み旨にかなった子女指導
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 第二節 家庭教育の必要性

 一 子女教育が必要な理由

 堕落しなかった家庭とは、男性と女性が完全に神様の息子・娘として愛を受ける人々です。神様と完全に一つになった人々です。そのような男性と女性が愛を中心として完全に一つにならなければなりません。その夫婦は夫婦としての目的だけがあるのではありません。子女のための教育が必要なのです。なぜそうなのかと言えば、四方を備えなければならないからです。( ? )

 神様が願われるエデンで暮らせる息子・娘は、字宙性を備えた息子・娘でなければなりません。万物を主管せよとおっしゃったので、主管者としての資格を持った存在でなければならないというのです,( ? )


 二 堕落によって教育が必要

 人間を救うにおいては教育が必要です、教育を必要とするのです。人間始祖は無知な中で堕落しました。皆さんは原理を知っているので簡略に話します。原理結果主管圏から直接主管圏まで行くべき段階にいたアダムとエバは無知でした。少年時代にありました。幼い時から成長していく中で、神様の摂理の全般的なみ意を知ることができませんでした。それゆえ、堕落とは何でしょうか? 知っている立場においては堕落することはありませんでした。知らない立場で堕落しました。私たちの先祖は行くべき本然の道が分からなくて堕落したので、堕落した以後の人間たちは先祖が知ることのできなかったその基準を越えていくことができないというのです。

 したがって、人間の世界にこれまで歴史を通して数多くの偉人たちが現れ、あるいは宗教指導者が現れましたが、私たちの先祖が知ることができずに歩んだ道を悟り、神様が本来願っておられた本然の基準と一致させられる起点を準備できなかったというのです。いかなる宗教、いかなる哲人、いかなる偉人もその内容を明らかにすることができませんでした。

 それゆえ、人間の歴史は無知なる私たちの父母から受け継いだ伝統に従って、無知な状態で、神様の本来の理想的基準とは一致できないままに流れてきたというのです。

 ですから、この無知なる人間を教育していかなければなりません。これが問題になります。このような教育がうまく行われたなら神様のみ旨通りになったでしょうが、教育を誤って神様のみ旨通りにならなかったので、今まで神様に反対するサタン側の所有物に定められてきた、ということになるのです。(一九八五・一二・二九、本部教会)

 堕落したがゆえにメシヤが必要になりました。堕落しなかったなら、メシヤも必要ありません。堕落したがゆえに神様を失いました。堕落したがゆえに人間本然の価値観を失ってしまいました。堕落しなかったなら、人間本然の価値というものは生まれると同時に持つようになっていました。ここでは改めて神様の作用は必要ありません。その必要もありません。それ自体がすでに満たされた立場なのです。さらに補わなければならないものは何もありません。神様を中心にするなら、人間が神様を中心として一つになったなら、知りえないものはありません。私たちにとって、このような根本問題に対する教育というものは必要ありません。

 人間に関する根本問題は何ですか? 食べることです。その次は生きることです。そして生きて最後には愛の問題まで行くことになります。

 皆さんは生まれてから食べることを習ったことがあるでしょうか? お母さんの腹中から生まれれば、自然現象で食べるようになっています。あるいは吸収しなくてはならないようになっています。そこには教育は必要ありません。その相対物があって、それに口をあてれば自然に食べるのだということが分かるようになっています。

 それゆえ、私たちは自然に食べるとか生きるとか愛するとかいう理想を求めるのです。自然の要求に従えば、目的過程を通過して立体的な感覚の世界、立体的な価値観の世界に触れるようになるのが堕落していない本来の存在です。

 これが堕落したがゆえに逆さまになりました。逆さまになったので、これを正しく立て直さなければなりません。人間を産むときに、頭は下を向いておしりは逆になっていますが、これを再び反対にさせなければなりません。人間のような形をしていますが人間ではありません。ですから、そのような立場に立っています。堕落したがゆえにこのような運命に引っかかっているのです。

 ですから、私たちは堕落観念に徹しなければなりません。それを元通りに転換しようとすれば、まず何を感じなければなりませんか? メシヤを求めることよりも堕落観念をいかにして確実に体恤するかというのです。何としても堕落観念に徹しなければなりません。堕落観念に徹すれば徹するだけその願う力が強くなります。(一九七二・四・二三、東京教会)

 個人は歴史的所産です。家庭も歴史的所産であり、国家、世界も歴史的所産です。それでも、その歴史の所産の中で善の所産がどれだけあるかというのです。私という個体において比重を計ってみると、善の所産がどれだけあるでしょうか? 皆さんが暮らしている生活環境の中で善の所産が何パーセントになり、皆さんの個体の人格の中で何パーセントになるかというのが問題です。

 悪に接しうる要因をたくさん持っているのか、善に接しうる要因をたくさん持っているのかということを見るときに、全体が悪に接しうる要因によって囲まれています。

 悪が行く道においては教育が必要ありません。教育を受けなくても、だれでも行けるのです。悪から始まった歴史なので、教育を受けなくてもだれでも行けるというのです。悪の道を行くように教育する必要性がありますか? ひとりでにそうなるので、今日人倫道徳を中心として良心の基準を中心として分別しながら生きろと教育するのです。

 何を中心とした教育でしょうか? 善を中心として、良心を中心として教育したにもかかわらず、その教育の基準に立脚した人がどれだけいるでしょうか? 悪いことは習わなくてもだれでも皆できるのです。だれでも皆満点になれるのです。(一九七〇・一一・一五、前本部教会)

 悪に教育の必要がありますか、ありませんか? 悪い人をつくるのには教育が必要ありません。教えてあげる必要がないというのです。そのまま放っておけば、自然に悪い人になります。体がしようとするままにすれば、間違いなく悪い人になります。なりますか、なりませんか? (なります)。そこのおじいさんはどうですか? 体がしようとするままにしてみれば悪い人になりますか、善い人になりますか? (悪い人になります)。善い人になろうとは思うことすらできません。間違いなく悪い人になります。(一九七一・一・八、春川教会)


 三 宗教を通した家庭教育

 イエスには愛することのできる家族がいたでしょうか? イエスは母親を愛しましたか? 愛することができなかったのです。父親を愛しましたか? 父親は義理の父親だったのです。弟たちを愛しましたか? 弟たちをも愛することができなかったのです。だれを愛しましたか? 愛の主人公として来た張本人であるにもかかわらず、母親と父親をだれよりも愛そうとしたにもかかわらず愛することができなかったというのです。本来のアダムとエバが神様から愛の教育を受けられなかったので、イエスがそのような愛を母親と父親に「このように愛して生きなければなりません」と教えようとしたというのです。しかし、彼の母親と父親はイエスの言葉を聞き入れませんでした。

 愛を教育するにおいては、ユダヤ教の礼法を経た立場で、神殿理想を完成した立場で行わなければなりません。イエスは神様の代身として、父親の代身、新郎の代身、兄の代身、愛の主人公として来たので、マリヤ家庭全体は神様の代身としてイエスに侍らなければならなかったのです。イエスはヨセフに対して「おい、ヨセフ!」というようでなければなりませんでした。ヨセフは父親ではないのです。また、マリヤに対しても「マリヤよ!」というようでなければならなかったというのです。彼らが教育を受けなければならなかったのです。

 ところが、彼らが教育を受ける状況にあったでしょうか? 人情を通して見るときは父子の関係でしたが、天情を通して見るときはイエスが主体なので、イエスが神様の愛を代身してきたので、その愛の道理に従って、彼の父母から彼の兄弟まで、すべてイエスから教育を受けなければならなかったのです。父母はこのように生きなければならないし、兄弟たちはこう生きなければならない、兄弟の中で私の相対はこのような女性でなければならないと教育しなければならなかったというのです。ところが、イエスはそのように教育をしましたか? 聖書にそのような話がありますか? これは、本物の葉を抜きにして、枯れ葉だけを持って天国へ行こうと騒いでいるのです。(一九七一・一一・二一、前本部教会)

 韓国は歴史的に見ればユダヤ民族と似ています。極東のユダヤ民族だと言えます。日清戦争が韓国ゆえに起こったし、日露戦争、大東亜戦争もやはり韓国ゆえに起こりました。アジアで最も難問題となる国も韓国であり、国連ができた後、国際議員たちが最も頻繁に集まって議論した国もまさしく韓国です。不思議でしょう? しかし、これほど数多くの事情の中でもこの民族は滅びませんでした。

 韓民族は、一人ひとりを見れば皆とても優秀です。世界のどの民族と比較しても、一対一で見るときには最高に優秀な民族です。ところが、親たちが教育を誤ったのです。ですから実の父親が教育を十分にできなかったため、私たちが義理の父親のような立場で連れてきて、しっかり教育をして素晴らしい人をつくろうというのです。これを統一教会がしようというのです。(一九六七・六・一一、前本部教会)

 それでは宗教は何を教えるのでしょうか? 体が願うままに食べて楽しんで踊りを踊れと教えますか? 時代が進むほど、若者たちに教えるのが難しくなっていきます。(一九六七・五・二一、前本部教会)

 天国は心情の世界です。教理の天国でもなく、教派の天国でもなく、心情の天国です。神様がこの地上で民と宗教者を捜し出そうとされるのはなぜですか?

 息子・娘をつくるためです。どのような息子・娘をつくるためですか? 「私の心はこうなのだよ」と語りながらその心情を吐露できる息子・娘をつくるためです。(一九六〇・六・一ニ、前本部教会)


 四 世の中の教育の限界

 むやみに信じることも学ぶこともできない世の中です。誤ったことを学んだら大変なことになります。安心して暮らすこともできません。共産主義者といっしょに暮らしたら大変なことになりませんか? けんかもまかり間違えば大変です。むやみにけんかもできません。(一九六二・一二・一〇、前本部教会)

 これまで人間たちは、自分の息子・娘を産んで育てる目的を自分の家庭がよくなることにおきました。逆さまになっています。今日は逆さまになった時代です。天が喜び、世界が喜び、国が喜び、社会が喜んだその次に私が喜べるのです。これが本来の原則なのに、堕落して逆さまになりました。「私から喜び、次に私たちの家庭が喜び、その次に私たちの社会が喜ぶようにしよう」という主張です。逆さまにしているというのです。

 天はそういう観点からこの地上を見つめられるので、そのような人間たちを強く打って逆になった時代を終結させていくのです。「復帰の道は打つ道だ。おまえの体を打て」と言われます。キリスト教はそのような修道の道を行くので、個人的にも迫害され、家庭的に迫害され、民族的に迫害され、世界的に迫害される路程を経ざるをえないのです。(一九五九・一一・二二、前本部教会)

 今日アメリカの教育方法は個人主義的ですが、これは何の役に立ちますか? そっくり枝から切って捨てろというのです。切り捨てろという話です。完全に切り捨てろというのです。(一九七九・一〇・二一、ベルベディア修練所)

 アメリカの若者、個人主義、自分の利益を追求する、これは何ですか? プラグマチズム(実用主義)のような、生活利益を中心とした教育を受けた人々が完全に一八〇度ひっくり返らなければなりません。キリスト教思想を持つこの国が、なぜ個人主義になったのですか? これは神様がしたのではありません。サタンのいたずらによって、このような結果になったと見るのです。何の話か分かりますか? (はい)。( ? )

 皆さんは現在アメリカの自由主義的な教育を受け、それが習慣となり、生活感情やすべてのものが自己を中心として動く体制内にいるため、困難が多いことをよくよくうかがい知ることができます。(一九七三・三・一七、ベルベディア修練所)

 私がアメリカ全域を回りながら感じたことは、絶対アメリカで暮らしたくないということです。また、子女たちを教育するにおいても、絶対アメリカでは駄目だというのです。(一九六九・一〇・三、東九陵)


 五 教育の基準―善

 人はだれかれを問わず、どんな人になりたいかというとき、良い人にならなければならないと言い、またそうなることを願っています。先生が講堂に立って、小学校の生徒たちに「君たちは将来、大韓民国にとって素晴らしい人にならなければならない」と教えるでしょう? 同じく中学・高校の学生たち、大学生たちにおいて教育の基準になるのは、あくまでも「良い人になれ」と教えることです。(一九七一・二・一七、城北教会)

 個人のために生きる人の中には善なる人は少しもいません。今、東洋で、教育や道徳の基準は何でしょうか? 善です。(一九七二・一〇・二九、前本部教会)

 「人々は良い心を持ち、犠牲になる人が良くなる」ということは、具体的な内容は分からなくても、漠然とですが、今日人倫道徳を中心として一律的に教育の目標になっており、教養の目標になっていることを私たちは知っているのです。それはなぜでしょうか? 落ちた立場からより高い一点を願っていて、天は不可避にそのことを一対一の場で細密に教えてあげられないので、暗に象徴的にあるいは比喩的に教えてあげるのです。そのように教えてあげるのが今日善を行えという、積善をしろという話だという事実を私たちは知らなければなりません。(一九七二・一一・五、前本部教会)

 善なるものとはどのようなものですか? 発展させることのできる原動力です。ですから与えなければなりません。与えるにおいては、何を与えるべきでしょうか? 一番悪いものを与えるのではありません。服の切れはしを与えるのではなく、食べ残しを与えるのでもありません。生命を与えなければなりません。生命だけではなく、一つしかない愛まで与えなければなりません。これが父母の愛です。それゆえ、統一教会では父母の心情を抱き、僕の体を受肉し、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流しながら愛を与えよと言うのです。そうすれば滅びるはずがありません。絶対に滅びないというのです。(一九七〇・九・一三、前本部教会)


 六 一番大きな教育

 先生に会って、なぜそんなに皆さんは喜ぶのでしょうか? 本心がそのように喜ぶのです。なぜ? 自分の夫よりも、その国の王よりも、その国のどんな先生よりも、天倫の愛を接ぎ木するのに近い距離にあるため、本心はそちらに行くのです。人間が教えてあげるから行くのではありません。本心がそちらに行くのです。

 教育がある前に愛があるのです。最初、創造物が存在する前に、その原則的基盤が愛から始まったために愛があるのです。本質がそうなっています。物質もそうであり、物質を糾合して人体となった人間も、物質の器に込められている愛、神様の最高の愛に帰ろうとする心があります。本心がそうだというのです。(一九八六・一〇・一、本部教会)

 皆さんもそうです。皆さんは神様の愛を受けながら死ぬことのできる場で即座に死ぬのと、愛を受けられず死ぬのとどちらがいいですか? 皆さんはどちらがいいですか? (愛を受けて死ぬほうです)。皆さんは神様の愛を受ける死の道を通るのですか、ただ普通に生きるのですか? どうですか? うん? (愛を受ける死の道です)。同じ道理です。皆さんは神様の愛のために死ぬ自信がありますか? (はい)。そうできるという人は手を挙げてみなさい。そうなれば、皆さんが死んだ時のその思想は、骨と肉と同じようにすべての国民の思想に、血・肉となり力となり、エネルギーになることができるというのです。同じ道理だというのです。そうでしょう?

 ですから、正しい指尊者は「死ぬ時には愛のために死ね」というのです。教育の中で最大の教育は何でしょうか? 「死ぬなら愛のため死ね」というのが一番大きな教育だということを知らなければなりません。それはハーバード大学に行って学位を十個取ることよりもっと偉大な教育だということを知らなければなりません、分かりますか、何の話か? (はい)。

 では、私たち統一教会は何をしようというのですか? 一体何をしようというのですか? 「最高の愛のために死のう。神様と人類と世界のために死のう」というのです。「このような作用も愛のために始まったし、このような方向も愛のために始まったし、このような目的も愛のために始まった。男性と女性も愛のために始まったし、母親と父親も愛のために始まった。息子・娘も愛のために始まったし、宇宙のすべても愛の贈り物のために始まった」ということを教えるとき、これ以上の教育がないということを知らなければなりません。これ以上の教育はありません! このように生きて逝った人は、きっと神様の前に行っても恥ずかしくないことでしょう。何の話か分かりましたか? (はい)。(一九七七・五・二九、ベルベディア修練所)

 さて、神様は天国におられます。理想的天国におられます。それでは理想的天国において、神様の近くで侍って暮らせる人はどんな人でしょうか? 神様のような人だとすれば、神様が怨讐を愛する神様なら、怨讐を愛するために努力し、そのためにすべてを投入する人が、神様のおられる高い宝座の近くに行って暮らすことでしょう。どうですか? そうですか? (はい)。皆さんは、そういうことを嫌っているではないですか。どうですか? (笑い)

 このように見るとき、教育の中で一番貴い教育とは何でしょうか? 修養の中で一番貴い修養は何でしょうか? どんなに良い教育だ、教養だと言っても、怨讐を愛そうと努力するために学び、そのような努力をするために修養することが一番良いことです。このような結論が出てくるのです。

 「耐え忍ぶ」の忍という漢字を見れば、「忍ぶ」という言葉は心に刃を立てるという意味になります。分かりますか? そういう意味があるのです。大きな荷を背負って大きな仕事をしようと思えば、この耐え忍ぶことが何百、何千、何万、何百万、無限でなければならないというのです。(一九八三・二・六、ベルベディア修練所)


 七 産むことよりも立派に育てる

 男の子を産みたいと待ちこがれてきた夫婦は、男の子を産んだとしても、その子を産んだことだけで満足してはいけません。その男の子がかわいいだけ、どうやって価値のある息子に育てるかという問題を心配しなければなりません。このような心配をしながら息子をかわいがる人であってこそ、天理を知る人なのです。しかし、このような心配もせずに、ただ男の子を産んだことだけを喜んでいるならば、その人は出発から間違っている人です。どうしたらこの息子が国に必要な人として育つか、という心配をするようでなければなりません。そのような息子として育てるために男の子を願ったとすれば、それは出発から国のために出発したという条件になるのです。これは重要な問題です。

 皆さんは今、伝統的な内容を持つ神様の息子・娘の立場に立っていますか? そのような伝統を持ったならば、どの方向に行っても大丈夫です。東に行っても大丈夫ですし、西に行っても大丈夫です。それ(伝統)は横に伸びていくものなので、横的に発展できる基盤になるのです。そのような人はどこに行っても目的の世界に向かっていくのです。

 そのような人は学校に行ってもいいし、職場に通ってもいいのです。そのような人は大学に行くとしても問題にはなりません。大学に行っても、その中心が完全ならばそこからみ旨に向かっていくことができるのです。また、職場に通いながらもみ旨の方向に行くことができます。(み旨を歩む)形態が少し誤り、方向が違っているように思えますが、み旨に向かっていくことにおいては違っていないのです。直線で行かずに回っていくかのようですが、そうではないというのです。(一九七〇・八・二九、中央修練所)

 皆さんは自分の息子一人を教育するのも大変でしょう? その子どもは自分の血肉を引き継いだ息子・娘です。母親が涙を流せば、心が通じて一緒に涙を流せる息子・娘です。父親が涙を流して悲しめば、ともに悲しむことのできる心が自然に生じる息子・娘であるにもかかわらず、彼らを指導して育成しようとすれば、極めて難しいことではないですか? それを見るとき、今日の私たち人間は神様の息子・娘ではありません。神様がどんなに泣いても知らん顔です。神様がどんなに悲しがっても知らん顔をしているのです。これは人間がサタンの血肉を受けて生まれたからです。むしろ神様が悲しむことを見て讃揚します。滅びるのを見れば喜んで笑うというのです。神様はこのような人間を前にして、指導し開拓の方向を教えてあげようとするのですから、どれほどご苦労が多いでしょうか? しかし、一から百、千、万まで他のために尽くされる心、哀れにお思いになる心が神様になかったなら、神様はこれまで摂理歴史を抱えて歩んでくることができただろうかというのです。(一九七一・三・二一、前本部教会)

 先生のやり方は滅びるやり方のようですが、歴史の中で一番素晴らしいやり方です。それゆえ、私がひたすら世の中で排斥され追われながらも、このようにしてみると・・・。成功したのはだれでしょうか? 私に反対した人は皆死んでしまい、その整えられた基盤はすべて私のところに転がり込んでくるのです。じっとしていても、遠い海の果てにいても。皆さん、「十戒」の映画を見ると、イスラエル民族が海を割って渡っていくのですが、あのように福が海を渡ってくることは問題ではありません。太平洋を渡ってくることは問題ではありません。自分の主人を捜し求めてころころ転がってくるのです。

 このような原則を中心として先生が今まで闘争してきたことを考えるとき、文先生は絶対に滅びることが、できる? (できない)。できないのです。子どもたちにこのような教育をしっかりとしなければなりません。私がなぜこの話をするのでしょうか? 重大なる私たち一家において、今やアベル家庭を中心とした伝統をはっきり教えてあげなければならないがゆえに、この話をするのです。(一九八四・二・一三、アメリカ)























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