統一教会と食口たち
(全面表示) 戻る INDEXへ


第四節 統一教会員の信仰生活

一 真なる信仰生活

1 信仰者の願い

 私たち統一教会員は人並はずれた道を進んでいます。世の中の人々は堕落しているとも知らず、またその中で信ずるという人々も、堕落がどのようになされたかを知らずにいます。すなわち、本然の人間がどのようなものなのか、その基準もはっきり知らずにいるのです。漠然と神様を信じ、神様を中心と漠然たる息子の立場で信じれば、救いを得るというのが一般的な信仰観です。

 では、信仰しながら望む願いは何でしょうか? あるいは救いの目的が何かという問題をおいて見るとき、それは言うまでもなく、真なる男性、真なる人になるべきだという結論に到達するのです。真なる人、その中には、男性女性がいます。

 では、神様の側から問うとき、どのような答えをするでしょうか? 神様の願いは何でしょうか? やはり神様も真なる人、真なる男性と真なる女性を願われるのです。当然のことです。それを願われるしかないのです。

 信仰者として最高に望むことは何でしょうか? 今日統一教会の術語で言えば、完成した人です。完成した人はどの様な人でしょうか? それは真なる人です。神様が救いの摂理の目的を推進させてきたその目的はどこにあるのでしょうか? これもやはり、完成した人と同時に、真なる人にあるのです。(一九七三・八・五、前本部教会)

 私たちの願いは何でしょうか? 真の愛の神様に侍ることであり、神様の愛を中心とする真の父母に侍ることであり、その次には神様の真の家庭を中心とする、真の息子・娘になることです。私たちが真の家庭を成して連ねることが私たちの願いではないですか。(一九八五・七・二〇、ベルベディア修練所)


2 信仰の基準が必要な理由

 今日、信仰にも「こうするべきだ」というある基準があるのです。基準がなければなりません。今日、堕落した人間を中心として、男なら男、女なら女を中心として神様が「女はこうあるべきだ。男はこうあるべきだ」といって望まれる基準があるのです。神様が願われる基準、男性はこうであるべきで、女性はこうであるべきだという基準を中心として今日、世界人類が分けられています。その基準を中心としてこの世界が東西南北、四方に分けられています。

 その基準を中心として毎日のように発展を願いながら生活してきていますが、その基準の前に一致させられる一つの基準があるはずです。このような問題は当然なものであらざるをえないのです。そのような絶対的な基準を中心として、神様は摂理目的を推進させていかれるのです。神様が願われるある絶対的基準があるのです。神様がある特定宗教を立てられたなら、その宗教を立てられた目的にも、必ずある一つの基準があるのです。その基準はまだ及ばない時の基準ではなく、完成した時の基準、変化させられない基準、度外視できない基準なのです。

 その基準と、今日私たちがどれだけ一致するかということが幸福になりうるか不幸になりうるか、あるいは事を成すことができるか、及ばないかという問題を決定する要件とならざるをえません。それにより、私たちは神様が願われるその基準に常に合わせなければならないのです。方向もある一つの方向を中心として合わせなければならないのです。磁石が変わらない限り、故障しない限り、それが純粋な磁石ならば、いつも北極を向いて方向を合わせるのと同じです。もし方向が反れるようになるなら、その本質においての方向が反れるのではありません。環境的な要件によって、障害物によって方向が変わっただけであって、本質的には変わらないのです。

 このように見るとき、神様もやはり同じです。神様にも必ず、個人なら個人、家庭なら家庭、氏族なら氏族、民族なら民族、国家なら国家に対する絶対的基準があるのです。その基準とともに一致していくか、いかないかによって、その人が完成できる道を早く行くか、行けないか、近道を行くのか、もどるのかという問題が生じざるをえないことを、私たちが知らなければなりません。

 このような観点から見るとき、信仰の基準というものは、最も尊いのです。(一九七一・六・二七、前本部教会)

 個人なら個人が、こうして行くことが絶対的な基準の生活だという、その基準が現れているでしょうか? 現れていません。家庭なら家庭がこうしていくことが家庭の絶対的基準だとどの宗教が教えてくれたでしょうか? 教えられませんでした。あるいは、民族なら民族がこうしてするのが民族の絶対的基準だということを教えられず、国家なら国家がこうすることが国家の絶対的基準だということを、教えられなかったというのです。

 このように見るとき、自分なりには信仰生活をするといっても、自分個人の前の信仰の基準に対してどのように追求し、自分が対象の立場でその追求される目的をどのように成すべきかという問題が分からないまま、今まで信仰してきた人たちが大半ではないかというのです。

 その結果はどうなるでしょうか? 知れたことです。個人の基準に個人が一致できないときには、個人の基準を中心とした審判があるのです。また、個人的には完成圏内にいても、家庭の基準を中心として努力し、そこに一致できないときは、家庭の基準を中心として審判を受けるようになっています。こんな立場にいるということを、私たちは否定することができません。

 それならば、私たちがこれを避けていける道はないでしょうか? これを越えていける方法はないでしょうか? 善なら善、ある信仰の基準なら基準と一致させられる共通的な信仰方法、その道を行くならこうであるべきだ、こうしなければならないという方向があるはずです。これが問題です。その方向をどのようにつかんでいけば、私たちが個人の基準を無難に越えられ、家庭の基準に接近できる要件を多く備えられるでしょうか? 家庭から氏族に、氏族から民族に、民族から国家に接近できる共通的な方向の道は何でしょうか? 私たちはこれを考えざるをえません。そして信仰の基準に接近できる一つの方法があるなら、それは何でしょうか? 目的を自分に置かないことです。目的は私の目的ですが、それを相手に置くのです。目的のために私が犠牲になればその目的が成就するのであって、目的のために相手を犠牲にさせたならば目的は成就しないのです。そうではないですか? 十くらいの目的のためには、十くらいの目的の前に十くらいの犠牲の代価を私が付加させるべきであって、そこから引っ張り出してはいけないのです。それゆえ、信仰の基準に接近できる一つの方法は、その絶対的目的を自己自体に置くのではなく、必ず第三者に置くことです。

 また、私たちが信仰者としていつも考えなければならない問題は、必ず神様が私たちに要求される基準があるということです。個人なら個人を中心として望む基準、家庭なら家庭を中心として望む基準、社会なら社会を中心として望む基準、国家なら国家を中心として望む基準、世界なら世界を中心に望む基準があるのです。その基準の前にどのような群れが残るでしょうか? 残ることのできる群れはどのような群れなのでしょうか? これが問題です。(一九七一・六・二七、前本部教会)

 善は、人間が生きる一生、百年なら百年以内の生涯で尊敬を受けることのできる人格を中心とした内容よりも、歴史の先哲を越え、時代的な環境に支配されるのではなく、これを支配できる特権的な地位を、永遠を中心とする内容を材料としています。このような事実をおいてみるとき、それには人間だけではなく、必ず神が介入していることを私たちは知ることができます。それである特定な宗教を中心として見るとき、その宗教の教主がいれば、その教主の人格も人格ですが、その内容には必ず神が介在しています。

 神は時代によって変わる神ではありません。歴史の変化があったとしても、その変化を動かし、完成に導くことのできる神です。複雑多端な社会環境から主体的な権限を失う立場にいる神ではなく、社会環境がたとえ複雑多端だとしても、どのようにしてでも主体的な基準を中心として収拾し、一つの目的圏を成すことのできる主体力を持つ神なのです。宗教がそのような神を信仰の母体としているという事実を私たちは知っています。このように見るとき、信仰には必ず基準がなければならないのです。(一九七一・六・二七、前本部教会)

 信仰の基準が何かと言えば、人格を追求し神様の愛まで連結させることです。(一九七二・八・一八、清平修練所)


3 望ましい信仰の基準

 では、信仰の基準をどこに置くべきでしょうか? 信仰の道は無限な価値を中心として行く道であるので、漠然とこの世の人間たちが相対できる相対物にその基準を置くのではありません。言い換えれば、信仰の基準はお金でもなく、この地のどのような栄光でもないのです。無限な価値の中心は神様です。それゆえ、その中心たる基準を神様に置いていくことが信仰の道です。神様以外には一切を認定しないのです。(一九七三・七・二九、前本部教会)

 私たちの信仰生活において、第一の問題になることは信仰の対象、神様です。その次には何でしょうか? 信仰の主体たる神様は人を対象にしているのです。私たち人間は、神様を信仰の対象にしていますが、神様は人を信仰の対象にしているのです。これが食い違うのです、違います。それにより、私はこの門前に立っているのです。だから私たちは神様に対して私自身が残さなければならない一つの骨髄的な思想を備え、生死を共にしなければならないのです。それと同時に人に対しても同じです。(一九七二・七・二三、前本部教会)


4 信仰生活の意味

 神様が人間を創造される時、無限な価値的な対象の存在として作ろうという信念を持たれたことは間違いありません。しかし、今日神様の対象として、理想的な価値を持とうとする信念を持てない人間たちが、どうして対象的な立場で無限な信念をもち、無限な価値の存在に向かって行けるでしょうか? これが最初に問題になるのです。

 その価値の中心を神様と設定しておき、無限な生命を慕っていくのです。この地上での有限圏内の生命を否定し、無限圏内の生命、すなわち永生を基準として天国を目標に定めておき、その無限な天国の理念に一致させられる生命の要因を、生活を通じ吸収していこうとするのが信仰生活なのです。無限な生命を再現させて、それで終わるのではなく、無限な地上との一致点を描いていくのです。(一九七三・七・二九、前本部教会)

 私たちの信仰生活もやはり同じです。私個人が信仰生活をするということは、ただその通りこの地の上に生きるのではなく、神様のとても大きな摂理に一つの基準があって、その基準の中で、自分自らが合わせなければならない焦点があるというのです。そういう生活的な焦点、その次には生涯的な焦点・・・。生活は一日一日をいとなんでいくのであり、生涯というものは一生をおいていうのです。そういう生涯的な焦点があるのです。(一九八八・六・一、本部教会)

 今日、私たち自身に必要な信仰生活は何か? 結論は簡単です。それは、神様の願いと接することであり、神様の事情と接することであり、神様の心情と接することです。(一九六三・八・一八、前本部教会)

 皆さんはどこに行くにも、どのような場に処してどのような仕事をするのか、その日その時間に処した環境、いつも誓いの条件物として立つために努力しなければならないのです。このような生活がまさに信仰生活なのです。(一九五七・一・六、前本部教会)

 皆さんが今現在歩んでいる道は、何をする道なのか知らなければなりません。今現在の状態の思いのままそのまま死んでいくと考えてみろというのです。「あー、神様が私を保護してくださる。神様が私を導いて下さる」と、考えますか? あきれたことだというのです。

 それゆえ宗教生活をする人々は、死の問題が一番、闘争の癌です。信仰生活は生きて死の問題を解決しようというのです。「私が歩む道がこうだ」という決定を下すとしたら、その人は不安な人です。

 皆さんは死刑囚について知らないでしょう。先生は、死刑囚たちと共にたくさん暮らしてみましたが、その人々は自分か死ぬ、その刑の前に、どれほど深刻か分かりません。八月、お盆になれば、その八月のお盆を歴史にない最後の月として感傷する、その心情は気が詰まるものです。風が吹き、台風が来ても、それを感傷するというのです。「あー、私が生きている間、この台風が最後になるだろう」というのです。すべての万象を、新しく鑑定できる深刻な心情で、喘ぐのを感じるというのです。

 そんなことを考えて見るとき、信仰の道を歩む人の中にこのように深刻な立場で、天の生命を、このように価値あるように計りながら、一日の生活を誓って歩む者がどれくらいになるのかというのです。これは深刻な問題です。先生もそんな深刻な立場にいるのでこんな道をずっと歩むのです。他の人たちが不真面目でいいかげんでも、先生はいい加減ではありません。精神をまっすぐに整えろというのです。(一九六八・一二・二九、前本部教会)

 私たちの信仰生活は、死んで審判を受ける道ではなく、生きて審判を受けながら歩む道だということを、はっきり知らなければなりません。(一九六五・一〇・三、東京教会)


5 信仰生活の目的

 今、この地に生きている人々は、善なる神様から出発したのではなく、全部悪から出発したので、根こそぎ切って、善なるオリーブの木の枝に接ぎ木しなければなりません。それで人間世界の前に再臨思想、メシヤ思想、すなわちこの万民を救うことのできる救世主思想が現れなければならないのです。

 では、その救い主は何をするべきでしょうか? 真のオリーブの木として来て、野性のオリーブであるこの世界の人類を根こそぎ切り捨てて、接ぎ木してあげなければなりません。それにより、悪から出発した人間が悪を審判してしまい、善から出発したという条件を備えさせてあげなければなりません。それで養子の道理を果たし、直系の息子・娘になったという位置に立たせなければなりません。その位置に上がることが、まさに、信仰生活の目的です。それでは皆さん、切るべきですか? 切らないべきですか? 切るならばどこを切らなければなりませんか? 脚だけ切ればいいですか? 脚だけ切れば死にません。首を切らなければなりません。そうすればこそ死にます。(一九六六・一・二、前本部教会)

 信仰生活において私たちの目標は現実ではなく、神、神様なので、現実とは相反していることを感じるようになります。私たちの日常生活においては、実際問題を対象にしているので、すべての面においてぶちあたる事々の結果が必ず早く現れるようになるのです。そして、私たちの実際の生活においては、ある望みがあれば、その望むことに対し、だれかと議論することもでき、その解決方法も速いですが、信仰的な世界はそんなことが自由にはできないのです。(一九七三・三・一八、ベルベディア修練所)

 皆さんが信仰生活をし、神様を呼び、神様のみ旨を唱え、神様の理念を捜し、神様の栄光のために戦う目的はどこにあるのでしょうか? 初めは、自分が確固不動になるところにあります。歴史的な悲しみが私を占領できず、時代的な逆境が、私の心と体に確固と立っている基盤を占領できないといえる信念がない限り、そういう位置を備えおかない限り、いくら歴史的に忠誠をつくし、時代的に自信を持ったと自認する者がいたとしても、天はそれを信じ摂理することができず、それを立てて時代を収拾することができないことを知らなければなりません。(一九六三・八・一一、前本部教会)

 信仰の目的は何か? 善なる体と心と心情を中心として、世界的な舞台、さらに、善の価値をたたえることのできる天宙的舞台に出ていくのです。(一九六〇・九・一八、前本部教会)

 信仰という言葉は、真なる人間になるためのものです。真なる人間とは何でしょうか? 神様と遊び神様と休み、神様と眠り、神様と生きようという人間が最高の真なる人間です。神様はどのような人を捜すかといえば、そのような真なる人間を捜します。同じように、私たち人間が真なるものを捜し出し、真なる世界を捜し出すのに、神様と一緒に生きる世界が真なる愛の世界であり、真なる幸福の世界だというのです。そこで始めて、私たちの理想郷が顕現するのです。(一九七二・八・一八、清平修練所)

 私たちの信仰の目標は何かといえば、神様の国の人民になることです。その国の民にならなければ、その子女として、自由自在に万民、あるいは万物世界に誇り、愛される道は現れないのです。国のない者は、いつも攻撃されるようになるのです。かわいそうな立場に立つようになります。どうしようもなく受ける場合がいくらでもあります。それでは、神様が願う国はどこにあるのでしょうか? 神様の足掛かりとなる国はどこにあるのでしょうか? これが問題です。(一九七二・四・二三、東京教会)


6 信仰生活の第一条

 皆さんは歴史的な罪の結実なので、歴史的な悔い改めをしなければなりません。これが統一教会を信じる信者としてわきまえていくべき信仰生活の第一条です。何の第一条だと言いましたか? 歴史的な罪の結実体ということを自覚することが信仰の最初の出発です。それゆえ、悔い改めなければならないのです。「アイゴー、私が何の罪を犯した? 私は何の罪もないのに」しかし、見ろというのです。腐りかけた古い松の木の枝を見れば、腐りかけているのでかたよって影響を受けている、それと同じことだというのです。

 皆さんは、今、青い葉のようですが、途中まで行って落ちることもあるのです。秋になり実を結ぶのに役に立つ、そんな葉としての存在ではなく、実とは何の関係もない葉として、途中で落ちる葉に過ぎないのです。それゆえ、皆さんは歴史的な罪を悔い改めなければなりません。そう、罪という言葉がここから出るのです。罪、分かりますか? 何の罪だって? 歴史的な罪を感じなければなりません。

 それゆえ、私には歴史的な罪を断つべき責任があります。それゆえ、無慈悲に清算しなければなりません。「首をおさえろ、このやろう」自分と闘えということです。自己にある権威と権勢をすべて投入して、自己を征服するのに第一線に立って「おまえは、私の命令のままにしなければならず、私の望みのまましなければならない」としながら、自分に対して号令する歩みが信仰生活の第一歩です。(一九七三・八・五、前本部教会)

 私たちが統一教会に入り信仰生活をするときに、最初の出発点は何かといえば、自身が神様の子女だと実感することであり、それで神様の愛を中心とした子女の立場を復帰しようとすることです。神様から愛される人が、この偉大な神様のみ言を自慢とし、天宙にそれを叫ぶことのできる心情になっていないならば、その人は神様の息子・娘として立つことができないのです。(一九六九・二・四、東京教会)


二 統一教会の信仰の特性

1 統一信仰の三大要素(絶対信仰、絶対否定、絶対愛)

 アダムが堕落したことにより、アダムが私たち人類の父母なのですが、堕落のゆえ、アダム家庭は破綻したというのです。家庭が破綻しました。だから宗教を立て、破綻した家庭を復帰しなければなりません。本然の家庭に復帰しなければなりません。

 アダムの堕落がどのようにしてなったのでしょうか? 不信して堕落したのです、不信して。不信が一番の原因なのです。その次は何かといえば、自己主張から堕落したのです。自我主張、自己を中心とすることをいうのです。自己を中心とする立場で堕落したのです。その次には、自己を中心とする愛圏を要求したのです。これが堕落の三大要素です。不信、その次は? 自我主張、自己を中心とすること、その次には、自己を中心とする愛圏を夢見たこと、これがサタンの足掛かりなのです。堕落した天使がそうなったというのです。

 では、これを蕩減復帰しようとするならば、それを否定しようとするならば、どうしなければならないのでしょうか? 反対、反対にすべきです。絶対信仰! だから絶対的信仰が出てくるのです。私たち人類の先祖が不信して堕落したので、これを踏んで上がらなければなりません。私たち先祖が堕落したその線以上に上がらなければなりません。絶対信仰をしなければなりません。絶対信仰は何を言うのでしょうか? 死ぬまで、死んでも、死にながらも行こうとすることです。皆さんは絶対信仰が分からないでしょう? 絶対信仰の限界がどこかというならば・・・。それを、私たちの実感的な生命体を持つ私自身と比較して言うならば、死にながらも行くということです。死にながらもその道を行くというのです。死にながらもその道を行こうとすることです。私は死ぬとき横に倒れるのではなく、前のめりになるのです、前に。そのような意味から、私の信仰を否定すれば、死の道を選ぶのです。

 さあ、統一教会がそうですか、統一教会の食口たち? 蕩減復帰するためには反対の経路を通じていかなければならないので、自己認定、自己肯定から出発するのではありません。完全否定です。完全な宗教は、自己否定から、堕落した世界の否定からです。それゆえ、世界を否定し、国を否定し、氏族を否定し、家庭を否定し、妻・夫、男性・女性自体を否定し、私の体と心自体を否定しなければなりません。否定の版図がどれだけ大きいか知らなければなりません。私の心を中心として、体まで否定しなければならないのです。

 サタンの第一の居所はどこかというと、肉体です。これが境界線、体と心の境界線になったのです。体と心が闘争するようになったのは堕落したからです。闘争するようになったのは堕落したからです。ヘーゲルのような人が闘争概念を捜し出したのは何でしょうか? 堕落した自体を置いて、批判して見るとき、人間に闘争概念があるというのです。ところがそれが本来の人間にあるものだと考えたのです。しかし、それは堕落を知らなかったからです。この背後においては、善神と悪神が錨をぶら下げ、網を投げているというのです、網を。分かりましたか? ここ、韓国の中線を見るならば、大きな綱に、網をかけているというのです。ところが錨綱を知りません。錨を知りません。網だけおいているのです。そこに入っている魚の子が人類です。惨めなことです。惨めなことだというのです。惨め、惨め、惨めです。どうにも解決する方法がないのです。いくらつっついて見ても出る穴がないのです。その網を破裂させなければなりません。堕落圏のサタンの網を破裂させなければなりません。世の中をすべて否定しなければならない。肯定ではなく破裂させてしまわなければならないというのです。こっぱみじんにしなければなりません。このロープも錨までも切ってしまい、こわしてしまわなければなりません。

 宗教は肯定概念から始めることはできません。先祖がそうしたから。それを否定する第一条件は何かといえば絶対信仰です、絶対信仰。分かりましたか? そう、お前さんたち、絶対信仰を持ちましたか?

 それゆえ、苦行の道をなぜ行くのか、その原因を暴いて見なければなりません。今日、文某が来て、宗教の秘密の世界をすべて、暴くのを望むでしょう? 「なぜ苦行の道を行かなければならず、犠牲にならなければならないのでしょうか? なぜ、なぜ絶対信じなければならないのか?」と、牧師たちをよんで三言だけ言っても、答えられずその信仰で「それは、その信仰ですべての救援を・・・」というのです。そんな妄想的なサタンの煙幕戦術にだまされるなというのです。(一九八三・四・一〇、本部教会)

 絶対信仰! このごろの先生の祈祷がそうです。ペテロの信仰が問題ではないのです。そう、絶対信仰、分かりますか? その次には何ですか? 犠牲! 絶対何ですか? 犠牲です。私は神様と私との関係を良く知る人だというのです。(?)

 第一が何ですって? 絶対信仰です、絶対信仰。絶対信仰が、どうですって? 死にながらも行かなければならないのです。監獄は何でもありません。死にながらも行かなければならないというのです。イエス様が祈祷するのに「できるならば、この杯を私から過ぎ去らせてください、しかし、私の思いのままにではなく、父のみこころのままになさって下さい」と言ったその父のみこころのまま・・・。客死の死体として倒れても、自己のために死なず、父のために死んだというのです。分かりますか? 栄誉なる死体になったのです。分かりますか? その限界点が分かりますか?(はい)

 死の場でも大胆でなければなりません。死ぬと堅く目を閉じ「私は死んだ」としていればすでに別の世界に移っていたというのです。分かりますか? 飛躍が起こったのです、飛躍が。統一教会はそうして発展してきたのです。そうして、発展しました。あっけにとられ、あきれて、四方がしっかりと締めつけられ、地に入ることも、天に跳ね上がることもできないその立場を、死を覚悟し踏み越えたなら・・・。

 生きておられる神様は、間違いなく顕現する方です。それゆえ、私には神様がいるいないというのは問題にもならないのです。分かりますか? そんな役事が本当に多いのです、夢のような役事が。分かりますか? 神様は工作どおりされる方です。絶対信仰を持っていく人には・・・。

 第二は何ですか? 自己否定です。百パーセントこの目を否定しなければなりません。今日、統一教会の食口たちは劇場にもよく行くでしょう? 私は劇場に通いませんでした。青年の時にも電車に乗らずに通いました。私が鷺梁津(ノリャンジン)にいながら市内に通うとき、歩いて通いました。そしてそのお金を、道端で物乞いをする人たちにあげました。その一人が、この次に三千万民族に代わって、このような神様のみ旨を咲かせることのできるその日のために全力を尽くして下さいと、涙を流して小銭をこの三千里半島に蒔いた事実を知らなければなりません。

 私が日本に行く時、ここ・・・ソウルその時は京城でしたね・・・から釜山まで行くのに、オーバーをかぶり痛哭して行った人です。民族の解放の日と共に世界の解放になるときは、この民族が代表できる・・・。内的、精神的姿勢が喪失し、民族的方向を失ってしまったこの民族がどうなるのかということを心配しながら、反日闘争のために立ち上がったのです。国を愛せない人は・・・。

 犠牲の橋の角材になり、板切れになってでも橋を架けようとする思想が宿っていればこそ天は訪ねてくれるのです。自体否定です。私の見たい目、私の食べたい口! 三十歳までお腹がすかなかった日はなかったのです。私がこれを知っても私自体を否定するのです。お腹がどれくらい空いたか知れません。お腹が空いたときは深刻です。聞きたいすべてのものをすべて切ってしまい、楽な寝床をすべて切ってしまうのです。(一九八三・四・一〇、本部教会)

 自己否定しなければなりません。自己中心思想を捨てなければなりません。自己を中心とした考えを捨てなければなりません。絶対、何ですって? 信仰。その次には? 絶対否定、自己否定です。その否定する手段は何でしょうか? それをじっと座ってするのでしょうか? 頭を下げるのです。頭を下げろ。

 そして、なぜ否定しなければならないのでしょうか、怨讐、怨讐を消化しなければなりません。怨讐を愛さなければなりません。その道は容易ではありません。自体否定を何十回、何百回するだけではなく、怨讐を愛することのできる私の位置まで行かなければなりません。そうでなくては、私は神側に永遠に立つことができません。サタン側に対し、サタンの前に立つようになるでしょう。サタンの前に立てば常に引っ張っていくのです。常に引っ張っていくのです。これが境界線です。

 絶対否定、その次には何ですって? 第三は絶対愛、絶対愛は、それです。怨讐を消化してこそ・・・。怨みを晴らすのが許しではありません。怨讐自体が自ら進んで、自己の国と自己のすべての権限、長子の嗣業までも、すべて譲らなければなりません。譲り受けなければならないのです。(一九八三・四・一〇、本部教会)

 残るものは、絶対信仰も去り、絶対服従も去るけれど、最後には絶対愛が残るというのです。信仰と愛と希望、この三つはいつもあります。この中の第一は何ですか?(愛)信仰も去り、希望も去るけれど、最後には愛が残るというのです。同じです。絶対信仰もすべて去ります。(一九八七・一〇・二九、漢南洞公館)

 絶対信仰というものは何でしょうか? 自分が信じている一つの宗教の指導者がいたら、その指導者と私は歴史的に数千年という遠い距離を置いていますが、信ずる心を中心としては、それと平面的に対等な時代圏内に入り、立つことができます。それゆえ、絶対的に信じろというのです。絶対的に信ずるとき、その人と共にいるということが分かるようになるのです。また、その人と共に生きているということが分かるようになるのです。このようなことを新しく認識させ、刺激させるためのものが信仰だということを知らなければなりません。

 皆さん、絶対的な信仰をしなければなりません。統一教会を信じるのかというとき、絶対的に信じていくと言わなければなりません。(一九七一・七・二五、前本部教会)


2 体恤信仰

 統一教会はどのような道を行くのでしょうか? 統一教会を指導する文先生という人はどのような道を行くのでしょうか? また、文先生を指導される神様はどのような命令をするのでしょうか? これが問題です。この道は喜びをたたえながら行く道ではありません。真なる意味の悲しみを感じるために行く道です。自分が感じる胸の痛い悲しみは、当事者以外は分からないものです。それゆえ、統一教会では体恤的な信仰を強調するのです。神様の心情を体恤しようというのです。

 なぜ体恤的な信仰を強調するのでしょうか? 神様の悲しみを知らずしては、神様の前に行くことができないからです。子供が父母へ孝行するためには父母の悲しみを完全に知り、それ以上の心情を持って悲しみを除去させてあげられる実体になればこそ、孝子になることができます。心情が父母と共にできないならば、孝子になることができないのです。

 忠臣烈女の心情と一致できる基盤の上にどれだけいたでしょうか? そんなことが何回になるでしょうか? そのような人になろうとする回数と、そのような時がどれだけ多かったかにより、信仰は決定されるのです。(一九七一・四・一八、前本部教会)

 天上の審判はどこで決定されるでしょうか? 皆さんは、天のための功労と苦労が多いといって威張るものではありません。それにより決定されるのではありません。ただ神様の心情とイエス様の心情が、皆さん自身の体で体恤され、結実され、それが神様やイエス様と切っても切れない因縁になったそれだけが永生不死なる条件になるのです。(一九五八・三・一六、前本部教会)

 皆さん、信仰生活で、生活圏内で、神秘的体験、あるいは霊的に神様がいることをみんな体験していますか? 皆さんの中に霊的にとか、祈祷の中でとか、夢の中で先生に度々会い、先生の指導を受ける人は手をあげてみなさい。百パーセントそうならなければなりません。それは私たちだけが持っている力であり、私たちだけが持っている誇りであり、私たちだけが持っている宝物なのです。今まで宗教は体験的な課程を経ることができなかったため、戸惑い、世俗化されてしまいました。けれども、統一教会は最後の場に立つ神様であることを知るゆえに、波風や洪水が押し迫ってもこれを散らして、死ぬことがあったとしても、明日の希望を遺言に残して死ぬことのできる勇士と婦人になっているという事実は、驚くべきことです。(一九七六・六・二、アメリカ)

 今日、統一教会員たちは全部天に引っ張られ、行ってきましたが、天が去ってしまえばくたびれてしまいます。それはなぜそうなのかといえば、体恤信仰の重要性を知らないからです。信仰というものは、生活圏内で勝利的結果、すなわち生活圏内で神様の目的を中心とし、そのような結果を打診できる価値的内容が、私が対する前より、対した後にもっと良い結果を探し出すときはいくら迫害が来てもそのまま進むのです。絶対屈服しません。けれども、その行なった結果がマイナスになるときは、いくら力を出そうとしても後退するようになります。

 ですから、後退しうることは絶対してはならないのです。その被害はどうでしょうか? 一度後退した次にそれを正すということは、どれだけ大変か分かりません。一度失敗するようになれば、それを補充するのがどれほど大変かを考えるならば、落ちうる、すなわちマイナスになりうることは、考えすらしないというのです。そんなものは見ようともしないのです。また、そんな人は相手にしようともしないのです。

 それゆえ、初め恵みを受けるときは人を多く嫌うようになります。物もむやみにあれこれ接することができず、単調な物だけに対するのです。その人が日常的に欲を持って動ける物は、絶対対することができないようにさせます。そうではない物、すなわち無関心に対した物だけ、対するようにします。対するようになれば欲が先立つ物は、絶対対せなくさせます。言葉も、そうです。自分を弁解しようとする言葉はできないようにさせます。

 実際、信仰生活において、霊的体験はそうしておいて起こるのです。皆さんはそのような霊的な体験はできなくても、生活で感じられる感じを分析する回数を上げていかなければなりません。どういうことか分かりますか?

 このような段階に至れば、どのような現象が起こるでしょうか? 三角的な関係から直接的な結果を一度に皆捕らえることが多く起こります。この話がなんのことかといえば、第三のこととして現れ、何ら関係がないにもかかわらず、関係を結ぶことによって計画的なことではないけれど、偶然に体恤的な感情を感じることができる体験をするようになります。こうして努力するようになれば、第三点のことから現れ関係のないことでも、パッと感じる感じを通して、関係を結ばなければならないと考えるようになります。このように生活圏内において発展することのできる動機をいくらでも見付けることができます。(一九七一・二・七、前本部教会)

 体恤するためには必ず祈祷しなければならず、精誠を尽くさなければなりません。これを知らなければなりません。そこから現れる、啓示や夢での啓示を絶対無視するなというのです。それを調整し、現実的生活圏内に、実践舞台に、どのように適用させるかということが信仰生活において一番重要です。(一九七五・二・二、前本部教会)

 先生が地方巡回に行ったときの話です。ここからどこに行くのかという話をし、電話をしてはだしぬけに他の所に行ってしまうのです。それは電波と同じなのです。ミサイルと同じなのです。ミサイルは引っ張り込むことのできる、何か鉄の小さなかたまりだけあれば引かれていくのと同じで、そんな作用が起こるというのです。それゆえ天国に送ってくれと考えるなというのです。天国に行く行かないということは、統一教会の文先生にかかっているのではないというのです。分かりますか? 行く行かないということはだれにかかっているのですか? 皆さんにかかっているというのです。

 体恤信仰において一番重要な要件は何か? 主体と対象関係です。「神様は常に主体だ」としながら、私を愛される神様ゆえ、私が深刻ならば深刻なだけ、神様は私のことを忘れられない、傍観できない、ここに共におられるということを感じなければなりません。それで祈祷に先立って感謝できる生活形態が起こるようになるとき、そこは天が共におられるのです。それが一番初めには感じませんが、ある段階に入れば感じるようになるのです。(一九七二・六・二五、前本部教会)

 皆さんは生活過程を分析し結果を打診しなければなりません。自分が結果を打診しなければなりません。私が感ずることは何パーセントは合う、何パーセントは間違いないという、こういう内的な因縁を皆さんが環境圏内で結び打診できる、そんな結果を測定できる立場に立たずしては、神様が共にいらっしゃるのか、悪が共にいるのか、分析することができません。だから、必ずこういう信仰態度が必要です。こういう信仰態度を育てていけば間違いなく体恤してきます。そうなれば、道に出るとき、祈祷をしなくても大丈夫です。初めの歩みを踏み出すとき、この道がどのような道なのか、良い道なのか、行けば神様が喜ばれる道なのか、寂しい道なのか・・・。最初に感じてくる思いが「あー、これは良い、悪い!」という思いがあるというのです。悪いと思うときは行かないのです。これを鑑定する仕方を知らなければなりません。ですから皆さんは、環境的体恤信仰に対することを開発するために努力しなければなりません。(一九七一・二・七、前本部教会)


3 統一教会をなぜ信ずるのか

 では、皆さんはなぜ統一教会を信ずるのですか? 統一教会をなぜ信じるのでしょうか? おじいさんの道理を習うためです、おじいさんのみ旨を。分かりますか? おじいさんがどうですって? 神様がおじいさんではないですか? 本当に神様がおじいさんですか? 皆さん、何を、神様に対しておじいさんだというのですか? 皆さんの家にいるそのおじいさんではなく本来のエデンの園で、おじいさんが何だって?(神様)神様であり、アダム・エバがお母さん・お父さんであり、私が孫であり、三代だというのです。

 それでは、統一教会をなぜ信じるのでしょうか? 私たちは再創造、復帰の過程ですべて集まり、何をしなければならないかという話です。父母様の愛を受け、神様の愛を受けられる道をならしていくのが統一教会の行く道です。さかさまにするのです、さかさまに。本来生まれるとき、神様の愛を受け生まれるのです。生まれるやいなや神様の愛を受けるのです。そして父母の愛を受け・・・。ところが、これが堕落する時さかさまになったのです。生まれたのにどうしますか? さかさまに父母の愛を受け、父母の愛を受けた次には、兄弟どうし愛さなければならないのです。家族どうし愛さないでは愛される道がないというのです。そういうものなのです。(一九七六・二・八、中央修練院)

 イエス様の御言の結論がこれです。死のうとする者は何だって?(生き)生きようとする者は何だって?(死ぬ)先になる者は?(後になり)後になる者は?(先になる)それが何か。それがここで起きています。牧師たちはそれが分かります。これから牧師たちが涙を流すことが多いでしょう。ここの既成教会を信じた人たち、既成教会と統一教会とは千里万里の差が出ます。既成教会は幼稚園にもならないのです。こうして言うと大変高慢だと、傲慢だというでしょうけれど、統一教会はすでにそんなレッテルが付いています。偽物ではありません。死んでみろというのです、私がうそを言ったか。

 イエスを信じ福を受けようとする奴らは狂った奴らです。神様が今死ぬか生きるかと、イエス様も天で死ぬか生きるかという局面にいるのに福を受けようというのですか? 考えてみなさい。イエス様の心が楽だと思いますか? どれほど大変で、死ぬ時「父よ、私の思いのままにされないで父のみ心のままにされます様に」と言ったでしょうか? まだ祈願成就をなせないでいるではないかというのです。もう一度来ることができる環境を作りおくことができず、来ることもできないこの立場を知るとしたらイエスを信じ、福を受けようとしますか? 逆にイエスを信じ死ぬと言わなければなりません。死のうとする者は福を受けるのです。福を受けようとする者は?(死にます)統一教会を信じ福を受けようとする人は来るなというのです。統一教会を信ずるならば、福を受けるのではありません。(一九七一・九・五、前本部教会)

 それでは、統一教会をなぜ信じますか? 統一教会をなぜ信ずるのですか? 皆さん自体を置いてみるとき、私が喜ぶために信ずるのですか、統一教会を良くするために信ずるのですか? また、統一教会は何ゆえに統一教会を作ってこうなのですか? 統一教会がいいために?(違います)違います。統一教会の教会員を良くするためにです。統一教会の教会員は、統一教会のために、統一教会は統一教会の教会員のために・・・。こうなれば回っていくのです。回っていくというのです。回っていけばどうなるというのですか?(理想が起こります)理想が起こるのです。運動する時もこのように直線に行ったのがさっと回るのが簡単ですか、円形にこうして除々に回るのが簡単ですか? 円形に回るのが簡単なのです。(一九七六・三・一四、前本部教会)

 統一教会を信じ福を受けようと考えるなというのです。福を与えようという考えをすべきです。統一教会自体内の福を、国と世界のため、もっと大きなもののために与えようとしなければなりません。そうしていくようになるときは、レバレンド・ムーンが皆さんの進路に責任を持つのです。皆さんの足を私が引っ張りません。そんな人たちになるべきです。(?)

 統一教会に入ってくるのは、福を受けるために入ってくるのですか? 福を受けるために統一教会を信じますか、死んで世界の人に福を与えるために信じますか? ほー! 早く答えなさい。賢く答えなければなりません。自分はそうではないのに間違えて答えるなら讒訴条件に引っかかるのです。統一教会を信ずるのが、自分が福を受けるために信ずるのですか?(福を与えるために信じます)女たち、この女たちは?(福を与えるために・・・)どう、確かではないですか? 何をするために信じますか?(福を与えるために信じます)はっきり答えなさい。何をするために?(福を与えるために・・・)福を与えるために。そう、福を与えました? どうですか?(笑い)(一九七八・一〇・一、本部教会)


三 真なる信仰姿勢

1 信仰者の態度

イ)待ち焦がれる心情が必要である

 信仰者の態度はどうしなければなりませんか? 待ち焦がれる心情がなければなりません。因縁を持っているゆえに、待ち焦がれないようにしても待ち焦がれざるをえないということを、皆さんは知らなければなりません。それでは天は何を待ち焦がれるのでしょうか? 信仰者を待ち焦がれるのではなく、生活の中で実践する者を待ち焦がれています。私も信仰者になることを待ち焦がれるのではなく、生活の中で実践する者になることを待ち焦がれています。希望の国を待ち焦がれるのではなく、その国で生活できる人を待ち焦がれているのです。

 今日、私たちは信仰という名詞を掲げておき、待ち焦がれていますが、そういう段階を越えて生活的な信仰をしなければなりません。すなわち、天と共に生活する食口、天と共に生活する民、天と共に生活する教会にならなければなりません。そのように生活しながら楽しむことができ、讃えることができ、栄光を返し捧げられる信仰生活をしなければなりません。天はこれを待ち焦がれています。

 歴史過程の数多くの私たちの先祖たちの前に、信仰という名詞を立てておき、神様が彼らに対して待ち焦がれたものは何だったのでしょう? その場で闘っている信仰者としてのそれ自体ではなく、終わりの日まで残り、父と共に生きることのできる人を待ち焦がれておられたことを皆さんは知らなければなりません。天が私たちを待ち焦がれていたということを知らなければなりません。神様が待ち焦がれていたのは信仰のために喜んで消えていくことができる私、信仰のため死んで復活することのできる私、死亡圏を抜け、生命圏内で復活の価値を讃えることができ、永遠の世界で神様を父と呼び生きることのできる、そんな私を待ち焦がれていらっしゃいます。これを考えるようになるときに、天が待ち焦がれた私、その私を慕うすべを知り、その私を探すため、その私に会うため喘ぐ皆さんたちにならなければなりません。(一九五九・三・二九、前本部教会)

ロ)負債を負った者の姿勢を持つべき

 終わりの日に処している今日、信仰者たちの態度は何でしょうか? 歴史的で厳粛な全体の材料は、人類だれでもすべて希望する材料であり、天が望む材料ですから、こんな内容の材料を一人で相続を受け、自己の身を通しこれを表すことができ、一身を通してこれを相続し立ててあげられる、そんな人にならなければならないのです。これが信仰者の望む願いとなっており、天が望む願いとなっているのです。(?)

 信仰者の態度は、いつでも負債を負った者の姿勢でなければなりません。皆さんはそれを知らなければなりません。信仰者として一番重要な姿勢は何でしょうか? 負債を負った者の姿勢です。皆さん、負債を負ってみましたか? 負債を負ったことがなければ負債をちょっと負い持ち、鍛練してみなさい。負債を負った者の苦労がどのようなものかということを知ってごらんなさい。負債を返済できない立場に立ってみろというのです。本当に惨めです。(一九七一・四・二五、前本部教会)

 私たちには重大な使命があります。今日信仰生活を通じ、皆さんは私の一つの自体に及ぼすすべての周囲の環境の中で、負債を返済しなければなりません。返済こそしなければならないというのです。ですから、生活の中で私が当然に負債を返済する生活をしているのか、自ら検討しなければなりません。

 今日、皆さんが信仰生活する中でも、永遠なる神様の負債と、父母の負債と夫婦の負債、そして万物の負債と関係を結んでいます。皆さんはこのすべての負債を蕩減する時代と因縁を持っているので、皆さんがどのような心を持たなければならないのか考えなければなりません。(一九五六・六・一〇、前本部教会)


ハ)固い覚悟を持たなければ

 正しい信仰者の態度は、自分というものをすべてなくすことです。死の峠までも越えてこそ天と喜びの因縁を結び、消え失せるその時間に「父よ、イエス様のようにすべて成しました」と言え、今まで結んできた悲しみと怨恨の因縁を終結させ、喜びで絡む因縁をうたうことのできる瞬間を所有できなければなりません。このような者たちが所有するのが永遠なる国であり、このような者たちが住む所が天の国であり、このような者を探すためのものが神様のみ旨であることを私たちは知らなければなりません。(一九五九・三・二九、前本部教会)

 皆さんは、最後の勝利の決定線で最後の一歩を降ろすその線を切ってこそ、皆さんに新しい希望が現れるのです。皆さんが新しい日を迎えるのです。新しい理念を皆さんのものとして所有するのです。その新しい理念を皆さんのものとして因縁を結ぶためには、そのような道を行くべき天的な条件が残っているのを私たちは知らなければなりません。ですから、こんな歴史的な運命を前において進んでいる私たちは固い覚悟を持たなければなりません。

 今、このような見地から皆さん自身を振り返り反省してごらんなさい。私は果たして信仰者の態度を備えていますか? 望みの心を立て出るための信仰でしたか? それを願った私でしたか? 古びた信仰を持ち、すべてなると思い、すべてのことを解決しようとすれば、その道を行くことはできません。

 正しい信仰の態度を備えていくべき私たちなるが故に、今私たちに、死亡の威力がぶつかってきたとしても、その死亡の力を清算しても残りがなければなりません。残る痕跡がなければなりません。私の情熱もそうであり、私の忠誠もそうであり、私の努力もそうであり、私のたえるところもそうであり、私に属するすべてのものが残る分野がなければなりません。これが天の相続の第一基準になるということを知らなければなりません。

 今日のこの複雑な有形を経て進むためには、その望みを訪ねていかなければなりません。歴史的な因縁と、時代的な因縁と、未来的な因縁を心に抱き、望みの私ひとりを待ち焦がれながら、これを訪ねていかなければなりません。これを訪ねていくのに無限な怨讐たちが立ちふさぐであろうし、これらと闘い、また闘わなければならず、進んで、また進んで行き、ぶつかり、またぶつからなければなりません。そうして、忍耐の祭壇を私の肩で支え、腕で支え、手で支え、体で支え、頭で支え、忍耐の峠を越える覚悟をした生きた祭物にならなければなりません。そうでなければ、真の信仰者の態度を身に付けた者と見ることができないでしょう。天の御旨と、天の真理を探し出す者と見ることができないでしょう。(一九五九・三・二九、前本部教会)

ニ)ぴんと張った心情的態度が必要

 歴史は個人の生活路程を記録したものであり、個人の現実的な生活を探し出していくものだと私たちは見ています。今までの歴史は、理想郷を捜し出す道だということを私たちは否定できないのです。理想郷を捜し出すにおいては、必ず過去を清算し、新しい理想と一致できる内的因縁を、再び追求しなければならないのです。それにより、絶対的な価値を中心として揺れないようにしなければなりません。揺れる者になってはいけません。絶対的な生命を備えるにおいては、寸毛の行き違いもない、自信ある立場、信仰の基台を完結させる位置に立たなければなりません。その位置は、一致点を成すことのできる位置でなければなりません。無限な生命が一致する、その位置が私たち人生の歴史路程になければならず、その歴史路程にある前に、私たちの中のある個人から、始められなければならないのです。(一九七三・七・二九、前本部教会)

 皆さんが信仰生活をするにおいて悔い改める時があり、恩恵を受ける時があり、恩恵を受けては分け与えなければならない時があるのです。悔い改めることによって恩恵を受け、恩恵を受けたことをただ持っているのではありません。その次には分けてあげなければなりません。

 信仰生活は必ず第三者の立場を脱皮しなければなりません。皆さんが、今、先生についていますが、先生を中心として信仰生活するのではありません。皆さん自身を中心として信仰生活をするのです。それゆえ、信仰生活をする人は、他がどうあれ、私ひとりで守っていかなければならない信仰の道があるのです。そんな信仰生活は・・・。近い人も体験できない深い心情世界で、天を中心としてひとりで感謝できる生活、ひとりで満足する生活ができなければならないのです。この世がいくら悪くても天地を望みながら「感謝します。私は幸福です」と言える信仰生活をしなければなりません。そうできなければ、そんなことを感じられないでしょうから、その反対の立場で、ひどく悲しい立場で「私は罪人です。私は不足ですから勇気を与えて下さい」と決意する、悔い改める自らの期間を必ず持たなければなりません。(一九六三・一一・一五、前本部教会)

 それでは信仰者として第一に注意することは何でしょうか? 事に対するにおいて、些細な事であれ大きな事であれ、どのようなことでも個人的に対してはいけないというのです。言い換えれば、皆さんの心がぴんと張っていなければならないのです。ぴんと張って空気を入れ、完全に丸くなったボールのような心の姿勢を持てというのです。へこまず完全にぴんと張ったボールのような心の状態にならなければならないのです。そうではなく不安な心だとか、あるいは個人の欲を中心とした邪心を持つなら、丸いボールのような心に角ができます。

 この心が回るときには平面的にすべて接触しなければならないのに、角が生ずれば角がでた先の部分から接触します。そうなれば全体を円滑に刺激させるのではなく、全体に反対的な作用をするようになります。そのような場に処すれば処するほど、私たちの良心は呵責を受け、良心の基準が段々削減するということを考えなければなりません。

 それゆえ、常に円満なボールのようにぴんと張った心情態度が必要です。それでこの心に、ある刺激が入ってくれば、心全体が共鳴できなければなりません。固有の振動数が互いに同じ音叉二つを置き、一つを鳴らせば他の一つは打たなくともその音波に刺激され、同じ振動数で鳴らすのと同じで、私たちの心も共鳴体になれる円満な心を持たなければなりません。それで、常に一つの主体から伝達されて来る霊的な波動を感知しようと努力しなければなりません。

 それゆえ、信仰生活をする人には瞑想の時間が必要なのです。良いことを描きながら瞑想をしなさいというのです。瞑想するときは心の門を開け放し、その心を丸くして神様ならば神様を中心とし、神様の本性と私の本性が、春の季節に該当する人は、春の季節の主体なる神様といっしょにその性稟を完全に与え受けることのできる、完全に共鳴できる心の姿勢を備えなければなりません。こうして、共鳴する内容を中心とし、自己が要求する目的に対するようになるときは、必ず神様が共におられます。これを皆さんは知らなければなりません。

 そして、そんな共鳴を感じられない位置で、あることに対するようになるときはこうして考えればいいのです。「神様がこのことをながめていらっしゃる。私と直接的な関係を持っているのを私が感じられないが、関係を持っている。このことに神様が先に介入していらっしゃる。神様の御旨がここに打ち込まれている。今はその御旨を中心に私が接する瞬間だ。」と考えればいいのです。事ならば事を中心として見るときに、そこには必ず神様の御旨が先に成立しているのです。(一九七一・二・七、前本部教会)

 信仰生活をするにおいて、皆さんの心の中に爆発的でもあり、刺激的な力を持ち、御旨の世界に向かって弛まず行こうとする余力がありますか? そんな心があれば、それは神様が皆さんと共におられるという証拠なのです。反面、そんな力がないなら、神様が皆さんと分離されているという証拠です。

 皆さんに人類を愛する心がほとばしり、人類といっしょに自己の生命を分けてあげたいという心が絶えないということは、自身が天に属していることを証すことで、自体を主とする愛と、自体の価値を誇る生命力として終わるなら、自身からすでに神様は離別しているという事実を証すことを知らなければなりません。そんな人の行く道は、天ではありません。そんな人は自分を主とする限界点に到達するでしょう。私を中心とする限界の世界は、神様の御旨の世界とは違うのです。(一九七〇・六・一四、前本部教会)

 このような問題を置いてみるとき、概して人が善悪の道を選んで行くときにおいて、徳望の友を多く持てる道、あるいは目上の人の前に認められる道、或いは目下の人の前に信頼される道は弁明ではないというのです。分かりますか? 皆さんが全部すべて打診してみて、比較してみろというのです。大体弁明する人たちは損害を被ります。ですから、事件が起きたら弁明するなというのです。先生は死んでも弁明はできない人です。食ってかかり、「事実がそうです」とすれば、万一、方法上他に答えなければならないときも、目でもひそめて答えるのであって、弁明はしません。先生の生活習慣がそうなっています。それを見るとき、大体に見るとき、正直な人は残るのです。そんな人はその環境を継承することができるのです。

 このような観点から見るときに、より「率直な信仰者」になることは何よりも必要です。では、率直な信仰者はどこで分けられるのでしょうか? 現在の立場で分けられるのです。それにより、善と一致できず、悪の侵犯を受けたときは即刻処理しなければなりません。それゆえ、先生は何か事が生じたら、三時間以上を越えません。絶対越えません。越えてはいけないのです。それで、すでに気分の悪いことがあればそのまま流してしまうのです。気分の悪い心を持って大衆の前に出て、ああだこうだというのは、偽物です。こう考えるとき、問題が深刻なのです。こんな問題を置き、私たちの人生を見るならば、信仰生活でもそうですが、大体に日常生活にも率直な生活哲学を守っていく人は残ります。そのような人は、歴史的な面において貢献を残していく人だということを皆さんは分かるように願います。(一九七一・七・四、前本部教会)

 皆さんは幼な子の心情で信仰しなければなりません。(一九七一・八・一三、清平修練所)


2 忍耐が尊い

 今日私たちが、耐えて耐えなければならない原因がどこにあるのでしょうか? 私たちが耐えられなければ私たちが負った負債を返せず、天が抱き耐えてきた恨みを晴らすことができないからです。

 天地の運勢は神様の摂理とともに回っているので、皆さんは神様が憤るときは、共に憤るすべを知り、神様のくやしさと神様のうっぷんに対し味方したなら、サタン世界は審判されるというのです。今日、信仰路程を進んでいる私たちに対し、天が温柔謙遜し、腹を立てず、耐え、我慢しろというこのようなすべての教えが、すべてそのようなわけなのです。(一九五六・六・一〇、前本部教会)

 祈祷してみると神様は「お前はお前を殺さなければならない。そうすれば福を受けるだろう」いつもそう答えてくれるというのです。耐えれば福を受けるのです。公的か、私的か、そんな話はしないのです。「耐えろ、耐えろ」というのです。いつも耐えろというのです。それが公的な道だというのです。分かりましたか? 東洋には耐えるということば(忍)は、心に刃を突きつけてでも耐えるという意味です。心に刃を差したらどれだけ痛いかというのです。千回耐える人は千回闘いに勝つことができるという希望を持つことができると見るのです。分かりますか? もう分かりました。

 もう一回考えて、もう一回考えて行動し、その次にもう一回考えて耐えなければなりません。行動も、もう一回考えて行動するというのです。分かりますか?(はい)先生は耐えることをするのです。「偉大なる祖国」という言葉は聞きたくない言葉ですが、最も貴い言葉だというのです。そんなときごとに、一つ考えなさいというのです。大変ですが、一つ考えてみなさい。耐える事が難しい問題が生じたならば、私が耐えることにより何になるのでしょうか? その人が持っている福を、私が全部引き受けることができると考えるのです。(一九七七・六・一二、ベルベディア修練所)

 それで聖書にも、終わりまで忍ぶ者は福があるといいました。終わりまで忍ぶということが簡単なことではありません。その終わりというのが、私ひとり死にうる立場で死んでいったとして、終わりではありません。家庭が全部犠牲になりうる家庭の終わりもあるのです。あるいは民族ならば民族、国家ならば国家の終わりもあるのです。また、世界の終わりもあるのではないでしょうか。

 それで、終わりまでという言葉は家庭的な基準で闘える立場に立つ、そのような終わりではなく、それを越えて立つ立場で、民族的な闘い以内での終わりではなく、その一番終わりからながめる、それでもって世界に向かう路程を残す立場での終わりではなく、世界の終わりを過ぎて、もうこれ以上ないといえる立場での終わりではないでしょうか。

 このような問題を見てみると、信仰の道に従って神様と共に個人を越え、家庭を越え、氏族を越え、民族を越え、国家を越え、世界の終わりまで行く時までのその受難がどれほど大きいのか。その道を一生の間、あるいは生涯を通じていかなければならない、必ずや行かなければならない、そのだれかがいなければならないということを考えるとき、その道を模索する人は平安や、安息や、希望や、願いや、栄光とかいうことを望む心を持っては、その終わりまで到達できません。(一九七一・一一・一四、前本部教会)

 それゆえ、福を受けようとする人は長く耐えなければなりません。かわいそうな人に会い同情するときは、銅銭一文をあげながら「おい! 若い人がどうしたのか?」絶対そんな言葉を言ってはいけません。小さな一文でも、千倍万倍尊んで、今日この時間以後に福を受けなさい、そんな言葉はいくらいっても良いです。「この野郎! お前は今日以降に千倍万倍福を受けろ」といえば「ヒヒヒヒ、あーうれしい! おじさん、どうせなら、この野郎というそれをのければ本当に良いです」そうだというのです。喜びながらそういうのです。長く待つことを知らなければなりません。待つすべを知らなければなりません。

 このごろ春になったので、最近あの耕うん機、耕うん機というのかな何というのかな? 耕うん機ではなくて耕牛機としなくてはですね。牛の代わりにするからです。それがあってすべて仕事をするからそうではなかったですが、昔は牛をつかまえて「こら、くすくす」と言って田に行くとき、気分が悪いときが多いではないですか。そんな時は牛の尻をぶんなぐりながら「この牛め、お前どうしてこうなのか? 私が精誠を尽くしここしばらくの間使おうと育てたのに、これはどうして言うことを聞かないのか?」と言いながら鞭で容赦なくぶったたく、そうするよりも「おい、冬の間良く休んだお前を、挨拶もせず春の日に引っ張り出してきて良く食べさせもせず、使って申し分けない」と考えて、牛よりももっと忍ぶ心を持ちぴちゃぴちゃするなら、返って天が見る時その人をもっと近くにするというのです。それが何のことか分かりますか?

 すばしこくすぱすぱと臨時のことにも適当に処置をよくするよりも、純情な心を持って福を待たなければなりません。そうして幸せな心を持ち、幸せな生活をすることのみ福が訪ねてくるようになっているのです。分かりますか、何のことか?(一九八三・五・五、中央修練院)

 どこまで忍び、我慢すべきかといえば、終わりまで忍び我慢しなければなりません。それゆえ、神様は六千年の間我慢してこられた方です。皆さんはそれを知らなければなりません。その方はだれですって? 私たちの父です。私たちはその父の天稟と血肉を受け継いだので、その父のようにならなければなりません。それゆえ堕落した世界での生活哲学は、忍び我慢することでなければなりません。だれのためだというのですか? 神様のためです。ここから孝の道理が始まるのであり、忠義の道理が始まるのです。ここから国も世界も解放の運動が起こるのです。ここには良い世界も歓迎されるのであり、悪い世界も歓迎されるので地獄はなくなるのです。そうでしょう? こういう原則下で、忍び我慢しなければなりません。

 昔、こんな話があります、五代一つの家に住むある本家の長孫の嫁として暮らすおばあさんがいました。そのおばあさんにどのようにして五代になる家族たちと共に暮らすのか、その秘訣を聞いて見ました。すると、そのおばあさんは、小部屋に入ると、瓶を開けて見せたというのです。そこに、耐える忍ぶの字が三、四瓶にぎゅっといっぱいあったというのです。皆さんはこんな話を聞いたことでしょう。耐えるの忍の字、耐えることだけしますか? 耐えて我慢したのです。

 我慢するときは目的がなければなりません。目的がなければ我慢することはできないのです。神様の怨讐、人類の怨讐を捕らえて殺すために命をかけて、怨讐を根こそぎ包囲し全滅させなければなりません。そうすることによって世界を代表し、主を再び探さなければならないのです。そうするためには忍ばなければなりません。そのような目的観念が強くなければならないのです。

 次には、耐え、我慢するだけではいけません。耐え、我慢だけして「あー、疲れた」といえばいいですか? 耐えて我慢しても、耐えて我慢していないように感謝し、賛美して差し上げなければならないのです。分かりますか? 耐え、我慢するにも感謝する心と美をたたえる心を持ち、耐え、我慢しなければならず、不平を言いながら耐え、我慢するならば、神様が来られても逃げていくのです。耐え、我慢するときは何が必要なのでしょうか? 何ですって?(感謝する心です)感謝する心がなくては耐えられません。感謝する心が支えにならなければ、耐えてもそこには神様が共におられません。(一九七一・五・四、中央修練院)


3 克服が貴い

 皆さんがあるとても大きい目的を定めておき、その目的をなすためには必ず時間と過程が必要ですが、その過程をどのように克服して現れるのかということが問題になるのです。そうしようとするなら、その目的を中心として毎日のように生活環境で、目的に対して対象的な刺激をどのように受け続けるのかということが重要な問題になるのです。

 それをある程度の期間までは、自分が決心して持続し続けていくか分かりませんが、その刺激が目的を果たすのに相対的要件として残し続けられなくなるときは、そこに堕落が起こり、後退が起き、失望が起き、失敗の要因が造成されることを私たちは良く知っているのです。それゆえ、私たちも日常生活においてや実際生活において、この刺激というのが、すなわちうれしい刺激とか理想的刺激がなければならないのです。色々な面でぶつかる環境においては、良い面の刺激は絶対必要なのです。(一九七三・三・一八、ベルベディア修練所)

 表面は良いけれど、中では頭を振る人がいます。こんなことを見るとき、性稟を良くもって生まれなければならないのです。

 信仰の道において、自己と闘い勝つということは、世界を克服することよりもっと難しいことです。このような観点から見るとき、第一次十字架、すなわち自我を克服しなければならないのです。(一九七一・七・二五、前本部教会)

 信仰者は十大災難のような山道を克服しなければなりません。信仰の道は克服の道です。克服しようとするならば、分からないのでむやみに・・・。むやみに越えようとするので、死ぬようにならなくてはなりません。それで、犠牲になりなさい、奉仕しなさい。頭を上げるなら大変だというのです。そう見るので、「あー」といって生きようとする人は死に、死のうとする人は生きると言ったので、死のうと唯全力を注ぎ込んでみると、十大災難のような克服路程がすべて解けていくのです。このような無事通過の方法を無知な人の前に教えてあげるのです。そんなことを教えてあげるにも、間違えて教えたなら世の中を終わりにしてしまうのです。その秘密を教えてあげる仕事を今まで宗教がなしてきたのです。(一九七一・八・二二、前本部教会)

 メシヤが来るようになれば、自分の国を中心に世界を制覇し栄光を受けようとしたというのです。自分たちの行楽だけを夢見たのです。悲運の歴史において悲しみと共に消え失せる、数多くの人類を考えることのできなかったイスラエル民族は滅びてしまったのです。それゆえ、私たちの信仰路程においても、克服という過程を経ずしては勝利することはできません。

 それでは克服は何をもってするのでしょうか? それは手段をもってではなりません。どんな才能をもってでもだめです。ただ精誠だけで克服できるのです。それゆえ、神様をどのくらい精誠尽くし侍ってみたか、どのくらい精誠を尽くす心を持って慕ってみたか、どのくらい精誠を尽くす感動を通じ感じようとしたか、また、そのような体恤的な父と息子の因縁をどのように捜すのかということが問題になるのです。(一九七一・三・一四、前本部教会)


4 平凡なことに感謝しなければ

 今まで神様が苦労されたのは私のためにされたのであり、これから行かなければならない世界的な開拓路程の九十五パーセントの使命も、私のためにしていらっしゃるということを考えれば、私たちは神様に感謝せずにはいられないのです。
 それで信仰生活の本質は何でしょうか? 神様に感謝する心なのです。そのような心があるときに、そこに神様と私が、堕落した因縁を越え、一つの因縁で結ばれることができる材料になるのです。

 私がこの世の中で良い立場にあるときだけ感謝すべきでしょうか? 違います。神様が今まで良いときだけ私たちのために苦労されてこられたのではありません。難しいときであるほどさらに苦労されることを固く誓ってこられました。それゆえ、今日私たち自身も、神様を私たちの父として侍るためには、私の代わりに仕事をされ、闘って来られた神様を、良い位置で感謝するよりも、難しい位置でさらに感謝しなければならないのです。従って、過重な十字架の途上で神様に感謝できるのも、こんな原則を理解するとき、可能なのです。(一九七〇・三・一四、統一産業寄宿舎講堂)

 それではどのように感謝するのでしょうか? 見てみなさい。私よりもっとかわいそうな人がどれだけ多いか。下を見て生きるというのです。上を見上げて生きるのではありません。「私はそれでも統一教会を信じ神様を知り、死んだとしても神様のために死ぬというのに、統一教会に入りもせず、み言も知らない人がどれだけ多いか? だから私は幸せな人だ」といいながら感謝しなければなりません。神様の前に賛美を捧げなければならないのです。

 感謝の心と賛美の心を前に置きながら耐え、我慢するところに神様は涙を流して訪ねて来られるのです。これ以上にも耐えようとするときに、神様が訪ねこられ「おい、某よ、もうこれ以上耐えるな。この道をもう行くな」と言い、停止させることが復帰の立場です。感謝と賛美の心を持ち、耐え我慢する日には、神様が涙を流し訪ねこられ「世の中にお前のような息子がどこにいるか? 今、お前がする仕事を他の人にさせる」と言われ、彼を安息の位置、天と地にない福を受けられる位置に移し置こうとされることが、父の心だということを知らなければなりません。分かりますか? それにより神様に感謝と賛美を捧げなければなりません。

 皆さん、鄭錫温老人、知っているでしょう? 鐵山にいた感謝党の娘、彼らは感謝の連中で、鞭打たれても「鞭打たれて感謝です。迫害を受け感謝です。姑から悪口を言われて感謝です」全部感謝ですね。「私の愛する息子・娘を神様がつれていったから感謝です。我が夫と離ればなれになって感謝です」(笑い)知ってみると本当に感謝するのです。そうでなければいけないようになっています。ですから、感謝すべきなのです。ひたすら感謝し賛美しなければなりません。

 朝から婦人がぐちをこぼし、家から出ろと声を張り上げながらけんかし合って死ぬというときも「家族ひとりが腹を立てて感謝です」(笑い)そうしてみなさい。三人だけそうしてみなさい。いくら腹が立っても十分を越えるでしょうか。「行くところに行きなさい。あーわからない」こうなるのです。そうして互いに刺激になれば、前よりも仲が良くなるというのです。

 それでその町内では、彼らを「感謝の連中」というのです。ここでは鐵山の感謝の連中の教団と言います。それで私が「あはー、彼らは大韓民国に大きな教育をするために現れた教団だな」と考えました。そうではありませんか? 解放後にも追われ、追い回される惨たらしい環境に、多く当面してきたこの民族の前に、こんな教団があることは感謝すべきことです。神様の祝福を受けられる道が近づいたからです。そんなことを見るとき、韓国の国民は滅びない国民だということなのです。それゆえ、神様の前に感謝と賛美を捧げなければなりません。

 それでは、耐えて忍んで感謝と賛美だけして、じっとしていればいいのでしょうか? それで終わるのではありません。その次には何をしなければならないのでしょうか? お互いに助け合わなければならないのです。自分に良いことがあれば助けてあげ、助けを受け合えというのです。共に生き共に行こうというのです。ここに初めて統一が起こるのです。分かりますか? 助け合って頼り合えばこそ統一が起こるのです。天の国はこうしてなされるのです。(一九七一・五・四、中央修練院)

 皆さんも知っているように、鄭錫温さんの母親は金聖道さんですが、金聖道さんと鄭錫温さんは感謝する連中です。このようにしても感謝、ああしても感謝する連中です。じっと考えてみるとそれは正しいことです。感謝するすべを知る人には、サタンは侵犯できません。サタンが侵犯したとしても逃げていくのです。仮にサタンの侵犯を受けても「全体を蕩減させるために神様が私に試練を下さったのだなあ」こう考えるのです。こんな人に一度対し、二度対し、三度対し、・・・。相手をすればするほど自身が滅びることなので、サタンは相手をしろといってもしないのです。しかし、これを避けていこうとすればするほど、サタンはそれについて行くのです。(一九七〇・八・三〇、前本部教会)

 世界のために自己を犠牲にしようという人は、乞食のような姿でも恥ずかしくないのです。統一教会の群れはパンもちを食べても、麦もちを食べても、水を飲みながらでも「あー、今朝、冷茶がすばらしい御馳走よりもおいしい!」と言いながらくちゃくちゃ喉を鳴らしながら「感謝です」と言うならば、天下が泣くのです、天下が。天下のためにそのような立場に立つなら、主体がないので、天下が自分よりもっと低いものなので、天下がくっつくのです。全部近くに来るので、高い位置に上がって行く・・・。分かりますか?(はい)




















SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送