何を残してくださいましたか。イエス様の血と肉を残してくださいました。私たちはそのようなイエス様に代わることのできる人にならなければなりません。


 八 蕩減と奉仕と献身的な生活

  1.蕩減の道を行かなければならない

 統一教会員たちは、蕩減の道が好きではないのです。それは復帰が好きではないということです。「ああ、私は復帰するのは好きですが、蕩減は嫌いです」。こんな言葉はないのです。何が先ですか。復帰が先ですか。蕩減が先ですか。皆さんは復帰が好きで蕩減は嫌いですが、神様は反対です。皆さんはどちら側ですか。神側ですか。サタン側ですか。これをはっきりしなければなりません。皆さんは復帰が好きですが、神側では復帰を好むことができないのです。蕩減を通過したのちにこそ復帰されます。
            *
 蕩減という言葉を知ると、みんなが一番好きになるのです。蕩減がなければ福もありません。統一教会の無限な黄金の塊とは何かというと、蕩減です。蕩減は、死を覚悟してすべてのものを犠牲にし、すべての困難を克服することができる驚くべき単語なのです。
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 責任分担と蕩減は、一つは右側の立場であり、一つは左側の立場なのです。一つは右腕のようなもので、一つは左腕のようなものです。両腕のような責任分担と蕩減復帰を連結しなければ前進が不可能だということを知らなければなりません。そのようなことを考えてみましたか。蕩減は嫌いでしょう。神様も摂理もすべて嫌いですか。きょうからは新しく御飯を食べることを忘れても、寝ることを忘れても、自分が愛する人を思うことを忘れても、これを忘れてはならないことを知らなければなりません。そのように深刻なのです。
 神様もこれを通過しなければならないし、レバレンド・ムーンもこれを通過しなければならないし、全世界もこれを通過しなければいけないのです。通じないのです。みんな、ただそのまま通過したいでしょう。博士や教授の地位をただで取れますか。そのコースを経てこそ博士になるのでしょう。ただそのまま取れますか。その過程を通らなければ、それは偽物です。
            *
 蕩減条件は、自分自身が立てなければなりません。他の人が代わって立てることができるものではありません。堕落は、主管圏を失ったことを意味します。復帰のためには、他の人がある関心をもったとしても自分自身の確固とした主体性をもっていかなければなりません。他の人はどんな道を行くとしても、私が行く道は忙しいのです。横でどんな言葉を言ったとしても、ここに気を使う暇がないのです。夜寝る時間がありません。定着してゆったり座って御飯を食べる余裕もありません。そのような切迫した心情をもたなければ、復帰の道を行くことはできません。
            *
 病気になった人が病気を治すためには、薬が苦くて飲みたくなくても飲まなければなりません。私たちが薬を調べてみると、いい薬は味が苦いのです。苦いのが本当の薬になるというのです。蕩減条件を立てるのは、苦い薬を飲むように難しいことです。しかし、蕩減条件を立てなければ復帰ができないのです。
            *
 天国は、神様を絶対的に中心として侍り、それを通して愛の因縁を結んで暮らす所です。この根本を正しく立てるために神様は救援摂理をされるので、自分を前面に出せば絶対に駄目なのです。
            *
 救援の道は、蕩減し、復帰する道です。蕩減とは、堕落した経路をたどって、さかのぼって行くことです。反対に行くことです。


  2.奉仕と献身

 真の愛の道は、どのように鍛練することができるのでしょうか。献身、奉仕、そして犠牲を通して鍛練することができます。これは再創造コースだということを意味するのです。再創造コースでは、皆さんは犠牲を払わなければなりませんが、そのような蕩減の道が奉仕の道となるのです。犠牲の道を通らなければなりません。私たちが蕩減の道を通ってこそ神側に立つことができます。これは明らかな事実です。ですから皆さんは蕩減の道を通過しなければなりません。
            *
 どちら側が主体で、どちら側が対象でしょうか。誰がついていかなければならない立場にあり、誰が引っ張っていかなければならない立場にあるのでしょうか。神様はこれをはっきり知っていらっしゃるのです。神様は知っていらっしゃるのです。神側になるのです。この世の中を見下ろすと、いつも二人がけんかしているので、「どちらが私の側になるのか」と言えば、既によく知っていらっしゃる神様は「うん、ははは……」とおっしゃるのです。「私の側になる人は、いつも犠牲になり献身し奉仕する立場に立つ人だ。その方に立っている側が正義のために闘う側で、私はその群れを選択するだろう」とおっしゃるのです。いつも中心は、犠牲になり奉仕するのです。
            *
 統一教会は「ため」に行く道を取りなさい、「ため」に生きなさい、「ため」に生まれたという天理を教えるのです。
            *
 天国に行く公式は簡単です。天と地を愛したという条件さえあればいいのです。このために苦労しなければなりません。まだ、本当にこれを成した人は一人もいません。
            *
 善なる道を行く人たちは、いつも犠牲になるようになっています。それで私たちは犠牲になれと教えるのです。「他人のためになりなさい」というのは利益を得ることではありません。犠牲です。自己投入です。投入するにも、極まで達することができるその基準まで投入しなさいというのです。生命までも捧げなさいというのです。
            *
 統一教会の主流思想とは何ですか。「ため」に生きるということです。神様が「ため」に存在するのと同じように、私たちも「ため」に存在する日には民族が反対しても世界のために生きることができると知ったために、統一教会はこのようにしてきたのです。
            *
 お客を多くもてなして外部の人に多くの世話をしてあげた人がいる所には、サタンは越えて来ることができません。皆さんはこのことを知らなければなりません。
            *
 皆さんを犠牲にし、皆さんに苦労をさせてこの愛に貢献できる貢献者をつくるのは、世界を代表した愛の結実をもたらすことに貢献することによって、神様の愛を受けることができ、人類の愛を受けることのできる人をつくるためです。その運動を今しているということを知らなければなりません。神様の愛を受ける人をつくり、人類の愛を受ける人をつくるのが統一教会の目的です。
            *
 世界はより大きな摂理のために、蕩減の目的に向かっていくのです。神様が喜ばれると考える時、自分の一族が餓死するのを見て胸を痛め、心に傷を負うよりもそれ以上にそれを知り、神様を受け入れなければならないでしょう。そのような一日においてどんな十字架の道が来てもその十字架上で祈祷し、誰よりも苦労の道を行こうと決意しなければなりません。投入し投入して、忘れなければならないのです。
            *
 世界のために自分を犠牲にしようという人は、乞食のような姿であっても恥ずかしくないのです。統一教会の群れは安物のパンを食べても、麦パンを食べても、水を飲みながらも「ああ、けさの冷やしたお茶は、ごちそうよりもおいしいな!」と言って、舌鼓を打ちながら「感謝します」と言えば、天下が泣くのです。天下のためにそのような立場に立てば主体がいないので、天下が自分よりもっと低いものとなってくっつくのです。
            *
 昔は牛を引いて「どうどう、こっちだこっち」と言って畑を耕す時、気分が悪いことが多いではないですか。牛のお尻をたたきながら「この牛め、お前どうしてこうなんだ。私が精誠の限りを尽くしてこの一時のために使おうと育てたのに、何で言うこと聞かないんだ」と言いながら、むちで容赦なくひっぱたきますか。
 そうするよりも「おお、冬の間休んでいたお前にあいさつもしないで、春になったので引っ張り出し、よく食べさせもしないで仕事をさせてごめんよ」という思いで、牛よりももっと忍耐心をもっていたらどうでしょう。そうすれば天が見る時、かえってその人を近く感じられるのです。賢しく、ずばずばと臨時処置がよくできるよりも、純情をもって福を待たなければなりません。そのように、福なる心をもって生活してこそ福が訪れるようになっているというのです。
            *
 歴史始まって以来、神様のみ旨に従った数多くの宗教者は自分自らを否定する修行をしました。「犠牲になり、奉仕しなさい!」。しかし、なぜそうなのかを今まで知らなかったのです。それは本然の世界が「ため」に生きる本郷だからです。ですからその世界に行くためには、そこに行ける訓練と準備をしなければなりません。したがって高等宗教であるほど犠牲と奉仕を強要したのは、歴史時代に、神様が歴史過程を通じ摂理してこられたからです。それが歴史的な事実であることを、ここで公認することができます。神様がおられるということを公認することができるというのです。
            *
 信仰生活をする上で皆さんの心の中に、爆発的で刺激的な力をもってみ旨の世界に向かって行こうという余力がありますか。そのような心があれば、神様が皆さんと共にいらっしゃるという証拠です。反面、そのような力がないならば、神様が皆さんと分離している証拠です。
            *
 人類を愛する心がわきあがり、人類と共に自分の生命を分かちたい心が絶えないということは天に属していることを証すものですが、自体を中心とした愛と自体の価値を誇る生命力として終わるならば、自分から既に神様は離別しているという事実を知らなければなりません。そのような人の行く道の先は天ではありません。そのような人は自己を中心とした限界点に到達するでしょう。
            *
 皆さんは神様とサタンの作戦法を知らないでいます。打たれて奪ってくる道はアベルが行く道です。サタンは先に打つので勝ったように見えますが、あとになると自分がもっている自分の善なるものまでプラスして返さなければならなくなるのです。悪の側だということは、相手を打って占領したとしても栄えるのではなく、悪なるものの中にある善なるものまで奪われるのです。言い換えれば、神様はもちをついて渡しておき、それを返してもらう時にはもちにきなこがついてくるのと同じような役事をされるのです。一時は悪が栄え、善を打つ立場に立ちますが、だからと言って天が滅びるのではありません。
            *
 一瞬一瞬、必死の決意をする皆さんにならなければなりません。神様が今まで求めてこられたこの一時を無意味に失う人になってはいけません。これは千年の歴史とも替えられない価値をもったものなので、これを逃せば大変なことになります。この世をみな失って、探し出したものをすべて手放すとしても、これだけは絶対に手放さないと決意する皆さんにならなければなりません。私の生命がなくなってもこれだけは残して行くのだと、もう一度固く誓いながら、精誠の限りを尽くして前進しなければなりません。


 九 食口間の法度と礼節

  1.食口は天情で結ばれた因縁

 統一教会員たちを、私たちは食口と言います。食口というのは兄弟の因縁をもたなければならないし、父母の心情を同じくして生まれなければなりません。そうしてこそ食口となれるのです。同じ父母をもち、同じ兄弟の因縁をもたなければなりません。父母の生活と習慣と伝統を、ただそのまま相続しなければなりません。そうして天が喜ぶことができる家庭形態をもたなければなりません。そうしてこそ食口となるのです。
            *
 今日、私たちは手と手を取り合って集まりました。老若男女を問わず、見知らぬ他人同士が集まりました。私たちには血が通じています。私たちには天情が通じています。出発が聖なるものだったので、結果も聖なるものでなければならないのではありませんか。
            *
 私たちがもって生まれた因縁は、立体的な因縁だということを知らなければなりません。今まで歴史上にあったある思想を基調として出てきたものではありません。神の心情と神の創造理想を基調として、本性の人格を標準にして始まった因縁なのです。これはすべての因縁の核心なので、絶対視しなければなりません。
            *
 私たちは違う因縁によって集まった者たちです。ですから兄弟ではない者たちが集まりました。兄弟ではない者たちが集まって、肉身の兄弟たちを主管しなければなりません。それが違うのです。兄弟ではない者たちが自分の肉身の兄弟を主管しなければなりません。そうでなければ皆さんの家は皆さんと因縁がないのです。事実それは自分が直接できないのです。ですから私たちは、兄弟にもっとよくしてあげなければなりません。
            *
 食口に対する時には、その人を傷つけないように注意して、また信仰生活の助けにならない言葉を言ってはいけません。
            *
 食口がある困難があったり、ある環境にぶつかって苦難に遭う時、お互いに自分のことのような心情で、同情する心をもたなければいけません。
            *
 先生は、食口を非難し、食口を謀害する(注:謀略で人を害する)のを見ると我慢できない人です。世界を愛したい心があれば、その愛をどこからしなければならないでしょうか。私たちの間からしなければいけないというのです。東西南北から別れて一つの因縁に従って集まった私たちが、お互いに愛し合おうということです。顔を見なければ生きられないのです。会わなければ駄目だと言うのです。このような因縁で連結されているので、統一教会はそれでも、この悪なる世の中とは違う何かをもっていると自負しているのです。これを忘れてしまっては私たちは何にもなりません。
            *
 私たちは素晴らしい人たちです。世界がうらやましがり、天と地がうらやましがり、霊界のすべての聖人と賢哲たちがうらやましがる堂々とした生涯を歩んでいる、天が捨てることのできない、天が称賛するだけでなく訪ねてきて愛そうとすることのできる、そのような背景と内容をもって生きる素晴らしい男たちです。
            *
 善なる先祖をもった後孫がここにいれば、先祖たちが積極的に協助するというのです。そのような立場に皆さんが立っているのです。
 このような立場にいる皆さんがよく素晴らしく闘い、行く先々で百戦百勝の戦績を立てる時、霊界では永遠に喜ぶのです。このような皆さんになれば雑神(注:正体の分からない様々な鬼神)が出てきても驚いてひっくり返るでしょう。そのようになっています。ですからこのような先祖たちは皆さんに、王様に仕えるように侍るでしょう。皆さんはこのように感じなければなりません。
            *
 六千年の結実体が落果のように熟さずに落ちてもいいでしょうか。ただ風が吹くのではと心配しながら「ああー、私が落ちそうだ。もうちょっとだけ吹けば落ちてしまうでしょうから、先生、揺すらないでじっとしていさせてください」と言っていいでしょうか。ここにはこのような輩もいるでしょう。反面、「先生が斧で強く襲いかかり、枝を思いのままに揺らしても引き裂かれるまでは絶対に落ちません」という群れもあるでしょう。皆さんはどの輩に属しますか。風が吹くかと心配する輩ですか。揺らしても落ちない輩ですか。
            *
 皆さんがここに来た目的とは何ですか。それはある環境的な問題を解決するために来たのではなく、人間の根本問題を解明し、絶対者から認定を受け、確定を受け、その絶対者の前に立つことができるようになるために来たのです。
            *
 統一教会では争いがあってはいけません。ここは、お互いに愛し合うために集まった所です。愛を受けようとするのではなく、愛を与えるために集まった所です。それでは、愛する方法はどこで学びますか。先生から学ぶのです。先生と会って、先生を愛したい気持ちが生じなければいけません。そしてお互いに会いたいし、与えたい愛を、兄弟たちに与えなければいけません。そうすれば神様は、その何倍も返してくださるというのです。親は、兄弟がお互いに愛し合うことを喜ぶからです。


  2.食口の間にカイン・アベルの関係がある

 統一教会員たちを中心に見る時、カイン、アベルとは誰かと言えば、横的には先に入ってきた人がアベルで、縦的には新しく入ってきた人がアベルです。縦横関係を見る時、横が縦を重要視するのであって縦が横を重要視するのではありません。このようになるのです。
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 アベルになる秘訣とは何ですか。伝統を守ることです。死に遭遇しながらも反発しない人が、アベルになるのです。皆さんは、これを知らなければいけません。イエス様を小羊だと言ったでしょう。ですから、たとえ刺されたとしても反発してはいけないのです。
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 アベルはカインを愛さなければいけません。愛で自然屈服させなければいけません。血と涙で愛する立場に立たなければいけません。誰よりももっと高い愛を与えなければいけないのです。そうでなければ屈服させることができず、復帰ができないのです。私たちは既成教会のために、大韓民国のために、北韓のためにそのようにしなければいけません。それで先生が今北韓のために祈祷しているのです。
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 アベルは何をしなければいけないのでしょうか。三代復帰をしなくてはいけません。最初に、カインを復帰しなければいけません。次に、父母を解放してあげなければいけません。その次には、神を解放してさしあげなければなりません。このように三代の使命があるというのです。言い換えれば、サタン世界を解放してあげなければ、父母が出てくることができず、父母を解放してあげられなければ神が解放されません。この三代解放圏の責任をもつのがアベルの使命です。
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 教会を中心に誰がアベルで、誰がカインかを分別することができなければいけません。二人いれば必ず一人はアベルで一人はカインだということ、三人いれば二人がアベルになることもあるし、カインになることもありますが、一番中心的なアベルとカインがいるということ、これを皆さんが確実に分別することができなければなりません。
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 カインとアベルが一つになれず、分かれてはいけません。一方は正しいほうであり、一方は悪いほうです。ですから誰でも私の神様であると同時に、あなたの神様であり、私を愛するだけでなく、あなたを愛する神様であるという信仰の立場で、お互いにアベル的な存在を求めて侍り、カイン的な立場を避けて最大の努力をしなければいけません。もしそのような人になれなければ、いつか一度は天の審判にかかってしまうということをはっきりと知らなければいけません。
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 カインとアベルは、どんなところで決定されるでしょうか。カインとアベルは、楽ないい所で決定されるのではありません。カインとアベルが必要なのは何のためですか。それは蕩減復帰するために必要なのです。蕩減復帰しようとするにはどのようにしなければいけませんか。祭物にならないといけないのです。
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 神様はアベルをどんな場で決定するでしょうか。サタンの讒訴を受けない場で決定するのです。サタンの讒訴を受けない場はどんなところでしょう。神様と一体となった立場ですが、その場は喜びの場ではなく一番悲しい立場、一番大変な立場です。言い換えれば、死のうとする場、一番悲惨な場で神様と一体となることができるというのです。


  3.誰がアベルで誰がカインなのか

 統一教会員の中で「私が先に入ってきたのでアベルで、あとから入って来た人はカインなので、私に侍りなさい!」と言う、このような気違いたちがいます。アベルとはどのような人ですか。神様のみ意どおりにする人がアベルです。より公的な人がアベルです。カインとは何ですか。サタン側です。サタンは、自分を考えるところから出発したのです。アベルは、自分を考えず神様を考えるところから始めたのです。これを知らなければいけません。
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 先に入ったといっても我欲を張る人はカインです。自分の思いが先に立つ人はカインです。先生はこのような原則で人に対します。どんなに古い食口でも、その心が自分のためにするようになる時は見向きもしません。今は仕方なくそのままにしていますが、時が来れば荷物をまとめさせて追い出すのです。先に来たからといってアベルではありません。私的な基準が先になることはカインです。自分より公的な問題、天をもっと考えることがアベルです。
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 ここの統一教会員同士、兄弟を決める上で、先に来た人はアベルの立場であると同時にカインであり、あとから来た人はカインの立場であると同時にアベルです。
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 原理的な立場ではアベルが中心です。この中心の中には神様が入っていらっしゃらなければいけません。ところで皆さんはアベルになりましたか。アベルになるには従順に従わなければいけません。神様に従順に従って一体にならなければいけません。神様と一体になるには神様が「しなさい」と言うとおりに、すべてしなければいけません。神様が「しなさい」と言うことをすべてできなければアベルになれません。九十九までしたとしても、一つができなければアベルになれないというのです。
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 統一教会員の中でどんな人がカインですか。頭を突き出し、あごで人を使う人たちがカインです。それではアベルはどういう人ですか。責任を果たそうとする者がアベルです。本来は先に入ってきた人がカインなのに、先に入ってきた者がアベルの位置で威張り散らします。それは自縄自縛になるのです。そんな人がどんなにいろいろなことをしても、原理原則どおりにしなければ先生が使ってあげないのです。
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 アベルはどんな存在で、カインはどんな存在ですか。原理で見て端的に言えば、カインは自分に心配事があれば、その心配を他の人に覆いかぶせようとする人です。アベルは自分に心配事があっても、他人の心配事まで引き受けようとする人です。その差です。
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 どんな人がアベルで、どんな人がカインかと言えば、侵害される人がアベルで、危害を加える人がカインです。例えば、父母の前に二人の息子がいて、上の息子は年を取っていて下の息子は年が若いとしましよう。ところがその父母の相談相手とかすべての面において、父母に代わることができる息子は長男だけだとしても、下の息子が何も失敗せず間違いも起こしていないのに、この長男が下の息子に手を出せば、父母は上の息子の側に立つのではなく下の息子の側に立つのです。これが今日、社会で適用される善悪の批判基準だということを知らないでいるのです。危害を加えた者がカインになるのです。
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 教会のために熱心に働いて精誠を捧げる人を見て、「あの人は他の人と違ってあれは何だ」と悪口を言えば、既に彼はカインになるのです。皆さんがそれを知らなければなりません。カイン・アベルはそのように分けられるのです。罪がない立場で批判される人、被害を受ける人は必ずアベルになるのです。批判する人、危害を加える人はカインになるのです。
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 話をしたとしても、他人に利益を与える言葉を言う人はアベルになるのです。害を及ぼすような話をする人はカインになるのです。私が他人に利益を及ぼすというのは利益を与えることですが、自分の利益のために何かをするというのは害を与えるのと同じです。ですから他人の利益になるようにするのは公的な立場です。自分の利益のための立場は私的な立場です。このような意味で、公と私を中心としてアベルとカイン、善と悪が分かれるのです。これを皆さんは知らなければなりません。
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 より公的な存在がアベルです。統一教会の教会員の中には、先に入ったのでアベルだと考える人がいますが、先に入っても公的な立場に立てなければカインです。間違いなくカインです。カインも自分が先に生まれましたが、アベルより公的な立場になれなかったのでアベルに従わなければならなかったのです。統一教会員の中でも先に入って来たと傲慢に「私が先に入って来たのでアベルだ」と言っている人がいるかもしれません。しかし、あとで入って来た人より公的な立場に立てなければカインです。アベル的な存在はより公的な立場に立った人です。
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 先生が一生涯をすべて捧げて自分の利益より公的な利益のために犠牲になり、そのような材料ならば材料、量ならば量を多く投入したことを隠しているので、皆さんが自然に敬うようになるのです。それが原理です。それが天運なのです。
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 アベルの完成は、個人的アベルの完成、家庭的アベルの完成、氏族的(宗族的)または民族、国家、世界的アベルの完成の基盤を引き継いでいかなければ、世界天国復帰というのは不可能なのです。それを知っている私たちは、夜昼やって来るその日その日にこの原則を適用させ、この原則の発展を連結させるために休みなく走ることができなければなりません。そのような人を「天の人」と言うことができるのではありませんか。分かりましたか。


 十 他人との人間関係

  1.人にむやみに対するな

 人にむやみに対するなというのです。それで一九七〇年まで本部では、「通りすがりのおなかをすかせた人は誰でも食べていきなさい」と言っていたのです。おなかをすかせた人に御飯をあげるのは人間の道理です。もらった御飯でも分けて食べるのが道理です。米櫃にお米を入れておいて、「通りすがりのおなかをすかせた人が御飯をもらって食べる」と言ってけなせば、その家は長く続きません。
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 かわいそうな人を見れば、助けてあげるために、すべての物をあげたくなる時もありました。与えたい心、助けてあげたい心をもって欲するようになる時は、神様も褒めたたえます。自分だけ食べて生きようとするのではなく、全体を良くするために、現在は苦しいけれども未来を良くするために欲心をもつのは良いことなのです。
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 ただ飯をたくさん食べさせてはいけません。ただ飯を食べさせると同時に、公的な心を多く働かせなければならないのです。それが福を受ける道です。ただ飯をたくさん食べさせると同時に公的な心を多く働かせた人、そのような人は誰も嫌いません。
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 人を無視してはいけないのです。「一寸の虫にも五分の魂」と言うでしょう。それは必ずそうだというのです。死ぬ時、恨みを抱く、その恨みを買う人は先が長くないのです。
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 人に対することを面倒くさがってはいけません。義務的な過程では復活の役事が起こりません。おもしろさがなければなりません。時が過ぎるのも知らずに夜を明かし、天国がここしかないというところからのみ、天国に行くことができる価値が発見されるのです。そうではありませんか。木も完全に密着されてこそ接ぎ木できるのではないかというのです。
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 先生は、私たちが食べられなくても訪ねてきた人に良くしてあげようとします。彼らが百ほどの基準の道を修めれば、その基準以下で対しては私たちがふさがってしまうのです。審判されるのです。そのような時は倍以上、三倍、五倍、十倍以上してあげるのです。そのようにしてあげたとしても滅ぶことはないのです。そうすれば天が感服するというのです。「こいつ、天より優れている!」と言うのです。
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 じっと見てみると、良い家は犬が糞をしてもその家の庭の隅に行ってします。ところが主人が「こらっ、この犬め! この町の犬はなぜみんなうちの庭の中に来て糞をするのか」。このように不平を言う人は福を追い出すのです。「さあ来てやりなさい、さあおいで」そのようでなければならないのです。
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 闘うなと言うのではありません。二人ともよくなる時は闘うのです。一人が滅ぶ時には闘ってはいけません。闘うとしても、自分の味方をつくり教育するために闘わなければならないのであって、怨讐になるために闘ってはいけないのです。
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 与える時は、父母の心をもってあげなければなりません。自分の欲望と野心をもってあげてはいけないのです。父がそのようにされたので皆さんもそのようにしなければなりません。
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 人を愛するのに惜しむな。何を投入したのか記憶するな。もっとあげたい……。ですから皆さんが良い食べ物があったとき、隠して一人で食べる人ならば、くたばって死んでしまう者だというのです。食べ物があればそれを食べないでとっておき、私が食べられなくても与えたい、一人では食べられないと食口を思う、そのようにできる人にならなければなりません。そのような父母の心をもった者とならなければならないのです。
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 与えるには、どのようにして与えなければならないのでしょうか。食べ残した物を与えてはいけません。残り物をあげれば、食べ終わっても気分が悪く唾を吐くのです。おもちをあげるとしても、五つあれば五つの中であれこれ取ったり置いたりして選んであげる時は、かえってあげないよりも気分が悪いというのです。他人にあげるのに、五つあれば半分くらいそのまま取って相手にあげれば、有り難いと思うでしょうが、あれこれ取ってからあげれば世話になった人は、世話になったあとで批評するのです。ですから相手にあげるには、神様と共に父母の心で与えなさいというのです。


  2.他人との人間関係

 今日、人間たちは人に対してとても無関心です。横的関係において、横的な因縁を中心として互いに尊重することが少ないのです。老若男女を問わず、人に対してみな面倒に思っています。人が面倒に思うようになれば道義の道を行く人になることができません。
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 神様と一致した人になって万物世界、またはこの世界に、神様の愛に代わって一人で、全体に対して情緒的な基準で横的関係を広げ結んでいくのが、信仰者たちがしなければならない生活だと見るのです。生活でこれが結ばれなければなりません。生活でこれを成さなければならないのです。そうするには、皆さんがそのような神様の心情に代わって対人関係を結ばなければならないのです。
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 人と人が会うところは……。ビリーヤードをすれば玉同士が当たってあちこちに転がるでしょう。これがおもしろさです。おもしろさ。人と人の出会いもそのような作用をするのです。それがぶつかれば引っ張って一つになり押し出す、そんな気分になるのです。皆さんがサッカーボールをけっても、そのボールが上がったり落ちたり、変化が多いほうがいいでしょう? 同じなのです。
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 私たちが五感を通し感じる、感覚の一切を統合して、この命、または愛とどのくらいの関係を結んで生きるかによって、人間としてどれくらいの価値をもっているかという問題が左右されるのです。ですから私たちは、私たち自身が生命力と加重された愛の心をもって対人関係を結んで社会生活をしてきたのか、という問題を考えざるを得ないのです。もしそのような立場に立っていることができなければ、停止するか、そうでなければ後退するということを知らなければなりません。
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 神様が復帰摂理をしてこられるのに、私たちの大韓民国だけを必要とするのではありません。世界人類をすべて必要とされるのです。ですから人に対する深い関心をもって出てこられるのです。これは今まで神様の摂理の中で一番重要な目標でした。私たちがその目標を成すために集められたとすれば、神様と同じような立場で関心をもって対することを知らなければなりません。
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 すべての人に対する時、欲心をもって対してはいけません。
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 善なる人になるためには、悪を他人のことと考えるのではなく、自分の痛みとして感じ、夜を明かして彼らのために涙で祈ってあげ、彼らの罪を贖罪するために祭祀を捧げる心をもって暮らさなければなりません。そのような人は、悪なる人の本性の中心存在にならざるを得ないのです。
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 良い人は少年も愛し、青年も愛し、壮年も愛し、お年寄りも愛することができなければなりません。また、自然に対して人が主体的な立場に立ったならば、その主体的な人は春も好きになり、夏も好きになり、秋も好きになり、冬も好きになるのです。
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 愛することにおいて、最も愛し尊敬し敬わなければならない人はお年寄りです。若者には会うだけでもいいですが、活動するにも不自由で力も不足し第三者のお世話にならなければならない老人たちには、もっと愛さなければならないし、同情もしなければならないのです。ところが、そのような風潮をこの世の中では見いだせないのです。
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 人を愛するといって、若者だけを愛してはいけないのです。愛するのは、お年寄りから幼い子まで、すべての人を愛さなければなりません。最近の青年たちを見れば、お年寄りを相手にしないようにしますが、それではいけないのです。お年寄りも愛さなければならないし、若者も愛さなければならないのです。
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 人を愛さなければなりません。人を愛し、人を恋しがることにおいてどんな団体よりも強くなければなりません。これが人間のみ旨ではなく、神様のみ旨を中心とした集まりだとするならば、必ず全世界に愛の実として残ることでしょう。木々が山を覆うように生い茂る時には、どれが松でどれが柾なのか見分けるのが難しいです。しかし秋になり、冬になれば分かります。冬になって、枝と幹だけの木々の中に緑の木が見えたならば、それは希望を呼び起こすのです。それは新しい因縁が結ばれることを象徴するというのです。
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 「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)これが一番目の戒めであり、二番目は「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(同二二・三九)というのです。一番目の戒めは神様を愛し、二番目の戒めは人類を愛することです。隣町ではありません。人類を愛せよというのです。人類とは、兄弟であり隣人なのです。
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 驕慢は怨讐です。驕慢と固執はサタンの本職です。サタンの要素です。それで私たちは驕慢の代わりに謙遜、固執の代わりに和合をしなければなりません。和而有親です。この人にもよくしてあげ、あの人にもよくしてあげる人にならなければなりません。そのようになってこそすべてのことに通じるようになるのです。あの人この人、二人が一つにならなければ大きいものが出てこないのです。和合しなければそのようになるのです。サタンの本質にはねたみと嫉妬のようなものもありますが、驕慢と固執は私たちには許すことができないものです。
























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