統一教会と食口たち
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第二節 宗教の役割と使命

一 宗教に与えられた使命と目標

1 宗教は絶対者と因縁を結ぶ方便

 宗教とは何をする所でしょうか? 神様と連結して神様の根源と目的を連結させるための使命を果たす所です。(一九七六・一一・一四、アメリカ)

 私たち人間はこの世のものによっては満足を感じることができません。天と地をとろかしうる絶対者に侍る所でだけ、最高の幸福を得ることができ、最高の価値を賦与されえます。このために人間たちはきょうもあしたも向かっているのです。宗教というものはこの絶対者と内的に因縁を結べるようにするのです。外的な面ではなく、内的な面で摂理してくるのが宗教です。外的な面は悪が支配し、内的な面は善が支配しています。この善を中心として理念の世界を成さなければなりません。善の理念は内的な反映によってなされるのです。内的な面を無限に追求して理念の世界を探し、最後には創造主を見いだして永遠にそのお方に侍り、そのお方とともに喜び生きようとするのが、宗教が追求することです。(一九六一・二・一二、前本部教会)

 今日、宗教の本質的根本を追究してみればそれがまさに神であり、その心情世界の主体的な立場にいるのが神様であるのに、その神様がどのような立場に立っているのかを知らずに神様のみ旨をどのように成し、また神様のみ旨を成しておいたところで、それでどうしますか? 役に立たないというのです。(一九七六・三・三、水澤里中央修練院)


2 宗教とは善の一つの中心を捜していく歴史的な道

 今までの歴史が、(すべてのものを)率いうる一つの中心を探して行く過程の歴史なら、受け入れる余地がありますが、そうでない歴史なら壊してしまわなければなりません。今皆さんもそのような過程にあるなら幸いですが、そうでないなら絶望です。

 (すべてのものを)率いうる一つの中心を探せと良心は命令します。催促しています。それでは皆さんは率いうる一つの中心を探して、彼が願うままに率いられうる適当な基準となっていますか?

 目的は一つでなければなりません。良心は一つの目的に向かって進んでいますが、体はその反対の方向に向かっているので、その広がる角度が苦痛として現れるようになるのです。

 天地の目的があるならその目的の主人はだれでしょうか? 皆さんは目的のその主人が皆さんを導いていることを知っているはずですが、その目的の主人はだれでしょうか? 万民の良心がとどまることのできる一カ所がなければなりません。その中心は人間よりももっと高次元的な存在でなければなりません。その目的の中心は悪を受け入れません。

 善でなければ率いることができず、善でなければ一つとなることができません。目的に向かって進んでいる皆さんは善なのでしょうか、悪なのでしょうか? 自分の何パーセントが善で、何パーセントが悪でしょうか?

 私たち自身は善と悪の中で闘う中間存在です。今、人の世で善に属することのできる資格者がいますか? いません。だから、人間たちはすべて率いられなければなりません。

 自分の全部を捨てて、他人とともに行こうとするのが善であり、全部を持って一人で行こうとするのが悪です。心では善を願い喜びますが、肉身は嫌います。善を指向する過程で一番の怨讐が肉身です。

 善の創造主がいるならば、そのお方は人類を救うために心を砕かなければならず、人間の良心作用に力を加えるために心を砕くお方でなければなりません。それでこそ創造主になれるのです。良心作用に力を加え、伝わってきた痕跡が歴史上に残っていますが、これが宗教です。

 宗教! 善の神様が弱い人間の良心を動かし摂理したという歴史的な痕跡が宗教です。それゆえ、歴史が変わり世界が変わっても、善の根本中心は変わりませんでした。文化圏の発展史を見ても、善の創造主のおられることが分かります。歴史以来、宗教を中心とした多くの文化圏がありましたが、それらは歴史の流れに従い一つの目的に向かって発展してきました。

 現在ではキリスト教文化圏、回教文化圏、ヒンズー教文化圏、仏教文化圏の四大文化圏がありますが、これらもキリスト教文化圏を中心として一つとなっていく過程にあります。これは否定できない事実です。(一九六二・一二・一六、清州教会)


3 宗教が提示すべき重要な基準

 今日、宗教というものは一体何をするために現れたのかという、このような問題を踏まえてみると、宗教は今日人の世に、歴史的な人間世界の前に、一つとなれない人間たちを一つにする責任を果たすために現れたと見るです。

 では、宗教が主張するのは何でしょうか? 宗教は何を主張しなければならないのでしょうか? 私たち個人を一つにしなければなりません。一つにするにおいては心と体を一つにしなければなりません。ところが、今まで人間の心の方向は個々人が持つ思想や観念に従い全部異なりました。ある学者として自分の専門分野を研究する立場で自分の生涯を捧げていく人は、その専門分野、学問ならば学問に向かった心の方向を持ち、そこに体を一致化させることをするのです。それなら神様を中心として人間たちが願う最高の天国というものは、何が基準となっていなければならないでしょうか? 変わらない心の基準です。

 どんなに歴史が発展し変遷するとしても、発展せず変わらない心の基準、どんなに環境が急変し時代が変遷するとしても、そこに支配を受けずいつも変わらない絶対的な一つの心の基準を持つことが必要なのです。

 その心の基準は私なりの心の基準ではありません。それは人類共通な心の基準でなければなりません。それだけでなく、天地を創造した絶対者がいるなら、その絶対者の心の基準と相対的な関係を結ぶことができ、もしくは一体となりうる内容を備えることのできるものでなければなりません。そのような立場で、一つの主体的良心基準を立てなければならないと見るのです。

 それゆえ、宗教は神様を中心として私たちの良心基準を一致化させることをしなければならないのです。神というお方がいれば、その神の前に私の良心基準が変わってはならないのです。ですから、絶対的な神の前に絶対的な不変の心の基準をどのように立てるのかということが、宗教が提示すべき重要な基準だと見るのです。

 万一、これが食い違えば、時代に従い、もしくは自分の事情に従い、これが変遷するなら、神のみ旨を成すべき一つの宗教としての使命を果たせないと見るのです。そのような意味で、絶対的な神と私たちとの良心基準が一致するようにすることが、人類社会の歴史過程を経てきた宗教の使命だと見るのです。(一九七六・二・一、前本部教会)


二 宗教とは故障した人間を再生する所

1 宗教とは故障した人間を修理する修理工場

 堕落によって私たち人間は体と心が闘う人となりました。私の中で二つの目的を指向する要素が闘っています。家庭を築けばこれが四つになります。十人になれば二十人になるのです。このように見ると、この世界は不幸の世界だということを否定することができません。このような人間たちとなっているのに、絶対的な神様がいるなら、このような人間をそのままお見捨てになることはできません。万一、そのまま見捨てる神様であるなら、神様はいないのです。人間がこのように故障したので、神様は人類歴史の背後でこれを修理するための修理工場をつくり始めたというのです。それが何でしょうか? それが宗教です。宗教は神様の前に帰れと教えるのです。神様を、神を中心としない宗教はないのです。

 神と関係がうまくいっていないので、関係を結ばなければ帰る道がないのです。だから、文化が違い、伝統が違い、人種が違うそのような背景を通して、数多くの宗教形態を広げておいたのです。そうして神様を中心として神様の目的、神様が願う目的を指向していくのです。(?)

 神様が私たちに高貴なその偉業としてくださった愛の理念、絶対的価値の理念を喪失してしまい、今日私たち自体は反対する二つの現象世界で呻吟して生きる悲惨な人間だということを知らなければなりません。言い換えれば、故障した人々となっているのです。ところが、絶対的な神様は人間に相対するしかないので、この人間をそのままおいておくことができず、歴史過程を通して再生させる運動をしなければならないというのです。すなわち、修理工場をつくらなければならないというのです。それが何かと言えば、宗教だというのです。(一九七二・二・三、前本部教会)


2 故障した人間を再生する再生倉庫

 それでは、神様は善なるお方ですか、悪なるお方ですか?(善なるお方です)善なるお方なら良いお方です。善であるなら良いお方ですが、良いお方なら、人類が争っているのを見物している方が良いお方になることができますか? 良いお方となることができますか、できませんか? できないというのです。ですから、神様が善なるお方なら堕落した人間たち、体と心が争うこのような悪党連中の争いを止めなければなりません。

 それを是正し、もう一度修理するためにこの地の歴史的な摂理路程の上に神様が改造運動をするのです。これを一つにする運動をした実績があってはじめて神様がいると言うことができます。それを一つにする運動をする機関が何かと言えば宗教です、宗教。

 では、人に宗教が必要でしょうか、必要ではないでしょうか? 絶対に必要なのです。ここにはじめて来た人々、あちらの女学生たちは、「人に何の宗教が必要なの? それは弱い人たちが信じるのであって」と言うかもしれません。近ごろ、何、いわゆる知識層にいる人々は「私たちのような人々は皆この世で指折りの立場にあるのに宗教が何だ? それは皆弱者が信じるのであって。神様が何何? 私が神様だ」と言います。それはそうなっていません。

 宗教の力・・・。宗教は何をするためのものでしょうか? 神様が宗教というものを立てて、何をしようとするのですか? 故障した人間を再生するためなのです。再生するためなのです。再生産する所なので、それは再生倉庫です。再生倉庫であればどうなるでしょうか? つくり直さなければなりません。そのままでじっとしておいて修理することができますか? 修理しようとするなら分解しなければならないのです、全部。分解しなければならないでしょう? そのままじっと、いいように置いておきますか? 全部分解して直しておかなければなりません。(一九六八・八・一一、馬山教会)

 では、今まで宗教を通して何をしてきたかと言えば、故障したものを改造してきたのです。個人改造、家庭改造、国家改造、世界改造、全体改造運動をしてきたのです。神様がいるなら歴史時代にこれをしてきた跡が必ずあるべきだということを私たちは否定することができません。そうでなければ、神様と人間とは関係がないというのです。

 だから、見てみれば宗教というものがそのような使命を果たしてきたのです。神様を中心として、人類を中心として拡大して文化圏を形成してきたのです。それで、宗教的に見れば、四大宗教文化圏があります。西欧社会を中心とするキリスト教文化圏、インド社会を中心とするヒンズー教文化圏、儒仏仙の三宗教を中心とする極東文化圏、イスラム教を中心とする回教文化圏など、全部地域的に何千年の長い歴史を中心として、その基盤を世界的に拡大してきたのです。(一九七七・一〇・一、米・ロサンゼルス)


3 統一教会は総合修理工場

 宗教の目的は体を全部サタンの前に渡すためのものではありません。そうでしょう? 宗教の目的は心を中心として体まで支配して、その体も天の側の完成圏内に神様の愛を受けるようにしようというのです。ところがキリスト教はどのようになっているかと言えば霊的なものだけです。心的人だけを世界型として集めておくのです。だから、体を全部一つにして愛しうることが起こらなければならないのです。新しい思想で体と心を統一することのできる統一方案を備えなくては一つにすることができないので、来られる主は天下を一つにするために来られるのです。

 一つにするには強制でするのではありません。雙和湯(疲労回復に用いる煎じ薬)のように、雙和湯、天地雙和湯として来るのです。皆さん、雙和湯が何だか知っていますか? 二つ(雙)が互いに和する湯です。だから、薬になるのです。そのように、来られる主も堕落によって天と地が分かれたのを全部和合して一つにしなければならないというのです。

 では、一体統一教会とは何でしょうか? 統一教会で主張する統一の方案はどこから実現するでしょうか? 個人からそれをして、それを家庭にそのまま適応させ、家庭に適応させたのを社会に適応させ、社会に適応させたのを民族に適応させ、民族に適応させたのを国に適応させ、国に適応させたものを世界に適応させながら間違いなく終わりまでそれをすることのできる思想を持った所です。そのような統一教会なら、統一教会は間違いなく統一教会となることでしょう。統一教会は間違いなく統一教会となるということです。それが何の話か分かりますか?

 修理工場は神様がつくったのですが、四大宗教文化圏として広がっているのを全部引き入れて修理工場で・・・。そのまま修理をするなら、足をつくり手をつくり全部ずたずたになるので、一番最後、終わりの日になれば、それを総合して修理する総合修理工場が出てこなければなりません。総合修理工場、分かりますか? その総合修理工場の使命を果たそうというのがいわゆる統一教会です。はじめて来た人たち、分かりますか? 統一教会は何をする所ですか? 総合修理工場だというのです。

 では、総合修理をするにおいて個人だけ修理するのでしょうか? 違います。個人も修理しなければならず、家庭も修理しなければならず、氏族も修理しなければならず、民族も修理しなければならず、国も修理しなければならず、世界も修理しなければならず、共産党も修理しなければならないというのです。分かりますか? 全体を修理する使命を持ってきた修理工場が統一教会だというのです。

 それゆえ、統一教会に入って修理が完全にできたと言うときは、その個人をサタン世界に投げ込んでも退かずサタンに勝つ個人になるというのです。家庭的に見捨てても滅びる連中にならず、神様の愛を受ける家庭になるというのです。そうして、子どもたちを産んでも神様が愛する息子・娘になりうるというのです。違うというのです。

 だから、氏族たちが一つになって民族を形成し、民族が一つになって国家を形成し、国家を一つにして世界を形成しようというのが統一教会です。統一教会の思想だけ完全に持ったと言うときは、いい加減に放っておいてもサタン世界とは関係がなく、個人として雄々しく立って家庭を築き、その家庭において息子・娘を産んでもサタンが侵入できず、その息子・娘を中心として金氏なら金氏一族をつくってもサタンが関係を持てないのです。そのような氏族をつくることのできる教会になろうというのが統一教会です。サタンが侵入できない氏族が一つになれば民族となります。このように永遠に滅ばない民族をつくり、永遠に滅ばない天国をつくろう! これが統一教会思想です。(一九七二・五・一四、水澤里)


三 神様のみ意の世界をつくる所

 一体宗教とは何でしょうか? 宗教が何をする所かと言えば、神様のみ意の世界をつくるために働く所です。骨子はそうです。骨子を出そうとすれば、題目はそうなるというのです。み意の世界。(一九七六・三・四、全州教会)

 宗教というのが何かと言えば、理想の、神様の愛の世界を捜していくための訓練道場です。そこで一段階高めて本然の位置まで導いていく使命を分担されたのが世界的宗教だというのです。

 人間の先祖が堕落せず神様の愛と一つとなったなら、これは永遠なる幸福の基点となっていたでしょうが、これを失ってしまったので再び捜し出して合わせなければなりません。失敗したのを再び持ってきて合わせるために、人類の先祖の代表として来るその中心存在がだれかと言えばメシヤであり、それを果たさなければならないのがメシヤの使命だというのです。(一九七六・六・二、アメリカ)

 宗教の使命が何かと言えば、来られる真の息子のために彼が必要とする家庭を準備し、彼が必要とする氏族、民族、国家、世界を準備し、サタン国家を全部征服して、これを全部率いることができるように準備するのです。これが宗教の使命です。メシヤがこの世界だけ持たなければならないでしょうか、この堕落した世界全体を持たなければならないでしょうか? 全部持たなければなりませんか、部分だけ持たなければなりませんか? どちらですか? 全部持たなければなりません。

 私たちはここで宗教の意味、救援摂理の意味が何かということを知ることができます。救援摂理の意味は全世界を救うことです。神様が人を愛する息子としてつくってから、神様がたたき殺すことができず、地獄に送れないことを知らなければなりません。それゆえ、救援摂理はサタン世界内に一人も残さず完全に救ってサタンを追放し・・・。サタン世界内にサタンだけ残るようにし、人という種は全部神様が連れていこうというのです。(一九七五年一一月二日、ベルベディア修練所)

 それでは善とか宗教とかいうものが願うのは何ですか? 何をしようというのですか? 宗教が何をし、善が何をしようとするのかというのです。善をしては何を持とうというのであり、真なる宗教をしては何を持とうというのですか? 絶対的な一つの世界のために生きるのにおいて助けになることのできる条件を中心として、大きな善とか小さな善とかいう制度が全部分別されるということを知らなければなりません。

 善というものが個人主義を強要するところにありますか? あの人がよい人だと言うとき、自分のためにすべて働く人を見てそうですか? 全体のために生きる条件圏内で自分が占めることができ、持つことのできるその範囲が決定され、広く大きい開きによって気高い人格、さらに価値ある存在が決定されるのです。そうでしょう? それはなぜそうですか? 神様と連絡して神様とともにいて、神様と一つになろうとするのです。それを知らなければなりません。

 善を追求するすべての主義は全体主義に属するというのです。神様を中心とした全体主義の中に。私たちはこのような観念をここで捜し出すことができるというのです。だから、偉大な宗教は世界的です。民族を超越しています。その宗教を持っていることは国家を超越しているので、国家も干渉することができない、としておいたというのです。

 それでは、神様が宗教を通して何をしようというのですか? 宗教を通して世界を神様の主権圏内に追いこもう、神様の統治圏内に追いこもうというのが神様の目的であらざるをえません。だから、それで何をしようというのですか? 神様の下に置くと同時に人間の下に置こうというのです。人間を通して支配しようというのです。(一九七七・五・一五、ベルベディア修練所)


四 本郷の法度を教えてあげて訓練させる所

 私たちの本郷の世界が、その本然の世界が神様のおられる、天地の大主宰たるお方のおられる所であるので、その本郷の法度に適することができるように訓練させるための場所が何でしょうか? いわゆる、宗教だということを知らなければなりません。今日、宗教の使命が何かと言うときに・・・。教権主義者たちのように自分の教派のために生きるのが神様のみ意ではありません。自分の教圏を越えたとしても、神様のために人類のために生きる教派とならなければなりません。自分の教会のために生き、自分の教会のために闘うのではなく、サタンを相手にして闘い、人類のために行く教派とならなければなりません。皆さんがこれを知らなければなりません。

 それゆえ、今日宗教というものはその本郷の世界に入っていけるように、その法度に合うよう訓練する所です。ですから、歴史以来、神様のみ旨に従った数多くの宗教は自分自らを否定することをしました。「犠牲奉仕せよ!」これがなぜそうなのかを今まで知らなかったというのです。なぜ犠牲奉仕をしなければならないのか、分からなかったというのです。それは本然の世界がために生きることのできる本郷であるからです。ですから、その世界に行くためにはそこに行くことのできる訓練と準備を整えなければなりません。したがって、高次な宗教であるほど犠牲奉仕を強要したのは、歴史時代において神様が歴史過程を通して摂理してきたという歴史的な事実であることをここで公認することができます。神様がいるということを公認することができるというのです。(一九七五・四・一四、ソウル奨忠体育館)

 では、神様がおられるあの天国、神様がおられるあの霊界はどのような組織になっているのでしょうか? その組織構造は簡単だというのです。天国に行くことができ極楽に行くことのできる人々は、自分のために生きた人々ではありません。そのような人は行くことができないのです。全体のために生まれて全体のために生きた人の行く所が天国だというのです。

 皆さんは霊界を体験した経験がないかもしれませんが、私は天の恩賜によってたくさんの霊的世界を体験しました。その世界に入っていけば、自分のために生きる人は一人もいないというのです。神様のために生き人類のために生きた人々が全部あの世界に行っているのです。

 神様がこのような理想的原則、理想起源を立てたので、その起源たる本郷の地はその法度によって成された世界であることに間違いありません。それゆえ、その世界を捜してこようとする数多くの人類に対して、そのような本郷の法をこの地上に教えてあげざるをえないのです。

 地上にその法を教えてあげるために訓練させる舞台がどこかと言うと、これがいわゆる宗教だというのです。宗教は何かと言えば、本郷に入っていくときに、その故郷の法を生きている間地上で訓練されてその法度に適応することのできる人格を訓練されるためのものです。これが今日宗教生活の道理であることを知らなければなりません。

 高次な宗教であるほど自らを強調しないのです。高次な宗教であるほど温柔謙遜を強調するのです。さらには犠牲奉仕を強調するのです。なぜそうしなければならないのでしょうか? 本郷の地の法則がそうであるからです。人間はどうせ本郷の地を捜していく旅人のような身の上なので、本郷に行って暮らすその法度に適するように訓練しようとするので、高次な宗教であるほど犠牲になれというこのような教訓を教えてきたのです。歴史的な宗教がこのような使命を引き継いできた事実を踏まえてみるときに、神様は歴史過程で宗教を通して摂理してきたという事実を、私たちは否定することができないのです。(慶北室内体育館)




















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