み旨にかなった子女指導
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第三章 子女の成長と指導

 第一節 子女の出生と成長

 一 生命の根源

 本来はアダムとエバが互いに最高の喜びの中で、最高の生命力が発揮され、最高の力が合わさり、全体の理想の力まで合わさる中で愛の花が咲かなければなりません。だから花のように咲いて、その香りが全天下を覆っても余りある、神様がその花を眺め、その花の香りをかぎながら自らそこに酔える、そのような愛を神様は夢見たのです。

 そのような理想的な愛の花が咲き香りが漂うような場で、神様と人間が完全に一つとなり、切っても切れない愛の結合体になった場で結実がなされなければなりません、結実が。アダムとエバにおいて、愛の実が結ばれなければならないというのです、実が。

 そうなったら、その実はどうなるでしょうか? 実というのは本来の種と同じだというのです、種。皆さん、何の種であっても必ず二つのかけらでなっているというのです、必ず二つのかけらで。胚芽というのがあって、この二つのものを連結させる所に、その中に生命があるというのです。その種の生命力の根源には父母の愛が入り、父母の生命力が入り、神様の生命力と神様の愛が入っていなければならないというのです。その種というのは生命が発展するのに必要なのです。(一九七九・三・二八、アメリカ)

 人を構成する本質的な内容要素は、生命に先立って作動して根源となるべきものは、愛であるに違いないというのです。(一九八八・五・二二、本部教会)

 愛は創造の先祖です。何の話か分かりますか? 先祖がいるから後孫がいなければならないのです。愛は何かと言えば、先祖にもなり後孫にもなるというのです。愛は息子の父親であり、父親の息子だというのです。ですから、愛においては、父親と息子が同じだというのです。(一九八二・六・二〇、ベルベディア修練所)


 二 妊娠とつわり

 子どもの種は母親のおなかの中にあります。父親にもありますね? 父親には、骨の中にあります。ですから、父親の骨の中を通して、母親のおなかの中を通して子どもが出てくるのです。

 それでは、子どもはどのようにしてつくられますか? 父親と母親を通してつくられます。皆さんは父親の骨の中と母親のおなかの中を通ってつくられたということを知らなければなりません。歴史はおもしろいです。(一九六六・三・二二、前本部教会)

 女性として生まれたことは幸福ですか、不幸ですか? 答えてみなさい。不幸ですか、幸福ですか? (幸福です)。本来は最高に幸福でなければならないのですが、今堕落した後に生まれたことは極めて不幸です、不幸なのです。なぜでしょうか? 堕落はだれが動機となりましたか? (女性です)。女性、女性が動機になったのです。それで、なぜ堕落しましたか? (愛ゆえです)。愛、愛ゆえに堕落したというのです。

 それゆえ、聖書にもあるではないですか? ソドムとゴモラで淫乱が増え広がるようになる時、これはサタン世界の実を結ぶのです。そういう社会はいつも罰を受けるのです、いつも。ローマが滅びるようになったのも、淫乱のゆえに滅びました。アメリカが滅びるのも、淫乱で滅びることになるのです。

 それをなぜ神様が一番嫌うのですか? 本来愛というのは神様が主管できる接触線です。神様が理想的世界を成していくにおいての接触線、鉄で言えばチェーンと同じなのです。それは鎖と同じだというのです。鎖。その接触点ですが、何を中心として接触するのでしょうか? 愛を中心として連結できるチェーンを作って理想的世界を成そうとしたのに、それを台なしにしてしまったというのです、アダムとエバから。

 神様の太いチェーンを二つに分けて、男性と女性がここにぶら下がってチェーンになり、その後は全世界が一つの実となり、一つの種を蒔いて、実を千かます万かます収穫して納めるための倉庫が天国です。

 女性が重要なのです。女性がなぜ幸福でしょうか? なぜ幸福でしょうか? 女性の体を通して神様が愛しうる人間を育てあげることができるからです。分かりますか? 女性の体を通さずには男性でも女性でも生まれてくる道がないではないですか? 分かりますか? 神様の希望がいくら大きくても、女性がいなくなったら希望の世界まで連結される人が生まれますか? それは不可能なので、男性だけいてもだめで、女性だけいてもだめなのです。女性がいることによって、息子・娘が懐妊されるその瞬間から女性とは完全に関係を結ぶのです。関係を結び、その子どもが生まれるときまで母親の血肉を、母親の骨肉をもらって大きくなるのです。

 それゆえ、愛する息子と愛する娘というのはこの上なく貴いというのです。分かりますか? 天と地の最高に貴い宝物です。それはお金をあげても買えないし、世の中をあげても替えられない宝物です。神様にとってもそうであり、母親と父親にとってもそうなのです。息子・娘を取り換えられますか?

 それをだれが自分の血肉を分けてあげ、懐の中に抱いて懐の中で保護しながら、このように一つの価値的存在として生まれさせるのでしょうか? 母親のおなかを借りて生まれるのです。父親はただ種を蒔くだけです、種。夫は種を蒔いてあげるのです。そうではないですか? ですから、この世界に生きるすべての人々は母親の功を通して生まれたのです。そのような意味から見るとき、苦労ではありますが、情緒的世界において男性たちは女性たちのその情緒世界、母親の深い愛の谷間に入っていけないというのです。及ばないというのです。いくら説明しても及ばないというのです。(一九八七・五・二〇、本部教会)

 女性がお産の苦労をして、また妊娠して十カ月を全部…。何と言いますか? あのつわり…。つわり、「げえげえ」というそれは信号です。なぜそうかと言えば、同情してくれというのです。宇宙が同情してくれと言っている信号なのです。保護しろというのです、保護しろ。その信号なのです。おもしろいでしょう? 宇宙が、保護してくれることを願う信号だというのです。また、ぞんざいに扱うなという警告です、警告。ここ、注意しろ、注意しろ、そういう信号なのです。ですから、つわりは悪いものではありません。

 女性たちがつわりをたくさんして産む子どもは、神経が、アンテナが鋭敏な人だというのです。見ていなさい、鋭敏な人です。このような人たちは宗教的な人になるとか、文人になるとか、詩的な面、そういうところに鋭敏な人なのです。牛のように鈍い人を身ごもれば、つわりはそうひどくありません。ですから、女性たちはつわりがひどいと感じるとき、「坊や、なぜなの、なぜこんなひどいの?」と不平を言うなというのです。そうであるほど大きいふろしきを中心にして、母としてですね、これから神経質な子どもをつくってはいけないと意識しながら、胎教のようにですね、その反対の行いを中心として毎日のようにつわりがあっても、「げえっ」といっては笑いなさいというのです。「げえっ、ハハハハ」、「げえっ、ホホホホ」。(笑い)笑いごとではありません! そうすれば神様も、いい見せものがあると…。

 神様は宇宙の法則に外れて行動するときは、直ちに分かるというのです。「あっ、これは本来はこうなのに、あの女は、あの女ときたら、あの女はなぜああなのか? 人はみな嫌だといって騒ぐのに、なぜホホホと笑うのか?」と近寄ってきて、どれどれと見るなり神様がにっこり笑いますか、笑いませんか? 神様は「なぜ笑うのか?」と尋ねるはずです。先生だったら、話をするならどのようにするでしょうか? ご褒美をたくさんあげますか? あげませんか? 「おい! お前はやっぱり私の娘だね、私の娘ならそうだろう」といって褒めるのです。そういう道があるのです。つわりは耐え難いですが、女性たちが神様の前に信任され、恵みの山を受けることのできる一つの動機になりうるのではないかというのです。つわりは何だと言いましたか? (恵みを受ける信号です)。信号、信号! 保護の信号です。保護する信号です。(もっと早く教えてくだされば良かったではないですか?)。それは女性たち、教える前にあなたたちが考えていれば、全部分かったはずです。とっくに。考えないから分からなかったのです。

 この世の道理がそうなっているのです。その全部が悪いことではありません。保護するために…。それゆえ、女性は本当に貴いというのです。女性の体が貴いのです。ですから、男性の前に愛されて生きなければなりません。人を抱いて情緒を注いだので、抱かれて情緒を受けるべき立場なのです。天地の道理がそうだというのです。それゆえ、子どもを愛する妻には夫がむちを振えないというのです。むち打つことができません。分かりますか? 簡単な真理です。簡単な内容ですが、これは真理です。

 骨が溶けてしまうほど息子のために精誠を尽くすなら、夫がどんなに愚鈍で愚直な人でもその妻を殴れないというのです。抱いて愛してあげなければならないというのです。分かりますか? そのように抱いて愛する男性を神様は憎めないので、神様が抱いて愛するようになるとき、宇宙が全部この家庭に固まるのです。

 皆さん、豆腐を作ったことがありますか? 豆腐、豆腐を作ったことがありますか? 豆腐の作り方を知っていますか? 大豆を挽いて、こうやって、風呂敷に入れる前ににがりを入れれば固まるでしょう? 固まるのです。固まるというのです。愛というのはにがりのようにすべてのものを凝固させるというのです。分かりますか? それゆえに、女性は子どもを産んでみることで真なる女性になるのです。母親の心を感じてみなければなりません。(一九八七・五・二〇、本部教会)

 今に見ていなさい。胎児のために夫婦が精誠を尽くせば尽くすほど良い息子・娘を産むのです。先生の話がうそかどうか見ていなさい。そしてまた、強情だというのです、強情です。ここにいる祝福を受けた家庭、子女たちを見て強情だなと思う人、手を挙げてみなさい。自分が産んで育ててみると、他の家の子どもより強情だという人、手を挙げてみなさい。女性たち、いませんか? 強情だというのです。また、頭がいいのです。皆そのように私が組んであげたのです。サタン世界で結婚するのより何で比べても百倍いいでしょう。(一九七五・六・二二、前本部教会)

 男性でも女性でも子どもができたら、なぜこのようにだれもが喜びますか? 女性は「ああ、愛は受けるだけの価値がある。私は愛されよう」と思うのを神様はよく知っているというのです。そのようにつくったというのです。「ちょっと愛してもらわなくちゃ!」というようにつくったのです。なぜ? どうして? 完全に与えようとするので、その訓練をするのです。

 子どもができれば、だれが与えますか? 母親が骨と肉を全部与えながらも喜ぶというのですね。おなかが膨らんでも喜びます。寝るとき、こちら側に寝ます。このようには寝られないのです。このように寝そべって寝ながらも、「よしよし」と言いながら、子どもしか頭にありません。(笑い)

 その次に、産むのがどんなに大変ですか? さらに、産んでからまたお乳を飲ませます、お乳を。おなかの中で吸って、外で吸うのです、これが。中で吸って、外で吸うというのです。そうなるので、ああ…。それゆえ、女性は愛を一度受けてみたいと考えるのです。ですから、神様は考えるほどに数理的で、本当にすてきな紳士です。「それで女性を一番後につくったのだな」という論理が成立します。だからつくるときには女性を一番後につくったのです。(笑い)それを接ぎ木するのです。そうではありませんか? プラスとマイナスとをくっつけなければならないのです。

 さあ、それでそれは何かと言えば、神様がそのような性稟を持っているので全部…。女性もそれによって神様が許諾することのできる立場に立ったので「私を愛せ」と言うことが可能だというのです。分かりますか? 愛を受けようと言うことが可能だというのです。私を愛せばあなたも愛されるということなのです。あなたも愛を受けますね? 分かりますか? これはもう本当に! 何とすてきでしょうか? さあ、それでは、「私は愛されよう」というのは何でしょうか? 愛して愛を帰するために、神様の前に近づこうとするので、仕方なく、こうならざるをえないというのです。さあ、このような真の愛で…。

 したがって先日も話をしましたが、宇宙とは何でしょうか? 宇宙とは何でしょうか? この宇宙は第二の母親の腹中です。皆さんが今生きているのは母親の腹中です。宇宙というお母さんの腹中で暮らしています。さて、ですから母親の血肉をもらうのと同じく、宇宙のすべての津液(=体内から滲み出る液)を吸い取って生きるのです。(一九八二・一二・一九、ベルベディア修練所)


 三 赤ん坊の出生

 1 女性たちの人体の神秘

 ドクター姜、来ましたか? 女性たちの子宮はこのくらいですか? このくらいなのに、それがどれくらい膨らむかと言うと、ゴムより生ゴムよりもっとよく膨らむというのです。それは神秘的なのです。生ゴムよりもっとよく膨らみます。帝王切開手術をするときに見ると、膨らんだ子宮の中にいる子どもがすっかり見えるというのです。どうですか! これはなんと神秘的なことでしょうか。(拍手)

 その中で赤ん坊はですね、神様が語りかけて「こら、坊や、運動したらだめだ! 静かにしていなさい!」と言ったところで、じっとしてはいません。どうしますか? 赤ん坊はけったり、やりたいほうだいするようになっていて、中からパンクするなどということは考えません。子どもが、危険だということを知っていたら運動をするでしょうか。(笑い)とても危険千万です。神秘的ですね。

 ですから、赤ん坊を見ると神秘的なのです。そのようなことを考えると神秘的だというのです。「おい! こいつ、どうやって生まれたんだ」と聞きたいくらいです。どれほど神秘的か考えてみなさい。皆さんはそのように人間をつくるとしたら、どうですか? それは何千年かかってもつくれません。(一九八二・六・二〇、ベルベディア修練所)

 人が生まれて逝くとき、天にあいさつしようとし、地にあいさつしようとしなければなりません。(一九八二・一・二、アメリカ)


 2 分娩の苦痛

 皆さんが生まれるとき、皆さんは母親の腹中から出てくるとき、どれほど大変だったかということを記憶していますか? (いいえ)。それでは、それをどうやって教えてあげますか? 産んでみれば分かるでしょう。(笑い)神様はなぜ子どもを産むとき、このように産むようにしましたか? ただ簡単に、口で言うように簡単に、おいしい食べ物を食べるように簡単に、香水の香りが漂うように簡単に、ただただ気持ちよく、口を開いて「ハハハ」といって子どもを産むようにしたら、どんなによいですか? なぜそのように産まずに、汗を流して死ぬか生きるかの境で産むようにしましたか? なぜそのようにしましたか、どうして? 輝く愛を見るためにです。

 電気で言えば、起動電流というのがあるのです、起動電流。これは何でしょうか? スイッチをパチッと入れれば、その時は何十倍の強い電気が、いっぺんにパッと何倍もの力で出るのです。これと同じく、人間においてすべてを断ち切って「何もかも嫌だ、何もない」と言いうるほどの境地にいるときにそれを連結すれば、ものすごい愛の力が爆発するのです。同じ理屈です。分かりますか? (はい)。

 その死の境地で目玉が飛び出し、すべてのものがみな壊れ、大変なことになったという境地で子どもが「おぎゃあおぎゃあ」と泣いて出てくれば、目がぱっちり開くのです。痛いのは一瞬にしてなくなるのです。お母様はよく知っていますね。苦労して産んだので、その苦労した以上に愛するというのです。「ああ、アイゴー(=疲れたり、うれしかったり、苦痛を受けたときに言う言葉)」と言うでしょう。その意味が分かりますか? (はい)。

 母親が子どもを産む苦痛は幸福ですか、不幸ですか? (幸福です)。父親にはいくら話しても分かりません。父親には母親がどれほど苦労をしたのかが分からないのです。父親は母親以上には分からないというのです。それゆえ、愛の味を本当に知っている人としては母親が最高です。(一九八〇・一・二〇、ベルベディア修練所)

 女性の皆さん、子どもを産むのが怖いですか? 子どもを産んだ婦人に聞いてみれば、産むときには死ぬかと思うけれど、産んでしまえば一瞬にして(死ぬような思いが)なくなるというのです。船に乗ると、船酔いした人は死んでしまうとばかりに吐いて大騒ぎですが、陸地に着いて一歩足を下ろせばいっぺんによくなります。ちょうどそれと同じ光景なのです。皆さんも経験してご覧なさい。十カ月間ずっと子どもを腹に宿して過ごすのは大変ですが…。(一九八九・一・六、漢南洞公館)


 3 誕生の瞬間はまさに歓喜のとき

 それでは、私たち一人ひとりにおいて栄光の日はいつになるでしょうか? (スピリチュアルバースデー=入教日)。(笑い)スピリチュアルバースデーはさておいて、バースデー(誕生日)、自分の生まれた日が栄光の日なのです。(笑い)ところで人が生まれるのを見れば、生まれるときに、だれもが生まれるやいなや泣くのです。「おぎゃあおぎゃあ」と泣くのです。その時間が栄光ではないかというのです。その日は喜びの日ですか? 皆さんは考えてみましたか? それは、なぜ泣くのでしょうか? 喜びが心にしみるから泣くと言えば、実にしゃれた解釈だと思うのです。

 なぜそうかというのです。母親の腹中で母親と父親の顔を考えながら「お母さん、お父さんはどんな顔だろうか?」と、母親と父親の顔をいくら見たくても見れませんでしたが、慕わしいすべての願いが成就したのだし、外の世界があってもどうなっているか分からず、その世界を全部いっぺんに見たくてたまらないところへ、ぱっと飛び出していくその瞬間だからです。そして、へそから食べたのが口で食べられるようになるし、それは、何と急速な変化が起こることか。その赤ん坊はつぐんでいた口を開いて食べるというのです。食べ始めるというのです。(笑い)それはどれほど歓喜に満ちた、どれほど希望的な、どれほど願ってきたことだろうかというのです。

 その赤ん坊はなぜ泣くのでしょうか? 喜びが身に染みて泣くと考えればすてきです。皆さんもそうではないですか? 本当に喜んでいる人同士が会えば涙が出るのです。皆さんはそれを見たことがありますか? (はい)。うれしいことがあれば、私が生まれる時に泣いたそれ以上にうれしくて、一度泣くことのできる時間があったなら、それこそ栄光の新しい朝ではないか。赤ん坊が泣くその時に一緒になって泣く親がいますか? 喜ぶというのです。泣くのを見て喜ぶというのです。泣かなければ正常でないと言うのです。赤ん坊が生まれるときは皆そうなのです。皆さんは生まれるときに父母を驚かせ、親戚の人々の関心を引き、すべての環境を驚かせて生まれたのではないですか?

 皆さんがある国の王子として生まれたとすれば、その国のすべての民が見るでしょうし、その国のすべての万物までもが注目することでしょう。全体が、生まれるその瞬間を見ているのではないか。とすれば、その赤ん坊が泣くその時に知らせは全国に広がり、その広がる知らせと合わせて歓喜の声は、赤ん坊が泣きやんでいないその時間にも続くのではないかというのです。

 皆さん、私たち人間が生まれるときに、本然の人間がこの宇宙の中で生まれるときに、その生まれる私たちの先祖である赤ん坊のアダムとエバを見ていた万物があったら、関心を持ったでしょうか、持たなかったでしょうか? (持ったはずです)。

 なぜかと言えば、主人だからです、主人。この宇宙のすべての存在が人間と同じように心があって、全部関心を持ったなら、どれほど興味津々だっただろうかというのです。

 この地上の世界ももちろんですが、神様がおられ、霊界があるなら、霊界や神様やだれ彼問わず皆神経が集中させられるのです。そうだったはずです。それでは、アダムとエバが生まれるその瞬間にどれだけ緊張し、アダムとエバが生まれたならアダムとエバが生まれたことで、どんな変化が起こったかというのです。神様において、どんな変化が起こったかというのです。

 神様においては、父母の愛がこういうものだということを感じる時間となったのです。子どもに対する愛、父母の愛をはじめて持てる時間となったのです。それを考えてみなさい。「父母の愛はどのようなものか?」と考えていた神様もどうだったでしょうか? 皆さんの夫人が腹中に赤ん坊を宿した時に、父母の愛はこうだということを感じられますか? 生まれるわずか数分前と生まれた後では、天地の差ほどの変化が訪れるのです。

 それを見るとき、神様の愛の中でつくられた被造万物とアダムとエバ、その息子・娘を愛する心を、見て喜ぶ心を神様しか感じられないのかというのです。(違います)。神様なら、すべての万物も、存在するすべてのもの、自分に所属するすべてのものも、自分がうれしい時を分かるようにつくったことでしょう。(一九七八・一・二二、ベルベディア修練所)


 4 頭から出てくる理由

 さて、人が生まれるときなぜ頭から出てきますか? 足から出てくればどうですか、足? 地が見るとき、足の裏から見たいでしょうか、頭から見たいでしょうか? 人も地が好きなのでそこに歩調を合わせ、頭から出てきて後には地を踏み締めて暮らすというのです。あいさつするためにそうなのです、あいさつ。一生の間踏んで生きるのであいさつしなければならないでしょう。(笑われる)それもそうですが、父母にしなくていいですか? 父母にあいさつしなくてはいけませんね。良いあいさつをすべきですか、悪いあいさつをすべきですか? 天に対して悪いあいさつをすべきですか、良いあいさつをすべきですか? (良いあいさつです)。

 出てくるときには逆さまに出てきましたが、霊人体が出ていくときにはひよめき(=乳児のとき、頭の前頂部で、呼吸のたびに動く骨と骨とのすきま)から出ていきます。霊人体が生まれるときには反対に生まれるというのです。だからひよめきから出ると言うではありませんか? (笑われる)霊人体は母親の下から出てこないのです。霊人体はどこから出てきますか? (笑われる)下から出てきますか、上から出てきますか? 考えてみなさい。霊人体が出てくる所はどこですか? その反対だというのです。反対だというのです。復活して上がっていくのです。上がっていくのにも肉をけって上がっていかなければなりませんね。その時も頭が先にあいさつしなければなりません、生まれる場合にも。あいさつを先にするのです、あいさつを。(一九八二・一・二、アメリカ)


 5 「おぎゃあおぎゃあ」の意味

 これを考えてご覧なさい。自然な顔とはどんな顔でしょうか? 怒った顔でしょうか、寝ている顔でしょうか? どんな顔かというのです。オリジナルはと言えば、世の中に生まれるときに赤ん坊が「おぎゃあおぎゃあ」と泣く姿がオリジナルです。その泣くのがですね、なぜそのように大きな声で泣きますか? 「ははは」と笑わないでなぜ「おぎゃあおぎゃあ」と泣くのですか? (笑い)その呼吸自体が体全体でするようになります。体全体が動くのはすべて運動しているのです。運動の中で、それ以上の運動はないというのです。最高の運動だと見るのです。「おぎゃあおぎゃあ」というのは運動なのです。生まれてから、それ以上の運動はないとみるのです。宇宙に対する新しい活動の始まりだというのです。これはどれほどすてきなことですか?

 そのとき母親も「十カ月間こうしていたので、どんなに大変だったことか? 泣きなさい、泣きなさい。足を伸ばして泣きなさい!」と言うでしょう。それはどんなにすてきなことかというのです。赤ん坊がもしこのようにしていないで、こういうふうにしていたら呼吸ができないというのです。呼吸ができません。呼吸がどのように始まるかと言うと、このようにしていたのが(生まれて)足を伸ばすので「ふっ」ともう空気が入るようになっているのです。さあ、先生の言う通りだと思いますか? 医学書籍にはどう書かれているか知りませんが、それが自然な観点から見るすべての道理の一面と見ることができます。

 さあ、そのように考えるとき、赤ん坊が泣くのはまさに歓喜の泣き声であり、生の爆発の泣き声である、このように見るのです。人が泣くときと笑うときは体と心が一緒に運動することができます。笑うとき、口だけ開いて「ははは」と笑ったらどんなに格好悪いですか? このように「ははは」と笑ってごらんなさい。笑うときはすべてのことが作用します。鼻も動いて目も動いて口も動いて耳も動くのです。心も動いて体も動いて全部動きます。分かりますか、何の話か?
 そうすれば、笑うときも涙が出て、泣くときも涙が出ます。それは反対だというのに。そしてそれは距離が遠いですか、近いですか? 泣くのは良いことですか、悪いことですか? 皆さん、泣いて暮らすのがいいですか? (嫌です)。ここから見るとき、二つの概念のうち一つは上がっていくのであり、一つは下がっていくのです。そういうものが全部分かれるのです。皆さんはどうですか? どんな顔が一番いいですか? (幸福な顔です)。幸福な顔とはどんな顔ですか? 幸福とは何ですか? すべてのことが円満でなければなりません。円満でなくては幸福ではありえません。円というのはサークルという意味で、満というのはフル(いっぱい)ということです。こういう円があって、ぎっしりいっぱいになったということです。こうでなければ幸福はありえないというのです。そのような観点から見ると、宇宙はこの円を満たすためにすべてのものが運動するというのです。(一九八二・一二・一、アメリカ)


 四 お乳を飲ませるとき

 1 赤ん坊がお乳を飲むこと

 赤ん坊が腹中で十カ月間成長するとき、その水の中で過ごしながら、自由天地ですか、拘束天地ですか? 拘束天地ですか、自由天地ですか? ああ、背を丸めて思うように足げもできないのに・・・。腹中の赤ちゃんはともすれば押し込まれているようですが、それでもその世界が自由天地だというのです。何とまあ、鼻をしっかり塞いで「んが」、口をキュッと結んで「うっぷ!」とやっているのにそれが自由天地ですか?(笑い) 一度そうやってごらんなさい。(笑い)パイプがへそについています。ここで息をするというのです。今考えれば「ああ、全く!」どれほどじれったいですか? どれほどじれったい。そのように考えませんか? 考えただけでもうんざりして気絶するほどなのに。そこでも自由天地だというのです。

 地球上に生まれたのもそれと同じことです。母親の腹中では母親の体を通して影響を受けますが、今は宇宙のお母さんの胎内に生きているのと同じだというのです。考えてご覧なさい、先生の話が合っているか合っていないか。へその緒で何を食べて生きるのでしょうか? 私たちが生きる要素は何でしょうか? 私たちが食べるご飯のようなものは、私たちが生きるのに必要な栄養分であって、本質的な生命要素にはなりえません。生命要素は愛です、愛。

 豚の子もですね、それは調和なのです。豚の子を見ればですね、十分もたたないうちに出てくるやいなや捜していきますが、お母さん豚のへそを捜しあてるのです。お乳がどこにあるのか、それがどうして分かりますか? お乳があるところに行って、息を切らせて「チュッチュッ」と吸うのです。(笑い)では、これはいつ教育を受けてきたのですか? 自動的です、自動的。神秘的な絆を通して、すべて相対的な関係で授け受けるというのです。お母さん豚の愛のアンテナが、あらかじめ乳首を通してピー、ピッピッピーッと信号を送るというのです。ですから、それがある所へ行くなといっても行くようになっているのです。寝ながらも「ウーン、ブーブーブー」といいながら寝るようになっています。それはどういうことかと言うと、自動的な教育が必要だというのです。

 それゆえ、人はへその緒でこの世の中に生まれたのですが、愛から生まれました。私たちはその愛の実です。愛の実なので父母は愛さなければなりません。その実を通して無限の愛が実を結ぶのです。個人的な愛、家庭的愛、民族的愛、世界的愛、宇宙的愛、本質的神様の愛まで連結されうる道がそこにあるというのです。

 そこには教育が必要ありません。美女と醜女がいて醜女が息子・娘を産んだところ、その息子・娘が母親を醜い女だと思って、お乳を飲むのを嫌うといって「おい! お前はこのように愛せ」と言って教育するのを見たことがありますか? 醜女であれ何であれ、子どもには母親であることがすべてです。そうでしょう? おなかがすくときは乳房をあてがえば、ばたばたと手足をばたつかせながら、お乳をこぼしながらおいしそうに飲むことに忙しいでしょう、不平を言うのに忙しいですか? これは比類のない調和なのです。その場が神聖なのです、その場が。(一九八三・四・二四、本部教会)


 2 お乳を飲ませること

 愛は目に見えないのです。愛を中心として神様がおられるのです。それゆえ、愛という概念の下に神様が存在する、このように答えなければなりません。それでこそ理論に合うのです。愛の概念なしでは、神様が存在できないというのです。なぜ? それは人間が愛を環境として生まれたからです。愛を中心として存在し始めたので、神様もそうでなければならないというのです。

 さあ、それではこの意識の本源地はどこでしょうか? 同じです。愛から始まったというのです、全部が。目も愛から始まったので、愛で生き、愛に従っていく、皆そうです。愛の目的地に行くようになっています。鼻もそうだし、すべての細胞もそうなのです。皆さんも触るときには愛する人に触ろうとし、愛する人を求めていこうとするのです、それは異常なのではありません。オリジナルがそうなので仕方がないというのです。

 愛で始まったので、子どもが生まれたとたんに「おぎゃあ」と泣いてもお母さんとお父さんは「よしよし」と言うのです。愛だというのです。それが泣くからといって「なぜ泣くんだ? こいつ、なぜ泣くんだ? 生まれたとたんになぜ泣くんだ?」そう言いますか?(笑い)(言いません)。おしっこをして、うんちをして、すべてそのようであっても愛を感じます。そうでしょう? それを一日一時間につきいくらずつ、五ドルずつ、七ドルずつとしておいて、すべて手帳に預金通帳の代わりに記録しておきますか? (いいえ)。与えてもまた与えたいし、また与えても、もっともっと与えたい、そうでしょう? そして、どんどん与えればどうなりますか?どんどん与えれば、それは全部受けるようになるというのです。(一九八二・一二・一、アメリカ)

 愛は絶対の場に立っているというのです。それゆえ、男性と女性も絶対的な愛を中心として結ばれてはじめて、その愛が完結に向かうのです。夫に妻というものは妻一人しかいないと考える、その立場に立たなければこの位置に到達することができません。永遠なのです。絶対、変わることができないのです。愛の原則通りにしてこそ倒れないのです。

 さて、これは何になるでしょうか? そのような立場に立ったものは三六〇度であると同時に零点です。これが神様であり、アルファであり、オメガです。これが何になるでしょうか? すべての種の根源になるのです。種はこのようにできているというのです。種というのは、ぴったりこうなっているのです。結論は何でしょうか? 愛というポケット一つにすべてのものが入っているというのです。(板書しながら語られる)

 男性と女性が結婚するのは何のためでしょうか? この種を得ようというのです。このように好きになれば、ここでエンブリオ(芽)、芽が出るようになっています。何を吸って生きるかと言えば、母親と父親の愛を吸って生きるのです。母親と父親の愛を吸って、生命を吸って大きくなるのです。母親と父親の体を吸って大きくなるのです。愛と体を吸って大きくなるというのです。

 それゆえ、今日アメリカにいる父母たちが子どもに対して犠牲の愛で愛さないのは、そういう思考方式を持たないのは、宇宙の原則に反するのです。その父母は罰を受けなければなりません。(一九八三・一〇・一、世界宣教本部)


 3 お乳を飲ませるときの心の姿勢

 皆さん、恵みを受けたいですか? 永生することを願いますか? そう思うなら、公的な人にならなければなりません。子どもを教育するにおいて、私の息子・娘としてだけ愛するなというのです。世界の人々のための祭物的な息子・娘として愛する父母にならなければなりません。そして子どもを懐に抱いてお乳を飲ませるときは、この地球星の人類を代表した母親の立場で、人類を代表した子どもにお乳をあげるという心で飲ませなければなりません。そして自分の子どもだけがかわいいと言ってお乳を飲ませるのではなく、人の子どもも自分の子どものような心情で対する母親になってご覧なさい。そのような母親のお乳を飲んで成長する子どもたちは必ず偉大な人になることでしょう。すぐにはならなくても、一代二代をかけていく間に、必ずその後孫の中で世界を支配することのできる人物が誕生することでしょう。これは公式です。このようになるのです。(一九七〇・五・二四、前本部教会)

 今日皆さんが来て息子・娘を産み、懐に抱いてお乳を飲ませるとき、「どんなお乳を飲ませましたか?」と私は聞きたいです。神様の愛で、真の父母の愛で因縁づけられたその愛を中心として祝福を受けた、そのような男女が一つになる愛の中で愛の花として咲かせた息子・娘として抱き、お乳を飲ませているかというのです。(一九八六・六・一、中央修練院)


 4 お乳を飲ませる妙味

 私は母が言った言葉が忘れられません。私が小さかったとき、叔父はもちろん、だれかれ問わず遠い親戚まで、私の姉がお嫁に行く時にひと所に集まって話をしたのですが、世の中で何といっても赤ん坊を産んで育てるときが一番良いというのです。苦労は一番多いけれど。

 なぜでしょうか? 赤ん坊がおなかをすかせば、母親の乳房が張ってくるのです。分かりますか? 百人なら百人が皆、乳房が張って痛くなれば、張っていないところがありません。乳房が一番鋭敏です。ところで、おなかをすかせた赤ん坊をしっかり抱いてお乳を飲ませる味というのは、口では言えないというのです、お乳を飲ませる味は。それは赤ん坊の母親でなければ分かりません。その張った乳房がすっと小さくなればどれだけすっきりして気分がいいでしょう! またチュッチュッと飲みながら触るのを見るとき、母親の愛がそこからにじみ出るというのです。だから、すべての喜怒哀楽の双曲線が全部ぶつかり合うその母親の心というものは、体験しなければ分からないのです。

 だからお母さんたちが言うには、八人兄弟をみな結婚させたけれども、みな送り出してみると、世の中にこれほど寂しいことはないというのです。かといって、愛してきた息子・娘の家に思うように行くこともできません。もちろん、行こうと思えば行けないわけではありませんが、遠いところへ行ったので一日に一回ずつ通うこともできず、だからいつも考えるのです。愛してきた、慕わしい愛でもって、息子・娘が元気でいるだろうかと、会いたくても行けなくなれば祈祷をし、幸福を願うというのです。それは貴い心です。それゆえ愛の心が・・・。

 そうこうするうちに老いていくのです。だから愛で始まって、愛で一生を終えるのです。それが原理的な、順理的な法度を歩むことになり、地上世界から天上世界までそのまま続いていくのです。(一九八九・一・六、漢南洞公館)


 5 母親の犠牲的な愛

 父母は子どものおしめを洗いながら、においがしても、赤ん坊のにこやかに笑う姿を思い浮かべながら、ただ喜びます。思っただけで、すぐ目に浮かんでくるのです。子どもを愛する父母の心はそうなのです。うんちを取って味をみる母親がたくさんいるではないですか? 皆さんもそうやってみましたか? それができなかったなら、母親になれないのです。うんちの味をみましたか、みませんでしたか? 私のお母さんが、子どもたちの具合が悪いときに、うんちを取って味をみるところを何度も見ました。そういう意味で、私のお母さんは立派たと思います。ここにいる母親たち、そのようにやってみましたか、やってみませんでしたか? やってみませんでしたか? これからは、一度そのようにしてこ覧なさい。それをやってみようと思っても、今ではもう年をとって、赤ん坊を産めないことにはどうにもなりませんね。(笑い)

 皆さんが神様を愛するとしたら、どのくらい愛しますか? 神様を愛していれば、神様のものなら良くないものはなくなります。どんなに困難なことでも、それが困難なことに感じられません。深い谷に埋められた愛の絆が響き出すことのできる一つの動機になるのです。母親が苦労しながら働いていても、子どもをひょいと抱いて乳首が痛くて気が遠くなるほどお乳を飲ます姿は、本当にすてきだというのです。女性たちはそういうおもしろい味が分かるでしょうが、私は女性になれないのでそういう味が分かりません。そのような面では女性が偉大ですから、その面においては私もお母様の前に屈伏します。女性が男性より偉大なのはそれです。

 私がいくら赤ん坊が好きだといっても表面的にすぎません。赤ん坊が自分の肉をぐいぐい吸っていくのにどうでしょうか? 赤ん坊がお乳を吸うとき、血が何パーセントずつ混じって出ていき、脂肪が何パーセントずつ混じって出ていくと考えれば、どうして飲ませるのでしょうか? 皆さん、蚊がブーンと飛んできて血を吸うとき気分がいいですか? 災難もいいところでしょう。死にながらも喜べる道は愛の道しかないのです。(一九六九・一〇・五、前本部教会)

 赤ん坊は母親の胸をかきわけて食い入るのですが、愛を抜きにしてみれば、そうできますか? そうはできないというのです。それでも赤ん坊に父母の愛を肌で感じさせ、赤ん坊を抱くことによって自分が幸福だというよりも天地がすべて平和の境地に入ることを感じ、全体の雰囲気に良いものが芽ばえるということを感じるようになるときには、その赤ん坊がいくら自分の胸にかき分けて入るとしてもそれを許し、「さあ、飲みなさい、飲みなさい」と言えるおおらかな心が生まれてくるのです。それゆえ、父母たちは子どもを無限に愛することができるのです。

 見方によっては、赤ん坊は父母の怨讐なのです。ホースをつけてあてがい、自分の血肉を吸っていく怨讐だというのです。しかし、母親としての新しい希望の刺激、夫に対する新しい刺激など、その赤ん坊によって見いだされるものが実に多いというのです。そのような境地では通じる何かがあるのです。その境地はだれも立ち入ることはできないのです。(一九七一・一〇・三、前本部教会)

 本来、母親が子どもを育てるときは、自分の肉を分け与えるものではないか。母親の肉は父親の骨につくべき肉なのです。そうでなければ、その肉はぜい肉になってしまうのです。このような意味から見るとき、女性たちが情緒的な面において一般的な情は男性よりもっと深く高いのです。それゆえ、四方を整えて精誠を尽くすときになれば、涙を流すにしても、男性が一回泣くところを女性は三回泣くのです。(一九七一・五・二、中央修練院)

 よく暮らそうという言葉と、愛そうという言葉があります。それでは、よく暮らそうというのは、どのようによく暮らそうというのですか? 互いにけんかしながら、よく暮らそうというのですか? (違います)。それは皆分かっているのです。だから答えは簡単です。愛してよく暮らしながら、神様のために生きなければならないというのです。

 それでは愛する場合にはどんな立場で愛するのでしょうか? これが問題です。お母さんとお父さんたちが子どもをよく見つめてみれば、かわいいですか、憎らしいですか? おばさんたち答えてごらんなさい。(かわいいです)。どれほどかわいいでしょうか? 私は一度おばさんになってみたいものです。私はいくら研究しても、どれほどいいのか分かりません。どれほどいいのでしょうか? お乳を飲ませるのを見れば、母親たちはお乳をもっとあげようとして、子どもたちは母親のお乳をもっと吸おうとして・・・。

 子どもにお乳をあげるのは、かわいいからあげるのですか、憎いからあげるのですか? さて、それだけでしょうか? おしっこをするし、うんちをするし、夜を徹して世話をやくというのです。私の子どもたちを見ても、何時間もたっていないのに「エーン、ご飯ちょうだい」と言って、夜中の二時でも三時でもお構いなしです。母親は腰が折れ曲がり、背筋が痛くてぐっすり眠っていても、アーンと泣きながら起きろと言わんばかりです。すると、母親は熟睡から覚めても「さあ、飲みなさい」とお乳をあげます。それは好きでそうしますか、嫌でそうしますか? (好きでそうします)。それが愛です。愛は与えながらもさらに与えたくて、与えても満足するのでなく、存分に飲ませてもさらに飲ませたいのです。すべて与えても惜しくないのです。お乳を飲ませるときも、大きく膨らませておいて全部すっかり飲ませてこそ気持ちがいいというのです。おばさんたち、そうでしょう? これは私が聞いた話です。そうですか、そうではないですか? そうなのです。(一九七一・一・八、春川教会)

 それでは、神様の愛を受けられる位置はどこにあるのでしょうか? 愛は一つです。それゆえ、その位置もまた一つしかないのです。愛を受けられる位置があって、愛を受けられる道があったなら、皆さん行きますか、行きませんか? (行きます)。それは何かと言うと、父母の前にある子どもの位置です。ある父母に息子四人がいるのですが、その父母がその四人の息子に愛の差をつけますか? 長男だからこのくらいの愛を与え、弟たちは各々このくらいの愛だけ受けなさいと差をつけるかというのです。

 お乳を飲ませるときも、子どもたちに差をつけて飲ませる父母はいません。それは息子たちに血と肉を供給してあげることです。ですから、すべての息子に一人ひとり供給してあげるようになっています。母親は乳飲み子がお乳を吸うのを見て喜びます。子どもがお乳を飲みながら母親の喉をつかんだりすることもとても喜びます。母親は子どもに自分のお乳をあげながらも喜ぶのです。お乳をあげるからといって、今日まではいくらで、明日からはいくらだと、お金を請求する母親は世の中にいません。

 もう一つ、おもしろいのは何かと言うと、その母親の顔が醜くて、女性らしいところが一つもなく、ただただ、目、鼻、口、ほおは言うまでもなく全部が醜くても、息子・娘を愛する場合は深刻です。お乳を飲む子どもに対して愛するときは、だれよりも深刻だというのです。自分の子どもを愛するにおいてだれに負けると思いますか? 負けないというのです。(一九六九・五・一八、水原教会)


 五 新生児のとき

 生まれたばかりの赤ん坊は顔を見ている父母が分かりません。しかし、三カ月ぐらい過ぎれば、見て喜ぶ母親の顔にほほえんで応えるようになります。自分が母親であることも知らず、母親である自分の愛も分かりませんが、相対的立場で応えてくれる赤ん坊のほほえみに最高の喜びを感じるのです。それは赤ん坊には分かりませんが、心情的因縁で連結された絆を通して、全体の価値以上の愛を注ぎ込む父母の愛があるからです。(一九六九・一〇・五、前本部教会)

 皆さん、赤ん坊がうんちをするのを恥すかしがったらどうなるでしょうか? うんちをし、おしっこをしても恥ずかしがらず、母親がうんちを片付けるのを見て、にこにこ笑っているのです。どれほど無邪気なことでしょうか、どれほど。(笑い)それは愛においてのみ可能です、愛においてのみ。分かりますか? 愛においては汚いものがありません。すべて克服できるのです。(一九八一・一二・二〇、アメリカ)

 さて、皆さん、先ほど幼児期から話をしました。小さい子どもも自慢したいのです。それでは腹中から生まれたばかりの赤ん坊は自慢したくないでしょうか? 自慢したいというのです。出てくるなり「アーン、アーン!」と泣くのも、赤ん坊の自慢だというのです。それを誇りをもって抱いてくださる方が、自分を産んでくれた、愛のあるお母さんだった! 違いますか? 必死になって「エーン、エーン」と泣きながら蹴るのです、「エーン、エンエン!」これは赤ちゃんが自慢しているのです、自慢したがるのです。

 口のきけない赤ん坊も、そのように自慢したがります。自慢したいというのです。それを見て母親は、「ほら、坊や! 大きくなるのよ。早く大きくなるのよ、そうしたら丈夫になるでしょう」こう言いながらしきりに大きくなれと応援するでしょう? それ、何が応援ですか? 疲れた母親、いくらにもならない月給のために工場へ行って働いて帰った母親が、うんちをし、ぐずって泣いていた子どもをきれいに洗って、抱いてあげれば、ウンウンウンウーンと喜ぶでしょう? 「ああ、いい気持ちだ」と自慢するのです。自慢するときに見てあげる母親がいれば、その赤ん坊は幸福なのです。そうですか、そうではないですか? (そうです)。

 全部、すべてのものが・・・。それゆえ、小さな昆虫も自慢したがります。無機物も自慢したがります。宇宙のすべての存在物は、皆この素性に似て生まれたというのです。みな自慢しようとするのです。(一九八八・四・一〇、本部教会)


 六 乳児のとき

 子どもたちの心はお母さんとお父さんに帰っていこうとします。人間の本心は本郷を慕い、父母を慕うというのです。(一九八七・五・一七、清平修練所)

 育てるときにも乳児期があります。ひたすら消え去ってしまうか飛んでいってしまうかと案じ、そっとやさしく育て、それから這いまわるようになり、次には歩きまわるようになるのです。ご飯を食べるときも、大半はスプーンをこんなふうに持ってすくうというのです。

 そうして、物心がつくとともに「あ、お母さんだ」と意識して、母親が喜ぶか喜ばないかを見ながら遊ぶのです。国進が生まれて一年しかたっていない時のことです。「さあ、こちらへおいで」といっても来ないときがありました。そこで、そっけなく「プイッ」と顔を背けて、私が気分悪そうにしていると「ヘヘヘー」と笑ったのです。そういうところを見たとき「こいつ、賢いな」と思いました。子どもたちも顔色をうかがって「あ、いけない」と歩調をを合わせるのです。(一九七一・一〇・二四、前本部教会)

 皆さん、子どもたちが学校に行く時まで成長する過程を考えてご覧なさい。うんちをして、おしっこをして、それから這うようになって、這い回っていたのが立ち、はにかみながら、よちよち歩きをしながら転んだりもして、その次は兄弟がいれば兄弟とけんかして、いじめられて泣きじゃくったりするのです。それが教育です。そうやって大きくなるのです。(一九八三・四・一九、済州教会)

 子どもが言葉を覚えるときに、言葉を覚えるその息子は、父親と知っていて「お父さん」と言うのですか? お父さんという言葉を知らないで「お父さん」と言うとき、その息子は父親を認識しているかというのです。それは習慣化していくうちに「ああ! このようになれば、これがお父さんだな!」と考えるのです。子どもたちが言葉を覚えるのを見ると、本当に不思議なものです。抽象名詞の類いもどのように理解し、納得するようになるかというのです。それを説明して教えてあげようと思えば、百科事典をすべて動員しなければならないにもかかわらず、いとも簡単にそれらの言葉をちゃんと覚えていくのです。(一九七二・六・二五、前本部教会)

 子どもたちには父母しかいないのです。生まれた息子において、何か所有する必要がありますか? お金が必要ですか? 権力が必要ですか? 自分というものがありえますか? ただ母親の乳房しかないというのです。そのようなところまで・・・。何もないというのです。私が何かと言えば、私の所有はお母さんの乳房かお父さんしかないというのです。学ぶのもお父さんとお母さんしかないというのです。

 もとより、学ぶ所有は言葉の所有です、言葉の所有。言葉から学ぶのです。一番はじめに所有する言葉は「オンマ(お母さん)、マンマ(ご飯)」です。マンマと一つになるのです。また、パパ(お父さん)と一つになるのです。そうなのです。それが自分の最初の所有です。自分の所有であると同時に、愛を中心として一体となるために父母が私のものとなり、私が父母のものとなるのです。そこから始まるのです。それゆえ、そのほかの観念は一切受け入れられないというのです。(一九八四・四・一六、イースト・ガーデン)

 子どもたちが成長するとき、一日の間にも成長しながら昨日とは違ってくるのです。どんどん新しくなるのです。どんどん変わるのです。話すことも変わってくるし、全部変わってくるのです。( ? )

 子どもたちはおもちゃを持つにしても素早く上がったり下がったりして、ぐるぐる回るものや、ひゅっと上がってひゅっと下りてくるようなものが好きです。そのようにすれば子どもたちはおもしろいと言いますか、つまらないと言いますか? おもしろいと言うのです。そのように回るときには、目も一カ所に精神一カ所に、心も一カ所に、体も一カ所にくぎ付けになります。分かるでしょう?

 子どもたちが遊ぶところに行けば、早いもの汽車のようなものを何と言いますか? ローラースケートと言いますか、何と言いますか? これが崖のようなところにピタッとくっついてサーサーッと登っていってこそおもしろいというのです。そうではないですか? (そうです)。同じ理屈なのです。(一九八八・一・一、本部教会)

 今日、子どもたちを見ると、昆虫、さるの子、動物の子、魚の子などがとても好きなのです。それはなぜでしょうか? それを見ながら大きくなっていくのです。愛するのです。愛の心が芽生えるというのです。それを見て喜ぶのですから。(一九八五・一二・二〇、漢南洞公館)

 幼子のような心を持たなくてはなりません。子どもは主体に対して要求するすべてが、総合的な面だというのです。子どもにとっては母親以外に欲しいものはないというのです。ほかに欲望の対象がないというのです。母親なら母親だけを思うのです。一切のすべての生命が、感覚機関であるとか意識機関がすべて母親に動員されているというのです。お乳を飲んだ後にもお母さん、お乳を飲むためにもお母さん、お母さんのほかは知りません。そのような意味で見るとき、幼子の心情を持たなければならないというのです。そうなれば、皆さんが一人で眠るときも母親の胸に抱かれて、父親の胸に抱かれて眠るのと同じになるのです。そうなのです。(一九七二・六・二五、前本部教会)


 七 二十歳までは父母の愛圏

 人間は生まれてから二十歳までは父母の愛を受けます。それは愛に対する準備期間です。このように見れば、二十歳までは父母の愛を受けることになります。その次に二十歳を過ぎてからは、父母の愛を離れて夫婦の愛につながります。その夫婦の愛の因縁が情の深いものになればなるほど、そこから再び子女の愛として始まるというのです。このように回るのです。

 それゆえ、私たちの人生をよく考えてみるとき、堕落がなかったなら本然の父母から私たちが愛を受け、成長するまで育てられ、一生の準備をするのです。一生の間愛を備えて生きることのできる準備をするのです。(一九八六・五・二五、本部教会)

 生まれた時から愛・・・。母親の腹中にいる時からお母さんとお父さんが愛しましたか、愛しませんでしたか? お母さんとお父さんが愛するのです。十カ月間ひたすらなでてあげ、こうして・・・。そして生まれてからまた愛して、学校に入るまで・・・。大学まで何年ですか? 二十年ですか、二十二年ですか? 六年三年三年とすれば十二年で、大学まで足したらどうですか? 十六年と、幼稚園まで合わせれば十八年間、その期間にずっと父母の愛の圏内で育って・・・。

 そのお母さんとお父さんは自分の息子・娘を最高に愛するのですが、人並みにしてやれなければ胸が痛くてたまらないのです。そういうことを知らないでしょう、皆さん? これから息子・娘を産んでみてようやく「私の父母もこうだったのか」と分かるのです。それにもかかわらず、自分たちをあのように顧みないで外に出ていくとき、父母はどうして安らかに眠れたはずがあろうか、いつ安らかな時間を持てたであろうか? いつももどかしい心、不安な心を持ったであろう、ということを皆さんは知って、「私たちの父母は立派だ」ということを悟らなければなりません。愛なのです。

 だから二十歳を過ぎれば・・・。産んで十六年も経てば皆分別がつくようになります。(一九八九・一・六、漢南洞公館)

 私たちが願う立場を復帰していくにおいて、それはいちどきに実現できるでしょうか? いちどきに実現できないので、これを復帰するには盲目的に復帰するのではなく、必ず落ちて下がったのなら落ちて下がったその反対の過程を経て上っていかなければなりません。これは言うまでもない事実です。

 さて、それでは本然の人間、本来の人間の立場はどのような立場でしょうか? 人間は神様の直系の子女として生まれなければなりませんでした。もし直系の子女として生まれたなら、神様が私たちを堕落していない人類の本然のその父母、その先祖を中心として愛しながら今日に至ったと考えざるをえません。

 それでは少年時代から壮年時代、あるいは老年時代、すなわち一生について見るとき、神様から少年時代は愛されたのかどうかは分かりませんし、青年時代も愛されたのかどうかは分かりませんが、壮年時代と老年時代を神様の愛の保護圏内で生きたことのある人間でしょうか? 堕落したということを私たちが肯定して突き詰めてみるとき、堕落したその年齢以降の期間は神様の保護圏内にいるのではありません。神様の追放圏内、保護圏外にいるのです。神様の理想圏内にいるのではありません。(一九七二・八・六、前本部教会)

 皆さんの子女たちが二十歳になる前に教会と関係を結んで信仰の機会をつかんであげなければなりません。言い換えれば、高校三年生になる前まで、中学生の時から高校一、二年生になる時までに機会をつくってあげられなければ、その息子・娘は駄目になるというのです。それは協会で出した今までの統計に現れたものです。十七歳まで家庭において、あるいは教会において機会を作ってあげられなかった息子・娘たちは、社会に流されていってしまうというのです。これは重大な問題です。(一九七〇・六・四、前本部教会)























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