み旨にかなった子女指導
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第二章 子女と父母の愛

 第一節 息子・娘に対する解説

 一 世の中で一番貴い存在

 今日、青少年問題が世界的な問題になっています。倫理観を中心として問題になっているのですが、それがなぜ世の中でさかんに展開しているのでしょうか? 真なる父母の愛に陶酔できる立場、また、互いに会わなければ耐えられないという兄弟の愛に陶酔できる立場に立ったなら、そのようになるでしょうか? (そのような立場に立って)問題が起こるなら起これと願ってごらんなさい、(問題が)起こるか起こらないか? こういった根本的な貴い価値の基準に接近できないので、言い換えれば、相対的価値を捜しても見つからないからそうなるのです。それゆえ、人の世において一番貴いのは子女です。その次に夫婦です。その次に父母です。

 人の世が悲しみだというのを考えてみれば、それは簡単な問題なのです。物的条件と情的条件以外にはありません。捜してみろというのです。物的条件、その次に情緒的条件以外にはありません。「ああ、私は心が傷ついて生きていけない。ああ、私は貧しくて生きていけない」ということを言えば、それは悲しみの条件に引っかかるのです。私たちもそうです。ある目的を見つめて生活するのは全部皆ここに引っかかるのです。物的条件を中心としては、私たちは生命以上の愛を実践できないのです。それは流動的なのです。人を中心として愛することのできる最後の位置は子女の位置、夫婦の位置、父母の位置以上がないのです。

 それでは父母の心には、愛する人としてだれが先にいなければなりませんか? だれが先にいなければなりませんか? 母親を中心として見るとき、子どもが先にいなければなりませんか、夫が先にいなければなりませんか? 世の中ではどうなっていますか? 愛する母親がいれば、その母親の心の中に先にいなければならない人はだれでしょうか? 子どもですか、だれですか? 夫ですか? これが問題になるのです。これをなぜ尋ねてみるのかというと、私が尋ねてみてから、それから話そうと思うのです。

 子どもですか、夫ですか? 答えてください。(子どもです)。はっきり答えなさい。このおばさんたちは子どもだと考えるかもしれませんね。そういう人は夫にぞんざいにあしらわれ虐待され、さげすまされる人でしょう。だれが先ですか? 子どもを愛するように夫を愛すべきか、夫を愛するように子どもを愛すべきか? 皆さん、これをすべて決定して越えていかなければならないのです。答えてごらんなさい。分からないでしょう? 子どもを愛するように夫を愛すべきでしょうか、夫を愛するように子どもを愛すべきでしょうか? おばさんたち、一度答えてごらんなさい。それでは子どもが死ねばいいですか、夫が死ねばいいですか?(笑い) 答えてごらんなさい。そうなれば夫が死ぬほうがましでしょう? (笑い)

 子どもを中心として見るとき、私が子どもになっていればその上には父母がいます。そうなるのです。そうではありませんか? 私を中心にして話せば父子関係であり夫婦関係ですが、上を考えればだれがいますか? 父母がいます、父母が。こうなるのです。それでは夫婦が先でしょうか、父母が先でしょうか? (父母が先です)。子どもは後です。父母以後です。それでは、父母が先ならどのくらい先でしょうか? 情緒的な起源においては最初の出発です。父母が先です。父母がいて、子どもを産んで育てるようになれば、その次に相対が生まれるのです。

 それゆえ、子どもを持つ母親は夫と子どものうちでだれを死の場に送るかと問えば、その母親が本当に子どもを愛していれば、夫を死の場にやるならやっても子どもはそうしないと答えるのです。夫たちが聞けば寂しいかもしれませんね。今の世の中だったら「どうして子どもなんだ。死んだらまた産めばいいじゃないか?」と言いますが、それは付加条件であり、原則を正して突き詰め、順序がどうなっているのかと言えば、夫婦というのは一番最後に生まれるのです。そうですか、そうではないですか? 愛の歴史がそうだというのです。愛の歴史が。(一九七一・九・一九、前本部教会)


 二 父母の相対的絶対者

 人の世において愛は何から生まれたのかという問題について見るとき、「私たち人類の始祖アダムとエバは夫婦ではないか? それなら夫婦から愛が出発したはずだ」、このように言うのです。人の世においてはそう言えますが、人間と人間理想との関係においてはどうなるでしょうか? それは父子の関係以外にはありえないというのです。そうではないですか? 愛を捜して突き詰めていくと父子の関係のほかにはありません。それゆえ、愛はどこからですか? 両親から始まるのです。

 神様は私たち人間を創造されました。創造する場合には遊び半分で創造したのではありません。どういうものとして? 理想的絶対者の前に相対的絶対者、これは難しい言葉です。相対的絶対者として愛せる人、愛を中心として父母の前に相対的な絶対者として立てた存在がだれかというと子どもなのです。それは自分(父母)の生命を受けて現れるのです。

 次に神様は人間をどれほど愛したのかという問題が出てきます。神様は人間をどれほど愛したでしょうか? 神様は永遠なる生命の主体ですが、神様の生命を投入しても愛さずにはいられない、神様の生命を絶っても愛すると言えば少し語弊がありますが、神様の愛を投入しても愛さずにはいられない…。それでは神様が子どものために死ななければならない場におかれたら、どうしなければなりませんか? 絶対者があっけなく滅びてもいいですか? その場を通り過ぎるでしょうか、その場で耐えていくでしょうか? 答えてごらんなさい。どうすべきでしょうか? 愛の主体である絶対的な神様が絶対的な息子を見つけたのに、その息子のために死ぬような立場になったら「私は嫌いだ、私はこちらに行こう」と言いますか、死の場に身代わりとして行きますか? (死の場に身代わりとして行きます)。それは何を見てですか? 私たち人間を見てです。人間の愛は神様から出てくるのです。神様が私たち人間のために死ぬというのです。そこまでいくというのです。それゆえ、私たちは神様をどれほど愛さなければならないでしょうか? 自分の体以上に愛さなければなりません。(一九七一・九・一九、前本部教会)

 育つ子どもたちは神様です。生きた神様です。彼らは生きておられる神様の愛を父親と母親を通して連結しようとするのです。それゆえ、皆さんがその仕事ができないなら、真の愛を連結する力がないのです。

 先生もそんなときがあります。お母様に私が師匠の立場で説明をして忠告と勧告をしてあげるのです。そんなときは言葉も違います。しかし、子どもたちが帰ってくれば本然の状態に戻らなければなりません。一点の曇りもなくすっきりと。その子どもたちにご父母様がけんかをするという意識を与えてはいけません。それゆえ、幼い子どもたちはいつもけんかをしますが、分別がつくようになれば、けんかをしないでご父母様の伝統を引き継がなくてはならないことを自分から悟るようになるというのです。(一九八五・七・二〇、ベルベディア修練所)

 愛の神様が人間という傑作品をつくったのに、もう一度つくろうと言って放り出し、ほかの所へ行って相対を捜そうとしますか? ここにいる母親たちも知っているように、子どもたちが生まれてほんの何カ月か過ぎればにこにこ笑うでしょう? 三カ月もたてば笑い始めるというのです。そのように子どもが生まれてはじめて笑うとき、女性はご飯を食べるのも忘れてしまい、必ず夫にうれしいと宣伝するのです。そうですか、そうではないですか? 「あなた、赤ちゃんが笑ったわ」と言って喜ぶのです。そんな話は一番近い人にするのです。そうすればその宣伝を聞いた夫も喜ぶでしょうか、泣くでしょうか? (喜びます)。こうなるのです。

 神様もアダムとエバが見れば見るほどかわいかったので、どうしたでしょうか? 喜んだでしょうか、喜ばなかったでしょうか? 喜んだでしょう? もし、神様がアダムとエバを憎んだとして、彼らがそのとき木や石のようにじっとしていれば、彼らがかわいく見えるのですか? アダムとエバが気分の悪い表情をするようになっても、それはまた一層の楽しみがあるというのです。子どもを思う情というのはそうです。アダムとエバが泣きながら嫌いだと言っても、(その様子を見守る)神様は喜ぶというのです。気持ちよさそうに踊りを踊って、それでも足りずに、「よいやよいやさ」と声まで上げるのです。なぜそうでしょうか? 口でいえない素晴らしいことなのです。「うんうん」と言ってうなずけば一緒になってこっくりこっくりとうなずき、手に何かを渡せば(神様も一緒に)受け取ったりして、その様子を見ながら神様は狂ったように喜んだというのです。

 世の中のある芸術家の彫刻作品が大統領賞を受賞したと言えば、その作品をかけておいて、これが大統領賞をもらった作品だと言いながら人々が集まって騒ぐでしょう? このように石の塊を加工して作品をつくっても騒がしいのに、もし自分の作った作品が言葉を話し、自分の願いまで語るとしたら、こんな作品を前にしてどこに行けるでしょうか? これを前にしては離れられないのです。その作品にどれほど会いたくて、どれほど興味津々でしょうか?

 ここにいるおばさんたち、子どもたちを見つめてみればみるほど不思議でしょう? 不思議ですか、不思議ではないですか? 不思議に思わなければ母親の本分を果たせないのです。寝ていた赤ちゃんが目を覚まして、お乳が欲しいと言って、おぎゃあと泣きちらしたら、母親はその鳴き声を聞いて気分が悪いと言ってかけつけますか、子どもに会いたくてかけつけますか? 会いたくてかけつけるでしょう? そして子どもを抱きかかえて胸元を開き生命のホースをつき出すのです。(笑い)そうではないですか? 子どもがそれをおいしそうに吸って飲むのを見るとき、お母さんは気分がいいですか、悪いですか? いいというのです。

 私たち人間がそうなのに神様はアダムとエバを見てどうだったでしょうか? 神様は人間たちが子を育てるときにうれしく思う気持よりも、何百倍、何千倍、何万倍、何億万倍、はるかにうれしかったことでしょう。皆さんが想像できないくらい神様はアダムとエバを愛したというのです。皆さん、そのような内容が分かりますか、分かりませんか? 神様が愛するにおいて、どの程度愛したでしょうか? 神様が一度笑えば天地が皆笑うことでしょう。神様が一度踊りを踊れば天地が皆踊ることでしょう。そのように喜ぶはずでしょう? そのように喜んだからといってだれが怒りますか? 父親がそのように喜ぶのに息子が父親を見て泣きますか、一緒に喜ぶでしょう? (喜びます)。そうであるほど喜ぶようになっているので、いくら踊りを踊っても問題にならないというのです。

 このように考えるとき、神様は人間を除いては相対する対象がないという結論が出てきます。分かりますか? 人間を抜きにしては楽しい体験をしようにもできないのです。それゆえ絶対者の前において人間は相対的な絶対者だというのです。そうなるのです。


 三 子女は希望の中心

 アダムとエバ完成ということ、完成時代とは何でしょうか? 愛を中心として一つになるとき完成だというのです。その言葉を皆さんは理解できますね。アダムとエバ、二人が一つになれば、愛し合える段階に入ればこれは(板書されたものを指して語られる)全部通じるというのです。ここに行って愛してもいいし、ここに行って愛してもいいし、この二人の間にきてもいいのです。

 さあ、それでは神様が一番好きで、アダムが一番好きで、エバが一番好きになれるその点は一体どこでしょうか? この創造世界において、創造理想世界において全体的愛を中心として結実体、実のように一度に幸福になれるのは何でしょうか? 神様とアダムとエバが幸福になれて一つになるのがどこかと言えば子女だというのです。

 さて、神様の最高の目的はどこにありますか? (子女です)。アダムとエバでしょう? (違います)。何ですか? (子女です)。それはなぜ息子・娘かというのです。

 皆さん、なぜ息子・娘を愛するのでしょうか? なぜ息子・娘を愛するようになるかという問題にどう答えますか? お母さんとお父さん二人でけんかをしながらも、息子の前ではとても仲がいいのです。互いに憎らしいところがあったとしても、息子を前にしては愛し合うのです。なぜですか? 夫婦がけんかしながらも息子をなぜ愛するのかというのです。たまにけんかをすれば息子・娘を皆憎くなるはずなのに、なぜ愛するのでしょうか? お母さんとお父さんや神様の願いの中心があるからです。希望峰、希望峰だということを知らなければなりません。何の希望でしょうか? 地上天国、天上天国はここから始まるのです。それゆえ、神様と父母と子どもが幸福な場だというのです、全部が。

 だから父母は自分たちのことを忘れて子どもを愛さずにはいられないのです。夫婦二人で暮らしながら、いくら楽しく愛し合っているといっても、子どものない夫婦が幸福な夫婦ですか、子どものいる夫婦が幸福ですか? 子どものない夫婦は未完成品です。未完成夫婦なのです。そうですか、そうではないですか?(一九七七・四・一七、アメリカ)


 四 宇宙において最も大きな賞

 子どもに対しても同じです。今まで皆さんが子どものために生命を懸けて闘ったことがないからよく分からないかもしれませんが、皆さんの息子・娘は、神様が数千年の歴史を消耗しながら、数多くの先知先烈たちを犠牲にして捜し出された一つの家庭を通して、希望の光のように生まれさせた貴い息子・娘なのです。四位基台の完成という聖なる目標の帰一点を各家庭の息子・娘が持ってくるということを考えるとき、その息子・娘に対しても日がたてばたつほど心より感謝しなければならないというのです。父母がそのような心を持つようになれば、その息子・娘たちは絶対飢えて死ぬことがないのです。(一九七〇・八・一一、トンミョンジャン旅館)

 愛する夫と一生の間ともに寝て起きて、働きに働くことができる、これはどれほど幸福なことですか? そのような愛を持って生きれば、一人で生きることになっても困難なことがありません。このような愛は宇宙が侵害しません。ここにおいては宇宙が共同補助する立場にあるために、地上世界でも天上世界でもいつも保護するようになっているのです。それゆえ、この愛を中心としていく人は不幸な人ではないという結論が出るのです、現世でも後世でも。

 では、宇宙の中でこのような愛で二人が一つになって生きている人々に賞をあげなくてはなりませんが、その賞として与えたものが何でしょうか? 子女です。分かりますか? 賞の中で、この宇宙において一番大きな賞は何ですか? 大統領になることではありません。学士・博士になることや、何かノーベル賞のようなものをもらうことではありません。愛する妻と夫の間で得られる息子・娘です。それ以上大きな賞はないということを知らなければなりません。したがって、その息子・娘は何よりも貴いのです。自分よりももっと愛したいし、夫よりももっと愛したいのです。そんな力を持っているのです。(一九八三・一〇・一、世界宣教本部)


 五 子どもは愛と生命と理想の結実体

 何のために愛するのですか? (子女のためにです)。皆さんに一つだけ尋ねてみましょう。神様とアダムとエバと幼い子どもがいるのですが、神様はなぜアダムとエバよりも子女を願ったのでしょうか? そんな話を聞けば「あ、それはおかしい。相対がもっといいだろう。先生はなぜ子女と言うのか?」このようにおかしく思って尋ねる人がいると思ったのですが、訪ねてくる人がいませんね。

 さて、この形態も見てみると、これ(父母と子女)は縦的でこれ(夫婦)は横的ですが、これ(子女)がより重要だと言ったのはなぜですか? (板書しながら語られる) もう、分かりました、もう。これ(夫婦)二人が愛を通して結ばれるのですが、何のために結ばれるというのですか? (幼い子女のためにです)。ここで男性と女性が近寄れば、ここから待望の息子・娘が生まれる、またこのときは神様の所願成就になる、こうなるのです。それゆえ、神様もこれ(子女)が目的であり、アダムとエバもこれ(子女)が目的であり、皆これ(子女)が目的なのです。(一九八二・六・二〇、ベルベディア修練所)

 それでは私たちのお母さんとお父さんの例を挙げて一度話してみましょう。皆さんがお母さんお父さんを通して生まれるためには、お母さんとお父さんの愛が芽ばえなくてはなりません。互いに相対的関係が成立しなければならないのです。そしてその愛の環境で、生命の一致点で生命が連結されなければならないのです。夫と妻が互いに嫌いだというのではなく、互いが理想的でなければなりません。

 こうして夫婦が愛を結び一つになってはじめて、夫婦の愛が成されるのです。夫の愛は私の愛であり、夫の生命は私の生命であり、夫の理想は私の理想になるのです。反対に妻の愛、生命、理想も同じです。そのように一つになった場で生まれるのが、そこで発生するのが、そのような統一的な場で生まれるのが子女だというのです。

 それゆえ、その子女は母親と父親の愛の実現体であり、投入体です。母親と父親の生命の延長体です。また、母親と父親の理想の具現体です。皆さんの中で子女を生んで愛したことのある人たちは分かるでしょう。その愛する息子を見て「これは私の愛の実体であり、生命の延長体であり、理想の具現体だ。第二の私だ」と言うのです。

 出発から愛と生命と理想的基盤から生まれるので、父母はその子女を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相対に思えるのです。( ? )

 では、私たちはなぜ神様の愛を必要とするのでしょうか? 神様と私とは神様を中心とした父子関係、すなわち父親と息子の関係にあります。私たちは神様の息子の位置に進まなければなりません。父子の心情が必要です。父子関係の位置は宇宙において最高の秘密の位置です。最高の秘密の位置です。父母の愛が連結されうる最初の出発の基地が子女です。父母の生命が初めて連結されるのが子女です。すなわち、父母の理想が最初の出発の実を結んで出てきたものが子女なのです。

 したがって、子女は愛と生命と理想の結実体であり、父母と直結される第二の対象体だというのです。父子関係のほかには夫婦でもだめだし、兄弟でもだめだし、いかなる友人でもだめなのです。宇宙にはこれ一つしかありません。このように見ると、縦的に一番の骨髄、一番の核心的内容をズバリ暴いて引っぱり出したのが神様と私たち、父子関係だということです。これは驚くべきことです。それがもし実践される日には、宇宙には問題がありません。宇宙には問題がないのです。それを知れというのです。(一九七三・一一・一二、中央修練院)


 六 子女は父母の喜びの対象

 本来私たちの人間始祖は神様を中心として、神様の心情と愛を中心として、神様と完全に一つとならなければなりませんでした。また神様は心情の目的を完結させるために天地を創造されたので、この心情の対象である天地万物を、愛する息子・娘に愛を中心として相続してあげなければなりません。神様が天地万物を創造されたのは神様のためにではなくアダムとエバのためであったので、喜びもまた神様自身によって生じるのではなく、アダムとエバによって生じるのです。皆さん、世の中の父母たちも子どもを見て喜ぶではありませんか? 喜びというのは対象によって生じるのです。(一九六五・一〇・一七、前本部教会)

 神様が一番喜ぶ時というのはいつでしょうか? 考えてみなさい。今日この世界を復帰して、復帰完成する時が一番うれしいことでしょう。ここにいる未婚の人たち、結婚して子どもを生んだことのない人たちには分からないですが、父母になった人にはそれがはっきりと分かるのです。たいてい、父母たちは最初の子どもを持つと、すべての精誠を尽くして愛するようになるのです。子どもを抱いている喜びというのは、父母になるまでは分からないというのです。それではその父母たちは子どもを自慢したいですか、したくないですか?

 さあ、このように見るとき、この宇宙の中で一番貴いものは何でしょうか? 言い換えれば、アダムとエバや神様にとって何が一番貴いものでしょうか? (子女たちです)。うーん、そうだというのです。アダムとエバ夫婦にとって一番貴いものは何かと言えば、お金でもなく、他の何ものでもないのです。息子・娘です。愛する息子・娘だというのです。(一九七七・四・一七、アメリカ)

 今日、堕落した人間世界の母親と父親たちを見ると、「子どもを愛する親は何とかだ」という話もありますが、見た目には、瓦の屋根につるをはわせたかぼちゃのような子どもを背負って座り、よしよしとあやしながら、「こんな顔立ちだから、かえって親しみがあるんだ」と自慢をするというのです。しかし少しも不自然ではありません。ここにいる子どもを持った父母たちもよく分かるはずです。顔はそれこそ鷲と格闘して引っ掻かれたような面構えをした父母であり、息子は父母よりもっとひどい顔をしているにもかかわらず、父母は子を抱きかかえて「おおよしよし、私の愛しい子」と言うのです。

 皆さん、世の中で言えば、貴いものの中でも一番貴いものは何ですか? 世の中で見れば、神様はいるのかいないのか分からないので除いておくとして、世の中で一番貴いものは何ですか? 一番貴いものが何なのか捜してみなさい。(子女です)。子女。その次は? 自分の新郎、自分の新婦でしょう。相対ではないですか? その次は何ですか? 父母。それ以上貴いものはないのです。それを貴く思えない人は、世の中の万事がすべて煩わしいのです。(一九七一・九・一九、前本部教会)


 七 子女は父母の愛の同参者

 人間にとって一番貴いものは愛ですが、果たしてその愛が変わっていいものでしょうか? 変わることはできないのです。永遠であり、絶対的であり、不変でなければなりません。そのような観点で見るとき、どうして父母は子女を愛さずにはいられないのでしょうか? それは愛さずにはいられないのです。自分の生命が共同体として生命を公認できる位置まで行かなければなりません。なぜでしょうか? 考えてみなさい。私たちの息子・娘は父母の愛の同参者だということを知らなければなりません。何の話か分かりますか? 息子・娘はどこから出発するでしょうか? 父母の愛から出発するのです。それゆえに、この存在世界で息子・娘たちは父母の愛が一つになる、そこに同参して存在し始めるのです。分かりますか、何の話か?

 「私」の出発はどこか、「私」はどこから生まれたのかと言うとき、「私」は父母の愛が最高に美しく花咲くところから生まれたというのです。花が咲くときには美しく咲き、美しく咲くだけでなく香りが漂い、その香りは父母も喜び神様も喜び万宇宙も喜ぶ理想的な花として咲くことのできる、そんな中で私が生まれたというのです。

 それゆえ、宇宙を総合した男性・女性として生まれたその父母が愛の花を咲かせるそういう場で、父母の喜びの場で一つの種として蒔かれたのがだれでしたか? 子女なのです。いくら年老いたおじいさんでも、その父母の、宇宙を代表した父母の愛の花が咲く香りの中に蒔かれた生命力だというのです。それは偉大ですか、偉大ではないですか? (偉大です)。そのような生命の花の中で一つの宇宙の結実として、愛の結実として蒔かれるその場面は、宇宙全体が厳粛に見守っているところではないか、このような論理が成立するのです。

 それはどういうことかと言うと、神様の愛があればその愛に同参できる場から出発したのが人生だというのです。また、父母の愛があれば父母の愛、夫婦の愛があれば夫婦の愛の最高の同参者の権威を持って生まれたというのです。それゆえ、共通した内容の因縁を持った、不変と統一的な内容の属性を持った愛を中心として出発した人間として蒔かれたのです。それゆえに、父母と子女の因縁は切っても切れないというのです。切れますか? 「私」の愛と「私」の生命の主体性を持った存在が子女ですから、これを切れば「私」を否定し「私」の生命を否定する位置に立つことになるので、愛の結実を否定できないというのです。それだから父母は子女のために生命を捨てることができるという論理を見いだすことができるのです。それが理解できますか? (はい)。(一九七六・二・八、前本部教会)

 皆さんには子女が生まれます。それはどういうことでしょうか? 私たち人間は神様の息子・娘です。息子・娘は父母の愛によって生まれたのです。それが愛です。そうですね? したがって、皆さんに生命の価値があるというのはなぜでしょうか? 父母の愛に同参した立場にあるからです。だから価値があるというのです。価値がそこにあるのです。同参者、愛の同参者です。分かりますか? 皆さんの生命というものは父母の同参者だというのです。それを皆さんの力で切れますか? (切れません)。それゆえ、父母の愛圏内の生命を持った誇らしい存在が息子・娘だということを知らなければならないのです。(一九七九・九・二三、ベルベディア修練所)

 子どもというのはどういうものかと言うと、この宇宙公約の接着剤である愛に同参できる権限があるというのです。「お父さんとお母さんの愛を私はすべて知っています」というのです。お父さんの愛の根源に私がいて、お母さんの愛の根源に私がいるので、私の行く道にお母さんとお父さんを引っ張ってくる権限があるのです。そうでしょう? それが息子・娘です。皆さん、そうですか? それゆえ、娘がどうにかなればお母さんとお父さんは「どこへ行ったのか?」と心配し、息子がどこかに行っても「どこへ行ったのやら?」と気をもむのです。なぜでしょうか? このような天理原則の接着剤があるので、その権限はなくならないのです。大きくなる一方です。これを断ち切る者はいないのです。(一九七六・二・八、前本部教会)























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