文鮮明先生御言選集 55
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メシヤと我々 1972年4月23日 日本 東京教会 

神を失った人間

 この世に住んでいる一般の人は、メシヤが必要であることを知る者はほとんどいません。宗教生活をする者に限ってそれを知る。「人間は救いの道を求めていかなければならない。この世において我々人間としては未完成の者である。完成した人間の価値を求める。あるいは理想の人格の基準を求めているんだけれど、求めているその者は、この堕落圏内にいる。現世に住んでいる自分たちの努力において、それが成されると思う人は多くいるかもしれないけれど、堕落している現世の人間自体がいかに要求しても、完成基準には到達することはできない」ということを我々はよく知っているのです。

 こういうふうに完成を願うような人間になったというのは、これは結局堕落の結果であり、堕落が問題である。

 人間本来の理想の価値を立てずして、その価値の基準を失って落ちてしまったんだから、落ちた所において再びそれを求めなければならないのが、この地上に住んでいる人類である。いかなる苦労の道を越えても、その目的の基準を我々は探り求めて、その基準に立たない以上は理想とか、あるいは人格完成とか、最高の人間として求めている最大の価値基準を得ることはできない。これが人間自体の願いです。

 人間が願うことはもちろんであるけれども、もしも神様がいるならば、神様自体もそれを願わざるを得ません。だから知らない人間たちを、神様は背後において人間の最高の価値基準まで引き上げてやらなければ、神様の最初の創造目的もなされない。だから背後においては神様も願い、堕落した人間自体においても、我々は未来を目標としてそれを願っている。その基準が一致するある時が来なければ、神様のご理想はもちろん、人間として願っている最高の完成の価値観を満たすことはできないのです。

 しかし、この世に住んでいる人類は、神様が本当にいるかいないか、はっきり知っている者はいません。これが問題である。もしも神様がいるということを知ったならば、ここには説明も何も必要ない。教える必要もない。ある方向とか目的観念を勉強する必要もない。それ自体、個人は個人なりに神様に即したいその一念に向かって生活していけば、神様の願いの目的の基準に到達するのはもちろんである。だから要は、神様がいるということをはっきり知ったならば、すべては解決する。個人に対しての問題、あるいは家庭に対しての問題、あるいは氏族、民族、国家、今においては世界が問題になっているから、世界のすべての問題までも神様がいるということをもしはっきり知ったならば、神様が人間の中心として率いるこの地上には、人間は新たに何者も求める必要はないのです。

 だから、神に向かって共に相愛し、共に連れられて、共に生活しながら引き連れられていけば、自然とその目的の世界、個人の目的はもちろん、全体の目的の世界に到達するのは、これはもちろんのことである。だから問題はどこにあるかというと、神様を失ってしまったんだから、神様によって与えられた完全、あるいは最高の価値というものも、自然と失わざるを得ない結果になってしまった。これが堕落です。

 堕落したアダム・エバ、あるいは我々の先祖が堕落したことは見たこともないし、聞いたこともない。しかし堕落した結果の世界に生まれている。だから我々人類の生きている現世というもの、この世の中というものは堕落圏内に包囲されている。これが問題である。この堕落圏内から脱皮しなければいけない。乗り越えていかなければいけない。乗り越えていくには、個人としていかに乗り越えていくかという問題である。個人を乗り越えた以上は家庭を中心として、いかにしても、これをまた乗り越えていかなければならない。家庭に限ったことではない。あるいは氏族、民族、国家、世界まで、天宙の最高の基準を乗り越えるまで、ここには堕落圏がすべてを占領している。これをいかに正すかという問題が、我々堕落した人間として果たさなければならない、解決しなければならない重大な問題なのです。

 これを果たすには、今、現世の世界のすべてを導入しても、それは可能な問題ではありません。国の力でもできなければ、世界の力でもできない。それ自体が堕落圏内に包囲されているし、拘束されている以上はそれ自体を中心としては解放とか、あるいはこれを抜け出るということはできないのです。


メシヤの必要性

 だからここにおいて我々人類として願うのは、これから第三者の力を頼りとしなければならない。そこにおいて宗教の必要性が生じてくるのです。

 愛の絶対なる神様があったならば、このすべての環境を正してもらいたい。それが今まで、我々歴史を通しての人類の要求であった。こういう面の要求とともに、もしも神がいたとするならば、人間をそういうような立場におきたいのが神のもともとの理想じゃない。これはやむを得ない結果になってこういうふうになってしまったんだから、神様自体もこれを本来の基準まで引き上げておかなければ、絶対なる神としての権威を立てることはできません。

 我々人間の一人ひとりにおいても、自分なりに計画したものはいかなる環境のつらさがあっても努力し、成そうとするのが堕落した人間としての要求である。本来絶対なる神から見た場合には、自分のご理想を立たせ、そのものを成さずしてそのままにしておくというのは、これは威信の問題であり、権威の問題にも引っかかる。だから神としても、この堕落した人間をそのままにしておくわけにはいかない。それで、これを救ってやらなければならないという神の立場よりの、摂理という問題が生じてくるのです。

 人間は救われたい。神は救ってやりたい。この両者が一致する。両者が一点において一致したその基準を一度において満たすかという、これが問題である。その一点というものは個人の環境に引き入れられていくような一点ではありません。あるいは我々が、その家庭基準を中心としてそこに引かれていくような、そういう一点ではありません。あるいは国家を中心としても、世界を中心としても、この一致した一点においてはすべてが引き入れられなければならない。そういう一点を神は求めざるを得ない。人間もその一点を願っている。その基準がいつ地上に果たされるか、これが問題だ。その一点が結ばれた場合は、個人完成がもちろん成るであろう。家庭基準ももちろん成るであろう。あるいは国家、あるいは世界という問題も、この基準よりすべてが解放の一点を満たすことができる。こういうような立場に立つのです。

 この一点の基準を誰が責任持つや! 人間が責任持ってこれを果たすことができるか? 絶対できません。そうかといって神様自体がこれを責任持って果たし得ることができるか。それができるとするならば、今まで六〇〇〇年、数千年の歴史過程は通過しなくても、すぐに果たされる問題であった。これは神様が直接そこにおいて関与して解決してあげる問題じゃありません。ここにおいてその問題は、堕落した人間も果たすことができなければ、神様もこれは成すことはできない。では、誰が成すかということが問題です。

 ここにおいてメシヤという問題が必要となってくるのです。

 今我々が世界情勢を眺めてみた場合に、宗教界はともかく、一般の社会において、あるいは世界各国においての問題は、果たして人間の願ってきた理想世界が現れてくるかどうか。これが問題である。宗教として今まで求めてきた地上天国、あるいは極楽の世界が、我々人間の世界に現れてくるか、これを再び問わなければならない段階に入ってきた。そうかといって、その疑問とされる立場を踏み越えようとしても踏み越えることができないし、その苦悶の塗炭の中を潜っていかなければならない我々の人生です。

 ここにおいて、もし神様がいたならば、宗教界に新しい指導的方針を授けてもらいたい。もし神様がいたならば新しい時代的指導者を送ってもらいたいというのが、全人類の切々たる念願なのです。

 今までの歴史過程におきまして、聖人、義人のすべての思想を、人間はそれを果たそうとしてあらゆる方面において努力してみたが、その努力の結果において、成功とか希望の基準を満たしたことはない。それを通して再び落胆するような、そういう結果に我々は到着した。この基準において、いかなる人間の力、思想をもってしても、それは人間が要求している一つの世界を成し得ないということが、もう実験済みのことになってしまった。だから人間も喜ぶ、神様も喜ぶ、その人間が一人から三十四億全世界人類へ、人間も喜んで、神様も喜んでそれに従っていく。神様もそれを立たしていく道に対して、喜びながらそれを援助する。そういうような中心的存在があったならば、これは神様の喜びになるであろう。神様の喜びとともに、人類の喜びはもちろんである。そういうような立場に立っているのがメシヤです。


堕落観念に徹せよ

 堕落したんだからメシヤが必要になってきたのです。堕落しなかったならばメシヤは必要でありません。堕落したんだから神様を失ってしまった。堕落したんだから人間本来の本然の価値観を失ってしまった。堕落しなかったならば結局、人間本然の価値というものは、もう生まれると同時に持つようになっている。ここには、再び神の作用ということも必要ない。要求もない。それ自体にもう満たされている立場である。何者も満たされないものはない。神様を中心とすれば、それは神様を中心として一つになったならば分からないことがない。我々に、こういう根本問題に対しての教育という問題は必要じゃない。

 人間に対して根本問題は何か。食べることである。それから生きることである。最後には愛の問題まで行き着くことである。

 あんたたち生まれて、食べるということを教わったことがありますか? おなかの中から生まれてくるというと、これは自然現象において食べなければならないようになっている。あるいは吸わなければならないようになっている。そこには教育は必要じゃありません。その相対物があったとするならば、それに口をつけたならば自然と食べ方が分かるようになっているのです。

 だから我々において食べるとか、生きるとか、愛するとか、理想を求めるとかも、この自然以上に教育は必要じゃありません。小さい昆虫においても、繁殖作用は自然と知っている。例を挙げていえば、お嫁に行くお嬢さんに対して、お母さんお父さんが、これは愛する問題を根本的に教えてやらなくてもいいのです。それは自然現象的に分かるようになっている。それで自然の要求に従えば、目的過程を通過して立体的な感覚の世界、立体的な価値観の世界に接するのが、堕落しなかった本来の存在です。

 それが堕落したんだから、逆さまになっている。逆さまになっているから、これを立てなければならない。人間を生む時には、頭を下に向けてお尻が上で逆さまになっている。これを再び逆さまにさせなければならない。人間の姿のようなものを持っているんだけれど、人間じゃあないのです。だからそういう立場に立っている。堕落したんだからこういう運命に引っかかってきているのです。

 だから我々は堕落観念に徹しなければならない。これを元返しするには、まずもって何を感じなければいけないかというと、メシヤを願うより、堕落観念を自分がいかにはっきり体恤するかということである。牢屋に閉じ込められた者が、自分が牢屋に入っているかいないか分からないで、解放を、釈放を願うということはあり得ません。

 まずもって、我々人間たる者は何か求めている。何の解放か、これを願っている自分に間違いないというならば、これは何でこういうようになったか。堕落の結果だ。堕落したからである。堕落観念に徹しなければならない。堕落観念に徹すれば徹するほど、その願い求める力が強くなってくるのです。

 もしも救ってくれる、あるいは救いの者が来るということを知ったならば、もう到着する前に一〇〇パーセントの準備をしているだろう。そこには説明がいらない。方法、手段、万全な準備を成して、会う道が開けるように教えてやりたいという心持ちを持つに違いない。だから宗教の使命は何か? 堕落観念を、堕落した人間、罪人であるという観念を、いかに強固に体験するように教えてやるかというのが、宗教の使命です。

 この統一教会の食口と唱える若い者たちにおいても、自分は堕落したのか分からない者たちがたくさんいる。特に、初めて統一教会へ入った者たちにおいてはもちろんそうである。堕落なんて思いもしなかった。自分の先祖の先祖、一番の先祖が堕落したって、何千、何億年の昔のおとぎ話みたいなその堕落の話と、何のかかわりあるや? ピンとこないのです。だから、問題はあんたたちが堕落したという堕落観念を、いかに強固に感ずるかということが第一の目的です。

 堕落したということがはっきり分かったならば、それは救い主を求めよと教えなくても、「目を閉じろ」と言っても目を開けるし、「顔を向こうに向けなさい」と言わないのに、もう向いているようになるのです。

 しかし今まで歴史過程において人類は、そういうような観念に徹してはいなかったのです。宗教生活をしながらもいろいろなことをやってきた。個人の解放圏を成した場合には家庭の解放を、家庭の解放を成した場合には氏族、民族、国家解放を、あるいは世界解放、天宙解放、最後には神様まで解放しなければならない。何だ、神様まで解放するなんてそういうおかしい言葉があり得るか? それはあり得ます。

 あんたたちの父母は、子供たちがもしも牢屋に閉じ込められた場合には、子供は肉身的に牢屋に閉じ込められたんだけれど、親は心情的に閉じ込められるのです。そうじゃありませんか。子供は何も知らなくて、腹減った場合には、おまけに弁当一つを余計に食べたとすれば、その日はもう夜なんかぐうぐうよく寝ます。しかし、親はそうじゃありません。解放するまで、その本人より以上に心情的に拘束されているのです。

 こう考えてみた場合に、まさしく神様が人間と関係を持っている、その神様が本当にいるならば、いったい神様はどのようなお方か。普通の人間には分からない。神様と人間とどういう関係があるや? 神様は愛の方である。愛の中心者が神様であるとするならば、我々人間とどういう立場において愛の関係を結ぶだろうか? これは真剣な問題です。


神が結ぶ愛

 女の子たち、男の子たち、非常に多いように見えるんだけれど、女の子に尋ねましょう。女自体がこの世の中に生まれる時、もしも男の子がいなかったならばというような思いを持っていたとするならば、生まれてくるであろうか? 生まれてきますか?(きません)。

 何億、何十億、何千億、女ばかりいたとするならば、それは一世紀以内に完全に整理されてしまう。そういうふうになったら大変だったろう。それを見た場合に、「女たちよ、誇るな」。それを誇るというような安心基準を持って自分なりに誇れるのは、男が前もっているからであって、男がいなかった場合にはどうなるや? 一人の男だけがいたとするならば、女の戦争が何十年も続きます。それを考えてみなさい。もしもそうだったら大変なことになるよ。

 女自体が生まれる時、男がいるか、いないか、思いもしなかった。女自体が生まれてくる時に、女のために女が生まれてきたのか。これを考えてごらん。女は女のために生まれたんじゃありません。いい格好している女の姿というものは、女のためにしているのではありません。誰のため? 結論をつけなくてはなりません。

 男のため。男がいなければ女は価値がありません。一文の価値もない。女の価値の回復というものは何によってなされるかというと、女自体によっては絶対回復されない。男あって、女の価値は決まるのです。だから相対的な基準がなければ価値も生まれてきません。

 また男も素晴らしい体格をしており、「日本でこういうような美男子は我が初めなり」。そういうように威張る男のタイプがあるとしても、その男たるその体格は誰のものだ? 自分のものじゃありません。男たち、それを記憶しなければならない。男が男として威張っているその姿は、自分の姿じゃありません。自分のための姿ではないということを、この若き者たちにおいては考える者もなければ、そういうふうに思った者もない。

 そもそも生まれること自体から分析してみたならば、男は女のために生まれたんだね。かわいそうだけれど、仕方ない。嫌でも仕方ない。そうでなければ一人で生きてみなさい。そういう連中は世界から分けて、一つの島に集まって、自然にいいようにしておけば、一世紀以内にみんなきれいになくなってしまう。結局は男は男のために生まれたんじゃあない。これが分からなければなりません。

 男がいくら素晴らしいタイプであっても、いくら力が強くて、主管力を持って世界を自分の足場に踏みにじってしまうというような決意を持った男がいるとしても、その男も女のために生まれたものである。そうなるというと女の価値は素晴らしいね。

 ここに立っている先生もそうだ。先生はでかいことを言う。いろいろ問題になっている。韓国においても日本でも、今度はアメリカで十人くらいの上院議員に会って宣戦布告してしまった。「こういうことをアメリカでする。二億近いアメリカ人が使命を果たさないから、我一人でアメリカを救う。こういう旗揚げをする」。それで、問題になっているんだね。アメリカも色眼鏡をかけて、「ミスター・ムーンという男は、どういう男か? いくら大きいこと言っても、そこには相対者がなければかわいそうな者である」。こう見るとお母様の価値は上がるのです。

 まあ、こう考えてみると、我々人間、自分というものはどこに属しているや。自分はいったいどういう者であるのか。これは真剣なことです。

 自分の行くべき道はいずこや。男の行くべき道は男同士で行くんじゃない。嫌でも応でも、ジグザグしながら女の子と行く。女は男と一緒に行くようになっている。男として行く道は、女と共に行かなければならない。女として行く道は、男と共に行かなければならない。だから目的観念というものは自分を中心とするのではない。結実体は実体圏を要求してはいけません。共につなぎ合って求めていかなければならないことは、そもそも人間自体として生まれた以上、存在基台として生まれてきた価値である。それは人間ばかりじゃない。すべての現象界においても、相対性を持っているが、その相対性自体、自分を中心として、存在のその基準を成すために相対性を持っているんじゃありません。それは共に抱え合い、相対基準が一致するところにおいて価値というものが現れてくる。これは否認できません。

 日本が価値あるという場合には、主権と国民が一つになって、より高い、より強い目的観念に立った時です。そうなれば日本は滅びません。国家主権はある方向に行く。国民は別の方向に行く。これは動けば動くほど落ちていく、作用すればするほど、それは弱くなっていくのです。それが原則です。

 だからこう考えてみた場合に、我々人間自体、男、女たちが三十四億の人類を総合して、それを結論づければ、三十四億の人間が、男、女ばかり、それは男であり、女であり、二人である。大きく分ければ二つに分けられる。女、男だ。

 ここにも西洋の食口たちが来ているんだけれど、目玉は青く、髪の毛が黄色であるが、そんなことはどうでもいいのです。人たるものは同じである。悲しいことがあれば涙を流す。うれしいことがあれば「口を開けるな」と言っても開けるし、いくらみっともない歯になっていても、口を開けて笑わなければならない。そういうふうになっている。

 それを分けてみた場合には、男、女に分けられる。男、女、この二人だけを喜ばせる。それは永遠に二人だけを喜ばせる。そういう問題を解決したならば、その二人が共にそこに向かって呼びかけるような道であるならば、それは不幸の道じゃありません。人間の幸福というものは、天から化け物の枝みたいに飛んでくるのではありません。我々同士の間において満たさない限りには理想もないのです。

 そう見るというと、いくら人間が多くいても、それは男、女に限る。過去もそうである。現在もそうである。未来もそうでなければならない。絶対にそのようになる。この絶対的のこういう男、女の価値基準を、いかに分散させるか。そこから、二人共に手をつなぎ合って、よい価値の基準に自分の現実を乗り越えて喜びを満たすかということが重大な問題である。

 国家がどうなるかよりも、その基準を満たさなければ、国家というものは生まれてきません。理想世界は、それを満たさなければ生まれてきません。


自分一人が問題である

 こう考えてみると、大きい問題も簡単になってくる。結局そうなるというと世界が問題じゃありません。あるいは氏族とかそういう問題点よりも、結局今、家族よりも問題は何か? 自分の問題である。自分が問題である。自分自体に、世界に対して愛する愛されるそういうような心持ちを永遠に持つとするならば、それは神様の子供になる。永遠に憎むように、永遠に嫌うように、後始末をつけなければならないような立場に立つならば、それは神様のほうじゃありません。こう思った場合に、この世界は悪の世界だ。結論をつければ結局、我々自体、個人が問題です。自分というものはどうなっているか、現在から見た場合には、歴史は過去があり、現在があり、未来がある。この未来の基準においての自分というのも、それは現在にある。

 現在は過去の結実体である。未来の出発の起点になっている。現世の中心点になっている。これをはっきり知らなければならない。現世というものは未来の出発点である。未来よりも、もしマイナスの立場に立った場合には、そこには価値というものは満たされない。今日の中心体である。世の中がいくら困難であろうとも自分に動かす力があるや否や。自分が動機になって果たすべきその作用は、適用する力はあるんだけれども作用するそういう立場ではありません。そういうような中心的な自分の価値観、これが問題である。

 それが未来であろうとも、自分を中心として未来は出発する。そういう決意をもって、そういう自分になったとするならば……。神様はどういう男を好むだろうか? 理想ばかり望む人を喜ぶか、それはどうかなっている。過去なき現在ありや。原因なき結果ありや。それは原則を無視するものである。未来において、理想の価値観ばかりを求める者は、そういうような完全あるいは完成されたお方があるとするならば、それは点数から言えば三分の一点だ。それに一〇〇点をあげるならば、それはあげた者が、これは無価値の者である。あなたたちは、それを知らなければならない。現実が問題だ。現実において、「歴史よ我に従え。現在よ我に従え。未来よ、我を基準として出発の基点を成せ」。そういうようなお方、そういうような存在があったとすれば、それこそ歴史に対して、「我に従え」というような価値を持ったとするならば、それは歴史的勝利者である。それに向けて、歴史をたどって、それに聞けば、歴史すべての重大な問題事件は彼によって解決されたという歴史性を持った者にならなければならない。現世において、我を中心として、それに従うと言うならば、この世の中においてはすべてを凌駕した立場である。そういう者が問題である。


神をはばむサタン

 もしも神様がいたならば、神様は人間世界において、人間の過去と現在と未来に関係を持つべきにもかかわらず、なぜそういうような神様にならないかということが問題である。それは過去も、神様は人間と交わりたかった。しかし堕落したんだから、悪の人間になったんだから、それはできなかった。現世においても、神様中心の基準において接して、万民と共に生活していきたい。しかし、それはなぜできないのか? 未来においてもそうなりたいんだけれども、なぜできないのか。

 堕落したんだから、こうなります。だからその堕落は、人間として願わないんだけれども、堕落させた者はいったい何や? 神や。人間や。

 人間が願って堕落したんじゃない。もとよりあなたたち青年、若い者たちが悪い子供になる、不良青年になる、よた者になるというような立場に立つのは、生まれながらにそういうように願ってなる者はいません。それは何かの動機によって、誘われてそういうふうになった。しかし人間は、本心から悪を願う者はいません。良くなるのを願うんだけれど、教える、あるいは管理してくれる者があったならば、悪くなろうとしてもできない道であるにもかかわらず、悪くなるのは、その悪の動機になるものがあるから、悪くなりやすいのです。だから、あなたたちの父母たちが言うのは、「いい友達と交わらなければならない。いい先生を迎えなければならない」。そういうことを教わるんです。

 それと同じように、我々人間、堕落しない前の人間において悪を好むという観念を持ち出すならば、これは神様の創造原理が間違っている。悪になった結果から見た場合には、悪は人間が求めて成したんじゃありません。神が求めて成したんじゃありません。何かの原因において成された。それを成したものは何か? それは人間でもなければ神でもない。そういうようなものを我々宗教界では、悪魔とかサタンとかいうように呼んでいる。サタンというものがいる。

 それは、いろいろ成す者において聞いてみれば、なぜそんな悪いことをするかというと、本心はそれを願わなかったんだけれども、自分も知らないでそういう気持ちになって成したと答える者がたくさんいる。

 あんたたちは牢屋に入って苦労したという経験がないから、そういうことが分からないかもしれないけれども、先生はそういう方面の専門家だよ。ずーっと聞いてみれば、牢屋に入っていても自分が悪いことしたという者は誰一人いません。「なぜそういうことをしたか?」「まずもって社会が悪い」。「社会が悪いんだったら、君はなぜそういうように悪くなったか、こういうようになったか? 」。「自分がその悪いことをした時には、自分でも知らないでやった」と言う者がたくさんいる。

 だからそういうような結果をきたらす何者かがいる。それがサタン、悪の力の原因である。だから堕落を我々は非常に悔やむ。悔しく思う。これを正してしまわなければならない。ここにおいて、いかなる我を犠牲にしても、これをただ解放、あるいは釈放しなければならない運命になっている。

 そうなるというと、堕落させた者がいなければ実にいいのに、堕落させた者がいた場合にはこれは大変だ。これはもう、そのまま抜け出ようとするところにおいて、いつも監視している。そこに監督がいる。素晴らしく、あるいは力強い監督がいる。こう見た場合に、まずもって自分がとりこになっているその場を崩してしまいたかったら、戦わなければならない。戦うその相手がどういうふうに老獪なものかというと、それは話にならないほど老獪なものである。数千年来、神様までも人類までも自分の気ままにして悪をふるまった、そういう大将である。

 そういう場合には、例を挙げれば、日本の相撲取りの一番有名な人がいたとするならば、その相撲取りと幼稚園の子供みたいな立場に立っている。いくら自分が囲まれている所を崩し、崩して出たとしても、あの相撲取りがいる以上は直ちにやられてしまう。それでおしまいだ。それがなかったならば問題は解決しそうな道があるようではあるけれども、もしも監督する者がいたとするならば、これは人間同士いくら同盟を結んでも不可能である。そうじゃありませんか? だから神様にも人間にも困った奴がいる。神様としては、解放が問題じゃない。解放は一瞬にできます。それが、過去に、現世に、未来まで徹底した組織網をもって、世界自体を抱擁して、神に正面衝突しながら讒訴した場合には、神様はその讒訴を否認できない立場で、その解決を相談してあげなければならないような……。こういうような動機の内容を持って讒訴した場合には、神様もどうすることもできないのです。


サタンが主管する非原理世界

 神様を中心として考えてみた場合に、サタンというものが問題である。サタンは何を中心として今まで、問題とするか。「神様はこういうような原則において万物をつくったんだから、その原則の法において、これを主管するのが原則である」。その原則がある。その原則をサタンが握ったとするならば、いつでも永遠に讒訴することができる。その原則に合わなかった場合にはいつでも讒訴することができる。だから統一教会でいうのは、原理を中心として非原理という問題が生まれてきます。それは堕落の世界です。それを原理の神様が願ったか? 願わなくても原理の原則を中心として、非原理的な中心者が生まれて原理軌道によって讒訴してくるのです。

 こういう問題がもしも世の中に起こったならば神様どうするか? 非原理を否定するまでには、原理の権限というものは生まれてきません。それを否定する時まで。否定は誰がするか? 神様がするんじゃない。神様はすることができない。非原理によって引きずられている人間が、否定する要件を満たさなければならない。だから非原理の者は、神様に従うべき者ではありません。神様の干渉に立っている者ではありません。しかし、原理の姿をとっていくんだから、神様の原理の基準には立っているんだけれど、神様はこれを干渉することができない。そういう問題が起こったとするならば、これは神様もどうにもならない。非原理の相対基準に立っている人間だけで問題を解決しなければ、問題解決の要点にはならない。こういうような基準に引っかかったならば、神様もどうにもならない。これが歴史の恨みの基準になっているのです。

 それは何を中心としてそうなったか? あんたたちが堕落論で習ったと同じように、堕落原理というものは、本来はないんだよ。堕落原理というものがあるかっていうんだね。非原理というような基準を中心として堕落原理は……。それは堕落せずに、その道をたどっていく以外にない原理であるというんだね。

 もしも、それ以外の問題で堕落したならば、堕落原理という問題にはならない。それは直ちに復帰される。もしも手が切られてしまったら、これはもう一つなくてもいい。足がなくてもいい。根本問題がいかれてしまった。それが愛の問題である。

 本当はお姫様であるべき、その尊い者がその国で一番の強盗の親分に引き連れられて、そして愛の関係を結んでしまった。そういう場合どうするか。王様は、「この野郎、二人共首を切ってしまえ!」。首を切ってしまったならば永遠に子供というものが生まれてこないという場合にはどうする。そういう結果になってしまった。それは、原理としてはそういう方法を取ることは絶対できないにもかかわらず、引っかかってしまった。そういう場合にはどうする?

 それはお姫様が相対者も何も決めていない立場だったら、それはともかく許しようもある。男に対して女が引き連れられていったのだから、原理原則である。しかし、そこにいいなずけの男が決まっていたという場合には、もしもそういうふうになった場合にはどうするか? これは許す道がない。そうかといって、切ってしまったらそれで終わりだ。種がなくなってしまう。人間の氏族がなくなってしまう。なくなってしまうのは原理じゃない。人間は永遠に存在しなくてはならないので切ってしまうことはできない。そういう立場に立ったその王様は、いかに惨めであるか。そういうようになったならば、殺してしまえば簡単である。日本国民にそういう問題があったならば、国法において、処分して片付けてしまえばいい。その人がいなくても、人はいくらでもいるからであって、もしもたったそれっきりの者だったらどうするか。大変なことになる。

 そういう問題以外において、人間が堕落したとするならば神様は六〇〇〇年もいらないよ。六〇〇〇年、六日もいらないよ。そういう問題に引っかかったんだから、サタンが犯したその男の奴は不平ばかり言っているんだから、自分も間違いない罪人だ。この女も間違いない罪人である。その罪を犯したんだから罪を罰せられるのは原則である。宇宙の原則である。その罰せられることにおいて反抗する者があったならば、それは王様としては、再び関係を持って考える相対者には絶対できない。罰せられて当然である。打たれても感謝しなければならない。そういうような道以外に、許される道はあり得ない。不平を言ったり、反抗したり、そういう立場に立ったとするならば、それは許すというような道は閉ざされてしまう。


サタンは非原理の神

 聖書では、サタンは神様と相談してやっていくんだね。神様は原理の神様であり、サタンは非原理の神様である。これが実におかしくなってしまった。非原理の神様が、原理の神様を干渉することができるか? それはできない。非原理の神様が、善の神様の主管圏を干渉することができるか? できない!

 だから堕落した人間は非原理の悪の神様、サタンのほうに従えば間違いなく手続きをする。神様も、「持っていけ」と言う。原理の神様のほうに手続きを一致させた場合、悪の神様であるサタンも「持ってお帰りなさい」と言う。こういうような契約済みのことをするんだから、嫌でありながらも毎日共に会わなければならない。

 韓国において三十八度線に板門店がある。北韓と南の代表者が毎日会いながら一挙にこれを全部崩してしまえという気持ちを持ちながらも、毎日平気な顔して、「君、そうか、はぁー」。笑いながらそうする。そっくり同じだ。そうなると問題は、誰が問題か? 国民、国民が問題である。いくら言っても、国民が打ち倒して追い出してしまったならば解決する。人間がそういうような立場に立ったとするならば、これは大変なものである。だから我々人間の行く所には、善の神様も我と向かい合い、悪の神様も向かい合っている。それを知らなければなりません。それが我々人間の住んでいる現実の現場である。

 しかし、現実というものは実に尊いものである。これが一瞬間において、すべてが善悪のその頂点において、一瞬一瞬の時間を中心として、それは行ったり来たりしている。これが分からなければなりません。

 善悪は遠いところにあるんじゃありません。結局自分が問題です。我々は、二人の神様の主管圏内にある。サタンまでも神様と言うのは気持ちが悪いが、二つのそういう境目にはさまっている。だからそのままいた場合には、これは死んでもどうにもならない。二等分しなければならない。今でも二等分した立場である。だからあんたたちは二等分するのに、それはどっちが内的であるか、どっちが外的であるか? それが問題になる。サタンは神様を中心として見た場合には外的であり、神様は内的であるというんだね。だから人間自体を中心として見たものを、自分のほうに引きつけるようになっているのです。


良心と肉心の戦い

 だから我々人間自体も、二つのものを持っている。良心と肉心を持っている。この世の中において、良心を持っていない者は一人もいないということは、皆、それは承知しているんですね。良心がないと言う者います?(いません)。皆、自信持っている。良心を見たの? 誰一人見た者はいない。しかし知っている。肉身というものを見ない者は一人もいない。これが問題である。良心があるということは絶対的に知っておりながら、良心を見た者は一人もいない。肉身があるということを絶対的に見ながら、絶対的にあるのを知っている。これが問題だ。

 だから、比例から見た場合、分かるという感覚度から見た場合に、分かるということは絶対的に知りながら見たことがないし、あるということを絶対的に知りながら見たことがあるという場合には、どっちが強いか? 肉心のほうが先立っている。これが問題である。

 あんたたちもそうでしょう。食べたい、腹が減った、という場合には、腹が減ったのだからと良心が認めるか。肉心が「腹が減った」と言っても、良心が腹が減ったと認めるか。皆、肉心が先に立つ。欲しいということ、見たい、会いたい、住みたい。こういうのは何を中心として言うか? 接する触覚の部分は、内部ではなくして外部である。しかし、感じたそのものは、それが決意として実る本拠地は、それは肉心ではありません。良心です。

 これは今、哲学的に問題になっている。だからここにおいて、神が人間に対して接する場と、サタンが人間に対して接する場との境目はどこか? 境目はどこかというと自分である。あんたたちも世界的戦争を恐れるな!自分を中心として二大陣営が毎日戦争しているのにどうにもならない。朝に夕に、一日に何十回、何百回もやる。言葉を一つ誤って話した場合には、問題になる。責められる動機はどこにあるの? 責められる存在そのものは肉心にあるの、良心にあるの、責める存在は何や? 良心だ。

 だから戦いである。良心が抜けて、肉心が、「おお、この野郎、良心よ、良心よ。君何やっているや」。そういうふうな戦いをしかけた肉心がありますか? この反対である。内的に肉心に対して攻撃する。それをやったらいけません。しかし、この世の中には、良心的な人が比例的に多いか、非良心的な人が比例的に多いか? そう考えてみた場合に、良心的な人が比例的に多いが、良心の呵責を受けながらとんでもないことを皆やってしまう。その戦いをやっている。

 だから宗教とか、教養とか、教育の基準をどこに求めているか? 良心の力、それが教育とか、宗教の働きかけなんです。そうして何をするか? 肉身の足場を占領する。その目的はそこにある。善人であるか、悪人であるかの境目が生じてくる。それをはっきりしなければならない。


善悪の中心は自分

 自分は何や? 悪、悪は何や? 善なる圏を中心として、神の主管圏として治めるべきそういう境地と、サタンの治めるべき境地と、何を境目としてこれを分け合うや? これをはっきりさせなければならない。それが自分である。これを考えなければならない。朝、御飯を食べても、その御飯を食べてどこに行くか? 食べた御飯は悪の御飯になったり、善の御飯になったりする。その晩休んだ。その休んだ時、休んで何をするか? 結果において悪の休みであり、善の休みである。その一瞬が二つにつながっている。

 善悪の中心者は世界ではありません。善悪の中心者は神様ではありません。サタンは悪の中心者である。その二つを兼ねているのが人間である。

 そういうふうに見た場合には、神様よりも偉いし、サタンよりも偉い。善悪の中心者は人間である。自分である。それをはっきりさせなければならない。

 だから、神様よりも怖い者は人間である。サタンより怖いのが人間である。この者の行動いかんによっては、その国を滅ぼすこともできる。その国民の三分の一が善人であろうとも、いっぺんに善人を犯してしまうこともできる。これを知らなければならない。恐ろしい者は誰か? 自分である。この怖い者たち同士が一つに合同した場合はどうする? 合同ということはできない。戦いの起点はここから始まってくる。これを考えなければならない。そこから始まったんだから、外的な者同士の結合体は自然と生まれる。内的な者同士の結合体は自然と生まれる。だから、この世の中には二大主流の思想が生まれてこなければならない。一つは善を否認し、一つは悪を否認する。そういう思想の結実が、必ず地上に生まれてこなければならない。その時は、それは末の時である。それが現世である。

 唯物史観を中心とした神があるや? 片っ端から怨讐にして、その価値を認めないのが怨讐圏のなす行動だ。悪辣であれば悪辣であるほど、その力が強い。善のほうはそうじゃない。

 共産主義と民主主義の対決になっている。それは、そういう結果として生まれてこなければならない。


肉心とサタンを占領せよ

 それは誰から始まったか? 自分から連結する。自分たちを中心として見た場合には、これは、自分が先頭になっている。だから、あんたたちは世界的先頭に立ちたいというのが人間の欲望なんだよ。だから世界的、歴史的、現世的、未来において、一番罪悪の先頭者は誰か? それは自分であると、確信を持たなければならない。

 もし自分が生きるとすれば、過去のすべてを解決し、現世すべてを解決するし、未来すべてを解決する。これをどうして分け合ってしまって解決するや? そこには未来の問題がある。現実において肉心を占領することと、見えないサタンを占領すること、二大問題です。分かりました? これと戦争しなければならない。その第一の戦争は何か? 肉心だ。第二はサタンだ。サタンと肉心が我々をとりこにしてしまう。その肉心というものは、サタンの命令において引き継がれた要塞である。そうした場合には、永遠に滅ぶようになってしまう。だから宗教の目的は何か? 世界占領する前に自分占領をいかに成すかである。

 先生がこの道に出発する時の第一の目標はそれだった。「天宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というのが問題だった。それには、第一に肉心をいかに主管するか。そこには食べたい、それから生きたい、それから愛されたい、愛したい。それなんだ。その人間生活の主流に行き当たるのです。

 そうすると、この肉心を中心として「食べたい」、その者はどうなる? 生まれながら悪の圏に立っている自分であるということを知っている。自分から見た場合に、肉心が食べたいということを成してやればこれはどうなるか? 悪のほうに近寄る。肉を中心として、生きたい道に歩調を合わせれば、悪に傾いてしまう。それは原理的にそうなる。肉を中心として愛したいというような道に行くなら、肉のほうに完全に傾いてしまって、もう沈んでしまう。渦巻きみたいに。渦巻きは、上がる渦巻きはないのです。沈んでしまうのです。

 だから食うことにブレーキかけ、食う物があったら、その反面何をするか? それを自分よりもっとかわいそうな者にやれというんだね。かわいそうな者にやったら、善の繁殖になるというんだね。そういう戦法をとる。そういう結果になるんだから、その者に、自分よりいい者にやれというんじゃないのです。悪い者に譲ってやる。それをもっと価値ある立場に立つところに譲ってやる。それは何かというと、現実を否認する作用だ。その方策、その方法じゃなければ、第一線の悪の足場を乗り越える道はありません。もしもとりこになった者は、縄でも付けて向こうに、他の所へ上がっていかなければならない。そうすれば、人のためにして救ってやれば、その人は私を救ってくれる。だから肉心の願いを越えて、それに逆らって、反対の結果になるようにするのです。今自分が要求するその価値のものをして、それで結局自分が救われるのです。

 それをはっきり知らなかったんだけれど、過去の義人、聖人たちは善人になれと言う。善人になるには、自分が自分のものを犠牲にして、他の者に捧げてやる。それが善人である。その方法は何かというと、とりこになっている自分が、防備、あるいは要塞、あるいは牢屋から抜け出る作戦をするためにやったということ、それを知らなかったね。

 そういうふうに、四方八方にその縄を付けてやる。全国民にそういうふうにしてあげる。そういうふうにやった場合には、それを引き上げた、援助してやった者は全部協力者だ。神はそういう摂理をする。一人の善人を探して犠牲にさせてすべてにやるようにして、みんな協力者の圏をつくる。そうした場合には、その価値以下の基準においてサタンは干渉するんだけれども、そういう圏に立った場合には神が干渉することができる。こういうふうな作戦を行ってきている。

 それで、原因はいずこにありや? 肉心の回りを行く者は一人もいません。肉心を救う道に乗り替えていく。そういう良心の命令に従っていくところに善がある。これは歴史的に否認できません。そういうふうになれば肉心圏は、自然と包囲されてしまう。それでいかなる宗教も、こういう方法を教えない宗教は、宗教ではありません。宗教がそういう作戦をしているというのを見たならば、全部目的の方法は一致している。その主管する主人の目的は一致しているのです。だからいろいろな宗教があるんだけれど、本筋から、この原則から脱したならばそれは宗教ではありません。その版図が広まるにしたがっていくら悪のもの、サタンのものであるとしても、サタンの相対者がなくなれば、そのサタン自体も弱まってくる。こういうふうになっている。


善を広めていく生活

 現実にあんたたちは、はっきり知らなければならない。自分という者は問題だ。自分という、問題ある自分においては、善悪の株式会社の大株主である。そこにおいて、悪者二人が戦っている。悪者二人ではなく、悪い人たちが攻撃している。それを屈服させるには、そういう善の作戦を広めていかなければならない。伝道するにも、あんたたちが国家伝道圏を、国家的伝道基準をつくったならば、国家的その解放圏がつくられる。世界的伝道圏をつくったならば、世界的解放圏がつくられる。これが神の地上においての戦法である。だから神のほうに立っている善の道に立つ者、宗教を信じる者たちは死んでも行くんだね。死んでも行く! どっちが強いか? 善が強い。どっちが長びくか? 善が長びく。どっちが勝利するか? 善が勝利する。これは原則なのです。

 だから長びくので、善の側の者がもしもひざまずいたならば、それは倍加して強くなってくる。そういう場合には神様が援助する。そういう責任持って立ったならば、神様が援助する。それにぶっかける者あったら、ぶっかける者が砕けるんであって、ぶっかけられるその者が砕けるんじゃありません。それが善悪の戦いの秘訣になっているのです。

 結論を出すと、悪人は何か? 自分を中心として、肉を中心として、私的な感情を持ち出す者が悪人である。自分を中心としてすべてを占領しようとするのが悪人である。

 善は何か? 自分を犠牲にする。自分とは何か? 体を犠牲にして、人のためにするという、これは善人である。現世においては善悪の基準は、これがぼやけている。だから「君の物は私の物であり、私の物は私の物である」。それは共産党のやり方だね。そこには方法、手段を講じない。原理の価値を表し、最後の勝利の基点をつけるには、二者が一度ぶつからなければならない。一度ぶつかって勝利を決めなければならない。天下分け目の戦いがあるんだね。だから、そういうことを個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的に戦ってきたんだよ。それが世界的になった。

 今はどういう時代か? 思想戦時代だよ。本当は宗教戦争時代です。共産主義の悪のサタンを中心として、神は認めないんだけれど、それが宗教みたいになっている。共産宗教だ。そういうふうになっている。

 だから思想を乗り越えなければ、神に行く道を見いだすことはできない。人間思想以上は神だから、歴史を総合的に考えてみると、今までの歴史は何を中心にして戦ってきたかというと、体を象徴する万物を中心として戦ってきた。今までの歴史は何のため? 両方とも広めるために戦ってきた。今もそうである。だから続いている。

 それから、その次は何を中心として戦うか? だんだん広くなっている。昔は領主も何もあったものではない。奪い取る。土地を中心として戦った。今は思想時代において、人を奪い合う戦いだ。発展していく。だから人は何主義か? 選挙もそうだろう。人を奪う戦いにおいて勝利すれば、その国の主権者になれるんだね。人の奪い合いの戦いである。それが思想時代である。その次に何の奪い合いの戦いが来るかというと、神を中心として奪い合う戦いが来る。これは最後には宗教戦争だ。あんたたちは、それを知らなければなりません。

 今、政治をやっている人たちは、「ああ、物だけあればいい」。そしたら、世界は自分のものになるように思う、そういう愚かな者がいる。独裁者は、「自分を中心として、自分は宇宙の代表とか何とか」大きなことを言っている。そういう時代圏にあって、人を集める神の作戦の一方法の分担の責任を持たせてそれを許すのであって、それ自体、過ぎたならば許さない。だから一番の問題は何かというと、思想戦が問題です。


霊界からの攻撃

 最後には、もしも宗教同士が戦ったならばどうなるか? そういう現象が起こりやすい時代にある。そういう時代を防備するために、統一宗教というのが防備材になっている。それが必要だ。だから宗教戦争時代は、霊肉共に防備するのです。霊界が地上を占領しているんだね。

 そのようなものがあるとすれば、何千億くらいあるだろう? 日本の一億は問題ではない。足場の塵にもならない。数千億、数万億の霊人たちが、地上占領攻略を進めてこざるを得ない。それがあんたたちのノイローゼ現象である。もう少したてば八〇年代、まあ二〇〇〇年代を超えれば、その時はみな通じる時が来るかもしれない。悪霊に通じるか、善霊に通じるか。戦争するなと決めても、戦わざるを得ない、そういう時が来るかもしれない。それを防備しなければならないのが、統一原理の使命である。高いアンテナはピーピー音が出てくるんだね。それがノイローゼ現象だ。

 一番恐ろしいのは何かというと、もしも霊界があり、悪霊だけ動員されて地上攻略してきた場合にはどうなるだろう? いくら人間が全地球上に飽満しているといっても、それは悪霊に攻められてしまう。だから神様はこれまでに準備している。悪霊の反対の善霊を中心として、霊界の基台を広めてきているのです。それは、宗教圏の人たちをずーっと集めて、今人類の半分、十七億近いその者が宗教圏に立っている。二十億近いその者が宗教に立っている。だから、世界で一番有名な人は誰だろうか? 宗教統一を考えて、そしてそれを代表する問題を打ち立てている者があったら、これは最後の歴史の勝利者になるだろう。それは、神様もそれを認めた基準であり、人間、本心の良心の最高の基準からの願いの的である。だから世界の四大聖人といわれる人は皆、宗教の教祖になっているのです。

 イエス様もそうであるし、釈迦も、孔子も、マホメットもそうであるし、神様はこういうようなことをよくよく知っていた。現世においては、宗教は思いもよらない弱き者が信じる、頼るような道を持っているにもかかわらず、なぜ四大聖人の思想がこの文化圏の中心史の主流として、国家の教育とか国家の憲法を中心として、国家の組織の形態を成して、この世の中の文化世界をつくってきたのか? しかし、それは間違いないんだね。

 そういうふうにして世の中は発展していくのです。今は末の時期になっているから、良心と肉心の戦いは最後の極地に立っている。こういう時代においては、物ばかりでは問題は解決されない。共産主義自体では世界を一つにする、一つにするという時代はもう過ぎている。

 中共とソビエト、もう分裂している。日本にも共産党のいろいろな分派があるでしょう。それ同士が戦う。それでは、理想のものじゃありません。民主主義においての、良心においてのカイン・アベルは、こういう時代において二つを一つにさせる。こういう目的を兼ねていかなければならない。それを完全に分けてから、これを処分して、いらないものはみな取る。あんたたち、とうもろこしの切り株を引き抜いた場合には、土がいっぱいついてくるんだね。その土をみんな取ってしまうには、二つの根をぶつけるんだね。それをこぶしで取る者はいないよ。それを両手でもってぶつける。ぶつけるというと土が落ちて、株が残るんだね。ぶつける時代が今の時代である。そうすると、両手は誰が持ったか? 神様が持っている。そうなれば人間は滅びない。

 こう考えてみた場合には、宗教界を握り、思想界を握って、その中において二つをぶっつけて、最後に残るものを一つの束にして、神様が担いで家に帰る。それを願っている。

 しかし、その株の一方を神様が持っている。先のほうの一方をサタンが持つようになっている。必ずそうなるよ。だから民主主義においても、カイン・アベルがあるんだよ。アベルは誰が持つ? 神。カインはサタン。

 共産主義も全部悪いんじゃありません。そこにもカイン・アベルがある。共産主義にも神様は働きかけている。だから二つ共に戦うという場合には、一つはアベルの立場であり、一つはカインの立場である。何を意味するかというと、先のほうはサタンが取っている。そのサタンを誰が追い払ってしまうか。これが問題である。


サタンを追い出すメシヤ

 この使命を果たすべき存在がメシヤである。メシヤ、メシヤ、メシヤ。だから神様も、絶対メシヤが必要である。堕落した人間も絶対メシヤが必要である。この環境から抜け出るには、メシヤなくしてはできません。そうなったら、そのメシヤはどういうお方か? 霊界のすべての完成と、地上のすべての完成にも責任を持たなければならない。霊界、地上界すべての完成に責任を持たなければならない。この責任を成すという目的基準が、統一思想でいえば、統一教会の名称を借りれば、これが天宙完全復帰という言葉である。このようなメシヤが地上に来られるには、霊界を統一せずしては地上を統一することができないからです。

 堕落は何か? 霊界から始まった。だから霊界において一つの方法で治める、その基準、絶対的主権、主管権、これを持って来られるお方がメシヤである。そういう立場で、霊界を統合し得るその内容を持って来られるならば、神様の秘密、サタンの秘密を、すべてを分かって地上に来られるのである。それで地上に来て、いっぺんに地上を占領してしまうのではない。一人ひとりからである。子供が生まれる時には、ふたごもあるけれど、それは非原理に近いものである。

 ふたごの子供があった場合には、復帰自体においてカイン・アベルとか、エサウ・ヤコブというふうに、歴史の重大事件の復帰原理を延長させるために生まれてきたといえば、それでいいよ。一人ずつ生まれてきたので、お母さんも一人、お父さんも一人ずつ生まれてきたので、一人から始めなければならない。その一人を中心として、もし男がメシヤだったら、どの一人を誰から始めるかということが問題である。前にも言ったように、男は? 男は女のために生まれてくるんだ。だからこのメシヤというものは、こういう天宙の中心の核として来られるお方は、男で来るか、女で来るかということが問題だよ。

 男に聞けば「はーい、男で来る」と言う。女に聞けば「はーい、女で来る」と言う。なぜか? 男は実際何もやるものがない。体としては何もやるものがない。女は、体としてはお乳をやるんだね。子供に飲ませ、食べさせるんだけれど、男には何もやるものがない。何かあるの? そういう立場から見た場合に、男より女? 男のメシヤが来たらいいか、女のメシヤが来たらいいか?

 では、女のメシヤが来たらいいの? 日本の場合には天照大神は女か男か? 日本人はよく知っているんじゃないの?(女です)。日本人から言えば女で来たらいいじゃないの? これはおもしろい。世界中でそんな国はたくさんはない。そういう血統を受け継いだから、日本人は女といえばもてはやされるよ。男で来たらいいか? 女で来たらいいか? 男は欲張り、最高の欲張りだ。かなえられなかったらみな一人で取ってしまう。それは、女にすれば男がいいかもしれない。男にすれば、男がいいだろう。(笑い)

 神は原理の神だ。神がメシヤをよこすには、原理に従ってよこすしかない。まずもって、そのメシヤたる者は原理を中心として完成した者である。原理を、専門的な原理を中心とした者でなければならない。そうなるんですよ。原理によってつくられた一人だから、原理を中心とした思想を持って来なければならない。そうすると神自体も原理から見た場合、男が初めや? 女が初めや?(男です)。どうしてか? 女から子供が生まれてくるんだよ。なぜ、男だ? 聖書に書いてあるから信じて?(神様が男だから)。なぜ神様が男か、女か? 見たのですか?(笑い)

 そうかどうか分からない。実験してみなきゃ分からないよ。さあ男か、女か? 人間は何が主体か? 今度アメリカやヨーロッパへ行って質問されたのもそれなんだよ。何で男が主体ですか?(お父様がメシヤだから)。お父様がメシヤかどうか分からないよ。(原理を解かれました)。原理が間違っているかもしれないよ。そういうと限りがないよ。実験しないと分からないよ、しないうちはそういうことを言うなというんだね。

 問題はそこなんだよ。人間は人間として生まれてくる時は、女か男に生まれてくるけれども、男が先か、女が先か? そもそも人間は何から生まれてくるや? それは男から生まれるようになっておる。人間の子供の種は、女から生まれるんじゃない。男から生まれるようになっているのです。分かりました? 原因の出発点は男から、神様から見ても、男を中心としなければ原因の主体性を立たすことができない。男を中心としなければならない結果になっているから、男のメシヤが来なければならない。女は何か? 畑だ。女が主体にはなりません。男が主体である。先にあった。人間の生まれるその種は女にあるんじゃない。男が先にある。だから原理的に見た場合には、男が主体者にならなければならない。

 もう生まれつき良く教育されているから、日本の女は男に絶対服従するようになっている。家庭から、社会から、国家からそうなっている。よくよく従うようになっている。アメリカは反対だね。東洋は女が一番下であり、西洋は女が一番上であるというんだね。反対でなければ平均がとれない。先生、驚いたよ。西洋に行けば、なぜ左手を専門的に使うや? 東洋では左手を使ったら片輪みたいに思うんだけれども、西洋は左利きが多い。寝るのも東洋人はあおむけで寝るが、西洋は真下を向いて寝る。呼ぶのもこういうふうに呼ぶ。よくよく釣り合うようになっている。中心から見た場合には、これは反対だ。だから一つにならなければならない。

 ここにも西洋の食口たちが来ているんだけれども、彼らも先生が必要だよ。だからメシヤは神様も仕方なしに、男をよこさなければならないし、人も男を望まなければならない。だから男が来るんだ。男が来る。男のメシヤは何を求めてくるのか問題である。何を求めて来る? 女を求めて来る。気持ち悪いんだけど女を求めて来る。女と思えば、気持ち悪く思ったらいけません。

 だからメシヤは、この地上に来られる時には堂々たる男として来られる。天下いずこに来られてもそれに逆らう者なし。神様もほれた男である。歴史的聖人も、それは希望の的の男である。これは万民、世界三十四億の現世の人間は、その姿に一度会い、一度話し、共に行動したいというような望みの的のお方である。未来はそこから新しい尺度が始まる、出発の基点である。それがあって、すべての価値が生まれてくる。その基準あってすべてがその中心を取るようになる。それが確立するにしたがって、勝利が決定されてくる。

 しかし、素晴らしいお方であっても、それは人間に違いない。目も二つであり、口も鼻も、君たちとそっくりだ。君たちがメシヤに似ているのではなく、メシヤが君たちに似ている。メシヤは人に違いない。人は人だけれど、その内容が違う。その内容は何かというと、立体的内容を持っている。それが違う。堕落した人間は、堕落圏の平面的内容しか持っていないが、メシヤは立体的内容を持っている。心情においても立体的だ。それが違う。あんたたち平面がいいの、立体がいいの? 立体的でなければ永遠に回ることができない。そういうふうになっているのです。


メシヤの使命

 メシヤが地上に来られて果たすべき使命は何か? サタンを屈服させなければならない。サタンを屈服させて悪の主管圏を打破してしまわなければならない。占領してしまわなければならない。これはメシヤが来られる第一の責任である。

 メシヤが来られるその使命は何かというと、我々は悪主管圏に包囲されている。ねらわれている。この鉄条網をいかにして切るか。あんたたちは切る道もない。それにはまだ番頭さんが立っている。その番頭さんと戦って、勝てる力を持った人は、この世の中にはいない。だから解放を成し得る主体の主人をもって、そういうとりこになっている防壁を一挙に覆して、そして番頭さんを処分してしまえば、すべて解決してしまうのです。だからもう牢屋なんか、問題じゃない。最後には何か? 番頭さんだけ。これを追い出してしまえばすべては解決する。それで問題は、サタンを追放するためにこの地上に来る、サタンの主管圏、悪の主管圏を奪還して、善の主管圏の設立のため来られるお方がメシヤです。

 メシヤは男として来られるのですが、地上での第一の目的は、女のために来られるのです。

 日本国民として、日本の首相には選挙で誰でもなれるし、なって走ってみることは誰でもできる。選挙で加担する者たちも、将来自分もなりたいという欲望を持って選挙運動する者はたくさんいる。それと同じように、もしもメシヤが女のために来られるんだったら、世界的な女性は、一つ候補者になってみたいんだね。それは仕方ないからであって、本人から見たら候補者になってみたい心は、女としてみな持っているんだよ。メシヤは地上に女のために来られた。女のために。そして、新しい血統を立たせる。それを考えなければならない。何のために女を迎えるか? 新しい血統を立たせるためというんだね。それが最も大切だよ。原理から見ても、それは核心を突いた答えです。

 試験答案は、それを書かなければならない。そうなると、メシヤの来られる目的は何かというと、サタン世界主管圏を断ってしまって、それから何を成すかというと、善の血統圏を立たせるのである。その善の血統圏を立たせようとしても、反対する国があった場合には、その国の中で血統圏を立たせてもやられるのです。

 サタンが主管するその主管圏、国家圏にあって、国内にあって善の血統圏を立たせたとしても、サタンは首を切ることができるのです。

 それはそうだろう。王子が敵国の真ん中に来て、夫婦でのみ生活するとするならば、王子は敵国の獲物になる。それは間違いなくそうなる。だからまずもって何をしなければならないか? 善の主管圏を獲得してからすべてをやらなければならない。


この世の王様、サタン

 聖書を読めばヨハネによる福音書第一二章三一節に、「サタンはこの世の王様である」とある。それは聖書を読むクリスチャンたちが少し考えてもすぐ分かる。なぜ、全能なる神様がつくった万象界すべてが、サタンの指揮下に入ってしまったか? サタンと神様といつ戦って、神様が負けてしまったか? 聖書をいくら読んでも、神様が負けてしまったその聖句はない。それが問題になるんだよ。戦ったこともないのに、結果がそうなってしまった。

 それは、万物はアダム・エバのものである。アダム・エバを中心として、人類の先祖のためにつくったものである。つくった者の主管圏内にあるべきなのに、それをサタンが占領してしまった。占領方法は何を中心としてやったかというと、一番の神の最高の理想の基点である愛をねらった。それが問題である。愛の問題でなければ、何の問題もない。だからサタンはどういう者か? 何者か?

 聖書を読めばイエス様はこういうことを言っている。「罪を犯した場合は七回、七十回まで罪を許してやれ」。それだけの包容力、それだけの慈悲心を持っているならば実に愛の者に違いない。イエス様はそういうような神の子である。その父親が神様である。それだけの心を持った神様であるなら、なぜサタンを怨讐視するか? サタンが犯した罪を許してやれば一挙にいいじゃないかと思われる。しかしサタンを、神様はいまだ永遠に怨讐視する。何の罪を犯したのか? 人間は今まで分からなかったけれど、それは許すことができない。だからイエス様が罪を七十回まで許してやれというのは、サタン圏内にある人をいかなる犠牲を払っても解放する、そういう目的が成されるまで果たせという言葉である。

 だからといって、サタンを許すことはできない。何の罪を犯したか? サタンは人が罪を犯した場合、神の前に讒訴して自分の所に引っ張ってくる。サタンも罪を犯したならば、サタンが犯したその罪を人が引っ張り出し、神に讒訴した場合には、絶対なる公的な審判官である神はサタン自体を裁かなければならない。そういう立場に立ち得ようか、立ち得まいかと思ってみた場合に、それは当然、同じ公式によって堂々と立ち得る。サタンがいかなる罪を犯したかと讒訴し得るその者が今まで歴史的に生まれてこなかった。これが問題である。

 今、殺人をしても、その罪が公に表れない以上は、その罪を犯した者は平常な人間の生活を送ることはできる。しかし、罪を犯したその現場を見て讒訴する少年、少女の前では頭を下げる。警察に訴えようとしたらそれは命懸けでお詫びするだろう。屈服するだろう。だから人間は、今までサタンが何でサタンになったかはっきり知らなかった。それを我々は究明しなければならない。そういう内容を教えている所が統一教会である。

 もう少し突き詰めて言えば、まず一般の人は、悪の世界、サタンというものは、もともとあったと言う。こうなった場合には二元論になる。二元論になった場合には、原因が二つだから、目的が二つに帰一する。理論的な結果である。だからそういうようなサタンがもともとあったとするならば、神が人間を中心として理想世界を夢見るということは、これはナンセンスである。それはいけない。そうじゃなかった。

 サタンが数千年神を讒訴しながら、数多くの人類を自分の足下に踏みにじってきた。こういう権力あるサタンが、もともとから神と同じく存在したとするならば、人間が完成するという目的観念を持つことはできない。霊界へ行っても堕落しないという基準を絶対的に求めることはできない。そうなったならば、神は絶対者ではない。相対者になる。相対的存在になる。

 どちらが先か? 悪のほうが善になったらいかにいいだろう。共に主張すべきなのにもかかわらず、悪なる者が滅んできたのが歴史の伝統である。だから、善に支配されるというのが原則である。そういう結果からそれを検討してみても、悪の主体は善に服従する動機を持っていることを、証拠として示すことができる。だからそれはもともとあるものではない。


サタンとは何か

 それから、サタンというものはどういうものだろう。最初の先祖のアダム・エバを中心として考えてみると、神様がおられ、アダム・エバがいた場合には、アダム・エバの関係、神様との関係をよくよく知っていた者は誰だろう。それは天使長、天使長しかいない。理論的にもそうなっている。天使しかいなかった。そうなったら一番近い者として天使しかないので、天使長を中心として疑ってみなければならない。神様自体は、堕落の動機になれない。アダム自体もエバ自体も堕落の動機になれない。その動機になれるものは、第三者の立場というものは、天使しかない。

 天使たるものはいるや、いないや? それは聖書を見ると、ちゃんと分かる。人をつくる前につくったことになっている。だから神様が戒めを出したのも、天使長がいるからそういう警告を出したんであって、もしも天使長がいなければ、アダムに対して善悪知るの実を取って食べるとか、食べないとか必要でない。問題はそこにある。だからサタンになった者はもともとあったんじゃなくして、堕落したために、罪を犯したためにそれはサタンになった。堕落のためにサタンも生まれてきた。

 では、人間とサタンと、その罪を犯したことに何の関係あるや。人間が別に堕落したのではない。サタンによって誘われて堕落したんだから、共に堕落の動機に結びつけることができる。サタンがエバを誘って堕落したんだから、人間が堕落するとともにサタンも堕落した結果になった。こうなってみた場合には、その堕落は何か?

 聖書を探ってみると、堕落によってサタンもサタンになったとするならば、そのサタンはどういう罪を犯したか? それは淫行を行っている。「姦淫を行ったその天使を終わりの裁きの日まで、裁かれる日まで待つ」そういう内容の聖書の言葉がある。だからサタンは姦淫によって堕落した。そうすると、人間の堕落と通じる。

 エバは堕落した結果どうなったか? 見て、取って、食べて、口をふさいだのではない。手をふさいだのではない。何かいいものがあって、お客さんが来た場合、それをあげようとしてお母さんが、「誰々さん、手をつけたらいけないよ」という命令をした場合、子供はそれはおいしいものであると知って、手を出してお母さんの戒めを聞かず食べようとした途端に、お母さんが入ってきたとしたら、口をふさぐのです。それが人間の本能である。こう考えてみた場合に、エバはなぜ手を隠さず、口をふさがず、下部を覆ってしまったかが問題である。

 聖書のイエス様の言葉を見ると、ヨハネによる福音書第八章四四節に、不信なる者たちに対して、「サタン、悪魔の子孫である」と記されている。これは適中している。それは洗礼ヨハネも、「毒蛇」と言う、これは敵愾心を持っている。こういうのを見ても、これはサタンと人間において神も許されない。淫行関係において、血統を汚されている。これは否認できないものになっている。だから我々先祖は結局、堕落の結果において血統を汚してしまった。これが問題です。

 堕落した人間はいくら努力しても、努力しても、その人間は養子にしかなれません。養子というものは血統が違う。ローマ人への手紙を読めば、聖霊によって恵まれた我々も「アバ、アバ」と、養子になることを願うというような所がある。それは否認できない。我々堕落した人間、クリスチャンもすべて実子になれません。養子になっている。その養子とはどういうものかというと、例を挙げれば渋柿みたいなものになっている。堕落は何かというと、甘柿になるべきものが渋柿になっている。その渋柿の畑は神様が管理するんじゃなくして、この世はすべてサタンが管理する。サタンが管理する渋柿になってしまった。

 人間自体が血統を汚したんだから、汚した血統を受け継いで生まれるすべての者は、サタンの後孫になっている。一人生み、二人生み数百、千万になるにしたがって、それはみんなサタンを先祖とする。後孫として生まれてくるので、結局はサタンは黙っていても王様に成らざるを得ない。その後孫の立場に立っているから、サタンは自然とこの人間世界を中心として王様に成らざるを得ない、という結果になる。だからサタン圏内に創造されたすべての万象世界が、サタン圏内に主管されるのは当然である。それは否認できない。それ以外の道はない。戦わずして万物はそういうような主管圏に入ってしまわざるを得ない結論になる。

 だから、血統的な堕落のゆえに、神が主管すべき者をサタンが奪い取っていったというのが事実である。こういうふうになっている。だから血統が汚れている。


宗教の使命

 サタンが主管する渋柿の畑をそのままにしておいては、サタンの国において主管されるんだから、その場合に神の摂理とか何も成すことができない。それで、これをサタン世界から分別作用する。引き抜いてしまう。分別作用を成すそういう機関が何かというと、これは宗教である。

 宗教は現世のすべてに則する権力すべてを、外的すべてを否認して回れ右せよ! そういう作戦をする。この世的すべてを否認する。だから完全なる宗教は公認されて出発するんじゃありません。絶対否認による。それを認めなければ、完全に立つか、一八〇度反対側に立つか、回れ右することもできない。そこにおいて後ろを振り返り塩の柱になったロトの奥さんと同じような未練を持ってはいけません。反対である。公認の基準において、真の宗教は生まれてきません。この基準から見た場合に、日本の現実において真なる宗教はいずこにあるや? 分別する基準が分かりましたね?

 だから完成して、聖人たちの時代においては、その国に生まれて迫害されたんだね。迫害されるどころじゃないや。生命を奪われてきた者が善人になっている。イエス様自体もそうである。孔子もそうである。彼は、隣の犬みたいに扱われていた。お釈迦様もそうである。みなその時代、足で踏まれ、その環境にふみにじられた者が、歴史を動かし、新しい世界の方向を示す中心人物になった。この時代を抱擁し、歓迎する立場に立ったのではない。いかに否認して、善の立場に立つ観念を世界的に持っていたか。その基準において聖人が分別されてきている。だからみんな世界主義者である。その一国だけを思うんじゃありません。

 神の願う所は国を越えて行かなければ、神の願う出発点を満たすことはできない。神はいつでも世界を願う。アダム・エバの時に、堕落しない前に国境というものがあったの? 国境はありません。君の国、私の国があったの? こういう問題は堕落の末である。ちょうちょが国境を越える時に、「すみません」とあいさつしていくの? ちょうちょは国境を知りません。いくつの国を越えてもあいさつなどしない。思いもしないよ。なぜ人間世界だけこういうふうになったんだろう? 堕落の報いである。日本の国、韓国の国、こういうような国境が生まれてきたのは堕落の結果だ。国境なくしてどこへ行くか? これが問題だよ。だから根本的問題から見れば、国境とか文化というもの、西洋文明とか東洋文明とかいう種類がこんなにもたくさんになるはずがない。

 分裂の環境を共に求めて、撃ち合いの基盤を広げて、相手をやっつけるためにいろいろ文化に分かれていく。言葉もみな時世によって変わっていく。だから、今みたいにたくさんの言葉ができたのである。そういうのは、今からはよくない。我々の言葉は二つではいけない。国が二つではいけない。一つの国、みなそう願うんだね。

 日本には武士道があって、自分の敵を打つ。これは吸収しなければならない。一人、一家が滅びても、一家の側近の何でもない者一人が残っても、それは生涯かけて敵打ちすることはいくらでもあるんだね。だから国境を、一時的にある方向に向かって解放させるような運動をする。そういう思想的運動を必要とする。そういうことは根本的に間違っていると教えてくれる何者かが生まれてこなければならない。「では、日本が滅べばいい」と言う日本国民はいるか、いないか?(いません)。「アメリカが滅べばいい」と言うアメリカの国民いるか?(いません)。各国ともみなそうである。これをいかにして、国境を越える人間にするか? それには観念的な問題がある。自分の国は日本だという観念、これが日本国民の伝統的思想観念になっている。そうじゃなければならないという歴史的文化の背後の伝統によって、それらはみな釘づけされている。その思想を無理なく、それ以上の思想と取り替えれば、それ以上の国を求めるようになる。


国境を越える思想

 だから今は思想の時である。思想戦時代。より価値あるものがあった場合には、日本人でも、韓国人でも、西洋人でも、より価値あるものを得る権利を授ければ、今あるものを捨てて、より価値あるものと取り替える。人間は比較能力を持っている。損する立場とは取り替えません。日本人は一〇〇年の歴史を通して、西洋文化を導入して、早く早く取り替えてきたね。だから今、現代文化世界において日本は模倣主義チャンピオンの国民である。そういうふうに考えると、先生気持ち悪いことあるや? 統一思想もチャンピオンになるか? それはもちろん、チャンピオンになってもいい。しかし元を覆してはいけない。

 そういうふうに思ってみた場合には、日本人自体、あるいはアメリカ人自体、その国が滅びるのを願わない。その国に世界を抱えさせてやれば国境はいくら広げてもいいと言う。今のハワイは、アメリカに入っているんだよ。ハワイ国民も喜ぶんだから、願うんだから、それはアメリカも大きい国で、それを抱えるようになっている。同じように、世界各国共に世界の国民に成り得る。事実そうならなければならない。その必要性は日本民族によって、国民性を持った以上の必要性を要求するようになれば、これは自然と戦わずして変わっていく。そういう運動を神様も考えざるを得ない。

 だから堕落しない前の価値観というものを、我々は、はっきり知らなければならない。その価値たるや、万象すべてのものとも替えることはできない。人間はどのくらいの価値があるや? 人間の価値というものは、何ものにも例えることができない。最高の価値を持っている。

 時計でも、自分のものより以上いいものがあったら取り替えようとする。取り替えるだろう。着る物もそうだろう。いいものをやって「脱げ」と言ったら、自然に脱ぐんだよ。悪いものやって「脱げ」と言ったら戦うんだよ。問題はそこだ。だから、神様がこの世の中を統一世界にするには、神様自体もほれる者、人間、万民すべてが自分よりもいいと認めるその者がいた場合には、今までのすべてを未練なしに捨てられる。それは黒でも、白でも、もうみな同じだというんだね。

 西洋人も先生が来いと言えば来るんだね。東洋人を見たこともないし、会ったこともないにもかかわらず、来いと言えばすべてを捨てて動くようになるんだね。それは比較対照する能力で比べてみて、マイナスにならない、すべてつながりがいいから来るのです。

 統一教会、おもしろいや。何年前までいろいろなうわさしただろう? 文鮮明といえば、日本人においては気持ち悪い思いになっているよ。新しく入ってきた者、たくさんいるや。何で入ってきた? 先生は歓迎しない。歓迎しなくてもその内容が分かった場合には、足場の近い所に立たしてもらいたいと、自然に願うようになる。学生であれば、東大に入りたい。死んでも入りたいという場合には、死ぬ場合は東大で死ぬということも考えられる。要は、同じである。何も奪おうとする必要ありません。いいものを教え、いいものを得る所を教えれば、それは自然と世界的にならざるを得ない。これは事実である。


地上に来られるメシヤ

 だから神様も、この地上においてそういう作戦をせざるを得ない。だからメシヤが地上に来られる。その来られるメシヤは国家観念を持って来られるであるかと思う時に、国家観念を持っては来られません。それは落第です。少なくとも世界的、世界的人物の目標を満たして来なければならない。だから聖人というものは民族主義者ではありません。世界主義者である。統一思想からいえば、我々は孔子よりイエス様よりもっと素晴らしい者にならなければならない。イエス様はその目的を果たせなかった。我々はそれ以上の目的観念で世界を統一しなければならない。天宙統一。それは素晴らしい思想である。この地上にない思想を持ってきている。それを考えなければならない。素晴らしい内容だけに、素晴らしい前後関係を持ってくるに違いない。

 もしも神様がおられるとするならば、神様もよだれを流しながら目がまんまるくなって、それを持ちたいと願いながらそれを持っているんだったらいいだろう。そういうものをもしも自分が持ったとするならば、神様もそれを願うようになる。こういう人間に一つ、つくってみようという。これが統一思想だね。

 先生は、見ただけでは何でもないんだけれど、そういう思想を主張する先頭者だね。だから今から問題になる。メシヤは、世界的、世界主義以上の目的に向かって進んでいく。

 そもそも聖人というもので、民族主義者はいません。日本には民族主義者がたくさんいるんだよ。日本の愛国者、誰なの? 日本の愛国者は韓国では敵だ。それは国境を越える力を持っていません。先生の話は、歴史の事実を言っているんだね。神はそれを知っているから、神のみ言を果たす使命を持った者は、世界的な者でなければなりません。それは人間社会を中心として、人間の意志を無視した主義ではなく、人間を尊く思うとともに、神も尊く思う内容を持った者でなければ、神が必要としない。そういう神が必要とする者であったら、これは滅びない。おもしろいことに、宗教の教祖がなぜ聖人になっているや? それを、あんたたち若者は知らなければならない。現代文化は、彼らの思想の総合的結果としてできている。日本国家もその基準をかたどって社会組織の基準にしている。それは事実だ。

 イエス様も国家主義じゃない。それは世界主義である。自分個人の目的のために死ぬんじゃない。世界万民の目的のために死ぬ。我生まれるのも、また自分の一個人で生きるんじゃない。万民のために生きている。我、一切すべてをそういう観念でもって、それに徹した生活観念でもって、生涯の道を行く。それに反抗する者があったら、ぶつかって死してもその決意をゆるがさない、そういう信念でもって、十字架を乗り越えて余りある男として行ったんであるから、神様あった場合には、その思想がなくなる恐れがあれば、復活してもその思想を残さなければならない。そういう立場に立つというんだね。

 だから民族主義を超越して世界主義へ、そういう世界へ向けて、神はこの人類を押し立てる。それが今、あいにく共産主義思想圏に引っかかっている。それで世界は、絶対に平和になりません。物質が元とする価値観を唱えているが、物質というものは人間に支配されるものである。人間の生活方便としてそれは消耗されるものである。そういう者の動機を絶対視し、そういう基準から人間の価値を見た場合には、この私、一人の人間としては無価値な者に帰一する。

 あんたたちも知っているソビエトのスターリンは、三〇〇〇万以上の人間を虐殺している。毛沢東は五〇〇〇万以上を殺している。目的を達成するには方法、手段を選ばない。自分の親近でさえも、意見が異ってきたら切ってしまう。それは善ではない。だから悪は何かというと、自分のためにすべてを屈服させるのである。それをはっきりさせなければならない。

 十人の友達があった場合には、十人の友達に、毎日、毎年、一生涯自分のためにやれと言った場合には、その友達は動くの? もしそういう者に支配された年数が重なれば重なるほど、その内心では「この野郎、時来た場合には一挙にこれは整理してしまおう」と、内心が大きくなってしまう。それでは平和は来ません。共産主義のやり方で平和は来ません。

 だからイエス様の主張した生活は、おろかなようでも、実に偉大な戦法である。十人の友達があった場合には、九人の友達に毎日奉仕する、犠牲的に活動するという人がいた場合、九人集まった場合、その一人が来ない場合には、「なぜ誰々は来ないんだろう」と皆が言うのである。何事もその人を除いて、成そうとはしない。その人を中心として成そうとする。人のために尽くせばその人は、自分は消耗するように見えるんだけれど、時が長びけば長びくほど、だんだんと中心点を占領するようになる。だから神の戦法とサタンの戦法は違う。


神の戦法・サタンの戦法

 サタンの戦法は、打って滅びる戦法である。自分の利益のために人を犠牲にし、成功しようとする戦法である。それは長びかない。神の戦法は、自分を犠牲にして打たれて勝利しようとする戦法をとっている。これはまるっきり違うんだね。

 サタンの戦法はどうか、悪人の戦法はどうか? 悪人は自分のために他を足で踏みつけて、自分が成功しようとするものである。善人は奉仕してみんなを良くしようとする。そうすると、自動的にみんなを引き連れて入る。中心人物として立たせられるようになる。ここには、戦わずしてすべてが占領される道が生じてくる。だから神は陰ながら早く良くしてやろうという戦法で、負けたことはありません。

 過去の聖人たちは、打たれて歴史を経るにしたがってだんだん打った国の後孫が、打たれた者の僕になってしまうという結果になって、発展してきている。それが歴史の事実である。原則はこういうふうになっている。だから統一教会はこの戦法をとる。みんな誤解する。「勝共連合の背後には統一教会がある。ああいうふうにするのは勝共連合を前に立たせて統一教会の発展のためだ」と、みんなはそう思ってもいい。我々が願うのは共産党をいかに防備するかということが目的で、統一教会はどうでもいい。統一教会が滅びても、それが成せればいい。

 一日で世界的につくることができる。それが問題だ。統一原理は何を意味するものか。宗教が滅びかかっている。それを防備するのである。その二大目標の看板を打ち出して、働きかけているのが統一教会である。統一思想である。そうしてその戦法は何か? 共産党みたいに、打って占領するのではない。善の立場で打たれた場合には滅びない。それをはっきりするために、例えば、二人の兄弟がいる。兄さんと弟さんがいる。満二十歳の兄と十歳の弟がいる。

 その場合に、親は兄さんに毎日相談をするんだね。しかし、そういう兄さんが何の罪も犯していないその弟に対してぶったならば、何の悪いこともしていないのに手をつけたならば、父母が兄さんを中心としていたすべては直ちに崩れてしまうのです。そして弟のほうを助ける。絶対的にそうである。なぜ弟をいじめるのか。何が悪いか。それに反発した場合には永遠に切られてしまう。

 だから善悪はどこから始まるや? 先に被害を与えたところが悪である。いくらいいことを言っても、被害を与えた場合には悪に終わる。これをはっきり知らなければならない。悪くないのに、その国が攻められた場合には、攻めた国が攻められた者に支配される。その原則を、はっきり知らなければならない。統一教会の食口としてもいい人はいい人である。カイン・アベルである。被害の動機になった人、それはカインである。エデンの園において天使長はアダム・エバに被害を与えた。被害を先に被らせる者が悪である。それを治めるのが法律である。被害を与えた者が善か悪か? それは一般社会での悪、サタン世界の悪も通じるんだよ。

 人を見るとしても、ほほえみながら気持ちいい姿をした人をみな見詰める。気持ち悪い人相をした場合には悪だ。だから向かい合う時には、必ずほほえみながら頭を下げる。これは恐ろしい戦法である。これが善悪の分かれ目である。

 話をする時にも、謙遜な者と傲慢な者。一人は春に小鳥がさえずるように歌いながら、気持ちいい姿でもって話をする。一方は傲慢な姿でもって、ぷんぷん言う。見ただけで気持ち悪い。人間は笑顔でいつでも歌いたい。口を開ければ歌う。そういう気持ちを持った者に悪人はいません。

 被害を与える者は悪である。被害を被る者は善である。そうして悪の被害を与えた者が黙って、そのままの道を続けていくならば、悪を犯したすべての者から戦わずして相続する素晴らしい道がある。これをイエス様はよくよく知っている。研究したらそうなっている。今から二〇〇〇年前、先生より二〇〇〇歳以上年取ったその時代において、そういうことを分かってか、分からないのかは知らないんだけれど。だから、善悪をはっきりと知らなければならない。


イエス様の思想

 だから宗教人は奉仕をしながら、みんなを喜ばせる。そういうのが善の道である。イエス様は恐ろしい思想を持った。ローマの兵士に対して、自分をやりで刺し殺す怨讐に対して、神に祈ったその悠々たる姿には天地すべての存在が涙ぐみながら、内心の深い底から永遠の勝利をたたえる。その瞬間が、その時だったのである。素晴らしいお方である。

 三十三歳の年の人は手を挙げて! このくらいの年のイエス様、子供も持たないし、結婚したこともない。これはもう逃げ回る男なんだよ。無価値の者だよ。どこの部落を訪問しても、朝御飯を出してくれる者がいない。だから聖書にも、「いちじくの木の実を取って食べようとしたら実がなかった。呪われて枯れてしまえ」という言葉があるように、かわいそうな生活をしたのがイエス様だ。「狐には洞穴があり、鳥には巣があり、自分には何もない」。これはもう悲しい。悲しいどころじゃない。悲惨な男だったんだよ。友もなければ親もあるわけじゃない。何もない。むなしい。林子平の俳句にあるだろう。「死にたくもなければ生きたくもない」。それかといって林子平がいいかというと、とんでもない男だよ。どこか違うんだよ。

 そういうふうにして死んでいった。誰も認めなかった、国も認めなかった、弟子も認めなかった男が、いかにして世界の民主主義国家圏をつくる創始者の主体を成したかというと、神がいたからである。神様がいなかったら絶対なり得ない。

 だから善人は、後世において歴史的にたたえるような道を保ちながら、その思想を継いで、歴史が過ぎれば過ぎるほど世界的万民を抱擁して、世界圏を広げてきた。これが歴史の事実である。四大文化圏の精神の思想が、宗教が現在の文化圏の背後になっている。

 民族とか国家主義を越え、日本人を愛するより世界人を愛せ! だから統一思想はあんたたちに教える。先生はあんたたちに教える。統一教会を愛せということを教える。統一教会よりも世界を愛せ。統一教会の文先生よりも世界を愛せ。それが先生の教えである。


神を解放する日まで我々は行こう

 先生も世界のために働いている。先生の関心は世界である。自分には関心がない。しかし、あんたたちは世界に関心を持つより先生に関心を持つんだね。そこが先生と違う。先生は自分に関心を持たない。関心の的が世界であるのにもかかわらず、君たちは世界はどうでもいい。先生に関心持つ。こうなっている。これは間違っている。しかし一方では合っている。でも、それっきりじゃ駄目なのです。先生が亡くなった場合には、世界の行く道はふさがってしまう。先生と同じような思想をあんたたちも持たなければならない。

 世界に行く道を、先生が先頭に立って開いてくれるんだから、世界に早く行くために先生を必要とする。それが先生の目的なのです。先生を助けるため、それは先生を要求するんじゃありません。

 世界のために我々は生まれており、世界のために我々は統一教会をつくったし、世界のために我々は日本を舞台としている。これが訓練場である。日本で働いて死ぬためじゃない。日本で訓練して世界で死ぬためである。これが統一思想である。もう一歩越えて、共産主義より高い思想、天宙主義は何か? それは万民解放を目的とだけするんじゃない。そこにおいて神様を解放する。だから心情の世界でなければならない。心情のその鎖につながれている親だから、その子供が解放されない以上は、親を解放することができない。だから心情の歴史をつくろう。心情の伝統を立たせ、心情の世界をつくろう。神様を解放しよう。

 我々は歴史的神様の心情を知らなければならない。現世的な神の願いの目的を成し得たその心情の喜び、一方的な方向を要求するんじゃなくして、過去の心情を兼ねた現世の勝利、神の願っているものよりも、もっと願ってきた価値のものである。そうして得たものを、神様に何の功にするでもなく返してあげるのです。そうなれば、神様もこれは素晴らしい男、女として抱えてやろう。祝福は嫌だとして逃げていっても、足止めしても世話をしてやるというんだね。

 そういう心情の世界を我々が持っていたら、歴史的な神様はどうか。未来の神様はどうか。この現世においてこの基準を解決してやらなければ、神様は……。未来に完成するんだから我、一生尽くしても、悲しみのその基準を防備してしまわなければならない。そのように命懸けでやる。

 だから今のところ、世界の思潮がこのような困難な時において、両手を挙げて、濁流の渦巻く真ん中に立って、その方向を新しい神の願いの方向に進ませてあげたならば、歴史的心情を持って、そういうふうにしてあげたならば、神はいかばかり喜ぶだろうか。それを我々は願っている。

 米国人を一挙にアフリカ人の生活圏に落としてしまったならば、その財力でもって世界はすぐに天国になるよ。世界の財源の六〇パーセントは米国が持っている。日本はあてにならない。やっぱり米国は大きい国だ。一州でも日本の十倍以上の州がある。これを見た場合に、小さい島国に生まれたけれども大きい米国を基台として、かき回して世界的になろうという考えを持たせたのが統一思想である。

 今から日本人を米国へ連れていって素晴らしいことをやろう。毎日、議員などに会うような活動をさせたいのが先生の考えだ。ここに座っているあんたたちは気持ち良いかもしれないが、父母たちはどう思っているか?

 きょう、空港で降りて、また日本に来たね。文鮮明といえば気持ち悪く思う日本人がたくさんいるのに、少数の統一教会員だけが先生を必要とするという、気持ち悪い思いをしながら空港に降りてここまで来ました。来る時も道がふさがって、行くな行くなとブレーキかけておるのを黙って見ながら、はいはいと来て、気持ちはそうよろしくありません。

 あんたたちは日本に生まれたけれども、日本のために死にたいの、世界のために死にたいの?(世界のために)。本当かい?(はい)。死ぬ時はどういうふうに死にたいの? 華々しく、世界を救うために、戦場のまっただ中で気前よく死にたいの? 弾薬など運搬しながら、流れ弾の中で死にたいの?

 英語は語れるの、日本人は言葉が駄目だね。まずもって英語を勉強させなければならない。英語を勉強させるには誰よりも口を多く動かす準備をしなければならない。それを準備するんだよ。口を多く動かす運動をすれば、早く言葉を覚えるんだよ。そうだろう。一日一言しか言わないとすれば、十年かかっても英語をよく語れない。しかし一日に百万ペラペラ嫌でも語れば、数か月間で相当上達する。言語を解決するには一年や二年必ず必要だ。二年間何をしようか? 学校へ行って勉強したって仕方がない。

 教育を受けて、練習をして実践というのが普通の戦法なんだけれど、我々は実践を通して訓練しながら教育する。三年かかるのを一年でやる。二年あれば米国へ六年行っている以上に、英語を流暢に語れるようにして、大学を卒業させて東大に……。帰国して教授団をつくろうというのが先生の考えなんだよ。女の子も教授になったらお嫁に行けないが、それでもいい?(はい)。何を「はい」と言うの? まさかそんな先生ではないというのに……。(笑い)

 日本で準備するんだよ。それから先生が今からやりたいのは、早いうちに空手よりも優位なる正道術を教えてやるんだよ。正道術の名前は、正道は統一教会だから、統一術と名前を変えるんだ。それを教えてあげなければならない。今度帰れば計画して、日本に誰かよこすかもしれない。そして訓練させなければいけない。女にも教えてやる、女もサタン世界の男三人くらいを……。(笑い)


日本的になるな

 日本で生まれて日本で死んでは日本的人間にしかなれません。日本で生まれて世界で死ぬならば世界的人物になります。統一思想を持った女性たちは腹がでかいと有名になっている。日本のいかなる大物たちにも小さい女の子が堂々と会える腹をもっているんだね。こういう女性たちは日本的な男ではなく、世界的な男でなければ相手にしない。だからどの男もみなそういう立派な男にならなければなりません。女はそう努力しなくてもいいんだね。いい旦那さんを迎えれば、旦那さんに比例した成功の基準は、結婚する一週間前と一週間後ではまるっきり違うんだね。女は準備しなくても、女としての目つきを備えればいいというんだね。

 女の子が街頭に出て行って「皆様お願いします」。それがいいの、悪いの? いいからするの、仕方ないから

するの? どっちだ。(いいからします)。いいからするんなら、それは一生涯やれよ。(笑い) 仕方ないからするの?(笑い)だから我々は、それに答える方法を知らなければならない。自分はいいからするか、悪いからするか、どちらなんだ? 男の子が「皆様お願いします」。実にみっともないや。(笑い)それを喜ぶ者いる? 死んでもできないことをやる。仕方ないからやるんだけれども、それをやってみれば、そこにもおもしろいことがいくらでもあるんだね。それを発見することなんだよ。

 仕方ないからやれないという立場に立つよりも、仕方ないながらでもやる。その仕方ない部門にはいくらでも成功の道があるし、いくらでも善の道もあるし、いくらでも世界的な道も開かれる。人間は限界を立ててはいけないということを発見するには、そういう価値観が必要である。それによって我々はひょろひょろした人が太い人になる。前だけしか見なかった者が後ろも見るようになる。

 戦術において勝利するには、四方を管轄する能力をいかに整えるか。それによって勝敗は決定する。なぜそういうことをするか? 日本で誰にも負けない人材を養成するために、こういうことをせざるを得ない。だから統一教会の女において、旦那さんが死んだ場合、涙をぽろぽろ流すのではなく、子供三人、十人あっても、泣かないような女をつくらなければならない。結婚して子供三人、五人持った人も、男が、「さあ、動員だ」となって、男を送った立場に立っても、一人で五人、十人の子供があっても生活は心配ないという女をつくる。そうなれば、男は何をするのか? それで日本、あるいは世界のために働く男を多くつくろうとするのが先生の考えなんだよ。気持ち悪いかもしれないけれども、先生の願うところはそこであり、そういうふうにしても早く世界を復帰してもらいたいのが神の願いだから仕方ありません。これに反対する者があったらふろしき包んで帰れ、答えは簡単だよ。一人の子供を抱えて泣くような弱々しい女になりたいの? 男がいなくても十人の子供を大学まで卒業させる、自信を持った女になりたいの?

 だから決心いかんにおいて、金はいくらでもあるというんだね。先生はそういう訓練をしている。先生は何でもできるんだね。今どこに行っても、誰が援助しなくても、開拓していける。何でもやったことがある。


日本の学生時代の先生

 日本に来てもいろんなことをやった。学生時代のことを言えば、学生服に一日さよならして労働服に着替え、電信柱を引っ張りながら銀座を通った学生時代のことを、いまだに思うことがある。周囲にはすました顔つきやスマートなスタイルの女が行き来し、匂いをふりかけながら通る姿を観賞しながら、実に一生涯忘れない印象をもっているよ。汗を流しながら引っ張っている時、一番の問題は十字路になった場合に、「ストップ」の信号が一番の怨讐だね。そういう気持ちだ。十字路を越えるまでは青い光が消えては絶対いけないというのに「ストップ」。これは大変だったよ。そういう時には信号の台をいっぺんに打ち壊したいという思いがする。そこで、「君、そんなことを考えるんじゃないよ。何かいらないことを考えてはいけないんだからそういう信号が出たんだ」と思って立っている。そして、往来する人々を、腹を出して汗を流しながら気持ち悪い格好で先生は眺めている。そうすると嫌な顔つきで通っていく。それはおもしろい人間の展覧会だ。

 先生はその時代のことが今でも忘れられない。いまだにそういう生活をやってみたいんだね。先生は品川の貧民窟街をもさらった時があるよ。先生がそういうことをやったといって、あんたがたがそういうことをやれば大問題になるだろう。ヒッピーの王様はどこから生まれる?(笑い)日本の警察全部が動員されるかもしれない。

 そういうことが先生にとっては非常によい価値観の研究になった。いろんなことをやってみた。人間の屑の下から、人間の栄光の最高の立場までずーっと研究してみた。どこに行っても友達ができる。先生は一食ぐらい食べなくても、食べたか食べないか思いもしないや。そういう観念が強いよ。そういう訓練が必要である。大きいことをするには、革命をするには、いろいろな環境にぶつかってそれをくぐり抜けて、目的点まで行かなくてはならない。ある時は労働者にならなければ、ある時は漁夫にならなければ、埠頭に行って重い物を担ぐこともしなければならない。車も引かなければならない、リヤカーも引かなければならない。自転車も乗らなければならない。自動車も乗らなければならない。あるいは歩かなければならない。いろいろなことをやってみなければいけないよ。

 時たま、先生はこういうことをやるよ。先生は高田馬場にいた。先生は品川には相当関係があるから、行き来する時には、雨の降る日なんかには、お嬢さんなんかすました姿してスーッといる。先生は、着物が濡れた時には、わざとお嬢さんの横に行く。すると、気持ち悪い目つきをする。それは悪い思いを持ってそんなことするんじゃないよ。「あの女は間違いなくこう出るだろう。一にはこう、二にはこう、三にはこう」。それが何パーセント合うかテストをやってみるんだね。ある時には足を……「間違いなくこう出るだろう」。そして顔つきを見た時には「ああいうような心を持っているだろう」と見て、間違いなくそう出た場合には気持ちがいいんだね。(笑い) そう研究するんだよ。計画どおりになっていくか、そういうふうにならなければ気持ちが悪い、私が負けだ。そういうことをずっと研究したんだよ。

 だから人をちょっと見ればすぐにキャッチできる。あんたたちを見ただけでも分かるんだよ。ちょっと見れば、あっ、あの人はどこか欠けている、顔をすっと見ればどこか欠けている、鼻がどっちかこう欠けている、眉がこうなっている、耳がこうなっている、すぐにキャッチできる。そういう訓練をしているんだよ。だからあんたたち結婚式をする時にも三〇〇双近く、十時間以内にやってしまった。だから研究しなければいけない。

 その時はそう思うんだよ。この女の子たちは、教育されていないね。もしも自分があなたの兄さんだったらどうする? 学校へ行かすために学費をかせいであげるその兄さんだったらどうするか、反問してみるんだね。それがお父さんだったらどうするか、弟ならどうするか? 私はそういうふうな立場であんたを見たかったのに、落第だ。気持ちが悪いね。自分の家族が雨に濡れてみすぼらしい姿になったという場合には、自分のためにそうなった場合には、涙ぐみながら、自分の身なりを思いもせずに、その人に仕えなければならないのが、心情世界の義理じゃないかと思う。だから多く体験した者が勝つんだよ。

 当てにならないのは男だよ。本当はね。ま、そういうふうに思って気持ち悪かったらふろしきを包んで帰ってもよろしゅうございます。そしてまあ、「いらっしゃいませ」と、頭を下げてペコペコする、そういう指導の仕方では、教育をすることはできません。堂々たるものを持たなければ教育することはできない。さあ、帰りたいからここへ来たの? 帰りたくないからここへ来たの?


すべてを訓練した先生

 今度先生を初めて見る人たちは、「先生は五十いくつにもなっているんだから、ひげも生えそうであるし、身ぶりものろのろして、話もこうして、まあおとなしそうであり……」。こういうのは気持ち悪いや。今の時はスピード時代だ。先生、昔はね、言葉が早くなかったんだよ。のろい言葉を使っていた。日本に来てから日本語を習い、日本人と一分間に誰が多く語れるか競争した。負けたら先生は寝られないや。それで、何年ぶりかに初めて日本語使っているんだけれどね。考えながら組み立てながら使わないと本当はいけないんだけどね。あんたたちに向かって早いテンポの言葉で語っているんだよ。

 訓練が必要である。韓国の言葉もそうだよ。非常に遅かった。三十分間で語る場合、三十分間に一〇〇〇語しか語れなかったなら、倍以上早く語り、二〇〇〇語以上語る。こういうふうにして訓練が必要だということを分からなければなりません。

 先生は青くさい、そういう男じゃありません。何でもできます。時には喧嘩もやったよ。悪い者がいい者をいじめた場合には、先生は通りすぎない。請け負って「この野郎、何やった9」まあ青年時代はそういう気質が必要だ。そういう人をつくりたい。四方八方に適応できるそういう人が必要だね。

 だから先生は、何でもできる。のこぎり持ったら何でもつくる。やってみなかったことがないよ。何でもできます。だからどこに行っても、着物だけを着替えれば、何でも助け得る人になれる。そういう訓練が必要である。そこで、それを研究する。それを一週間ぐらいずーっとすれば、その環境において自然と親分になれる。それを見れば、全体を見ればどこが間違いかすぐ分かる。そういうような捜査でもって訓練していけば、原理はどこでも同じだというんだね。

 先生はこう話をしながらも、日本語を語りながらも、天宙といえば、天宙一つを考えるのではない。天宙とは何か? 電信柱もある。天の注射も「テンチュウ」である。それも考えるよ。メシヤといえば、メシヤだけ考えない。それに関連した言葉を考えながら話すんだよ。だから応用的な人格をつくらなくてはならない。だからそういう方面には、先生は素晴らしい発展的な頭を持っている。

 どこかがそうなっているか。そういうようにはなっていないよ。そういう傾向において訓練するんだよ。だから、ある者から見たらそれは喜ばない。三角関係、四角関係、それはどうなるか。平均的になっているのか。そういう方面において、過去の分野において、先生は発展性の素質を持っているんだよ。

 部屋の中へずーっと入れば、飾りはどのようになっているかすぐに分かってしまう。常に平均的でなければならない。まあそういうような物の見方を知っていながらも、見ないふりをするんであって、言葉を聞き分けながらも、聞き分けない姿をするんであって、そこに何かあるんだよ。「君行け」。単純にもこういうことやるんだね。すみませんね。しかし死にかけた人でも、死なない人を助けてやるのが情の道であるというんだから仕方がない。だから、「日本の地に生まれたんだから日本のために死ね」という教えを教える教育を受けた日本人だったら、日本は滅びます。


永遠の統一教会

 統一教会に入って、統一教会の教えが、「統一教会のために生きて死ね」というのならば、統一教会は滅びます。統一教会は、「世界のために生まれたし、天宙のために死ぬ」という覚悟を持っているから、絶対滅びません。これは先生の鉄則です。だからいかに中心であっても、そこが欠けているか否かというものを正していけば、その道は必ず世界に残るものを残していくというんだね。

 あんたたちが目的を持って進んだら、たとえ男の子でも、女の子でも、いくらみすぼらしい姿でも、そのみすぼらしい姿が歴史を動かす。心情の涙を流す、そういう動機となるだろう。その一場面が、歴史の栄華となるだろう。歴史の標題として、数多くの者たちが動き出して、これを再び実証させる。数多くの者が同意して、数多くの人を通して、再びこれをまねる者が世の中に出るであろう。そうなれば、我々は実践の代表者であるというんだね。敗北者とは違う。実践の代表者だ。そういうようになるんだよ。

 先生はそうです。アメリカのリンカーンセンターの壇上に立って、その時の気持ちは、それは歴史的なのです。一言一句すべて歴史の波濤を乗り越えて、新しい分野に行き、新しい線を引き、新しい円を描く。そういう考えです。

 だからここに参席した者は、歴史的な人たちである。そう思ってやるんだよ。だから真剣になる。主演者が真剣にならなければ聴衆者も真剣にならない。同じである。強い者が生まれてきた場合には、強い者に相対的に歩調を合わさなくてはならないということになってしまうのです。

 我々は日本に波動を起こして、いろいろな難しい活動の先頭に立って訓練されなければならない。だから世界を回って先生が来られる時には、必ず世界の運勢をみんな引き連れて日本に帰ってくるということを約束しました。

 先生はみんなの引っ張りだこになるようにして帰ってきました。帰ってきて日本をどうするか? それをみんな負わせて、鞭打って、走らせる。世界の運勢を集めてどうするのか、世界の運勢集めて何するのか、座って眺めてみるの? それはいいことであるようだけれど、実に天地に悪いことである。世界の運勢を集めてきた時には、その運勢を代表的に果たさなくてはならないという結論になっている。すると、今までの十倍、百倍努力させるという結論になる。もし世界の運勢も何も私は知りませんと言う日本人だったら、先生に軍配が上がる。

 さて、アメリカへ行く時よりも、それ以上に帰ってきてから払わなくてはならないという結論になりました。だから日本で一番にやる。日本でやったことが世界的になったならば、もし日本に反対する国があった場合、一番嫌がる者になる。サタンが一番嫌がることばっかりすれば、神はいつも喜ぶ。そういうようになっているんだよ。平々凡々では、あってもなくても同じだ。

 あんたたち、甘い物を飲みたいの? 甘くも辛くもない物を飲みたいの? 甘い物がなければ、辛い物を飲むことが人間の刺激的体験として必要なんだね。人間には刺激が必要だよ。刺激がなければ発展しません。十年間で目的を成すのに、十年内に刺激が切れた場合には、その目的は成されない。だから先生はいかに日本人に刺激剤を注射するか。もし刺激されて、ふくれて飛んだ場合には、とんでもない所に飛んでいく。

 先生、気持ちの悪い時もあるよ。社会から見たら先生が扇動の親であり、扇動分子ではないかと。仕方ないではないよ。扇動分子でも何分子でもいい。神のみ旨を果たせばよい。それが先生の目的です。だから今度帰る時、日本の今までの統一教会より以上に、ナットを締めなければならない。ボルトの先にねじを切ったナットをね。それをやる時は気合いをかけてやらないと馬鹿ネジになってしまうんだよ。馬鹿ネジになってしまう。時が近づいているから、気合いをかけて締めなくてはならない。これは、「メシヤと我々」という主題から遠ざかっているよ。しかし問題の中心は良く知っているんだよ。こういっても、最後にまとめて結論を出す。


アメリカでの先生

 今度アメリカから帰って、その結果をあんたたちは聞きたいんだろう? 話すには三か月以上かかるというんだね。本格的に話せば何十年とかかるよ。だから少しだけ、先生が何をやったかというと、アメリカに揮発油をかけて火をつけてきた。最初は、アメリカ人の責任者たちも、先生が「このようにやれ」と言うと、ボヤーッとしていた。

 公的な集会で公言した。しかし責任者は何も感動しない。一回、二回、三回、ビクともしないんだね。「これはアメリカ式で、東洋式では合わない」。先生は車を準備し、ワシントンからニューヨークに飛んでいって、リンカーンセンターを先生が直接契約してきた。帰ってくると、ある者は反対して、「先生のやり方では絶対できません」と言う。

 絶対できないと言うのを絶対できるようにしたのが、先生の楽しかったことの一つである。「やれっ!」。先生の話を聞かなかったら、そりゃもう放っておかない。全国的に人を集めて修練会だ。修練会を行った。修練生を豚小屋に詰め込むようにして修練会をする、「文句を言うな!」。その反面先生はいろいろなことを話してやるんだね。小さい子供というのは実に素晴らしいね。分かればうなずくんだね。分からないからこそ言うんであって。そういうようにして一か月くらい、最初のうちは、自分が呼ばれると困るという格好をしたよ。

「これは歴史的場面である。この運動の価値、これに歴史的価値がある」とは言わないんだよ。ちゃんと選ばれて修練会に集った者たちに初めて言うんだよ。みんな来る時、ふくれて来たんだけれど、聞いてみるとみんなちゃーんとして、毎日、先生と話し合いをして、訓練されると、もう何でもできる。

 人は別に変わりません。先生の教える主義は韓国式ではない。「東洋から来た先生だから、東洋の習慣観念の何々になっている先生だから、韓国から来たから何とかこうとか……」。先生は韓国人ではない。韓国で生まれたが、今でも韓国から迫害されている者である。先生は韓国の歴史にない主義を唱えている。風習、風俗、みな韓国式ではない。日本人でも、「韓国で生まれた文先生が、日本の侵略した過去の政治的なすべての怨讐に報いるために、新しい思想で青年たちを何とかして、これでもって日本思想をないがしろにしようと……」。いろいろのうわさで反対する者もいる。「そういう者ではありません。これは神様の願う方式である」。説明して納得すれば、彼らは動くようになっているよ。

「機動隊をつくって……」。日本人はすぐに警察を思い出すが、それは一時的機動隊であり、我々は永遠機動隊だ。機動隊を編成して、ニューヨークもずーっとさらってしまった。先生は相当有名になった。こういうようにして、ずーっと一周して先生が帰る時になった場合には、涙を流す、いろいろ副作用が出てくるんだね。そうして今は、「やれやれ」と言って走っているんだよ。

 アメリカは今年そうしながら、来年には四〇〇名動員しなければならない。再来年には二〇〇〇名動員。これを宣言してきた。やらなければ、どんなことでもしてやる。あんたたちができなければアジアが援助する。アジアができなければヨーロッパが援助する。だから三年の計画を一年に短縮せよ。それで、ずーっとヨーロッパを回りながら、みんな各国に配置してきた。もしも五十人いたら分配する。こうして八〇〇人を来年一年間にアメリカに援助することに決めた。それで日本は何百名くらいするだろう。


ドイツに負けるな

 ドイツに負けるのか? ドイツはドイツ人だけで機動隊をつくったよ。キャラバン隊をつくって、素晴らしい新しいバスを買って活動するようにして、今にじゃんじゃんやるだろう。ドイツのポール(責任者)は、ヒットラー時代に訓練の責任者をやった男だよ。これは、一つの基準以外の何ものも知らない。情も何もあったものではない。そういうヒットラーの子分たちだね。そういう人たちがやるドイツに、小山田を中心としてやる日本が自然に負けてしまっても仕方がない。

 しかし、思いだけは負けたくないだろう。負けたいの、負けたくないの?(負けたくないです)。負けるようになっているよ。まずもって体格からしても、走っても、これは間違いなく負ける。力からしても負けるようになっている。それでも負けない?(はい)。どうして負けないの? ドイツの責任者は一日に平均一食しか食べないんだね。それで毎日断食しながら先頭に立って、ラッパを吹きながらやるんだよ。だから不平を言う者は一人もいない。それはもう、きつくってきつくって仕方がないんだけれど、責任者がそうであるから一言も言えない。日本はそうなっているの? 日本の責任者たちは、そうなっているの? それを見ればまだまだ軌道に乗っていない。

 では、ドイツに負けたいの、勝ちたいの?(勝ちたいです)。

 今は、西洋文明圏を東洋文明圏が支配しなければならない時代の運勢が巡り来たっている。それは統一思想だ。これが西洋思想に負けたらどうする。負けたいの、負けたくないの?(負けたくないです)。負けるの、負けないの?(負けないです)。答えは素晴らしい!(笑い)


アメリカへ行こう

 それで、アメリカ援助を日本は何名する?(八〇〇名)。八〇〇名では、日本の数からいえば負けたことになるよ。ドイツへ行けば、ドイツの食口は一五〇名だ。その一五〇人に三〇〇名が分担されている。ドイツでの伝道のやり方は、まるで死にそうな格好した人に伝道の方法を教えたので、「自信あるや、ないや」と聞いたら、「自信あります」と言うようになった。そういう方法を先生は教えてやりたいが、日本人だけには教えてやりたくない。(笑い) 教えてやらなくても、勝たなくてはならない。そういうようにしたいのが先生の気持ちだ。では、教えなくても勝つの?(はい)。

 日本では三〇〇〇名、五〇〇〇名、一万名、アメリカへ行かなくてはならない。こうなったら、日本の外務省が引っ繰り返ってしまうんだね。アメリカも法務局で問題になる。アメリカへ直接行かない。ヨーロッパをずーっと回って、サンフランシスコから入る。南から、北から、東西南北から入る。もしアメリカの各州に一〇〇〇名の勇士を送るには、五万人の人数が必要だ。五万人を配置したならば、アメリカの上院議員は先生の作戦において選ばれる。

 あんたも行くんだね。どこへ行く? アメリカ、アメリカのどこ?

 だからもしも、一〇〇〇名ずつ配置した場合にはそれは大変だろう。それを急がなくてはならない。一九七七年から一九七八年までにこれをやらなければ、神の摂理は大変な損害になる。だから急がなくてはならない。そこで日本作戦、アジア作戦よりも、アメリカ作戦を急いでいる。アメリカへ連れていかなければならない。それが先生の考えなんだよ。日本人の何名くらい行こうか。日本人、何名くらい? それを準備しなさい。


機動隊の使命

 それから日本の機動隊をつくらなければならない。ここで先生に初めて会う人が相当いるだろう? 半分くらいいるだろう。半分くらいだったら、それに東京都にいる統一勇士を半分くらい動員すれば四〇〇名になるかな。先生が帰るまでに四〇〇名以上動員するんだよ。そうして、四八〇名にしなければいけないや。マイクロバス二台ずつ。そうして一人の巡回師に四十名ずつつけて日本の五十県。日本は小さい。やるには共産党より素晴らしいことしなければいけない。何事も早く決着をつけなくてはいけない。そうなった場合、問題になるだろう。

 今までは巡回師一人がのこのこやってきたんだが、今からはそうではありません。教育を変えるのです。教育で、入ってくる者みんな逃がしてしまったね。それではいけない。入る者みんな機動隊に行かせたら素晴らしいんだよ。若者としては、晴々とした秋の気持ちで、これは気持ちのいいことになる。これをやれば実に素晴らしい。四十名連れ回ると、教会なくてもいつでも一五〇名の集会はできるというんだね。こうなった場合には、我々の人材復帰は倍化していく。

 そして何をやるか? 六か月間において、原理をマスターしなければならない。実地訓練だ。街頭において毎日路傍伝道する。家庭訪問する。あらゆる分野において訓練する。生きた教育をしなければならない。六か月たてば立派な人がつくられる。それで試験する。二か月に一項目ずつ、原理を三等分して、一項目ずつ、一班、二班、三班と順番にする。平均七十点以上でないと、一班から二班、三班へと移っていけないや。

 統一教会は誰でもいいという所じゃない。だから命懸けでやらなくてはならない。六か月間に、これを通過しなければならない。統一教会のこのコースを通過しなければ、将来の中心的責任者になれない。だから幹部の小山田君も久保木会長にもさせる。そうしないと一定した公式を体験した主流の伝統が立たない。それが先生の考えです。

 だから六か月間は死んでも勉強をしなければならない。そうして渉外関係、伝道関係、財政関係、いろいろのことさせるよ。これは生きた修練所である。そうするとこれは素晴らしくなる。そうして優秀な人は、その県において支部をつくる時は、その人をそこに置いて、伝道した三人のうち一人は必ず続けて訓練する。こういうようにすれば人材復帰とともに、要員も養成できる。こうすれば素晴らしい。今から統一教会は立体的に発展するでしょう。

 今はみすぼらしい姿だけれども、あんたたち十年後を見ていなさい。世界をそのように見ている。アメリカも今から十年後を見てみなさい。一九七八年まで五年しかない。五年間で先生はアメリカを動かしていく自信がある。だから今年の秋にまたアメリカに行かなくてはならない。

 今までは韓国とか日本とかにおいて基盤ができた。だからアメリカへ活動を移動しながら、世界圏を延長して、機動隊編成をして、世界的復興団をつくる。そして有名な教授と有名な復興師を組ませて、各国に機動隊をつくる。三〇〇名以上の機動隊を持ったならば、これが各国においていつでも巡回し復興しているのだから、その基台でもって復興団をやれば、どこへ行っても超満員で会場を埋めることができる。こういう人は世界的運動ができる。有名な世界的学者を連れてきたならば、有名な神学者、学者、教育者たちがその人を迎えて、対応しなければならない。世界的活動をするのだから、関心持つ者も出てくるよ。そういうような動きをなしつつ、世界的神学教会をつくる。

 みんなアメリカへ行きたがるようになれば、みんなを連れていって、統一思想を研究しながら我々はいくらでも援助をする。そういう活動しなければなりません。そういう活動をする時に、先頭に立つメンバーをどこから出そうか? 日本から出そう、日本から。

 東洋文化を中心として西洋につながっているのは、日本が一番近いんだね。日本が一番近いんだよ。西洋から一番近いよ。アメリカから見てもね。それから文化基準からも近いし、社会関係からも近い。それでアジアにおいて、日本を先頭に立たせて一つ試してみましょう。


日本人はダイヤの塊

 それには、日本的な訓練ではいけない。日本的な訓練ではいけません。米国人やヨーロッパ人に、先生は決意させたよ。日本人に負けるか? 日本人に負けるとは夢にも思ったことがありません。さあ日本人は西洋人に負けるか、負ける? 夢にも思ったことない?(はい)。しかし、やってみないと分からないというんだね。(笑い) 勝敗はぶつかってみて、硬い者が勝つというんだね。硬い者が勝つ。日本人はなぜ小さいか。量は同じだけれども質からいえば、硬いから小さい。そういう決意を持ってぶつかった場合には、量が多くても小さく固めた者に破られてしまう。ダイヤモンドの塊と思えというんだね。ダイヤモンドのようになる? なれるんだったら自信を持て! 先頭に立たせてあげます。

 こういうふうに先生、各国と約束したよ。米国では米国人を先頭に立たせる。イギリスではイギリス人を先頭に立たせる。ドイツではドイツ人を先頭に立たせる。日本に来たら日本人を先頭に立たせる。しかしやってみて、試してみなければなりません。共に発展させる。先頭に立たせるんだけれども、日本は負けると言うならばおしまいだ。負けたらそれでおしまいだよ。さあ負けたらどうする? みんな太平洋に潜り込むか? そういう決意をしないといけない。向こうはそういう決意までしたんだから、負けたらどうするかということが問題であるというんだね。どうする?(やります)。やることは向こうでもやるというんだね。それはいろいろな方面から見て、負けるようになっているんだよ。

 あんたたち、言葉も通じないんだろう。実践場はどこかというと米国だよ。米国を舞台としてやる。向こうは言葉が通じる。あんたたちは言葉が通じない。負けるようになっているんじゃないか。それでも負けない? (はい)。


日本人を先頭に立たせよう

 だからこの世で奇跡を起こさなければならない。奇跡を起こす。そういうふうにして勝った場合には、米国人は逃げる穴がないんだね。どんなことでもやらせる。こういう伝統を立たせなければいけません。そうしないというと世界復帰がふさがれてくるんだね。そこに日本の食口たちを行かせる。先頭に立たせてみよう。それで、今年いっぱいに一二〇人を動員することを約束して帰ったよ。一二〇人が日本だったら一万二〇〇〇人になることを考える。一挙に人が必要だったら代表を引っ張っていかなければならない。アメリカへ行きたいだろう? しかし行かせるには先生の面子がある。行かせて恥ずかしいことがあったら大変です。

 だから今から選び出さなくてはなりません。久保木会長や小山田は、先生が語ったことについて話し合ったんだろう? 人が足りないところを引っ張っていくという先生は、理解しない先生だと話をしなかったの? したんだろう? しなければ内心でそう思ったんだろう。舌はまずもって率直でなければならない、そうだろう?

 考えたことがなければ、本当に食口たちを愛していない証拠なんだよ。お嫁に出す娘を持った親は、娘を行かせる時に、自分が愛した以上に愛される身になっているかを考えざるを得ないや。行かせたらどうなるだろうと。

 幹部たちはそう思うの? 絶対に思ってもマイナスにはなりません。もしも統一教会で四〇〇名以上、一年ずつ米国へ送って余りある立場に立ったならば、四〇〇名の背後の父母たちを中心としてみてもマイナスにはなりません。それから、その兄弟姉妹、従兄関係があれば、一〇〇人、二〇〇人、数百人の家庭もある。一人が出れば、三人、四人、いかなる家庭からでも背後を呼び出すことができる。

 米国から手紙を書くんだよ。「あんたたちも統一教会は良いから、統一教会に入って私のいうとおりにやればアメリカへ来られるようになる。早く早く」と。すぐにその兄弟姉妹たちがのこのこと、やって来るなと言っても来るんだよ。そういうように、系統的な伝統基盤のある者を再び呼べば間違いないんだよ。そういう作戦をしようというのです。

 だから四〇〇名の行く者は、「君たちの親戚の従兄や兄弟たちを、九人集めよ」と言ったら、難しいの、難しくないの? 米国へ行かせてあげると言ったらみなこうなるよ。そうでしょう? 青年として米国へ行って、米国で働いてみたい、そこに住んでみたいのが一般の青年の望みになっているんだね。

 そうするには、統一教会に入って公式の路程を通過しなければなりません。まずもって原理を勉強して七十点以上の点数をもらわなければ行けません。それは当然なことだよ。先生が援護して、統一教会が面倒見てやるというようになった場合には、これはいくらでも入るんだよ。絶対日本の教会にはマイナスになりません。

 だから幹部たちは遠からずして、みんな米国へ行く準備をしなくてはなりません。神様は利口なお方だから、人をつくる前に、まずもって万物をつくられた。それと同じように、先生も利口だから、人を行かせる前に金をつくらなければならない。(笑い) だから金を得て裕福な基盤をつくって迎えるようになれば、踊り上がって行くようになるだろう。日本はそういう過程を経て、世界を一周しながら活動をすれば、日本も早く復帰される。そうすれば日本は生きるというんだね。そう思って、世界を相手に訓練しなければなりません。だからドイツに負けてはなりません。もう一度訓練です。


蟻のように働こう

 日本に「月月火水木金金」という歌があったよ。それ以上のことをしないといけない。やるんだよ。今度先生が帰る時に、いかなることを指導しても、不平を言わずに従うという結論に到達するよ。さあ不平を言いたい者は今率直に手を挙げて、じゃ不平を言わない者手を挙げて! (はい)。ありがとう、「ありがとう」というのは蟻が十匹だという意味だよ。その言葉は感謝の言葉だけど、実に芳しくないや。蟻みたいに働けという。そう思えば、日本人は勤勉な人種だ。日本人はよく働くんだね。「ありがとう」というあいさつを前にするんだから、腰が蟻みたいになるまで働こう! 蕩減復帰路程の統一教会において、そういう働きかけをしようというのが先生の考えていることなんだよ。あとから具体的にそういうことを話してあげようと思うんだけどね。そういうことを聞けば、みんなもう胸がふくれて寝れないような気持ちになるよ。まずもってやるという決意をしたんだね。


怨讐・サタン

 本論に返ります。サタンというものが問題である。サタンはメシヤの怨讐であり、イエス様の怨讐であり、神の怨讐である。サタンをなくした場合は復帰摂理は即時に成される。サタンを追い出すには、サタンがいかなる罪を犯したか、犯したその内容が分かって、サタンを神の前に直接に讒訴し得る権威ある者一人が地上に生まれた場合には、それと仲良しになった場合には、仲良しになったその者は勝利することができる。だからサタンを屈服させる、歴史的に屈服しなかったその内容を教えてやり、現実において屈服させられなかったその内容を教えてやる。未来においてはサタンがついてこられないような、そういう基準を審判基準にして解決する。

 これを無抵抗の牢屋に詰め込んでしまう。そうなれば地上は平安な世界になる。良心を中心として肉心と争うことのない時が来るだろう。それを信じられる? 肉心が良心と戦わない自分になった場合を考えたことがある? そういう者になる。直接主管圏に入れば肉心は良心に従うようになる。完全なるプラスがプラスになって、完全なるマイナスの位置が体になったとするならば、これは「一つになるな、なるな」といくらどなってもならざるを得ない。

 そういうような立場に立つべき本来の人間が、堕落によってこういう惨めな結果になったのが今の現状の自分の姿である。この姿でもって、サタンを中心として、満足や希望を望んでいるという者は、悪い男であり、女であるということが分かりましたね。だからメシヤは絶対必要です。

 メシヤはサタンを屈服させて、サタン世界の主権を取り除いて、その基盤の圏内において何をするか? そこにおいて血統転換をさせる。生まれた者がどうやって再び血統転換をするや? 道は一つしかない。前にも言ったように、サタンが主管する渋柿の畑を、神がもしもそれを切ろうとすればサタンが讒訴するんだから、神のほうにおいて、神が管理する渋柿の畑を分別して、準備し回れ右をして、方向転換させて準備し、否定の道をたどらせ、神のほうに帰るようにして、神が分割して、一つの国をつくらなければなりません。

 サタンには多くの国があるとしても、国を中心として見た場合、サタンが権力を振るうのは、世界各国を統合した国家一つをつくって権力を振るってきたのじゃありません。民族単位を中心として、国家という基準を中心として、天に向けて反対してきたのがサタンの権力基盤です。


神が導いたイスラエル

 だから神のほうも、サタンのほうから分離させて、回れ右をするようにして、宗教圏で訓練をさせるようにして、新しい国家、世界圏をつくる。それが宗教である。宗教の中にも中心宗教がある。それは何かというと、ユダヤ教である。国民の中でも、神が特別に選んだ選民という名前をもったイスラエル民族である。イスラエルというのは勝利したという証明である。勝利は誰がした? ヤコブがした。ヤコブは勝利するために天使を屈服させている。それからエサウを屈服させた勝利圏をもって、そこにおいて新しい神の管轄基盤を広めて、イスラエル民族とユダヤ教の基盤において選別した圏をつくって、国家基準を準備した上にメシヤを送る。これが神の計画だった。

 メシヤが来た場合、サタン国家基準より以上の強固なる主権国家をつくったならば、そこから神は初めて人類世界を直接主管し、立つというんだね。それ以前には、神は直接人間を指導することはできない。サタンと神の両方に、まだまだ解決していないから、神側に立つような個人もなければ、家庭もなければ、氏族、民族もないんだから、それが成ったという基準で解決し、サタン国家より以上の基準に立たなければ、神は絶対それを主管することができない。

 なぜかというとサタンというものは、天使長が堕落してサタンになったものである。人間というのは天使長を主管すべき主人の子供である。神様は主人である。その子供とその主人が、主権をもったその国よりも優位な立場に立たない国でもって、その権力を追いはらうということは絶対あり得ません。それ以上の国を満たさないといけない。

 それで、それ以上の国、その主権たるものは永遠に続くべきものである。一時だけで尽きてしまうそういう主権じゃありません。永遠に続く主権である。またその国民たるものは他の国を引き下げる国民じゃありません。絶対的に自分の国を思う国民にならなければならない。その国土をとった者は、いかなるサタン圏から攻められても、占領されるような国じゃない。占領することはあるんだけれど、占領される国にはなれない。そういうサタン国家より以上の国家を生み出してこそ、初めてサタンより高い立場に立ったアダムと神様が、この地上において直接語りかけることができるんであって、それ以下においては語りかけることができません。

 そのために四〇〇〇年間、イスラエルの選民を準備し、ユダヤ教を中心とした神政一致の思想圏を立たせ、メシヤを送ってメシヤと一体となって、イスラエルとユダヤ教が一つとなってローマを屈服させようとするのが神の計画だった。そうなったならば、イエス様はその万王の王たることは間違いないというんだね。王様の中心的人物になるべきである。ところがユダヤ教とイスラエル民族が一つにならなかった。バラバラになってしまったんだから、足場がなくなってしまった。そして、最後に十字架につけてしまった。

 それで、再びその足場の基台をつくらなければならないのが神の摂理だから、十二弟子を中心として、イエス自体が国家基準を中心としてメシヤを送ると約束したんだけれど、神様としては国家基準より以上の世界的基準に向けて発展させてきたのがキリスト教である。キリスト教の発展の目標たるものは、世界を一つにするんだけれど、家庭においては霊肉共の家族とか、氏族とか、民族とか、国家を得るような立場がありません。

 イエス様の体は天宙を表徴している。心は霊界を表徴して体は地上を表徴しているため、イエス様の肉身がサタンに侵害され、犯されて十字架につけられたその条件があるので、地上の基台はサタンに奪われた立場に立っているのです。


再臨主が来られる

 その反面、復活して霊的な勝利の基盤を得た基準において、霊的世界発展の基盤を広げてきたのが今までのキリスト教文化圏です。

 いかに世界各国にクリスチャンが多く、キリスト教を国教とした国が多いとしても、その国自体が神の永遠の足場としてイスラエル選民圏と同じような国家基準として立たされるかというと、そうではない。国家基準はみんなバラバラになっている。これが今までのキリスト教が立ってきた現実の立場である。

 ここにおいてイエス様が来られる時に、世界を一つにするには何が必要かというと、イエス様はアダムの失敗を復帰しなければならない。第二に、アダムの目的を完成するために来たイエス様の失敗も復帰しなければならない。

 イエス様の失敗は何かというと、民族とその教会を一つにし、そしてサタンの主管圏を打倒しなければならなかったのですが、主管し得なかったのがイエス様の失敗である。それを再び取り返して勝利圏まで立たせなければ、神の摂理は地上において基台をつくることができません。

 だから再臨のキリストが来られて、もしもクリスチャンを中心として民主主義世界の各国が一つになって再臨の一時を迎えたならば、まさしくイスラエル国家とユダヤ教と同じような立場において、一時に世界基盤がつくられる。しかし反対した場合には、イエス様に反対したと同じように、イスラエル民族とユダヤ教が数千年間追いに追われてサタン世界に踏まれたと同じように、世界的キリスト教文化国家、自由主義国家はもちろん、キリスト教は必ずサタンに侵される立場に落ちていくというのが原理の結論です。

 今まで二〇〇〇年の歴史を通して蕩減の道をたどった神は、現世において民主主義世界とキリスト教を代表した再臨の主を送って、一つにさせようとした。その基準において目的を果たせずして、もしも再臨の主が来られた時に反対した場合には大変なことになる。その再臨の主は世界を代表した者として生まれてくるんじゃありません。特定したその地域において、その国家基準の民族性を中心として生まれてくるに違いない。その国を中心としたキリスト教は世界を代表しているし、その国を中心とした主権は世界を代表する。そういう立場です。

 そういう立場が、統一教会からいえば韓国であり、韓国のキリスト教であった。それが統一教会に反対したというのは統一教会だけに反対したんではない。これは歴史的神の摂理全体に反対したのである。そうなるというと、歴史的使命を完成させるために立たせた教会が、それを迎えずして反対したことになるんだから、すべてのキリスト教は引っかかってしまう。その背後の文化圏における国は全部引っかかってしまう。だからどういう結果になるだろうか? それはサタン圏にさらされる立場になる。だから民主主義国家、キリスト教国は今になって共産党にさらされる段階に入りつつある。


三次にわたる七年路程

 二〇〇〇年の歴史を通して再びイスラエル民族が独立して国家圏を保って出たと同じように、二〇〇〇年の歴史を再び蕩減するんだから大変なことになる。第三回目は完成しなければならないんだから、二〇〇〇年の歴史を中心として蕩減して、これを当てはめようとするのが神の摂理である。だから我々は第一次七年路程、第二次七年路程、第三次七年路程を中心として決着をつけなければならない。そうなっている。だから今の国家を見た場合は、米国も共産党にさらされやすい。日本もそうだし、韓国もそうだし、中国もそうだし、ドイツもそうだ。みんなサタン圏に追われるような立場である。その戦いの的、それは目的を失ってどういう方向に行くかということは、自由主義国家圏においてはみんな分からない。そういう時が来たならば、それは末の時代である。

 ここにおいて、統一教会はその反面に、個人復帰、家庭復帰、氏族復帰、民族復帰を広めて今では世界の横的基盤まで条件的にはもうつくり出している。先生は三次巡回路程を中心として、韓国において今まで二十数年戦って求め得た実績を、そのまま横的に世界に連結させる運動をして帰ってくる。だから、この前先生が言ったのは、日本へ寄ったんだけれども、日本の食口にはできれば話をしない。

 それで今度の巡回路程においては、韓国では出発当時から問題になっていた。出られない立場から出てきた。それで何とか日本に寄ったが、カナダには行かれないようになっていた。それが行くようになった。カナダから米国に入る道は完全にふさがっていた。しかし、背後に神が働きかけている。「米国に行くように」と。米国に行って、いよいよ目的地に来たんだから、ここで宣戦布告をしなければいけない。それはローマ帝国に対して、イエス様がイスラエル国家を代表して、ユダヤ教の基盤を率いてローマにおいて大演説するようなものである。統一教会の、米国とかヨーロッパ文明に反対しての宣布工作である。今までは反対されて数多くの犠牲者を出したんだけれど、統一教会のミスター・ムーンという男が今回米国全地を回っても、反対する者がいなかった。

 イギリスもそうであった。それからドイツもそうであった。こういうふうにして帰ってくる途中である。そして日本に帰ってきた。日本も今から、これをやらなければならない。それで、大集会をしたらいいんじゃないかと思います。しかし集会をするよりは、あんたたちを訓練させようというのが先生の考えです。


重い荷を負う先生

 こういうようにして、今は二〇〇〇年のユダヤ教、イスラエル民族の歴史的な期間の蕩減を神は二十年に縮小して、その期間に歴史を展開させるという。だから、この二十年間は世界的な歴史にない困難期であり、誰も知らない複雑な過程をくぐり抜ける時代である。これを操縦して勝利の結果までコントロールしていかねばならないというのが先生の使命であることを、あんたたち知らなければならない。我々の一線というのは日本だけではない。世界的になっている。それを求める先生は重い荷を背負っている。

 韓国と日本を防備するだけでもきゅうきゅうする、苦悩でいっぱいにもかかわらず、世界の運命を解決しなければならない。そうかといって後退するわけにはいかない。「前進だ9」。

 先生は今、五十歳だ。半世紀以上の年齢になったことは寂しいことであって、もし青年の時期だったら、もっと素晴らしくこれを追い出していく。にもかかわらず年取っている。しかし先生は年取っているとは思わないよ。あんたたちに何でも負けない。力こぶしでも負けないよ。先生に負けるか、負けないか? 負けない道が一つある。実力だけあれば負けないんだね。力であっても勝つ道がない。父親と相撲をやって勝ったとして、それでは勝ったことにはならない。親が願う実力を持てば、親もその子供に従うんだね。その道しかない。

 勝つ道は一つしかない。世界に向かって進んでいく。親が目的に向かって進んでいくその道において、親より以上の働きかけをするんだったら、負けないことになるんだよ。さあ負けるか負けないか?(負けません)。先生より以上のことを成せるというんだね。そうじゃないの、それ以外の道はないんです。だからあんたたち、先生より以上のことを成せるや? 自信あるの?(はい)。


復帰の道は成して行く道

 復帰の道は教えて行く道じゃありません。復帰の道が成して行く道であるということを知った場合には、教える方法がないというんだね。もしも教えて行く道であったならば、神様は数千年前にもう既に教えてやった。分かりましたか?(はい)。

 責任は誰が持つか? 人類の親が堕落したのであるから、親の使命を持つ以外の者は復帰の道をたどっていくことはできません。復帰の道を責任持って開拓することはできない。だから親たる者は、この地上には相談できる者は誰もいません。堕落しない前に子供があったの、なかったんだろう?(はい)。復帰の目的に向かうのは、堕落しない前の立場を願って行くところだから、堕落しなかった時には子供がなかった。

 我々は堕落した子供である、だから相談の相手は一人もいない立場であるということを考えなければならない。相談しようという思いを持った場合には、天使と相談しなければならない結果になるのです。それは、神様以外にいない。それがこの地上に来られるメシヤが行かねばならない道である。だから最後まで、一つの国家世界が復帰される基準を果たすまでは、相談を許されない道を行かれるんである。

 教えて行く道だったらもう数千年前に復帰されている。教える道はたった一つしかない。真の親の使命を持った者を見つけなければ、神様も教えることができない。そうなっているのです。だからそういうような道に責任持ったお方があった場合には、それは実に寂しい方である。いかなる苦労の道があっても、人間を頼りとして行く道じゃありません。神と共に開拓して、勝利の基盤をつくった結果は教えてあげられる。神から授けられた祝福はその親のものではありません。それを子孫のため、子供のために分けてやる。だからあんたたちは幸福である。そういう運命においては、そうなるというと、先生より以上のことはできない結論になってしまう。だから一つの道がある。先生は「生きていても、自分が死ねばすべては解決する、自分が死ぬところに未来が来る」という思いで、自分が前もって死を覚悟していった場合には、先生より素晴らしいことをやったことになる。その道しかない。

 だからイエス様が最初に教えたことは何かというと、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きる」。そういう聖書の言葉は、こういう観点からいうと、もっともな話である。分かりましたか?(はい)。


先生より苦労せよ

 そうすると、統一教会の食口たちは各自が願い出て、死ぬ境地を迎え出るような働きかけをする場合、先生はお休みなさいと言う。その道だったら、先生に先立つことはあるんだけれど、原理の道においては先立つ道はありません。だから先生より以上に苦労せよと言うのです。苦労するのがいいというんだね。さあ、苦労するの?(はい)。

 先生は相当牢屋に引っ張られて苦労した。今まで苦労しない日がない。今も無理している。それを知って、先生より以上の苦労をさせたら、みんな逃げるだろう。逃げるか逃げないか?(逃げません)。サタンも先生を見て、感嘆しているよ。「あの男はあんなにつらい道に引っ張り出されても、不平を言うことすら教わったことがないと思える男だ」と言うのです。

 あんたたちもそう? 自分は東大卒業生だという者が、知識でもって「これは何だ」と、鋭敏に批判するよ。今までの知識では、これは分からないや。あんたたちが批判したって分からない。今から先生の言うことは、十年後になればみんなピッタリ合う。だから死んでみて、後悔しやすい道が統一教会の道である。現世においては喜びやうれしいことは何もない。苦しいことであり、つらいことであり、悔しいことがいくらでもある。そういうことをやらせてもやるか、やらないか?(やります)。本当かい?(はい)。 やりたい者、手を挙げなさい9(はい)。

 手を挙げたんだから、一発打って下ろさなければなりません。何を打つかというと、サタンを打つ! もう決意したね。

 世界の運勢を日本にみんな降ろしていこうか、韓国に半分ぐらい分けていこうか、どうしようかな? いいと言っても困るんじゃないの、先生、管理が問題だ。共産党はガヤガヤ、朝総連はねらうしね。共産党の嫌な存在になっているしね。日本の右翼も芳しく思わないしね。あんたたち、四方八方防備しながら、二倍の活動ができるかというんだね。だから日本には現れないほうがかえっていいというんだね。そうでないの? そうでないか、そうか? いろいろな問題があるんだよ。だからこの問題を抱えて足場を広めていくのは、我々には二倍のつらさである。しかし、そこには立体的二倍の価値が潜んでいることを思って、それをくぐり抜けて果たしていかねばならない立場が、あんたたちの使命だ。分かったね?(はい)。

 サタンを屈服させねばならない。サタンを屈服させるには、自分一人ではできません。先生を伴わなければなりません。先生が必要だよ。サタンが屈服されるまで先生が必要です。

 いつまでメシヤが必要か? 完全復帰されるまで必要です。だからこの世の中がもしも世界的に復帰されなかった場合には、メシヤは必要であるというんだね。個人の解放、家庭の解放、氏族の解放、民族の解放、国家の解放を叫ぶとともに、世界の解放を旗揚げして、世界万民がそのカラー、人種、文化の背景を超越して一つの目的圏に向かう。世界すべてが「さあ準備だ」と旗揚げすれば、太陽が東に顔を出すというと、すべての万物はそこにあいさつしようとして、頭の一番先で迎える。山川草木もそういうことをやるのです。木もみんな太陽の光にあいさつするためにおじぎをする。生命の根本になっている。そう向くようになっているのです。

 万物までもそういうようになるんだから、万物の霊長たる人間はなおさらそういうことにならなければならない。世界万民が統一教会を中心として、先生を中心として、すべてがこういう方向を向いて喜ぶようになった場合には、そこから新しいものが生まれてくる。


神の願う国

 我々は超民族を中心として、超国家基準を単一民族が一つになったより以上につくれるか。問題はそこにある。それをキリスト教を中心として、希望の的として求めてきたが成されなかった。だから我々統一教会を中心として、先生の力によって新しいアベルの教会をつくった。その教会はあるんだけれど国がない。ユダヤ教の時、イスラエル民族には国があったんだけれど、統一教会を中心とした国はない。これが問題だ。

 イスラエルの国とユダヤ教とはカイン・アベルである。みんなカイン・アベルでなければ復帰ができない。それが一つにならなければならない。自由世界とキリスト教とはカイン・アベルだ。

 我々はアベルの立場で教団をつくった。既成教会がカインの教団である。これを打ってしまうわけにはいかない。ユダヤ教のイスラエル民族を独立国家として神は許された時代圏を思う時に、キリスト教をそのまま打ち壊してはいけない。そこで我々は一段と苦労をする。

 キリスト教と民主主義世界がカイン・アベルとして一つになって、優位なる立場においてサタン世界を屈服させることができなかったのです。かえって逆さまになった立場になり、追いに追われている現世である。その中において我々がアベルの教団として立った場合には、カインの教団は何か? キリスト教である。だからキリスト教を相手に我々は工作しなければならない。それが現実の立場である。そういうふうにしながら一つの国の基盤をいかにして乗り越えるかという作戦をする。それが韓国の現実の立場である。

 韓国は非常に追われる境地に立つ、境地に立つのが悪いんじゃない。時が迫っているのです。今年を中心として金日成は六十歳になる。六十歳になった場合には、サタンは六十数以上を越えることができない。だから四月の十五日をいかに越えるか?

 それに相対的世界の運勢を統一教会につなげなくてはならない。だから共産党の責任者たちが米国に対して影響を及ぼす以上に、我々が米国に影響を及ぼす。そういうことを成すのが今度の第三次世界路程である。こう思ってみた場合に、我々としては今年の標語「統一戦線守護」は何かというと、最後の戦いである。ここにおいて統一教会はあるんだけれど、統一教会を保護する主権はいずこにあるか。日本の国がたやすいか、米国がたやすいか、韓国がたやすいか?

 韓国がたやすいというんだね。だから韓国の現在の情勢は統一教会と一つになるように、極度に向かい合うように摂理は押しつけられる。今そういう段階に来ている。内外共にそうなっている。キリスト教もそういう段階に来ている。統一思想がなければ救われる道がないということを一般は知っている。最高の基準においてそれを認めるようになれば、もう峠は越える。越えたならば、もしも国があった場合には、我々の宣教師はその国の一番びりっこの一つの国民の足場を頼りとして行くんじゃない。国を相手とする。

 一つの国の大統領がみ旨の前に立った場合には、即時にその国を法的において救うことができる。素晴らしいことになる。一人が一人を伝道する時代ではない。国が救われていく。それが一つの国、二つの国と、数を重ねて、もしも四を越えて七か国家が一つになった場合、世界はいっぺんにその所に巻き込まれていく。

 イエス様は、四〇〇〇年の歴史過程を通過して準備した基盤が崩れていくのを眺めながら十字架につけられて死んでいった。それ以後において、イエス様を信じて救われる道をたどる者は、血を流さなければ行く道がふさがるということを思ってみた場合、いかにその内心において痛みを感じただろう。いかに悲惨な痛みを感じながら十字架の道を行かれたんだろうか? それを我々は知らなければならない。こういう立場である。


「統一戦線守護」の七二年

 我々には統一教会はあるんだけれど、統一の国がないんだね。だから統一戦線守護というのは何かというと、「統一教会を保護せよ」ということなんだね。だから米国においてうわさしているんだね。韓国に影響を及ぼし、韓国の政府と我々統一教会を一体化させる、その力を加えるという作戦にもなるというんだね。それで世界各国において、今後我々は戦ってそれを復帰するんじゃない。自然復帰をしなければならない。これが問題である。サタンの世界は打って占領するが、神の戦法は追われ、打たれながら自然屈服させる。天の位置をそのままにして侍るような立場でなければ、神の権威の立場を復帰することはできないということを、我々は、はっきり知らなければならない。

 まあ、こういう立場において、現世において我々の成さねばならない重大な使命は何かというと、国がない。神の国がない。国なき者が本籍をもつことができるか。本籍地がない。日本人は日本の国があるから、日本を本籍の地としてもっているんだけれど、神の摂理から見た場合に、神様の主権国家がないから、神様の国民の登録ができない。宗教登録、これ一つしかもっていない。

 復帰はカインとアベルが一つにならなければ進んでいかない。それは統一発展の公式になっている。カイン・アベルだけでは救われない。カインを救い、カインが進むように後押しして、後ろで戦ってくれる防備圏をつくらなければ帰っていけない。それが原理の教えである。だからカイン・アベルは一つにならなければ、父母を迎える道がありません。

 宗教はアベルの立場であり、国はカインの立場である。だからカインがアベルを殺した歴史を引き継ぎ、歴史的な国家主権者は宗教を殺してきた。そういうふうに結実圏がつくられて迫害されてきた。こうなるというと、宗教を中心として国を自然屈服させて従わせるような勝利の国家をつくらなければ、天国は地上に生まれてこない。それを成そうとしたのがイエス様です。

 イエス様を中心としてユダヤ教とイスラエル民族が一つになったならば、そこが一つのアベル国家だ。だから我々の信仰の目標は何かというと、神の国の民になることである。民にならなければその子供として、自由自在に、万民あるいは万物世界において誇りながら愛される道は生まれてこない。国なき者であったなら、いつも攻められる。即時にやられる立場がいくらでもある。だから神の欲すべき国はいずこにありや、神の足場とすべき国がいずこにありや? これが問題です。

 だから我々はそれに向かって、もしも韓国より米国が早かったら米国を中心とする。日本が早かったら日本を中心とする。しかし今までどこを中心としてやってきたかというと、先生が生涯かけて戦ってきたところは韓国である。韓国が反対した、一番先に反対した国である。先頭に立って反対した国が頭を下げなければ、世界の国々は頭を下げない。だから仕方なしに、また韓国に帰っていかなければならない運命を持っている先生である。かわいそうだね。

 そうかといって、世界情勢から見たら、緊迫した危機一髪というような時点に立っておる立場であるけれども、そのまっただ中において、ある目標の基準を決定づけねば行く道はふさがれる。だから統一戦線を守護しなければならないというのが今年の目標だよ。もしも統一勇士が世界に何億もいた場合には、三十八度線に動員する。そうなった場合にはどうなるか? 金日成、問題ではないだろう。


神と人が共に住む国

 国があった場合には、我々はそこで死ぬ必要はない。奉仕する必要はない。神の作戦は今まで全面的に打たれてきた。打たれて占領してきたんだけれど、一つの神の国を中心として世界に基台をつくって出発する時が来たならば、悪を打つ。

 正義が正義の権威を全面的に適応させる、そういう世界が待っている。それが今までできない。神がいくら全能なる神、絶対なる神であってもその能力を果たすことができない。サタン主管圏内においては、それを果たした場合には神の権威に引っかかる。数多くの宗教をかき集めながらきたのが、地上に神が主管すべき一つの国を求めて神の摂理の目標であるということを、今の宗教界は分からないんだね。

 統一教会は何をするところか? 神の善なる足場をつくる。神が地上を眺めながら「自分の国だ」と言える、この地上に本郷の地の基点をつくってあげたならば、神様はどこに住むだろう。霊界に住まないよ。愛する子供たちのいる所に住みたい。永遠に侵害されない安らかな立場として、子供と共に住むのが親の望みである。別れて住みたくはない。しかし今までは神様と人間は別れて住んできた。その怨みを解くには、国を中心として世界に自分の権力を振りまける、堂々たる主体的活動を成し得る環境に地上がならなければならない。だからサタン主権より以上の国家を中心として摂理してきたことを、今までの宗教は分からなかった。

 だから我々はその国を建設するための亡命者である。天から来たスパイである。間諜である。密使である。だからその国において自由行動ができない。注意してその人のために奉仕し、その人が生きるような方策をとらなければ生き残れないので、しかたなしにそういう作戦をやってきたんだね。もしも時来たらばいっぺんにやる。

 今まで統一教会も、今回の巡回路程におきましても、韓国の重要な食口たちが七名も霊界に呼ばれて行っている。一方では蕩減されていっている。先生はそれを心配して発ったんだよ。この期間はこういうことがあるに違いないと。三人以上は行くことは前もって考えていたが、七人も行っておるというんだよ。一方では蕩減されるというんだね。なぜ韓国が蕩減されるか? 先頭で働きかけ苦労し、戦場で先頭に立ったものが蕩減されるんだね。殺されたのと同じだ。同じ道である。

 こういうことを思う時、日本の地にある君たちは、韓国から見た場合には苦労もせず、このような恵沢圏に立った。それを思う時、韓国と日本という感情は我々にはない。昔みたいな感情を持ったら何ものもない。サタン世界の感情を残したところは、サタンの基台になるだけだ。神は超民族的に一つの理想の国家を求めてきたんだから、米国人も、英国人も、ドイツ人も、過去において怨讐だらけの人たちでも、ここに入っては一つの兄弟である。だから我々は、死しても成さなければならない。これを考えなければなりません。

 今、あんたたちが死ねば、教会の名の下で死んでいく。それは悲惨な運命である。教会と国が一つになったその主権の法の下で死んだならば、あんたたちは国葬されるような立派な者になるだろう。永遠の歴史の伝統を立たせる、それこそその国の中心になるだろう。それは一国のために犠牲になった者ではない。世界万民の解放のために、天宙復帰の伝統の基盤のために行った、貴い勇士であり、その墓場には花が切れることがないだろう。我々のそういう価値を一〇〇パーセント実体的に知ってくれる国がない。だからかわいそうな者である。先生もいまだにそうだ。こういうことを考えなくてはいけない。

 それで悪の主権より善の主権を正して、その基盤をつくるとともに何をするかというと、血統転換、祝福をする。血統は何によって植えつけられたかというと、愛によって植えつけられた。アダム・エバ夫婦が家庭をつくる時に植え込んだから、統一教会は祝福家庭をつくることにおいて、それを抜き去る。それは数多くの蕩減条件を果たし、条件物を集めてつくったものである。そこには転換式がある。こうなった家庭はどこまでも本国のために立たなければならない。本国といっても韓国が本国ではない。今の韓国ではない。神の願う国となるまでは、まだまだ残っている。しかし、我々と接しなければならない。もう最終点に来ている。これを全面的に包囲して、最後は一挙に復帰する道を先生は考えるから、韓国の勝利の基台を確保するとともに、アジア的、世界的な基台、全体的勝利圏をいかに広げるかということを考えなければならない。それが米国に対しての作戦を準備している目的である。だから韓国を中心として成したその基準で、もしも韓国が動き出さなかったら、今は韓国をあとにして米国を中心として、どこに行っても働けるそういう基台がつくられている。


第二次七年路程

 完成圏というのは蘇生、長成圏を越えた基準をいうのです。第二次七年路程は、蘇生・長成期をいう。第二次七年を終えたならば、先生はどこへでも行ける。第一次、第二次圏内において、そういう基盤をつくったならば、世界的基盤に植えつけられる。この運動が今の三次路程である。そして、第三次出発路程の三年前の準備期間にもなる。だから七四年までは、第三次七年路程の三年間の準備期間。三年間準備してアメリカに社会的基盤をつくり、アメリカをサタンから防備しなければならない。

 日本はひょっとすれば、早く先生と韓国と共に行動し、日本が一つになれなければ、日本はエバ国家として立たないことになる。韓国自体もアダムの国家に立たない時が来るかもしれない。そういうような未来の基準が現れやすい。アメリカを中心としたら、アメリカがアダム国家になる。なぜかというと、アベル圏からカインを中心として摂理を延長してやれば、カイン世界が相対基準になるべきであったが、それを反対にしてしまったんだから。ずーっと国を求めてきたけれど、その国自体がその使命を果たさない場合には、キリスト教と統一教会とその国と向き合う時には、それが再び適用される。そうなると、もし先生が韓国の先生たちを連れて、日本の幹部たちを全部連れてアメリカへ行った場合には、アメリカがアダム国家になるし、イギリスはエバ国家になるし、天使長はドイツ。そうなりやすいというのです。

 そうかといって、日本や韓国が滅びるのではありません。そこを中心として早く復帰が終わる場合には、韓国も日本も早い方法で世界的に進めていく。だからその基盤を早くつくる。今先生の三次世界的位置を迎える路程を成すのです。ひょっとして日本が反対すれば、日本の統一教会はみな、荒野に行くよ。韓国の統一教会は駆けていくよ。中国の統一教会も行くよ。そうしたら、これは一つとなって蘇生的のアダム、エバ、天使長になるよ。長成期的な基盤をそのままその場にのけておいて、互いに発展させることができるというんだね。

 アジアの情勢が緊迫していけば、我々が先頭に立って血を流すような危ういことがあれば、先生は後退作戦をするかもしれません。


日本が先頭に立て

 そういうことを思っているから、基準をつくるためにエバが先頭に立たなければなりません。復帰の路程はエバが先頭に立たなければならない。日本の食口たちをアメリカへ派遣しよう。それが原理的である。その基盤を中心として韓国も行くし、中国も行くし、そうしたら、ここで問題になってもいい。アメリカ自身、日本に相談せずに中共に飛んでいって会ったのだから、日本はピーンと回れ右してソ連と手を組む。そうなると日本は大変だよ。

 今、日共がソ連系に立っているということが分からない。中共が動き出したら台湾を中心としてソ連を引き入れるというと、日本の将来は大変なことになる。こういう問題を知っているので先生は前々から言っている。「ソ連も中共も南進政策、東進政策を二本柱にして経済援助をインドネシアに」ということを言ったんだけれど、それは耳に入らない。東南アジアの防備、道が開かずふさがった場合大変なことである。そうなっている。

 今度のインドとパキスタンとの戦いにソ連が介入して、インド洋へソ連艦隊が移動する機会をねらっている。ここで台湾がどうなるか? 台湾がソ連と組んだ場合には、ウラジオストクから日本を通って東シナ海を中心として、南太平洋、アジア沿岸、インド洋を結ぶ海洋ができる。そうするとウラジオストクのソ連の艦隊がだんだん増えてくる。これ以上に増えてしまったらどうなるか? その時は、台湾は台湾のままではおれない。もう少しすれば分かるだろう。

 今度台湾で、蒋経国の奥さんが昔は表に出なかったけれども、いち早く放送に出るようになった。ソ連が台湾を持つようになれば、背後関係が、内的にそういう運命におぼれてくる。

 こうなった場合には日本の今後の将来は、みんな暗澹たるものであることを感じる。アジアにおいて日本を手に入れた場合にはアジア赤化の主導権を握る。台湾も毛沢東がそのまま置いておくと決まった場合には、日本に攻めてくるんだから、日本が近く軍事拡張する。そういった場合大変だよ。戦略戦術においてマイナスになる。台湾をそのまま、蒋介石が死ぬまで放棄しておいてもどこにも行く所がない。もしもそうなった場合、太平洋はふさがるし、シンガポールを中心として台湾海峡がふさがった場合、日本はどこへ行く? 石油も、ふさがった場合には二週間できれいに混乱してしまうというような運命に立っている日本が、何としても台湾を、インドを守らなくてはならない。


インドが問題である

 勝共連合の願うことは、インドである。インドを防備しなければ。もしもアジアが赤化されてもインドを防備すれば、インドは六億近い国民を持っているし、中国にも負けない。米は二毛、三毛とできる。土地は狭いとしても、中国以上の豊富なるその基盤がある。先生はそう思う。

 だから今度インドへ行った時、「アメリカの地に早く来い」と言った。インドを重点的に作戦しなければならない。インド人は中共との間が良くない。そういう間隙をねらって、今が一番チャンスであるということを見てきた。過去のこういうような問題を見た場合に、日本の統一教会のあんたたちには、すまないんだけれど、天のアジアにおけるこれらの防波堤の使命を統一教会がしなければならない。

 死を覚悟して、このような渦巻くこの時点に生まれたのも、悩みではなくして、素晴らしい価値ある時代に生まれたと思い直して、この事情を逃さないように、時を失わないように働かなければならないのが日本の使命である。そこにおいて日本が責任を持たなければならない。

 そこで我々は、中国のために断食運動をした。公園の前で断食をした。なぜこのようにしなければならないのか? これは我々、条件だけでも神の願いは残しておかなければならないからだ。

 日本の活動を急がなければならない。日本の統一教会の発展を願って、我々は覚悟し、世界の統一教会の発展を願って日本人に働きかけなければならない。それが先生の案だ。そういうふうに今後の成り行きにおいては、日本において働き出す功績を、その実績を、いかに外国に影響を及ぼすかを考えざるを得ない。

 まあそういう方面から見た場合には、あんたたちはかわいそうかもしれない。しかし、かわいそうな境地を克服して乗り越えた場合には、勝利の旗はそこから揚げる。勝利の合唱はそこから始まる。そこに行かずして滅んだならば悲惨なものだけれど、極地に立って勝利を成したならば素晴らしいものである。そういう考えで日本の食口たちを固めて、日本はまだエバ国家だから、堕落はエバからしたんだから、アメリカに日本の人たちを先に行かそう。


メシヤに必要な個人

「メシヤと我々」という問題において、メシヤが善の主権を復帰するために、復帰されたその国民というものは、渋柿であれば何の用も果たさない。渋柿が甘柿にならなければならない。甘柿になる方法は何かというと、接ぎ木をしなければならない。これを完全に甘くしなければならない。そういうことをする統一教会を動員して、一つの国をつくりあげていく途中である。そのために、あんたたちも国のために奉仕していく。だからこの国を抱えるだけの人、この国のために必要とする人、この国を生かす民族。日本の場合は統一民族なんだよ。統一民族は国家を、世界を復帰する。今から当分先を見込んでおくんだね。七三年、七四年だね。

 まずもって、その国を次々につくっていく、つくったならば世界は自然と解除していく。大使が次々と伝道師になる。大使が伝道師の責任者となるんだね。そうしてその国の大統領を伝道したならば、その国はいっぺんで復帰されるよ。国が三か国以上復帰されたならば、世界は伝道しなくてもいい。そうだろう? 怨讐国家が一つとなって、一民族より以上に暮らせるという世界、新しいそういう国家が生まれてきたならば、戦わずして世界は巻き込まれてしまう。

 我々の願うのは既成教会を早く復帰し、共産主義を早く分別させていくことである。そうすれば、我々の世界になるということをはっきり知らなければなりません。メシヤのために必要な個人になれ。まず個人に要求する。


祝福家庭の責任

 女は男に負けるな。負けない立場を続けて歩いていかなければいけない。男を頼りとして行くような女は、これは世界にまで連れていけない。考えてみなさい。「あー、日本のここにおいて私は子供を連れていきたい」。「旦那様一人どこに行ってもいい」。メシヤが家庭を必要とするならば、家庭をつくれ、家庭をつくって夫婦共に愛せ。額を向き合って愛するのが愛ではなく、千万年別れていても誰よりも篤い愛をもって愛することができる。別れることで本当にその価値が分かる。一緒にいれば奥さんが旦那さんを愛しているかどうか分からない。別れてみるとどれくらい愛しているか分かる。夫もそうだよ。自分の妻を愛しているかどうか別れてみないと分からない。時たま別れてみるんだね。三年どころか十年でもいい。黒い髪が白い髪になるまで待ち焦がれながらそれを慕ってやまないような夫婦ならば、永遠の世界に行って二人は、太陽の光のような実体的な夫婦になるだろう。極と極の力の通じるそういうような磁力線を持ったならば、大変なことだろう。別れることは問題ではない。そうしてメシヤが必要とする夫婦となり、メシヤが必要な子供を生むのです。

 国の伝統、国の子となって主権者の伝統に従う。それを成すような教育をする父母にならなければならない。愛する者にならなければならない。愛するにも「かわいい、かわいい」と一方的ではよくない。「ああ、神様は数千年間復帰の路程を通して、愛する男女をいかに待ち焦がれてきたのだろうか」。そのような心情をかけながら、愛する子があって国があり、子があって世界が生まれてくる。こう思うんだよ。それだから寝る時も正しく寝よう。そう思って教育するんだよ。死んで遺言をするような親でなくして、生きている時に教えていく、笑いながら、「良くやってくれた」と感謝されながら死んでいく親にならなければならない。遺言する時に忙しく、「ああ、こうこう」ではいけない。秘密を共に知り、分け合って共に生きた実績を眺めながら、「もっとやってちょうだい」。そう喜びながら行くのが統一教会の父母なのです。

 だからメシヤが必要な夫婦となれ。それから家庭をつくって、子供をつくって、氏族をつくる。純潔なる血統を今から我が後孫に残すんだよ。数千年の歴史の中で、神様は血統転換のために数多くの犠牲者を残したというんだね。祝福家庭は特別に注意しなければならない。あんたたちも、もしも祝福を受けて誤った場合、生きる道はない。神様はその姿を見たくもない。もしも結婚して子供を生んだ場合、それは動物園のえさにもしない。我々はこういう観点から、恐ろしい天の法則を守って、サタンを完全防備して、回復を願い、摂理を成すのが我々の家庭の使命である。深刻な問題だ。先生は命懸けだ。

 イエス様は血を流して死んでいった。数千年の間、クリスチャンはそれを目標としながら、時を待ちながら死んでいった。神は六〇〇〇年の働きを、苦労のすべてを忘れないで、いまだに続けている。それは何か? それを祝福家庭に望んでいる。それを知らなければならない。祝福された家庭はイエス様以上の世界に帰る。イエス様が頼りにしている、望んでいる。敬意を表するような素晴らしい家庭である。そういうことを本当に知っている?あんたたち。いまだ歴史に残されているサタン圏の血統を一掃して、新しい神の願う、神による純潔なる血統を今残すこと。これが問題である。

 さあ、我が後孫は何千代この血統を残すだろうか。これが、もしも汚した場合は子供を生まないほうがいい。そういう覚悟で行かなければならない。純粋なる血統。分かったの?(はい)。

 男がもし結婚して、相手の女が死んだ場合、本当は独身で行かなくてはならない。女もそうである。しかし、子供のない場合は、祝福された後孫を残さなければならないので、共に貸借が生じる道もあるだろうけれども、男女は一対一である。こういう考えでもって見ると、あんたたちの祝福は恐ろしいことである。あんたたちは分からないんだけれども、霊界へ行ってみればすぐに分かる。

 祝福を受けた者は、天国に行く道が開かれている。祝福を受けた者は、サタンが讒訴するのではなく、天使が讒訴する。神の法律を中心として誤った場合には、天使長が否定する。

 原理が分かって祝福され天国に行けば、霊界の道はちゃんと開かれている。しかし、行くにはきれいな服を整えなければならない。足を乱すことはできない。だからそこには立体的責任がある。純粋な血統を残すために我々は、今、旗を揚げて世界に問題を起こして、二人共に誓って夫婦になった祝福家庭である。

 我々は共産党より恐ろしい未来を迎えなければならない。そうかといって、原理に違反した場合には、それは許されない。いつもあれこれした。それだけではいけない。国ができた場合には、憲法をつくって、法律をつくって即決する。その時、神のほうは蕩減しないよ。救いの道がないよ。救われる道はないんだよ。これははっきり知らなければならない。

 家庭は、メシヤのための家庭にならなければならない。メシヤは結局神のため、万民を解放する。祝福家庭は、根があり、枝があり、花みたいである。花が咲いて実を結ぶ、その一年のぶどうの実というものは、根のすべての伝統を受け継いできた代表的な結実体である。それを眺められるような家庭にならなければならない。そういう家庭をつくるには、自分で蕩減の道をつくっておく。それから新しい先祖になるんだよ。そうして新しい氏族をつくるんだね。自分なりの氏族を配したので、氏族の族長になる。アブラハムが信仰の先祖となったように、我々祝福家庭はアブラハムのような信仰の先祖にはなりません。何の先祖かというと、心情の先祖である。心情の先祖をつくる。これが統一教会の根本の思想である。

 未来を望んで願って、信仰で添って、目的に一致するそういう立場ではありません。生活をしながら、心情の基準を立たせ、目的を成すところが統一教会の家庭です。家庭が一番大切です。善なる家庭が生まれなければ、善なる氏族は生まれてこないし、善なる家庭が生まれてこなければ、善なる国家は生まれてこない。善なる世界も生まれてこない。家庭が問題である。だから家庭が共に救われる。男が引っかかった場合には、女も共に行かれない。二人は共通の運命である。

 だから、男が生まれたのは誰のために生まれた? 女のため。女は誰のため? 男のために生まれた。だから愛というものは自分のものではありません。愛というものはそもそも自分のものではありません。男がいなければ、女に愛があるの? だから今、女の子たちは結婚した場合、旦那さんを本当に愛しますか? どれくらい愛するか、これくらい愛するか? 天宙より以上に愛する。喜ぶんだね。愛あってすべて包括する。愛は実に偉大である。愛は実に大きいというんだね。愛はこんなに大きいんだから、神様のところへ入れてもまだ残る。愛なき心を持って欲張った場合には、神様は入る所がないよ。

 愛の主体は神様である。現在の人たちの愛は自分のものである。この世の人たち、それは間違っている。愛は自分のものではありません。男も女もそういうタイプに生まれてきたんだよ。本質はそうなんだよ。それを根本的に、今までの愛の基準を取り替えなければならない。だからいくら男が偉いとしても、女があれば女を抱えて死ななければならない。そうなんだよ。一人で死にたい男はいるの? 若い者たち! 一人で死にたい者いる? 自分の兄弟でなければ、自分の妻でなければ、自分の父母に抱かれて死にたいんだね。生まれる時は愛によって生まれ、死ぬ時も愛に抱えられて死ぬのが人間本来の本心なのです。だから生きるのも愛によって、共に生きたいのが人間の理想なのです。一人では行けない。

 神様が実に好きがるあんたたち夫婦が抱き合った場合、「我々夫婦は神様の最も愛する夫婦ですから、愛する時、神様、共に喜んでください」。そういうように祈ったことがありますか? もしそういうように祈り、望みを持ちながら愛する者と、そういう思いも持たない者と、神様はどっちを選ぶだろう? それは言うまでもないや。もしも愛が最も尊いものとするならば、最も尊い、最も価値ある愛のその現場を共に分け合いたいのが本性の願いだろう。だから二人が神様の前に愛し合うならば、神様も喜ばなければならないのです。

 だから愛は三角関係である。この世の三角関係は破壊だけれど、神様を中心としては真の動機である。それを一般の人は知らないんだね。しかし統一教会においては三角関係を持っているんだね。日本の統一教会の食口も、先生と三角関係を持とうとする。「ああいう性質は、ああだ、こうだ」。「こういう性質があるんだから、生かせばいいんだが、先生来てくれれば、一言言ってくだされば直りますから、どうぞお願いします」。アメリカ人も同じだよ。西洋人もね。男の子もそうだよ。妻がいれば、「家の女房をどうにかして、一言かけてくださればすぐに直るので、ちょっと一走りしてください」と、三角関係を持ちたがる、おかしな群れがいる。

 メシヤがもしこの地上に来られるのだったら、愛する夫婦があるならば、その子供があるならば、愛する親は共に見たいし、参席したいと思った時、気持ち良いか悪いかと考えてみるんだよ。統一思想においては、気持ち悪く思ってはいけません。メシヤが必要な家庭をつくらなければなりません。そうして善なる、純潔なる、神より受け継いだ伝統を、何百倍、何千倍と続かせれば、世界を支配する主体的な氏族になるだろう。それを中心として祈る。

 だから子供に関心を持たなければならない。親は朝に夕に、子供に関心を持たなければならない。関心を持って、その真心に子供自身が感服して、そういう立場を迎えるような環境において教育をしなければならない。そうして新しい氏族を新生しなければならない、新しい世界を新生しなければならないのが統一教会の、統一思想の目的である。

 個人、家庭、氏族、民族、国家基準が成されて、統一思想と一つとなって永遠に別れない、そういう国家基準になった場合には、メシヤが来られていっぺんに国家基準から、国家、民族、氏族、家庭、個人の渋柿をいっぺんに切ってしまって甘柿に接ぎ木する。これが統一教会の合同結婚式である。

 日本では何と思う? 合同結婚式を君たちの父母たちは反対して気持ち悪く思うが、そういう気持ち悪いことをする文先生ではありません。「ありがとう」と千万回も感謝をするだろう。今は知らないからであって、そういう悪い結果を来たして喜ぶような、世界的活動するような文先生ではありません。最高の神が要求する、最高の望みをかなえるのだから、堂々とやれる。恐れず、自信持ってやれる。「世界からも、国からも、反対されても堂々とやれ」と押しのけていく。これが統一教会の責任者、文先生である。だからあんたたちは、メシヤのための国、メシヤのための教会、メシヤのための家庭、メシヤのための自分、そうなればサタンは永遠に解放される。自分個人、家庭、氏族、民族、国家がサタンより解放されたそういう圏内を眺めて侍るような、勝利的な自分を成した思いがする。

 我は神、天国と直通する。最短距離を我々は行く。それは空想ではありません。そうなると、統一教会は心情的理想社会に行く。自分なりに原理の家庭を持っている。氏族、日本の民族である。こういうような国家基準において我々は、命令的に脅迫してやれと言わなくても、これが分かった場合には心が先に飛んでいく。心が飛んでいく。その力がどれくらいかというと、今までの心とは違う。体が来なければ引っ張ってでもいく。


素晴らしい所・統一教会

 統一教会がある段階にまで行くと、どういう現象が起こるかというと、女の子がかごを下げて、市場に行くと言いながら、教会に行く。こういう現象が起こる。それは何を意味するかというと、体を自由自在に支配して、人間が引かれる目的の所に導く力を持っていることを証明する。

 時に自分は口をこう閉じていても、何か知らないんだけれども口を開けて話をする。自分では願わないのに話をするんだよ。その話を聞くと、「こうこうしてはいけませんよ」と、ちゃーんと自分の困った問題の、解決の目を出してくれる。それが違うんだよ。だから統一教会に入ったら、そこで電気装置をして、麻薬を吹きかけて、催眠術で何回か回し、方向転換しちゃったとか、いろいろなうわさがあった。文先生が何か魔術師みたいにね。

 牢屋に入った時も、五人くらい番兵が回ってきた。「あの男はどんなことをやるか分からない」と。あんたたちはそうじゃないよ。春が来て暑くなってくれば、冬に着たものを脱いで軽いものに着替えるんだね。夏になったらそれも脱げと言われなくても脱ぐんだね。命令しなくても。それと同じだよ。自分の心が何の恐れもなく気がつく。それで統一教会で原理の味が分かるようになり、「ははあー、これが人間の味のようだ」と分かると、それから自分の父母の所へ行ったら窒息する。いくら立派な別荘みたいな所に住んでいても心が疲れてね。そういう所だよ。

 食べ物は耳パンでも何でもいい。それがおいしくてたまらない。寝る時は布団なんてどうでもいい。シラミはいないんだけれども、四寸くらいのシラミがはい回ってもいい。そこがいいというんだね。見てごらん。統一教会は、外的に見ても何もないや。しかしここの味を知った場合は、東大生でも何でも、のこのこやって来なければならないようになっているんだよ。あんたたちの父母が、「何としても教会だけは行ってはいけません」と、いくら頼んでも、いくら親が言っても、足がのこのこ出ていくんだね。そういうようになっているんだね。

 この世の中から見たら気違いだ。しかし我々の線上から見れば、向こう側が気違いである。角が二つある。最も分かるものであって、最も分からないものだよ。詳細に深く分析して味が分かるようなものであって、味覚は敏感であって鈍感ではないというんだね。数千年前にあったその問題が、心情世界において公式的にあるんだよ。先生はそれを実験している。科学的に実験している。間違いない。だから誰が反対しても恐れずに、命懸けで、天下すべてが反対しても、堂々と今までこの基盤をつくってきている。もしも不完全な道なら、先生はもうふろしきを包んで帰っているよ。しかしほかに行く道がないからずーっとこうやっているんだよ。

 先生は一番大きい帽子を二、三回かぶったが、大きいものでも合わなかったよ。頭が大きいんだよ。脳みそから見ても違う。たくさん入っている。それは何を意味するかというと、考えることが複雑だということだ。考えるにも、自分の損害になるか利益になるかを探り、考えた結果、これが良いといって結論を出す。考え尽くして発見して結論づけるそんな男とは違う。そういうことをした男がここにいる。命懸けだよ。生命を爆弾のように使って、飛んでいって死のうとする。いまだ死のうとして爆発はしたんだけれども、爆発の力以上の力がどこからかたくさん出てくるんだよ。実におもしろい。実に素晴らしいから先生は刺激的である。

 あんたたち、刺激を感じるの? 刺激を感じないなら、改めて無限なる刺激を……。だから疲れない。先生はきのう何時間も寝てないよ。一日中話をしても、先生が刺激的に話せば、あんたたちも自分を忘れて相対的立場に立たなければならない。

 今、何時間くらいたった? もう六時間過ぎたね。六時間は、東京からジャンボ機に乗ってハワイに着く時間だ。先生は今、十年続けて話をしようかと思っているんだよ。(笑い) それほど話があるんだよ。だから先生は説教の準備をして壇上に立ったことがない。立てば話す。話せば言葉が出るようになっている。実に録音装置よりも立体的に交差している。だから統一教会は素晴らしい所である。まあそろそろ終わりましょう。

 あんたたち、メシヤが必要なの?(はい)。どのくらい必要なんだろう? 君たちの目玉くらい? 目玉一つくらい必要なの、それ以上に必要なの?(それ以上です)。目玉一つ取ってもこの道を行ける?(はい)。メシヤを紹介するには目玉一つやってもいい?(はい)。本当か?(はい)。目玉一つ何億円するや。そうしたらこれだけの人がいたら統一教会は財閥の一つだよ。(笑い) そう思うよ。そう思うんだよ。手一つはどのくらいするだろうか、何億円するだろうか?「メシヤをもし紹介してもらえるならば、手を一つあげてもいい」。これは金持ちだよ。分かったの? だから神様をもってして価値を見るだけではありません。あんたたちその価値が分かれば、すべてのものを犠牲にしても、その一つだけで満足する。人間の欲から考えてみれば全部もっても満足しないように考えるが、永遠に絶対なる一つのものを得れば何もいりません。あんたたちはそういう欲を持っている?


最高のものを占領しよう

 あんたたちは久保木会長より偉くなりたくないの?(なりたいです)。なりたくない者は死んでしまえ。だから久保木会長の頭に乗っかって行きなさい。先生より偉くなりたくないの?(なりたいです)。先生の上に乗っかってやれ。事故なしに上がれ。副作用なしに上がりなさい。もし、いけないと言う者は独裁主義者である。分かったの?

 絶対の神は、最上の神の愛を持った人。神は誰のためにあるや? 神のためにあるや、その論法が成立するの? 神様も相対者のために愛を持つのであって、自分自身のために持つのではありません。愛の裏づけから見ればそうだよ。そうだったら、その愛は誰が占領するや? それは決まり切ったことだよ。神様の奥さんでなければ。奥さんがいることを聞いたの? それはそうでない。話も聞いたこともない。しかし、神様の子供がいることを知ったんだね。人間から研究された最高の位置、もしも人間として神様絶対ならば、神様が愛の主体ならば、その主体の前に相対者の絶対的位置を求めるものは何かというと、神様の子供以外にありません。

 もしも神様が一人でおった場合、孤独だろうか、うれしいだろうか? 人が一人もいない所で目玉をキョロキョロさせながら、このようにすると、これは気違いである。だから神様も仕方がない。なぜ創造したか? 相対が欲しい。相対を得て何をするか? 共に愛したいから、相対者としてつくった。愛をどういうふうにして? 神様は人間と相対的関係を持ったならば、どういう立場で関係するか? 神様はしかたなしに最高の愛の基準を願っている。その人は誰か? 奥さんがいなければ子供になるんだね。だから人間を子供の基準になるくらいに、神は愛さなければならない理論的結論がちゃんと出てくる。

 神様の子供になった場合どうなるの? 真心込めて愛される子供になった場合には、父親のものは子供のものに絶対ならないという法則あるの?(ないです)。そりゃ気持ち悪くなるよ。幼稚園にも行かない二歳くらいの子供が友達と遊ぶ時、「私の家はここですよ。ここですよ」。ここと言うのは大きい邸宅であり、その邸宅は何億円以上もの金で造ったのに、その子供は何も知らずに「ここですよ、ここですよ」と言っている。気持ち悪いね。何がここや、ここや。通りすがりの人が聞いたならば気持ち悪くなると思う。しかし、そう言うことによって、ははあ、この子の家はここなんだとすぐ分かるね。

 そうかといって父親が一生涯身を粉にして造った邸宅を、何も知らずして「ここですよ、ここですよ」と言っている息子を見て、気持ち悪く思う者いる? 小さい子が、言えば言うほど素晴らしいよ。そうだろう? だから家は誰のものか? 神のものだろう。宇宙は誰のものだ? 子供のものだ。宇宙を自分のものにしたがらない者は人間のうちに入らない者である。だから、宇宙を占領したくない欲のない者がいるの?

 そういう者は人間の部類に入らない。宇宙を占領したいという欲望を持っていない者いるの? 女の子たちはそういう欲望を持っていないだろう。持っていない者は人間の部類に属さない。これは猿だ。

 だから最高である、完全に最高のものを得て、すべてに愛される立場になった場合には、人間の欲望の定着地はどこかというと、それは無限であり、無限なる神の愛に占領されて愛された場合には、完全飽和状態である。


愛の極致

 愛の極致。それは何であるかというと、神の愛である。そういうふうにつないで、神の愛に抱かれて、他人を自分の子供みたいに、自分の兄弟みたいに思い、幼児は自分の家族の一員と思うような、そういう素晴らしい男でなければ、神の子供になれない。神というお方の子供になるためには、日本的な子供であってはならない。過去の聖人ぐらいじゃいけない。過去、現在、未来を通して永遠に、絶対的なタイプの、そういう男として立たなければ神の子になれない。だから「聖人たちの愛せなかった分野を我は今愛する」。先生はこういうふうに思っている。

 アメリカへ行って、アメリカ人たちは東洋人を愛せなかった。私は愛するんだ。日本人と韓国人は、今から五十年前は命懸けで戦った。先生も日本の兵隊と戦った男だよ。日本の官憲によって拷問された。それは許されない。怨讐心を持った男である。それはみんな敵である。日本人を解放直後において、怨讐心を抱いて敵討ちするいいチャンスが来たんだが、先生はそういうことしなかった。「これには因縁があるからこういうふうになったし、何かの義理があるからそうなっておるんだから、あんたは時が迫っておるから帰らなければならない」。そうして荷物を包んで帰してやった男なんだよ。

 日本の国民を将来救うために、船に乗せて西川さんを何回も送った。一回失敗したなら、二回、三回と追い返し、「死んでも帰って来るな」と、命令した男である。そこまで日本を愛せるか?

 日本人ならば、日本人の誰よりも日本人を愛する。だから日本の将来はこうなるだろうと心配し、中国に対しても、蒋介石はこうなるだろうと心配してきた。アメリカもこうなるだろうと心配し、ドイツもこうなるだろうと心配してきた。そこが違うんだね。韓国に生まれたからといって、韓国人だけを愛するような男ではないよ。

 日本人も先生の力がいる。だから日本人でさえも、先生を神のように愛する基準にまで引き上げなければならないというのが、先生の使命である。だから神様が日本の父母として愛するその基準以上の立場に立たない愛では、その国の家族になれません。それ以上である。

 極は極に通じる。そういうような活動を我々はしなければならない。だから、メシヤは絶対に必要である。特に日本の国を中心として、世界万民を迎えることのできる足場を日本民族が団結して、他のいかなる国より先につくった場合には、天国においてたたえられる日が来るだろう。こういうふうになっている。

 だからいかにしても悪主権を脱皮して、善なる天の血統を我々は残さなければならない。女の子たち、顔が問題じゃありません。復帰の路程において、女は顔が問題じゃありません。顔はどうでもいい。神様が愛する以上は、愛というものは、美しいものを愛するばかりが愛じゃない。女たちは、奥さんたちは考えなければなりません。

 父母に愛されて育てられた子供であり、女であり、男である。父母が授ける時には、自分より以上の愛を願って授けたに違いない。だから結婚した夫婦は、自分の元の位置に帰りたいというようにしてはいけない。「行けと言われても行きたくない。行きたくない」と言うような女として、愛さなければならない。

 男はどうか? 男に対しても自分の父母が愛してくれた愛より以上に愛さなければいけない。それが結婚というものの最高基準である。だから妻は夫に対して、父よりも愛さなければならない。兄弟よりも愛さなければならない。

 我々は、国に登録しなければならない。新しく入籍しなければならない。これは日本の国を打ち砕いてしまうという話ではありません。日本の国を率いて神の国に登録した場合には、日本の国が世界で最初に登録した場合には、日本の国が指導国家になる。そういう国になりたい? そういう国をつくりたい?(はい)。

 こういうことを思って、自分から始めるのです。メシヤが国を復帰したとしても、結局は自分一人を救うために、メシヤは自分を国よりも愛し、民族よりも愛し、氏族よりも愛してきた。自分一人を救って、国家的価値までたどって相対的足場をつくるために神も今まで努力してきた。それが永遠に残る基台である。ある国家を探して自分たちを解放する。それがはっきり分からなければならない。

 メシヤは真の父母であるし、我々は真の子供である。同じ運命圏に立って、そこまで行かなければならない。だから日本を中心として世界各国に負けないように、先頭を切って先生が後押しをしてあげるので、どうか先頭を疾走するように努力してください。祈りましょう。


祈祷

 天のお父様。きょうは四月二十三日、四番目に迎える聖日でございます。遠い遠い旅の道を、この日本において落ち合うことができましたことに感謝申し上げます。今、日本にいる若き統一勇士たちに、神様、どうぞ希望を持ってくださることをお願い申し上げます。ここに誓って立つ者がいたならば、天国を建設する勇士として立つに違いない者であると思います。きょう「メシヤと我々」という題目を中心として語りました。

 メシヤがこの地点にまで来るには、数千年の歴史の重荷を背負って、たどってきたということを思います時、数多くの怨讐を迎えて戦いながら、携え持つ荷物を一つも落とさず、抱えて勝利圏まで来たという、我々は感謝して主を迎えなければならないということをはっきり分かりました。悪の主管圏世界において、善なる主管圏の神の世界を建設しなければならないという、重大使命が弱き我々の双肩にかかっているということを思います時、鞭打ちましても、最後の勝利の終着点まで押しかけていくように励ましてくださることを、切にお願い申し上げます。

 アジアにおきまして、日本が占めている立場を思います時、重大な立場と使命を天の前に抱えているということをこの民族は分かっておりません。我々はそれを覚醒させて、神の願うように努力しなければならない若き者の使命が残っていることを、今はっきりと分かりました。朝に夜に、誓いを立てて、その目的に向かって前進に前進を重ねていかねばならない覚悟を新たにいたしましたから、どうぞ神様、ご安心くださることを切にお願い申し上げます。

 明日の勝利者として、きょうの決意を固めるこの時間になるように、祝福してくださることを切にお願い申し上げます。

 今後のすべての時間も神のみ意にかなうように導いてくださることを切に願い、今この時間を世界各国に広がっている統一教会の食口たちが日本に向けて祈っていると思います。韓国の地においても、この日本のために祈っていると思います。されば、心を尽くして祈るすべての人々の上に神のみ恵みをおとどめするように、祝福してくださることを切にお願い申し上げます。

 そうして我々は、心情一致した兄弟として、すべての国家を超越して、民族感情を超越して、色が問題ではありません。種族が問題ではありません。文化が問題ではありません。神の心情を中心として、神を先頭としてみんなが一つとなって、神の願われる目的完成に連なるように高めてくださいますことを切にお願い申し上げます。

 すべてを神のみ意に任せましたから、あなたの勝利圏に残るように導いてくださることを切にお願いしつつ、すべての祈りを真の父母のみ名を通して、あなたのみ前にお捧げいたします。(アーメン)。












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