青年の希望
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メシヤと我々

一九七二年四月二十三日、統一教会の東京教会において、文鮮明師御夫妻が来日された際に、統一教会のメンバーに対して語られた、文鮮明師の講話である。


神を失った人間

 この世に住んでいる一般の人は、メシヤが必要であることを知る者はほとんどいない。宗教生活をする者に限ってそれを知る。

 人間は救いの道を求めていかなければならない。この世において、我々人間としては未完成のものである。完成した人間の価値を求め、あるいは理想の人格の基準を求めているのだけれど、求めているその者は、堕落圏内にいる。現世に住んでいる自分たちの努力において、それがなされると思う人が多くいるかもしれないけれど、堕落している現世の人間自体がいかに要求しても、完成基準には到達できないということを、我々はよく知っている。

 このように完成を願うような人間になったというのは、これは結局、堕落の結果である。堕落が問題である。

 人間本来の理想の価値を立てずして、その価値の基準を失って落ちてしまったのだから、落ちた所において、再びそれを求めなければならないのが、この地上に住んでいる人類である。いかなる苦労の道を越えても、その目的の基準を我々は探り求めて、その基準に立たない以上は、理想とか、あるいは人格完成とか、人間として求めている最大の価値基準を得ることはできない。これは、人間自体の願いである。

 人間が願うことはもちろんであるけれども、もしも神様がいるならば、神様自体もそれを願わざるを得ない。だから知らない人間たちを、神様は背後において、人間の最高の価値基準まで引き上げてやらなければ、神様の最初の創造目的もなされない。だから背後においては神様も願い、堕落した人間自体においては、我々は未来を目標としてそれを願っている。その基準が一致するある時が来なければ、神様の御理想はもちろん、人間として願っている最高の完成の価値観を満たすことはできない。

 しかし、この世に住んでいる人類は、神様が本当にいるかいないか、はっきり知っている者はいない。これが問題である。もしも神様がいるということを知ったならば、ここには説明も何も必要ない。教える必要もない。ある方向とか、目的観念を勉強する必要もない。個人なりに神様に則したいその一念において生活していけば、神様の願いの目的の基準に到達するのはもちろんである。だから要は、神様がいるということをはっきり知ったならば、すべては解決する。個人に対しての問題、あるいは家庭に対しての問題、あるいは氏族、民族、国家、今においては世界が問題になっているから、世界のすべての問題までも、神様がいるということをもしもはっきり知ったならば、神様が人間の中心として率いるこの地上には、人間が新たに何ものも求める必要はない。

 だから神に向かって共に相愛し、共に生活しながら引き連れられていけば、自然とその目的の世界、個人の目的はもちろん、全体の目的の世界に到達するのは、これはもちろんのことである。だから、問題はどこにあるかというと、神様を失ってしまった。神様を失ってしまったのだから、神様によって与えられた完全、あるいは最高の価値というものも、自然と失わざるを得ない結果になってしまった。

 堕落したアダム・エバ、あるいは我々先祖が堕落したことは見たこともないし、聞いたこともない。しかし、堕落した結果の世界に生まれている。だから我々人類の生きている現世、この世の中というものは、堕落圏に包囲されている。この堕落圏内から脱出し、乗り越えていかなければならない。そのためにはまず、個人としていかに乗り越えていくか。個人を乗り越えたならば、家庭を中心としてこれをまた、乗り越えていかなければならない。家庭に限ったばかりではない。氏族、民族、国家、世界まで、天宙の最高の基準を乗り越えるまで、ここには堕落圏がすべてを占領している。これをいかに正すかということが、我々堕落した人間として解決しなければならない、重大な問題である。

 これを果たすには、今、現世の世界のすべてを導入しても、それは可能な問題ではない。国の力でもできなければ、世界の力でもできない。それ自体が堕落圏に包囲され、拘束されている以上は、それ自体を中心としては解放とか、あるいは抜け出るということはできない。


メシヤの必要性

 だからここにおいて我々人類として願うのは、第三者の力を頼りとしなければならない。そこにおいて、宗教の必要性が生じてくる。

 愛なる、絶対なる神様がいたなら、我々はこのすべての環境を正してもらいたい。それが今まで歴史を通しての、我々人類の要求であった。その要求とともに、もしも神様がいたとするならば、人間をそのような立場に置きたいのが、神様のもともとの理想ではない。これはやむを得ない結果において、このようになってしまったのだから、神様自体も、これを本来の基準まで引き上げておかなければ、絶対なる神としての権威を立てることはできない。

 我々人間の一人一人においても、自分なりに計画したものは、いかなる環境のつらさがあっても努力し、成そうとするのが堕落した人間としての要求である。本来、絶対なる神から見た場合には、自分の御理想を立たせ、それを成さずしてそのままにしておくというのは、これは威信の問題であり、権威の問題にも引っかかる。だから神としても、堕落した人間をそのままにしておくわけにはいかない。そこで、これを救ってやらなければならないという、神の立場よりの摂理という問題が生じてくる。

 人間は救われたい。神は救ってやりたい。この両者が一致する。両者が一点において一致したその基準をいかに満たすかということが問題である。その一点とは、個人の環境に引き入れられていくような、そういう一点ではない。あるいは、我々がその家庭基準を中心としてそれが引かれていくような、そういう一点ではない。あるいは国家を中心としても、世界を中心としても、この一致した一点においては、すべてが引き入れられなければならない。そういう一点を神は求めざるを得ない。人間もその一点を願っている。その基準がいつ地上に果たされるか。その一点が結ばれた場合には、個人完成はもちろんなるであろう。家庭基準ももちろんなるであろう。あるいは国家、あるいは世界という問題も、この基準よりすべてが解放の一点を満たすことができる。このような立場になるわけである。

 この一点の基準を、だれが責任をもつか。人間が責任をもって、これを果たすことができるか。絶対できない。そうかといって、神様自体が責任をもって果たし得ることができるか。それができるとするならば、今まで六千年とか、数千年の歴史過程は通過しなくても、すぐに果たされたはずである。だからこれは、神様が直接関与して、解決してあげる問題ではない。ここにおいてその問題解決は、堕落した人間も果たすことができなければ、神様も成すことができない。では、だれが成すか。ここにおいて、メシヤが必要となってくる。

 今我々が世界情勢を眺めてみた場合に、宗教界はともかく、一般の社会において、あるいは世界各国において、「果たして人間の願ってきた理想世界が現れてくるのか」ということが問題になっている。

 宗教として今まで求めてきた地上天国、あるいは極楽の世界が、我々人間の世界に現れてくるのか、これを再び問わなければならない段階に入ってきた。そうかといって、その疑問とされる立場を踏み越えようとしても、踏み越えることができない。その苦悶の、その塗炭の苦しみの中を潜っていかなければならない、我々の人生である。

 ここにおいて、もし神様がいたならば、宗教界に新しい指導的方針を授けてもらいたい、人類に新しい時代的指導者を送ってもらいたいというのが、全人類の切々たる念願である。

 今までの歴史過程において、聖人、義人のすべての思想を人間は果たそうとして、あらゆる方面において努力してみた。その努力の結果において、成功とか、希望の基準を満たしたことはない。それを通して、再び落胆するような、そういう結果に我々は到達した。いかなる人間の力、思想をもってしても、人間が要求している一つの世界は成し得ないということが、もう実験済みのことになってしまった。だから、一人から三十六億全人類まで、人間も喜んでそれに従っていく、神様もそれを立たしていく道に対して、喜びながらそれを援助するという中心的存在があったならば、これは神様の喜びになるであろう。神様の喜びとともに、人類の喜びになることはもちろんである。そのような立場に立っているのが、メシヤである。


堕落観念に徹せよ

 だから、堕落したのだからメシヤが必要になってきた。堕落しなかったならば、メシヤは必要ではない。堕落したのだから、神様を失ってしまった。堕落したのだから、人間本来の本然の価値を失ってしまった。堕落しなかったならば、結局、本然の価値というものは、もう生まれると同時にもつようになっていた。ここには再び、神の作用ということは必要ない。要求もない。それ自体において、もう満たされる立場である。何ものも満たされないものはない。神様を中心として一つになったならば、分からないことがない。我々、こういう根本問題に対して、教育ということは必要ではない。

 人間に対して、根本問題とは何か。食べることである。それから生きることである。それから生きて、最後には愛の問題にまで行き着く。

 あなたたち、生まれて、食べるということを教わったことがあるの? これはおなかの中から生まれてくるというと、自然現象において、食べなければならないようになっている。あるいは吸わなければならないようになっている。そこには教育は必要ではない。相対物があったとするならば、それに口をつけたならば、自然と食べることが分かるようになった。

 だから我々において、食べるとか、生きるとか、愛するとか、理想を求めている。この自然のことに対して我々には、教育は必要ではない。小さい昆虫においても、繁殖作用は自然と知っている。例を挙げていえば、お嫁に行くお嬢さんに対して、お母さん、お父さんが、愛する問題を根本的に教えてやらなくてもよい。それは、自然現象的に分かるようになっている。自然の要求に従えば、過程を通過して、立体的な感覚の世界、立体的な価値の世界に接するのが、堕落しなかった本来の存在である。

 これが堕落したのだから、逆さまになっている。逆さまになっているから、これを立て直さなければならない。人間を産む時には、頭を下にして、お尻が上になっている。これを再び逆さまにさせなければならない。人間の姿のようになっているのだけれど、人間ではない。堕落したのだから、こういう運命に引っかかっている。

 だから我々は、堕落観念に徹しなければならない。これをもとがえしするには、まずもって何を感じなければいけないかということに対して、メシヤを願うより、堕落観念をはっきり自分がいかに体恤するかということが問題なのである。牢屋に閉じ込められたその者が、自分が牢屋に入っているか、いないか分からないで、解放を、釈放を願うということはあり得ない。

 まずもって我々人間たるものは、何かを求めている。解放を願っている自分に間違いないというならば、これは何でこのようになったのか。堕落の結果だ。堕落したからである。だからまず、堕落観念に徹しなければならない。堕落観念に徹すれば徹するほど、その願い求める力が強くなってくる。

 もしも救ってくれる者が来るということを知った者がいたならば、もう到着する前に一〇〇パーセント準備しているだろう。そこには説明がいらない。万全な準備をなして、会う道が開けるよう、方法、手段を人々に教えてやりたいという心持ちをもつに違いない。だから宗教の使命とは何か。堕落観念を、堕落した人間――罪人であるという観念を、いかに強固に体験するように教えてやるか、というのが宗教の使命である。

 この統一教会の食口と唱える若い者たちにおいても、自分は堕落したのか分からない者たちがたくさんいる。特に、初めて統一教会へ入った者たちにおいては、もちろんそうである。「堕落なんて思いもしなかった。自分の先祖の先祖、一番の先祖が堕落したって?何千、何億年昔の、おとぎ話みたいなその堕落の話と、何のかかわりがあるか」。ピンとこない。だから、問題はあなたたち、堕落したという堕落観念を、いかに強固に感ずるかということが第一の課題である。

 堕落したということがはっきり分かったならば、「救い主を求めよ」と教えなくてもいい。「目を閉じろ」と言っても、目を開ける。「顔を向こうに向けなさい」と言わないのに、もう向いている。こうなるのである。

 しかし、今まで歴史過程において、人類はそのような観念に徹してはいなかった。宗教生活をしながらも、いろいろなことをやっている。個人の解放を成した場合には家庭の解放を、家庭の解放を成した場合には氏族、民族、国家の解放を、あるいは世界解放、天宙解放、最後には神様まで解放しなければならないのである。神様まで解放するなんて、そういうおかしな言葉があり得るか。それはあり得る。

 あなた方の父母は、子供たちがもしも牢獄に閉じ込められた場合には、子供は肉身的に牢屋に閉じ込められたのだけれど、親は心情的に閉じ込められる。子供はそうなっても、腹減った場合には、弁当一つ余計に食べたとするならば、その日はもう、夜などぐうぐう寝る。しかし、親はそうではない。解放されるまで、その本人より以上に心情的に拘束されている。こう考えてみた場合に、まさしく神様が人間と関係をもっている。その関係をもっている神様が本当にいるならば、いったい神様は人間と、どのような関係があるのか。普通の人間は分からない。神様は愛の方である。愛というような中心者が神様だとするならば、我々人間とどういう立場において、愛の関係を結ぶだろう。これは真剣な問題である。


神が結ぶ愛

 女の子に尋ねましょう。女自体がこの世の中に生まれる時、「もしも男の子がいなかったならば」というような思いをもっていたとするならば、生まれてくるであろうか。生まれてきます? (きません)。

 何億、何十億、何千億が、女ばかりだとするならば、それは一世紀以内に完全に整理されてしまう。そのようになったら大変だったろう。そう見た場合に、女たちよ、誇るな。安心なる境地に立って、自分を誇ろうとするは、男が前もっているからであって、男がいなかった場合にはどうなる。一人の男しかいなかったとするならば、女の戦争が何十年も続く。それを考えてみなさい。もしもそうだったら大変なことになる。

 女自体が生まれる時、男がいるか、いないか、思いもしなかった。女自体が生まれてくる時に、それは女のために生まれてきたか。考えてごらん。女は女のために生まれたのではない。いい格好している女の姿というものは、女のためにそうしているのではない。だれのためか。結論をつけなくてはならない。男のためである。男がいなければ女は価値がない。一文の価値もない。女の価値の回復というものは、何によってなされるかというと、女自体によっては絶対なされない。男がいて、女の価値は決まる。だから相対者がなければ、価値も生まれてこない。

 また男も、素晴らしい体格をしており、「日本でこういう美男子は我初めなり」。そのような威張るタイプの男がいるとしても、その男の体格は、だれのためだ。自分のものではない。男の連中たち、それは記憶しなければならない。男が男として威張っているその姿は、自分のための姿ではない。自分のための姿ではないということは、この若き者たちにおいては、考える者もなければ、そういうふうに思った者もない。しかし、そもそも生まれること自体から分析してみたならば、男は女のために生まれた。かわいそうだけれど、仕方ない。嫌でも仕方ない。そうでなければ、一人で生きてみなさい。そういう連中は、世界から分離させて、一つの島に集めて、いいようにしておけ。もう一世紀以内に、みなきれいになくなってしまう。結局は、男は男のために生まれたのではない。これを分からなければならない。

 男がいくら素晴らしいタイプであっても、いくら力が強い、主管力をもって世界を自分の足場に踏みにじってしまうというな決意をもった男がいるとしても、その男は女のために生まれたものである。そうなるというと、女の価値は素晴らしい。

 ここに立っている先生もそうだ。先生はでかいことを言う。いろいろ問題になっている。韓国においても日本でも、今度はアメリカで十人くらいの上院議員に会って、宣戦布告してしまった。こういうことをアメリカでする。「二億近いアメリカ人が使命を果たさないから、我一人でアメリカを救う」、こういう旗揚げをする。問題になっている。アメリカ人もサングラスをかけて、「ミスター・ムーンという男はどういう男か」と見る。いくら大きいことを言っても、そこに相対者がなければ、かわいそうな者である。こう見ると、文夫人の価値は上がる。

 こう考えてみると、我々人間、自分というものは、どこに属しているか。自分はいったいどういう者であるか。これは真剣な問題である。

 自分の行くべき道はいずこあるか。男の行くべき道は、男同士で行くのではない。嫌でも、ジグザグしながら女と行く。女は、男と一緒に行くようになっている。だから目的観念というものは、自分を中心として要求してはいけない。共につなぎ合って求めていかなければならない。そもそも人間自体としては、存在基台として生まれてきたのである。それは人間ばかりではない。すべての現象界においても、相対性をもっている。その相対性自体が、自分を中心として存在するためのものではない。それは共に抱え合い、相対基準が一致するところにおいて、価値観というものが現れてくる。これは否認できない。

 日本の国においても、主権と国民が一つになって、より高い、より強い目的観念に立ったならば、日本は滅ばない。国家主権は、こういう方向に行き、国民は別の方向に行く。こうであれば、動けば動くほど、落ちていく。作用すればするほど、それは弱くなっていく。それは原則である。

 だからこう考えてみた場合に、我々人間、三十四億の人類を総合して、それを結論づければ、これは男であり、女であり、二人である。大きく分ければ、二つに分けられる。

 ここにも西洋の食口たちが来ているのだけれど、目玉は青く、髪の毛は黄色であるけれども、そんなことはどうでもいい。人たるものは同じものである。悲しいことがあれば、涙を流す。うれしいことがあれば、「口を開けるな」と言っても、開ける。いくらみっともない歯になっていても、口を開けて笑わなければならない。そういうふうになっている。

 このように見た場合には、男、女に分けられる。男、女、この二人だけ永遠に喜ばせる、そういう問題を解決し得たならば、そしてその二人が共に目的に向かって呼びかけるようなそういう道であるならば、それは不幸の道ではない。人間の幸福というものは、天から化け物の枝みたいなものが飛んでくるのではない。我々同士間において満たさない限りは、理想もない。

 そう見るというと、いくら人間が多くいても、それは男、女に限る。過去もそうである。現在もそうである。未来もそうでなければならない。絶対になる。だから、二人共に手をつなぎ合って、良い価値の基準に向かって、現実の自分を乗り越える喜びをいかに満たすかということが問題になる。

 国家がどうなるよりも、その基準を満たさなければならない。理想世界は、それを満たさなければ生まれてこない。


自分一人が問題である

 このように考えてみると、大きい問題は簡単になってくる。結局は、世界が問題ではない。あるいは氏族とか、そういう問題よりも、結局今、家族よりも問題は何か。自分が問題である。自分自体が、世界に対して愛する、愛されるそういうような心持ちを永遠にもつとするならば、それは神様の子供になる。永遠に憎むように、永遠に嫌うように、後始末をつけなければならないような立場に立ったのは、それは神様のほうではない。こう思った場合に、この世界は悪の世界だ。結論をつければ、結局は我々自体、個人が問題だ。

 自分というものはどうなっているか。今現在から見た場合には、過去あり、現在あり、未来ある。現在は過去の結実体である。未来の出発の起点になっている。現世の中心点になっている。これをはっきり知らなければならない。現世というものは、未来の出発点である。過去よりも、もしもマイナスの立場に立った場合には、それは価値というものは満たされない。それで自分は、今日の中心体である。世の中がいくら困難であろうとも、自分に動かす力があるか、ないか。自分が動機になって果たすべきその作用は、適用する力はあるのだけれども、作用する立場ではない。そのような、中心的な自分の価値観、これが問題である。

 未来があるとしても、自分を中心として未来は出発する。そういう決意をもって、そういう自分になったとするならばどうか。神様はどういう男を好むだろう。理想ばかり望む人を喜ぶか。そうであれば、それはどうかなっている。過去なき現在はあるか。原因なき結果はあるか。それは原則を無視することである。未来における理想の価値ばかりを求める者は、完成されたお方がいるとして、それと比べるならば、それは点数からいえば三分の一点だ。それに百点をくれるならば、それはくれた者が、無価値の者である。あなたたち、それを知らなければならない。

 現実が問題だ。現実において、「歴史よ、我に従え。現在よ、我に従え。未来よ、我を基準として出発の起点をなせ」、そう言えるお方、そのような存在があったとしたら、それは歴史的勝利者である。それに向けて、歴史をたどって尋ねたならば、歴史のすべての重大な問題は、彼によって解決されたという歴史性にならなければならない。現世において、彼を中心として、すべてがそれに従うというならば、この世の中においては、すべてを凌駕した立場である。そういう者が問題である。


神をはばむサタン

 もしも神様がいたならば、神様は人間世界において、人間の過去と、現在と、未来に関係もつべき神様であるにもかかわらず、なぜそういうような神様にならないかということが問題である。それは過去においても神様は、人間と共に交わりたかった。しかし、堕落して悪の人間になったのだから、それはできなかった。現世においても、神様を中心して接して、万民と共に生活していきたい。しかし、それはなぜできないか。未来においてもそうなりたいのだけれども、なぜできないか。

 堕落したのだから、こうなる。その堕落した原因は、人間にはないのだけれど、堕落させた者がいるとすれば、それはいったい何か。神か、人間か。

 人間が願って堕落したのではない。もとより、あなたたち青年が、悪い子供になる、不良青年になる、よた者になるというような立場に立つのは、生まれながらそのように願ってなる者はいない。それは何かの動機によって、誘われてそういうふうになった。しかし人間は、本心において悪を願う者はいない。良くなることを願うのである。教える、あるいは管理してくれる者があったならば、悪くなろうとしてもできない道であるにもかかわらず、悪くなるのは、その悪の動機になるものがあるから、悪くなりやすい。だから、あなたたちの父母たちは、「いい友達と交わらなければならない。いい先生を迎えなければならない」と言う。そういうことを教わる。

 もし、我々人間、堕落しない前の人間において、悪を好むという観念をもち出すというならば、神様の創造原理は間違っていることになる。悪になった結果から見た場合には、悪は人間が求めてなしたのではない。神が求めてなしたのではない。何かの原因においてなされた。それをなした者は何か。それは人間でもなければ神でもない。そういう者を宗教界では、悪魔や、サタンと呼んでいる。サタンという者がいる。

 それは、いろいろ悪いことをする者たちに聞いてみれば、本心はそれを願わなかったんだけれども、自分も知らないで、そういう気持ちになってなしたという答えをする者は、たくさんいる。

 あなたたちは、牢屋に入って苦労したという経験がないから分からないかもしれないけれども、先生はそういう方面の専門家である。ずーっと聞いてみれば、牢屋に入っていても、「自分が悪いことをした」と言う者は、だれ一人としていない。「なぜそういうことをしたか」。「まずもって社会が悪い」。「社会が悪いんだったら、君はなぜそういうように悪くなったか。こういうようになったか」。その悪いことをする時には、自分も知らないでやったという者がたくさん見つかる。だからそのような結果をきたらす何者かがいる。それはサタン、悪の力の原因である。だから堕落を我々は非常に悔やみ、悔しく思う。これを正してしまわなければならない。ここにおいて、いかなる我を犠牲にしても、これをただ解放、あるいは釈放されなければならない運命になっている。

 そうなるというと、堕落させた者がいなければ実にいいのに、堕落させた者がいた場合には、大変だ。これはもう、そのまま抜け出ようとするところにおいて、いつも監視している。素晴らしく、あるいは力強い監督がいる。こう見た場合に、まずもって自分がとりこになっているその場を崩してしまいたいなら、戦わなければならない。戦うその相手が、どのように老獪な者かというと、それは話にならないほど老獪な者である。数千年来、神様までも、人類までも、自分の気のままにして悪を振る舞った、そういう大将である。

 例を挙げれば、日本の相撲取りの、一番有名な人がいたとするならば、その相撲取りと幼稚園の子供みたいな立場に立っている。いくら自分が囲まれている所を崩して出たとしても、その相撲取りがいる以上は、直ちにやられてしまう。それでおしまいだ。それがいなかったならば、問題は解決しそうな道があるようではあるけれども、もしも監督する者がいたとするならば、人間同士いくら同盟を結んでも、これは不可能である。だから神様にも人間にも、困った者がいる。

 神としては、解放が問題ではない。解放は一瞬にできる。しかし、過去に、現世に、未来まで徹底した組織網をもって、世界全体を抱擁して、神に正面的衝突をしながら讒訴した場合には、神はその讒訴を否認できない立場で、その解決を相談してあげなければならないのである。そのような動機の内容をもって讒訴した。そうなった場合には、神もどうすることもできない。


サタンが主管する非原理世界

 神様を中心として考えてみた場合に、サタンという者が問題である。サタンは何を中心として今まで、問題点とするか。神様は原理原則において万物を造ったんだから、その原理の法において、これを主管するのが原則である。その原理がある。その原理をサタンが握ったとするならば、いつでも永遠に讒訴することができる。その原理に合わなかった場合には、いつでも讒訴することができる。だから統一教会でいうのは、原理を中心として、非原理という問題が生まれてくる。それは堕落の世界である。それを原理の神様は願ったか。願わなくても、原理の原則を中心として、非原理的な中心者が生まれて、原理軌道によって讒訴していく。

 こういう問題が、もしも世の中に起こったならば、神様はどうするか。非原理を否定するまでは、原理の権限というものは生まれてこない。では、否定はだれがするか。神様がするのではない。神様はすることができない。非原理になって、引きずられている人間が、否定する要件を満たさなければならないのである。だから非原理の者は、神様に従う者ではない。神様に干渉される者ではない。原理の姿をとっていき、神様の原理の基準に立っているので、神様はこれを干渉することはできない。そういう問題が起こったとするならば、これは神様もどうにもならない。非原理の相対基準に立っている人間だけで、この問題を解決しなければならない。これが歴史の恨みの基点になっている。

 それが何を中心としてそうなったか。あなたたち堕落論で習ったでしょう。しかし、堕落原理というものは、本来はない。堕落原理というものがあるかというんだね。非原理というような基準を中心として、堕落原理ということである。堕落せずにその道をたどっていく以外に道はないのが原理である。

 もしも、それ以外の問題で堕落したならば、堕落原理という問題にはならない。それは直ちに復帰される。もしも手が切られてしまったら、これはもう一つなくてもいい。足がなくてもいい。根本問題がいかれてしまった。それが愛の問題である。

 本当はお姫様であるべき、その尊い者が、その国で一番の強盗の親分に引き連れられて、そして愛の関係を結んでしまった。そういう場合どうするか。王様は、「この野郎二人とも首を切ってしまえ」と、首を切ってしまったならば、永遠に子供というものが生まれてこないという場合にはどうするか。そういう結果になってしまった。原理としては、そういう方法を取ることは絶対できないにもかかわらず、引っかかってしまった。そういう場合にはどうするか。

 お姫様が相対者も何も決めていない立場だったなら、それは何とか許しようがある。男に対して女が引き連れられていったのだから、原理原則である。しかし、そこにいいなずけの男が決まっていたという場合には、どうするか。これは許す道がない。そうかといって、切ってしまったなら、それで終わりだ。種がなくなってしまう。人間の種族がなくなってしまう。なくなってしまうのは原理ではない。人間は永遠に存在しなくてはならないので、切ってしまうことはできない。

 そういう立場に立った王様は、いかに惨めであるか。そのようになったならば、殺してしまえば簡単である。日本国民にそういう問題があったならば、もう国の法において、処分して片づけてしまえばいい。しかしそれは、その人がいなくても、人はいくらでもあるからであって、もしもたったそれっきりの者だったらどうするか。大変なことになる。

 そういう問題以外において人間が堕落したとするならば、神様は六千年もいらない。六日もいらない。しかし、その問題に引っかかったのだから、サタンが犯したその男が不平ばかり言っているのだから、自分も間違いなく罪人だ。この女も間違いない罪人である。罪を犯したのだから、罪を罰せられるのは原則である。宇宙の原則である。罰せられることに反抗する者があったならば、それは王様としては、再び関係をもって考える相対者には絶対ならない。罰せられても当然である。打たれても感謝しなければならない。そういうような道以外に、許される道はあり得ない。不平を言ったり、反抗したりする立場に立ったとするならば、許されるという道は閉ざされてしまう。


サタンは非原理の神

 聖書では、サタンは神様と相談してやっていく。神様は原理の神様であり、サタンは非原理の神様である。これは実におかしくなってしまった。非原理の神様が、原理の神様を干渉することができるか。それはできない。非原理の神様が、善の神様の主管圏を干渉することができるか。できない!

 だから堕落した人間は、非原理の悪の神様――サタンのほうに従えば、間違いなく手続きをする。神様も、「持っていけ」と言う。原理の神様のほうに手続きをした場合、悪の神様であるサタンは「持ってお帰りなさい」と言う。このように契約済みのことをするのだから、嫌でありながらも、毎日共に会わなければならない。

 韓国において、三十八度線に板門店がある。北韓と南韓の代表者が毎日会いながら、一挙にこれを全部崩してしまえという気持ちをもちながらも、毎日平気な顔をして、「君、そうか、はあー」、笑いながらそうする。そっくり同じだ。そうなると問題は、だれが問題か。国民が問題である。悪なる権力者を、国民が打ち倒して追い出してしまったならば、解決する。人間がそのような立場に立ったとするならば、大変なものである。だから我々人間の行く所には、善の神様が向かい合い、悪の神様も向かい合っている。それを知らなければならない。それが我々人間の住んでいる、現実の現場である。

 しかし現実というものは、実に貴いものである。すべてが、善悪のその頂点において、一瞬一瞬の時を中心として、それは行ったり来たりしている。これを分からなければならない。

 善悪は遠い所にあるのではない。結局、自分が問題である。我は、二人の神様の主管圏内にある。サタンまでも神様と言うのは気持ちが悪いが、二つの、そういう境目にはさまっている。だからそのままいた場合には、これは死んでもどうにもならない。二等分しなければならない。今でも二等分した立場である。だからあなたたちは、二等分するのに、それはどっちが内的であるか、どっちが外的であるか、それが問題になる。サタンは、神様を中心として見た場合には外的であり、神様は内的である。だから人間自体を中心として、似た者を、自分のほうに引きつけるようになっている。


良心と肉身の戦い

 我々人間自体も、二つのものをもっている。良心と肉身をもっている。この世の中において、良心をもっていない者は一人もいないということは、みな、それは承知している。良心がないという者います? (いません)。みな自信もっている。だれ一人、良心を見た者はいない。しかし、あるのを知っている。肉身を見ない者は一人もいない。これは問題である。良心があることは絶対的に知っていながら、良心を見た者は一人もいない。肉身があることを絶対的に見ながら、絶対的にあるのを知っている。

 比例から見た場合に、分かるという感覚度から見た場合に、あることは絶対的に知りながら見たことなく、あることを絶対的に知りながら見たことがあるという場合には、どっちが強いか。肉身のほうが優勢になっている。

 あなたたちもそうでしょ。食べたい、腹が減った、という場合には、「腹が減ったんだから」と良心が認めるか。肉身が「腹減った」と言っても、良心が腹減ったと認めるか。みんな肉身が優勢に立つ。欲しいというのは、見たい、会いたい、住みたい。これらの触覚の接する部分は、内部ではなくして外部である。しかし、感じたそのものが、決意として実る本拠地は、肉身ではない。良心である。

 これは今、哲学的に問題になっている。神の人間に対して接する場と、サタンの人間に対して接する場との境目はどこか。境目はどこかというと、自分である。あなたたちも世界的戦争を恐れるな。自分を中心として、二大陣営が毎日戦争しているのをどうにもならない。朝に夕に、一日に何十回、何百回もやる。言葉を一つ誤って話した場合には、問題になる。責める動機の存在そのものは、肉身にあるか、良心にあるか? 責める存在は何か。良心である。

 だから戦いである。良心に向けて、「おお、この野郎、良心よ、良心よ。君何やっているか」という戦いをしかけた肉身があるか。反対である。内的に、肉身に対して攻撃する。「それをやったらいけません」と。しかし、この世の中には、良心的な人が比例的に多いか、非良心的な人が比例的に多いか。そう考えてみた場合に、良心的な人が比例的に多い。良心の呵責を受けながら、とんでもないことをみんなやってしまう。その戦いをやっている。

 だから宗教とか、教育において、その基準をどこに求めているかというと、良心の力である。それが教育とか、宗教の働きかけである。そうして何をするか。肉身の足場を占領する。目的はそこにある。善人であるか、悪人であるか、境目が生じてくる。そこをはっきりしなければならない。


善悪の中心は自分

 自分とは何か。善とは、悪とは何か。神の主管圏として治めるべき善なる境地と、サタンの治める悪なる境地と、何を境目として分けるか。これをはっきりさせなければならない。それが自分である。朝に御飯を食べても、その御飯を食べてどこに行くか。それによって、食べた御飯は悪の御飯になったり、善の御飯になったりする。晩に休んだとする。休んで何をするか。その結果において、悪の休みになり、善の休みになる。一瞬が二つにつながっている。

 善悪の中心者は、世界ではない。善悪の中心者は、神様ではない。サタンは悪の中心者である。それよりも、二つ兼ねているのが人間である。

 そのようにに見た場合には、神様よりも偉いし、サタンよりも偉い。善悪の中心者は人間である。自分である。

 だから神様よりも怖い者は、人間である。サタンより怖い者が人間である。この者の行動いかんによっては、国を滅ぼすこともできる。国民に三分の一善人があろうとも、一遍に善人を犯してしまうことができる。これを知らなければいけない。恐ろしい者がだれである? 自分である。

 この怖い者同士で、一つに合同した場合はどうする。しかし、合同ということはできない。戦いの起点はここから始まってくる。これを考えなければならない。

 自分の良心と肉身から始まったものだから、外的な者同士の結合体は自然と生まれる。内的な者同士の結合体は自然と生まれる。だから、この世の中は二大主流の思想流が生まれてこなければならない。一つは善を否認し、一つは悪を否認する、そういう思想の結実が、必ず地上に生まれてこなければならない。その時は、末の時である。それが現世である。

 唯物思想とはどういう思想か。片っ端から怨讐に対して、その価値を認めないのが怨讐圏のなす行動だ。悪辣であれば悪辣であるほど、その力が強い。善のほうはそうではない。

 共産主義と民主主義の対決になっている。それは、そういう結果として生まれてこなければならない。


肉心とサタンを占領せよ

 それらの思想は、だれから始まったか。自分から出発して連結している。自分たちを中心として見た場合には、自分が先頭になっている。だから、世界的先頭に立ちたいというのが、人間の欲望である。だから世界において、歴史において、未来において、一番悪の先頭者はだれか。それは自分であると、確信をもたなければならい。

 もし自分が生きるとすれば、過去のすべてを解決し、現世すべてを解決し、未来すべてを解決しなければならない。これをいかに分別し、解決するか。そこには、二大問題がある。現実において肉心を占領することと、見えないサタンを占領すること、この二大問題である。これらと戦争しなければならない。第一は肉身だ。第二はサタンだ。サタンと肉身が我々をとりこにしてしまう。その肉身というものは、サタンの命令において引き継ぎされた要塞である。それに負けた場合には、永遠に滅ぶようになってしまう。だから宗教の目的とは何か。世界を占領する前に、自分をいかに占領するかということである。

 先生がこの道に出発する時の、第一の目標はそれだった。「天宙主管願う前に自己主管せよ」というのが問題だった。それにはまず、肉身をいかに主管するか。そこには食べたい、それから生きたい、それから愛されたい、愛したい。これである。人間生活の主流の問題に行き当たる。

 そうすると、肉身を中心として食べたいという者はどうなるか。生まれながら、悪の圏に立っている自分であるということを知っている。肉身を中心に食べれば、悪のほうに近寄る。肉身を中心として生きたい道に歩調を合わせれば、悪に傾いてしまう。それは原理的にそうなる。肉身を中心として愛したいという道に行くなら、悪のほうに完全に傾いてしまって、もう沈んでしまう。

 だから食べることにブレーキをかけ、食べる物があれば、その反面何をするか。それを自分よりもっとかわいそうな者にあげよというのである。かわいそうな者に与えたなら、善の繁殖になるというのである。そういう戦法を取る。そういう結果になるのだから、自分よりいい者に与えよというのではない。悪い者に譲ってやる。それをもっと価値ある立場に立つところに譲ってやれ。それは何かというと、現実を否認する作用だ。

 その方策、その方法でなければ、第一線の悪の足場を乗り越える道はない。もしもとりこになった者がいれば、自分の物があれば、縄でもつけて向こうに、他の所へ上がっていかなければならない。そうすれば、人のためにして救ってあげれば、その人は私を救ってくれる。だから肉身の願いを越えて、それに逆らって、反対の結果になるようにする。今自分が要求するその価値のものをして、それが結局、自分が救われる。

 それをはっきり知らなかったのだけれど、過去の義人、聖人たちは、「善人になれ」と言う。善人になるには、自分の物を犠牲にして、他の者にささげる。それが善人である。それは、とりこになっている自分が、この防備、あるいは要塞、あるいは牢屋から抜け出る作戦をするためにやった。そういうことは、今まで知らなかった。

 そのように、四方八方にその縄をつける。全国民にそういうふうにする。そういうふうにした場合には、それを引き上げるときには、援助してあげた者は全部協力者だ。神はそういう摂理をする。一人の善人を探して犠牲にして、すべてにやるようにして、協力者の圏をつくる。そうした場合には、その価値以下の基準においてサタンは干渉するのだけれど、そのような圏に立った場合には、神が干渉することができる。こういう作戦をしてきている。

 それで、善はいずこにあるか。肉身の回りを行くところにはない。肉身を救う道に乗り換えて行く。そういう良心の命令に従っていくところに善がある。これは歴史的に否認できない。そういうふうになれば、肉身は自然と包囲されてしまう。それでいかなる宗教も、こういう方法を教えないものは、宗教ではない。宗教がそういう作戦をしているという観点から見たならば、それらの目的は、全部一致している。それを主管する主人の目的は、一致している。だからいろいろな宗教があるのだけれども、本筋から、この原則から脱したならば、それは宗教ではない。その版図が広まるにしたがって、サタンの相対者がなくなれば、サタン自体も弱まってくる。こういうふうになっている。


善を広めていく生活

 現実にあなたたちは、はっきり知らなければならない。自分というものは問題だ。自分は、善悪の株式会社の大株主である。そこにおいて、悪い人たちが攻撃してくる。それを屈伏させるには、善を広める作戦をしていかなければならない。伝道するにも、あなたたちが国家伝道圏、国家的伝道基準をつくったならば、国家的解放圏がつくられる。世界的伝道圏をつくったならば、世界的解放圏がつくられる。これが、神の地上においての作戦である。だから神のほうに立っている善の道に立つ者、宗教を信じる人たちは、死んでも行こうとする。死んでも行く。どっちが強いか? 善が強い。どっちが長引くか? 善が長引く。どっちが勝利するか? 善が勝利する。これは原則である。

 長引くのであるから、善の側の者をもしひざまずかせたら、それに倍加して善は強くなってくる。そういう場合には神様が援助するのである。善なる責任をもって立ったならば、神様が援助する。それにぶつかってくる者があったなら、ぶつかってくる者が砕けるのであって、ぶつかられたその者が砕けるのではない。それが、善悪の闘いの秘訣になっている。

 結論を出すと、悪人とは何か。自分を中心として、肉を中心として、私的な感情をもち出す者が悪人である。自分を中心として、すべてを占領しようとするのが悪人である。

 善とは何か。自分を犠牲にする。善人とは何か。体を犠牲にして、人のためにする者、これが善人である。現世においては、善悪の基準はぼやけている。だから、「君の物は私の物である。私の物は私の物である」と言う者もいる。それは共産党のやり方だ。そこにおいては、方法、手段は構わない。

 原理の価値を表し、最後の勝利の決着点をつけるには、二者が一度ぶつからなければならない。一度ぶつかって、勝利を決めなければならない。天下分け目の戦いがある。それで、個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的に戦ってきた。それが世界的になった。

 今はどういう時代か。思想戦時代だ。本当は宗教戦争時代である。共産主義の悪なるサタンを中心として、神は認めないんだけれど、それが宗教みたいになっている。共産宗教だ。そういうふうになっている。

 だから思想を乗り越えなければ、神に行く道を見いだすことはできない。人間の思想以上は神である。歴史を総合的に考えてみると、今までの歴史は何を中心として戦ってきたかというと、体を象徴する万物を中心として戦ってきた。両方とも、広めるために戦ってきた。今もそうである。だから続いている。

 その次は何を中心として戦うか。だんだんだんだん、広くなっている。昔は、領主も何も、あったものではない。奪い取る。土地を中心として戦った。今は、人を奪い合う戦いである。発展していく。だから人は、何主義かが問題になる。選挙もそうである。人を奪う戦いにおいて勝利すれば、その国の主権者になれる。人の奪い合いの戦いである。それが思想時代である。その次に何の奪い合いの戦いが来るかというと、神を中心として奪い合う戦いが来る。これは最後には宗教戦争だ。あなたたち、それ知らなければならない。

 今、政治家たちは、「物だけあればいい。そうすれば世界は自分のものになる」というように思う。そういう愚かな者もいる。独裁者とか、自分を中心として自分は宇宙の代表とか何とか、大きなことを言っている。そういう時代圏にあって、人を集める神の作戦の一方法の分担を責任をもたせて、それを許すのであって、その時代が過ぎたならば、許さない。だから一番問題は何かというと、思想戦が問題である。


霊界からの攻撃

 最後には、もしも宗教同士戦ったならばどうするか。そういう現象が起こりやすい時代にある。それを防備するために、統一宗教がある。それは必要である。だから宗教戦争時代には、霊肉共に防備しなければならない。霊人がいるとすれば、何千億くらいいるだろうか。日本の一億は問題ではない。足場の塵にもならない。数千億、数万億の霊人たちが、地上攻略を進めてこざるを得ない。それが、ノイローゼ現象である。

 もう少したてば八〇年代、まあ二千年代を越えれば、みな通じる時が来るかもしれない。悪霊に通じるか、善霊に通じるか。戦争するなと決めても、戦わざるを得ない時が来るかもしれない。それを防備しなければならないのが、「統一原理」の使命である。

 一番恐ろしいのは何かというと、もしも霊界があり、悪霊だけ動員されて地上攻略してきた場合である。いくら人間が全地球上に満ちているといっても、悪霊に攻められてしまう。だから神様は、今まで準備してきている。悪霊の反対の善霊を中心として、霊界の基台を広めてきている。それは宗教圏の人たちをずーっと集めて、今人類の半分、十七億近い者が、みな宗教圏に立っている。二十億近い者が、宗教に立っている。だから世界で一番有名な人はだれだろう。宗教統一を考えて、そしてその解決策を打ち立てている者がいれば、これは歴史における最後の勝利者になるだろう。それは、神様もそれを認めた基準であり、人間においては、本心の、良心の最高の基準からの願いの的である。

 だから、世界の四大聖人と言われる人は、みな宗教の教祖になっている。イエス様もそうであるし、釈迦も、孔子も、マホメットもそうであるし、神様はこういうことをよくよく知っていた。

 現世において宗教は、思いもよらない弱き者が信じる、頼るような道をもっているにもかかわらず、なぜ四大聖人の思想が、この文化圏の中心史の主流として、国家の教育とか、国家の憲法を中心として国家組織の形態をつくり、この世の中の文化世界をつくってきたのか。しかし、それは間違いない事実であり、そういうふうにして世の中は発展していくのである。

 今は末の時期になっているから、良心と肉身の闘いは最後の極致に立っている。この時代においては、物ばかりでは問題は解決されない。共産主義で世界を一つにするという時代は、もう過ぎている。中共とソビエトは、もう分裂している。日本にも共産党のいろいろな分派がある。それ同士が戦う。それでは理想のものではない。民主主義においての、良心においてのカイン・アベルは、こういう時代において、二つを一つにさせる。こういう目的を兼ねていかなければならない。それを完全に分けてから、いらないものはみな取る。

 とうもろこしの切り株を引き抜いた場合には、土がいっぱいついてくる。その土をみな取ってしまうには、二つをぶつける。それを拳で取る者はいな。それを両手でもってぶつける。ぶつけるというと土が落ちて、株が残る。ぶつける時代が、今の時代である。そうすると、その両手はだれのものか。神様のものである。そうしたら人間は滅びない。宗教界を握り、思想界を握ってぶつけて、最後に残るものを一つの束にして、そして神様が担いで家に帰る。それを願っている。

 しかし、その株の一方をサタンが持つようになっている。必ずそうなる。だから民主主義においても、カイン・アベルがある。アベルはだれが持つか。神様が持つ。カインはサタンが持つ。

 共産主義も全部悪いのではない。そこにもカイン・アベルがある。だから共産主義にも神様は働きかけている。だから二つが戦うという場合には、一つはアベルの立場であり、一つはカインの立場である。それは何を意味するかというと、先のほうはサタンが持っているということである。サタンをだれが追い払ってしまうか。これが問題である。


サタンを追い出すメシヤ

 この使命を果たすべき存在が、メシヤである。だから神様も、絶対メシヤが必要である。堕落した人間も、絶対メシヤが必要である。この環境から抜け出るには、メシヤなくしてできない。では、そのメシヤとは、どういうお方か。霊界のすべての完成と、地上のすべての完成にも、責任をもたなければならない。霊界、地上界、すべての完成に責任をもたなければならない。この責任をなす目的の基準が、「統一思想」で言えば、統一教会の名称を借りれば、「天宙完全復帰」という言葉である。このようなメシヤが、地上に来られる前には、霊界を統一せずして、地上を統一することができない。

 堕落はどこで始まったか。それはまず、霊界からである。だから霊界において、それを一つの方法で治めるその基準を、絶対的主権をもって来られるお方が、メシヤである。そういう立場で、霊界を統合し得るその内容をもってこられるならば、神様の秘密、サタンの秘密を、すべて分かって地上に来られる者である。

 それで地上に来て、地上を一遍に天国にしてしまうのではない。子供が生まれる時には、一人ずつ生まれてきた。男も女も、一人ずつ生まれてきたので、一人から始めなければならない。もし男がメシヤだったら、その一人をだれから始めるかということが問題である。前にも言ったように、男は女のために生まれてくる。だからこのメシヤ、天宙の中心の核として来られるお方は、男が来るか、女が来るか、ということが問題である。

 男に聞けば、「はーい、男が来る」と言う。女に聞けば、「はーい、女が来る」と言う。なぜか。男は実際、何もやるものがない。女は体としては、お乳を子供に飲ませる。しかし、男には何もやるものがない。そういう立場から見た場合に、男より女がいいか。男のメシヤが来たらいいか、女のメシヤが来たらいいか。

 女のメシヤが来たらいいの? 日本の場合には、天照大神は女か、男か? 日本人はよく知っているじゃないの。(女です)。日本人から言えば、女が来たらいいのではないか。これはおもしろい。世界中で、そんな国はたくさんはない。そういう血統を受け継いだから、日本においては、女といえばもてはやされる。男が来たらいいか? 女が来たらいいか? 男は欲張り、最高の欲張り、かなえなかったら、みな一人で取ってしまう。それは女にすれば、男がいいかもしれない。男にすれば、男がいいだろう。(笑い)

 神は原理の神だ。神がメシヤをよこすには、原理に従ってよこすしかない。まずもって、そのメシヤたる者は、原理を中心として完成したものである。原理を、専門的な原理を中心とした者でなければならない。原理によって造られた一人から、原理を中心とした思想をもってこなければならない。そうすると、神自体も原理から見た場合、男が初めか? 女が初めか? (男です)。どうしてか? 女から子供が生まれてくるんだよ。なぜ男だ。聖書に書いてあるから信じて? (神様が男だから)。なぜ神様が男か、見たか?

 そうかどうか分からない。実験してみなければ分からない。さあ男か、女か。人間は何が主体か。今度アメリカやヨーロッパへ行って質問されたのもそれである。何で男が主体か? 人間は生まれてくる時は、女か男に生まれてくるけれども、男が先か、女が先か。そもそも人間の子供の種は、女から生まれるのではない。男から生まれるようになっている。原因の出発点は、男からである。神様から見ても、男を中心としなければ原因の主体性を立たすことができない。男を中心としなければならない結果になっているから、男のメシヤが来なければならない。女は何か。畑である。女が主体にはならない。男が主体である。先にあった。だから原理的に見た場合には、男が主体者にならなければならない。

 日本の女は生まれつき良く教育をされているから、日本の女は男に絶対服従するようになっている。家庭から、社会から、国家からそうなっている。よくよく従うようになっている。アメリカは反対だ。東洋は女が一番下であり、西洋は女は一番上である。反対でなければ、平均はとれない。先生、驚いたよ。西洋に行けば、みな左手を専門的に使う。東洋では左手を使ったら、かたわみたいに思うのだけれども、西洋は左利きが多い。寝るのも東洋人は仰向けで寝る。西洋は真下を向いて寝る。人を呼ぶときの、手の使い方も違う。よくよく釣り合うようになっている。中心から見た場合には、これらは反対である。だから二つにならなければならない。

 ここにも西洋の食口たちが来ているんだけれども、彼らも先生が必要だよ。だからメシヤは、神様も仕方なしに男をよこさなければならないし、人も男を望まなければならない。だから男が来るのである。その男のメシヤは、何を求めてくるか。女を求めて来る。気持ち悪いんだけれど、女を求めて来る。女といって、気持ち悪く思ってはいけない。

 だからメシヤは、この地上に来られる時には、堂々たる男として来られる。天下いずこに来られても、それに逆らう者なし、神様も惚れた男である。歴史的聖人にも、それは希望の的の男である。これは万民、世界三十四億の現世の人間は、その姿を一度見たい、一度話し、共に行動したいというような望みの的のお方である。未来は、そこから新しい尺度が始まる。出発の基点である。それがあって、すべての価値が生まれてくる。その基準があって、すべてが中心を取るようになる。それが確立するにしたがって、勝利が決定されてくる。

 しかし、素晴らしいお方であっても、それは人間に違いない。目も二つであり、口も鼻も、君たちとそっくりである。君たちがメシヤに似ているのではなく、メシヤが君たちに似ている。メシヤは人に違いない。人は人だけれど、内容が違う。その内容は、立体的内容をもっている。それが違う。堕落した人は、堕落圏の平面的内容しかもっていないけれど、メシヤは立体的内容をもっている。心情においても立体的だ。それが違う。あなたたち平面がいいか、立体がいいか。立体的でなければ、永遠に回ることができない。そういうふうになっている。


メシヤの使命

 メシヤが地上に来られて、果たすべき使命とは何か。サタンを屈伏させなければならない。サタンを屈伏させて、悪の主管圏を打破してしまわなければならない。占領してしまわなければならない。これは、メシヤの第一の責任である。

 我々人間は悪主管圏に包囲されて、ねらわれている。この鉄条網をいかにして切るかということである。あなたたちには切る道もない。そこには、番頭さんが立っている。その番頭さんと戦って勝てる力をもった人は、この世の中にはいない。だから解放をなし得る主体の主人をもって、そういうとりこになっているその防壁を一挙に覆して、そして番頭さんを処分してしまえば、すべては解決してしまう。だからもう牢屋など、問題ではない。最後には何か。番頭さんだけ。これを追い出してしまえば、すべては解決する。サタンを追放するためにこの地上に来て、サタンの主管圏、悪の主管圏を奪還し、善の主管圏の設立のため来られるお方は、メシヤ。

 メシヤは男として地上に来られるが、その第一の目的は、女のために来られる。

 日本国民として、日本の首相には選挙でだれでもなれるし、なって走ってみることはだれでもできる。選挙で加担する者たちも、将来自分もなりたいと、欲望をもってそういう選挙運動する者はたくさんいるんだよ。それと同じように、もしもメシヤが女のために来られるのであれば、世界的な女性は、「一つ候補者になってみたい」と思う。候補者になってみたい心は、女としてみなもっている。メシヤは地上に、女のために来られた。そして、新しい血統を立たせる。それを考えなければならない。何のために女を迎えるか。新しい血統を立たせるためである。それは最も大切だ。原理から見ても、それは中核を訴えた答えである。試験の答案に、それ書かなければならい。

 メシヤの来られる目的は、サタン世界主管圏を断ってしまって、それから、善の血統圏を立たせる。その善の血統圏を立たせようとしても、反対する国があった場合には、その国の中で血統圏を立たせてもやられてしまう。サタンが主管するその主管圏国家圏にあって、国内にあって善の血統圏を立たせたとしても、サタンは首を切ることができる。それはそうである。敵の王子が敵国の真ん中に来て、夫婦でのみ生活するとするならば、王子は、敵国の獲物になる。それは間違いなくそうなる。だからまずもって、善の主管圏を獲得してから、すべてをやらなければならない。


この世の王様サタン

 聖書を読めば、ヨハネ福音書第一二章三一節に、「この世の君」とある。それは聖書を読むクリスチャンたちが少し考えても、すぐ分かる。なぜ、全能なる神様が造った万象界すべてが、サタンの指揮下に入ってしまったか。サタンと神様といつ戦って、神様が負けてしまったのか。聖書をいくら読んでも、神様が負けてしまったという聖句はない。戦ったこともないのに、しかし、結果がそうなっている。

 万物は、アダム・エバのものである。アダム・エバを中心として、人類の先祖のためにつくったものである。つくった者の主管圏内にあるべきなのに、それをサタンが占領してしまった。占領方法は、何を中心としてやったかというと、神の最高の理想の基点である愛をねらった。愛の問題でなければ、何の問題もない。だからサタンがどういう者か。

 聖書を読めば、イエス様もこういうことを言っている。「罪を犯した場合は七回を七十倍するまで罪を許してやれ」と。それだけの包容力、それだけの慈悲心をもっている者ならば、実に愛の者に違いない。イエス様は、そのような神の子である。その親父が神様である。それだけの心をもった神様であるならば、なぜサタンを怨讐視するか。サタンが犯した罪を許してやれば、一挙に済むではないかと思われる。しかしサタンを、神様はいまだに、永遠に怨讐視する。サタンは、何の罪を犯したのか。人間は今まで分からなかったのだけれども、それは許すことのできない罪を犯している。だからイエス様が罪を七回を七十倍するまで許してやれというのは、「サタン圏内にある人を、いかなる犠牲を払っても解放する、その目的がなされるまで許せ」という言葉である。

 そうかといって、サタンを許すことはできない。何の罪を犯したのか。サタンは人が罪を犯した場合、神の前に讒訴して自分の所に引っ張ってくる。サタンも罪を犯したならば、その罪を人が引っ張り出し、神に讒訴した場合には、絶対なる公的の審判官である神は、サタン自体を裁かなければならない。そういう立場に立たれるか、立たれないかと思ってみた場合に、それは当然、同じ公式によって堂々と立ち得る。サタンがこういう罪を犯したと、讒訴し得るその者が、今まで歴史上に生まれてこなかった。

 殺人をしても、その罪が公に現れなければ、その罪を犯した者は、平常な生活を送ることはできる。しかし、罪を犯したその現場を見て讒訴する少年、少女の前では、頭を下げる。警察に訴えようとすれば、それは命懸けでお詫びをするだろう。屈伏するだろう。だから人間は、今までサタンが、何でサタンになったか、はっきり知らなかった。それを我々は究明しなければならない。そういう内容を教えているところが、統一教会である。

 もう少し突き詰めて言えば、まず一般の人は、悪の世界、サタンというものは、もともとあったという。それでは、二元論になる。二元論になった場合には、原因が二つだから、目的が二つになる。理論的な結論である。だから、そのようなサタンがもともとあったとするならば、神が人間を中心として理想世界を夢見るということは、これはナンセンスである。それではいけない。だから、そうではなかった。

 サタンが数千年神を讒訴しながら、数多くの人間を自分の足場に踏みにじってきた。こういう権力あるサタンが、元から神と同じく存在したとするならば、人間は完成するという目的観念をもつことはできない。霊界へ行っても、堕落しないという基準を絶対的に求めることはできない。そうであるならば、神は絶対者ではない。相対的存在になってしまう。

 善と悪、共に主張すべきなのにもかかわらず、悪なる者が滅んできたのが歴史の伝統である。だから、善に支配されるのが原則である。そういう結果から検討してみても、悪の主体は善に服従する動機をもっていることを、証拠として示すことができる。だから、それはもともとあるものではない。


サタンとは何か

 サタンとは、どういう者だろう。最初の先祖、アダム・エバを中心として考えてみると、神様がおられ、アダム・エバがいた場合には、アダム・エバの関係、神様との関係をよくよく知っていた者はだれだろう。それは、天使長しかいない。理論的にもそうなっている。天使しかいなかった。一番近い者として天使しかいないので、天使長を中心として疑ってみなければならない。神様自体は、堕落の動機になれない。アダム自体も、エバ自体も、堕落の動機になれない。その動機になれる者、第三者の立場にいる者は、天使しかいない。

 天使という者はいるか、いないか。それは、聖書からちゃんと分かる。人を造る前に造ったことになっている。だから神様が戒めを出したのも、天使長がいるからであって、もしも天使長がいなければ、アダムに対して善悪知る木の実を取って食べるとか、食べないとかということは、必要でない。問題はそこにある。だからサタンという者は、もともとあったのではなくして、堕落したために、罪を犯したために、それはサタンになった。堕落のために、サタンも生まれてきた。

 では、人間とサタンと、その罪を犯したことに何の関係があるか。人間だけが堕落したのではない。サタンによって誘われて堕落したのだから、共に堕落の動機に結びつけることができる。サタンがエバを誘って堕落したのだから、人間が堕落するとともに、サタンも堕落した結果になった。では、その堕落とは何か。

 聖書を探ってみると、堕落によってサタンもサタンになったとするならば、そのサタンはどういう罪を犯したのか。それは淫行を行っている。ユダ書六節以下には「主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり」と記されている。だからサタンは淫行によって堕落した。そうすると人間の堕落と通じる。

 エバは、堕落した結果どうなったか。見て、取って、食べて、口をふさいだのではない。手を隠したのではない。何かいい物があって、お客さんが来た場合、それをお客さんにあげようとしてお母さんが、「だれだれさん、手をつけてはいけない」という命令をした場合、子供は、それをおいしい物であると知って、お母さんの戒めをきかず手を出して食べようとした途端に、お母さんが入ってきたとしたら、口をふさぐ。それは人間の本能である。こう考えてみた場合に、エバはなぜ手を隠さず、口をふさがず、下部を覆ってしまったかが問題である。

 聖書のイエス様の言葉を見ると、ヨハネ福音書第八章四四節に、不信なる者たちに対して「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって」と記されている。これは的中している。洗礼ヨハネも、敵愾心をもって、「へびよ、まむしの子らよ」と言っている。こういうのを見ても、サタンによって人間は、神も許せない淫行関係において、血統を汚されている。これは否認できないものになっている。だから我々先祖は結局、堕落の結果において血統を汚してしまった。

 堕落した人間は、いくら努力しても、養子にしかなりません。養子というのは、血統が違う。ローマ人への手紙第八章二三節には、「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の中でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」と記されている。それは否認でない。我々堕落した人間、クリスチャンすべてが実子になりません。養子になっている。その養子とはどういう者かというと、例を挙げれば、渋柿みたいなものになっている。その渋柿の畑は、神様が管理するのではなくして、この世は、すべてサタンが管理する。サタンが管理する渋柿になってしまった。

 人間自体が血統を汚したんだから、汚れた血統を受け継いで生まれるすべての者は、サタンの後孫になっている。一人生み、二人生み、数百、数千万になるにしたがって、それはみなサタンを先祖として、後孫として生まれてくるので、結局は、サタンは黙っていても王様にならざるを得ない。その後孫の立場に立っているから、サタンは自然とこの人間世界を中心として王様にならざらるを得ない、という結果になる。だからサタン圏内に創造された万象世界が、サタンに主管されるのは当然である。それは否認できない。戦わずして万物は、そういうような主管圏に入ってしまわざるを得ない結論になる。

 だから、血統的な堕落のゆえに、神が主管すべき者をサタンが奪い取っていたということは事実である。


宗教の使命

 神は、サタンが主管する渋柿の畑をそのままにしておいては、サタンの国において主管されるのだから、それをそのままにしては、神の摂理とか何もなすことはできない。それで、サタンを世界から分別する作用をする。その分別作用をなす機関が何かというと、これが宗教である。

 宗教は、現世の権力のすべてを、外的なものすべてを否認して回り右せよ、そういう作戦をする。この世的なものすべてを否認する。だから完全なる宗教は公認されて出発するのではない。絶対否認から出発する。そうでなければ、完全に立つとか、回れ右することもできない。そこにおいて、後ろを振り返り、塩の柱になったロトの奥さんと同じような未練をもってはいけない。反対である。公認において、真の宗教は生まれてこない。この基準から見た場合に、日本の現実において、真なる宗教はいずこにあるか。分別する基準、分かりましたか。

 だから聖人たちは、その時代においては、その国から迫害された。迫害されたどころではない。生命を奪われてきた者が善人になっている。イエス様自体もそうである。孔子もそうである。その時は、隣の犬みたいに扱われてきた。お釈迦様もそうである。みなその時代に、足で踏まれ、その環境に踏みにじられた者が歴史を動かし、新しい世界の方向を示す中心人物になった。その時代から抱擁され、歓迎される立場に立ったのではない。いかに否認して、善の立場に立つその観念を世界的にもっていたか。その基準において聖人が分別されてきている。だから、みんな世界主義者である。一国だけを思うのではない。

 神の願うところは、国を越えていかなければ、その出発点を満たすことはできない。神はいつでも世界を願う。アダム・エバの時に、堕落しない前に国境というものあったか?国境はなかった。君の国、私の国というものがあったか? これは堕落の結果である。ちょうちょが国境を越える時に、「すみません」とあいさつしていくか? ちょうちょは国境を知らない。いくつの国を渡っても、あいさつなどしない。思いもしない。なぜ人間世界だけ、こういうふうになったのか。堕落の報いだ。日本の国、韓国の国、このような国境が生まれてきたのは堕落の結果だ。だから根本から見れば、国境とか、文化というものが、こんなにもたくさんになるはずがない。

 撃ち合いをして基盤を広げて、国境をつくり、いろいろの文化に分かれていく。言葉もみな、時世によって変わっていくだろう。だから、今みたいにたくさんの言葉ができたのである。そういうのは、今からはいけない。我々の言葉は二つではいけない。国が二つではいけない。一つの国、みなそれを願う。

 日本にも武士道があって、敵討ちというものがある。これは吸収しなければならない。一家が滅びても、一家の側近の何でもない者一人が残っても、生涯かけて敵討ちすることもいくらでもある。だから国境を、一時に、ある方向に向かって解放させるような運動をする。そういう思想的運動を必要とする。そういうことは根本的に間違っているということを教えてやる、何者が生まれてこなければならない。では、「日本が滅べばいい」と言う日本国民はいるか、いないか? (いません)。「アメリカが滅べばいい」と言うアメリカの国民はいるか? (いません)。各国ともみなそうである。これをいかにして、国境を越える人間にするか。それには観念的な問題がある。自分の国は日本だという観念、これが日本国民の伝統的思想観念になっている。そうでなければならないという歴史的文化の背後の伝統によって、それはみな釘づけられている。その思想を無理なく、それ以上の思想と取り替えれば、それ以上の国を求めるようになる。


国境を越える思想

 だから今は思想の時代である。思想戦の時代である。より価値あるものがあった場合には、日本人でも、韓国人でも、西洋人でも、より価値あるものを得る権利を授ければ、今あるものを捨てて、より価値あるものと取り替える。人間は比較の能力をもっている。損する立場と取り替えはしない。日本人は百年の歴史を通して、西洋文化を導入して、早く早く取り替えてきた。だから今、現代文化世界においては、日本は模倣主義チャンピオンの国民である。そういうふうに考えると、先生は気持ち悪いことがある。「統一思想」においてもチャンピオンになるか。それはもちろん、チャンピオンになってもいい。しかし、元を覆してはいけない。

 そういうふうに思ってみた場合には、日本人自体、あるいはアメリカ人自体、自分の国が滅びるのを願わない。その国に世界を抱えさせてやれば、国境はいくら広げてもいいという。今のハワイは、アメリカに入っている。ハワイ人もそれを願い、喜ぶのであるから、アメリカも大きい国で、それを抱えるようになっている。同じように、世界各国共に、世界の国民になり得る。事実そうならなければならない。それは日本民族によって、国民性をもった以上の必要性を要求するようになれば、これは自然と、戦わずして移り変わっていく。そういう運動を、神様も考えざるを得ない。

 だから堕落しない前の価値観というものを、我々は、はっきりと知らなければならない。その価値たるや、万象すべてのものとも替えることはできない。人間の価値たるものは、どのくらいか。人間の価値というものは、何ものにも例えることのできない、最高の価値をもっている。

 時計でも、自分のものよりいいものがあれば、取り替えようとする。着る物もそうである。いいものをやって「脱げ」と言ったら、自然に脱ぐのである。悪いものをやって「脱げ」と言ったら、戦うのである。問題はそこだ。だから、神様がこの世の中を統一世界にするには、神様自体も惚れる者、人間、万民すべてが自分よりいい者と認めるその者をもってきた場合には、今までのすべてが、未練なく捨てられる。それは黒人でも、白人でもみな同じである。

 西洋人も、先生が「来い」と言えば来るのである。東洋人も、見たことも、会ったこともないにもかかわらず、「来い」と言えばすべてを捨てて動くようになるのである。それは、比べてみて、マイナスにならず、すべてにつながりがいいから、それは来る。

 統一教会はおもしろい。何年前までいろいろなうわさをした。文鮮明といえば、日本人においては気持ち悪い思いになっている。新しく入ってきた者が、たくさんいるだろう。何で入ってきた。先生は歓迎しない。歓迎しなくても、その内容が分かった場合には、足場の近い所に立たせてもらいたいと、自然と願うようになる。学生でいえば、東大に入りたい、死んでも入りたいという場合には、死ぬときは東大で死ぬということも考えられる。同じである。要は何も奪おうとする必要はない。いいものを教え、いいものが得られることを教えれば、それは自然と世界的にならざるを得ない。これは事実である。


地上に来られるメシヤ

 だから神様も、この地上においてそういう作戦をせざるを得ない。だから、メシヤが地上に来られる。その来られるメシヤが国家観念をもって来られるであろうかと思う時に、国家観念をもっては来られない。それでは落第である。少なくとも世界的、世界的人物の目標を満たして来なければならない。だから聖人というものは、民族主義者ではない。世界主義者である。

「統一思想」からいえば、我々は孔子より、イエス様よりもっと素晴らしい者にならなければならない。イエス様はその目的を果たせなかった。我々はそれ以上の目的観念で世界を統一しなければならない。「天宙統一」。それは素晴らしい思想である。この地上にない思想をもってきている。素晴らしい内容だけに、素晴らしい前後関係をもってくるに違いない。もしも神様がおられたとするならば、神様もそれをもちたいと願う思想であれば、いいだろう。そういう思想を、もしも自分がもったとするならば、神様もそれをもちたいと願うようになる。こういう人間に一つつくってみようという。これが「統一思想」である。

 先生は、見ただけでは何でもないのだけれど、そういう思想を主張する先頭者だ。だから今から問題になる。メシヤは、世界的、世界主義以上の目的に向かって進んでいく。そもそも聖人というものは民族主義はいない。日本には愛国者がたくさんいる。日本の愛国者は韓国では敵だ。それは国境を越える力はもっていない。先生の話は、歴史の事実を言っているんだね。神はそれを知っているから、神のみ言を果たす使命をもった者は、世界的な者でなければならない。それは人間社会を中心として、人間の意志を無視した主義ではなく、人間を尊く思うとともに、神を尊く思う内容をもったものでなければ、神が必要としない。神が必要とする、そういう者であったら、これは滅びない。おもしろいことには、宗教の教祖がなぜ聖人になっているか。それをあなたたち若者は、知らなければならない。現代文化は、彼らの思想の総合的結果として成されている。日本国家も、その基準を型どっての社会組織になっている。それは事実だ。

 イエス様も国家主義ではない。世界主義である。自分の個人の目的のために死ぬのではない。世界万民の目的のために死ぬ。我生まれたのも、また生きるのも、自分一個人で生きるのではない。万民のために生きている。我いっさいにおいて、そういう観念でもって、それに徹した生活観念でもって、生涯の道を行く。それに反抗する者がいれば、ぶつかって死しても、その決意を揺るがさない。そういう信念でもって、十字架を乗り越えて余りある男として行ったんであるから、神様がおられた場合には、その思想がなくなる恐れがあるならば、復活してもその思想を残さなければならない。そういう立場になる。

 だから民族主義を超越して世界主義へ、そういう世界へ向けて、神はこの人類を押し立てる。それが今、あいにく共産主義思想圏に引っかかっている。それでは世界は、平和に絶対になりません。共産主義は、物質が元とする価値観を唱えているが、物質とは、人間に支配されるものである。人間の生活方便として消耗されるものである。そういうものの動機を絶対視し、そういう基準から人間の価値を見た場合には、この私、一人の人間としては、無価値な者に帰する。

 あなたたちも知っているソビエトのスターリンを見れば、三千万以上の人間を虐殺している。毛沢東は五千万以上を殺している。目的を達成するには方法、手段を選ばない。自分の近親でさえも、意見が異なってくれば切ってしまう。それは善ではない。だから悪とは何かというと、自分のためにすべてを屈伏させるのである。それをはっきりしなければならない。

 十人の友達がいた場合には、十人の友達に、「毎日、毎年、一生涯自分のためにやれ」と言った場合には、その友達は動くか。もしそういう者に支配された年数が重なればなるほど、「この野郎、時来た場合には一挙に整理してしまおう」という内心が大きくなってしまう。それでは平和は来ない。共産主義のやり方に、平和は来ない。

 だからイエス様の主張したその生活は、愚かなようでも、実に偉大な戦法である。十人の友達のグループがいて、九の友達に毎日奉仕し、犠牲的に活動するという人がいた場合、九人が集まり、その一人が来ないときには、「なぜだれだれは来ないんだろう」とみんなが言うのである。何事もその人を除いては、なそうとしない。その人を中心としてなそうとする。人のために尽くせば、その人は消耗するように見えるんだけれど、時が長引けば長引くほど、だんだんと中心点を占領するようになる。


神の戦法・サタンの戦法

 だから神の戦法と、サタンの戦法は違う。サタンの戦法は、打って滅びる戦法である。自分の利益のために人を犠牲にし、成功しようとする戦法である。それは長引かない。神の戦法は、自分を犠牲にして、打たれて勝利しようとする戦法をとっている。これはまるっきり違う。

 悪人の戦法はどうか。悪人は自分のために他を足で踏みつけて、自分が成功しようとする者である。善人は奉仕してみんなを良くしようとする。みんなを良くしようとすると、結局、良くなった者は、良くした者を追い出すのではなくして、自動的に引き入れて、中心人物として立たせるようになる。ここには、戦わずして、すべてが占領される道が生じている。だから神は陰ながら、早く良くしてやろうという戦法で負けたことはない。

 過去の聖人たちは打たれて、歴史が通過するにしたがって、だんだんだんだん打った国の後孫が、打たれた者の僕になってしまうという結果になって、歴史は発展してきているのである。それが歴史の事実である。原則はこういうふうになっている。だから統一教会は、この戦法をとる。「勝共連合の背後には統一教会がある。ああいうふうにするのは、勝共連合を前に立たして統一教会の発展のためだ」と、みんな誤解する。皆はそう思ってもいい。我々は、共産党をいかに防備するかということが目的で、統一教会はどうでもいい。統一教会が滅びても、それを成せばいい。「統一原理」は何を意味するものか。宗教が滅びかかっている、それを防備するものである。

 二大目標のその看板を打ち出して、働きかけているのが統一教会である。「統一思想」である。そうしてその戦法は何か。共産党みたいに打って占領すべきでない。打たれてである。善の立場で打たれた場合には滅びない。それをはっきりさせるために、例えを言おう。

 二人の兄弟がいるとする。満二十歳の兄さんと、十歳の弟がいる。その場合に、親は兄さんに毎日相談をする。しかし、そういう兄さんが何の罪も犯していないその弟をぶったならば、父母が兄さんを中心としてあてにしていたすべてのものは直ちに崩れてしまう。そしたら弟のほうを助ける。絶対的にそうである。なぜ弟をいじめるのか。「何が悪いか」と、それに反発した場合には永遠に切られてしまう。

 だから、善悪はどこから始まるか。先に被害をかけたところが悪である。いくらいいことを言っても、被害をかけた場合には悪に終わる。悪いことをしていないのに、その国が攻められた場合には、攻めた国が攻められた国に支配される。その原則を、はっきり知らなければならない。統一教会の食口としても、いい者はいい者である。カイン・アベルである。被害の動機になった者、それはカインである。

 エデンの園において、天使長はアダム・エバに被害をかけた。被害を先に被らせる者が悪である。それを治めるのが法律である。被害をかけた者が善か、悪か。それ一般社会での悪、サタン世界の悪も通じるのである。

 人を見るとしても、微笑みながら気持ちいい姿をした人を、みな見つめる。気持ち悪い表情をした場合には悪だ。だから向かい合う時には、必ず微笑みながら頭を下げる。これは恐ろしい戦法である。これは善悪の分かれ目である。

 話をするときにも、謙遜な者と傲慢な者。一人は小鳥がさえずるように歌いながら、気持ちいい姿でもって話をする。一方は傲慢な姿でもって、ぷんぷん言う。見ただけで気持ちが悪い。人間は、笑顔でいつでも歌いたい。口を開けば歌う。そういう気持ちをもった者には、悪人はいません。

 被害を与える者は、悪である。被害を被る者は善である。そうして悪の被害をかけた者が黙って、そのままの道を続けていくならば、悪を犯した者から、戦わしてすべてを相続する素晴らしい道がある。これをイエス様はよくよく知っている。研究したらそうなっている。今から二千年前の時代において、そういうことを分かってか、分からないでかは知らないんだけれど。だから善悪をはっきりと知らなければいけない。


イエス様の思想

 だから宗教人はみな奉仕をしながら、皆を喜ばせる。それが善の道である。イエス様は恐ろしい思想をもった。ローマの兵士に対して、自分を槍で刺し殺す怨讐に対して、神に祈ったその悠々たる姿には、天地すべての存在は涙ぐみながら、内心の深い底から永遠の勝利をたたえる。その瞬間が、その時だったのである。素晴らしい方だ。

 三十三歳の年の人は手を挙げて。このくらいの若い年のイエス様、子供ももたない、結婚をしたこともない、これはもう逃げ回る男である。どこの部落を訪問しても、朝御飯も出してくれる者がいない。だから聖書にも、「いちじくの木の実を取って食べようとしたら実がなかった。呪われて枯れてしまえ」という言葉があるように、かわいそうな生活をしたのがイエス様だ。「狐には洞穴があり、鳥には巣があり、自分には何もない」。これはもう悲しいどころじゃない。悲惨な男であった。友もなければ親もあるわけではない。何もない。むなしい。林子平の言葉があるだろう。「金もなけれど死にたくもなし」。そういうふうに死んでいった。だれも認めなかった。国も認めなかった。弟子も認めなかった男が、いかにして世界の民主主義国家圏をつくるその創始者の主体となり得たかというと、神様がいなかったなら、絶対なり得ない。

 だから善人は、このように後世において歴史的にたたえられるような道を保ちながら、その思想を受け継いで、歴史が過ぎれば過ぎるほど世界的万民を包容して、世界圏を広げてきた。これが歴史の事実である。四大文化圏の精神の思想が、宗教が、現在の文化圏の背後にある。

 民族とか国家主義を越え、日本人を愛するより、世界人を愛せ。だから「統一思想」はあなたたちに教える。先生はあなたたちに教える。統一教会を愛せということは教える。しかし、統一教会より世界を愛せ。統一教会の文先生より、世界を愛せ。それが先生の教えである。


神を解放する日まで我々は行こう

 先生も世界のために働いている。先生の関心は世界である。自分には関心がない。しかし、あなたたちは世界に関心をもつより、先生に関心をもつ。そこが先生と違う。先生は自分に関心をもたない。関心の的が世界であるにもかかわらず、君たちは世界はどうでもいい。先生に関心をもつ。こうなっている。これは間違っている。しかし一方には合っている。しかし、それっきりでは駄目である。先生が亡くなられた場合には、世界の行く道はふさがってしまう。先生と同じような思想を、あなたたちはもたなければならない。

 世界に行く道を、先生が先頭に立って開いてくれるのだから、世界に早く行くために先生を必要とする。それが先生の目的である。先生を助けるために、それは先生を要求するのではない。

 世界のために我々は生まれており、世界のために我々は統一教会をつくったし、世界のために我々は日本を舞台としている。これは訓練場である。日本で働いて、日本で死ぬために働くのではない。日本で訓練して、世界で死ぬためである。これは「統一思想」である。もう一歩越えて、共産主義より高い思想である天宙主義とは何か。これは万民解放を目的とだけするのではない。そこにおいて神様をも解放する。だから心情の世界でなければならない。心情のその鎖につながれている親だから、その子供が解放されない以上は、親は解放することができない。だから心情の歴史をつくろう。心情の伝統を立たせ、心情の世界をつくろう。神様を解放しよう。

 我々は、歴史的神様の心情を知らなければならない。現世的な神の願いの目的をなし得たその心情の喜び、一方的な方向を要求するのではなくして、過去の心情を兼ねた現世の勝利、神の願いよりも、もっと願ってきた価値のものである。そうして得たものを、神様に何の功にするでもなく返してあげる。そうであれば神様も、これは素晴らしい男、女としてそれを抱えてやろうとされる。祝福は嫌だとして逃げていっても、足止めして、それはお世話をしてやるというのである。

 そういう心情の世界を我々がもっていたなら、現世においての問題を解決しなければならない。未来に完成するのだから、我一生尽くしても、悲しみの心情を防備してしまわなければならない。そのように、命懸けでやる。

 だから今のところ、世界の思潮がこのような困難な時において、両手を挙げて、濁流が渦巻く真ん中に立って、その方向を新しい神の願いの方向に進ませてあげる。歴史的心情をもって、そういうふうにしてあげたならば、神はいかばかり喜ぶだろう。それを我々は願っている。
















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