統一教会と食口たち
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第三章 統一教会員

第一節 統一教会員とは

一 統一教会員の入教背景

1 み旨的な背景

 一度考えてみなさい。皆さんにどういう風が吹いて統一教会に転がり込んだのかというのです。(一九六七・二・一四、前本部教会)

 皆さんがこの教会に入ったときを考えてご覧なさい。教会に入るとき皆さんの勝手に教会に入ったのではありません。私はそう思っています。ここは血のにじむ涙の歴史があるのです。(一九六三・八・一一、前本部教会)

 私たちは歴史的にものすごい使命を背負ってここに召されました。私自身を顧みると、だれが私を選んだのでしょうか? 自分の過ごした歴史過程を振り返ると、摂理史的なとてつもないみ旨の前に呼ばれうる何の内容も備えられなかったということを自ら感じるようになることでしょう。そのような事実を感じれば感じるほど、自分が呼ばれたという事実を否定しないで、間違いない事実として確信し、不足だった私自身をお呼びになった神様に感謝しなければなりません。また、高く貴い神様が、低く卑しい私を訪ねてこられて、因縁を結ぼうとなさる過程に、どれほど悲惨な歴史の死の道が横たわっていたかという事実を忘れてはなりません。

 私たちがここに呼ばれるようになるときまでには、(1)アベルの血が訴えたのであり、(2)ノアの百二十年の恨みが宿っていたのであり、(3)アブラハムが神様に侍るために故国の山川を離れて寂しい放浪生活をした、流れ者の身の恨みが秘められていたのであり、(4)イサクが神様の前に祭物になるのを決心し、アブラハムの前に順応したその恨みが込められていたのであり、(5)ヤコブがハランの地で二十一年間イスラエル民族を復帰しようという心情を中心として故郷の地を慕った心情が宿っていたということを知らなければなりません。

 また、(6)イスラエル民族がエジプト苦役四百年間を過ごし、カナン福地に向かって行きながら四十年の間に多くの民たちが荒野で病み倒れた恨みがあったのであり、(7)そこで残った二世たちがカナンの地に入り、新しい聖殿理念を中心としてメシヤを迎えるまで多くの蕩減条件を経、異邦民族の侵略を受けて国のない民族の悲しみをこうむったその恨みがあったということを知らなければなりません。

 そして、(8)新しい希望の一日を迎えるために、ローマの属国たるイスラエルに来られたイエス様が、ローマを屈伏させるべき歴史的な使命を果たさなければならなかったにもかかわらず、その使命を成就できなかった恨みが残っているということも知らなければなりません。それだけではありません。(9)イエス様が亡くなられた後、今まで二千年間多くの私たちキリスト教先祖たちの血を流した歴史的な恨みがあったということを知らなければなりません。このようなすべてを限りなく高い神様が、低い私自身と連結させてくださったということを知らなければなりません。このような歴史的な恨みの条件、悲しみの要件、血の代価を支払った土台の上に皆さんが連結されたというとてつもない事実を皆さんが決して忘れてはなりません。

 このような心情を備え、私がたとえ不足であっても私を立てて私によって歴史的な代価を結実させようとする神様の隠れたみ旨があったということを知らなければなりません。かわいそうな神様になられ、かわいそうな歴史になったので、かわいそうな歴史を持ったお前と私が必要だったという事実を知らなければなりません。

 それゆえ、私たちは自分の全体の力に百倍、千倍、万倍の力を加えて神様に忠誠と孝行を尽くさなくては、自分の生が終わるとしても死ぬことができないという懇切な心情を皆さんの心と体の中に備えていなければなりません。そのような心を備えていないとするなら、皆さんは神様のみ旨に対する背信者であり、歴史的な先祖たちの願いの前においての背信者であり、この時代的な使命の前においての背信者だということをはっきり知らなければなりません。

 高く貴い神様がこの上なく卑しい私自身を訪ねてこられるために、どのようになさったのかという事実を知れば知るほど、皆さんは襟を正し、ひざを屈して合掌し、神様の前に千回万回感謝の敬礼を捧げても足らないということを知らなければなりません。神様がこの体を召してくださったのも、天の善なる闘いに必要だからです。ですから、私自身が善なる闘いの一線に行って闘って、その場から後ろに背を向ける敗残兵の身には絶対なってはなりません。むしろ死んでしまおうと決心する統一信徒たちにならなければなりません。これが私たちが持つべき態度であり、このような立場に立つべき私たち自身だということをはっきり知らなければなりません。

 足らないからには、その足らなさを補いうる決心をしますが、その何倍の決心をしなければならず、すべての与件を備えた人と自分を比較してみるとき、自分が足らなさを感じれば感じるほどさらに決心を倍加しなければならないのです。このような立場に立っている統一教会信徒たちであることを知らなければなりません。(一九六九・一・二六、前本部教会)


2 先祖たちの功績の結実

 皆さん自身はさして功績がありませんが、皆さんの背後には今まで歴史上に生まれては逝った先祖たちの功績の土台があり、皆さんは知りませんが数多くの氏族の中でも皆さんの先祖たちが積み上げた功績が多いので、この功績が積まれに積まれてその結実として生まれた群れが皆さん自身であったことを知らなければなりません。このように呼び集められた群れが先祖たちの功績の結実として収められた群れに間違いなく、数多くの氏族の中で神様が束ねてくださった群れであるならば、このような背後を持った群れが動く通りに国運が左右されるのです。(一九六九・一・二六、前本部教会)

 今日皆さんが統一教会に因縁を結ばれたという事実は、皆さんの一生の中で何年あるいは何カ月を中心として因縁を結ばれたのではありません。この場は歴史的な場であり、希望の場です。実際に私が生きていく起点になりうる歴史的な因縁を経た場です。では皆さんの人生でその歴史を見ることもできなかったし、因縁を持てもしなかったのに、どうして自分が歴史的因縁に連結されうるのでしょうか? そして、またどうして歴史的な因縁を持って統一教会と連結されうるのでしょうか? それは大なり小なり皆さんの心の方向に、先祖たちの心の方向が時代の流れとともにいっしょに方向を合わせようと努力したその基準によってなされたのです。すなわち、(先祖たちが)どれほど(復帰歴史の目的に)近くともにいようと努力したかによって、統一教会に近く接することができるようになったのです。

 そのような観点からみると、今日皆さんが置かれているこの時点は、金だれそれなら金だれそれというある個体によってなされたのではありません。歴史的な因縁を通してなされたのです。今日、私自身は堕落しており、またなるままになっていますが、その歴史的な因縁の中で数多くの私たちの先祖たちが歴史の目的に向かって忠誠を尽くした、その目的と一致することのできる功労の基台があったので、その功労の因縁で今日皆さんが立てられたのです。(一九六八・一一・一七、前本部教会)


3 私たちは善なる先祖株式会社の社長

 現在の皆さん自身とは何でしょうか? 歴史的結実体です。そうでしょう? 結実体は結実体ですが、皆さんは歴史的氏族を中心とした結実体だというのです。分かりますか? 皆さんは善なる先祖たちがいて、その先祖たちの功績によって先生に出会ったのです。皆さん自身が先生に出会いたいと言って出会ったのではなく、皆さんが偉くて出会ったのではないというのです。皆さんがだれを通して生まれたとしても、その先祖が大韓民国の公的な歴史の仕事の分野と関係しているのです。悪なる国でもそこにより悪なるものとそうでないものとがあるのです。ですから、いくら悪なる国でもその背後にそうでない側があるのです。天はそうでない側を中心として役事してこられたのです。

 それゆえ、皆さんは公的な分野で善を中心として先祖の功績があるその血統的因縁に従って、遺伝法則によってその先祖の素性に多く似て生まれたそのような因縁があるので先生に出会ったのです。皆さんが偉くて出会ったと考えるなというのです。

 皆さんの目一つも皆さんの目ではありません。だれでもその顔を見ればその母親に似たか、その父親に似たか、おじいさんに似たか、彼らの姿から一部分くらいは似たというのです。それを全部分析してみれば、皆さんの数千代の先祖の血筋がすべて絡み合っているのです。どの細胞も全部そうなっているというのです。先祖たちがそれを全部奪っていけば皆さんはないのです。

 ですから、皆さんは善なる先祖株式会社の社長だというのです。その社長の命令には全部服従しなければならないというのです。そうなっているのです。では、その社長が優れた人であるべきでしょうか、愚かな人であるべきでしょうか? 優れなければならないのです。それなら、優れた社長とはどのような社長でしょうか? 過去の歴史的伝統に逆らわず、時代的な活動舞台においても先頭に立ち、未来の後孫たちに手本となりうる人が優れた社長だというのです。(一九七一・八・一三、清平修練所)


4 先祖たちの協助と再臨復活

 では、このような位置にいる皆さんは歴史的な因縁を受けた私自身として、きょうの自分が生活の中で歴史的な因縁を輝かせうる姿になっているでしょうか?(一九六八・一一・一七、前本部教会)

 昔、イエス様の時、イエス様が地上に来られることによって、それ以前に生きては逝った善なる先祖たちが霊形体級霊界から生命体級霊界に入っていけたのと同様に、皆さんの先祖たちも、地上にいる皆さんを条件にして再臨できる特別な恵沢圏内に入ってきました。何の話か分かりますか? 皆さんがこのようなみ旨を知って勝利の枝になれば、一つの生命体を成すことのできる立場なので、皆さんの先祖が皆さんを協助するのです。このように皆さんは数千代の善なる先祖たちが再臨できる基台にならなければなりません。

 イエス様当時には、霊界から条件的に生命体級復活のための協助をした時代でしたが、今は霊界が無条件的に生霊体級復活のための協助をする時代です。このような時代が来たので、これ以上の恵みはないのです。何の話か分かりますか? 言い換えれば霊界から協助するというのです。

 それゆえ、これからは氏族を訪ねる役事が速くなることでしょう。歴史的な因縁が備わっているので、協助できる条件が備わっているので速くなるというのです。

 私たちが地上で再臨復活を起こせる役事をすればどれほど偉大でしょうか? 皆さんの先祖の中で忠臣がいたり烈女あるいは孝子たちがいるなら、皆さんが祈祷で彼らを呼べば来るようになっています。なぜなら今は先祖たちが皆さんを協助しなければならないからです。そうなっています。逆になっているというのです。(一九六四・四・一九、大邱教会)


二 入教後の望ましい姿勢

1 統一教会に入った目的

 皆さん、統一教会に入るとき統一教会がよくて入りましたか、悪くて入りましたか?(よくて入りました)よくて入りましたか?(はい)ここにもちを置いておき、「入ってこい」と言いましたか、何を置いておき、「入ってこい」と言いましたか? 何を置いておき、「入ってこい」と言ったでしょうか? もちではありません。皆さんの出世を置いておき、「入ってこい」と言ったのではないというのです。神様の公約を置いておき、「入ってこい」と言ったのです、公約を置いておき。

 なぜ皆さんが統一教会に入ったのでしょうか? 神様の公約を置いて入ったというのです。その最高の公約が何でしょうか? お金でもなく、知識でもありません。お金を支配することのできる愛、権力を支配することのできる愛、知識を支配することのできる愛です。神様も好み、天使世界も好み、万物も好み、人間もだれもが好みうるその公約、それが何でしょうか? 宇宙に関する公約です。(一九七六・二・八、前本部教会)

 皆さんがここに来た目的は何でしょうか? それはある環境的な問題を解決するために来たのではなく、人間の根本問題を解明し、絶対者から認定を受け、確定を受けて、その絶対者の前に立ちうるために来たのです。(一九六一・九・二〇、前本部教会)

 皆さん、統一教会に入った目的は何ですか? 蕩減原理を学ぶために入ったでしょう?(はい)蕩減を学ぶために入ったでしょう?(はい)ほかではありません。神様の息子・娘になろうとすれば蕩減原理を知らなくてはなりません。蕩減原理を学びに入ったのです。私は蕩減原理を教えてあげる先生です。そうでしょう?(はい)先生は蕩減原理を教え、実践させるべき責任があります。ですから、実践する皆さんは苦労するのです。簡単なのです。苦労はありがたく、うれしいことでしょう?(はい)それで皆さん、食を断ちながら苦労するとき「ははは」と笑いましたか? 感謝しましたか? ありがたくなく、うれしくなかったようですね。後で感謝することでしょう。(一九六三・陰一〇・一、前本部教会)


2 入教後現れる現象

 皆さんが統一教会に初めて入ったときに、体がブーンと浮かび上がるような体験をしたことでしょう。体験したでしょう? 無性にうれしいのです。わけもなくうれしいというのです。それがなぜそうなのか分かりますか? 皆さんの心と体が互いに授け受けることのできる土台になったからです。私たちの原理から見ると、主体と対象が一つになれば、そこにもっと大きい主体たる神様が相対として授け受けるというのです。そのように高次的な力の作用があるので、それ以前に感じることのできなかった感覚的作用が強力に生じるのです。その強力な作用の力が理想的な力なので喜びの感情が生じるというのです。ただ漠然としたものではありません。全部、原理的なのです。原理的なのです。(一九六九一二・一四、前本部教会)

 統一教会に来て一番初めは、み言を聞きブーンと浮かんで飛び回ります。足が何か地に着いているのか分からないというのです。心がどんなにうれしいのか、食べなくてもいいし、悪口を言われてもいいし、打たれてもいいし、お尻にこぶができてむずむずしても気分がいいというのです。(一九八八・一・一〇、本部教会)

 皆さん、統一教会に初めて入った時、うれしくて口を開けて入ったでしょう? 悲しくて泣きながら入りましたか? どうであれ入るには入ったのですが、胸はうわついて、風が吹くところにふいごを向けたのと同じように、無性に道を歩いていても笑うようになるというのです。ですから、変だというのです。これをじっと見れば何か素晴らしいものがあるというのです。教会の建物こそはそのくらいのほったて小屋でも悪くないし、洞窟だとしても悪くないというのです。先生さえいれば皆来るようになっているというのです。(?)

 皆さん、そんなことを体験してみましたか? してみられなかったですか? 統一教会に入るとき希望に満ちて入ったでしょう? ところが、歴史の流れの中でピンセットの端がつくかつかないかの焦点上(=歴史の一点)に立ったような運勢なら運勢、因縁なら因縁の中に立っている自分を見るとき、これがうそではないかという疑いを持ったかもしれません。私もそうでした。しかし否定しように否定できない生きた証拠を天が提示してくださったので、認定すまいとしてもせざるをえないのです。ただ無条件にうれしかったり、感謝したりもするのではありません。(一九六六・一一・六、前本部教会)

 私たち統一教会員たちは、教会に入って一番初めにみ旨に対したときは喜びの中で出発しました。世の中のすべてのものが私を中心として生まれたと感じたことでしょう。恵みを受ければ受けるほど、自分を中心としてすべてのものが復活し、自己を中心としてすべてのものが関係を結ぶようになると感じたことでしょう。それゆえ、自分が喜べば万物も喜ぶように感じ、自分が悲しめば万物もともに悲しむと感じた時があったことでしょう。

 そのようなときには、いくら悪なる世の中でも悪なる世の中として見えるのではなく、いくら悲しい世の中だとしても悲しく見えるのではありません。その悲しい世の中に喜びが宿りうるのを眺めて、あすの希望とあすの責任を誓う生活をするようになるのです。皆さんは過去にそのようなことを体験したことでしょう。(一九七〇・八・三〇、前本部教会)

 皆さんがみ旨を通して感じたその心情を回復しなければなりません。皆さん、そうではありませんか? 学校に通う学生たちも、統一教会に入れば家より教会に先に寄りたくなるというのです。それは皆さんが全部体験したはずです。それはなぜそうでしょうか? 病気になったのです。六千年ぶりに初めて春の季節を迎えることのできるひととき、数千年の運勢圏内に巻き込まれてきたのです。何年の運勢ではありません。数千年の運勢だというのです。数千年の運勢に乗れるひとときに集まったのでそうなるのです。その心情はとても貴いのです。それを蹂躙するときは、歴史を蹂躙するのであり、天倫を蹂躙することになります。(一九七一・一一・二八、前本部教会)

 そう、皆さんは統一教会に来たいですか? それ、おかしいです。統一教会のみ言を一度聞くようになれば、家に向いた足取りが統一教会に来るというのです。放課後には家に帰るのが学生の義務と思い、本分と思い、責任と思うのに、統一教会のみ言だけぴたっと聞くようになれば、家に向いた足取りが統一教会に来るようになるというのです。家を見れば粗末で谷間にある教会ですが、ここに来れば「ここから行かないでご飯を食べて暮らせばいい。いたい」という思いになるのです。そうなれば統一教会は本物だというのです。いたいなら、次にはどうしたがるべきでしょうか? 暮らしたがらなければなりません。永遠なる神様の愛を持って互いに一つとなり、兄弟として暮らしたい思いを持たなければならないのです。それを成さなければ理想世界は来ません。(一九七二・一〇・一、前本部教会)

 皆さん、統一教会を信じるようになればそうです。統一教会を信じるようになれば福を受けると思いますが、福を受けるよりむしろだんだんにもつれていくのです。じっと見ればうまくいきそうなのにかえってもつれていくというのです。それはなぜそうでしょうか? それは愛ゆえです。ですから、もつれていかなければならないのです。統一教会を信じてきながら十ぐらいの欲を持ったとして、百ぐらいの物(=お金など)が生じたとき、また百ぐらいを願ったとすれば永久にずれた道を行ってしまうのです。

 十ぐらいの欲を持ったとすれば、その十ぐらいのものも刻ってしまうのです。それを刻り捨てることによって、十ぐらいの外的な欲を打つことによって、内的な神様と十ぐらい密接させうる不可避な結果になるので、神様は福を与えるのです。世の中の人々が福だというものを持ってきてあげるのではなく、世の中の人々が嫌だというものを持ってきてあげるのです。そうして、世の中の人々が笑って好むことのできる環境の因縁を持って暮らすのをただそのまま公認するのではなく、そのようなことをすべて破たんさせるのです。

 もし、破たんさせなければ彼らが私をかみちぎるのです。切るまいとしても切らざるをえないように、彼らがすべてかみちぎるのです。ですから、彼らがかみちぎる前に、切るのが嫌でも切る役事をしなければならないのです。それゆえ、背馳が起こります。ここでこのようなことが起こらない宗教は真なる道を求める宗教ではないということを私たちは推して結論づけることができるのです。
 皆さんが知るべきことは、神様と私たちの行く道が食い違っているということです。それだけでなく、神様は私たちの前に立ち、六千年間私たちの人生の道を塞いで神様の摂理をつぶし破たんさせてきたサタンと対決して闘っているというのです。(一九七一・一一・一四、前本部教会)


3 入教後備えるべき姿勢

 統一教会の皆さんが召され、レバレンド・ムーンを通してみ旨の道にいで立ったとするなら、皆さんは召命された者として何のために召命をされたのか、私はどこへ行くのか、私はこのように行かなければならないと決心したなら、その道で何分の何に、あるいは何号目の中にいるのかということを知らなければなりません。人が一度決心したなら、その決心したことを中心として決定しなければならないのです。イエスかノーか、答えなければならないというのです。

 それは先生も同じです。天の前に私が約束をし・・・。「これこれの道をきっと行くからには私の同役者が背信しても、私の父母が背信し、私の妻子が背信しても、私は行くことでしょう。私の民族が背信し、私が生きる統一教会自体が背信すれば、これを一掃してでも私は行くことでしょう」このように私は召命を受けたその日から進んでいるのです。今も進んでいるのです。あすも進むことでしょう。その道は速く行けばいくほどいいのです。遅いほど悪いのです。そこには数千万の生命が地獄行きの列車に乗り、皆地獄に落ちています。(一九七八・一〇・一、本部教会)

 今日、統一教会に入った皆さんは原理を学んでいます。アダム家庭を中心とした原理を学んでおり、ノア家庭を中心とした原理を学んでおり、アブラハム、ヤコブ、モーセ、イエス時代に対する原理を学んでおり、今まで歴史の背後で摂理された神様に対する原理を学んでいます。しかし、皆さんはどこまでもついていく存在です。ですから、皆さんは原理に従い休むことなく歩んでいかなければなりません。
 そうして、アダム家庭を私が収拾して立てよう、ノア家庭を私が収拾しよう、アブラハム家庭を私が収拾しよう、収拾するだけでなく私が彼らに命令もしようと言えなければなりません。皆さんが今日、この暗黒の世界で神様に召され、世界的な使命を果たすべき総責任を負ったからには、モーセに「イスラエル民族を導くときはこうこうしなくてはならなかった」と言うことのできる立場に立たなければなりません。(一九六三・五・一五、前本部教会)

 入教以後、誓いをしたとするなら、それはどんな基準でするのでしょうか? み旨に対するその誓いが真なるものであったなら、それが外的には現れなかったとしても、長く耐えることができて、内的にはたくさん成長していなければなりません。アブラハム当時にアブラハムは知りませんでしたが、霊界の聖徒たちが役事し、天使世界が協助していました。

 神様のために忠誠を尽くし、誓った人がいるなら、たとえ彼がこの時代に存在するとしても彼はこの時代の人として終わるのではなく歴史的な人です。また、彼がすることは歴史的なことです。「歴史的だ」ということには、すべてのことが皆含まれます。(一九六二・一二・一七、前本部教会)


4 入教後、注意すべき点

 今日、皆さんは宗教という名詞を知って信仰の道を進んでいますが・・・。統一教会に入ったなら統一教会のいいものを受け入れることのできる、皆さん自身がそれを果たすことのできる資格ができているでしょうか? 果たせない人は良い世界の因縁を持てないのです。責任を負えるでしょうか? 責任を負えない人もやはりそこに、その世界の良いものとは関係を結べません。分かりますか?(はい)それゆえ、人は必ず責任を負わなければならず、責任を負い、果たし切らなければなりません。そのような後に彼もよく私もよくてこそ、それが善の結果になるということを私たちは知らなければなりません。(?)

 神様の前に召されうる人、すなわち神様の責任を負える人は一日、二日でできるものではありません。そのような人は飢えに浸かり、血に浸かり、神様の心情に伴うことのできる人でなければなりませんが、これは一日、二日でできるものではないというのです。三、四年以上の年限を経なければならないというのです。(一九六六・一一・六、前本部教会)

 最近、初めて入った人々を見れば、猟犬のようににおいをかごうとします。においをかぐのも正常にかぐのではなく、口を引きずり回しながら駄犬のように、くそのにおいばかりをかごうとします。統一教会に入ったなら先生を中心として問題を解決しなければならないのに、くだらない不良仲間とつるんで何をしますか? そんなくだらない不良仲間に対すること自体が愚かなのです。先生がこんなことを言うのは、新しい姿勢を確立するべきときが来ているからです。

 それゆえ、皆さんが信仰者として、統一教会の信者として持つべき新しい姿勢を備えなければなりません。ここで一番重要な問題は、中心に対する確固たる信頼を持つことです。そのような信念を持つ前にはいくら覚悟をしても何の役にも立ちません。この道を行くにおいて、あることにぶつかるようになれば私はどうなるでしょうか? 自問自答してご覧なさい。(一九六九・一一・三〇、前本部教会)

 統一教会の信徒だと自負する皆さん、勇猛な気迫を持って天のために立派に闘おうという覚悟をしたなら、それをその何とも取り換えてはなりません。人間がいいと言う何かをくれるといっても「いや」、ある主権をくれるといっても「いや」、殺されても「いや」と、ただ神様のみ意のままにする場合にだけ「よし」と言うことができなければなりません。

 一で終わらなければ十まで、十で終わらなければ千まで行ってでもサタンの牙城を突破すべき堕落した人間たちです。ところが人間たちはこれを知らずにいます。皆さんが統一教会を訪ねてきたのはありがたいです。しかし自分の要求と欲望は入ったその日から捨てなければなりません。皆さんが持っていた欲望や欲求をすべて埋葬してしまった後にこのことを始めなければならないのです。摂理的に見てもそうです。イエス様がそうなさったし、数多くの預言者たちが怨讐の槍に血を流しながらも歯を食いしばり天に向かって泣き叫んだからには、皆さんはその人たちのその声を聞こうとしなければなりません。「お父様! 恨みをお解きください」と言ったその人たちの決心が、皆さんの心に染み込まなければなりません。(?)

 統一教会に入ったことを寂しく思わないで、ここに入れば、先生が話す論理的なすべての結果として立てておいた愛の法度と秩序がここにあるというときは、永遠に行くべきであり、永遠に安息すべきだというのが間違いのない事実である!(アーメン)そのような人が真なる人です。真の姿を分かったでしょう?(はい)これからは皆さんが忘れずに行かなければなりません。(一九八六・一・三一、漢南洞公館)


三 食口とは何か

1 統一教会で言う食口とは

 私たち統一教会員たちは互いに食口と言うでしょう? 食口という言葉の意味は何ですか? 漢文を解いて言えば「ご飯を食べる□」という意味です。ですから、食口とは一緒にご飯を食べる兄弟であり、一緒にご飯を食べる家族です。皆、お母さん、お父さん、兄弟だというのです。(一九六四・一〇・三、大邱教会)

 今日、私たち統一教会の教会員たちが集まったものは何でしょうか? 私たちが言うには食口と言います。そう言うでしょう?(はい)食口とは何でしょうか、食口とは? ご飯を食べる口という食口ではありません。食口というのは何でしょうか? 兄弟の因縁を備えなければならず、父母の心情をともに備えて生まれなければなりません。そうしてこそ食口になれるというのです。(一九六五・一〇・三〇、大邱教会)

 今日、私たち統一教会は食口という名を持っています。ところが皆さんの家庭でもその一員を食口(=韓国では家族の意)と言うのです。では私たちは何を中心として食口という言葉を使うのでしょうか? 神様の愛と、神様の人類を愛したい高貴なその因縁とその関係、そして神様の本来捜そうとなさる創造理想を中心として食口と言っているのです。(一九六九・一〇・五、韓・秘苑)

 私たちは皆さんがよく知っている通り統一教会の食口です。食口と言えば、もちろん任されたところの職責は違うでしょうが、行く道や生活する感情においては環境とある立場を離れて同一なる生活路程を行かざるをえないのです。父親と息子・娘がいるとするなら、その父親と息子・娘のすることは違っていても情緒的な生活分野においては同じなのです。父親が悲しめば、その息子・娘も立場は違っても悲しい心を感じてこそ、当然その父母の子女として身を置くことができることを私たちは知っています。

 このような観点から見ると、私たち統一教会の教会員たちは、「私たちは食口」と言っていますが、その食口が行くべき本然の道、その道がもちろんみ旨のために行く目的に一致するでしょうが、そのように一致するのも重要でしょうが、情緒的な生活においても違っていてはなりません。

 さらにその一族の困難に遭いうる場にいるというようになるときは、その食口は一つにならなければなりません。父親が悲しむ立場に立てばその子どもたちも、ともに暮らしている食口たちも悲しみに浸るようになるのです。

 その悲しみを解決しようとすれば、現在自分に任された職責だとか自分がしているその仕事が重要だと言って、そちらをより重要視する立場に立ってはなりません。そうなる場合は、父母と一つになった立場に立ったとは見ることができないのです。そこから情緒的な生活が分立されると見ざるをえないのです。けれども、外的に身を置いている環境がいくら変わるとしてもそれをすべて捨て、またそれがなくなるとしても父母と一つの心、一つの志になって、当面している悲しみに対して体と心がともに苦痛を感じる立場にたったなら、その家庭がいくら持っているものがなく、できる仕事もなく、自ら誇るべきものがないとしても、ここから誇ることのできる新しいことが始まるのです。ここからはどんなときよりも目新しい方向を選んでいくことができるのです。そこで決意していで立つときには、死線であっても越えることのできる新しい道が模索されるということを私たちは知っています。

 私たちはよく食口と言っています。では食口を中心として見るときに、父母の悲しみは言うまでもありませんが、その反面、子女たちの悲しみも子女だけの悲しみではないのです。子女の悲しみは父母の悲しみと直結されるのです。子女が多く食口が多いといってもそれが問題ではありません。多くの食口の中で一人が悲しみに遭うようになれば、食口全体がその一人の悲しみに包括されてしまうのです。そこに融和されてしまうのです。悲しみを中心としては二つでなく一つになるのです。一つになったそれがその家庭の誇りであり、その家庭の力であり、その家庭の生命の源泉だということを私たちは知っています。

 一人の食口の悲しみをその人の悲しみとしてだけ考えるなら、十人の食口がいるとき、その十人の食口が皆そのように考えるなら、その十人の食口は一つになれないのです。その十人の食口が心で平和を願い、あるいは幸福を願い、安息を願うとしても、彼らの中には安息がありえないのです。ある個人が安息を願うなら、個人の安息として見いだされたその何かがあったとしても、その安息は全体が安息できる基盤とはなりえないのです。十人なら十人が各自自分のための立場で見いだした個人の安息所があるとするなら、それは互いの不安の基盤となり、不和やあるいは不幸の根本となるという事実を、私たちは生活を通し、私たち食口たちの周辺の事情を通してはっきりよく知っているところです。

 食口という立場でこのような内容を中心として考えてみるときに、私たちは一般の世の中の食口とは違っているのです。世の中の食口は、一生の間ともに暮らしながら互いにために生き、互いに慰労の対象となって一つの心情を見いだしていくことのできる幸福の道を探したなら、その食口は幸せでいられるのです。だから人生においてだれよりもどんな家庭よりも誇れる食口になり、家庭になるのかもしれません。しかし私たちが言う食口の観念は違っているのです。世の中を中心として言うのではなく、天を中心として言うのです。天の父母を中心として言うのです。天の父を中心として言うのです。その天の父母は一時的な時代を主管する父母ではないのです。歴史を支配し歴史を主管する父母であり、この時代を支配し主管する父母なのです。のみならず、今後の時代、すなわち未来までも主管しなければならない父母なのです。そのような天の父母に侍っている私たちが今一度考えると、天の父母は堕落した人類に対していることを知っています。その堕落圏内で完全に解放を迎えられなかった自分たちであることを知っているのです。(一九七二・八・一、南山聖地)


2 食口という言葉の設定背景

 今日、私たち統一教会では「食口」という言葉を言います。そうでしょう? この食口という言葉は何を中心として言う言葉でしょうか? イエス様を中心として言う言葉です。

 ではイエスを中心とした食口がいたでしょうか? 母親は食口ですか? イエスの行く道と一つになった立場に立てなかったその母親が食口ですか、食口ではないですか? その母親は結局はともに行くでしょうか、分かれるでしょうか?(分かれます)父親がそういう立場にいれば分かれるでしょうか、ともに行くでしょうか?(分かれます)兄弟も分かれ、父親も分かれ、氏族も分かれ、国も分かれ、教会も皆分かれるのです。イエスと永遠にともに死ぬことのできる、一つの道を行くべき家庭であるにもかかわらず、イエスが育った家庭にイエスの食口がいたでしょうか? 食口なら、父親と母親がおり、妻と夫がおり、子女がいるのです。統一教会の言葉では四位基台だと言うのです。それがイエスの食口です。

 ではイエスが愛することのできる食口がいたでしょうか? イエスが母親を愛しましたか? 愛せなかったというのです。父親を愛しましたか? 父親は義理の父親だったというのです。弟妹たちを愛しましたか? 弟妹たちも愛せなかったというのです。だれを愛したでしょうか? 愛の主人公として来た張本人であるにもかかわらず、母親と父親をだれよりも愛そうとしたのに愛せなかったのです。本来のアダムとエバが神様から愛の教育を受けられなかったので、イエスがそのような愛を母親・父親に「このように愛さなければなりません」と教えようとしたというのです。けれども、彼の母親と父親はイエスの言葉を聞きませんでした。

 愛を教育するにはユダヤ教の礼法を経た立場で、神殿理想を完成した立場でしなければなりません。イエスは神様の代身として、父親の代身、新郎の代身、兄の代身、愛の主人公として来たので、マリヤ家庭全体はイエスに神様の代身として侍らなければならなかったのです。イエスはヨセフに対して「おい! ヨセフ」こうでなければなりませんでした。ヨセフが父親ではないというのです。またマリヤに対しても「マリヤ!」こうでなければならなかったというのです。

 彼らが教育を受けなければならなかったというのです。彼らが教育を受けるようになっていたですって? 人情を通して見るときは父子の関係でしたが、天情を通して見るときはイエスが主体なので、その愛の道理に従って彼の父母から彼の兄弟まで皆イエスに教育を受けなければならなかったのです。父親と母親はこう生きるべきであり、兄弟たちはこう生きるべきであり、兄弟の中で私の相対はしかじかの女性であるべきだと教育をしなければならなかったというのです。ところがイエスはそのように教育してみましたか? 聖書にそんな話がありますか? これは真の葉は全部省いて子葉だけ持って天国に行こうと騒いでいるというのです。よこしまなことをしているというのです。

 イエスはいつ父親を愛してみたでしょうか? イエスが愛したかった父親、イエスが愛したかった母親、イエスが愛したかった弟妹たち、あるいは兄さん、近所のおじさんたちがいたでしょうか? いなかったというのです。それがイエスの恨みだというのです。また、イエスが愛せる国とイエスが愛せる民族とイエスが愛せる教会とイエスが愛せる氏族とイエスが愛せる家庭とイエスが愛せる相対がいたでしょうか? いましたか? 国が責め立て、民族が責め立て、教会が責め立て、氏族が責め立て、親戚が責め立て、父母が責め立て、兄弟が責め立てるので死ぬしかありません。すべて失ってしまい、胸が詰まって死んでいったのに私のために死んだですって? 好きで死んだですって? こんなおかしな連中が世界には多いというのです。自分たちが殺しておいて自分たちのために死んだと・・・。皆狂った者たちだというのです。だから私たち統一教会はこの場で食口の因縁を実現させなければならないのです。(一九七一・一一・二一、前本部教会)

 皆さん、統一教会に入った人を食口と呼びますが、その名称がどれほど貴い名称ですか? 先生が以前にも話しましたが、食口とはどんなものですか? だれをおいて食口という言葉を立てたのでしょうか? これは皆さん自身を中心として言った言葉ではありません。万宇宙を与えても替えられない天上天下に唯一なる価値であり、無限なる宝の実体として来られた神様のひとり子、すなわち神様が愛されたイエス様を中心として言った言葉です。

 神様はその方を愛さずにはいられません。また神様の愛が現れるとするなら、その方として現れることができるのであり、神様の勝利の道が現れるとするなら、その方から現れるのであり、天地の出発基準が現れるとするなら、それもやはりその方によって現れることができるのみです。その方を通さないでは神様の何も表すことができないほどその方は絶対的な方です。

 その方を中心としてこそ食口という言葉を語れるのです。食口という言葉は現在の統一教会の教会員たちを中心としたものではありません。イエス様のそのような価値的な因縁、その人格的なものを中心として食口というのです。イエス様を中心として見れば、年の多い人はイエスの父母であり、似かよった人々はイエスの兄または弟たちになります。このようにただ一つしかない唯一なる価値、無限なる宝物の位置に立ったイエス様を中心として言うのだということを皆さんは知らなければなりません。(一九六六・一一・六、前本部教会)

 統一教会で今言っている食口というのはどのようなものでしょうか? イエス様のみ旨を相続された、天の前に真なる息子・娘の立場で呼ぶ食口であり、兄弟であり、一つの家族だというのです。

 では、今日私たち食口同士、兄弟同士は、どうして行かなければならないでしょうか? イエス様は生まれるその時間から育つ生活の中において・・・。イエス様はもちろん弟妹もいました。弟妹もいたし父母もいましたが、父母と兄弟に対してイエス様は本当に天が願う父母、天が願う兄弟として考えたのかと言えば、そうできなかったというのです。彼は理念的な父母を考え、理念的な兄弟を考えましたが、その当時においてイエス自身を中心として見るとき、果たして自分が愛することのできる弟妹、自分が愛することのできる父母になったかと言えば、なれなかったというのです。(一九六五・一二・七、春川教会)

 今日、統一教会ではなぜ食口と呼び、またその名詞はどこから出てきたのでしょうか? 特に若い人々がこれをはっきり知らなければなりません。イエス様は弟妹がいたけれども弟妹を愛せなかったし、父母がいたけれども父母を愛せなかったし、親戚がいたけれども親戚が愛せませんでした。教会があり、国と民族がありましたが、それらを愛せなかったイエス様の恨みを解いて差し上げなければなりません。(?)


3 だれが真なる食口であろうか

 今日皆さんが食口という言葉を使っていますが、その言葉は実に恐ろしい言葉です。もし皆さんが信仰路程で誤れば、イエス様が神様のみ旨を証したその立場を遮る怨讐になるのです。イエス様がサタンと闘われた立場を遮る怨讐になり、十字架に行き人類を贖罪なさろうとしたそのみ旨を遮る怨讐になるというのです。

 ではどのような人がイエス様の食口なのでしょうか? それはすべての人にみ言を伝えてあげたかったイエス様に似た人であり、イエス様がサタンと闘われるときご苦労されながら憂い心配し嘆息したそのすべての心情を体恤できる人であることでしょう。それゆえ、イエス様が十字架の道を行かれるときにただついていくだけの人はイエス様の食口ではなく、十字架の道に進んでいくときまでのその心情を知ることのできる人がイエス様の食口だということを、皆さんははっきり知らなければなりません。

 そして皆さんは、イエス様がこの地に来られて三十余年の生涯の路程で真なる証し人の使命を帯びて現れたとき、ご自身を代身して証しする真なる食口を持つことができず、サタンと闘う場においてともに闘ってあげることのできる食口、ゴルゴタの十字架を負って進む道においてともに行ってあげられる真なる食口、さらに天と地の前に誇れる真なる食口を持てなかったのが、最も大きなイエス様の切なさだったということを知らなければなりません。

 それでは、今日皆さんは何をすべきでしょうか? 二千年前にイエス様が神様のみ旨を証すために切ながられたように、今日皆さんもあらゆる精誠を傾けて神様のみ旨を証さなければならないというのです。また当時ユダヤ教団とイスラエル民族の反対を顧みずに悲壮な心情と覚悟を持ち、サタンと対決し闘われたイエス様の事情、天のみ旨成就のために心配されたイエス様の心情を持ち、代身してみ旨を成して差し上げられる人にならなければなりません。

 さらには天のみ旨を成就するために、進む道を遮るすべてのものを除去するためには生命も捧げられるという覚悟をされたイエス様のその悲壮な心情を、皆さんは感じようとする人にならなければなりません。また皆さんは自ら民族を代身して十字架を負おうという祭物の精神をも備えようとする人にならなければなりません。

 皆さんはまたイスラエル民族を代身して生きた祭物になるだけでなく、二千年前のイエス様の心情に通じることができ、イエス様の人格を備えることのできる人にならなければなりません。皆さんはサタンの前に屈伏する死んだ祭物になってはならないというのです。イエス様の心情に徹して神様のみ旨を証ししてから落胆してはならないし、サタンと闘って敗北する人になってもいけないというのです。

 それゆえ、終わりの日に身を置く皆さんは、死の峠を踏んで立ち、怨讐を神様の愛の懐に導こうという悲壮な覚悟と心情を備えた人になってこそ、イエス様の真なる食口になりうるのです。

 それでは、イエス様が神様のこの上なく大きなみ旨を代行して進まれるときに、だれがイエス様の心を悲しませたのでしょうか? イエス様と最も近い人々がイエス様の心を悲しませました。準備されたイスラエルの民が反対したのが悲しみではなく、ユダヤ教徒が反対するのが悲しみではなかったというのです。三年間も従った弟子、その愛する弟子たちが信じるべきときに信じることができず、死ぬべきときに死ねなかったその一つの事実がイエス様に最も大きい悲しみとなったのです。これを皆さんがはっきり知るようお願いします。

 では、皆さんがどうすれば天の真なる食口だと言えるでしょうか? まず皆さん各自の心が一つの心に和合して動いていかなければなりません。そうして、一つの目標(み旨)に向けて闘おうとしなければならず、またその一つのみ旨、すなわち神様のみ旨を成就するために死を覚悟して進もうとする人にならなければなりません。またイエス様が二千年前にこの地上に来られ、天のみ旨をすべて成せずに亡くなられたことによって結ばれたその怨恨を解いてあげ、慰労してあげる人にならなければならないというのです。このようなすべてのことを成すときに、皆さんを天の真なる食口と言うことができるということを肝に命じるようお願いします。

 では、今日自分の信仰路程で何を持つ人になるべきでしょうか? 皆さんは真なる食口を持つ人にならなければなりません。皆さんが家庭に帰ればその家庭で真なる食口を持たなければならず、教会に行けば教会でも真なる食口を持たなければならず、社会に出ればその社会でも真なる食口を持たなければならないというのです。

 また皆さんはイエス様が神様を代身して証しし、神様を代身してサタンと闘いつつ神様を代身して亡くなられたのと同様に、そのようなイエス様のために (1)証さなければならず、イエス様のために (2)闘わなければならず、イエス様のために (3)死ねなければなりません。(一九五七・一〇・一八、前本部教会)

 それでは、私たちは今どの段階にまで来たでしょうか? 私たちは統一教団をつくりました。これは失ってしまったユダヤ教を再び捜し立てたことと同じです。また、今日統一の一族たちは失ってしまった氏族を捜し立てたのと同じであり、失ってしまった兄弟たちを再び捜し立てたのと同じです。そのような意味で、今日統一教会の私たちは一つの兄弟です。その兄弟の因縁を経なくては氏族が形成されないのです。また、兄弟の因縁に連結させる前には教会も民族も現れえないのです。国家も形成されえないのです。

 それゆえ、この兄弟の因縁を中心として連結させるべき使命が私たち統一教会にあるというのです。そのような意味で食口という名詞が成立するのです。食口を通してこそ兄弟の因縁が結ばれるので、この食口という言葉こそ天国を造成するにおいて下地になりうるのです。それだから、統一教会の教会員たちは食口という言葉を使用するということを、皆さんは知らなければなりません。したがって今日統一教会の食口同士は、互いがイエス様が愛せず、愛されなかったその愛を授け受けなければなりません。

 年長の人は幼い人を見るとき、イエス様の母親と父親がイエス様を愛せなかった立場を代身して、その幼い人をイエスのように愛さなければなりません。そのような立場で愛することによってユダヤ教が愛せず、イスラエル民族が愛せなかったその年長者の立場を復帰するようになるのです。

 兄と弟の立場にいる食口同士は、またイエス様の兄がイエス様を愛してみることができなかったのを復帰しなければなりません。イエス様が兄と愛を分かち合えなかったことが神様の恨みであり、イエス様の恨みです。ですから兄の年齢の人は弟のような人をイエス様のように考え愛してあげなければなりません。それによって初めて、愛することができずに積もった神様の恨みが解けるのであり、兄を愛することのできる場を持てなかったイエス様の恨みが解けるのです。

 神様の願いは、神様が準備しておいたイスラエルの国とユダヤ教とヨセフ家庭をしてイエス様を愛させることでした。そしてイエス様の願いは、愛を受けてから彼らを愛することでした。このように神様の願いは愛させることであり、イエス様の願いは愛することでした。しかし愛させようとする神様の願いと、愛そうとするイエス様の願いが十字架によって壊れていったので、神様の恨みを積もらせイエス様の恨みを積もらせました。したがって今日これを再現させ、再蕩減しなければ復帰にならないのです。

 だから今日、私たち統一教会員たちの中で年長の人たちは、自分より年の若い人に対するとき、イエス様の兄がイエス様に対するように愛せというのです。また、弟のような年齢にいる人はイエス様の弟がイエス様を兄として愛せなかったので、兄のような人をイエス様を愛するように愛せというのです。イエス様のおばあさんがイエス様を愛せなかったので、イエス様のおばあさんのような立場にいる人たちは孫のような統一教会の食口たちをイエス様のように愛せというのです。また、孫のような年齢にある人はおばあさんを愛せなかったイエス様の恨みを解いて差し上げるために、おばあさんをイエス様のおばあさんのように愛せというのです。

 このように少年から青年、壮年、老年に至るまでの私たち食口たちは、全体がイエス様お一人を置いて因縁を結ばなければならないというのです。イエス様を愛すべきイスラエル民族、イエス様を愛すべきユダヤ教、イエス様を愛すべきヨセフの氏族たちがイエス様を愛せなかったのを解怨するために、一つの囲いの中に集められたのが、今日この統一教会の教会員たちなのです。

 イエス様を愛すべきなのに愛すべきイエス様がおられないので、目下の人をイエス様のように愛せというのです。また、目下の人はイエス様が目上の人を愛せなかったことが恨みなので、これを解いて差し上げるためにイエス様の立場で目上の人を愛せというのです。そうしてこそ神様の恨みが解かれ、イエス様の恨みが解かれるのです。

 これが連結されて新しい国と新しい教会と新しい氏族と新しい家庭を編成していくとき、初めて神様がこれらを喜びで迎えることができ、イエス様も喜びで迎えることができるのです。それによって新しい天国の門が開かれるということを皆さんははっきり知らなければなりません。(一九七〇・一二・二五、前本部教会)


四 本然の食口が持つべき姿勢

 今日統一の群れたちは困難な道を行っています。歴史上において初めて私たちは食口という名前を呼んでいます。兄弟姉妹という名詞を使っているというのです。この聖なる名詞! 天地がなくなるとしても、この名詞はなくなってはならないというのです。歴史は審判を受けて倒れるとしても、この時代は審判を受けて倒れるとしても、この名詞とこの実体たちは残されなければならないというのです。悪は清算されても、この希望の食口と希望の家庭と希望の兄弟は残されなければなりません。

 そうするためには、この希望の食口たちが残されるためには世界的な十字架の道を越えなければならないというのです。ですから、今日私たちに個人的十字架はもちろん、家庭・氏族・国家・世界、さらには天宙的な十字架が残っているというのです。(一九六五・一二・七、春川教会)

 統一教会教会員たちの「私たち」というのは、「食口」というその名詞はどこから出発したのでしょうか? 十字架の伝統から、血が流れ血涙がつづられる、そのような立場から出発したということを知らなければなりません。それゆえ、何を与えても、忘れてしまおうとしても忘れられず、何を与えても、替えようとしても替えることができない私たちの因縁なのです。父母が反対すれば父母の縁を切ってでもこの道を行かなければならず、民族が反対すれば民族の縁を切ってでも行かなければならず、天地が反対すれば天地の縁を切ってでも行かなければなりません。死んでもこの道をつかんで死ななければならず、生きてもこれをつかんで生きなければならず、この恨みが世界的な恨みとして結ばれているので、世界的な恨みを解くとき、これをつかんで涙を流して行くべきそのような歩みが統一教会の歩みであり、統一教会の師が行く歩みであることをはっきり知らなければなりません。(一九六三・一〇・一八、光州教会)

 今日私たちが言う食口という基準は高次元的なものです。ここに至れば自分の血統的な因縁が問題になるのではありません。氏族的なそのような血族が問題になるのではありません。この立場は血族でない血族が兄弟以上の因縁を持つことができ、父母でない父母に父母以上に侍ることができ、家庭でない家庭に家庭以上に侍ることができるそのような立場です。(宗廊)

 皆さんは教会の門を勝手に出入りしますか? そうはできません。ここで呼ぶお父さんという名前がそうたやすく呼ぶことのできるお父さんではありませんし、ここで呼ぶ食口という名詞がそうたやすく呼べるものではありません。何千万の聖徒が血と汗を流した基盤の上で立てられたものです。

 この聖なる場に来たそれ自体が問題ではありません。言い換えれば、説教を聞く自体が問題ではなく、私自体が問題なのです。因習的な信仰観念や習慣的な生活が再び継続される傾向がなくはないか、自ら批判しなければなりません。(一九六二・七・一、前本部教会)

 今日、私たちはこのようなすべての内的な事情を知り、この使命を成就し、このようなみ旨を立てるために内心、今一度さらに誓わなければなりません。

 皆さんは食口がどれほど貴いものであるかを知らなければなりません。食口一人がいなくなるときは、六千年の歴史過程で捜してこられた神様の前に、イエス様が愛することのできる個人を持てなかったのであり、イエス様が愛することのできる家庭を持てなかったのであり、イエス様が愛すことのできる兄弟を持てなかったのです。一人を愛すると言ったときのその一人は、個人ともなることができるのであり、家庭においての一人ともなることができるのであり、兄弟の一人ともなることができるからです。(一九七〇・一二・二五、前本部教会)

 皆さんは神様を中心とした一つの食口だということを徹底的に認識しろというのです。そして、統一教会の食口という言葉がどれほど貴い言葉であるかを皆さんが考えてみなければならないというのです。(一九六一・五・一八、前本部教会)

 ここに集った多くの子女たちは統一教会の勇士たちでございます。統一教人と申します。統一教会の食口と申します。食口という名称の中に隠れているこのとてつもない天的な意義を、私たちが忘却しないようにしてください。その食口がいなくては各自が兄弟の因縁を持つことができず、兄弟の因縁を備えられなければ父母に侍ることができないというこのとてつもない事実を知り、一つとなってお父様のみ旨の前に謙そんにひざまずき、あなたの日を欽慕し、出て闘うことのできる天の精兵たちとなるようにしてくださいますことを、お父様、懇切にお願い申し上げます。(?)


五 統一教会員の価値

1 私たちは歴史的結実体である

 今日統一教会の教会員たちが祈祷するとき「ああ! 私たちは六千年の歴史的な結実体です」と祈祷するでしょう? 六千年の歴史の結実体なら、良い先祖の津液(=生物体内からしみ出る液)も悪い先祖の津液も影響しているでしょう? ですから、そのような実体自体はそのような影響を必ず受けるようになっているというのです。それゆえ、皆さんの心霊状態が均等でないのは、そのような霊的な善なる先祖と悪なる先祖の結実体だからです。

 それゆえ、今のときは、この位置は堕落しましたが、全体の歴史において悪いことも良いことも全部ここで交差されるのです。交差するのにどうすべきかと言えば、良いものは刈り入れ、悪いものは捨てなければなりません。何の話か分かりますか? 今のときは良いものは全部刈り入れ、悪いものはすべて捨てるというのです。(一九七一・一一・二八、前本部教会)

 皆さんは知りませんが、一人がここに訪ねてくるまでその背後の歴史的な苦労が多いというのです。数多くの先祖たちの功労が積まれたのです。皆さん、秋に結実を取り入れる主人が鎌で刈るときは、歌が流れ出るのです。讃揚の歌のふしが流れてくるのです。ところが収穫しながら、「ああ、これは大変だ!」と言って嘆息する人がいるなら、彼は主人ではないというのです。収穫の刈り入れをする農夫の仕事場は、一年の苦労が栄光として現れるその日を喜んで迎えることのできる場であって、呻吟と悲痛と嘆息で実を結ぶ場ではないというのです。苦痛と苦労はすべて流れていってしまい、かえってその鎌で刈るのに鼻歌が流れてくる、希望の明日が約束された場ではないでしょうか? 私たち自身においても同じです。(一九七一・一○・三、前本部教会)

 草取り鎌の柄をつかんでトラジを掘って食べながら、山奥の火田民(=焼き畑をして暮らす民)として一生を生きるとしても、その鎌の先で天地を釣るという心を持たなければなりません。天地の度数の因縁に従って結ばれるすべての穀物の実は、歴史的で人為的な因縁を全部総合した結実体だということを知り、皆さんはこのようなことを讃揚できなければなりません。このような人はたとえ山の中で草家住まいをしていても、後にはその国の指導者になるという事実を、皆さんは知らなければなりません。このような点から見るとき、今後統一教会は世界的な金持ちになるというのです。何の話か分かりますか?(一九六九・一〇・一八、大邱教会)

 今日収穫の結実体として現れた私たち統一の群れ、それこそ自ら自信を持っていて、自らが天の前に誓ったことを実践しうる実体となったなら、この実体こそ貴い存在だということを知らなければなりません。私たちは彼らを讃揚しようとしなければなりません。私たちは彼らの甲斐のある価値を認定し、歴史路程のだれの前にも恥ずかしくない、讃揚された姿で立たせなければなりません。この時代、三十億人類の前に、あるいはどんな先進国家のどんな特定の民の権限を持った人々の前であっても、勇ましく立つことのできる自信を持たなければなりません。それだけでなく、後世に生まれる私たちの善なる後孫たちの前に、この伝統を見習えと主張することができなければなりません。このような自らの決意を誓うことのできる季節が収穫の季節であり、讃揚の季節だということを皆さんは知らなければなりません。

 このような観点から見ると、私たち人間だけでなく、私たち統一教会の信徒たちだけでなく霊界にいる数多くの霊人たちまでも、やはり歴史的な収穫の結実として立てられ刈り取られた群れが統一の群れだと言うときは、今日の人類だけでなく、歴史過程を通して殉教の祭壇で犠牲の祭物として血を流していった数多くの霊人たちは、善なる哀魂たちは私たちを眺めつつ全体の恨みを解いてくれと言っているということを感じなければなりません。私たちの喜びを、彼らは自分の勝利の一日を誓って捜しておいたのよりも、さらに大きな喜びとして感じることでしょう。そのような数多くの善なる先祖たちが霊界にいるということを私たちは忘れてはなりません。(一九七一・一〇・一、南山聖地)

 今日皆さんが祈祷するとき「私たちは神様の六千年摂理の歴史的結実です」と堂々と自信を持って語ります。それは正しいです。それなら、じっとよく見れば、その中には総合された歴史の光が輝かなければなりません。歴史に失ってしまい捜し出せなかったものを、新しい価値として収拾することのできる生命の要因が宿るようになるときは、自分がどこに行っているとしても、その本性は実を通して次に迎えることのできる春の日の新芽を中心として、新しい世界を迎えることができるのが自然の道理です。そこに何か特別に考慮や思いというものは必要ありません。自然にそうなるのです。だれが分かってくれるとかくれないとか、不平を言うとか喜ぶとかいう余地がないというのです。(一九七二・七・二、前本部教会)

 自分が結実体になろうとするなら冬の季節を通らなければなりません。この時代は収穫の時代であり、結実期です。
 冬の季節になれば北風寒雪(=北風と冷たい雪)が吹きつけてきます。そのような中で黙々と地の中に埋もれて新しい生命を繁殖させなければなりません。

 そのようにして実を結ばなければ、切らなければなりません。イエス様は結実がない無花果(いちじく)を呪いました。終わりの日のようすを見せてくださいました。終わりの日には切って新しい枝に接ぎ木しなければなりません。(一九六〇・一一・一三、韓・泰陵)

 皆さん自身を踏まえてみると、「お前はだれか?」と言えば「私は歴史的な実だ」と言うことでしょう。それは知っているはずです。しかし、何の歴史的な実ですか? 歴史的な実というのは、自分を中心として言うのではなく、来られる主を中心として、その方を標本としてその立場に代身して立つことのできる条件を備えなければならないのです。
 そのためには、内外な基準と絶対的に一つにならなければなりません。先生がいくら困難なときでも、神様を中心として絶対的に一つになったのと同様に、内的基準と一つにならなければなりません。もしその基準が希薄するときは、皆さんがすべてのものを除去させ、希薄するような基準をもう一度犠牲にさせなければ、どんなに仕事をしても効果が出ないことでしょう。(一九六六・七・四、本部教会)

 私たちは歴史的な結実体です。私たちが何ですって?(歴史的結実体です)その次には時代的な結実体であり、未来的な結実体です。とてつもないですね! そう、皆さんが歴史的な結実体だというのです。

 皆さん、それではこのような結実体が、ウジムシが食べ、虫が食って穴がぽかんと空いた果実ならいいでしょうか? ぱっと開けてみると真っ黒な種がころりと転がり出るリンゴがいいですか、その種がねばねばしてくっ付いたリンゴがいいですか? 実がよく熟したリンゴになりたいでしょう?(はい)分かるには分かるんですね。

 それで皆さんをぽかんと割れば、よく熟した果物の種のようなものが出てきそうですか? 皆さんの二世が間違いのない天の実になると思いますか? 皆さんの心の中を割ってみれば、よく熟した統一教会が出てきそうですか?

 その六千年の結実体が落果のように熟すことができずに落ちていいでしょうか? ただ風が吹くかと心配しながら「ああ、私が落ちそうだ。もうちょっとだけ吹いたら落ちそうなので、先生、揺らさずじっとしておかなければなりません」と言っていいでしょうか? ここにそんな連中もいることでしょう。反面、「先生が斧で強く殴って、枝を勝手に揺らしても枝が裂ける前には絶対に落ちません」という群れもいることでしょう。皆さんはどちらの連中に属しますか? 風が吹きそうで心配する連中ですか?(違います)ではどんな連中ですか?(揺すっても落ちない連中です)揺すっても落ちない連中?(はい)それ、よく言いました。本当にそうですか?(はい)笑う連中は駄目になってしまうのです。(一九七一・八・一三、清平修練所)

 ぜひ骨のある人として、骨のある男として、最後の結実体として、統一教会の結実体として、レバレンド・ムーンの結実体として、神様の息子の結実体としてだれにも恥ずかしくない堂々たる男になれというのです。


2 計り知れない恩賜の立場に置かれた私たち

 今日統一教会の教会員たちは「私は統一教会員だ」と言いますが、統一教会が現れるまでの歴史を見れば、受難の過程を経てきたということを知ることができます。人類の始祖が出発するその日から今まで、歴史的因縁を統合して現れたのです。統合する場合は悪い因縁を統合したのではなく、善なる人々の歴史的因縁を統合してその因縁を直系的に継承してきたというのです。これが神様が復帰摂理歴史をしてこられたみ旨だというのです。

 それゆえ、この道を行けばどうなるでしょうか? この道を行けば来られる主と出会うのであり、この道を行けば来られる主とともに天国に行くのであり、この道を行けば主とともに天国の王宮に行くのであり、この道を行けば天の国の息子と娘になることができるのです。ですからこの道が現れるまで、天はその背後で歴史的な受難と善の代価をどれほど多く払ったかというのです。蒔くのに比例してその結実になるのと同じく、受難の道を経てきながら、また蕩減復帰の歴史路程を経てきながら、どれほど多くの代価を払ったかというのです。このようなことを私たちは考えてみなければならないでしょう。ここには個人が動員され、家庭が動員され、氏族が動員され、民族が動員されているだけでなく、国が栄えるか滅びるかという問題が介在しており、またさらには世界が栄えるか滅びるかという問題が介在しています。(一九七一・五・二、前本部教会)

 今日統一教会員たちは、先祖たちがこのみ旨を残すためにどれほど多くの精誠を尽くしたかを知らなければなりません。今日原理が教えてくれる内容が事実であり、そうだと言えるまでは、その背後に数多くの聖賢たちが精誠を尽くし、生命を犠牲にして、今までこの一つの目的を持って一つの終着点に向かって歴史を走らせ、時代を収拾してきたというのです。このような立場にまで連結させてきて、最終的な交差点で互いに出会ったのがまさに皆さんだということを知らなければなりません。ですから奇跡があるとすればこれ以上の奇跡はないのです。

 原理の備えた内容が大変歴史的で、あまりにもとてつもないものなので、ここに一致しうる人格を備えられない人がこれに従い、これを心配しその周囲でうろうろするなら、それは恵みとして残されず、むしろその恵みが離れながらすべてのものを持っていくでしょう。これは決して簡単に考えてはならないことです。

 今日この恩賜は個人として消化させることのできる恩賜でなく、国と世界とともに消化すべきとてつもない恩賜なのです。これを考えるときに、「私がこの恩賜をどれほどありがたく考えるか」というのです。私がこの恩賜に対して腰をかがめるようになるときに、この恩賜が、先祖たちが百回千回腰をかがめて努力した土台の上に連結されたものなら、自分は千回万回腰をかがめても足らないというこをを感じようとする心を持たなければならないのです。そのみ旨を愛し慕うにおいて夜でも昼でも時間を加えるのに努力し、血と汗を流そうという努力があってこそ、先祖たちが私たちを訪ねて、その精誠を集めて受けた恩賜を私たちに任せるのではないかというのです。その恩賜が今日私たちを訪れた恩賜であり、そのような責任を負った私たちだというのです。(一九七一・五・二、前本部教会)


3 見事で誇らしい

 皆さんは外的に見ると、顔が平べったく耳がぼこんと落ち込んで薄幸に見えますが、霊界では皆さんを福っ子だと思っています。さらに十代圏内にいる先祖たちは気をもんでいます。なぜなら復帰歴史は十代を中心として成されるからです。ところが、もし悪い後孫が現れれば、十代圏内にいる先祖たちが「こいつ! お前が私たちを滅ぼそうとするんだな」と言って審判します。

 それゆえ、善なる先祖を持った後孫がここにいれば、先祖たちが積極的に協助するというのです。そのような立場に皆さんが立っているのです。そのような立場にいる皆さんが意気揚々と見事に闘って行く所ごとに、百戦百勝の戦績を立てるときに、霊界では永遠に永遠に喜ぶのです。このような皆さんになれば、雑神が現れても驚いて倒れることでしょう。そうなっています。それゆえ、このような先祖たちは皆さんに、王に侍るように侍ることでしょう。皆さんたちはこのような感触を感じなければなりません。(一九六四・四・一九、大邱教会)

 私たちは真のご父母様を中心として一つの真なる子女になったことが私たちの誇りです。ムーニーになったのが誇りです、ムーニーになったのが。今、皆さんがそうですか? 今後ムーニーとなることを誇るべきです。(一九八二・一・一、世界宣教本部)

 私たちは素晴らしい人たちです。世界がうらやましがり、天と地がうらやましがり、霊界のすべての聖人と賢哲たちがうらやましがることのできる堂々たる生涯を歩んでいる、天が捨てることができず、天が称賛するだけでなく訪ねてきて愛そうということのできる、そのような背景と内容を備えて生きる素晴らしい男たちだというのです。(一九八七・一二・五、漢南洞公館)

 皆さんは高い夢を持った人たちです。夢を探して前進している人だということを知らなければなりません。ですから、この時間きょうも、今年も、来年も、未来も一生の間夢を探して前進するのです。これがどれほど素晴らしい夢かというのです。この夢は世界と歴史において通じないものはなく、この夢の実現を歓迎しないものはないというのです。そのような夢の実現者として、一つの旗手として旗を掲げていで立つ人が統一教会の群れだということを、誇らしく思わなければなりません。(一九八一・一二・一、アメリカ)

 それで、今、どこに行きますか? 真っすぐ行かなければなりません。正しく行かなければなりません。行こうとすればぐずぐず行くのでなく堂々と、足取りも堂々と行かなければなりません。「私は自分中心的な人より統一教会の教会員がもっといい」と言い、額に「統一教会」を付けて行くのです。どれほど素晴らしいですか? どれほど素晴らしいかというのです。世界にはこんなことはないのです。どれほど素晴らしいですか!

 統一教会の世界になって神様が「お前、だれそれだな! お前、統一教会の活動を誇らしくやったか、恥ずかしくやったか?」と尋ねれば、そのとき神様の前で答えなければならないというのです。先生はくさい服を来ても誇らしく行くのです。私が以前、この靴がすっかり擦り切れたのです。それを私が誇らしくはいて行ったというのです。私が魚を取りにいっても誇らしく行き、どこに行くにも誇らしく行きます。私がだれも知らない冷遇を受けて行きますが、私の後には数多くの人がついてくることでしょう。間違いありません。来るなといってもついてくるというのです。何の話か分かりますか?(はい)どれほど素晴らしいですか?(一九八二・三・七、世界宣教本部)


4 幸福なる立場である

 皆さんがみ旨を知ってみれば無限に高いものであり、み旨を知ってみれば間違いなく天の息子・娘として天の皇族になるとはいえ、行く方向をどこに定めるのでしょうか? 祝福を受けることのできる立場で生きるときが近づいたのに、福を守れずに皆奪われればこじきになります。私たちは福を奪われる所に落ち着くのでなく、福を受けられる所に落ち着かなければなりません。その圏内に入らなければなりません。このように信じる部分から天が基礎を開くことができるのを先生は知っています。

 統一教会に入ればすぐに福を受けるのではありません。先生もやはり飯をもらい食いする苦痛も経験したし、また門前ばらいを受けるときもありました。

 皆さんは師の行く道が真であることを知りました。そして天が偽りでなく真であることも知りました。それなら、天に真実に侍らなければなりません。おなかのすく場に行けばおなかのすく人のように食べず、死ぬ場に行けば過去に忠臣たちがそのような場に行って切なかったのよりももっと切なく、彼らよりももっと懇切でなければなりません。そのような心情の主人公にならなくては天倫に対することはできません。(一九六四・三・一五、前本部教会)

 では、今統一教会の皆さんと昔のノアやアブラハム、あるいは洗礼ヨハネを比較するとき、だれがより幸福でしょうか? だれがより幸福ですか? 統一教会の皆さんが幸福だというのです。幸福な時が来るには来たというのです。見なさい。貴く育った洗礼ヨハネが毎日いなごとはちみつを食べました。しかし洗礼ヨハネがじっと座っているのにいなごが口にすっと入るでしょうか、飛んで入るでしょうか? ですから畔のような所にやたらに捕まえに通ったというのです。考えてみなさい。それが立派に見えますか? こんな姿を彼の母親と父親、親戚たちが見れば、あきれ返りますか、あきれ返りませんか? 考えてみなさい。どれほどあきれ返るでしょうか? はちみつを取ろうと岩の割れ目をどれほどさまよい歩いたでしょうか? 話を聞いたら格好よく見えるでしょう? 実際にやる格好を見れば狂った男だというのです。(一九七二・六・五、中央修練院)

 皆さんはイエス様よりも、神様よりも、先生よりももっと福を受けた人です。なぜそうかと言うと、先生は一生の間やったけれど、皆さんは六カ月以内にも全部できます。反対せず「統一教会全部、ムーニーはいい」という日には、何、半年もかかりません。反対せずに統一教会をいいという日には、何、半年もかからないのです。(一九七八・一二・二四、アメリカ)

 さあ、今からは統一教会の教会員になったことを・・・。もしレバレンド・ムーンの言葉が間違いなければ、統一教会の教会員になったのを栄光と考えるべきですか、絶望と考えるべきですか?(栄光と考えるべきです)(一九七五・一一・三、ベルベディア修練所)


5 幸福なる所である

 さあ、統一教会がなぜ幸福でしょうか? 私たちは宗教人であるので幸福だというのです。神様を中心として愛をモデルとして崇める宗教人だというところにおいて統一教会員は幸福な人だというのです。宗教人だといって幸福だという話は初めて聞くことでしょう。哲学とか科学とかいうのは、神様を中心として永遠で真なる愛を追求できません。ところが、真なる愛を追求する神様を差し置いては幸福はありえないので、神様を信じ、真なる愛を信じて立つ人はより偉大な人になるのです。ここで神様を発見し、神様の愛を発見できるというのです。ここで神様を発見し、神様の愛を発見できるという結論だけ出せば、歴史にない偉大な革命と偉大な新しい転換期をつくれるというのです。なぜ? 世界を幸福にすればするほど偉大な文化を創建できるというのです。それ、理解できますか?(はい)

 そんな意味で私たち統一教会員たちは幸福だというのです。本当のハッピー・ピープル(=幸せな人)ですか?(はい!)なぜそうですか、なぜ? なぜ?(愛)神様が私の愛の主体だと思っているので・・・。神様がいくら優れているとしても私の主体です。どうやっても私の主体以外にはなれないというのです。私がいくら優れているとしても私の主体以外になってはならないというのです。気分がいいですか、悪いですか?(いいです)それがどうして可能でしょうか? 天地を創造した神様の前で何も分からない私がどうして私の主体以外になれないと言えるのかというのです。真なる人という銃弾だけ打ち込んでおけばいくらでも可能だというのです。愛の本質は統一世界、一つになることです。(一九七七・五・二二、アメリカ)

 私たち韓国人たち、今統一教会の教会員もそうでしょう。統一教会の教会員である皆さんは今全部幸せですか? 幸福ですか?(……)幸福ですか、不幸ですか?(幸福です)不幸ですか、幸福ですか?(幸福です)

 問題が大きいです。幸福とはどんな幸福でしょうか? 幸福も千万通りです。小学校の子供たちはあいうえお、何、あ、か、さ、た・・・。それを試験問題に出すのに、「あ」を書いて次にさっとカッコして、そこに何を書けとしたときに「か」を一つ書いて百点もらえば喜ぶのです。それが幸せなのです。そうでありませんか? おなかのすいた人は、おなかのすいた人はご飯一杯で幸福なのです。

 けれども、その幸せは何の幸せでしょうか? 一日一日の幸せではありません。一カ月の幸せではありません。人生の幸福ではないというのです。ではどんな幸せを求めるのでしょうか? 永遠なる幸せ、永遠なる幸せです。その永遠なる幸せは耳にだけ聞き良くては駄目です。「それが歌のようで永遠に耳にだけいいんだな!」それは駄目だというのです。目にも良く、鼻にも良く、次には口にも良く、触っても良く、感じるにも良くなくてはならないというのです。そんな幸福を・・・。その幸福は少しの間でなく永遠なる幸福だというのです。(一九八七・四・一二、本部教会)

 この世の人々は、自分が好きな人を愛し、嫌いな人を嫌いますが、私たちはそうならないようにしようというのです。私たちは一方的ではなく四方的だというのです。統一教会の教会員がなぜ幸福でしょうか? このような意味で、神様の愛の理想を見習おうというので、どんな人よりも幸福な人だというのです。

 ではそうなのか調べてみましょう。皆さん、神様が本当にお父さんですか?(はい)皆さんが本当に神様の息子・娘ですか?(はい)その立場がいかなる立場ですか? いかなる立場ですか、その立場が? その立場をいかなる基準で願うのですか? 堕落する前、アダムとエバ以上の立場を私たちは願うのです。分かりますか? アダムとエバが堕落する前以上の立場でのお父さんであり、そのような立場での息子になろうというのです。私たちがそうですか? 私たちがそうですか、本当に?(はい)本当にそうですか?(はい!)

 宗教歴史において、だれも考えないそのような基準を私たちが希望しているので、それが成される日にはどれほど幸福でしょうか? それゆえ、幸福だというのです。それが成される所はサタンの讒訴もなくなる所だというのです。サタンと関係のない所だというのです。その立場で神様と愛の因縁を結べば、その息子・娘をだれが離していきうるでしょうか? そのような意味で統一教会の人々は幸福な人々だというのです。これが事実だということを私たちは知らなければなりません。今日、人類歴史で思いもよらず、体験できなかった神様の愛の深い世界を所有しようといで立った群れが間違いない群れなので、彼らは幸福であらざるをえないという結論は、当然な結論だというのです。(一九七七・五・二二、アメリカ)

 今日、私たち統一教会の教会員たちが統一教会に入って幸福感を感じるというのです。「ああ! 幸せだ!」と。けれども、その幸福が今入ったその立場で保障されるのではありません。その幸福を保障させるためには、必ず出発とともに結果まで全部自分の主管圏内でこれを消化させることができなければなりません。そのような主体的存在とならなくては結果的幸福を占めることはできないのです。幸福は勝利した基盤の上で保障されるという結論が成り立ちます。(一九七五・三・二、ベリータウン)

 さあ、それゆえ、幸福というものがどこにあるかという問題を私たちは考えざるをえないというのです、ここで。さあ、み言がある所に幸福があるのではなく、実践することに幸福があるのではなく、最後に勝利した後ではじめてすべての幸福は現れ、因縁を結ぶのだということが分かるというのです。聞くこと、暮らすことが幸福ではないというのです。(一九七五・三・二、ベリータウン)


6 食口の価値

 神様は永遠であられるお方です。ですから、そのお方がお立てになった法度を永遠にするために動くのです。これと同様に、私たち統一教会が一度出発したなら、永遠に、どんな困難があっても押し通し、その目的が成されるときまで死を覚悟して努力しなければなりません。そこに甲斐のある統一教会食口としての価値があるのです。皆さん、そう? そう、そうでない? そうですか、そうでないですか?(そうです)では、そうしますか、そうしませんか?(そうします)(一九七六・三・四、光州教会)

 では一つ尋ねてみましょう。統一教会に入って「ああ、私は統一教会に余計に入った。この世に出ていってもう一度暮らしてみたい」このように思ったことのある人は手を挙げてみなさい。そのような人がいないはずはないでしょう? いるでしょう?(いません)何の話か分かりますか? 皆さんが統一教会に入ったとき、間違いなく自分の生命とすべてのものと闘って奪って勝利して入ったかというのです。境界線がないというのです。皆さんはどうですか?(勝利してです)見なさい。皆さんがここに入って、統一教会に入っているのを実は知らず、統一教会も知らず黙っているのと同じように、どんな境界線もなく入って座っている人はいつでも出ていくことができるのです。

 先生は三十年の間、闘ってここまで来ているというのです。どれほど苦労し、どれほど非難され、どれほどなぐられ、どれほど嘲弄され、どれほど困難な道を耐えて訪ねてきたでしょうか? どんなに難しくても、死んでも行こうとしてこそその道を行くのであって、そうでなければ行くことができません。死んでも、どんなに難しくてもこの世に出ていってしまおうとは考えません。とても苦労し闘ってきたので、苦労し闘って来たこの立場なので、死んでもこの世を考える道理はないというのです。ここで死のうとするでしょう。ところが皆さんはそうではないというのです。皆さんはそうではないでしょう。ん? 皆さんはそうではないでしょう?(はい)なぜそうではないかというのです。生死をかけて自分のすべての努力で闘って勝っていないので、「出ていこう、何・・・」と言うのです。

 統一教会の価値を一番よく知っているお方は神様です。その次には?(先生)先生です。二番目によく知っている人が先生です。それなら、ここに千人いれば千の階級があるというのです。分かりますか?(はい)自分の感じたこと、自分の受けたことそれ以上の価値を感じることができないというのです。分かりますか、何の話か?(はい)統一教会から出ていって再び戻ってきた人はしりませんが、皆さんは統一教会から出ていっても少しも憤り、惜しく思うことがないでしょう。統一教会の価値をそれぐらいしか分からないのです。それが統一教会の教会員だというのです。(一九七七・六・一一、世界宣教本部)

 今からははっきり知りなさい。これをはっきり知らなければなりません。現在がどれほど重要であるか分かりません。私たちは天の軍隊であり、人類の軍隊です。善なる軍隊です。分かりますか?(はい!)このためにお父様が四十年間どれほど考えたか分かりますか? 時間ともたくさん闘いました。いつも忙しかったというのです。神様はご存じです。レバレンド・ムーンがどれほど悲惨であったか。それ以外はだれも知りません。はっきり知らなければなりません。皆さんは歴史的な重要な時点に来ています。お父様とともにこの時期に行動することが、どれほど価値あることかしれません。(一九八五・一一・一三、アメリカ)


六 統一教会を信じてから離れて休む場合

1 休むのは分からないから

 皆さんは今何かを論じる状況ではありません。することなく適当に散歩にでも出掛けるために来た連中ではありません。生死の決断をするために来た連中です。皆さん、そうですか? イエスの側で死にますか、皆さんの夫、皆さんの息子・娘の側で死にますか? ここのおばさんたち、どちら側で死にます?(イエスの側です)あなたたちも? イエス兄さん側で死にますか? どうですか? 「ああ、嫁にも行ってみずに死んでいいだろうか?」という人がいるでしょうが、何が結婚ですか? 皆ほうり出せというのです。神様が喜ぶことのできる土台にならなくては滅びるようになっています。

 先生が今まで一生を捧げて受難の道を行きながら迫害されたのも、それを知ったからです。「風よ吹け。吹く風が押しつけても、私は倒れない。暴風よ、吹きまくれ。私は戻ることを願わない。直行する」そんな暴風に苦しめられましたが、まだ気力と余力は堂々としています。この道を行ったのが、疲れて離れていった人がいますが、倒れていくのを私の目で直視しながらも、倒れることに同情せずに私は行ったのです。そうしながらこのくらい歩んできました。ここでもこれから多くの脱落者が生まれることでしょう。

 だれのために動くのかというのが問題です。自分のために統一教会を信じる人は離れるのです。「私は世界のために生き、私は国のために生きる。その国が生きる前には私は生きられず、その世界がみ旨を成した国を持てなくては私は生きられない」という心を持って、「私が死んでも一日も早くその国とその世界のみ旨のために私は行く」そう言える人でなければならないのです。(一九七一・一〇・三一、前本部教会)

 先生は粘り強い男です。粘り強い男です。皆さんのようなら、皆退いたことでしょう。このごろ統一教会に入ってきて離れた連中が反対し、やることを見れば・・・。その連中も私を見れば「ああ、素晴らしい男だ」と言います。市場に行っても一番最後に買い物をして、見物も全部してだれがよりきれいにしたかといって場所を振り返って来る人がその市場の主人になるのです。そうでしょう? 市場の主人になるのです。同じです。道の世界において統一教会に入ってきたなら、統一教会員以上の人になりたかったなら、統一教会の文先生が死んで統一教会が過ぎ去ったあとに、それを全部清算して葬儀をしてあげ、その次に私が行こうと言わなければなりません。そういう人は統一教会員以上の福を受けられるのです。人はそうでなければなりません。(一九七五・一二・三〇、前本部教会)

 統一教会に通ってから離れていく人は統一教会について三分の一しか分かりません。どういう意味か分かりますか? 統一教会に通って「ああ、私はもうくたびれた。大学院にでも行こう。出世がいい。神様が何だ。いるようでもあり、いないようでもあり、どうして分かるか? 霊界に行ってみなければ分からない」と言いながら離れていった人たちは、統一教会について三分の一も分からずに離れたのです。

 なぜ三分の一しか分からないというのかと言えば、先生について分からないというのです。そうでしょう? ですから、神様についてはもっと分からないというのです。分かるのはイエス様を中心として教えてあげたその内容しか分からないというのです。原理はイエス様を中心とした内容だけ教えてあげたのです。原理が教えている基準がどこまでかと言えば、イエス様を解怨して差し上げることです。分かりますか?

 イエス様を解怨してあげる内容を教えてあげたのであり、統一教会の文先生を解怨してあげる内容は教えませんでした。教えましたか、教えませんでしたか?(教えませんでした)ですから、分からないでいるというのです。それが分からないので、神様を解怨して差し上げるべき内容も分からないというのです。それゆえ、統一教会を信じてから気落ちして離れた人たちは、統一教会について三分の一も分からずに離れた人たちだというのです。点数で言えば、三三・三三三・・・点にもならないというのです。分かりますか? たとえば、ある人が大学を卒業しようとすれば、一年生を経て二年生、三年生、四年生課程を皆終えなければなりません。ところが、一学年半くらい通ってやめたなら、その大学と関係がありますか、ありませんか? 関係ないというのです。(一九七〇・一二・二二、前本部教会)

 学生が勉強せずに落第するといって、その有名な学校が悪くなるのではありません。落第生が多いほど有名な学校だと思わなければなりません。統一教会から人々が多く離れるといって、統一教会が悪いのではないと私は見ます。それを知らなければなりません。分かりますか?(はい)今離れていきますか?(いいえ)パスですか?(はい)多くの人々が離れていきました。多くの人々が落第の道を選んだのです。私が多くの困難を与えたのは、彼らを落第させるためではありません。(一九八一・一・一一、アメリカ)


2 離れてもまた入ってくる

 統一教会に一度味を占めれば離れられません。統一教会に一度味を占めたら離れられないというのです。男性が女性を捨てるなら捨てるでしょう。統一教会は捨てられないというのです。そんなあやしい力があります。それ、認めますか?(はい)(一九八八・二・一四、本部教会)

 だから統一教会に入ってきて、統一教会に味を占め、良心の本当の作用を持った人は出ていってもまた入ってくるようになっています。また入ってくるのです。入ってこずにはいられないというのです。後で悲惨になるというのを知っているので、離れられないというのです。出ていけないのです。(一九八四・五・四、イースト・ガーデン)

 統一教会を信じてから離れた人々がつらくて生きられないのはそれゆえです。これをさっと洗ってしまえば、洗い落とされればいいのですが・・・。み旨のために入ってきたなら、出ていくときはそれを洗わなければならないというのです。それが洗い落とされずに出ていくようになれば、(み旨に)引っ張られるのでいつも安らかではないというのです。(一九七一・一一・二八、前本部教会)

 統一教会に入ってきた人々は、どこかに出ていって生きることはできないというのです。今度、私が韓国に行ったら、統一教会から離れた人が、先生が来たという知らせを聞いて「ああ、自分の心では会いたく思うのに行けないんだな」と言いながら泣いているという知らせを聞きました。それは何の話か分かりますか?(はい)統一教会が水がいい(=新鮮だ)とかどうとか言いますが、これが新鮮な水ですか?(はい)(一九七八・一一・一九、ベルベディア修練所)

 統一教会に通った人が統一教会を離れたとしてもほかの教会には通えません。出ていっても宗教を持つようになれば統一教会にまた帰ってくるようになっています。それはなぜそうかと言えば、統一教会の行く道が、ついていくには大変でもやりがいがあるのに、他の宗教はばからしくて信じる味がでないので、行く所がないというのです。もしほかの所にでも行くことのできる道があるなら、先生が先に行ったことでしょう。(一九七〇・一〇・四、前本部教会)


3 離れて休む食口たちの事例

 今日、統一教会に入ってきた人たち、じっと見れば離れていく連中とはどんな連中でしょうか? 「ああ、み旨はいいけどいつみ旨が成されるのか!」という人たちです。お化け(=おかしな人)です、お化け。(一九六八・二・四、前本部教会)

 先生が統一教会を信じてから離れたある人から悲壮な報告を聞きました。この道はどうせ行くべき道なので、仕方なく帰ってきたと言いながらまた受け入れてあげるのかというのです。

 み旨を中心として見るとき、ここには答えることのできない内容があるというのです。世の中を全部回ってみて、あらゆることをしてみましたが、行く所がなくてまた帰ってきたというのです。しかし、今でもまた帰ってきたのはいいけれど、彼が行く道には受難があるのです。過去に困難だと思ったそれ以上の困難があるはずなのに、どうやってそれを越えるかというのです。

 そこに対する責任を負えるのか自ら考えてみて、自問してみろというのです。その責任を負えるのなら私は十回でも許してあげることのできる雅量を持っています。けれども、責任を負えないときも許してあげれば、彼に二重の罪を負わせることになります。だから私は答えられずに黙々としているだけでした。何の話か分かりますか? 出ていくときには立って出ていきましたが、また帰ってくるときにはそうできないというのです。(一九七〇・七・二八、前本部教会)

 さあ、最近エックス・ムーニー(=統一教会を信じてから離れた人)たちがインタビューしたのをラジオで放送したのですが、エックス・ムーニーが言うのに「私たちエックス・ムーニーもレバレンド・ムーンを支持する。レバレンド・ムーンが私たちを認めてくれることを願う」と言うのです。では、その人たちがなぜ離れたのでしょうか? 昔、皆離れて、自分が誤ったとは言わず、統一教会が悪いという話をするのがエックス・ムーニーでしたが、今は自分が悪くて離れたと言うのです。そんな話は初めて聞きました。(一九八二・五・二三、ベルベディア修練所)

 統一教会を信じてから出ていった人たちを、今も・・・。先生がいつか道で一度出会いました。私は平気です。彼が出ていったとは考えません。いつでも帰ってくれば受け入れる姿勢をして行くのです。ところが、彼が私を見てくるっと背を向けるので、横に私が行くと涙を流しながら「先生、私はこうなりました」と背を曲げてのどをつまらせて泣くのです。なぜそうでしょうか? 愛に対する背信者は宇宙力の作用によって自分の姿勢を正しく扱えないのです。偉大な力がそこに作用しているというのです。

 それゆえ、統一教会を出ていった人々は、先生に対して反対する人がいません。協会長が憎くて、だれかが憎くて私が出ていく、統一教会のそいつを見るのが嫌で・・・。そう言っているというのです。彼らは原理のみ言を聞き、自分の家庭を飛び出して、母親と父親が反対するので塀を乗り越えて行き来した人たちです。(一九八八・一・一、本部教会)




















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