統一教会と食口たち
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第三節 統一教会員の使命と時

一 統一教会の連中とは何か

 私たち、統一教会の連中は全部、何をしようとするのですか? 何をしようとして皆集まったのですか? 皆さんは何をしようと集まりましたか? 世界と授け受ける愛の生命を与えるために来ました。結論が出ました。その生命力を中心として神様と交流し合えるというのです。その愛を持って神様と対等な立場に立つことができます。どれほど偉大かというのです。それがレバレンド・ムーンが神様から受けた人類歴史上、最初の一つの是認なのです。それは歴史以来にだれも受けられなかった歴史的な贈り物です。それを伝授しようというのです。何の話か分かりますか?(はい)(一九七九・九・二三、ベルベディア修練所)

 「ムーニーは何をするのか? 何をするのがムーニーか?」と尋ねてみれば、「酒を飲まず、タバコを吸わず、とてもすっきりとして、化粧品も使わず節約して、退廃的なアメリカの若者たちよりも節約して、世界を助ける、これがムーニーだ」と言うとき、どうなるか考えてみなさい。この運動をすれば世界は、どのようになりますか? それがいいですか?(はい)(一九八二・五・九、ベルベディア修練所)

 では、統一教会の教会員たち、神様が願うのが何であり、私が願うのが何ですか? このように集まって何をするのですか? 集まって何をしようというのですか? 真の愛を持った真の父母がいないので、真の父母を訪ね、真なる夫婦がいないので、真なる夫婦になる訓練をし、真なる子女がいないので、真なる子女になる訓練をしようというのです。そのほかにはないのです。ここに一回かかって入れば、永遠に、永遠に・・・。永遠なのです。永遠に愛するというのです。(一九七七・三・二七、ロサンゼルス)

 では統一教会は一体何をする連中なのか? 統一教会は何をしようとする連中なのか? 統一教会は神様を中心として生きようという連中だというのです。神様を中心として生きる場合は、商売をしながら生きようというのですか? 生きるのもいろいろなのです。何をして生きようというのですか?(愛)愛しながら生きようというのです、愛しながら。だれと?(神様)神様とだけ? 愛しながら生きるには神様を中心として、私の体と心が、私自身がうれしく生きようとしなければならないのです。こうなります。(一九八七・五・三、本部教会)

 さあ、このムーニーたちは何かと言えば、レバレンド・ムーンの弟子ですが、何になりますか? 羊になるべきですか、山羊になるべきですか?(羊です)(笑い)異議がないのです。(一九八三・一・九、ベルベディア修練所)

 統一教会が何をする連中かということを知らなければなりません。サタンの秘密を、サタンの愛を個人的になきものにするキーを持っていて、家庭的になきものにするキーを持っていて、国家的になきものにし、世界的になきものにするキーを持っているという連中が本当の統一教会員です。サタン世界で勝利して天の愛のキーを持たなければならないのです。(一九八四・一・五、アメリカ)


二 内的使命とその使命の価値

1 内的使命

 終わりの日の皆さんにはどのような使命があるのか? 宇宙的な価値を代身できる実体復帰のために、準備してきた歴史的な天的な価値を引き継いで実践するべき責任があるのです。(一九五七・七・二八、前本部教会)

 私たち人間が今日するべきことは何か? まずサタンの讒訴を免れなければなりません。そして「さすがあなたは神様の息子であり、神様を所有できる資格があり、神様と一体的な関係を成す神様の息子」であるとイエスのように証されうる一日を迎えなければなりません。(一九五六・六・二七、前本部教会)

 今日、統一教会について来ている群れたちの使命が何かと言えば、心情の鎌で裂けた自分を統一させ、分離された天情と人情を統一させることです。私たちの体全体は鈍い鎌の刃先であるとも、収穫するときに使われる道具としての実体にならなければなりません。このような私たちの実体を通して今日、滅び行く世界を正しく導き、神様の心情を中心として新しい世界に越えていかなければなりません。それが統一教会の教会員たちの使命だということを知らなければなりません。(一九六八・六・九、前本部教会)


2 とてつもない私たちの使命

 今まで韓国の地で迫害の路程を歩いてきた取るに足らないこの統一教会の群れが神様が、現在、世界をおいて眺められる所願の中心となる一つの自体であると考えてみるとき、これはみ旨を中心とした現在の立場から見ると、この上なく貴重で驚くべき恩賜だと言えば恩賜だといえる反面、恐ろしいことだと言えば恐ろしいことだと言わざるをえないのです。

 今日、統一教会がそのような立場に立っているとするならば、統一教会の現在は貴重でとてつもない、世界的な事件を迎えた立場だというのです。私たちが今まで歴史を回顧してみるとき、その歴史は悲しみの歴史として連続されたけれど、今日この統一教会を中心として現れた現在は悲しみの歴史として連結されてはなりません。悲しみを転換させて喜びの結果を誓わなくてはならない、それでこそ歴史時代にない一番重要な現在、この時点にならなければならないのではないかというのです。

 では、流れ去った歴史時代にみ旨の道、あるいは摂理のみ旨に従ってきた歴史上の数多くの先祖たちと、今日このみ旨に対して現れた統一教会の私たち食口を比較してみるとき、過ぎし日の先祖たちが精誠を尽くし、忠誠を尽くしたそのすべては、結果的に神様の願いの前に期待できない歴史を残し、むしろ悲しみを加重させたことになってしまいました。それゆえ、今日、天の喜びと願いを再現させるべき使命が統一教会にあるとするなら、統一教会員の個々人に任された使命というものは、とてつもないものであらざるをえません。ゆえに、私たちはどんなことがあったとしても、神様を再び落胆させてはならないのであり、喜びと願いの一念を神様の前に提示しておかなければならないのです。私たちにはこのような歴史的な使命があるということを今一度悟らなければなりません。

 過去にたくさんの先知先烈たちが来ては逝きましたが、彼らが自分の過去を回顧してみるなら喜びはしないでしょう。それはすべて流れてしまうべき過去です。また、歴史時代に自分の民族が素晴らしかったと自慢できる文化圏を持った民族だとしても、そのよかった過去は自慢するものにはなりません。それはすべて神様の悲しみの中で消え失せてしまう事件に過ぎないというのです。

 ですから、私たち統一教会は、歴史時代の貴いすべての文明と数多くの先知先烈たちがみ旨に対して忠孝の情熱をすべて注ぎ、死の道を行ってまで苦労して築いておいた、そのすべての事柄を神様の深い心の中で喜びとして残せる回顧の条件として残すことができなければなりません。このような責任が私たちにあるとするなら、今日統一教会の一員として受け持ったところの責任はとてつもないというのです。(一九七〇・一二・二七、前本部教会)

 私たちがこの民族の前に鞭を打たれるのは私たちが悪くてではありません。歴史上に来ては逝った悪なる先祖の血族に生まれたために迫害を受けるのではありません。だれよりも成功する時代的な運と歴史的な因縁を持って生まれましたが、神様はこのような少数の群れを打って民族が受ける悲しみを蕩減させるのです。すなわち、世界の思潮に拍子を合わせて滅ぶしかない群れのために、私たちが代身、打たれることによって民族が打たれるべきものが蕩減されるからです。

 今日、私たちはこのような内容が分かるので、悲しいときや困難にぶつかったとき、自分を中心として涙を流さないために地を叩きながら誓って出てきました。飢える場に入っていき、生死の交差路に入っていくときにも、自分が死んで行くのが惜しくては、涙を流さなかったのです。私たちが死ねば、この民族の行く道がどのようなもので、この民族の前途がどのようなものかという問題を中心として涙を流してきた厳然たる歴史的な事実を知らなくてはならないのです。

 きょう、統一教会に初めて来た人たちがいるかもしれませんが、統一教会がこんなとてつもない使命を持って出発し、このような使命に立脚して闘ってきた歴史を持っているという事実をはっきり知らなければなりません。私が打たれ、追われ、迫害されるのは、統一教会が打たれ、追われ、迫害されるのは、私たち自身のためなのではありません。これはこの民族が打たれるべきものを代身して打たれるのです。また、神様が善なる立場で私たちを叩かれることによって、民族を許してくださるための、聖なる愛のみ手なのです。(一九六九・一・二六、前本部教会)

 今日、統一教会はこのような二十世紀後半期において新しい理念を唱えて来ました。この群れが天の復帰歴史路程を代身してきたとするなら、一つの作戦計画において新しい時代の使命を担ってきたとするなら、打たれなければならないというのです。追われなければならないというのです。世の中のさまざまな迫害と苦痛を受けなければならないのです。

 このような立場に置かれている今日、この統一教会の教会員たちの責任と使命が見た目には何でもないようです。しかしながら内的な意味においては至大なるとてつもない天的な責任を担っているということを皆さんは知らなければなりません。(一九六四・七・一七、前本部教会)


三 統一教会員の使命

1 サタンを追放しなければならない使命

 真の父母が、この地に来たのですが、真の父母の家庭と真の父母に従うすべての統一教会の教会員は何をしなければならないのか? 地上にサタンが讒訴しうる権限を解消しなければならない歴史的な使命があります。(一九八六・一・一、本部教会)

 では、サタンを追放すべき責任をだれが負わなければならないのか? 私が、統一教会の教会員の私が負わなければなりません。サタンを屈伏させた後にこそ、神様が干渉することができるのです。これを知らないのです。分かりますか?(はい)この怨讐を叩きのめした後にこそ、「私の息子だ。私の娘だ」と言えるのです。その時こそ干渉するのです。天理がそのようになっているのです。

 今日、世の中でも自分の子息が罪を犯したので、その父、母が代わりに罪を負えますか?

 その父、母が自分の息子が死刑囚になったとしても、「我が息子・娘の代わりに私が死刑になるので許して下さい」そんなことができますか?(できません)そんな天理は受け入れられないのです。罪を犯したら、罪を犯した人が蕩減しなければならないのです。罪は神様が犯したのではなく、人間が犯したので、人間が天理天倫に背いたそのような許されえない罪を犯したので・・・。(一九七六・三・三、春川教会)


2 イエス様が関係した使命

 イエス様がこの地でどのような生涯を送られましたか? お生まれになるときも、馬屋で生まれられ、お暮らしになるときも、追われて冷遇を受けながら、亡くなられるときも、十字架に釘を打たれて亡くなられました。ですから彼が「十字架の道」を通過したその心情を感じなければならないことが、今日統一信徒たちの前に置かれた課題なのです。(一九五九・六・七、前本部教会)

 天国に国境がありますか? この世界は我が父の地であり、私は父の息子・娘なのでこの世界はまさに、私たちの地なのです。これは、愛でもってだけ可能なのです。このように愛するときは、食口から始めなければなりません。そうできる愛の出発点が食口なので統一教会では統一教会員を信徒と言わないで、食口(家族)と言うのを皆さんは知らなければなりません。

 それでは、統一食口の使命が何なのか? そのように愛さなければならないのです。家庭においての愛、教会においての愛、国においての愛、この三大愛の恨が結ばれたものを私たちが解いてさしあげることによって、私たちは神様の息子であるイエスの代身者になれるのです。神様は、イエスのゆえに恨を心に抱きました。イエスが恨を抱かせたそれ以上の立場で、恨を解いて差し上げなければならないのです。ですから生きて天国を成さなければなりません。分かりますか? 皆さんをいたずらに祝福してあげたと思いますか? それによってイエス様が新郎になれないのを、自分の息子が見られないのを蕩減するようになるのです。これが統一教会の骨髄思想です。このように横的に全部蕩減するのです。本当に素晴らしい内容でしょう?(一九七一・二・一六、成東教会)

 今日、私たち、統一の勇士たちは、全世界に広がっているキリスト教徒たちに対して、数多くの宗教に対して新しい旗じるしを高らかにあげて、過去に恨み多かったイエスの恨を解いて、神様の復帰天国の恨を解かなければなりません。復帰天国の恨を。(一九六四・一〇・三、大邱教会)

 統一教会員たちもイエスの恨を解いてあげなければなりません。イエスが失敗したのを蕩減復帰しないでは、イエスの理念を引き継げないと言うのが、原理観です。分かりますか?(はい)イエスの恨を解怨成就せずには、これを復帰しておかなければ、イエスが願った家庭が現れないのです。また、イエス様が願った民族が現れず、イエスが願った国が現れず、イエスが願った世界が現れません。それはなぜ、そうなのか?

 アダムが8食口を中心にして落ちたために、ノアの審判の時に8食口を残して上がっていかなければならなかったのです。それをするのです。統一教会も同様です。そのようなことをしなければならないのです。

 ですから、統一教会員たちは、イエスの恨を解いて差し上げる道を行かなければならないのです。では、イエス様の恨は何ですか? それは、神様が公認される真なる息子・娘になって祝福を受けることです。そのためにはイエスが失ってしまったものを捜さなければなりません。(一九六七・一二・三一、前本部教会)


3 愛の秩序を立てるべき使命

 統一教会の教会員の私はだれなのか? サタンを捕まえなければならない責任がある私です。私は完成したアダムとエバなので、サタンをこの地球上から追放しなければなりません。神様のみ旨の前から追放しなければなりません。そうですか?「はい」 ニューヨークの街を通りながら悪い奴らを見れば、知らないふりをしてじっとしているのですか、こいつらをひねって、それを清算する人になるのですか? アメリカの若者たちが全部淪落してフリーセックスとか何とか言って、動物のような行動をするのをみてじっとしているのですか、それを捕まえて整理する人になるのですか?(整理する人になるのです)(一九七七・一・二三、ベルベディア修練所)

 私たちはこのような新しい伝統を立てて、アメリカ社会を荒らすサタンの武器を根本的に撃破し、腐っていく世界の若者たちのすべての愛の要所を全部撃破してしまい、新しい秩序を立てなければならないのです。これが天的意義を持ったムーニーの使命だということを知らなければならないのです。それでは、なぜムーニーは苦労しろと言うのですか? ファンダレージングとか伝道をなぜするのか? より深く真なる愛の道に接するためにです。目的がそうなのです。立体的で、内容的に深くて広い、真なる愛に出会うために私たちはこのようにいく、それがどれほど素晴らしいか。(一九八三・一・一、世界宣教本部)

 私たちは青少年たちの退廃的な風潮を切ってしまわなければなりません。いかなるものによっても占領できない権限を持って、そのような世界の風潮を遮って取りなくしてしまい、サタンが引っ張っていく死亡世界の因縁をことごとくすべて切ってしまい、死亡の勢力を防止しなければならないのが私たちの使命です。統一勇士としてこのような責任と使命を完遂するにおいて、個人的にするのではなく、世界的に天と地を中心にして、そのような責任と使命をなしおえられる時始めて、この天宙は神様の前に完成した結実体として収められるのです。(一九六八・六・九、前本部教会)

人間世界の罪の包みを掃除できる掃除婦はだれがなるのか? 統一教会の群れたちがならなければならないのです。先生はアメリカの罪悪の包みを掃除する掃除夫の役割をしてきました。(一九八八・一・一〇、本部教会)


4 五色人種を連結させるべき使命

 ムーニーは何かと言えば世界のために生きようというのです。生きるのには、何を中心にして? 愛を中心にして生きるのです。世界を愛そうとすれば個人も愛さなければならず、家庭も愛さなければならず、氏族も愛さなければならず、民族も愛さなければならず、国家も愛さなければなりません。民族を愛せない人は世界を愛せず、家庭を愛せない人は氏族を愛せません。原理のすべての法度がそうです。

 ですから、「愛を中心にして世界を愛そう」と言っていくのでそんな観点から見るよき、ムーニーたちは白人が黒人を愛して、黒人が白人を愛するのは問題ではないというのです。それは何によって証されるか? 結婚問題まで問題視しないのです。違うのです。それはレバレンド・ムーンが独裁者になって目をむき出して、人に干渉して邪魔をしろと言ってするのではないのです。私は目を閉じていてもつかみ引き寄せるというのです。だから統一教会のムーニーがですね、ムーニーが愛を中心にしてこのようなはしごをおいて、世界に向けて伸びていけるこのような立場にあるという事実は、宇宙的な問題の種だというのです。分かりますか? だから、この愛で、個人の錨を吊らなければならず、家庭の錨を吊らなければならず、社会の錨を吊らなければならず、国家の錨を吊らなければならず、世界の錨を吊らなければならないのです。(一九七九・六・三、ベルベディア修練所)

 それでは、その間統一教会の教会員たちは何をするのか? 先生が世界的舞台まで行く時に、大韓民国においてですよ、そんな歴史的因縁と世界的因縁を連結させなければなりません。民族圏と世界圏を今、連結させないでおいたのですからね、全部。先生ついている人たちはこの大韓民国の人だけではなく世界人なのです。五色人種が全部連結されているのです。分かりますか? それゆえ今、皆さんがこのような責任を担っていくようになるときは、天使世界が協助するのです。(一九七八・九・二五、本部教会)

 統一教会の教会員たちは国境を超越しました。私たちの教会で結婚させてくれるのを祝福というのです。祝福です。ドイツ人、ヒットラーの直系後孫になる娘と、イギリスの紳士と・・・。言葉は一つも分からないです。ドイツ女性はドイツ語しか知らず、イギリスの男性は英語しか知らないのです。それで、結婚するのです。それがどんなに素晴らしい結婚ですか? 大人たちはそんな結婚できないでしょう。死んだとしてもできないようになっているのです。さあ、そのように結んであげて話すのです。「あなたたちが結婚するようになれば初めの息子はこんな息子が生まれるので、暮らしてみろ。そうでなければ私の言葉が嘘なのでその時になってみろ」というのです。真に素晴らしい息子が生まれるのに、何、その時までは暮らしてみるのではありませんか? 暮らしてみればそのようになるのです。

 国境を克服することができるのです。日本にいるたくさんの統一教会の教会員たちは韓国解放のために「日本政府が阻んだとしても玄海灘を渡っていこう」といって潜航艇を乗ってでも来て加担できるようになっているというのです。それ、信じられますか? 国境解放!

 ドイツ人、世界で一番知性的と言って、天才的で数学的な頭脳を持ったと自信をもち、肩に力を入れて生きるドイツ人たち、この人たちの頭にレバレンド・ムーンの思想、神様の思想が入っていくようになる時は、ドイツ産、何人になるのですか? ドイツ産、何人? ドイツ産韓国人になるのです。何の韓国人? 南北を統一しようとする韓国人になるというのです。

 五色人種はもちろんです。五大洋、六大洲のすべての人種たちが、人種が多いけれど、彼らがレバレンド・ムーンを知り、レバレンド・ムーンが教える思想を持つようになるときは、そのすべてが五大洋六大洲に散らばっているけれど、国境が違うけれど、彼らはその地域で生まれた韓国人になるのを栄誉と考えるようになるのです。分かりますか? それ、国境が問題というのです、国境が問題。神様の前では人種が問題になりません。宗教が問題にならないです。(一九八七・五・三〇、リトルエンジェルス芸術会館)


5 宗派統一の使命

 では、“私たちの使命”といったのですが、皆さんの使命は何か? カインを救ってあげることです。個人においては個人的アベルなので個人的なカインを救ってあげなければならず、家庭的カインを救ってあげなければならず、氏族的なアベルになれば氏族的なカインを救ってあげなければならず、民族的なアベルの統一教会ならば民族的なカイン教団を救ってあげなければなりません。それでこそ、そこで始めて国家に対しうる資格者になるのです。分かりますか?(はい)

 それでは、今一番急を要することは何か? 統一教会が発展するのが問題ではありません。統一教会を発展させるのが問題ではないのです。どのようにアベルになるのか、それが問題です。そのようになれば統一教会の望いこそ、いっぺんにすべて成ります。もう、復帰路程が分かりますか?(はい)個人アベルは個人カインを復帰しなければならず、教団アベルは教団カインを復帰しなければなりません。そうでしょう? きっちり、そのように合うようになっています。(一九七一・八・一三、清平修練所)

 今日既成教会では、全部自分たちが天国に行くと言うけれど、長老教、天主教、全部騒いでいるが、みていなさい。ここに立っている人は何をするのかと言えばね、八大教団を統合する運動をしています。そこにユダヤ教、天主教(カトリック)、新教(プロテスタント)が入るでしょう。その次には、仏教、回教が入り、ヒンズー教が入ります。その次には、儒教が入り、その次には統一教会、八個教なのです。統一教会を抜きにして、七個教団が全部分かれて争っているのです。その教団を統合する運動をするために、私が資金を当てているというのです。世の中にそんな法がどこにありますか? そんな話、聞いたことがありますか? ところが、既成教会の人たち、何、長老教会の人たち、「お、文某異端」このように言っています。それは、世界を知らないのです。すべての教団を統合するための運動をして、その教主たちが私と闇取引をして秘密に書類交換をして、そうなのに、世間知らずな彼らは、全部、何、どうで、どうで・・・。宗教が問題になっていますか、なっていませんか?(なっていません)だから宗教会議をつくって私が今、思う通りに行き来できない人になったので恨でしょう。その集会だけ見たとしても・・・。この間も、宗教議会の世界大会をするとき、優れたという人、だいたい八百名が集まったのです。その人たちは全部私が一回、自分の教団に来てくれることを願っているけれど、そのように思う通りに行き来できない事情があるのです。

 複雑多端な宗教を背後から収拾して「一つの神様のみ旨がある。永遠に一つだ」という主張をして、そのみ旨と帰結させるための仕事をしているという事実は、歴史以来に驚くべき事実です。だれの名前で? 文某の名前ではなく、神様の名前で、神様の名前で! そのような意味から、ギリシャ正教の大主教のような人・・・。ローマカトリックは、今反対しているのです。私の側の枢機卿たちがざらにいるのにですね。それも幾日かたたずに、消えていくようになるのです。

 人間の力で不可能な連合宗教・・・。歴史のどこのだれを問わず、宗教を統一したくない人はいないのです。しかし、神様が願って神様が指示する道が分からないので・・・。(一九八七・五・三〇、リトルエンジェルス芸術会館)

 この天地間に神様の側からこのような責任を担える信仰生活を教えてくれることができる宗派はどういう宗派なのか? 捜さなければなりません。そのような思想の下から自分の信仰生活に希望的な観に従って、天の前に奉献させることができる家庭、そのような信仰を教えてくれる家庭は、どういう宗教を信じる家庭なのか? それを捜さなければなりません。そんな家庭たちが合わさって、血統的なすべての因縁を切ってしまい、世間的な因縁を切ってしまい、一つになれる因縁の情を通して、新しい氏族的な因縁をもって民族、国家、世界を復帰すると、責任をもって身もだえできる思想的な因縁を備えられる団体を捜さなければなりません。そうでなくては、復帰の新天国に入っていけません。希望の福地に行けません。

 今日、統一教会では、すべて統一をしようと言います。ある人はこんな言葉を聞けば気分が悪いのです。「何、統一する? アイゴー、昔のりっぱな歴史的な聖人たちもできなかったのに、この時代において悪なる連中たちである統一教会が現れて統一するって?」と気分を悪くするでしょう。気分が悪くても仕方がありません。気分の悪い奴が滅びるか、気分を悪くさせた人が滅びるか、見ていなさい。この二種類中、一種類が押されていくのです。「何、世界基督教統一? 世界基督教統一と言えばいざ知らず、神霊まで持ってきてつけたのか」と言うでしょう。見ると嫌なこぶまで持ってきて付けておいたのです。(笑い)それ自体が今、なったのか、ならなかったのかと言うことを問う前に、統一できる冒険を始めたのか、始めなかったのかということが問題です。何の話か分かりますか?(一九六八・二・四、前本部教会)


6 思想統一の使命

 統一教会の教会員たちは決定をしなければなりません。終わりの日には共産世界も滅び、民主世界も滅びます。今が滅びうる可能性が目前に展開されてくる時代です。こんな時は、早く決定しなければなりません。初めから滅ぶようなら、風呂敷をまとめて、ここで一度に滅ぼうという、こんな決定をしなければ、二つとも滅びます。こんなことにもなるのです。今がそんな時なのです。

 共産世界は共産世界がよいとして、民主世界は民主世界がよいと言いながら、互いが塀にこつんとぶつかってぐるぐる回っているのです。今そうだとして、何か一つつかまえてこそ、相対がいればこそ嬉しいと言ったのですが、何か一つつかまえなければならないのです。ところが、統一教会がこの時出て来たのです。宗教からは、統一しようと乗り出してですよ、共産党も世界統一しようと出て来て・・・。それが相対的関係になるべきなのです。(一九七二・一〇・八、前本部教会)

 皆さんが統一をしようとすれば・・・。一人だけいる所では統一という言葉が成立しません。統一と言えば、状態が違うものを・・・。事情が違い、立場が違います。そこには自分たちが主張する立場が異なり、自分たちが今まで伝統として唱えてきた凝り固まった習慣の環境が固着しているのです。こんなことをすべて清算してしまい、その事情をすべて除去し、今まで方向が異なったものを全部、逆につかんで型にはめて、一つになるようにしなければならないのです。

 そうしようとすれば事情が異なる二人より、力が強くなければなりません。十人を一つにしようとすればその十人より力が強くなければなりません。十教派を一つにする立場に立とうとすれば、十教派よりも力が強くなければなりません。それでこそ、なるのではないですか? 言葉は易しいでしょう。そうでなければなりません。

 皆さんが統一教会に入ってくるようになるとき、見せ物と考えて入ってきてはならないのです。そのように入ってきたなら誤って入ってきたのです。数多くの霊界を統一し、数多くの思想を統一するためには・・・。今日、全世界的な思潮をみるとき、民主と共産が対決するこの時にあって、これも一つは左足で、一つは右足で踏んで越えていかなければならないのです。どんなに屈強な思想と、どんなに屈強な信念を持った信仰者がいるとしても、そのすべてを越えていかなければならないのです。こんな余裕満々の信念を備えて、四方に伸ばして殴り飛ばせば、ぐるぐると巻かれて入ってくるようにできる実力がなければならないという話です。それでこそなるのではないですか? それでこそ、統一するのです。ふらふらして統一しようというこのような人たちではないのです。風に押されていく、かかしのようなその類いの人たちは統一できないのです。(?)

 今日、民主世界に多くのキリスト教があり、地上に数多くの国民がいるけれど、神様のために「神様は正義であり、神様は生きていらっしゃり、世界の統治者だ」という主張のできる者は一人、二人なくなっていくのです。こんな運命の寸時にあって、神側に立って主張する人がイエスの運命のようになくなりうる環境です。全く同じです。右側の強盗が弁明して、左側の強盗を屈服させたのと同様に、世界の民主世界を代表して、キリスト教を代表して、唯、統一教会だけが終わりまで、「神様は生きている。私たちは神様の息子・娘だ。神様のためにしなければならない」と言うのです。「共産党は、こうなので滅ばなければならない」として、今日、勝共という名詞をかけておいて、一線に立って闘おうと言うのが、統一教会の運命なのです。分かりますか?(はい)世界が韓国にこのように集中されているというのです。

 イエスが十字架で釘を打たれて亡くなる時に神側に、イエス側に立った右側の強盗の立場に立って共産党を叩き潰して、共産党を説得させて、「お前はこうなので、悪だ」と言えるこんな説法を持って、神様が公認した神様の実存性を認定できる団体は神側になるのです。その側がだれか? 統一教会です。

 それゆえ反共という思想をもって現れたということを知らなければなりません。分かりますか?(はい)神様の息子・娘として、神様の心情を持って現れたのです。十字架の苦難の道も越えて天のために、「共産党は滅ばなければならない! これらは悪だ」として死を忘れながら天側のために、右側の強盗が死ぬ時まで、イエスの側になって、楽園に行ったのと同様に、地上でそのことを実践することによって、地上天国を開門しようとするのが統一教会の理念です。

 こうすることによって、この国には世界的な光復の日が訪ねてくるでしょう。カイン・アベルの闘いが世界史を中心にして初めて終結し、万国に向かって行進できる第二次解放の日が韓国に訪ねてくるのを祈るのです。(一九六九・五・一五、光州教会)

 今日、この世界には神様がいるという思想と、いないという思想が対決しています。一つは物質を中心にする世界であり、一つは精神を主とする世界です。神様がいるという世界は神側であり、神様がいないと言う世界はサタンと悪魔の世界です。この二世界がぶつかるとき、その結果は神様の存亡を決定するのです。だから、共産主義を打ち倒すこの闘いは、すなわち、神様の闘いになるのです。(一九七五・六・七、ヨイド広場)

 天国がどのような所なのか? 地上天国がどのような所なのかというのです。私たち、統一教会の食口のような人が全世界に住むのです。それが地上天国です。この地上のすべての人たちが統一教会の食口のように生きれば、それが地上天国です。その世界は何か? 教会が永遠に、神様といっしょにいる世界であり、共産党がいない世界です。だれも神様がいないと言わず、神様に対して疑いません。神様を私たちの父と言いながら、全部一つになる世界なのです。その次に、サタンの誘惑・・・。サタンがいないのです。神様が主管する世界、それを地上天国というのです。神様が私たちと住むのです。(一九七五・九・二一、ベルベディア修練所)

 だから、私たち統一教会でも父母の心情で、僕の体をもって、血と汗と涙で復帰の使命を完結づけようと言うのです。統一教会が越えなければならない試練があるので、それは世界のどのような主義や思想も越えられない峠の道、民主世界や共産世界が越えられない峠の道です。彼らが行けない道を私たちが行き、彼らができないことを私たちがしなければならないのです。(一九六六・三・一三、前本部教会)


7 その国を訪ねる使命

 今、私たちが知らなければならないことは、私たちの父母の怨讐を晴らさなければならず、私たちの親戚の怨みを晴らさなければならず、私たちの民族の怨みを晴らさなければならず、我が国の怨みを晴らさなければならず、私たちの世界の怨みを晴らさなければならず、私たちの天と地の怨みを晴らさなければならないのです。皆さんの国があるでしょう? 今まで国があったでしょう? 宗教を中心とする圏内の人は国がありません。国がない民です。民族というある基盤を持って・・・。民族のない民です。風が東から吹けば、西側に押されていかなければならず、西風が吹くようになれば東側に押されていかなければなりません。四方八方から吹く暴風雨に苦しめられて、その方向に憔悴した、暗闇の圏勢の暗い道を手探りしていかなければならないのが、宗教人たちでした。(一九六六・一・九、前本部教会)

 人々は「私は天国に行かなければ」と言うのです。しかし天国に行こうとすれば天国を地の上に作っておいて行かなければならないのです。そのまま天国に行けば、天国はだれが作っておきますか? 神様が作ってくれるのを願いますか? 歴史的に価値ある生活をしなければならないのです。先祖に仕えて後代のための生活をしなければなりません。先祖の恨を解怨成就して差し上げて、後代の所願を達成させなければならないのです。

 それでは、今日皆さんはそのように暮らしていますか? 統一教会員たちが願う理想は私たちの国なのです。人はだれでも自分の国で暮らさなければなりません。それは人間に付与された絶対的な条件です。一人ももれなく、その国とその義のために、希望に満ちた義の生活をしなければなりません。考えで、理想郷を、そして生活で義の法度を立てながら、その国とその義のために生きろというのです。

 皆さんはそんな国がありますか? ないので、その国を捜して作らなければならないのではありませんか? その国は、何の国か? 理想の国、統一の国なのです。万民が行ける国なのです。この国を成すには、例外がありえません。ここには家庭も協助し、氏族も、民族も、世界もすべて協助するのです。そうして統一でき、家庭、氏族、民族、国家、世界を統一できるのです。(一九六七・六・八、前本部教会)

 私たちは統一教会はありますが、統一の国はありません。ですから「統一前線守護」というのは何かと言えば、統一教会を保護しようというのです。アメリカでは評判になっています。そして、それは韓国に影響を及ぼし、韓国政府と私たち統一教会を一体化させる力を加える作戦にもなるのです。ですから、世界各国で今後、私たちは闘って復帰するのではありません。自然復帰をしなければなりません。これが問題です。サタン世界は、打って占領するのです。神様の戦法は追われ、打たれながら自然屈服させるのです。そのようにして、天に従っていかなければ、神様の権威を復帰することができないということを、私たちははっきり知らなければなりません。

 このような立場から見たとき、現世に私たちがすべきことは、国を捜すことです。私たちには、神様の国がありません。国のない人が本籍を持てるでしょうか? 本籍地がありません。日本人は日本の国があるので、日本に本籍地を持っていますが、神様の摂理から見たとき、神様の国がないので、神様の国としての主権国家がないので、国民として登録ができません。宗教登録一つしか持っていないのです。

 復帰が成りたつためには、カインとアベルが一つにならなければなりません。それは統一の発展の公式になっています。カインかアベルだけでは、救われないのです。カインを救ってあげ、カインが前に立って前進するように押してあげ、後ろで防備圏を作らなければ、帰っていけないのです。それが原理の教えです。ですから、カイン、アベルが一つにならなければ、父母を迎える道がありません。宗教は、アベルの立場で、その国はカインの立場です。だから、カインがアベルを殺したように、歴史的に国家主権者は宗教を迫害しました。

 宗教を中心にして、国を自然屈服させ、勝利の国家を成さなければ、天国は地上にできません。それを成そうとしたお方がイエス様です。イエス様を中心にしてユダヤ教とイスラエル民族が一つになったなら、それでアベル国家を形成できたのです。(一九七二・四・二三、東京教会)

 さあ、私たちが暮らしたい所は天国、天国で暮らしたいというのがあっています。天国に境界線がありますか?(ありません)天国に言葉が二つですか?(いいえ)人種の差がありますか?(ありません)では、天国は何ですか? 人は全部、神様の懐から生まれたので、人類は全部が兄弟です、兄弟。神様を中心にしてみれば、神様の息子・娘なので全部兄弟であり、地上天国を中心として見れば、民です、民。地上天国の万民、国民だというのです。民だというのです。

 国を形成するのには、三大要因があるのです。国になるためには、まず主権がなければならないというのです。その次には、民がいなければならないのです。次には、国土がなければならないのです。この世界が神様の統治する世界になりましたか?(なりませんでした)そして、この全地球星が、私たちの国になりましたか? 神様の国になりましたか? 世界の民が、全部一つの国の民になりましたか? なっていないのです。皆さんは天国について語りますが、天国はこれらが一つになった後に成立するのです。これが成り立たなかったために、いまだにカイン・アベルが残っているために闘い続けるのです。私たちは安息できないというのです。やりきれないというのです。(一九七三・五・一六、ベルベディア修練所)

 皆さんの願いは何でしょうか? 皆さんの願いはこの国を捜すことでなければなりません。第一次イスラエルの時において、国が一つになれずに国を失ってしまったので、その失ってしまった国を私たちの時代に再び捜して、そこに来られるメシヤを迎え、追い出す国ではなくて、歓迎できる国になってこそ、地上に神様の願いとみ旨が成されうる時になるのです。

 その時を標榜していく群れが、統一教会の群れなのです。分かりますか?(はい)それがはっきり分かりますか?(はい)横的に世界舞台に向かって行くのがメシヤの使命であり、国のために闘うのがメシヤの使命ではありません。(一九七二・六・一三、光州教会)

 韓国の政府高官たちが外国に出たり入ったりして、統一教会を初めて知ったという話もあります。恥ずかしいことです。ある人がアメリカに行ったのですが、アメリカの著名人が「あなたは韓国から来ましたが、統一教会を知っているか」と尋ねて、「知らない」と言って、恥をかいたという話を聞きました。灯台下暗しということを知らなければなりません。このような状況で、私たちは新しい覚醒をしなければなりません。世界的な第三イスラエルとして、特権的な権限を持つのに恥ずかしくない姿勢を持たなければなりません。韓国の精神と倍達民族(=韓民族の古典的または歴史上の称)の血と魂を継いで生まれたので、この民族の悲惨像を除去し、新しい伝統を残さなければなりません。これが統一教会の信念です。ゆえにこの民族には統一教会の活動が、必ず必要なのです。

 それゆえに、私たちは差して来る太陽の光を眺めるとき、自由の天国を慕わなければなりません。万民はもちろん、山川草木までも喜ぶことのできるその日を、心から慕わなければなりません。そして、明日のその日のために、今日の私の努力を惜しまないと誓う皆さんにならなければなりません。そうでなければ、統一信徒になる資格がないということを、はっきり知らなければなりません。

 ご飯を食べるためにさじを取るときも、この地の上の悪党たちを追い出そうという決意をし、はしを取るときも、この地の上のすべての悪党たちを処置しようという決意に燃えなければなりません。いつでも、善の天国、第三イスラエルを創建するために乗り出す隠れた勇士であり、天の密使だということを肝に銘じなければなりません。第三イスラエル創建のために、行く道を急ぎ立てなければならないのが、私たち統一勇士の使命であることをはっきりと知らなければなりません。(一九六八・一一・一七、前本部教会)

 皆さんは愛を受けるために来たのではなく、愛するために来たのです。分かりますか? 愛するために来たのです。分かりますか? 天を代表した私が主体的な立場に立とうとすれば、愛さなければなりません。相対的立場にあれば、愛を受けなければなりませんが、主体的な立場に立とうとするのが、今日の統一教会の思想であり、私たちの立場ではありませんか? それゆえ、主体というのは、愛さなければならないのです。

 では、愛するのはどのような立場で? 立っている場所から愛せというのです。統一教会の教会員を愛せ。統一教会を愛せというのです。統一教会は国を愛するために狂え。その国は、単純に国を愛するために狂うのでなく、世界を愛するために狂え。そうすれば、その国は発展するのです。世界は、世界を愛するために狂うのではなく、天宙を愛するために狂え、天宙は天宙自体を愛するために狂うのではなく、神様を愛するために狂えというのです。(一九七二・七・二、前本部教会)

 その国とその義が成り立つ世界はどういう世界かと言えば、互いに与えることを楽しむ愛の世界であり、神様のみ旨のために奉仕し、犠牲になる生活が輝く世界だということを皆さんは知らなければなりません。それゆえ、その世界は今日、私たちが暮らしているような、こんな世界ではないというのです。(一九五七・一〇・一三、前本部教会)


四 私たちと時

1 今の時

 では、今この時はどのような時でしょうか? よくもあり、悪くもあり、難しくもあり、易しくもある時です。全部が一度に私たちの目前に世界的にぶつかって来る時です。私たちがこれを消化しようとすれば、これを克服しようとすれば、どうしなければならないでしょうか? うれしいことだけを持って難しいことを消化できる人が現れなければなりません。そのような人が現れずには、そんな世界を受け継ぐ人が現れません。こうなります。何の話か、分かりますか?(一九七二・一一・一二、前本部教会)

 さあ、では今は、どういう時でしょう? 皆さんが全力を尽くして、統一教会の真なる姿を見せてあげる時なのです。分かりますか? 真なる姿を見せてあげる時です。(一九八四・陰三・一、ベルベディア)

 さあ、私たち統一教会を、今、時代的に、摂理史的時代の立場から見るなら、統一教会はすでに、夜のような受難時代は過ぎ去りました。朝が来るのです。春のような時代が来るというのです。そこには、すべてのことが変わらなければなりません。春が来れば変わるでしょう? すべての植物というものは、全部新芽を出します。その新芽を出させるその光自体も美しいけれど、新芽を出すことのできる環境も美しいということを知らなければなりません。

 この環境と吸収的な調和を起こすここにおいて、すべての自然の美しさが作られていくのと同様に、皆さんたちも今、新しい春を迎えて皆さんの心をふくらませて、愛の世界に、この環境の世界が悪ければ、それを消化しなければなりません。人々はそうではないですか? 木は炭素を摂取して酸素を出しますが、人間は酸素を摂取して炭素を出しています。互いに授け受けるのです。こうしながら共同協助していきながら、調和を成します。言い換えれば、環境と因縁を結んでいきながら、互いが共存するのです。それと同様の時が来ました。

 さあ、私たちが新しくならなければなりませんが、どう新しくならなければならないでしょうか? きょうこの朝、皆さんの習慣化した過去の信仰を蹴飛ばし、新たに立ち上がらなければならないというのです。夜に対したそのような生活態度を捨て、春を迎えられる、新しい環境を迎えられる私としての主体性を持ってこの環境を吸収、消化しなければなりません。

 ところが、春になったので今は休まなければならないといって、追われていって「春になるのでいい。もう、何、ここも春が来たので休もう!」と言えば、その人には実とか何かを望めません。春から夏を経て、秋に行かなければなりません。ですから、春から定着して休もうとするのを、そのままにしておいてはだめです。だれかがまた、追い出さなければならないのです。一体だれが追い出さなければならないでしょうか? 統一教会の外部の人は追い出せないのです。ですから、仕方なく先生が追い立てなければならないのです。どこに? 秋の季節に向かって行けるように。放っておいては行けないので、仕方なく棒でぶん殴ってでも秋という方向に合わせるようにして、追い込む道しかないというのです。(一九八六・四・二七、本部教会)


2 時の兆し

 ですから、歴史は交差時代に入っていきます。それが、地上の交差だけではなく霊界の交差にもなるために、今日、六〇年代以後において、アメリカの大多数の若い人たちは霊的体験をするのです。それをノイローゼというのです、ノイローゼ。それを知らないために、ノイローゼだというのです。(一九七五・一・五、前本部教会)

 私たちは自分自らの正体をはっきり知らなければなりません。切迫した使命が私たちの前に近づいてきているにもかかわらず、現在のこの時代と共に流れてしまい、跡形もなく滅びうる環境に踏み込んで引っ張られていく統一教会の連中は、極めて愚かな人です。そんな人は統一教会の連中になれないのです。

 環境が乱れれば乱れるほど、私たちの時が近づいてくるのです。聞こえてくる噂がだんだん切迫するほど、私たちの終わりが来るのではなく、私たちの時が近づいてくることを知らなければなりません。この障壁を破っていく日には、世界は私たちによって新たに出発するのです。(一九七一・三・七、前本部教会)


3 自分の時を一致させよ

 今日、皆さん自身が神様の心情的因縁を持って生まれたなら、皆さんはこの時代においてこれを決定づけなければならないのです。過去にもなかったし、この時代の世界の中にもない、そのようなひとときを私たちだけが持ったという事実は、途方もなくもそして無限な恩賜であり、何物にも代えがたい価値を付与されたことを皆さんは知らなければなりません。この時を逃せば、千年待っても再び迎えることができません。それゆえ、私たちが人生を生きていくこの時代が、どれほど貴重なのかを皆さんは知らなければなりません。

 私たちがみ旨を中心として十年、二十年、三十年、あるいは五十年を生きていくとき、その一生は必ず七年路程から入門しなければならないというのです。私たちの一生がこの七年路程を中心として入門するとするなら、一生においてこの七年路程はどれほど尊いものですか? もし、この七年路程が神様のみ旨と完全に一致させられなければ、神様を中心として行かなければならない生涯路程で、神様のみ旨とともに、神様の愛の圏内で生きていけないというのです。このような点から考えるとき、私たち統一教会で言うこの七年路程期間こそ、億千万のお金をあげても買えない、一番尊い時であることを知らなければなりません。

 この時を逃した人には、真なる生涯の路程がありえないというのです。たちまち消えてしまう朝露のように、瞬間的な七年期間が私たちの前に訪ねてくるまで、どれほど多くの苦労があったかを皆さんは知らなければなりません。このひとときが訪ねてくるには、楽に眠る場で、ただ訪ねてくるのではないのです。神様は私たちの前に、このひとときを合わせてあげるために、今まで無限な苦労をされたというのです。

 このひとときを持てなければ、真なる息子・娘として因縁を結べないのを知っておられる神様は、このひとときを合わせるために、無限な苦労をしてこられました。また、神様だけではなく、悟りの道を通して善を追求してきた聖人賢哲、先知先烈たちもこのひとときを迎えるために、今まで犠牲になってきたのです。しかし、彼らは遂にこのひとときを迎えられませんでした。

 そのようにして、今日私たちが迎えるようになったのは偶然の一致ではなく、規定的な一致、必然的な一致によるのです。この時が来なくては、必然的な家庭、必然的な国家、必然的な世界、必然的な天宙は現れないのです。み旨が望む家庭、国家、世界が偶然に生じえないというのです。そのような家庭と国家と世界が生じるためには、必然的な条件もってそのひとときを迎えなければなりません。

 それゆえ、堕落した私たちの人生に最後の運命を決定することのできる基準になるひとときがなければならないのです。そのひとときをただ送ってはいけません。そのひとときを起源として一生の間押し通してこそ、真なる生涯が残されうるということを、皆さんは知らなければなりません。(一九六九・一〇・一九、大邱教会)

 自分の時をうまく合わせることによって、このひとときを迎えられる人は、このみ旨を知っている私たちしかいません。これからみ旨を知らずに生まれる人類がどんなに多いとしても、その人たちは余分な人たちだというのです。この時代において、後孫たちの前に真の姿を立てるべき私たち個体の運命、そのような生涯路程を歩まなければならない運命を中心として、未来の後孫たちの前にどのような姿で現れるのでしょうか? その時に顕現されるその価値を、今この時に、皆さん自身が思いえがいていかなければならないのです。

 み旨を中心として東に行き、西に行ってみ旨の前に精誠を尽くし、忠誠を尽くすすべてのことはどのだれのためではありません。国以前に自分自身を立てるためのものであり、世界以前に自分自身を立てるためのものです。どこまでも、自分の時をうまく合わせるためのものです。自分の時をうまく合わせることによって、その時が人類の時になりうるのであり、自分の時をうまく合わせることによって国家の時を代身でき、世界の時を代身できるのです。(一九六九・一〇・一九、大邱教会)

 先生の若さに皆さんの若い情熱を加え(プラスさせ)て、働かなければなりません。再創造の偉業に加えて、栄光の条件を備えられるのは、このひとときしかないということを肝に銘じなければなりません。私たちは、徹頭徹尾何を感じなければならないでしょうか? 第一に「私はお前たちと同じではない」という心情を備えなければなりません。お前たちは、やってのけられないのか? 私はできる! こんな精神をいつも備えていなければなりません。(一九六〇・二・二一、前本部教会)


4 時を失わない方法

 時を逃がさず、時を失わず、仕事を奪われるなというのです。それを失ってしまわない方法は、今先生が話した二つしかないのです。むかつくような人にならず、人を愛する人になって・・・。その二つだけやれば、それを絶対失ってしまわないのです。それだけパスすればいいのです。それしかありません。私が調べてみたらそれしかないのです。(一九七七・七・三〇、アメリカ)


5 今は活動する時

 今までは祈祷する時でしたが、今後は宴会の日が近づいてくるのです。宴会の日を迎えては、思う存分食べてお腹がふくれて昼寝をしても大丈夫です。ところが今は苦労してその敷居を越えなければならない時なのに、宴会しようと準備するために、煎(=薄く切った材料に小麦粉のころもを被せて焼いた物)を焼き、餅をつく音も聞こえるのに、寝られますか? それでも寝ている人は、狂った人です。

 今、皆さんがそのような立場だというのです。皆さん、走らなければなりませんか、どうしなければなりませんか? 宴会しなければならないと、全部村じゅうを駆け回りながら噂を立てなければならない時が来たというのです。言い換えれば、伝道をしなければならない時なのです。それにもかかわらず伝道しにいけと言えば「またあの季節が来たのか。夏休みにはちょっと休むべきなのに」と言う人たちがいます。無条件、休んでばかりいたら一体何が残りますか? (一九七〇・七・二八、前本部教会)

 私がダンベリーに行くことによって、世界的な総蕩減をしました。ダンベリーに行ったことは、地上世界全体が反対するのを代表する立場で十字架を担いで行ったのと同じです。その十字架を負った目的が何でしょうか? 十字架を担いだ目的は、霊界の統一と地上の解放のためです。統一が目的なのです。ですからその時、私がダンベリーに行く時はアメリカをはじめとして、地上のすべての団体で動員されないものがなかったというのです。ユダヤ教からキリスト教、宗教全部が、その次にはアメリカから、共産主義者から、世界各国全部が・・・。とにかく、CIAを通して二十五カ国を調査したので。こうして、条件があれば、引っかけて捕まえようとしました。そうして、全世界的に自分の持てる力を尽くして、反対したのです。

 それなら、私たちが打たれるのは何のためか、その目的は何かというのです。それは霊界争奪にあります。霊界争奪が目的なのです。私たち統一教会の基盤を打って崩そうと、破壊させようとしました。そこで、先生とアメリカ政府は、一対一でした。アメリカ合衆国が原告になり、私が被告になって闘ったのです。そうして、これを覆して打ち込みました。覆して打ち込んだという事実は何かと言えば、霊界が統一圏に入ってきたのです。

 だから、霊界に統一圏が生じたので、地上と歩調を合わせていかなければならないというのです。これからは、仕事をするのは皆さんがするのではないのです。この皆さんの後ろには、数多くの霊人たちが全部連結されています。もちろん、皆さんの先祖が連結されていますが、特別に信じている宗教があれば、その宗教の教主を中心として、今回、皆さんが動くのに完全に集中するようになっているのです。それゆえ、信じて打てば崩れていくのです。ですから、自分一人だと思うなというのです。数万、数百万の霊人たちが動員されているのです。

 ですから、四千万が問題ではないのです。霊界の何千億になる霊人たちが、全部地上で左右を中心としてゴールをもらおうとするのです。ゴールをもらおうとするというのです。だから、ゴールをもらおうとすれば・・・。堅い畑を耕そうとすれば、行くすきのへらが堅くなければなりません。その次には、牛が強くなければならず、その次にはその牛を扱う人が、力強く押してあげなければなりません。牛がいくら強くて、すきのへらがいくらしっかりしていたとしても、扱う人が力強く押してあげなければならないのです。

 ところが、牛とすきのへらはすべて準備されているというのです。今、霊界が牛のように引いてくれるのです。すきのへらは私たちのみ言を中心として打ち込んであげなければならないのです。それなら、これをだれが押してくれるでしょうか? これは皆さんの責任者が押してあげなければなりません。それでこそ、深く耕せるというのです。これは、皆さんの信仰いかんによって左右されるのです。それを知らなければなりません。(一九八七・五・一四)




















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