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礼節と儀式
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 第四章 祝福家庭の伝統と生活礼節

 一 祝福家庭の生活法度(方式)

  1.家法と礼節がしっかり立たなければならない

 今まで私たちはめちゃくちゃに生きてきたし、言葉もめちゃくちゃに話してきました。しかしこれからは、私たちの家庭でも規律を立てなければなりません。父母が、怒りがわきあがるといって子供を自分の気分でたたいて「こいつはどうしようもないやつだ」と言うような、この世的な俗な言葉を使ってはいけません。これからはすべてが一新されなければなりません。神様を中心として言葉から、態度から、生活から一新された立場に立たなければならないのです。
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 習慣性で生きる家庭になってはいけません。家庭は四位基台を成すことのできる基点です。ここでは家庭の一体化が要求されます。神様が願われる本来の基準の前に一致しなければなりません。
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 本家が栄えるためには、先祖から引き継いできた家法というか、礼法を良く受け継いで実践しなければなりません。「そんなものどうでもいい、私と何の関係があるのか」と言うような人は、本家の子孫になることはできません。もしそのような人が本家の長男として生まれたとしても、そうなることができないというのです。
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 神様から受けた純粋な血統を私たちがどのように保有するのかが問題です。堕落した血統ではなくて、純粋な血統をいかに保存するのかというのです。そのために本当に悩まなければなりません。汚染されていなかったエデンの園でも堕落したのに、この罪悪世界できれいになっていくということは、とても難しい問題なのです。罪悪世界で生まれた父母は苦労をしたとしても、祝福を受けて生まれた子供たちには汚染されていない環境をつくってあげなければなりません。私たちが犠牲になっても二世たちのためにそのような環境を早く準備しなければならない、というのが先生の考えです。急がなければなりません。
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 罪の世界から解放されようとするなら韓国の国民であっても、私が韓国の国民であるという観念をもってはいけません。韓国の国民だと思う前に「私は神様の人だ。天の民だ。天の人だ」という観念をもたなければなりません。世界が使っている言語、着ている服、はいている靴、女性が使っている化粧品、このような風習と習慣の中に染まった罪の本性を無慈悲に切れるように、刃物を持った生活をしなければなりません。これが罪の世界から解放されるための生活です。この世の歴史、習慣、環境の悪習に勝利しなければ、罪の世界を主管する道はありません。真の人になりたいなら、真の国を見つけたいなら、天国に行きたいならば、環境的なすべての悪の条件から解放されなければなりません。
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 習慣的で世俗的な家庭ではいけません。「今はこうだが、後日には良くなるだろう」と思ってはいけません。既に完全になっていなければなりません。現在が問題になります。過去と現在が完全であってこそ未来も完全になることができます。エデンの園でもこのような一日をもてなかったことが、堕落したという証拠です。過去と現在と未来が一致する立場が理想的な立場です。現在を捧げることができなければなりません。地上で永遠の足場になってほしい、というのが神様の願いです。これが歴史的な総合点です。
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 イスラエル民族がカナン復帰をしたのちに滅亡してしまったのは、彼らが既存の環境に同化し習慣化してしまったからです。彼らはより良い生活をし、より多く食べる豪華な生活に気持ちを奪われてしまったので、滅亡したのです。異邦人であっても金持ちだったら結婚しました。また権力を貪欲に欲し、知識を好みました。彼らは結局既存のカナン文化に同化して、選民の精神をないがしろにしたので滅亡してしまったのです。
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 習慣は最も直しにくい悪い癖です。皆さんが結婚して子供を育てながら習慣的な生活をするようになると、それが身についてしまいます。そのような環境の中では特別な精誠や祈祷をする時間がないのです。子供たちがそばで騒ぐので、祈祷の時間がないのです。
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 これからは刃物を持って切るものは切り、解剖するものは解剖しなければなりません。皆さんが自分勝手にしてはいけません。統一教会は天国を成さなければならない教会なので、個人でなく、家庭を見つけなければならないのです。家庭生活で手本になることのできない人は世界的な非難を受けるでしょう。全天宙的な非難を受けるはずです。
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 祝福とは責任を果たしてこそ貴いものです。男性はこぶしを使い、女性は口を使ってはいけません。この世的な悪口を言ってはいけません。何かが変わらなければなりません。すなわち、家庭は小教会です。天の代行機関として行わなければなりません。天が訪ねていきたい家庭にならなければなりません。最低限三家庭が一カ所に住まなければなりません。特別にきょうを期してお話ししたいのは、まず大勢の人が往来できる家庭にならなければなりません。人の和が最も大切です。それから二番目には天の家庭同士が団結しなければなりません。最低限三位基台になった家庭同士だけでも完全に一つにならなければなりません。
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 私たちは個人を主とするのではなく、家庭を主としなければなりません。かといって家庭のみを中心としてすべてのことを清算するのではなく、全部連結しなければなりません。ですから昔一人で修行生活をした時の努力をもってしてはなせません。昔努力したことの何倍もの努力をする、という決意と覚悟を付け加えなければなりません。悪に対して挑戦していく生活は、うっかりすると疲れて後退しがちです。家庭をもったときは一人のときよりも何倍も努力しなければなりません。家庭は中心をつかんだ立場です。私たちは現実を避けることはできません。前後、左右、上下の関係を家庭で成さなければなりません。過去の信仰形態をもってはいけません。過去の一方的な信仰態度ではいけないのです。
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 家庭の伝統を立てて、祝福家庭は家法を作らなければなりません。そして子女の教育基準と家庭の規範を作らなければなりません。そうしなければ、もし父母に何かあった時とか、子女に追及された時には言い訳ができないというのです。


  2.めちゃくちゃな生活をしてはいけない

 個人の生活をこうしなければならないということを確実に究明しなければならないし、また家庭の生活はこうしなければならないということも確実に究明しなければなりません。過去には漠然と生きて生活してきましたが、これからは具体的に生きていかなければなりません。
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 神様のために、静かに自分にあるすべてのものを犠牲にする時には、神様が私を擁護します。神様は必ず私の味方になります。
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 皆さんの家庭は愛の家庭にならなければなりません。そして皆さんは愛を中心として公的な夫婦になり、父母にならなければなりません。自分たちを中心とした私的な夫婦や父母になってはならないのです。父母が天に行く道から脱線しまいと精誠の限りを尽くせば、子供は絶対に親不孝ができません。
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 家庭を復帰しなければなりません。それ以上の伝道はありません。夫婦が早朝に起きて、子女の手を握って、涙を流して祈祷しなければなりません。そうして父親や母親が外出していない時、子供たちが父母を待ちながら慕って歌うことができなければなりません。
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 一人でいる時には、祈祷するとすべてのことがうまくいきました。しかし家庭では、反対する人がいると、その十字架を背負って本然の基準にまで突き抜けて行かなければなりません。個人は客車であり、家庭は機関車と同じなのです。個人が失敗したものを復帰するのは簡単です。しかし家庭的に失敗すると破綻します。
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 子供たちがよく「お父さん大好き! お母さん大好き!」と言います。そのように、お父さん、お母さんが好きだと誇れることが、子供たちの安息の場なのです。
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 家庭を中心として父親が「よいしょ」と言うと息子も「こらしょ」、息子が「よいしょ」と言うと父親も「こらしょ」と言うことのできる基盤が必要です。しかし子供がいると言っても、国がなければ何の意味があるでしょうか。国がなければ一番も何も、何の意味もないのです。
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 祝福家庭はすべての人々の希望の標的です。しかし付加された責任を果たせなければ失望の家庭になります。


 二 信仰生活で模範となる家庭

  1.信仰生活が子女教育になる

 聖日の礼拝時間の前に行って、準備する人が何人いるか考えてみてください。聖歌を全部歌って説教の時間になると、その時にぴったり合わせて入ってくるのです。そのような人たちをどうしてみ旨に従っていく人たちだということができるでしょうか。いくら弁解しても、公的な生活ができずに私的な生活をしているということなのです。そのような人たちには希望をかけ、期待する何の内容もないのです。ですから皆さんは新しくみ旨の前に覚醒して、公的生活の徹底化、私的生活の模範化を決意していかなければなりません。
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 祝福家庭は残らず礼拝時間の前に来て、礼拝に参加する大勢の生命に恩恵の雰囲気をつくってあげて、恩恵を及ばさなければなりません。そして牧会者が壇に立つ前に心情的な基盤をつくって支えてあげるようになると、説教をするにおいて食口たちの切実な表情を眺めて刺激を受けることができるのです。そのような要因が多ければ多いほど教会は発展します。
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 公式的な記念日や集会があればそれを生命視して動かなければなりません。そうでない家庭は祝福家庭として落第です。
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 礼拝時間を迎えるために早朝から精誠を捧げ、その日を神様の前に捧げることを生活化するように、子女たちに教育しなければならないにもかかわらず、自分勝手に何でもしています。み旨のための生活をすると言いながらも祈祷をするでもなく、精誠を捧げるでもなく、原理の勉強をするでもなく、伝道をするでもなく、何もしなくてもいいのでしょうか。聖日の礼拝時間が十時三十分ならば、その時間に合わせて参加するためには、九時三十分とか十時には出発してこそ礼拝時間の前に到着するでしょうに、時間になってから家を出発して、礼拝中に入ってきてそっと座るというのです。そうなると必ず批判されます。いくら父母の立場で子女を教育したとしても受け入れてもらえないのです。
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 父母がみ旨のための生活の模範にならなければなりません。家庭で祈祷生活とか、家庭礼拝とか、どのような面でも一生懸命にする信仰生活を、子女たちに見せなければなりません。また、敬拝の時間がどんなに重要かということを認識させてあげなければなりません。その時間には敬拝式だけで終わるのではなくて、み旨を中心として、父母として子女たちを教育しなければならないのです。
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 祝福家庭は天に侍る生活で手本にならなければならないし、献金、敬拝式、伝道などを生活化しなければなりません。
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 聖日は一週間を節約して計画しておいて、食口たちが喜べる内容を与える日です。また聖日には共に集まって準備しておいた食事を分けて食べ、各家庭が互いに自分の夫や妻を自慢しなければなりません。
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 早朝敬拝、精誠、礼拝の時間を厳守できないのに自分の息子や娘の幸福だけを願ってはいけません。したがって先生を中心として四位基台を成さなければなりません。それからここで後孫を立てるなら父母がしっかりしなければならないのです。
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 祝福家庭は聖日や公的な集会に参加する手本にならなければなりません。
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 食口はどこに行ってもまず聖なるところ、すなわち聖地や教会をまず訪ねたりしますが、そうできなければ、そのような条件でも立てなければなりません。皆さん各自は個人でありながらも、個人にのみとどまった存在ではないということを心に刻まなければならないのです。また皆さん各自は先祖の立場に立たなければなりません。
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 各家庭は白い座布団を作りなさい。そして、きれいな場所を準備しなさい。その座布団に座って精誠を捧げる時間をもつようにしなさい。
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 寝ても覚めても、食べても、休んでも、見ても、何をしても、すべてみ旨を中心としてしなければなりません。
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 精誠を尽くして皆さんの父母を伝道しなければなりません。一つのみ旨の前に共に天の祝福を受け、祝福家庭の囲いをつくるようになれば、それ以上の幸福はないのです。


  2.祈祷生活は御飯を食べることよりも重要

 祈祷をしなければなりません。祈祷の時間を定める時は早朝にしてみて、朝もしてみて、昼にもしてみて、夕方にもしてみて、夜にも十時にしたり十二時にしたりしてみるのです。そのように長年の間祈祷生活をしてみて、何時から何時まで祈祷するのが自分に一番合う時間なのかを知らなければなりません。それを知って、自分に合う時間に精誠を捧げなさいというのです。
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 できれば恩恵基準の高い人を中心として共に祈祷しなさい。そうすると、その人によって恩恵を受けるのです。もし夫が自分より恩恵の基準が高く信仰生活も模範的ならば、その夫によって恩恵を受けるようになるのです。そのように恩恵を受けるようになると、夫がこの世に二人といない美男子に見えるというのです。また夫が妻を通して恩恵を受けるようになると、その妻がこれ以上の美人はいないというくらいに美しく見えるというのです。この世の女性の中でも一番だというのです。本来夫婦はそうでなければなりません。それで目を開けさえすればじっと見ていたいし、夜を明かしてもひそひそと話したくなるのです。それは滅びることではなくて栄えることです。
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 御飯を食べる時間が一日にどのくらいになりますか。一時間半くらいにならないですか。一日に平均一時間半御飯を食べて生きるとすれば、霊的なことには御飯を食べる時間よりももっと多く投入しなければならないのです。それは、先生の今までの長年の間の信仰生活で分かったことです。
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 祈祷すれば必ず成されます。祈祷することによって力を受けます。祈祷することによって、これからこの問題がどうなっていくかという展望をみな教えてくれるのです。「このことはこうして、このことはこうするのだ」と教えてくれるのです。それを知ってこそ大きなことができるのです。祈祷によってのみその道を開拓することができるのです。祈祷が御飯を食べることより重要だということを知らなければなりません。
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 私たちが行かなければならない道は、いずれにしても、かき分けて行かなければならない道です。それが、私たちの力のみでは不可能なことを、生活するほど感じるようになります。ですから信仰者は祈祷をしなければならないということを知らなければなりません。
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 祈祷しなさい。祈祷は心情の補給倉庫です。時間がなければ、していることを通してでも祈祷できなければなりません。
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 洗濯をしながらも、道を歩きながらも祈祷しなければなりません。倉庫にどんどん積まなければならないのです。空けておいてはいけません。
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 常に祈祷する生活をしなければみ旨の道を行くことができません。皆さんは生活化するにおいてお金のことを考えるのではなく、み旨をまず考えなければなりません。
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 皆さんは神様を背後とすることのできる、神様の息子や娘になったのでしょうか。神様を背後とするなら常に神様が共にいて、皆さんが神様と共にいられる人になっていなければなりません。小犬のように母親の懐を離れて独りで歩き回っては母親の保護を受けられないのです。


  3.祝福家庭は族長

 一九六八年度に四三〇家庭を祝福した時、先生が指示したとおり氏族的メシヤになれというのです。その使命を果たさなければなりません。先生を中心として協会に三十六家庭が組織されているように、金家ならば金家で先に祝福を受けた家庭を中心として金家の三十六家庭型がなければなりません。三十六家庭にならなければ十二家庭型の先祖でもつくらなければなりません。そうして皆さんが、皆さんの氏族の先祖になって新しい支派編成をしなければならないでしょう。 それが十二支派型なのですが、それを形成したらその十二支派圏内に全部入るのです。これが直系の氏族です。
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 現在の祝福家庭は伝統の先祖なので重要です。氏族の前にメシヤ的家庭になってこそ伝統が立てられるのです。
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 これからは祝福家庭を中心として氏族が成されていきます。そうすることによって皆さんは、氏族的メシヤとしての使命を果たさなければなりません。これからの教会は族長を中心として成されます。祝福を受けた人たちは全部族長たちです。
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 新しい家庭と氏族の基盤をつくったので氏族復帰という歴史的な驚くべき恵沢圏内に入ったのです。それで皆さんには父親、母親を伝道することができ、お兄さんやお姉さんを伝道することのできる時が到来したのです。復帰歴史は家庭を探し立てるためのものですが、他の家庭を復帰するよりも自分の血肉を通して復帰したらどんなに早いでしょうか。皆さんが、父母や兄弟を伝道しなさいという話を聞くことができるのは、先生一代においては夢のような話です。
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 皆さんはその基盤の上で、皆さんの代に氏族的な基盤をもつことができるというのです。ですからどんなに栄光でしょうか。これを知って感謝しなければならないにもかかわらず、その責任に耐えることができなければ、その家庭が責任追及を受けなくて済むのかというのです。このような立場で責任も責任ですが、これからはその家庭が氏族的メシヤの使命を果たさなければなりません。
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 地獄という所は、一度はまったら抜け出すことのできない所です。それでも皆さんは自分の母親や父親、そして親戚が地獄に行くというのを実感することができません。何とかなるだろうと思っているのです。しかし、愛する父母が本当に地獄に行くと思ってください。この世の監獄に入るといっても、泣きわめいて、できることならどんなことをしてでも引っ張り出そうとするのが人情なのに、ましてや天情で結ばれた息子や娘、自分の父母と親戚、兄弟と姉妹、すべてが永遠に出ることのできない監獄に行くのを知ったなら、そうするでしょうか。
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 祝福家庭の男性はイエス様の実体の立場であり、女性は聖霊の実体の立場です。すなわち、イエス様と聖霊がイスラエル民族を救おうとしたのと同じように、生きてこの民族を救おうと躊躇せずに進んで行く立場が正に祝福家庭の立場です。ですから祝福家庭は氏族的メシヤとして出発することができるのです。
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 皆さんは家庭を率いてイスラエルの地を訪ねていかなければなりません。皆さんにはそのような責任があります。イスラエルの十二支派が、自分に分配された地を訪ねていかなければならなかったように、皆さんはこれから家庭を導いて氏族的な基盤の相続地を訪ねていかなければなりません。
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 皆さんを氏族的メシヤとして送ったのは、どうしてでしょうか。昔はイエス様が霊界からこの地上に縦的な過程を通して送りましたが、今日文総裁は天を代表した神様の立場で氏族を代表することのできるメシヤ型の数万の家庭を世界に派遣したのです。これからは滅びません。一九八九年一月三日午後二時三十分に氏族的メシヤを宣布したのです。
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 氏族的メシヤは一代において、氏族を中心として歴史的な故郷を案内する先鋒者だということを知らなければなりません。モーセのような出エジプトの先鋒者であることを知らなければなりません。盲目的ではないのです。モーセは何も知らずにしましたが、私は具体的に全部知っているというのです。理論的にみな知っているのです。故郷を訪ねて行かなければなりません。しかし、カインを探し立てなければ故郷に入ることはできません。
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 なぜ氏族的メシヤとして責任分担を果たさなければならないのでしょうか。一番目の理由は、皆さんの父母を救わなければならないからです。父母は第一のアダムの立場であり、皆さんは第二のアダムの立場にあります。父母を復帰して、再創造してアダムの使命を完遂しなければなりません。二番目の理由は、皆さんには故郷が必要だからです。氏族的メシヤの使命を果たすことによって自分の故郷がもてるようになるのです。結局、氏族的なメシヤの責任分担を果たさなければならない理由は、アダム家庭の完成のためなのです。具体的には氏族を教育しなければならないのです。
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 個人が安息しようとするならば家庭がなければならないので、今まで統一教会は家庭を探し立てるために闘ってきたのです。また家庭が安息しようとすれば、氏族圏がなければなりません。氏族が囲いとなって、吹きまくる風とそれ以外のすべてのものを、責任をもって防ぐことができる、そのような舞台をつくらなければ平安な家庭で生存できないのです。そうしようとするならば親戚を中心として族長になるのです。族長になれば、戦いが起こっても親戚が一線に立って闘うので、族長は作戦を指示しながら休むことができるのです。それで皆さんに、先生は氏族的メシヤの使命を果たしなさいと言ったのです。その次には国家的メシヤの使命を果たしなさい。これから世界に行って伝道をするときには国家的メシヤの使命をするようになるのです。
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 皆さんは金家であれば金家のメシヤと同じ使命を果たさなければなりません。金家であれば金家、朴家であれば朴家において、天の国を創建するために、この氏族を代表しては「私がメシヤだ」と思いなさい。救世主だと思えというのです。金家を救う救世主だと思わなければなりません。そのためには金家全体に代わって祭司長的な責任を果たさなければなりません。
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 さて最後に残された終着地とは何でしょうか。解決方法が何なのかというのです。すべての壁を壊して処置をすることですが、このような恵沢を受けるためには、どうしなければならないのでしょうか。氏族的メシヤになれというのです。氏族的メシヤ。これさえ終われば、個人的讒訴条件、家庭的讒訴条件、氏族的讒訴条件、民族的讒訴条件、国家的、世界的讒訴条件を提示するものは何もなくなるというのです。


 三 真の愛で「ため」に生きる生活

  1.なぜ「ため」に生きなければならないのか

 宇宙を造られた神様、法度を立てた神様はどのような方でしょうか。宇宙を通して誰よりも「ため」に生きる代表的な立場に立った方です。その方が神様だというのです。ですからその方に会うためには、「ため」に生きなければなりません。その方は知識の大王ですが、知識をもって来いとはおしゃいません。能力の大王ですが、能力をもって来いとはおっしゃいません。「ため」に生きてくると、皆が神様のそばに来ることができるというのです。
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 再創造において他人に与えまた与えるのは、神様が創造時に自分を消耗させた立場と一致します。自分を投入するということは第二の自分をつくるためで、神様が創造する時、御自身を投入されたのと同じです。再創造歴史は蕩減復帰路程であり、蕩減は再創造歴史を通して成されるので、自分を投入することによってのみ再創造が成されるのです。ですから犠牲になることが不可避であることは理論的な結論です。
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 神様は独裁者ではありません。神様も人間のために投入しました。神様が人間の前にいるのは、人間のためにいるのです。ですから千年、万年、神様に従っていこうとするのです。「ため」に生きる天理の宇宙存在世界の前に自分自身の存在位置を維持するためには、「ため」に存在しなければなりません。「ため」に生きることによってのみ、東洋、西洋に通じることができ、古今に通じることができます。
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 自分を主として動くのは悪をもたらしますが、全体を主として動くのは発展をもたらします。これを知らなければなりません。全体のために行くものに対しては、すべてのものが門を開けるというのです。個人も門を開け、家庭も門を開け、氏族も門を開け、民族も門を開け、世界も門を開け、天の国も門を開け、すべてのものが門を開けて歓迎するのです。
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 真の人生が行く道に、一つの公理として立てなければならないのは「ため」に生きるということです。これはどこでも通じる原則であり、永久不変です。過去、現在、未来がないので、「ため」に生きなさいというのです。ここに孔子様やイエス様やお釈迦様やマホメット、すべての聖子といわれる人たちの前に神様が現れて、「あなた方はどう思うか」と言うと、「そのとおりです」と言うでしょうか、「そうではありません」と言うでしょうか。それが宇宙の法則です。それが、人間が生きるにおいて、真の姿で生きるための一つの方法だということを知らなければなりません。
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 歴史的な伝統として残る実績とは何でしょうか。犠牲精神による、「ため」に生きた実績のみが今日の世界に残ってきました。そうかどうか調べてみてください。そういう人たちが聖人として、歴史的な偉人として、または忠臣として残ってきました。そのような犠牲精神のもとでのみ、功績が残ったのです。ですから犠牲になることは功績を残すためのものだということを知らなければなりません。
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 神様の愛とは、神様自身を愛し、人類を愛するものです。それだけでなく、来ては去っていった、過去、現在、未来の人類すべてを愛する愛です。ですから地獄に行った霊人たちまでも解放してあげる運動をする神様である、ということを知らなければなりません。人は真理の道を行かなければならず、生命の道を行かなければならず、愛の道を行かなければなりません。いくら素晴らしくても「ため」に生きる基盤がなければ、すべてのものはついてこないのです。このように生きる人は自然と主体になります。真の生命の人になるのです。
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 レバレンド・ムーンの思想が今後二十一世紀の主体思想として登場できるのは、今までの「自分のために生きろ」という世界で、反対に「ために生きよう」という世界を発見したからです。論理的な観点において、今までと反対の世界が顕現できる可能性のある、不可避な結論です。ですから希望は統一教会しかありません。自分のために生きるという世界ではなく、「ため」に生きようとするこの群れのあとを、二十一世紀以降の数千、数万年の世界がついていくのです。私のために生きろという世界にはついていきません。嫌だと言うのです。
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 どのように統一されるのでしょうか。先生はどのように統一するのでしょうか。こぶしで、力で、お金で、権力で、知識で? 違います。愛を中心とした、「ために生きる」立場で万事は解決されるのです。結論は簡単でしょう。真の愛を中心として、「ため」に生きていくときに、悪魔の世界が天の国として再創造されていくという結論です。それは理論的なのです。


  2.「ため」に生きる者が中心である

 私たち統一教会はよく食べ、楽しく生きながら行こうというのですか。食べる物もなく、苦労しながら行こうというのですか。よく食べて、楽しく生きようというのでしょうか。食べる物もなく、苦労しながら行こうというのでしょうか。誰のためにでしょうか。統一教会の文先生のためにですか。神様のためにです。神様の心をとりこにする方法はそれしかありません。
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 私がその人を屈服させる方法は、闘って勝とうとするのではなく、その人のために父母の立場でまず考えてあげるのです。そうすることによって私が勝つというのです。三年だけ「ため」に生きれば、間違いなく私の言葉をよく聞くようになるのです。心はそうです。心は。自分の居間のドアまで開けて、「あなたは勝手に私の家に入ってきてもいい」と言うのです。そのような宇宙の原則的な作用が、この本心を動かしているということを知らなければなりません。
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 神様の立場と父母の立場は、どんな立場でしょうか。先に考えてあげる立場です。神様は私よりも先に考えてくださるのです。父母は私より先に考えてくださるのです。それで良いというのです。それで主体なのです。二人で住むという時に、「ああ、あの食口がしなければならないことを、私がしてあげなければならない」と言わなければならないのです。神様がそのようなお方です。その人が中心です。「ため」に生きる人が中心になるのです。
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 相手が小さなもので私を愛し、「ため」に生きてくれたなら、私はそれ以上のものを返してあげたいのです。これはだんだんと拡大していくのです。拡大、拡大しながら日時が過ぎて、一生の間そうしていくと、これが国を越えて、世界を越えて、永遠の世界、天国を越え、天上世界を越えていくのです。
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 人はどうして高いものが好きなのでしょうか。多様なものと因縁を結ぶことができるので高いところが好きなのです。なぜ低いものが嫌いなのでしょうか。単純になるからです。多様な関係から遠くなるというのです。人において最も貴い人は高い理想、高い観、高いものと関係を結ぼうとする人です。そのような人が貴い人だという概念を、ここで見つけることができます。
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 より「ため」に生きなければなりません。より「ため」に生きるとはどういうことでしょうか。より「ため」に生きる人が責任者になるのです。十人の中で誰が中心になるのかというと、その十人のために愛し、そのために生きる人です。その人には十人がみな訪ねていくというのです。「ため」に生きることはつまらないことだと思っていたのでしょう? しかし主人に、中心者になるということを知らなければなりません。天理がそうです。「ため」に生きることはつまらないことだと思ったのに、これが中心になるためのものであり、責任者になるためのものであり、すべてのことを相続するための道だというのです。ですから「ため」に生きようとすることを知らなければなりません。つまらないことではありません。損することではありません。商売の中でもこのような商売はありません。


 四 父母が立てるべき愛の法度

  1.父母は友達よりも近く

 父母は子供のためにいます。もし父母のために父母がいるとすれば、父母という言葉は出てきません。これから統一教会の原理を中心として倫理観が形成されなければなりません。父母はどうあるべきですか。子供を生んだ父母は子供のためにいなければなりません。それが倫理の第一条です。それは説明する必要がありません。息子のためにいようとするのは不幸な立場ではなく、幸福な立場です。
            *
 自分の子供に間違ったことを教える父母はいません。師匠は弟子に間違えるように教えることもあります。怨讐の立場にいる師匠ならば滅びるように教えることもあるのです。師匠には二つの種類があるのです。兄弟も二つの種類があるのです。しかし父母はただ一つです。いくら悪い父母だとしても子供には正しく教えてあげるのです。
            *
 皆さん自身は誰のものですか。父母のものであり、息子のものです。そうなると、父母は誰のものですか。父母は子女のものであると同時に神様のものです。ですから皆さんはまず神様のものになって、子女のものになったのちに、自分のものになるのです。そのようになる時に初めて完成されるのです。ですから父母を敬うその法度が地上に残り、人間の生活に残っているのです。ここで、父母を敬い子供を愛しなさいという言葉が出てくるのです。父母がいなければ孤児です。父母の愛を受けたり、子供を愛してみましたか。そうしてこそ「私」という人が、四方を区別するすべが分かるようになるし、上も下も区別するすべが分かるようになるのです。
            *
 子女たちが「天下に私たちの父母のような人はいない」と言えなければなりません。世界の人たちが韓国に模範家庭を探して訪問するでしょう。その時見せるものがあり、言う言葉がなければなりません。
            *
 父親は友達の中の友達にならなければなりません。自分の父親が現れたら、友達を捨てて父親に走っていかなければなりません。そして師匠の中の師匠にならなければなりません。ですからできれば「私の父は大統領よりも良い、一番だ、神様の次だ」。このように考えなければなりません。「どんな友達とも換えることのできない友達だ。どんな師匠を与えられても換えることのできない父親だ。私が愛する妻を捨てたとしても父親は捨てられない」。このようにならなければなりません。
            *
 先生は外出して家に帰れば必ず寝ている子供の顔をなでてあげます。親の役目を果たすのは簡単なことではありません。そのようにすることによって、「うちのお父さんが私を愛してくれたように私も息子、娘を愛さなければならない」ということを自動的に植え付けるようになるのです。また「お父さんは世界一だ」ということを分からせなければなりません。
            *
 人は誰でも立派な息子をもちたいと思います。それでは、立派な人として育てるためにはどのように教育したら良いのか、それが分からないのです。教育は一生涯しなければなりません。精誠を尽くさなければなりません。父母が精誠を尽くして育てた子供に家を引き継がせる時、その代身者として立てる時は、父母の心と一致するようにさせるのです。その父母の因縁について行くようにさせながら代身者として立てるのが常例です。
            *
 父母は愛する子供のために骨の髄まで溶けるような苦労をしても、つらいと思わないのです。なぜでしょうか。愛しているからです。自分の血肉を分けて、その代金がいくらなのかを帳簿につけておくのでしょうか。つけないでしょう。かえって全部あげることができなくて残念に思うのです。
            *
 子供に対する父母の愛はただそのまま生活的な因縁だけで通じる愛ではなくて、骨の髄からわき出てくる愛なのです。忘れるに忘れられず、切るに切れない愛の心を父母はもっているのです。それで生命の余力が残っている限り父母は子供を愛するのです。子供と生命の因縁が結ばれていることを感じる時、父母には子供を愛する心が自然的にわき出るのです。私の息子なので愛するという意識的な心が先に立って愛するのではなく、その心よりも因縁よりも先立つ自分の生命力が、子供と連結されているので愛さずにはいられないというのです。このような事実は私たちが家庭生活でよく感じていることです。
            *
 家庭で起こる是々非々は男性が責任を取らなければなりません。男性は家庭の中心的権威を守らなければなりません。


  2.伝統を相続させてくれる父母

 先生が心配するのは、どうやって統一教会の名前を後世に残すかということではなく、どうやって先生の伝統を相続した人を後世に残すかということです。ですから今まで伝統を重要視しなさいと教育をしてきたのです。
            *
 未来に対してどのように生きることが豊かに生きるということになるのでしょうか。私が豊かに生きるのが問題ではありません。後孫を教育しなければなりません。後孫に残してあげなければなりません。今まで統一教会を指導してきた私自身もそうですが、皆さんもかわいそうな道を歩んできました。避難民として歩みながら、立場をつかむことができませんでした。荒野路程を歩んできました。これから私たちは定着しなければならないし、定着しようとするなら闘って勝たなければなりません。カナン七族を滅ぼしたように、闘って勝たなければ定着はできません。この民族を中心とした闘いで勝たなければなりません。
            *
 子女たちを教育する時に、お前たちはお父さんやお母さんのようになりなさいと教育することができなければなりません。皆さんが伝道期間中に食べられず、豊かでなかったとしても、ぼろをまとっていたとしても、恥ずかしいことではありません。後代が千万金を払っても買うことのできない教育資料になるのです。
            *
 苦労は素晴らしいことです。それで私たちは千秋万代の後孫が誇ることのできる伝統を立てておかなければなりません。
            *
 祝福家庭の娘、息子たちが、三代をどのように先生と共に生きることができるかということが大きな問題です。三代がみな功臣になると、天下にもないあの天上世界の功臣になるということを考えてみましたか。ですから自分の息子、娘を抱いて今から教育して、そのような思想を植え付けるために精誠を捧げなければなりません。
            *
 伝統を残さなければならないし、その次には善良で立派な後孫を残さなければなりません。器量の狭い男の後孫ではなくて、強くて雄々しい立派な後孫を残さなければなりません。そうなるとその国は滅びる運勢圏にあるといっても滅びないのです。滅びる立場から新しい恩人が現れるのであり、追い出される立場から新しい勝利の旗を掲げるのだという事実を知らなければなりません。残さなければならないその伝統が大韓民国のみでなく、万民が喜ぶことのできる伝統にならなければならないし、善良な後孫も残さなければならないというのです。これができなくなる時、天の前にもっていくべき礼物(贈り物)がなくなるのです。
            *
 父母は死んでも天道は残していかなければなりません。その家庭は何のためにあるのでしょうか。自分の子供のためにあるとしてもまず神様のためになり、国のためにならなければなりません。これは結局は自分の子女のための道です。そうしてこそ神様の運と世界の運と共にある国の運と共にすることができるからです。そうして祝福を受けて生まれた貴い子女たちが苦労をしても、その子女たちに拍子を合わせるのではなくて、神様と世界と国の運勢に拍子を合わせなければなりません。
            *
 皆さんは一代のために生きる家庭にならずに、世界と永遠のために生きる家庭にならなければなりません。また愛の基盤を広げて万民の心情を集め、ろうそくに火をともし、香をたいて、祈りを捧げ、天と地、万民と共同の因縁を結んで、生きて死ぬという家庭にならなければなりません。そのような家庭になると、どのような艱難にぶつかっても、神様がその家庭を保護してくださるのです。天が本家の長男として残してくれるというのです。


 五 夫婦が守るべき礼節

  1.夫婦は生活の同伴者

 一度結婚したのちには自分勝手に暮らすことはできません。結婚して家庭をもった運命の道は、生命を懸けて行かなければならないのです。
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 愛が成される瞬間から皆さんは二人ではなくて一人なのです。夫婦になると独自的な行動はできないし、連帯責任をもたなければなりません。
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 個人が滅びるのはいいですが、家庭が滅びてはいけません。夫においては妻になる人が、妻においては夫になる人が世界で最も必要な人です。互いにアドバイスをしながら杖になり同役者にならなければなりません。
            *
 妻は職場から帰ってくる夫に対して夕御飯を準備してあげることによって夫に対する義務を果たしたと思ってはいけません。夕飯の食卓に座って愛の蜜語を分かち合い、和気あいあいとした時間をもつことが、何よりも重要なことです。初めて会った時、優しくささやいたその声で、愛の姿そのままで、一日の労苦を慰労してあげると、夫の疲労は洗われるように消えるのであり、愛もまた深まるのです。
            *
 女性は本来、男性の平均の声よりも小さな声で話さなければなりません。女性のその声は愛のささやきのようでなければなりません。
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 先生が七十歳に近づいた体で、海に出ていく、とお母様に話すと、お母様は海に行くすべての準備と精誠を尽くしてくれます。海に出て一晩泊まる準備までしてくれて、海で成そうとするみ旨のためにお祈りまでしてくれます。これはどんなに素晴らしく美しい内助者の姿でしょうか。
            *
 夫が帰ってきて夕御飯も食べず、話もしないで、いびきをかいて寝てしまうなら、そのいびきを聞きながらそれ以上の泣き声が自分の心からわき上がる女性にならなければなりません。先生はそのような家庭が見たいのです。もしそれが見られなければ、先生の苦労は無駄になってしまいます。神様の六千年の犠牲は無駄になってしまうのです。皆さんはそれを知らなければなりません。
            *
 夫が巡回に行くと言うとき、「行ってらっしゃい。私は疲れているので寝ます」と言ってはいけません。夫が巡回して帰るまで、妻も精誠を捧げなければなりません。子供もその父母が帰ってくるまで待たなければなりません。
            *
 妻は夫を出世させなければなりません。内助をしっかりしなければなりません。
            *
 夫婦の間で夫が、することに干渉するなと言ったからと、妻が干渉しなくて良いのでしょうか。妻も夫と対等の立場に立つことができるのです。夫がいない時は妻でもその立場に立つことができなければなりません。
            *
 夫ができたらさぞ良いだろうと思ったのに、良くない時もあるというのです。良いことのみを願ってはいけないのです。二十四時間ずっと太陽の光が差せば良いでしょうか。夜もなければなりません。高ければ低くなるのが原則ではないですか。
            *
 妻は貧乏だと悲しまず、着るものも着られなかったと寂しく思ってはいけません。夫がそれを知らないのではありません。心の中では申し訳ないと思うところに深い愛があるし、ダイヤモンドよりも貴い宝が隠されているのです。
            *
 夫が横になって寝ていると、なぜこのように寝てばかりいるのかと言って起こすことのできる妻になるようにアドバイスしたいものです。
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 少しでも慰労すると女性はすぐに怒りが解けます。
            *
 夫婦が互いに「私を愛してくれない。私を分かってくれない」という、つまらないけんかをしてはいけません。けんかをしても、み旨のためにしなければなりません。
            *
妻の誕生日には、近所のおばさんたちを集めて、妻をこの上なく愛しているという心で妻のために、その人たちの前で踊りを踊り、歌を歌わなければなりません。
            *
 妻や同じ家に住んでいる人の足音を聞いただけでも、その人に良いことがあったのか、悪いことがあったのか分かるのです。そして妻が部屋に力なく入って来たら「あなたはどうして気分が良くないのか」と聞くのです。そうすると妻は、見てもいなかったのにもう夫は全部知っているので何も言えないのです。そのようなアンテナをもって暮らさなければなりません。関心をもって祈祷するようになると、私に関心をもつようになります。
            *
 愛の深い夫はその家の中で悪口を言ったとしても、これは全部愛の刺激にすることができます。愛のない夫の一言は、その一言が肉をえぐるような破壊の動機になるのです。愛があったらむちを打っても良いけれど、愛のないところではすべてが嫌なのです。


  2.夫婦は信仰の同役者

 皆さんは農村に行って仕事をする時にも、一人で行って仕事をするようにはなっていません。夫妻が共に、その日の仕事を神様の前に報告して、行って仕事を始め、終えて帰ったときも神様の前に報告をしてから御飯を食べるようになっています。そのようなことをすべて規範化させる、神様を標準とした生活がどんなに厳格かということを知らなければなりません。 女性にも女性として守らなければならない家庭生活の規範があるし、男性にも男性として守らなければならない家庭生活の規範があるのです。このような膨大で天的な規範を体系化して、生活するのが、皆さんが行かなければならない路程であるにもかかわらず、その路程を行くことができなければとんでもないことです。
            *
 歩くのも男性は右足をまず踏み出し、女性は左足を最初に踏み出さなければならないのです。どこかに行って座るにも男性は東側に座り女性は西側に座るのが原則です。御飯を準備する時、服を掛ける時など、すべてのことには方式があるのです。
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 男性は女性のために見下ろし、女性は男性を下からだんだんと見上げなければなりません。女性は水の流れて来る方を見るのではなくて、流れて行く方を見なければなりません。水の流れてくる方を見上げる女性は尻の軽いタイプです。本来男性が座るところは女性が準備してあげなければなりません。たんすを使う時も男性が右側なら女性は左のものを使わなければならないし、男性が上ならば女性は下を使わなければなりません。例を挙げると、男性の上着の上に女性のスカートや下着を置いてはいけません。男性の服の上に女性の服を載せてはいけません。
            *
 責任者の夫人は夫が玄関を出る時、絶対に夫の悪いところを指摘してはなりません。妻が指摘をすることによって夫一人の心を暗くした波動は世界を暗くするのです。悪いところを指摘する時は夜にしなさい。そうするとすべての問題が夜の間にすべて解決されるのです。男性は朝戦いに行くのです。そういう夫のために妻は朝早く起きてサービスをたっぷりしなければなりません。
            *
 夫に殴られても感謝の祈祷をしなければなりません。「夫として妻を一度殴ることもできなくて良いでしょうか。ありがとうございます」と。
            *
 夫婦間の一人が傾けば心情と精誠で補充しなければなりません。
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 パウダーをたたき香水をかけても、女性はいつも美しくなければなりません。女性は情緒生活において借りをつくってはいけません。また夫の体や衣服などについて、いつも関心をもたなければなりません。夫が家に帰ってきた時、疲れているようだったら洗顔のための水も持ってきてあげて、歯を磨く準備もしてあげて、足も洗ってあげ、髪もとかしてあげなさい。女性の笑いは家の中の花です。円満な家庭を成そうとするなら女性は喜悲劇の一等女優にならなければなりません。夫が喜んでいるときも完全に溶かし、悲しいときも完全に溶かさなければなりません。
            *
 服は少なくとも三日に一度は着替えなければなりません。髪もそのようにしょっちゅう洗わなければなりません。そしていつもほほえんでいなさい。ほほえみは心の花です。いつも花を咲かせて香りを漂わせなさい。ヘアー・スタイルや化粧で相手をテストすることを知らなければなりません。自分の顔や姿で相手の心を喜ばせてあげられなければ、趣味でそれに代えなければなりません。音楽とかすべての芸術を総動員してみなさい。雑誌などを見て女性の生理について説明してもよいし、文学書籍を読んでおいてそれを説明してもいいのです。夫が幼子のようにスカートのすそに包まれて暮らすようにしてあげなさい。
            *
 夫婦はせっかく会ったのだから両腕をつかんで死んでも生きても共に行かなければなりません。どうせ行くのなら格好良く行きましょう。
            *
 結婚したのちには皆さんは勝手に行動できません。結婚後、どこに行かなければならないのでしょうか。神様の愛を受け持たなければなりません。人間が男性、女性として生まれたのは愛のゆえにです。愛は夫婦になって一つになることによって結実を結ぶことができます。皆さんは神様の愛が二性性相によって分立された実体であり、分立された実体が合成一体化されるために神様の愛を求めていかなければなりません。
            *
 祝福家庭が子供を抱いて愛し方を知っているなら、その娘、息子が何ゆえに生まれたのかということを心に刻まなければなりません。神様のゆえに生まれたということを知らなければなりません。神様という因縁を通して生まれました。夫が貴く妻が貴くて秘密に何か話すとしても、その相手が自分同士で決めて出会った相手ではありません。公的な天道を前において出会った人です。神様が介在して出会った人です。そのような自分たちが悲惨になれば悲惨になるほど神様が悲惨になるということを、私たちは知らなければなりません。
            *
 家庭的な基盤を築くために、夫に妻が合わせてあげれば福を受けるし、妻に夫が心を合わせてあげれば福を受けるのであり、子女たちが一つになれば福を受けるのです。今は家庭救援時代なのです。
            *
 女性は天道に従って順応して、女性として行かなければならない道を行かなければなりません。夫が一緒に死のうといったら死ねなければなりません。死んでもあの世に行って一緒に生きれば良いのです。夫の命令を絶対視し、夫の命令に従順に従ったのちには解放される道があるというのです。人倫の世界の道徳観において悪の堕落圏内にいるとしても、三綱五倫を中心として順応する人たち、絶対従順であるという基準を立てた人たちには、もう一度解放される道が依然として残されているのです。


 六 子女を信仰的に育てる

  1.懐に抱いて天法を教えなければ

 皆さんは、皆さんの息子、娘に何を語るつもりですか。皆さんは公的な人生、それも模範的な公的な人生を生きることによって皆さんの息子、娘に見せてあげ、その伝統を受け継ぐことができるように教育しなければなりません。人は本来、自分の父母に教育されるようになっています。学校に行ってのみ教育を受けるのではありません。特に伝統を受け継ぐ教育は、学校では学ぶことができません。
            *
 子供はすべての価値を父母を通して探します。家庭で育っている子女は誰に似たのでしょうか。父母に似ました。その子女たちは誰についていくのでしょうか。父母についていくのです。このようになっているのです。
            *
 間違いがある時に子女を生むと、その間違いは遺伝します。
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 家法を準備しなければなりません。子供たちの教育基準など、家庭の規範をつくらなければなりません。しっかり育てられずに子供の追及を受けても何も言えません。
            *
 子女を教育するためには、父母がまず実践しなければなりません。父母が見本になってみ旨の前に忠誠を尽くさなければなりません。そうして父母が何を言っても、子女たちが一言半句も口答えせずに敬意を表すことのできる立場に立たなければなりません。そうでなければ子女たちがついていかないというのです。
            *
 子女たちが、自分が知っているみ旨と原理を中心として見る時、教会生活において父母が本部から指示している原則を等閑視してその指示に従う生活をしていないのに、子女たちだけに原理原則どおりの生活をしろと言えば、鼻で笑うというのです。
            *
 父母はどんなことをしても息子、娘が統一教会の正道を行くようにしなければなりません。それから自分自身も正道を行かなければなりません。自分がまず行ってから子供に教えなければならないのです。子供を教育するために、自分がまずそのようにしなければなりません。その次に子供を教育しなければならないのであって、自分はせずに教育しようとするのは天道に外れるのです。先生が皆さんに話すすべてのことは、先生がまず実践して勝利の基盤を築いたあとで教えているのです。信じられないなら祈祷してみてください。うそなのか、事実なのか、祈祷してみなさいというのです。
            *
 祈祷をする時にも、私がこのようにするので私の子供もこうするようにしてほしいと祈祷しなければなりません。自分がまず標準になったのちにこそ子供をそのような位置に立てることができます。自分がまずそのような位置に立つと、神様はその子供も同じ方向に導いていくのです。ですから私たちが、私たちを中心としてその方向をもとがえすことができなければ、霊界に行って責任追及を受けるようになるのです。
            *
 子女たちを教育する時、お前たちもお母さん、お父さんのようにならなければならないと教育できなければなりません。
            *
 子供は父母の心情を学ぶのです。
            *
 自分の子供を教える時は「立派な人になれ」と言うだけでなく、「立派な人になるためには、このような道を経て何かになれ!」と言わなければなりません。父親は父親としての責任を果たし、兄は兄としての責任を果たさなければなりません。姉は姉としての責任を果たさなければなりません。別の言葉で言えば真の男性、真の女性の道を行く因縁を選んでいく方法を知って、法度に外れない皆さんになってこそ順理的な路程を経て、一つの国の民になることのできる道が生じるのではありませんか。
            *
 「お父さん」という言葉は、恐い言葉です。「真」でなければ子供に食べさせてあげることができません。子供に血の功績と善なるものを食べさせなければなりません。間違ったものを食べようとする時は涙を流しながら指導してあげなければならないし、福を祈ってあげなければならないのが父母です。ゆえに父母は子供の世話にならないのです。
            *
 これから皆さんは父母として子供を抱いて天法についていかなければなりません。皆さんの生活がどんなにつらく、どんなに困難にもまれて生きているとしても、子供には涙を見せてはいけません。絶対にいけません。
            *
 子供を教育するとき、どのようにしたらみ旨のとおりに使命を尽くす人として教育できるのかを考え、乳飲み子にお乳をあげるときもこのように考えながらあげなければなりません。
            *
 皆さんが「あの家門は良い家門だ」と言うことのできる基準になっているとしても、その家の子供たちは何にでも注意しなければなりません。立派な家門に育った息子たちは何にでも注意しなければならないというのです。一歩踏み出すにも注意しなければならず、一言話すにも注意しなければならず、行動をするにも注意しなければなりません。礼法が複雑なのです。威厳のある家柄には子供を教育することのできる資料がたくさんあります。目上の人に対する時、兄弟に対する時、父母に対する時、どのようにしろと、育っていく子供たちを集めて教えるのです。


  2.信仰教育がもっと重要

 子女たちの信仰教育が学校教育よりもっと重要です。お父様の考えはみ旨を中心とした考えであり、皆さんの考えは個人的な考えです。信じて行うものには創意力が生じます。
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 祝福家庭の子女は心情教育を通して人格者として育て、規範教育を通して誇り高い選民として育て、天才教育を通して天が与えた才能を一〇〇パーセント発揮させて、み旨の発展に寄与しなければなりません。
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勉強するときになぜ疲れを感じるのでしょうか。自分のために勉強するので疲れを感じるのです。しかし三千万が死ぬか生きるかの問題がここ一ページにかかっており、一つの文句にかかっていると思ってみてください。一つの単語を付け加えることによって三千万が生き、一つの単語を減らすことによって三千万が滅びるという心で、もっと精誠を尽くしてその一つの単語を付け加えるという、深刻な心で勉強してみなさい。頭が悪いはずがありません。皆さん、深刻な立場にいたことを忘れることができますか。生命を懸けてしなさい。皆さんはどきどきする心臓の鼓動を感じる時があるでしょう。深刻な時はそうです。そのような深刻な立場で皆さんが決心したのを忘れることができますか。頭が悪いというのもみな程度の問題だというのです。
            *
 先生も苦学を通して学業をしました。虎は子供の野性を育て、山中の王として育てるために、過酷な試練と酷烈な訓練をさせるということを知らなければなりません。金属の塊も火に当てるほど強くなるという原理も、子女を教育する時には一度は考えてみなければなりません。
            *
 父母が生活に困って心ゆくまで物質的な恵沢をもたらすことができなかったとしても、骨の中に染み込んだ愛の心をもって子供のために生きる時、彼らは父母に借りをつくるというのです。それで孝子は貧乏な人の家庭から多く出るというのです。父母がそのような伝統を残したので、その子供が借りをつくるまいと努力する時、父母も生きがいを感じます。


 七 兄弟間の友愛

 父母に息子と娘の二人しかいなかったらどうでしょうか。息子を見るとき、彼にはお姉さんも必要であり、またお兄さんも必要でしょう。また娘には、お兄さんも必要であり、お姉さんも必要です。また彼らには妹と弟が必要です。お兄さんがいなければならないし、お姉さんがいなければならないし、弟、妹がいなければなりません。これらがそろわなければ不幸なのです。妹、弟、お姉さん、お兄さん、全部そろって完全に一つになる家庭は、神様が保護されます。これが氏族と民族と国家の起源になるからです。
            *
 お兄さんとお姉さんは東西を表し、弟と妹は南北を表すので、それが完成されれば一体になるのです。これが愛の法度です。このような愛の法度がしっかりと立つ時に平和の起源は成されるのです。
            *
 父母の心は自分のための心よりも、兄弟同士がもっと「ため」に生きることを願います。父母の面倒を見られなくても、「お母さん、ちょっと待って。弟をかわいがってくるから」と言うと、「この子はこれから使える人になるなあ」と言うのです。そうでしょう。
            *
 兄弟を父母以上に愛するという人は、天国で永遠に生きることのできる人です。兄弟を父母のように愛することのできない人はここから外れるのです。その道理の根本を悟ってみると簡単です。それを知らないから今までできなかったのです。私たち食口同士が一つになったのか、なっていないのかということが問題です。父母の前に親孝行できない立場に立ったなら、父母のために自分が精誠を捧げたものを、自分の父母にあげる代わりに食口にあげなさい。そうすると父母に親孝行した以上のものとして天が受け入れてくれます。そのような人は必ず福を受けます。
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 天国に行く道は兄弟を神様のように愛することによって開かれます。皆さんは先生についていこうとするのですが、その心で兄弟と共に行こうと努力してみてください。このように見る時、天国に最も高く、早く、よく導いてくれるのは神様でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論を下すことができます。父母と夫婦の愛を凌駕する愛をもって努力する者は、最高の愛の主体者として相手を選択するのです。
            *
 弟一人が間違った時には、全兄弟が支えてあげる家庭、またお母さん、お父さんが愛し合う、その家庭はどんなに美しいでしょうか。お母さん、お父さんは子女に対し、「後代の私たちの神様よ」と言うのです。それはなぜでしょうか。神様の愛に通じる時も同じです。お父さんがお母さんを愛し、お母さんがお父さんのために生きれば、その家庭には神様が共におられ、その息子と娘は将来神様の代身者になるということを知らなければなりません。
            *
 兄弟とは何でしょうか。同じ愛の同参者です。父母の愛の同役者なのです。ですから互いに闘えるでしょうか。闘えないのです。ですから右手を挙げる時は父親の手、左手を挙げる時は母親の手、右足をあげる時は父親の足……。善進に、この足は誰の足かと聞くと、右の足はお父さんの足で、左はお母さんの足だと言うのです。本当にそうだというのです。それはどうしてでしょうか。もう愛を中心として、そうなっているというのです。
            *
 兄の立場で妹を愛し、妹の立場で兄を愛しますが、ただ愛することはできません。必ず父母を介在させて、幼い時父母の懐で育ったことを重要視しながら愛さなければなりません。父母と子女が一つになった基盤で連結された兄弟でなければなりません。そうしてこそ成長しながら共に上がっていくのです。小学校、中学校をずっとそのように上がっていくのです。
            *
 この世をいくら歩き回ってみても家庭にある兄弟の愛、血を分けて生まれた兄弟愛のようなものはないのです。社会に出て自分の兄弟以上に近い人がいますか。近くなっても分けられるのです。
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 兄弟が多ければ御飯を食べる時も一膳の御飯を二人で分けて食べなければならないというのです。御飯が一膳しかないとけんかをするのではないのです。兄弟が多くて生活が大変でも「私が御飯を食べなくても分けてあげなければ。弟にあげなければ」という愛の心をもつならば、いくらいても良いというのです。
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 兄弟を通して国民が形成され、人類が形成されるのです。兄弟は前後を表示するものですが、それが肉になるのです。これが平べったかったのに肉がつくというのです。そこで円形ができるのです。円形をつくるのが兄弟であり、兄弟が拡張されて国民になるのです。
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 なぜ兄弟が必要でしょうか。縦横を中心として連結されたものが兄弟です。アダムとエバを東西と言うなら、神様とアダム、エバは縦的です。これは平面にしかなりません。ですから横的な基準が必要であり前後が必要です。家庭愛を超越できるものは兄弟愛しかありません。万民同胞愛という言葉と同じです。それがなければ球形が成されないのです。
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 兄弟愛というものは世界愛と通じるのです。兄弟の多い家庭は世界の人類を抱き、理想的な天国、地上天国と天上天国をつくるモデルのようなものです。ですから兄弟はここから拡張されるのです。


 八 勤倹節約、質素な家庭生活

  1.質素な生活

 妻という人は夫のために生き、子供という人は父母のために生き、また父母は家庭のために生き、おじいさん、おばあさんも家庭のために生き、孫も家庭のために生き、このように、愛によって互いに「ため」に生きていくのが幸福ではないでしょうか。すべての食口たちが自分のものを作ろうと努力するのではなく、私たちのものを作ろうと努力するのです。
 おじいさんも使わずに節約して私たちのものにしようとし、お母さん、お父さんも私たちのものにするために使わずに節約し、息子、娘もそうであり、全家族が私たちのものを拡大させるために努力する、その家は繁栄するでしょう。ですからお金を使わずに節約して全体のために生きるところから、このような愛の安息の場は拡大されるのです。そのような家庭を中心として、社会や世界に広まるようになる時、理想実現が可能なのであって、自分のもの、自分を中心としてはいけないのです。
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 所有権は神様に返さなければならないのです。ですから先生は何も持っていません。それを知っているので質素な生活をするのです。一家族が、かばん一つ背負って、どこにでも行って生きることのできる時代がだんだん近づいています。「富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(マタイ一九・二四)という聖句は一理あるのです。
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 確固たる経済的基盤をどのように築くのでしょうか。まず節約しなければなりません。それで節約しなさいと言うのです。しかし、いくら強調しても駄目なのです。私たちが物質を自由に授け受けることのできる環境でも、責任を果たせずに追い出される日には、統一教会は第二次の受難の道を行かなければなりません。
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 私たち宣教師はヨーロッパ文明社会の豪華な要素を必要としないほどに訓練されています。私たちは新しい文化をもっているからです。それが「寝袋文化」です。私たち若者はどこに行っても不慣れな所はないはずです。統一教会の宣教師の家は豪華な家具のない、最も質素な家具だけがあるままで見つけられるでしょう。


  2.節約精神

 すべての面で模範にならなければなりません。良く食べて幸せに暮らし、豊富な生活をすることが絶対に模範ではありません。これを節制をもってして、不可避なことに対して、必要に応じて適切な消耗をするのが模範的生活だということを知らなければなりません。
            *
 先生は聖日には仕方なくこのように正装をしますが、服を着る時はできるだけネクタイをしないで過ごすのです。家にいる時はジャケットを着ずに、セーターのようなものを簡単に着ようとするのです。ヨーロッパ社会でネクタイの値段がどれほど高いか考えてみてください。ピンまで全部合わせるとこれはどんなに……。さあ、それができずに、ノータイ( ネクタイをしない)で一生を生きた人と、ネクタイをして世界を考えることができずに生きた人が霊界に行く時、どちらが神様の前に近づくことができるか、考えてみてください。
            *
 断食をしてみると時間がどんなに長いか分かるでしょう。三食の食事をするために、どんなに長い時間を要して食べていたかが分かるはずです。また精神的にも、りんご一つでももらって食べようと冷蔵庫を開けてみたり、コーラ一本でも飲もうと行ったり来たりする、そんな精神的な消耗がどんなに多いでしょうか。食事の時だけ食べる習慣が必要だというのです。そうすると病気にもかからないし、健康になるのです。
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 先生は毎日のように風呂に入ることに賛成ではありません。三日に一度を原則にしなければなりません。汗を流したので仕方なく入るのです。毎日入ると、それがどんなに水をたくさん消耗するかというのです。健康にも悪いし……。「えー、先生は野蛮人だ」と言うかもしれませんが、野蛮人だと言われてもいいというのです。エデンの園の神様もアダムとエバも野蛮人でした。昔はこのごろのようなトイレがあったでしょうか。トイレットペーパーがあったでしょうか。何もなかったというのです。ですからそのようなものを感謝して、このようにしてでも、この世界を生かさなければならないでしょう。
            *
 御飯を食べても昔と違わなければなりません。トイレに行っても昔と違わなければなりません。このごろ汽車に乗ってトイレに行くと、トイレットペーパーが壁にかかっています。「よし、このように使ったとして誰が見るか」と、やたらと使ったりもしたでしょう。他人のものだからとずるずる一度に引き出して、また引き出し、また引き出し……、それではいけないのです。節約して一度にしなければなりません。変わらなければならないのです。
            *
 おなかがすいて御飯を食べるときも、食器に御飯を山盛りにして食べるのではなくて、五分の二を除き、五分の三を食べて満足できる基準をもちなさい。そうしてこそ賢い人です。何でも節約できなければなりません。最高に節約していくらで生活できるか、このような訓練をして最小限三カ月の間は各自が記録し、自分自身の最大の限界点までしてみなければなりません。そのようにして、どのようになるか見ようというのです。
            *
 神様のみ旨のために、この国の復帰のために一銭でも節約できる道を模索しなければなりません。ですから経済的管理において、より一層節約できる道を私たちは開拓しなければならないというのが先生の考えです。
            *
 先生はこれから生活費の半分をもって生活するようにさせるのです。コーラのようなものも、果物も食べられないようにしようというのです。食堂でも見ると、皆さんは食べるものなら自分勝手に入って来て、何でもよいから持っていって食べていました。豚のように食べているというのです。節約にはこつは要りません。着るもの、食べるもの、買うのにおいて節約すればよいのです。
            *
 私たち食口はあんなネクタイはしてはいけません。それは外部の人たちに誤解を受けるかもしれないので、するなというのではありませんが、できるだけそのような面で節約しなければならないのです。さあ、そうすることによって偉大な革命の基地が爆発するのです。分かりますか。アメリカにおいて絶対に必要です。
            *
 私がお金をたくさん持っているからと、ある人は私を百万長者だと言います。しかし、私は二十四時間休まずに血と汗を流して、たったの一銭でも節約しようと、すべてのお金をみな世界にちりばめて、文書も一切私には残っていないのです。印鑑一つもないのです。私が精誠を込めて集めたこのお金は誰も勝手に消化することはできません。神様が共にいらっしゃるのです。分かりましたか。
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 人が寝ている時に寝ず、人が食べる時に食べず、節約をして、人ができないことをするのです。先生の考えはもともとそうなのです。
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 このように大切にし、節約して、苦労して何をしようというのでしょうか。後代のために良いことをしようというのです。それで世界に誇ることのできる基盤をつくる思想をもとうというのです。十年、そのような思想の伝統を残して、百年、そのような思想の伝統を残し、千年そのような思想の伝統を残すようになる時は、大韓民国は世界から推戴される民族になるとことは間違いありません。ですからこのような原則で指導しようとするのが先生の思想です。打たれている現在では最も悪い思想として見られますが、後々にはこの思想のみが残り、この思想のみが勝利するのだと思うので、このような道を行くようになったのです。
            *
 「お金を大切に!」という時、私が金持ちになるためというよりは、国を生かすために大切にするのが公的だということです。私が大金持ちになるために大切にするのではありません。国を生かすために大切にするのです。
 アメリカにおいて「アメリカは節約しなければならない。大切にしなさい」と言うのは、世界を生かすためなのです。アメリカは世界でも税金を最も多くかける国なのですが、世界のために税金を多く取ったら、世界から尊敬されるのです。それをアメリカの国民のためにしたのであれば、アメリカの国民も政府に反対し、世界も反対するのです。世界を駄目にする行動と文化をもっていると思うのです。ですからそのような世界のために私が、「反対されてもレバレンド・ムーンが行く道が正当な道だ」と言うのです。私が聞き、語り、私がするすべてのことがみなそうだというのです。


 九 日常生活の礼節

  1.服

 服を掛けるときもすべて原理的に掛けなければなりません。男性の服は右、女性の服は左です。服を置くにも男性の服は上に置き、女性の服は下に置く、というのが原理的です。全部そのような訓練が必要なのです。皆さん、このようなことを初めて聞いたでしょう。そうしてこそ良いのです。男性の服をみな下において、女性の服だけ上に置くとはいったい何ですか。原理に反することです。
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 さて、服を脱ぐときもズボンを先に脱いで上着を上に置かなければなりません。上着を先に置くのではありません。そのような原理的な生活によって環境を整理する方法を知らなければなりません。男性の靴は右側、女性の靴は左側、また二部屋しかない家に住む時は、男性の靴は上に女性の靴は下に、それを全部原理的に整理する方法を知らなければなりません。
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 女性は服を着る時どんなものを最初に着ますか。上のものを先に着ますか、下のものを先に着ますか。女性は下のものから着るのが原則です。原理では下から着るのです。男性ももちろんそうですが……。男性は時々上のものを先に着ても良いと思います。それは原理的です。皆さんはそのようなことを全部知って生活から整理しなければなりません。原理が生活哲学だということを知らなければなりません。


  2.顔

 顔はつくられたそのままですが、その表情はどうでしょうか。これは皆さんが習慣的に調整しなければなりません。歯が内側に曲がっているなら、できるだけ笑うなというのです。それはなぜでしょうか。毒蛇の歯のように見えるからです。ですからそのような女性は絶対口を開けて笑うなというのです。女性がそうだとしたら相当にきつい人に見えるからです。ですからできるだけ口を開けずに笑いなさい。
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 女性が「ははは」と笑ってはいけません。女性は花であり、花が咲く時は音もなく「ぱっと」咲くのでしょうか。しゃなりしゃなりと咲くでしょう。そのような女性が女性らしいのであって、「ははは」ではないのです。西洋の人たちは「はっはっは」と笑います。それが男性ならばまだ分かりませんが、女性は見ていられません。本当に見ていられないのです。いくら西洋人だとしても、私たちムーニーはそうであってはいけません。
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 笑いというものは本当に妙なものです。ちょっと笑うのも笑いです。笑うとどうなるかというと、すべてのものが丸くなるのです。年取った男性が「はっはっは」と笑って、のけぞらずに、おなかを抱えると「くくく」というのです。なぜおなかを抱えるのでしょうか。変ではないですか。のけぞって笑えば良いのに、なぜおなかを抱えるのでしょうか。丸くならなければならないからです。にこにこ笑う時には口元がちょっと上がりますが、「ははは」と笑う時には口が丸くなるというのです。ですから丸く笑う人の中には悪い人がいないのです。今骨相学を語っているのではありません。おもしろいでしょう。
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 さて、皆さんが笑う時、目と鼻が別々に笑いますか、みな一緒に笑いますか。目が笑い、鼻が笑うのですが、口がこのような人(笑っていない人)は食べることに苦労するのです。また鼻が笑わずにこわばっている人は、娘や息子を授かりにくいのです。また、笑うには笑うのですが、このように目が笑っていない人は情が薄いというのです。全部このようにパーッと笑い、鼻が笑わなければなりません。


  3.頭

 男性も女性のように髪を整えなければなりません。化粧をするのもそうだし、髪も自分が見て、分け目を左にするのか、右にするのか決めなければなりません。西洋もそうだし東洋もそうだし、みなこのようにするのです。西洋風ならば大抵左を分けるのです。しかし右を大きくするのが良いというのです。これを女性がよく考えなければならないのです。


  4.手の爪と足の爪

 先生が西洋に来て最も恐ろしいと思ったのは、女性の前に行くことです。手の爪だけ見ても、これはもう危険極まりありません。先生は爪をいつもこのように短くしています。これは必要なのです。ちょっとでも伸びると手足の爪を切るのです。手足の爪を切るのが趣味なのです。手の爪を伸ばす女性たちは「仕事をしません」と言っている女性たちです。わー、あの爪でタイプを打つときはどうやって打つのでしょうか。私はそれを見る時、「あの人は道端にいる女性だ」と思うのです。お金をあげなければ爪で「さっ」と金をくれと……私はそう思うのです。
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 女性が靴下を脱ぐときに、足の爪が長くて伸びていてはいけません。西洋の女性たちは長いと足の爪が痛くていけません。ハイヒールを履くときに痛いでしょう。


  5.歩き方

 歩くときは端正に歩かなければなりません。立って歩くということは均衡を保たなければならないのです。均衡を保って、安全に歩かなければなりません。ある人を見るとこのように歩き、またこのように歩き……。立っているということは均衡を保たなければならないことなのです。だらりと立っていても均衡が保たれていなければなりません。そのようなことが必要なのです。
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 女性は背中が丸まってはいけません。男性もそうですが。ベッドを使う女性たちを見ると胸がへこんでいるのですが、これは良くありません。頭からまっすぐに立たなければなりません。ですから座るときもいつもまっすぐ座る練習をしなければなりません。男性たちも同じです。また女性は座るときお尻をつけて座らなければなりません。これができなければみな腰が曲がってしまいます。歩く姿が重要だというのです。


  6.座る格好

 女性たちがどこかに行って座る時、東洋では絶対寄りかかって座らないようにします。男性はそれを許されます。なぜそうかというと、女性はお尻が大きくて、座ると自動的に楽だというのです。男性はお尻が小さくて上体が大きいのです。ですから座る時、特に女性たちが寄りかかって座ると赤ん坊に支障があるというのです。妊娠していたら大変だというのです。


  7.寝方

 西洋では寝るときのマナーがどうなっていますか。うつ伏せに寝ますか、横になりますか。ぐっすり寝なければなりません。寝る姿が美しくなければならないのです。いびきをかくのも図体の大きな男性がかくのであって、女性がかいてはいけないのです。女性が寝るときはすやすやと寝なければなりません。女性がいびきをかくのは困るというのです。そのようなときあごを引くともっと音がするというのです。そうではないですか。ですからできるだけ枕をこのようにあてるのです。それが必要です。
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 女性が、夫が寝ているところに入らなければならないときは横にすっと入らなければなりません。横を向いてです。夫が先に寝ているのに、女性がどたどたと入ると大変なことになります。そっと横に、それが必要です。


  8.健康

 健康が第一です。いくら具合が悪くても、風邪を引いても健康な気持ちを……。自分の表情を見ても、他の人が何も分からないという表情が必要です。ちょっと風邪を引いても具合の悪い表情をし、ちょっと大変でも大変だという表情をするのですが、そうしてはならないのです。男性が心配しても、何でそうするのかと言いながら慰めることのできる、常に健康な表情が必要です。女性がそうだと、そのような女性と暮らしている男性は慰労されるのです。


  9.言葉

 東洋では、女性の声が塀を越えるとその家は滅びる、と言うのです。男性がわー、わー言うのは自然なことで、塀を越えるようになっています。女性は声が小さいのです。本来そのようになっているのです。ですから塀を越えるようになると原則から外れるので、その女性と暮らしているうちに滅びるということなのです。そして女性が話す声を聞くと、すぐに分かるというのです。この人がどのような生活をするか、福を受けて生きられるのか、愛を受けて生きられるのか、それが分かるのです。ですから女性の声は重要です。そんなことを考えたことがありますか。
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 言葉は言葉だけで、行動は行動だけでしてはいけません。全部神様の息子、娘の位に立てられているので、神様の息子として語り行動し、神様の娘として語り行動しなければなりません。
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 皆さんは心情にない言葉を語ってはいけません。絶対に語ってはいけません。引っ掛かるのです。天法に引っ掛かるのです。
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 皆さんは言葉を瞬時に語りますが、その一言を間違えると、それが一年間も影響するのです。一瞬に間違った言葉を一年間もかけて清算するようになるというのです。
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 愛を中心として語る言葉は、いくら悪口を言っても、何を語っても栄えるのみであり、発展するのみであり、全宇宙が喜ぶのみであるというのです。


 十 純潔に対する教え

  1.思春期の戒律をよく守れ

 皆さん、思春期になると異性に目覚めるようになり、全体の思いがそこに集中するでしょう。すべての細胞の作用がそこに集合するのです。
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 皆さん、思春期になった青少年たちを見てください。女性を見ると、目をぱちぱちして、カラフルな服を着、お尻を包んで歩き回るというのです。お尻が大きいと大変なことになるのです。傷がつくかもしれないと小さくして歩き回るというのです。皆さん、人において、知恵とすべての肉的な作用を一〇〇パーセント活用できる時が思春期です。細胞全部が作用するのですが、一〇〇パーセントするのです。その時のみ一〇〇パーセント活動するというのです。女性がかわいらしいもの、カラフルなものをなぜ着ようとするのでしょうか。それはみな信号機と同じだからです。
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 このごろの世の中には様々なことが起こりますが、この天地では統一教会の者たちは絶対巻き込まれてはいけません。思春期というものが「思考」の「思」を使った思春期ではなくて、「死亡」の「死」の死春期です。皆さん、これ(思春期)を選びますか、これ(死春期)を選びますか。
            *
イエス様には思春期があったでしょうか、なかったでしょうか。イエス様にも思春期があったのです。イエス様も思春期があったのですが、何の思春期? この(「思考」の「思」)思春期を歩まれたのでしょうか。この(「死亡」の「死」)の死春期を歩まれたのでしょうか。どんな思春期を歩んだのでしょうか。誰にでも口笛を「ぴーっ」と吹いて合図する、そのような思春期ではありません。「思考」の「思」の思春期を歩んでいくというのです。
            *
 まず皆さんは思春期をしっかり過ごさなければなりません。生きようとするのはこれ(思春期)であり、死のうとするのはこれ(死春期)です。死のうとしてこれを外れて一回りひっくり返して、一八〇度回すと死春期が変わって思春期になります。それでイエス様は死んだ死春期を通して希望の春の日、新しく生きる春の日である新郎新婦の思春期に向かって探してこられたのです。それがキリスト教の新郎新婦の歴史です。
            *
 人間の堕落とはどういうことでしょうか。神様を中心として春の日を迎えることができなかったことです。春の日が来たら孝子になろうという者たちが、自分だけ春の日を迎えるのでしょうか。父母に、「お母さん、お父さん! きょうは春です。私たち、一緒に行って、きょうを楽しみましょう」と言ってこそ孝子です。「お母さん、お父さん! きょうは春ですが、春には昼寝をするのが適当です」と言って、ぐっすり昼寝をするようにしておいて自分たちだけで行って、歌を歌い、踊りを踊る者たちが孝子でしょうか。親不孝者と言われるだけでなく、殴り殺されなければならない者たちです。そうでしょう。
            *
 堕落とは何でしょうか。神様を中心として神様の側にいると、死春期として始まったのです。「死亡」というときの「死」の字を使う死春期です。死春期の歴史が始まったというのです。ですから死のうとするものには春が来るのです。新しい時代が来るのです。このようなことを今までしてきたのが、キリスト教の歴史です。
            *
 今日のティーンエイジャー(十代)が重要だと言われていますが、それは何でしょうか。これはプラスでもマイナスでも、どこでも……。目がひっくり返って歩き回ろうとするというのです。それで社会に破綻をもたらし自分自体に破綻をもたらすのです。また思春期は変化の時なので誰かが一言言っただけでも、「なーんだ!」と言う。全部そうだというのです。すっかり変わる時なので歩き回ろうとするのです。それで秩序に従って、状況を見つめながら行かなければならないというのです。皆さんは今これを整理しなければなりません。びくともしないものをみな整理しなければなりません。さあ、善悪の中で悪とは何でしょうか。破壊するためのものです。何の保護作用も成立できないということを知らなければなりません。
            *
 思春期の時は、男性や女性が危険な時です。ですから思春期に間違えると一生を駄目にすることもあるのです。しっかり選択すると一生を繁栄に導いて生きることができるのです。そのような問題が起こるのです。
            *
 今日の青少年たちが父母に逆らい家庭を破綻させるのは、法度の秩序を破綻させることだから悪だというのです。それによって家庭が破壊され、社会が破壊され、国家が破壊され、人間が破壊されるのに、これが悪でないはずがありません。思春期の時は力を出して、映画に出てくるスリルのある場面を実践してみたがったりするのです。それのどこが悪いのかというのです。しかし、そのようなふしだらなことをして環境を破綻させてしまうようなことが起こるので、制裁をしなければならないというのです。皆さんの知性が明るくなって、社会の体験と環境的なすべてのことをコントロールできるその時には良いとしても、今は駄目なのです。
            *
 皆さんは今最も美しく咲こうとしているつぼみが良いですか、ぱっと咲いた花が良いですか。先生はぱっと咲いた花が良いのですが。皆さんはちょうど今咲こうとしている人たちでしょうか。咲く時には自分勝手にぱっと咲きなさいというのです。他人の力で咲くのではなくて自分の思いのままにぱっと咲きなさい。それはどういうことかというと、皆さんが自然と育って、自然と思春期を過ぎ、自然な環境でぱっと咲いて、愛する夫に出会わなければならないというのです。咲くこともできずにしわくちゃになってはいけません。葉が落ちて粉が落ちてから咲く花になってはいけないのです。男性も同じです。男性もぱっと咲かなければなりません。
            *
 まだ咲いてもいないつぼみなのに、手紙を書いて恋愛ごっこをするような悪い者になってはいけません。自然とぱっと咲かなければならないのです。神様が御覧になる時、「わー! 純粋に本性的に咲いたのだなあ。香りをかいでみると汚れていない初物だ」と言えなければなりません。ですから神様も希望に胸を膨らませているというのです。そのような神様が初物を望むしょうか、しわくちゃなものを望むでしょうか。では皆さんはどうですか。初物を望みますか、しわくちゃなものを望みますか。堕落した皆さんも新しいものを望むのに、神様はそれをもっと望むのではないでしょうか。ですから純情をもってぱっと咲いて、今日の堕落した世界の悲しみの峠に引っ掛かるのではなくて、それを越えていくことのできる、価値のある皆さんになってくれるように願います。


  2.私は天の子女

 私たちは父の息子にならなければなりません。娘にならなければなりません。本当に父の血統を受け継いだ娘、息子にならなければなりません。父の心情が私たちの心情と因縁を結び、父の心臓の動脈が私たちの心臓の動脈と因縁付けられる一体的な関係を成し、父が行かれる道が私たちの道であり、父の心情が私たちの事情であり、父のみ旨が私たちのみ旨にならなければなりません。
            *
 皆さん考えてみてください。二十代に近い青少年として汚れに染まらずに聖なる純情をしっかりと包み込んで、どこに置いておくのでしょうか。天が最も喜ぶことのできる祭壇の前において神様が喜ばれるのです。その次には、自分のような純情をもった男性と女性が出会って神様と共に結ばれる聖なる基盤が、新郎新婦が出会う場であるにもかかわらず、皆さんはそのような価値を知らずにいます。
            *
 自分の体は貴いものです。これを汚さずに親孝行をするのです。神様に認められる体をもって、責任性をもってサタンの死亡圏から脱出しなければなりません。これは人間としての最高の目的であり、またそれが基準なのです。創造原理的に言えばそうなるようになっているのです。
            *
 皆さんは神様の純種になることができなかったので、純種になろうとすると従順でなければなりません。そして皆さんが言うことを聞かないと、たたいてでも従順になれるような法度を教えるのです。神様の愛を教えるというのです。これが統一教会です。それで統一教会はすべての宗教の中心になる宗教なのです。
            *
 これから従順の種を作らなければなりません。種を割るとその種の中心は胚乳です。胚乳の中心は神様の愛だというのです。では皆さんの頭を割ったらその中心は何でしょうか。神様の愛だというのです。種の中心、すなわち根になることのできる動機が神様の愛です。神様の愛から出発するのです。ところで皆さん、「私には神様の愛がある。私はたとえ見てくれはみすぼらしく、肉身は五、六尺にもならないけれど、この男の赤い心には神様の愛があふれている」と、そう言ったことがありますか。
            *
 地上は貴重だと思います。特に若い人たちは体を正しく保存しなければなりません。従順で清い心、従順で清い体が親に対する真の親孝行になるのです。
            *
 初愛の心をもって神様の前に行かなければなりません。
            *
 あの世に初愛と共に行った人が、天の国では最高の立場に行くということを知らなければなりません。
            *
 この地に生きる人で、天国に行くことのできる人は初愛を中心として行き、初愛によってすべてのことをあきらめ、初愛のゆえに死に、生きるという人です。ですから初愛を正しくしなければなりません。


 十一 聖別儀式の生活化

  1.聖塩

※聖塩は一九六〇年三月十六日(陰暦)、真の御父母様の成婚された日を基点として初めて聖塩を作って使用した。これによってすべての家庭は聖塩を使用して生活と環境を聖別する生活をした。
            *
 聖塩は麹のようなものです。ものを購入したときに聖別し、外出して家に戻ったときも塀(門)のところで聖別するのが原則です。
            *
 聖別したものをサタン世界に出してはいけません。それが不可避なときは左手であげなさい。
            *
 聖別は「父と子と聖霊と真の御父母様と私の名によって聖別いたします」と唱えながら聖塩を十字(北南東西の順)にかけます。
            *
 聖別した不動産などを処分しなければならないときは、段階を追って許しを得て処分するのが原則です。
            *
 私たち食口が聖別した土地をもって、すべての土地をだんだん占領していかなければなりません。
            *
 皆さんがどこかに行って座る時、塩をまいて座りますか。心の中で「ふー、ふー、ふー」と三回吹く条件を立てて座りなさい。サタン世界に美男子がいたら、「ああ、美男子と一緒に暮らしてみたい」そのように思わずに、美男子が手を一度握ったとしても「ふー」と吹いてしまわなければなりません。塩をまかなければならないというのです。心の中で「ふー、ふー、ふー」と三回吹きなさい。塩を三回まくのです。
            *
 食口たちはすべてのものを聖別しなければなりません。聖別をするのに聖塩をまいて聖別するのは何の問題にもなりませんが、御飯を食べたりそうめんを食べたり水を飲んだりする時に、いつ聖塩をもってそうするのでしょうか。ですからこれからどうするのですか。イエス様が復活したのち、「ふーっ」と吹きながら聖霊を受けなさいと言ったのと同じです。アダムを造っておいて鼻に息を吹きかけて実体の新生命を誕生させたのと同じように、これからは皆さんも生命の実体を代身して、水を飲んだり御飯を食べる時には息をかけてから食べなければならないというのです。
            *
 韓国の風習は妙だというのです。水を飲むときも息を吹きかけてから飲みます。また息を吹きかけて座ります。それは天がこの民族のために実践することのできる自然的な良心を動かして私たちに一つの風習として残すようにしたものです。これはすべて偶然に成されたのではありません。ですから心でいつもそのような聖別をしなければなりません。私たちは三時代、蘇生、長成、完成、六千年の長い時代を三時代として経ながら、汚れたものを聖別するために三回息を吹きかけて食べなければならないというのです。どこに行っても、皆さんが小便をしても、これからはそれをしなければならないのです。どこに行ってもみなしなければならないのです。


  2.聖なるろうそく

   @ 心情のろうそく

※心情のろうそくは一九六一年一月五日にお作りになり、祝福家庭に伝授。心情のろうそくは真の御父母様を象徴するものであり、神様の心情を慰労してみ旨の成就を誓う祈祷をする時に使用する。
            *
 「アダムは堕落以降真の生命と愛(心情)の源泉を失ってしまいました。人間は神様を心情的にずっと失望させてきました。このような失敗によってあなた様は堕落人間を復帰するために身もだえせずにはいられませんでした。あなた様の労苦を心の中に大切にしまいながら私たち一人一人は復帰されたアダムの位置に上がるための一念で生きてまいりました。万物を復帰するための私たちの決心をもっと堅くしてください。この心情のろうそくが燃える時ごとにこの火花があなた様の心情を慰労してくださり、あなた様のみ旨を成すための私たちの献身があなた様に記憶されるようにしてください。私たちがこの心情のろうそくに火をともし、祈祷する時ごとに、復帰歴史において私たち自身の決意をさらに強くさせてください」


   A お産のろうそく

※お産のろうそくは誉進様の誕生時から始まった。「三十六家庭」が結婚生活を始めて以降、真の御父母様が各家庭に伝授してくださった。
            *
 「私は今真の御父母様が三十六家庭に伝授してくださった伝統的なお産のろうそくを各家庭にもう一度伝授しようとしています。私が持っているお産のろうそくを、本来の真の御父母様が持っていらっしゃったお産のろうそくの象徴として使用しましたので、この家庭にも同じ内容をもつお産のろうそくを持てるようにしてください。あなた様のみ名と栄光をもって祈祷しますので、子女たちを出産する間、このお産のろうそくが燃える時に霊的な雰囲気を聖なるものにしてくださり、サタンが一切接近できないようにしてくださるように、祈祷いたします」。


   B 愛天のろうそく

※愛天のろうそくは一九八四年五月十六日、真の御父母様が作られ、五月二十日、祝福家庭に伝授された。愛天のろうそくは人類に対する愛の表示として心情のろうそくとは違って二本一組になっている。
            *
 ろうそくはそれ自体が犠牲となって光を発します。このように神様を中心として人類が一つになるためには、犠牲にならなければならないということを象徴しています。火がつく所はろうそくでもなく芯でもありません。ろうそくと芯が合わさって火がつき光を発します。同じように、主体と対象である夫婦が互いに犠牲になる時、光を発するということを象徴します。そこにはサタンが存在することができません。
            *
 愛天のろうそくを中心として統一心情圏に完全に一つになりなさい。そうするとすべてのものが整理されるのです。
            *
 「愛する神様! 愛天日を定めたこの勝利の標的を消えないろうそくの火によって象徴してくださったのでここに父母様の愛、神様の愛が共にあってくださり、このろうそくの光をともす所ごとに、その場の光と共に一つになるその家庭には平和が掲げられ、あなた様の愛の主管圏が連結されて暗い勢力を防ぎ、すべての不義の条件を防ぎ、不和の根源を防止できる勝利の聖なるろうそくになるように許してください。これを愛し、特別に祈祷する所ごとに、あなたが常に共にいてくださって父母様が共にいてくださり、全霊界と肉界が愛の統治権をもって共にいて保護してくださるようにお願い申し上げます。これから始まるこの愛天のろうそくの上にあなた様の栄光と共に歴史に長々と連結されることのできるように、そうして天国が完成される時まで継続することができるよう祝福しますので受けてくださいませ。父母様の名前で祈祷し宣布いたしました。アーメン」。


   C 統一のろうそく

※統一のろうそくは一九九五年九月五日から一九九六年一月二日まで、真のお母様が真の子女様と共に夜十二時に統一のろうそくをともして百二十日の間精誠を捧げられたのを起源とする。
            *
 今回お父様は、九月五日から米国巡回講演をされ、私も日本での講演を行いました。私は家を出てくる時、子供たちと話し合いました。集まることのできる子供たちをみな集めてから、「お父様が、再び人類を抱かれるために、アメリカを相手に、第一線に出てお話しされようとしておられるので、私たちは精誠を尽くしましょう」と言いました。
 子供たちは一言の異議もなしに、皆「そうしましょう」と言いました。子供たちは離ればなれに分かれて勉強しているのですが、どのような環境にいたとしても、夜十二時になれば、ろうそくをともして祈祷することにしました。来年の一月二日までの百二十日間、精誠をささげることにしたのです。(真のお母様のみ言)
            *
 私が、きょう持ってきたろうそくがあるのですが、これを伝授します。ですから皆さんには、御父母様の前に誇れる息子、娘として、この地上で実を結ぶ立場になってほしいのです。そして、みんなを天国に一緒に連れていきたいのです。
 精誠をささげる基台を、真の御父母様の家庭の子女たちまで拡大して、幼くとも皆さんがその隊列に共に同参して、同じ心情で、各自、責任を果たすことのできる者となってほしいのです。    
 このろうそくは一本ですが、これは三つのろうそくが一つになったものです。そして、ここに真のご子女様たちの愛が込められています。(真のお母様のみ言)
            *
 この「統一のろうそく(統一燭)」を連結して、永遠に消えることのない火で燃えるあなたの前に、忠誠と愛の心をもって全人類を燃やす時まで愛することを、重ね重ね誓い、約束する時間となりますように。そして、そのような人生を生きることのできる各自すべてとなることができますように、お父様、激励し、お守りください。
 そのためにこの生命をささげるほどに、忠誠を尽くすことをお誓い申し上げるとともに、そのような立派な者たちとなることができますように、いま一度祝福してください。すべてのみ言を真の御父母様のみ名によってお祈り申し上げました。アーメン。(真のお母様のみ言)


 十二 祝福家庭の日常生活儀礼

  1.敬拝式

 毎月一日は、朝の五時に各家庭で、夫婦が共に本部に向かって敬拝しなければなりません。喜びの雰囲気の中でしなければなりません。日曜日にも朝五時にしなければなりません。その時は一週間のすべての生活を報告しなければなりません。日曜日が早く来るのを願う喜びの日にならなければなりません。
            *
 敬拝式は日曜日の朝にだけするのではありません。本来は毎日しなければなりません。朝起きたらまず本部に向かって敬拝式をしなければなりません。それが公式的な礼式です。しかし毎日そうすると副作用があるので副作用を避けるために、その条件をかけて聖日と毎月一日の早朝だけにしているのです。本来は毎日しなければならないのです。
            *
 早朝の敬拝の時間だけでも天と直線上に立ちましょう。その時間は本当に深刻な立場です。その時間に一秒遅れても悔い改めなさい。その時間には聖物として飴一粒でも準備しておいて子供たちに分けてあげなさい。ちょうど聖晩餐の時のように……。
            *
 早朝の敬拝、精誠、礼拝時間を厳守できないのに自分の息子、娘のことがうまくいくように願ってはいけません。先生を中心として四位基台を成さなければなりません。そして後孫を立てようとするなら父母がしっかりしなければなりません。


  2.家庭礼拝

 父母がみ旨の生活において模範にならなければなりません。家庭での祈祷生活とか、家庭礼拝だとか、どのような面でも負けることのない信仰生活を、子女たちに見せなければならないのです。
 また敬拝の時間がどんなに重要かということを認識させなければなりません。その時間には敬拝式だけで終わるのではなく、み旨を中心として、父母として子女たちを教育しなければなりません。
            *
 自分の一族を中心として家庭礼拝をどこでも捧げることのできる環境を広めていかなければなりせん。ですから皆さんが公式の集会に参加したかどうかが問題になるのであり、その次には公式活動での責任遂行をしたかどうかが問題になるのであり、その次には家庭生活で子女の前に父母として模範になれたかなれなかったかが問題になるのです。


  3.訓読会

 訓読会はすべての祝福家庭の夫婦同士だけでもしなければなりません。毎日朝に一時間ずつ。もし朝にできなければ夜寝る前に十二時にでも、一時にでもしなさい。私はしているのです。今回南米の巡回をする時も十二時を過ぎて疲れてだるくてもそれを実践したのです。抜かすことができません。一日でも。分かりましたか。読んでみるのです。「祝福家庭と理想天国」この本は祝福家庭の内容を全部教えてくれ、理想天国の内容を全部教えてくれるものです。先生がこれのために闘ってきた勝利の基盤を、またハイウェイを築いておいたので、ここに高速道路をつくって皆さん全員が自動車になり、ガソリンになり、自動車でこれを最高のスピードで走らなければなりません。
            *
 時間さえあれば訓読会をしなければなりません。一人でも、会長室にいても訓読会、一日に何時間でもどこを読んだか記録しておいて、ポケットにはみ言集を入れておいて、いつも訓読会をしなければなりません。
            *
 訓読という言葉をもう一度書いてみてください。(「み言」という意味の)言偏にこのように書く、これは何でしょうか。「川」です。「み言」が「川」の横に行くと、何ですか。神様のみ言がまっすぐな小川に出会ったのです。これを見ると蘇生、長成、完成です。「読む」という字は(「み言」という意味の)言偏に(「売る」という意味の)「売」です。売らなければならないのです。もっていると大変なことになります。売らないならば、あげなさいというのです。商品を積んでおいて腐らせては罰を受けます。
            *
 『御旨の道』を読み、『原理講論』を読むのはもちろんですが、『祝福と理想家庭』とか、今まで先生が語ってきたみ言の中で重要なみ言は、サタン世界に対して闘ってきた勝利の記録なのですべて読まなければなりません。ですから私たち統一家においては、父母様と一つになるためには、父母様の歴史的記念である過去、現在闘っている内容が全部含まれているので、その内容と一つになれるようにしながら、ここにあるこのみ言とともに相対的な気分をつくっていかなければならないのです。それは自分を中心として、家庭を中心として、自分の一族、七代まで、そしてこれを横的には百六十家庭、百八十家庭が完全に一つになって、み言を定着させなければならないのです。
            *
 先生のみ言は先生が語ったのではありません。先生が語ったのではないというのです。天が先生を通して語られたみ言です。そのみ言は、皆さんがいつどこで聞いても心が動くようになっています。心が感動して体一帯に革命的な変化が起こるのです。そのような力があるのです。
            *
 集まりがある時には勉強です。夜でも昼でも時間さえあれば勉強です。何百回、何千回、読んで自分のものになるまで。自分がその相対的実体圏をもつ時まで。これからそのようなことをするのです。統一教会は座っていると病気になるのです。病気にならないためには一生懸命読み、試験をし、努力するのです。
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 訓読会は私が千辛万苦、一生積んできたすべての宝箱を民族のために解いてあげることです。誰にでもみな。翻訳もしてはいけないと言ったのです。翻訳してはいけないのです。民族にはっきりと知らしめるまでです。それを知らなければなりません。分かりましたか。


  4.家庭盟誓

 人間は本来盟誓した内容(家庭盟誓文)の因縁をもって生まれたのであり、この盟誓の中で生きては死んでいかなければなりません。何の呵責もなくこの盟誓文を読むことができなければなりません。
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 これから皆さんは自分の家庭において日曜日には敬拝式をしなければなりません。これは何かというと、祝福を受けた人たちの宣言式です。この家庭はサタンが侵入できないというのです。ですから私たちが家庭盟誓を暗唱するのです。家庭盟誓。それは何かというと、サタン世界と関連がないという宣布です。一週間に様々なことをしたすべてを清算することのできる一つの宣布式です。ですからそれを抜かすと問題になるのです。


  5.祭祀(祭事)(先祖供養)

 昔の忠臣の家庭では、良いものがあるとまず国を治めている人に捧げました。これが韓国の忠臣の生活法です。そのような観点から見る時、韓国の礼法はどんな国にもない天国の中心の内容だというのです。儒教では孔子の教えに従うのですが、その孔子の教えを中心とした礼法を見ると天法に近いものが多いのです。これから皆さんの後孫たちは、皆さんに対して祭祀を捧げなければなりません。まだ生活規範や葬式の仕方など原理を中心として定められていませんが、その礼法が定まったら、その時からは適当にしてはいけないのです。
 これから皆さんはどんな内容でも、神様が共にしてくださるという信仰をもって自分の環境を屈服して根を深く下ろし、どのような風雪の中にも育つことのできる生命力をもたなければなりません。そのようになる時神様が法を立てることも問題になりません。しかしそれができない時は問題だというのです。
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 先祖が亡くなった日には皆集まって先祖のために祭祀の壇を飾り、祭事をします。先生の写真を掲げたその部屋でするなら、(先祖に)祈っても(敬拝しても)罪ではありません。おもちをついて祭祀を捧げても罪にならないのです。
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 統一教会は先祖に侍ることを許すのです。統一教会はこれからその伝統を受け継いでいかなければなりません。これがこれから真の父母を中心とした反対の立場に立つのです。この世の国、この世の伝統ではありません。天の父母、天の国、天の先祖に侍るにおいて、その代を継ぎ、主流思想的、伝統的に、血族たちに千年、万年侍ることのできる王土になります。王に侍ることができ、永遠の太平のみ代をうたうことのできる国になるのです。その国で生きて過ぎ去っていってこそ皆さんの母親、父親、一家、一族が天国に直行するのです。
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 選民圏と血統を重要視しなければなりません。選民圏は長子権です。韓国は長子の国です。韓国が族譜を愛する民族になったのもみな血統を受け継ぐためなのです。先祖を崇拝し、先祖に祭祀を捧げるのは悪いことではありません。これから儒教思想以上に父母を尊敬する時が来るのです。
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 統一教会は祭祀を捧げても良いでしょうか。解放ですね! これからは祭祀を捧げてもかまいません。今までは祭祀を捧げることを天が望みませんでした。先祖を崇拝する韓国の法が天の法です。世界でも独特な民族です。韓国だけがそうなのです。
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 祭祀を捧げる時間は後継ぎが決定するのです。ですから夜一時に捧げていたものを朝の五時にすることもできるのです。朝五時にしようとしたのを事情によって朝七時にすることもできるし、昼間にすることもできます。誰がそれを決定するのかというと亡くなったおじいさん、先祖がするのではありません。後継ぎが決定するのです。亡くなったおじいさん、おばあさんも、後継ぎが決定した時間に来なければ祭祀の壇につくことはできないのです。それが嫌でも席につくことができません。地が中心です。地で解かれれば天でも解かれるというのと同じです。ですから二人が一つにならなければなりません。
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 祭祀をする時は叔父(三親等)、従兄弟(四親等)、八親等、ひいおじいさんがいたとしても後継ぎをまず立てるのです。韓国の伝統的文化背景に、先祖を尊重視するために後継ぎを立てるのを見る時、この民族は長子権を尊重視する民族だったというのです。
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 父母に親孝行したなら死んだのちに祭祀を捧げなくてもよいのです。写真をおいて生きている母親、父親のようにその日を記憶すればよいのです。霊界になんの境界線がありますか。これからは墓地まで行かずに家に集まって、生きている父母のように侍ってお祭りをし祝えばよいのです。そうすると墓地に行かなくても祝うことができます。
 ですから母親、父親の墓は、自分が生きている園に造らなければならないでしょう。西洋では教会の庭に埋めるでしょう。その母親、父親の墓の前に恥ずかしい行動をしてはいけません。亡くなった母親、父親が忠告するのです。愛の定義に外れることがあれば直接先祖たちがついてきてチェックするのです。
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 今までキリスト教で祭祀を捧げられないようにしたのも一理があるのです。祭祀は神様と全人類の真の父母が受けなければなりません。上の代の先祖たちが天でまず侍られなければならないのです。ところが堕落によって、それを今までは禁止してきましたが、復帰時代において祝福を受けたので、これからは先祖たちに侍らなければならないのです。


 十三 祝福家庭の生涯儀礼

  1.出産、奉献式

 愛する息子と愛する娘というのは極めて貴いものです。分かるでしょう。天と地の極めて貴い宝物です。それはお金で買えないし、この世に代えられない宝物です。神様にもそうですし、父親、母親にもそうです。息子、娘を代えることができますか。息子と娘は神様が下さった貴い贈り物です。
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 子供を見ると神秘的なのです。それを考えると神秘的だというのです。「やー! こいつどうやって出てきたんだ」という具合にです。どんなに神秘的か考えてみてください。皆さんがそのように人をつくるとしたらどうでしょうか。それは何千年かかってもつくれないでしょう。
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 皆さんが生まれる時、母親の腹中から出る時、どんなに大変だったかを覚えていますか。神様はなぜ子供を産む時、このように産むようにされたのでしょうか。ただ簡単に、言うがごとく簡単に、おいしい食べ物を食べるように簡単に、香水の香りが漂うように簡単に、ただうれしくて口を開け「ははは」と子供を産めるようにしたらどんなに良いでしょうか。なぜそのように産ませずに、汗を流して死ぬか生きるかという限界で産むようにしたのでしょうか。なぜそうしたのでしょうか。どうして? 光り輝く愛を見るためにです。
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 その死ぬような境地で目の玉が飛び出し、すべてのものがみな壊れ、天地にこれは大変だという境地で子供が「おぎゃー」と泣いて生まれると、はっとするのです。痛いことは瞬間に消え去るのです。このように産んだので、その困難以上に愛するのです。「あらまー氏iかわいい)」と言うのです。それは何のことか分かりますか。
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 娘は生まれたら七日目に奉献し、息子は八日目に奉献式をします。


  2.祝福、祝福式

 皆さんは真の父母と完全な因縁を結ぶことができませんでした。ですからその因縁を結ぶためにしてあげるのが祝福です。
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 祝福が何かというと、神様と一つになることです。神様と一つになると全体を背負うようになります。神様のすべてのもの、主体がもっている全体を受けるのです。
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 祝福の場はどんな場ですか。祝福の場は世界で最も良い立場です。その祝福の立場は誰と関係を結ばなければならないのでしょうか。皆さんは自分自身で完成するのではありません。父母様の愛によって完成されるのです。子供が父母の懐から生まれれば立派であってもそうでなくても、その父母の形態に似るのです。それと同じように統一教会では真の父母の道理を教えてくれるのです。それが皆さんには福の中の福です。
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 祝福をしてくれるということは天の全権を移すということを意味します。
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 祝福は天地で最も貴いものです。同時に極めて恐ろしいものです。もし夫婦が互いに他のこと(いけないこと)を考えたなら、それは相手を蹂躙することです。
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 皆さんからまず善なる先祖、地、国が生まれるのです。ですから祝福を受けた人は目さえ開ければ天地を考えなければなりません。祝福は人に福を与えるためのものです。堕落によって汚れた血統を継承するものを転換しなければなりません。これをしなければ原罪を脱ぐことはできないし、原罪を脱ぐことができなければ真の子女として祝福を受けられる段階に上ることができません。原理がそうなっています。堕落によって生まれた原罪を脱ぐ血統転換、すなわち血肉を交換する式が聖酒式です。
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 聖酒にはサタンの讒訴のない万物の要素がみな入っています。その聖酒を受けて、真の父母と一つになった自分自身を汚す行為をしたなら、サタンよりももっと汚れた立場に立つようになります。サタンは長成期完成圏を汚し、蹂躙したのですが、祝福を受けた者が間違えると完成期完成圏で神様の実体を犯した罪が残るようになり、永遠に許されません。これは実に恐ろしいことです。
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 結婚式はすなわち愛の伝授式です。神様の愛をもって父母が生きたように、皆さんも父母の愛を神様の愛の代わりに受けて、このように生なさいという、愛の伝授式が結婚式です。
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 祝福を受けた人は霊界に行っても先生が永遠に責任を取ります。先生が主管して指導します。祝福とはこのように先生と永遠の因縁を結ぶものでもあるのです。
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 祝福を受け、間違えたなら必ず蕩減があります。間違いなくあります。過去には許されませんでした。だから統一教会は恐ろしいところです。原理がそうなっています。
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 先生は今まで新しい祝福、新しい家庭のための蕩減条件を皆さんが立てられるようにしてあげ、皆さんの重い荷物を私が責任をもとうとしてきました。しかし先生が責任を遂行したにもかかわらず皆さんが天法を犯したとしたら、その罪は何十代の子孫まで引っ掛かる恐ろしいものです。
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 祝福の過程を通過した人ともう霊界にいった多くの人との価値は、どう違うでしょうか。信仰の基準から見る時、それは相手になりません。このような天的な恩恵を投げ捨てるようになった場合にはサタンが皆さんを讒訴するようになります。天使長は長成基準でサタンになったけれど、皆さんは完成基準で堕落したのでサタンが審判するようになるのです。


  3.昇華、昇華式

 今日人間が死んでいくということが何かを知らなかったのです。それは悲しみではありません。次元の低い世界から次元の高い世界に愛の橋を通して移動することだというのです。ですから統一教会は死を昇華します。次元高く昇華するというのです。それは愛でのみ可能です。愛でのみ。
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 堕落しなかったら人が死ぬことは幸福です。それで統一教会は死を悲しみとして迎える教会になってはいけないと教えるのです。ですから昇華式というのです。
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 統一教会では死んでお葬式をすることを昇華式といいます。死んだ人にすがって泣くのを見ると、死んだ霊が嘆息するというのです。「このように無知で、私の行く道を綱で引っ張って行けないようにするのだ」と言うのです。そのようなことを知っているので統一教会では昇華式というのです。天に向かって聖なる飛翔をするというのです。愛の力をもって押してあげなければなりません。引っ張るのではなくて押してあげなければなりません。
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 昇華式という言葉は興進君の時から出てきたでしょう。愛勝日というものの、その愛勝とは何でしょうか。死亡に勝つことです。他の人だったら母親も身もだえし、はいつくばりながら痛哭することですが、母親が涙を流してはいけないのです。三日以内にこの式をしてあげなければなりません。死亡に勝ったのだと宣布してあげなければなりません。ですから統一教会では昇華式が行われるのです。死亡を越えて喜びに向かって行くのです。昇華式を経ていく人たちは霊界のすべての峠をひゅうっと越えていくのです。もちろんそうできない者たちは途中で留まりますが……。それを知らなければなりません。昇華式とは興進君から始まったのです。
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 興進君が蕩減してこの死亡の塀を、死の塀を壊してしまったのです。それで昇華式と言うのです。死は失望や落胆ではありません。落ちるのではなくて跳躍することです。昇華するということです。統一教会の教会員たちは死に対しての恐怖をもってはいけません。死はこのような自然の循環の法度によってくるのです。もっと良い世界に移してあげるための手続きなのです。
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 自分の息子である興進が亡くなっても涙を流しませんでした。霊界に行くことは悲しいことではありません。解放のラッパの音とともに天国の旗を掲げ、足取りも堂々と百戦百勝して天下の錦を飾った旗を掲げて故郷に帰り、民族と人類の歓声をあびて、堂々と入ることのできる還故郷をするのです。悲しいことではありません。統一教会では泣きません。それをなんだかんだと言いますか。昇華式だというのです。
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 私の義理の母になる方も亡くなりましたが、統一教会は葬式とは言いません。何と言いますか。昇華式。昇華されるのです。横的なこの世で生きて縦的な世界の活動舞台に、無限な世界に行くのです。サタン世界では泣きわめくと悪霊が来ますが、そういう立場は悪霊が訪ねてくることができません。
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 では、統一教会では葬式を何というのですか。昇華式とは何ですか。変化して一段階上がるというのです。今回おばあさんが亡くなった時も私は泣きませんでした。彼女の行く道を選んであげるのに忙しかったのです。孝子と言うならそれ以上の孝子がどこにいますか。
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 統一教会は死んだのちの葬式もそのようにはしません。昇華式です。どこに行くと思って生きますか。この世に怖いものがどこにありますか。天下に怖いものがどこにありますか。罪悪の世界、混乱した世界において自主的な中心の形態をもって、天地の度数に合わせて神様の愛圏内の垂直の立場に入るようになります。なぜ垂直の立場に入るのでしょうか。その立場には影がありません。すべてのものが完成です。その次に、これが回るようになるので、回る環境全体が垂直化されます。男性を中心として女性が一つになれば、その男性と女性を中心としてその環境は全部幸福圏になるのです。


 十四 記念日を迎える心の姿勢

  1.記念儀式の意義

 公的な日を思慕する心をもたなければなりません。このような伝統を立ててこそ後孫たちの生活的伝統を立てることができるのです。公的な日は天が喜ぶ中で、すべてのことを互いに共に分け合って楽しく過ごさなければなりません。この日は家庭を基準として天的な法度を立てていく日です。
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 人間が堕落して以降、歴史過程を通したこの人間世界に現れた記念日は、神様を喜ばせるのではなくてサタンが喜ぶ日として現れたという事実を知らなければなりません。国が独立した日を記念するとか世界的なある行事をする日はすべて堕落圏内で成されているというのです。
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 原理的観点から見る時、人間が最も願う祝いの日、希望の日があるとすればその日は自分が生まれた日でもなく、自分が結婚した日でもありません。自分の国を失った国民の一人として国を取り戻した、または国家が独立した日でもないというのです。皆さん、それを知らなければなりません。人間において最も希望の日、願う日があるとすれば「神の日」、「父母の日」です。その日が地上に生まれる、それだけが私たち全体の願いになったという事実を知らなければなりません。「神の日」と、「真の父母の日」が始まるようになると、その次には「子女の日」も、「万物の日」も自然と連結されるのです。
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 今日この地上に生きている人は誰も「神様の日」を祝った人はいないし、「真の父母の日」を祝った人もいないし、「真の子女の日」を祝った人もいないし、「真の万物の日」も祝った人がいないというのです。一年三百六十五日というならば三百六十五日が連結されるすべての日の中で最も重要な日とは何かというと、今語っている摂理史に現れるこのような日であるという事実を確実に知らなければなりません。その日はその中でも王の日のようなものです。そのような年があったなら年の中でも王の年だという事実を知らなければなりません。
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 統一教会で私たちが祝っている名節や記念日は、サタン世界と闘って血のにじむ闘争を通して成就した摂理的な勝利の日なのです。絶対的な勝利の成就を記念する日であるだけに、神様と真の御父母様に対する感謝と有り難い心でこの日を迎えなければなりません。


  2.儀式のための礼服は端正に

 先生は最上の高い立場、天の補佐になるのですが、皆さんは皆ついて来られません。祝福という貴いものを受けたので門は開いていますが、行こうとしても行くための礼服を着られませんでした。祝いの家に行くのに田舎の農夫のズボンをはいていってもよいでしょうか。考えてみてください。そこに合う装いをしてその立場に行ってこそ、その環境に歓迎されるに足るのであって、そうでなければ追放されるのです。「こいつ、どけ!」と言われるのです。
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 ここには誰でも来られるのではなく、また、ただ来ることもできません。必ず礼服を備えて来なければならないのです。
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 祭物はその人の生命に代わり、その人の理念に代わります。祭物として捧げるものを買う時は値切らずに少しでももっとあげなさい。礼服の生地を買う時も同じです。
























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