成約人への道
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 三 人間の価値は偉大である

  1.人間の価値は神様的価値

 人の価値は、どのくらい大きいでしょうか。神様が杖をついて千年、万年懐かしがることができる存在が人間です。統一教会の文先生が見ると、これが宇宙の根本だというのです。これが内外関係になったので、縦横の愛の世界観が成立するのです。上下関係と左右関係になれば、縦横の愛の世界観が広がるのです。その中心には神様が臨在されるのです。心の深い谷間の位置で一つに固く結んであげることができるその場は、縦横の中心地です。これを結んでおかずしては縦横の基準が愛の理想型として出てこないのです。ですから人を、このように造らずにはいられなかったということを皆さんは知らなければなりません。
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 神様は絶対的な創造の観を所有した絶対者であられるので、絶対的な対象としての価値のある存在を追求するのです。これは、この地上の被造万物の中の何をあげても換えることのできないものです。
 価値的に見るならば、相対的存在とは神様をあげても換えることができない存在です。「相対的価値」という言葉は少し難しい言葉ですが。相対的価値というものは、相対という言葉を中心として、その対象の価値というものは神様をあげても換えることができないのです。神様をあげたところで神様一人になるというのです。神様として残ってしまうのです。
 ですから神様自身を投入して、神様自身の力を、エネルギーを消耗するのです。消耗戦をされるのです。ですから、神様をあげても換えることのできない価値的存在として造ったものが人間なのです。これと同じように、絶対的価値の存在が人間だということを皆さんは知らなければなりません。神様がそのような観をもって、価値的存在として人間を造られたのです。
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 神様は、人間を愛のために造られました。人間はなぜ造られたのでしょうか。愛のために造られたのです。人間が万物と違うのは、神様の息子、娘として造られたからです。神様の直系の愛を受けることができる対象者として造られたというのです。これが人間の特権です。
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 人は誰に似ましたか。神様に似たというのです。ですから神様が愛を願うことも、結局人と同じだ、とこのように見るのです。愛を中心とした理想の創造世界というものは、実体を中心とした愛の表示が形状として現れ、形状の表示が象徴として現れるのです。統一教会の原理は、そのように言っているのです。何を中心としてですか。愛を中心としてです。その実体が喜べば、その形状となるものも自動的に喜び、形状となる存在が喜べば、象徴的なものも自動的に喜ぶことができるのです。そのような作用を何がしますか。愛のみがするのです。
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 神様が、愛を求めていく対象を造ろうとするとき、誰に似るように造るでしょうか。神様に似るように造るのです。その神様に似るように造るなら、神様の中にあるもののように男性の性稟がなければならず、女性の性稟がなければなりません。自分に似たので自分の本性相からすべて抜き出して、見えない性相、見えない考えの形態を実体として展開させたものが人間だというのです。ですから聖書の創世記に出てくる、神様が自分の形状のとおりに人間を創造したという言葉は正しいのです。
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 見えない神様の形状を、私たちの体中に象徴的にすべて投入したというのです。目は、誰に似たのですか。神様です。ですから顔の真ん中を見てみると、目は深い所にあるのです。そうでありながら、すべてのものを観察するというのです。その次に、鼻はアダムとエバを象徴するのです。これが中心でありセンターです。その次に、口は万物です。横的です。ですから、四八、三十二(四×八=三十二)、三十二個の歯をもっているのです。この世の万物を中心として四数を中心として。その次に、耳は四方を象徴するというのです。この首の上は天の国です。天の国の情報センターがあるというのです。
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 顔は、天地創造の主人が自分の形状をすべて取り入れて造りました。ですから、人の中には神様の性稟がすべて入っているのです。この目は何を象徴するかというと、神様を象徴します。ですから生物が生まれるとき、目が最初にできるのです。天地の中心は神様であられるので、目は神様を象徴するのです。ですからどんな人でも、その人の目は神様を象徴するというのです。ですからどんな人でも、その人の目を見ればその人が良心的な人なのか、非良心的な人なのか直ちに分かるのです。
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 いくら真理だと言っても、その真理の核心とは何でしょうか。お金でもなく、権力でもなく、知識でもありません。愛です。本質的な愛は縦的なところにあるのであり、真理的愛は横的に連結されているのです。ですから万物を見て神様が分かるし、アダムとエバは神様の形状なので、アダムとエバを見て神様が分かるのです。なぜですか。アダムとエバは縦的な真の愛の対象的主体なので、これを二つすべて完全にピタッと、男女の愛を東西南北を通して世界の軸をもっていって合わせるときには、神様と霊界が通じ、全世界がすべて通じるのです。
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 皆さんは主体と一つにならなければならず、対象と一つにならなければならないということを知るべきです。主体と対象が一つになれば、繁殖が起こります。与え受ければ、必ず繁殖が繰り広げられるのです。その繁殖することができる場は、うれしい場なのです。神様自身も性相と形状の二性性相になっているでしょう。各自が一人の時は主体ではありません。男性と女性が合わさってこそ家庭の主体が成立するのです。二人が合わされば、主体になるまいとしても主体になるのです。
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 人間たち自らが、神様の本然の愛を再現させることができる運動、神様を愛することができる運動、神様に接近することができる運動をしなければならないというのです。「汝の体と心を尽くして、主なる汝の神様を愛せよ」と言われた、それが第一の戒めだというのです。愛することが第一です。体と心を尽くして愛さなければならないのです。中間であってはいけません。終わりまで行かなければなりません。
 そうです、神様の形状が現れることができる真実な心、神様と一つになろうとするその心の本性が絶対的であり、それによってすべてのものの始まりと終わりだとすることができる境地に入っていかなければなりません。そのように愛せよ、ということが第一の戒めなのです。
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 神様と人間が拍子が合い、和動することができる喜びの拍子の前に、すべてのものが自分の形のとおりに音律を合わせることができ、自分の形のとおりにすべて象徴的に、形状的にみなこうすることができる、そのような喜びの表示がそうだというのです。そのようになれば万物も、「ああ、私も生まれがいがあるなあ」と言うのではありませんか。例を挙げて話をするなら、神様と人間が愛の宴をするその日に同参することができる因縁をもって、その喜びを分かち合うことができる存在になったという事実が、被造世界のこの上なく小さい万物が願うことのできる所願ではないかということです。
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 このすべての万物は、神様の息子、娘たちを造ることができる土台なのです。関係を結び、連結することができる土台なのです。動物もそうですし、鉱物もそうです。鉱物世界にもプラス・マイナスがあるのです。植物世界にも全部雄しべ・雌しべがあり、動物世界も雄・雌があります。すべて橋を架けて、すべてのものが結集され創造された最高の傑作品が、人間の内的形状と外的形状です。それを実体化させて男性、女性の性相を……。そのすべての形状を賦与して、象徴的、形状的、実体的にすべてさらけ出して橋を架けるようにして、すべて連結するように、関係を結ぶようにしたのです。
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 それでは神様は、なぜ夜と昼をつくられたのでしょうか。毎日のように一日中お日様があれば、朝何の刺激がありますか。光明な朝だ、光輝く朝だというとき、光明がどのように光明で、光がどう輝くというのですか。おもしろ味がないのです。しかし、すべてのものは刺激のために、愛という課題を置いて、刺激的な象徴と形状でつづられながら調和することができる拍子をもっているのです。
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 皆さんの生命の根は、どこにありますか。堕落していない父母にあります。では堕落していない善なる父母の位置は、どのような位置ですか。神様が二性性相の主体であられるように、神様が自分の二性性相を展開し、神様の形状どおり万宇宙を造り、人間を造ったのです。アダムは神様の男性的性稟を展開させたものであり、エバは神様の女性的性稟を展開させたものなのです。
このように見るとき、私たち一般人たちが普通「天のお父様!」と言うのは、お一人ですからそのように言うのでしょうが、そのお一人という概念の中に「天のお父様、お母様」という概念が入っているというのです。


  2.人間は神様が臨在される聖殿

 もし人間の先祖アダムとエバが堕落しなかったならば、どのようになっていたでしょうか。アダムとエバは神様と一つの体になって、神様と同じ立場に立ち、神様の創造の威厳を継承し、神様が創造後お喜びになられたのと同じ位置に立つことになっていたはずです。神様と人間の間で、そのような関係を結ぶようになるのです。堕落していない本然の人は、神様の聖殿になるのです。
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 アダムとエバは、神様の息子、娘であると同時に神様の聖殿です。彼らが共に成長し聖殿が完熟するように造られたなら、神様がアダムとエバの中に入ってこられるというのです。そして完成したアダムとエバが神様を中心として聖なる式を挙げれば、それは何ですか。神様と一つの体になるということです。神様は内的な神様になり、私たち人間は実体をもった神様の体になるというのです。
 皆さん、コリント人への第一の手紙第三章十六節を見ると「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」というみ言があります。信じて救いを受ける人も神様の聖殿になるのですが、本然の人類の真なる先祖の位置に進むその方たちにおいては言うまでもないというのです。
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 神様が父になり人間は神様の息子になったとしても、父は上にいて息子は下にいる上下関係のような、そのような気分がするのです。そのとき私たち人間は、どのような考えをするのでしょうか。「お父さん、お父さんが座っていらっしゃったその席を、私に一度下さい。私もお父さんの席に座りたいです」という欲望が私たち人間にはあるのです。
 ここで神様が「おいこいつ、駄目だ」と言えば、すべて壊れるのです。しかし神様は、そのように言われないのです。むしろ神様は、私たち人間がそのような欲望をもっていることを知っているので「早く、そうしなさい。早く、そうしなさい」と言われながら、その位置までも私たち人間に下さるのです。その位置まで人間に下さって神様は私たちの心に臨在され、私たちの心を聖殿として、いようとされるのです。
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 聖書には「私たちの体は聖殿である」とありますが、それはどういう意味か、解釈できずにいるのです。それは偉大な言葉です。いくら大きな神様だとしても、その神様と私が愛をささやくことができる愛の対象圏になり、その愛の対象圏と一つになれば宇宙を相続することができる権限が生じるからです。愛という原則基盤を通じて神様が造った世界、霊界、無形世界、実体世界、このすべて、すなわち宇宙の相続権を獲得することができるのです。この驚くべき事実を知らないのです。
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 アダムは実体をもった神様の体です。コリント人への第一の手紙第三章十六節にあるでしょう。あなた方の体が聖殿であることを知らないのかと。聖殿は神様がいらっしゃる所でしょう。私たちの心に本然の愛が芽生えるその場所を至聖所としているのです。ですからアダムの心に神様が宇宙的な愛の聖殿を造って愛の力を伸ばして、愛の花を咲かせようとするのです。これが、神様がアダムとエバを造り、家庭と世界に繁殖しなさいと祝福してくださった目的だということを知らなければなりません。
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 一番神聖な所はどこですか。至聖所とはどこかというとき、エルサレムの聖殿が至聖所ではありません。人間が造ったそこが至聖所ではありません。神様が造られた愛がとどまることのできる所が最高の至聖所です。この至聖所を失ってしまったのです。ですから人間の罪がどれほど大きいでしょうか。
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 神様が人間を造ったのは、実体の神様の体として造ったということです。コリント人への第一の手紙第三章十六節を見ても「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」と言っています。聖殿とは何ですか。神様の家だというのです。アダムとは誰かといえば神様の体であり、エバとは誰かといえば神様の夫人だったというのです。このようになっていたならば、その子供は神様の血統をもって生まれるのです。彼らが神様の血族になるのが原則です。
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 完成段階に至った人間が霊界に行くと、どのようになりますか。アダムは神様の体になります。アダムは神様の体になるというのです。ヨハネによる福音書とコリント人への手紙に「あなた方は神様の聖殿である」と出ているのと同じように、神様が臨在することができる聖殿です。家です。神様とどのように似ますか。責任分担完成段階に至り、神様が臨在し一つになれば、愛によってすべての生命の結合、一体化が成し遂げられるのです。生命が和合するのです。男性、女性が家庭、夫婦を成すということは、愛を中心として一体となり、和合するということです。それと同じように、その愛の力は神様と和合するようになるのです。神様と和合するようになるということなのです。
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 人間が完成して成年になれば、そのとき、見えない神様が入ってきて愛を造るのです。神様が好むと同時に、アダムが好む激動的愛を神様がすることができるというのです。それゆえ愛は最高の神聖な聖殿です。神聖の聖という字です。ですから真の愛の中には、どこでも神様が入っていらっしゃるというのです。なぜ人は真の愛を好むのでしょうか。真の愛にさえ会えば、神様がここにいらっしゃるというのです。主人がいるようになっているのです。ですからアダムとエバが成年になって愛するとき、アダムとエバの体は、この宇宙を創造した神様がその中に入ってきて最高の神聖な聖殿を築く神聖なところになるのです。
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 エバとは誰かというと、アダムの妻です。アダムは、神様の実体です。「あなたの体は神様の聖殿だ」と言ったのです。神様は、アダムの心に臨在している見えないアダムです。この二つの父が一つになるのです。合一されるのです。そして霊的世界、無形の世界と有形の世界の合一の起点がアダムの本性的基準です。その本性的基準は何ですか。お金のふろしき、欲心のふろしきではないのです。
 純粋な思春期を通じてすべての細胞機能が総動員され、一つの触覚として、アンテナとして現れたその基準を中心として、神様がそこに臨まれるので席を設けて……。陰陽が調和し、合わされば互いに降りていくのと同じように降りてきて、警備兵のいるところ、基地を……。アダムの心の中に来て神様は内的父、アダムは外的な父として霊的世界と実体世界の和合、一体の基準で、一人の男性を中心として一人の女性を中心とした横的世界で一致を成し遂げ、愛を中心として球形の核が広がるのです。球形の核。
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 コリント人への第一の手紙第三章十六節を見れば「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」というみ言があるでしょう。これが何かというと、神様の聖殿です。皆さんが神秘的な境地に入って祈祷しながら「神様、どこにいらっしゃいますか」と尋ねると、答えがとても素晴らしいのです。「ここにいる! なぜそのように大騒ぎするのか」とおっしゃるのです。
 「朝御飯を食べられなかったのか。夜遅く、なぜ大騒ぎするのか」と言うのです。「どこにいますか」と尋ねると、「どこにいるも何も、その深い心の奥に立っているだろう! お前の心の中にいるだろう!」と言われるのです。天国がどこにあると言いましたか。心の中にあると言いました。























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