み旨にかなった子女指導
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 第三節 宇宙の根本―父子関係

 一 宇宙の根本は父子の関係

 天地の中心と宇宙の根本は何ですか? 先生が神秘的な境地に入って神様に祈祷してみたところ、父親と息子・娘の関係、すなわち父子の関係だとおっしゃいました。知らない人々は肉親の父親、母親、息子・娘との関係だと思うでしょうが、神様と人間との関係を言うのです。(一九六八・一・一、前本部教会)

 それで先生が祈祷する中で深い境地に入って身もだえしながら闘い、宇宙の秘密、宇宙の神秘のすべての根本を知りました。宇宙の根本は何ですか? 簡単です。父子の関係であるという答えが出てきたのです。それでは、父子の関係とは何かというのです。それは愛を抜きにしては説明できません。何を? 父子の関係において愛を抜きにして説明してはいけないのです。愛を抜きにしては説明できないというのです。普通の人は世の中の父子関係のように思うでしょうが、先生はそのように考えずにそれを解明してみたところ、この答えがすべて出てきたのです。理論的に。(一九八六・四・二五、水原教会)

 皆さんが神秘的な境地に入って祈るとき、人間は被造世界の中心ですが、この宇宙の中心は何かと尋ねれば父子の関係だという答えが得られます。宇宙の中心は何か? 一言でずばりと結論付けて、父子の関係だというのです。

 これを普通の人は自分を産んでくれた母親と父親のことだと思っています。父子の関係というものを普通考えるときの自分の母親と父親、すなわち人倫道徳を中心とした父子の因縁をいうものと思っているのです。そうではありません。それを立体的な立場で見ると、神様と人間が父子関係の情を中心として一つになっている、その位置が宇宙の中心だという結論が出てくるのです。(一九七一・九・一九、前本部教会)

 宇宙の根本は何ですか? 父母と子どもです。父母と私、父子の関係が宇宙の根本です。神様は父親であり、「私」は息子だというのです。息子・娘です。最後の根本が父子の関係であり、最高の目標もそれです。したがって、私たちはそれを捜し出していかなければなりません。

 先生はこれを捜し出そうと、苦難の道もいとわずに歩んできました。サタンの試練に遭っても一瞬に退けることができるのは父子の関係です。サタン世界に入って眠ったとしても忘れてはいけないことは父子の関係です。そういうものを失ってしまったために、無念で悔しいのだという事実を皆さんは知らなければなりません。(一九六三・五・二二、前本部教会)

 皆さんは霊界を知りませんが、神秘なる境地に入って天の前に談判をしなければなりません。「この宇宙の真理は何ですか? 神様が、人類をつくってはまた滅ぼすというみ旨で人類をつくったのなら、あなたは暴悪な神様であり残忍な神様です」こう言うときに答えが違ってくるのです。

 宇宙の真理は、天理の大道の原則は何かと言うと、父子の関係なのです。その父子の関係は、今日堕落した世界で自分を産んでくれた母親と父親との関係ではありません。横的な夫婦の愛が神様の理想的愛として完全に花咲き、その愛の香りが全天地を振動させると同時に、神様の愛が加わって父と息子・娘の位置が完成されるのです。

 息子・娘の幸福を謳い、息子・娘の希望と息子・娘の万事を讃揚することができ、愛を謳うことができるのです。それだけで終わるのではなく、皆さんが持っているその愛の貴い贈り物の上に立体的愛を加えて、この宇宙がプワーンと膨らむようになることでしょう。ゴム風船を知っていますね? ぺちゃんこにくっついているゴム風船を「プー」と吹けば大きくなるように、宇宙が膨らんで存在世界の万物がその中に入ったとしても万民が笑える宇宙になります。すべてを充満させうる愛の力として登場するのです。考えてみれば気分がいいでしょう?(一九七八・一〇・二八、大邱教会)


 二 本然の父子関係の基準

 この世の中で推測してみるとき、もし神様が父母の位置にあったなら…。人情と天情が連結されうる最高の位置はどのような位置でしょうか? いくら私たちが求めて上がっていってみても、神様は父母なので人間は子女の位置を追求せざるをえません。ですから、キリスト教では天に対して父と言うのです。天は、私たち人間に対して子女と言うのです。父子の関係を言うのです。

 その父子関係の基準はどのようなものでしょうか? 堕落線より下なのか堕落線上なのかというとき、これは堕落線上にもなりえないし堕落線の下にもなりえません。それは堕落線以上の位置なのです。

 今日、堕落した人間たちについて見てもそうではないでしょうか? これは堕落以下の父子関係の愛ですが、その父子関係の愛を考えてもすごいと私たちが言うほどですから、堕落していない位置にいる父母が親不孝な子どもを迎えたなら、その父母はどれほど胸が詰まるでしょうか? 私たちが日常生活の周辺で父子間の愛という問題を考えてみるとき、その背後を十分に測定できるのです。

 神様はそんな堕落線以上の愛をもって子どもを愛そうとするのではないでしょうか? それでは、その愛はどれほど強かったでしょうか? 堕落線以上の位置に立った人がいないので、それが分かる人はいないという結論が出ます。

 私たち人間は原理で言えば長成期完成級で堕落しました。完成の位置を引き継ぐことのできない位置で堕落したのではないでしょうか? 神様の理想的な要素にふれることのできる位置と絶縁されているのではないでしょうか? 理想のすべての要件を私たちが自由に受け入れられる位置で堕落しなかったことを考えてみるとき、その理想に立つことのできる神様との関係というものはどれほど次元が高いでしょうか? それは私たちが想像することのできない位置ではないでしょうか?

 それでは、世の中でよく口にする孝子孝女、「だれそれの家の息子は孝子だ! だれそれの家の娘は孝女だ!」と言う、そのような孝子孝女の心を持って本然の天の父母の前に、その心情の前に立てる、真の子女の位置に立てる人がいたかと言うとき、歴史以来そういう人はいなかったということを私たちは知っているのです。

 それでは、神様が百を愛そうとするのに百の愛を受けられる人がいたでしょうか? いなかったというのです。神様が愛しているその愛を知る人はいたかと言うとき、知る人もいませんでした。それを知る人はいませんでしたが愛さずにいられない神様だというのですから、その方は悲惨なお方ではないかということを私たちは知らなければなりません。(一九七二・九・一〇、前本部教会)


 三 父子関係の本質

 父子関係は縦的な面を代表します。それゆえ、父子関係の愛は変わりません。私たち人間の歴史上でもそうではありませんか? 夫婦の愛は横的な面の因縁なので四方性を備えたのです。だから父母が子どもを捨てられないし、子どもが父母を捨てられないというのです。(一九八六・五・二五、本部教会)

 神様の愛の発掘地はどこでしょうか? 兄弟の間で愛し合うところに神様の愛が出てくるでしょうか? 違います。男女が愛し合うその愛を中心として神様の愛が立てられるのでもありません。その神様の愛は父子関係の愛によって立てられます。血と肉が連結されなければならないのです。伝統として残し、永遠に残すためには血と肉が連結されなければなりません。縦的関係が成立しなければならないのです。

 その縦的関係は父母の愛を受けなければならないものなので、父子の関係以外にはないと見るのです。この愛には距離がありません。この縦的関係においては一つの中心が必要です。中心は一つしかありません。中心は第一の位置にあるのです。中心が二つあったら世の中には争いが起こります。(一九七〇・一・一一、前本部教会)

 子女にとって父母に対する喜びは、それこそ世界を代表した喜びとならなければならず、父母にとって子どもに対する喜びは、世界を代表した欲望を充足させることのできる喜びとならなければなりません。

 このようなことを考えてみるとき、父子の関係はまさしく宇宙の根本であらざるをえないのです。喜びの根本がそこから芽生えるでしょうし、悲しみが始まるならばそれ以上の悲しい立場はないということを、私たちはここで結論づけることができるのです。

 世界のほかの外的な問題をすべて失ったとしても、子女に対しながら、幸せに生きることのできる希望の位置というのは、父母の前においてはたった一つしかないのではないか。それだけが第一ではないか。その父子関係が世界に現れうる位置で生きたいのが父母の欲望に違いないのではないか。父母がそうならば子女もそうなのではないか。

 こういう人間関係、堕落した私たち人間を通してでもそのような関係を私たちが予想するからには、天と地、あるいは神様と私たち人間との関係も同じではないか。

 人倫がある反面、天倫があるということを知っています。人情がある反面、天情がなくてはならないはずです。天は上で地は下だと言うなら、父母は上と同じであり子女は下と同じなので、上下の関係にあるのです。それでは、この地に住む人が子女で天が父母だと言うなら、父母の心と子女の心は方向が相対的になっているのです。父母は愛そうとして子女は愛を受けようとするのです。そうでなければ、父母が愛を受けられる位置に立つか、子女が愛することのできる位置に立つかしなくてはなりません。ここで、与えようとする心と受けようとする心が切れたら愛は成立しないのです。

 もし与えようとする気持ちがあるのにこれを妨げる道が生じるときには、受けようとしても受けられないことを私たちの心情生活において、家庭においてよく体恤します。それゆえ、天は上にあり地は下にあります。父母は上にあり子女は下にあると言うなら、神様と人間の関係においてもやはり同じです。神様は父母の立場なので、私たち人間を前にしては上になるのです。それゆえ、神様は人間を愛するようになっているのです。(一九七二・九・一〇、前本部教会)

 神様と人間の関係を中心として見るとき、神様が人間の父で人間が神様の息子であるなら、人間に対して「神様より顔立ちがいい」と言えば神様は気分がいいでしょうか、悪いでしょうか? (笑い)気分が悪いようなら神様は人間ほどにも満たないというのです。堕落した人間にさえ及びません。(笑い)間違いなく神様も喜ばずにはいられませんね? だから愛というものが必要だというのです。

 皆さんは、神様より優秀になりたいですか、劣っていたいですか? 答えてみなさい。(優秀になりたいです)。(笑い)それではあまりにも失礼になるでしょう。申し訳ないと思いながらも、優秀になりたい気持ちがあるのです。

 昔、東洋では毎日朝に晩にお父さんにご機嫌伺いをしていました。ところで息子が「私が一度お父さんになってみて、お父さんが私のようになってみたらいい」と考えたらどうなりますか? 「お父さんはいつも上にいて私はいつも下にいろというのですか?」そう考えることもできるのです。そうではないですか? 上下の関係がいいことはいいけれど、いつもそうなら嫌だというのです。自分もお父さんになれる時があるなら構いませんが。いつもお父さんは上の位置、息子は下の位置では気分が悪いというのです。そんな気がしませんか? そういうこともありうるというのです。

 父子関係は格位において上下関係です。したがって息子が父親に「お父さん、位置を私に一度ください。お父さんの位置に一度行ってみたいです」と言うとき、「なんだこいつ、だめだ」と言ってはいけないというのです。神様は絶対者としてそこまで心配しなければならないのです。

 ですから、人間をどのような位置に立てておくべきかということが、神様の側からみた場合、問題にならざるをえません。そこで人間をどんな位置に立てようとしたかと言うと、格位においては上下の関係ですが、生きることにおいては前後の関係であり内外の関係として立てておこうとされたのです。このような問題を突き詰めていってはじめて、神様がどこにおられるべきかという問題の回答が出てくるのです。

 それでは、内外の関係になるためには神様はどこにおられるべきでしょうか? 神様は無形の神ですが人間とどのような位置にいるべきでしょうか? いつも上にいてはいけないということでしょう? 上にだけいてはいけないがゆえに父子の関係としていなければならないというのです。(一九七一・二・一一、麻浦教会)

 父子関係を中心として見ると、父親は上にいて息子は下にいます。すなわち上下関係です。息子が「私は父親の位置に一度上がりたいです」と言うとき、神様が「こらお前、やめろ」と言ったらそれは問題になるのです。ですから神様はそれを踏まえて上下関係のみならず同等な内外関係、心と体のような関係にまで私たちを置こうとするのです。

 最初は息子にして、次には一つになって、三番目には神様の創造の能力まで与えたいと思うのです。それで人間は神様が創造しながら喜ばれたものまでも持ちたいと思うのです。ここにいる皆さん、年を取った人やあるいは若い人たちも皆経験があるでしょうが、父母が良いものを持っていれば全部自分が持ちたいと思います。自分のものにしたいのです。こうしてみるとお父さんのものは自分のものだと言えるのです。(一九七二・二・二八、在米アンバサダー・ホテル)


 四 父子関係の変化

 父母と子どもとの間には厳然と上と下の秩序があるのですが、愛を中心として見るときには縦的秩序が横的秩序に変わるとしても無理がないのです。そうではないですか?

 お父さんが息子に命令するのが原則ですが、息子が「お父さん、こっちに来てください」と言う場合、お父さんは行かないわけにはいきません。いくら二歳の娘でも「パパ、こっちに来て」と言えば、お父さんは行かずにはいられないのです。縦的な基準が横的に変化する。食い違う位置だとしても矛盾と衝突が起こるのではなく、かえって価値的な基準を讃揚することができ、かえって幸福を感じられるこの基準は、愛によってのみ成されるのです。(一九七一・一〇・三、前本部教会)

 お母さんとお父さんは子どもがすっかり大人になる時までは、子どもを育てることだけに力を注ぎます。子どもは大きくなればなるほど、父母と相対的立場に立つようになります。そうですね? それが正常です。子どもが大きくなっても「ああ、私はお母さんとお父さんの懐でお乳を飲むのが一番だ」と言ってお乳だけ飲みますか? 仕事をしなければなりません。上下関係が相対的関係に移り変わっていくのです。(一九七一・二・二八、前本部教会)

 父母が貴いのは子どものために与えるからです。そうして(立場が)入れ代わるのです。年取った父母は全部幼子になるのです。昔は父母が子どもの先生になりましたが、年が七十、八十になったら子どもになるのです。そのときは子どもがお父さんと入れ代わります。子どもが。子どもは父母が自分を育ててくれた代わりに、その父母を愛さなければならないというのです。それが天地の道理です。(一九八五・一二・二四、本部教会)

 家庭における父母と子どもの関係も同じです。父母が間違った場合は、子どもが管理しなければならないし、子どもが間違った場合は、父母が管理して共同目的を完成しなければなりません。このような条件があるというのです。(一九八二・五・九、ベルベディア修練所)

 幼い時にはお母さんとお父さんが息子・娘を支配しますが、年を取ってくると息子・娘が母親と父親を支配します。そうですか、そうではないですか? (そうです)。それはなぜですか? 天地の道理がそうなのです。(一九八三・一・二、アメリカ)


 五 父子間の心情の因縁

 皆さんは父母によって生まれました。ですから生まれてすぐ話せる対象はだれでしょうか? 父母です、父母。そうではないですか? 「私」が生まれて一番初めに言うことができたのは何でしょうか? パパとママです。それ以上に何がありますか? 「私」が呼ぶお父さんとお母さんは昔人間が本然の立場で呼んでいたお父さんとお母さんです。おもしろいことです。皆さん、お父さんとお母さんを千回万回呼んでみてください。お父さんとお母さんの味がどんなものかを知ってみてください。その味は無窮無尽なことでしょう。お父さんとお母さんを呼ぶのに、そのお父さんとお母さんが答えないでしょうか? 呼べば答えるようになっています。なぜなら主体と対象がそのようになっているからです。

 完全な対象があれば完全な主体が現れるようになっています。これが原則なら、お父さんとお母さんと呼べば必ず答えるようになっているのです。そうなれば互いに喜ぶのです。何度繰り返して呼んでも答えがないのに喜びますか? 神様を訪ねていくにおいても同じです。幼い子どもがお父さんとお母さんと過ごすのと同じ立場で神様とともに生きなければなりません。(一九七〇・二・二六、統一産業寄宿舎講堂)

 皆さんが家庭について考えるとき、家が良くその周りの環境が良いからといって良いわけではありません。反対にいくら環境が悪く家がみすぼらしかったとしても、それを安息所として、そこに自分の事情と生涯と生活のすべての基準を因縁づけようとする家庭は良い家庭です。そこには父母と子どもの間で、互いに尽くしてあげる心情があります。これが思い出の本郷でありすべての生活の動機となるために、私たちの生活で幸福を左右する基礎になるのです。

 それはなぜでしょうか? 父母と子どもの間の、他のだれも侵すことのできないたった一つの愛の因縁と、父母と子どもの間のたった一回しかない血統的な愛の因縁があるからです。そこでは父母と兄弟の愛が動機になっているため、私たちの生活において慕わしさの対象として連結されるのです。(一九七〇・二・一五、前本部教会)

 父母と子どもの間の心情の因縁というものは歴史が変遷していくからといって、あるいは歳月が過ぎて年限が長くなるからといって薄くなるものではありません。歴史が長くなればなるほど、時がたてばたつほど薄くなるのでなく、情が厚くなるのです。結集されるのです。

 万一、父母と子どもが離れているときに、息子のいる所から父母に便りが来るとか、あるいは父母が息子に便りをするなら、その便りは今までのすべての願いを充足できる刺激として登場するのです。その便りが第二の出発の要因として現れうるのです。(一九七一・一一・一、南山聖地)


 六 父子一身の宿命的関係

 この世の中にいくら父母がたくさんいるといっても、「私」の父母は絶対的に歴史時代において私と関係している一人の人だというのです。これは紛れもない事実です。それは世界人類を与えても替えることができません。替えられますか? その次に神様を与えて替えられますか? 神様を与えても替えられないし、また神様が替えろとも言えないのです。(一九七四・一一・一〇、ベルベディア修練所)

 父子の関係というのは、何を根拠としていうのですか? これは血統が連結されたものです。血統が。今日、既成教会の人々は漠然と「父なる神よ!」と言います。なぜ父というのかというのです。主人なる神と言わないでです。父というその言葉の中には愛が介在し、血統が介在しているというのです。血統が。そうではないですか? 直系の子女になるためには愛で一つの体にならなければなりません。血統で連結されなければなりません。血は生命を構成するのです。そうではないですか? 父母の伝統を受け継いだ生命をもつのです。何によって? 愛によってです。(一九八六・三・一三、大田教会)

 父子の関係はいかなるものによっても壊すことができません。原子爆弾でも壊せません。絶対に壊せない、別れられない、捨てられない関係です。(一九六八・九・九、前本部教会)

 夫婦関係は運命だと考えますが、しかし父子関係は運命ではありません。宿命です。宿命。この言葉を理解しなければなりませんが、これは…。運命が何であり宿命が何であるとただいい加減に説明したら大変なことになります。運命は変わります。変えることができます。宿命は変わりません。その父親の息子・娘として生まれたなら、何か問題があったとしても、あらゆる手を使っても変わりえません。それはただただそういうものなのです。変わりえません。

 それでは、どれがより縦的でどれがより横的ですか? 父子関係が縦的で夫婦関係は変わることがあるので横的です。したがって、夫婦第一主義を主張する輩は横的な輩であり、父子第一主義を主張する者たちは縦的な輩です。(一九八七・一〇・二五、本部教会)

 「天の愛は出発と同時に顕現するのではなく、男性・女性の愛と同様に成熟した時、思春期に入って顕現する、それが夫婦の愛だ」と言うとき、その夫婦の愛というものは(人生の)中間から始まるのです。それでは創造すると同時に出発しえた愛の絶対的価値的基準の相対型は何でしょうか? 別な言葉を借りて言えば、父親と息子の関係、父子関係です。

 それでは父子関係とはどんなものでしょうか? 愛を中心として何の関係でしょうか? 父子関係というのは何でしょうか? 父母の愛が原因ならばその子どもは愛の実だ、結実だ。こう見るのです。結実です。その結実と原因はかけ離れたところから出発したのではありません。結実と原因は一つのところから出発したのです。父母の愛が原因ですが、その愛の中から私が結実として現れたというのはどういうことでしょうか? 父母が現在愛し合う場の結果として登場したのが「私」なのです。ですから、愛と一体化した原因と結果の位置を対等に持って生まれたのが、父子の関係において子どもだというのです。こうなるのです。

 したがって、「私」とは何者でしょうか? 父母の本然的愛が出発する根源に同参した者であり、父母の愛の結実として登場した者なのです。これは原因と結果が一つのところから出発したため、切っても切れないのです。原因的な父母の愛と結果的な私の生命の愛の根源は一つだというのです。そういう意味で考えるとき、愛を中心として父子一身という言葉が成り立つのです。

 愛を抜きにしては一身という言葉、一体という言葉がありえません。愛が原因です。「私」は腹中にいる時から父母の愛を受けます。「私」が愛の本質によって腹中に懐妊されたその時から、父母の愛とすべての関心が集中するようになっています。なぜでしょうか? 愛の結実だからです。ですから愛によって生まれ、愛で生命の因縁を相続し、愛を受けながら大きくなり、相対を迎えられる時になったら結婚するのです。(一九八三・五・一、リトル・エンジェルス芸術会館)

 父子一身という言葉はありますか、ありませんか? ありませんか? 父子一身という言葉、ないですか?(あります)。父子一身。その次には? 何、女性から言えば喜ぶから…。夫婦だから逆にしても婦夫(=プブ)だし、正しく言っても夫婦(=プブ)ですね。(笑い)夫婦一身。その次には兄弟も一身です。兄弟も。私たちはそれを知らなければなりません。このごろはたいてい夫婦一身しか知らないでしょう? 堕落した世界ではそれが第一の目的なので、このごろは夫婦一身しか知らないのです。今日、夫婦一身になる前に父子一身が出てきませんでした。そういう言葉は本格的には出てこなかったのです。夫婦一身、父子一身です。その次は何ですか? (兄弟一身)。兄弟一身です。ですから兄弟が死の場にいるなら私が死にます。そういうことがありますか、ありませんか? ありますか、ありませんか? (あります)。自分の腕を切って弟が生きられるなら切るのです。

 私たちの教会に通っている人がそうでした。自分の息子がですね。目の病気です。盲人です。有名な眼科医を尋ねていきました。「先生、私の頼みを一つ聞いてください」「何ですか?」「私の目は二つです。私の目はとても良いですが、この目をひとつ取ろうと思うのですがどうでしょうか?」「なぜ取るのですか?」「与えたい人がいるからです」「だれにやろうというのですか?」「うちの息子の目と私の目を取り換えてください」そう言ったというのです。そのように間違いなくお父さんは息子により良いものを与えようとするのです。それが父子一身です。

 考えてご覧なさい。皆さん、冷たい部屋で横になって寝たらおなかが痛いでしょう? おなかが先に冷えてくるでしょう? (はい)。では、布団でどこを先にかぶせてあげますか? どこに掛けてあげますか? (まずおなかに掛けてあげます)。まずおなかに掛けてあげるのです、また、足の先が冷えてきたらおなかに掛けていた小さな毛布なり布団を足のほうに掛けてあげる、それが一身です。自分の一つの肢体の中に、少しの不備な基準があれば自分の一つの部分を犠牲にしてそれを保護してやり、それを本来の状態に立てておくために行動するのが一身です。( ? )


 七 父子関係が持つ特別な内容

 ここに立っている人は神秘的な境地に入って、宇宙の根本は何かと探ったことがありました。神様からの答えは「父子の関係だ。父親と息子だ」でした。結論はそれです。普通の人なら「ああ! うちのお母さんとお父さんと私…」と考えるはずです。言い換えれば、自分を産んでくれたお父さんとお母さんと考えやすいのです。しかし神様と人間との関係を言うのです。

 父子の関係が持つ特別な内容とは何でしょうか? 父と息子が出会うことのできる最高の場所はどこでしょうか? 愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心で出会うのです。そのように見れば、愛と生命と理想が一つのところにあるというのです。その場所に行けば神様も愛であり私も愛であり、神様も生命であり私も生命であり、神様も理想であり私も理想になるというのです。それを決定づけることのできる最初の因縁と最初の統一の場所は、父子関係がなされるところ以外にはありえなかったというのです。これは間違いのない事実です。(一九七三・一〇・二〇、在米リスナー講堂)

 皆さんがお母さんとお父さんから生まれる時は、まずお母さんとお父さんが愛の因縁を結んで主体と対象の関係を互いに誓約しなければなりません。その次には生命が一致しなければなりません。そして思想が一致しなければならないのです。理想が合わなければならないのです。愛の一致点、生命の一致点、理想の一致点はどこで成されますか? 宇宙の世界において、ある被造物と創造主がいるのですが、創造主と被造物が関係を結ぶことのできる、絆を決定できる場所はどこでしょうか? その場所が最高の理想的な基準だとするなら、その理想的基準はどこになるでしょうか? これを見るとき、父子関係のほかにはないというのです。それを見れば東洋思想は驚嘆に値します。驚くべきものなのです。

 私が一番貴く思っているのは愛です。その次に何かと言えば生命です。生命。皆さんもそうではないですか? 何が一番いいかと言えば、愛が一番いいのです。その次には何かと言えば生命です。その次には何かと言えば理想です。(一九七三・一一・一二、中央修練院)

 み旨の目的は理想を取り戻すことです。理想は何を通して成されるでしょうか? 一日に三食ご飯を食べておなかが一杯になることで理想が成されたとは言えません。それではみ旨が志向する目的は何でしょうか? ご飯を食べておなかがふくれることではありません。また、いくら酒が好きな人でも酒が目的にはなりえません。それではそれよりもっと問題になるのは何でしょうか? 愛です。その愛は一時的な愛ではなく、安売りで買ってくることのできる二束三文の愛ではありません。本質的な愛です。

 この本質的な愛を分析してみると、愛には革命がないということを知ることができます。父母が子どもを愛するのは真の愛に該当します。それゆえ人間始祖の時から、当時の人が子どもを愛する心や数千年後の後孫である私たちが子どもを愛する心は全く同じです。また数千年後に私たちの後孫たちが子どもを愛する心も同じはずです。愛には発展もなく終息もありません。革命の要件が必要ない純粋なものが愛です。

 それでは神様の愛はどのようなものでしょうか? 神様がある存在を絶対的な基準の位置に立ててその存在性を確認し彼を愛されるなら、その愛はそれ以上革命を必要としない愛です。(一九六七・五・一四、前本部教会)

























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