統一教会と食口たち
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第二章 統一教会

第一節 統一教会の摂理とその背景

一 統一教会の公式名称

 私たちの教会の名称を見れば、「世界基督教統一神霊協会」です、世界基督教統一神霊協会。「世界基督教統一」と言えば、世界のキリスト教を統一するということであり、その次に「神霊協会」に「神霊」が入っていますが、神霊は人間世界ではありません。霊的な世界です。世界のキリスト教を統一したその基盤の上に神霊なる役事が起こるというのです。神霊なる役事を成して世界を一つにしようというのです。それゆえ、万一、神霊を外せば何ですか? 既成教会と同様です。「世界基督教統一神霊協会」から神霊を外せば「世界基督教統一協会」になるでしょう? 神霊を外せば何にもならなくなります。(一九八七・九・二七、本部教会)

 統一教会の公式名称は「世界基督教統一神霊協会」です。何の協会だというのですか? 神霊協会です。統一原理教会ではありません。もとが違います。神霊を離れては統一が起こりません。(一九七三・七・二九、前本部教会)


二 統一の真なる意味

 ここは何教会ですか? 統一教会! 何教会ですか? 統一教会? 同一教会もいいにはいいです。「同一の同」の字、ともに一つになりうるのが「同」の字なので似ているでしょう。ソウルに行けば、同一教会があるというのです。いつか新聞を受けとってみると、統一教会に来たのですが、同一教会のものが入ってきました。それで私がじっと考えてみると「あ、同一教会も統一教会と似ているなあ」という思いがしました。そうでしょう? 「同一の同」の字に「一つの一」の字なので、ともに一つになりうるという意味は似ているというのです。

 ところが、「ともに一つになること」は、互いの主張が違いうるのです。ともに一つになるのには主張が違いうるというのです。同一、ともに一つになる場合は、一つとなる教会はちょっと違います。これは横的です。

 「統一」というのはそうではありません。「統一」というのは、お前でなければ私です。それはどういうことでしょうか? 二つあるはずがないというのです。「統」の字が何の統の字かと言えば「率いる統」の字です。率いるのです。主体性があるというのです。

 私たちが何教会ですか? 統一教会です! 統一教会と言えば、キリスト教だけを統一しなければなりませんか? すべて統一しなければならないでしょう、統一教会と言えば全部しなければなりません。そうでしょう? 関係がそうです。(一九六七・四・二、清州教会)

 「統一」という名前は素晴らしい名前です。「統一」というその言葉は率いて一つにするという意味です。率いて一つにするというそのような教えの集まりが統一教会です。

 そして、率いて教えるためには銃と剣を持って武力でそのような立場に立つのではなく、涙と血と汗と愛の心情を持って、多くの人が同情せずにはいられない立場に立って率いて指導できる主体者となることによって、本来の統一教会の原因が生まれるということを知らなければなりません。また、それを見せてあげ、それを教えてあげうる主体者として登場することによって、本質に妥当する統一教会の群れとなることができます。

 このような立場に立つためには、統一教会の文先生だけをもってではだめなのです。また統一教会の文先生がそうすることのできる立場に立つためには、その個人が行く所において、個人を基準として行くのではなく、世界を代表した立場で世界を基準として行かなければならないのです。個人が勝利した土台の上に家庭がまたそのような立場を代身しなければならないというのです。教会がそうならなければならないというのです。教会によって国がそうならなければならないというのです。その国によって世界がそのようになるときに、地上に幸福の天国が訪れるということが原理を通した教えであるのです。(一九七二・一〇・一四、水澤里)


三 世界基督教統一神霊協会とは

統一教会とはキリスト教を連結させて、今日新しい世界の次元で歴史の希望圏に向かって進展すべきそのような責任を負ったのです。それゆえ、統一教会の理念は世界のキリスト教を一つにしなければならないということだ、このような結論が出てきます。分かりますか?

 なぜ「世界基督教統一」という言葉が出てくるのでしょうか? ある人が言うには、よく知っている方たちの中で一人は私を見て「やあ、文先生、どうして世界基督教という言葉を入れて、そのように反対を受けるのか? なぜそれを思い通り取ってしまわないのか?」と言う人がいます。世界基督教という言葉を取ってしまえば、これをだれが反対しますか? 統一教会をだれが反対するだろうかというのです。世界基督教という言葉を頂上に持っていってつけておいたので、このキリスト教徒たちが、牧師や長老は言うまでもなく全部「世界の基督教を統一する?」と言うのです。それも世界の数多くの国家基盤を持った、何、ローマ法王のような看板を持ったレバレンド・ムーンというならば分からないが、これ、くずのようなやつが世界のキリスト教を統一するとは? それを考えれば、朝考えても気分が悪く、何、昼に考えても気分が悪く、夕方に考えても気分が悪く、寝ながら考えても気分が悪く、夢で考えても気分が悪いことだというのです。

 だから、「キリスト教を何、統一する?」こうです。歴史時代に今まで数千年の間、このように争って三、四百、数百教派に広がったものを何で統一するのか? 銃剣で? 学んだものがあるのか、何でするのか? 銃で、暴力で、独裁的な手腕を持って? このような立場に立つことにより、何がどうだこうだと言いながら、自分なりのあらゆるうわさが立ちうるというのです。

 だから、世界のキリスト教を統一するには何かと言えば神霊で統一するというのです。神霊協会だというのです。分かりますか? こぶしで統一するのではなく、銃剣で統一するのでなく、何で統一するというのですか? 神霊です。神霊とは何ですか、神霊(シルリョン)とは? 少し発音を間違えば実力(シルリョク)のようでしょう? 実力でなく神霊です。何で統一するのでしょうか? 人間の力を持ってではできません。これは霊的世界を動かしてこそ可能なのです。

 霊界を動かそうとすれば、地上を動かすのよりもっと難しいのです。人間を動かそうとすれば、動かすことのできる内容がなければならないでしょう。だから、霊界を動かそうとすれば、霊界を動かすことのできる内容がなければなりません。その内容とは何でしょうか? キリスト教を統一することです。その内容とは簡単なことです。

 キリスト教を統一しようとすれば、統一できなかったキリスト教の内容を完全に除去させ、統一されうる内容だけ残しておけば統一されます。言葉は簡単です。そうでしょう? 統一することができないものを除去させて、統一することのできるものだけ残しておけばそれは統一されるようになっているでしょう。それゆえ、ここには全世界のキリスト教が整えることのできない新しい真理体系、旧約聖書から、新約聖書から今後未来に連結されうる聖書体系において、新しい観点を形成しなければならないという言葉が成立するのです。その観点自体が神様が見る観点であり、霊界が眺める観点でなければならないというのです。

 霊界の協助を受けようとすれば、神様が協助しようと乗り出さなければなりません。神様が霊界の王としておられるならば、王が「ううん」と言っているのに、手下たちがいくらしようとしても、それはだめなのです。その王であられる神様が興奮して「それなら、そうだろう! 私のときが来た」このように気分が良ければこそ、その手下の霊界が皆従って一つとなりうるのであり、神様が反対しているのに霊界が協助することができないというのです。神様が心の中で旧約聖書と新約聖書の内容を骨子として選んだものを鑑定してみられるとき「ああ、そいつは正しい。統一教会、それは悪くない」というそのような何かがなければならないというのです。

 さて、その霊界を動かすことのできる内容は、神様を中心としたものであることはもちろん、その次にはこの地に生まれては逝った数多くの聖人たち、数多くの宗教指導者たちが慕い、そうしうることを願った内容と一致しなければなりません。仏教の釈迦牟尼に、「あなたが提唱した仏教経典の中で、その内容がこうこうこのようなもの」であり、あるいは儒教の孔子ならば孔子、イエスならばイエスに、「あなたの内容はこうこうこのようなものですが、ここ、足らないのがこうなるべきではないですか」と言うとき、全部が「はい」とならなければなりません。「そうでございます。そうでございます」と言いながら、これが通じなければならないというのです。それ、そうみたいですか?

 だから、ここで問題となるのは、新旧約聖書を通したすべての宗教のみ旨を代表することのできるこの息子の宗教を中心として・・・。その息子の宗教は僕の宗教と養子の宗教と通じるのです。それが連結されうると同時に、その息子の宗教を通じて、この父母の宗教圏を通し、霊界と神様の世界までこれが公認されうる一つの体系形成を願うのです。そのようになると、世界のキリスト教は自動的に統一することができない! (できます)そのように考えると、世界のキリスト教は統一できます。できると言うので、そこで自信をさらに持てばできるというのです。このような内容を持って看板を「世界基督教統一神霊協会」としました。それを知らなければなりません。

 「世界基督教」と「統一神霊協会」と言えば「世界基督教統一神霊協会」です。キリスト教統一のための神霊の協会だ、このように見るのです。ある人は「統一協会」だと考えるところですが、世界基督教を取ってしまい統一協会と言えばどれほどいいですか? しかしその統一協会ではありません。世界基督教統一です。統一のための何協会ですか? 神霊の協会です。(一九八一・五・一、本部教会)


四 神霊とは

 統一教会(の正式名称)は「世界基督教統一神霊協会」です。神霊というのが必要だというのです。この神霊を取ってしまえばどれほどいいでしょうか? ある人たちは「ああ、統一教会がなぜ騒々しいうわさを出すのか」と言いますが、それはこの神霊という言葉を入れたためです。だから、化け物連中のようだという話をするようになるのです。「神霊とは何か? 化け物連中だ」こうなのです。化け物もいるでしょう。化け物が行く道もあるというのです。化け物というのは変化無双な人を言います。「あの化け物のようなやつ」と言うでしょう?

 化け物というのは変化無双なものを言います。前後が合わない行動結果が八方に現れるそのような連中を化け物のようなやつだ、このように言うのです。

 そのような化け物のような神もいますが、観を持って生きる神、永遠に人間よりも素晴らしく生きる神がいるならば、その神は人間が従わなければならない神だ、このようになるのです。そのような神の種類が天の善なる霊界にあるのであり、その種類の親分たるお方が神様だというのです。そのように全部整理をしておかなければならないのです。(一九八七・九・二七、本部教会)

 世界基督教統一何ですか? 神霊協会。何で統一するというのですか? 神霊で統一しますが、父子関係の神霊で統一するというのです。その神霊が何でしょうか? その幻のようなものは何をするのですか? 愛を中心とした霊的世界と人間世界の調和を起こしうるものを神霊と言うのです。分かりますか?

 神霊は目の見えなかった盲人が目を開けるのが問題ではないというのです。ふさがった耳が開かれるのが問題ではないというのです。近ごろキリスト教が何、能力が豊かな全知全能たる神様にはできないことはないと言いながら、「足なえよ立ち上がれ」と、こうですが、それは何でもないというのです。神様はそれが必要ではありません。愛の神霊、愛の神霊だということを知らなければなりません。

 聖書でも、礼拝をするときは霊と真理をもってしろと言いますが、それは何の真理でしょうか? 何か物理学のピタゴラス原理ではないのです。何かニュートンの原理ではないのです。そのような真理ではないというのです。愛の真理です。その愛の真理の最高が何でしょうか? 父親と息子・娘、このように見なければならないというのです。神様が必要とするのはお金、権力、知識が必要なのではありません。愛が必要なのです。

 なぜ愛が必要でしょうか? 神様がお喜びになろうとするには、相対がいなくてはだめなので、人間をおつくりになりました。人間を喜ぶことのできる相対としてつくったので、人間の価値は愛をおいては被造物ですが、神様と対等な権限を取ることのできる能力があるというのです。これを知らなければなりません。今日、キリスト教信者たちは「創造主より被造物が後」だと言いますが、ばかげた話はやめろというのです。それでは、神が何のために万物をつくられたのでしょうか? それをはっきり知らなければなりません。

 神霊協会とは何ですって?(愛)何の愛? 父子関係の愛、父子関係の愛を中心として調和を生じさせるのです。この調和だけあれば、地上でほんの少しだけ起こっても、これの波紋は宇宙的です。電気なら電気、放送局がどんなに小さくても電波を送るのは宇宙的です。弱いだけで宇宙的に波及するのです。それと同様に愛の調和の圏というものは、範囲が小さいが宇宙と連結されうる内容を持っているということを皆さんは知らなければなりません。(一九八一・五・一、本部教会)


五 統一教会の旗

 宇宙のすべては授受の因縁でもってつくられていますが、この旗は、その宇宙をたとえており、太陽を中心にしてすべての天宙は神御自身を象徴しています。中心にはわれわれの理想等のすべてがつながっています。

 旗(上の絵)には中心から十二の線が放射状に出ていますが、太い四本の線は四方を意味しています。一つの存在が中心として立ちうるためには、四方が定まらなくてはなりません。いわゆる四位基台です。次に十二本の線は、四方に東西南北を中心とした年月を表し、これが授受関係で回っています。全体を見れば、舵を表しており、われわれ自身でこの天宙を運転しなければならないことを意味します。このように、この中にはわれわれの理想の創造原理のすべてがこめられています。

 元来、旗というものは、国家を象徴するものです。この統一旗は今は教会を代表するものですが、われわれの理想は教会だけでなく、すべての歴史の希望であり、現在のまた未来の希望である唯一の世界、そして神の心情にかなった世界、一つの世界という、神の創造目的を達成しうる、その御国の象徴として、来る輝く日のためのものです。ゆえにこの旗をいつも皆さんの心に抱き、そうして、神の心情とともに生きるものには、すべてのサタンの試練とか反逆と対決する力の象徴として、その役目を果たしうると先生は信じます。皆さんもそう信じて、勇気に勇気を持って進めば、いかなる地に行っても神は旗とともに君たちに働いてくれます。(一九六五・一・二八、東京教会)




















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